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明治天皇

めいじてんのう

第122代天皇。孝明天皇の第2皇子。嘉永5年(1852年)生誕、慶応3年(1867年)践祚、明治45年(1912年)崩御。
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日本の第122代天皇

生没年:嘉永5年(1852年)9月22日明治45年(1912年)7月30日

在位:慶応2年(1867年)12月25日~明治45年(1912年)7月30日


近代という日本の新時代を牽引し、日本を列強にのし上げた名君として「明治大帝」と称される。

基本情報編集

睦仁
代数第122代(位:慶応2年(1867)~明治45年(1912))
称号祐宮
誕生嘉永5年9月22日(西暦1852年11月3日)
崩御明治45年(1912年)7月30日
践祚慶応2年(1867年)1月30日
即位礼明治元年(1868年)10月12日
大嘗祭明治4年(1871年)11月17日
大喪礼大正元年(1912年)9月13日
出身山城国平安京(現・京都府京都市上京区)
宮殿平安宮→宮城明治宮殿
孝明天皇
中山慶子側室
皇后昭憲皇太后一条美子
皇子皇女稚瑞照彦尊・稚高依姫尊・梅宮薫子内親王・建宮敬仁親王・明宮嘉仁親王大正天皇)・滋宮韶子内親王・増宮章子内親王・久宮静子内親王、昭宮猷仁親王・常宮昌子内親王・周宮房子内親王・富美宮允子内親王・満宮輝仁親王・泰宮聡子内親王・貞宮多喜子内親王

ご生涯編集

嘉永5年(1852年)9月22日(陽暦11月3日)、孝明天皇の第2皇子(長男である兄は早世)として、外租父・権大納言中山忠能邸内の御産所において生誕。母は中山慶子。9月29日に祐宮と命名。

万延元年(1860年)7月10日、祐宮を立てて儲君とする。同年9月28日、立親王宣下、名を睦仁とする。


慶応2年(1866年)12月25日、孝明天皇が36歳で崩御、1月9日に満14歳で践祚。清涼殿代小御所にその儀を行い、関白・二条斉敬を摂政とする。6月28日、故左大臣・一条忠香第3女・寿栄君を女御とする。


慶応3年(1867年)11月15日、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が大政を朝廷に奉還、幕府は滅亡(大政奉還)。同年12月9日、「王政復古の大号令」が行われ、明治新政府が樹立。


慶応4年(1868年)1月2 - 6日、鳥羽伏見において薩摩・長州両藩を中心とする朝廷軍と旧幕府軍が戦端を開き、朝廷軍が勝利(鳥羽伏見の戦い)。ここに戊辰戦争が開戦。3月、東征総督・有栖川宮熾仁親王、参謀・西郷隆盛率いる新政府軍が江戸に到着、西郷は旧幕府・勝海舟と会談し、江戸城無血開城に漕ぎ着けた。


1月10日、外国条約に大君の名称を止め、以後は天皇と称することを各国公使に告ぐ。9月8日、慶応4年を改め、5月1日に遡って明治元年とし、一世一元の制を定める。東幸を行い、10月13日に江戸に到着。東京と改め、江戸城西丸を皇居となし改めて東京城と称する。


明治2年(1869年)、版籍奉還を実施し、各藩主に領主権を返上させて藩知事に任命。同年、琉球国王を琉球藩王に任じることで、琉球が日本領であることを内外に示す。明治3年(1870年)1月3日、「大教宣布」の詔を発す。明治4((1871年)7月14日に廃藩置県を実施。明治5年(1872年)8月に学制発布、同年12月2日(31日)、太陰暦を廃して太陽暦を導入。明治6年7月に地租改正を実施。


明治6年(1873年)に政府内で征韓論を押す西郷隆盛・江藤新平板垣退助らと大久保利通岩倉具視木戸孝允らとの対立が起こる。天皇裁可により征韓論は退けられ、西郷らは政権を去り下野した。


明治9年(1876年) - 10年(1877年)に不平士族による反乱が頻発し、同年3月に最大規模の西南戦争が起こるも、政府軍勝利と西郷自刃により収束。明治11年(1878年)、大久保が政府に不満を持つ士族に暗殺され、以降伊藤博文が政府首班地位を固める。同年、琉球処分により琉球藩を廃して沖縄県を設置。


明治12年(1879年)8月31日、第3皇子が生誕、同年9月6日に命名、「明宮嘉仁親王」と称し、後に皇太子となる。


明治14年には憲法制定論議を巡り、大隈重信らの英国型憲法を目指す急進論は退け、伊藤博文らドイツ型憲法を目指す漸進論を採用し、大隈らが下野した(明治14年の政変)。


明治15年には軍人勅諭を出し、軍人は政治に関わらぬよう指示。


明治18年、太政大臣を中心とする太政官制度を廃止。代わりに内閣総理大臣を中心とする内閣制度を創設。伊藤を初代総理に任じた。


明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法を公布。翌23年(1890年)11月29日に施行し、帝国議会が開かれ、日本における議会政治が始まる。同年に教育勅語を制定。


明治24年にはロシア皇太子・ニコライが襲撃される大津事件があり、天皇自ら京都に赴いて彼をお見舞いするなど事後収集に尽力。


明治27年(1894年)8月1日、朝鮮半島東学党の乱を巡り、清国との戦闘が発生したのを受けて宣戦の詔を発し、日清戦争が勃発。同月13日、大本営広島に移す。戦争に勝利し、翌28年(1895年)4月17日に清国との間に「下関条約」を締結し、多額の賠償金と台湾・遼東半島を獲得した(しかし、直後に三国干渉があり、遼東半島は返還を余儀なくされた)。


明治33年(1900年)2月11日、皇太子・嘉仁親王の妃に九条節子が定まり、同年5月10日に婚礼の儀が行われる。翌34年(1901年)4月29日、第1皇孫生誕、迪宮裕仁親王と名付けられる。


明治37年(1904年)2月10日、満州や朝鮮半島を巡って対立を深めるロシアとの間に日露戦争が勃発。戦争は日本勝利に終わったが、日本の国力も限界にあり、米国による仲介で、明治38年(1905年)9月5日に「ポーツマス条約」が結ばれたことに伴い、終戦。ロシアは朝鮮や満州から手を引き、南樺太を日本に譲渡したものの、賠償金は取れなかった。それに不満を抱いた民衆によって講和反対暴動(日比谷焼き討ち事件)も発生した。


明治43年(1910年)6月、警察は天皇暗殺を目論んだとして幸徳秋水ら26人を逮捕、裁判所により24名が大逆罪で有罪となり、死刑判決を受けたが、天皇の恩赦により12人が死1等を減じられる。


終戦後、保護国としていた大韓帝国を、明治43年に日韓併合条約により日本に併合(韓国併合)し、旧韓国皇帝家には皇族に次ぐ王公族の地位を与えた。


明治45年(1912年)7月30日午前0:43、持病である糖尿病悪化による尿毒症のため、皇居明治宮殿内で崩御。皇太子・嘉仁親王が践祚して大正と改元。

大正元年(同年)8月27日、大行天皇を尊び明治天皇御追号を奉る。

9月13日、陸軍青山演習場で大喪の礼が執り行われる。

翌14日、伏見桃山陵に奉葬。

翌15日、明治天皇御陵名を伏見桃山陵と定める。


人物編集

洋を受け入れ、洋を拒み、和を尊ぶ編集

明治天皇個人は日本伝統文化への愛着が強く、明治新政府が推進した欧化政策には批判的な一面もあったが、政府の意向に従って率先して洋装洋食を行い、欧州文化を受入れる手本の役割を果たされた。基本姿勢として「日本の残すべき文化は残し、外国の取入れるべき文化は取入れる」という態度を通した。

蹴鞠を好んで自らも嗜み、「蹴鞠保存会」を発足された。レコードを良く聴き、唱歌や詩吟琵琶歌も好み、機嫌が良いと自らも琵琶歌を唄ったが、周囲曰く下手であった。

断髪令が出された際は天皇自ら率先して髷を切り、国民もこれに従う様になって行った。

公的な場や観衆の前では洋装であったが、私生活では和服を好んで過ごし、質素倹約・質実剛健で自他共に厳しく生活されていた。生涯で約10万首の御製(和歌)をお詠みになったが、裏紙に鉛筆で書かれたものが数多く残っており、しかもちびた鉛筆を好んでお使いになっていたという。

全国に立派な御用邸が建てられ、皇室にはいつでも好きなだけお使い下さるよう政府が配慮したが、天皇は生涯1度も利用することなく、それどころか娘が御用邸を使うことさえ1度も許さず、「娘を愛している、故に遠ざける」という理由からであったという。

日清戦争で広島に開設された大本営に移つられたが、居所は「立派なものは一切不要である」として、寝室と執務室を分けることすら許さず、1つの部屋で暖も取らず寝起きし、朝となると布団を片付けて机で執務し、食事も御飯に梅干し1つだけという程であった。また、心配する側近に対しても「戦場の将兵達と苦楽を共にする」という信念から拒んでいた。


海外との関わり編集

宇多天皇以来、天皇が外国人と会うことはなかったが、明治天皇は頻繁に外国要人と面会している。明治2年(1869年)に英国女王・ヴィクトリアの王子・アルフレート、明治12年(1879年)に米国のユリシーズ・グラント元大統領、明治14年(1881年)にハワイ国王・カラカウアと会談している。英国からはガーター勲章を贈られている。また、大韓帝国皇太子であった李垠殿下への愛情が深く、大津事件で負傷されたロシアのニコライ皇太子(後のニコライ2世)を見舞われている。明治23年(1890年)にオスマン・トルコ帝国の特使団から皇帝親書を奉呈されたが、その特使団を乗せた船が和歌山県沖で難破(エルトゥールル号遭難事故)し、これを知った天皇は政府に遭難者達の援助を指示した。

日露戦争で日本がロシアを打破ったことで、ロシアや欧米支配を受けたアジア・中東などでも明治天皇への評価は高かった。


お写真とご真影編集

歴代天皇で初の写真撮影がされ、明治5年(1871年)に束帯姿と大礼服姿のお姿が撮られた。洋装の御姿も撮られたが、洋嫌いの1つで写真も嫌いとなり、それを最後に撮影を拒んでいる。


とはいえ、政府としてはいつまでも30代の若年時期の姿の写真のままではいかず、壮年時のご真影が必要となった。そこでイタリア人版画家のエドアルド・キヨッソーネ氏に頼み、覗き見た天皇の顔を描き、これを元にコンテ画を作成し、これを写真撮影してご真影とした。


実際は何度か遠くから隠し撮りされたものがいくつか残されている。


お酒編集

酒好きで有名であったが、晩年の糖尿病で酒量が激減した。特に日本酒を好まれたが、医師に節制を求められるとワインなど洋酒に切替えてしまったという笑い話も伝わる。明治神宮でもお神酒を捧げるエピソードを紹介したこともある。


戦争を望まず編集

日清・日露戦争という近代日本の命運を決する対外戦争の時期に天皇として臨まれたが、決して戦争に積極的ではなかった。両戦争でも開戦間際まで外交交渉での事態打開と解決を望まれ、開戦回避に努めていた。日清戦争の際は「朕の戦争にあらず、大臣の戦争なり」と不快感を顕わにされていた。

日露交渉も難航し、御前会議で開戦止むなしの方向に結論が進む中、次の御製を詠まれた。


四方の海 皆同胞と 思ふ世に など波風の 立ち騒ぐらむ


戦争回避と平和的解決を望まれ、「今回の戦は朕が志にあらず、しかれども事ここに至る、これはどうすることも出来ない。事、万が一挫折したならば、どうして祖宗に謝し臣民に接すれば良いであろう」と嘆いた程であった。

開戦決定となったが、それ以来食事が進まず、落ち込んでしまった。また、どれ程華々しい戦果報告であっても決して表情を変えなかったという。

後に上記の御歌を孫・昭和天皇も日米開戦間際に御前会議で詠まれ、平和的解決を望まれた。


戦地の将兵達を想う編集

ロシアとの国交断絶が裁可されて以降、天皇は「我が身は戦地の将兵達と共にある」として決して暖房を使うことはなく、日清戦争が始まり大本宮広島への移動に伴って、斉明天皇以来1200年振りに大元帥として都を離れ、地方に出征した際も、天皇の居所としてそれなりに立派なものを計画されていたが、天皇は「立派なものは一切不要である」として、寝室と執務室を分けることすら許さず、1つの部屋で寝起きし、朝となると布団を片付けて机で執務を執っていた。

ある日、それを見かねた将校が

部屋が殺風景であるから壁に絵を1枚掛けさせて頂けないでしょうか?


と、伺われると、


戦地の将兵達の官舎に絵がかかっているか?


と、陛下から問われ、


いえ、かかっておりません

と、将校が返答すると、


馬鹿者! 絵を見ながら安逸の時を過ごしている場合ではない


と、将兵を一喝されたという。


また、別の将校が


せめてお休みになられるソファを1台入れさせて貰えないでしょうか?


と、伺うと、同様に


戦地の将兵達がソファを使っているのか


と、問い、将校が「それはないと思います」と返答すると、「馬鹿者!」とやはり一喝され、常に戦場の兵士達と共にあることを徹底されていた。

日露戦争の際、伊藤博文が天皇の緊急のことがあればいつでも上奏する様にという御下命に従い、昼食時に緊急案件を奏上した際、伊藤氏が横目に陛下が昼食に摂っているものを見ると、何と汁物も付け合わせも何もなく、米を梅干し一粒で食されていたという。

しかも、それは自分が質素な食事をしているのを見せるためではなく(将兵達は陛下の食事を目にする機会など当然ない)、自らが戦場に行けない悔しさを噛みしめながら、将兵達のことだけを考えて日々を過ごされていたためである。


刀剣LOVE編集

無類の刀剣愛好家の1人でもあり、気に入った名刀を集め、コレクションルームを作っていた。東北巡幸の折に上杉家で休憩のために立ち寄ったが、当家に保管されていた上杉謙信以来の数々の名刀に夢中となる余り、翌日の予定を変更させてしまった程。

また、名刀を持つという名家当主を呼んで名刀の話題で褒め、その名刀を献上せざるを得ない状況とするという意地が悪いこともやった程。こんなこともあって各地の名家から菊御作鶯丸小竜景光水龍剣鶴丸国永平野藤四郎小烏丸獅子王毛利藤四郎菊一文字鬼丸国綱など様々な名刀が献上された。それらの多くは後に東京国立博物館を始めとする博物館に納められ、天皇のお陰で名立たる日本刀散逸を防ぐこととなった。ただし、好きが高じて自ら名刀で試し斬りもされたため、名刀を傷付けてしまっている。


諫臣・山岡鉄舟編集

徳川慶喜に仕え、西郷隆盛勝海舟との会談実現に尽力した幕臣であったが、明治5年(1872年)より西郷の頼みで10年間、明治天皇の侍従として仕えた。ある時、天皇が酒で酔って周りに相撲を強要されたが、相手をした山岡は臆せず天皇を掴み上げそのまま背負い投げし、深酒を諫めた。また、天皇が毎晩女官の部屋に遊びに行っていたため、山岡は暗い廊下に身を潜めてやって来られた天皇をまた背負い投げして、夜遊びを諫めた。

食に関して両者の繋がりもある。山岡は木村屋あんパンを好んで食べていたが、1875年(明治8年)4月4日に天皇が向島の水戸藩下屋敷へ花見に行幸された際に山岡は天皇にあんぱんを献上。天皇もこれを気に入られ、木村屋は宮内省御用達となり、あんパンも木村屋も全国的な知名度も向上し、あんパンは日本料理の1つとして根付いた。そして、4月4日は明治天皇があんパンを食されたことから「あんパンの日」となった。

ちなみに、山岡が仕えた慶喜は朝敵となってしまったが、明治31年(1898年)に2人は面会を果たした。


忠臣・西郷隆盛編集

薩摩出身の有力者で、天皇の傍で2年程教育係として仕え、強い武人の天皇像を作るために知り合いの元武家の者達を天皇の下に仕えるよう計らい、山岡もその1人であった。天皇は乗馬を毎日の様に励まれた。ある時に落馬したが西郷はこれを馬上から叱り飛ばした。そんな厳しくも飾らぬ質素を旨とする西郷に天皇は好感を持たれた。

しかし、その西郷が政変で下野。遂には西南戦争首謀者となってしまい、天皇は事態が沈静化するまで京都御所後宮で政務も執らず籠られ、西郷自刃を知ると「西郷を殺せとは言わなかった」と政府軍の行為に対し、怒りと悲しみを露わにされたという。

その後、憲法発布に合わせて天皇は西郷に正三位を追贈。上野の西郷象作成にも資金を贈りられ、西郷の名誉回復に努めた。西郷に感化された天皇は率先して軍事訓練に参加される様になり、質素倹約生活を送られる様になった。


台湾を想う編集

日清戦争で清国から割譲し、初めての日本の海外領地となった台湾。その最高峰の山を天皇は富士山よりも高い山として「新高山」と命名された。後に、天皇は台湾の住民を想い、新高の 山の麓の 民草も 茂りまさると 聞くぞ嬉しきの歌をお詠みになっている。


プライベートな場での会話

天皇は生誕から16年間を京都で過ごされていたため、会話の節々に関西弁が見られたという。

例えば、部下が誤って天皇の所有品を破壊してしまった場合でも直ぐ名乗り出れば「これからは気をつけや」と、優しく関西弁で諭されていた。一方で名乗り出なかったり後から自分がやったと報告すると「お前、今さら何を言うておるのや」とお怒りになったらしい。

また、明治天皇が公用などで忙しく休む暇もない頃、近習・岩倉具定(岩倉具視の長男)が天皇が芝居がお好きであることを知っていたため、勧誘したところ天皇は笑って「いっぺん見るとな、またもういっぺん見とうなってあかん」といわれたという。


皇統編集

・稚瑞照彦尊

  • 典侍:橋本夏子 ー 東坊城夏長の娘

・稚高依姫尊

・薫子内親王

・敬仁親王

・嘉仁親王(第123代・大正天皇

・韶子内親王

・章子内親王

・静子内親王

・猷仁親王

昌子内親王竹田宮恒久王

房子内親王北白川宮成久王

允子内親王朝香宮鳩彦王

・輝仁親王

聡子内親王東久邇宮稔彦王

・多喜子内親王


関連タグ編集

天皇 日本史 幕末 明治明治時代


皇位

第121代第122代第123代
孝明天皇明治天皇大正天皇

台湾の元首

第11代清朝皇帝第122代天皇第123代天皇
光緒帝明治天皇大正天皇

朝鮮の元首

第2代大韓帝国皇帝第122代天皇第123代天皇
純宗皇帝明治天皇大正天皇

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