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不運艦一軍

ふうんかんいちぐん

最も不運レベルの高い不運艦
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最も不運レベルの高い不運艦

日本海軍

大日本帝国海軍航空母艦「大鳳」


装甲空母として建造され、大日本帝国海軍の期待を担いながら第一機動部隊・第三艦隊・第一航空戦隊司令長官小沢治三郎中将の旗艦として初陣を飾ったマリアナ沖海戦で、潜水艦アルバコアの雷撃により魚雷一本命中。→衝撃で前部エレベーターが昇降中に停止。→その穴を丸太などで埋める。→魚雷で破壊されたガソリンタンクから漏れたガソリンが気化。→前部エレベーターは塞がれ、舷側扉開放、後部エレベーターを下げるなどで換気を図るも作戦続行で後部エレベーターをいつまでも下げたままにも出来ない、気化したガソリンの為に乗組員の作業もはかどらない等の理由もあり追いつかず、それどころか換気扇を全て回した結果、艦内に気化したガソリンを広げる結果に。→帰投した攻撃隊収容中に何かが引火し、装甲で上部を覆った密閉式の構造の為に爆発が上に逃げずに艦内を破壊する結果に。→1944年6月19日16時28分に沈没という不運の連鎖により、たった一発の魚雷で不沈空母と謳われながらも最期を遂げる事となった。

信濃


ミッドウェー海戦での敗北などの影響により空母に改造される事となった大和型戦艦三番艦。1944年11月19日に装甲空母として竣工し、28日13時30分に横須賀を出港して呉に回航中の29日3時16分、潜水艦アーチャーフィッシュの雷撃により魚雷四発が命中。ダメージコントロールを図るも、本艦は竣工したものの実際は未完成であり、その不備と乗組員の未熟もあり復旧作業は捗らず10時57分、就役からわずか10日で沈没するに至った。またアーチャーフィッシュは時速19ノット、信濃は20ノットで、直線で振り切るなら信濃の方が有利だったが、対潜航行運動(いわゆる「之の字運動」)を始めた結果、アーチャーフィッシュの方に寄ってしまい、さらにアーチャーフィッシュの艦長が「魚雷の深度を浅くする」という判断をして攻撃、バルジの上の装甲の薄い急所に命中。あとはお察しのとおりである……。これにより、信濃は「世界最大の空母」という栄誉と同時に「世界一短命な艦」という不名誉も一緒に背負ってしまった。

飛鷹


隼鷹型航空母艦二番艦。
角田覚治少将の第二航空戦隊旗艦として活躍をするはずだった初陣ではガ島攻撃に向かう近藤信竹中将率いる第二艦隊に配属され1942年10月11日にトラックを出撃。僚艦である姉妹艦隼鷹と共に搭載機による前路警戒や対潜警戒、17日にはガダルカナルのヘンダーソン飛行場並びルンガ泊地の敵艦船への航空攻撃などを行ったが、20日に発電機室で火災が発生。速力が低下したため、22日に旗艦を隼鷹に変更。さらに搭載機を隼鷹に移した後、トラックへ引き返す事になった。 そのため26日の南太平洋海戦には参加できず、猛将角田提督の旗艦として本来飛鷹が得る筈だった勇名は隼鷹のものとなり、また重大な戦局にあった11月12~15日の第三次ソロモン海戦にも参加できないままトラックにて待機状態で、内地に修理のために帰還することとなる。
翌年再びトラックに進出。今度はマーシャルに向かう途中の1943年6月10日、米潜水艦トリガーの魚雷を四本受け(三発は不発)航行不能となり、更には護衛の駆逐艦夕暮を敵と誤認して損傷させ、軽巡洋艦五十鈴に曳航され横須賀に帰港。
そして念願の艦隊戦、それも空母戦としての初陣である1944年6月19日からのマリアナ沖海戦で、20日に撃沈される最期を遂げた。その折に曳航作業の失敗や消化ポンプが故障したことが沈没の要因とされる。
南太平洋海戦で勇名を馳せ、マリアナ沖海戦では煙突を失いながらも帰還し、更には戦争を生き延びた姉妹艦隼鷹とは対照的ともいえる生涯だった。

雲龍型航空母艦3番艦「葛城」


(イラストは同じ雲龍型航空母艦葛城

雲龍型航空母艦


雲龍型航空母艦の一番艦。
1944年8月6日に竣工。栄光ある第一機動艦隊の旗艦を一時務めるも、特攻兵器桜花、陸軍空挺部隊をマニラに輸送するという最初の出撃で12月19日に潜水艦レッドフィッシュに雷撃され、最初の魚雷命中により航行不能となり、次に命中した魚雷は当たり所が悪く、搭載していた桜花の誘爆を引き起こし沈没した。陸軍兵士が防水扉を閉めなかった事なども浸水を早めたと言われる。

日本海軍 戦艦陸奥


長門型戦艦二番艦。
ワシントン海軍軍縮条約に触れるとして廃艦となる運命であったが、コロラド級戦艦三隻とネルソン級戦艦二隻の建造を認めてまでして海軍が手に入れた軍艦であり、姉妹艦の長門と共に国民のアイドル的な存在であったが、太平洋戦争では開戦時の真珠湾攻撃より帰投する南雲機動部隊の援護や[[ミッドウェー作戦第二次ソロモン海戦などに参加するも敵と砲火を交える機会を得る事は出来ぬまま、1943年6月8日に停泊中の柱島にて謎の爆沈を遂げる。

軽巡洋艦「最上」


世界に衝撃を与えた最上型軽巡艦(後に最上型重巡洋艦)一番艦。
1942年3月1日のバタビア沖海戦にて米重巡洋艦ヒューストン撃沈に寄与するも、その折に放った魚雷が友軍の第二号掃海艇と輸送船佐倉丸を撃沈し、第十六軍司令官今村均中将の座乗する陸軍特殊船神州丸を大破着底、陸軍病院船蓬菜丸を横転着底させる損害を与える事となる。
ミッドウェー海戦では、1942年6月5日、ミッドウェー島砲撃任務の中止で帰投中、発見した潜水艦タンバーの攻撃を避ける為の第七戦隊旗艦重巡熊野の回頭命令が上手く伝わらず僚艦の重巡三隈と衝突し艦首が潰される。その後、三隈と駆逐艦荒潮朝潮の護衛のもとトラック島に向うも米機動部隊からの空襲により大破するが沈没は免れる。艦首が潰れ速力は出ないが、それにより抵抗が大きくなった為か舵の利きがよくなり回避行動は容易になった為とも言われる。しかし、その折に衝突被害は軽傷だった三隈は撃沈され、駆逐艦二隻も損傷した。
1944年10月25日のスリガオ海峡海戦にて艦首脳部が全滅するなど大損害を受け微速で撤退中、最上が停止していると誤解した第五艦隊旗艦重巡那智と衝突。その後、空襲により航行不能となり駆逐艦に雷撃処分された。
開戦当初の輸送船団護衛、通商破壊などに活躍した艦であったが、二度も友軍艦と衝突し、また味方を沈めてしまった不運な艦でもあった。


初めての国産駆逐艦春雨型駆逐艦のネームシップ。
1902年3月1日に起工するが10月30日の晴れの進水式で直前に水中台が浮上し中断され31日にやり直す羽目になる。
日露戦争に参加。1904年10月11日に触雷し艦尾を喪失。
1905年5月27日深夜、日本海海戦の最中に駆逐艦夕霧と衝突。
1911年11月24日、横須賀から佐世保へ向かう途中、嵐を避けるために向かった的矢湾の管崎付近で座礁し沈没。64名の乗組員のうち生存者は20名だった。
なお第二次大戦で活躍した白露型駆逐艦春雨は2代目。

樅型駆逐艦


樅型駆逐艦二十番艦。
1927年8月24日の無灯火訓練中に軽巡洋艦神通と衝突し船体を両断されて沈没した。この折に神通を回避しようとした軽巡洋艦那珂に蕨の姉妹艦も衝突され、第三砲塔より後部を失っている。(美保関事件

二等駆逐艦らしきなにか


若竹型駆逐艦四番艦。
1932年12月3日、構造上の欠陥で復元性に問題がある上に物資の過積載により、荒天により沈没。

電&深雪衝突注意ステッカー


吹雪型駆逐艦四番艦
1934年6月29日にと衝突し沈没。特型以降の駆逐艦では唯一隻太平洋戦争に参加出来なかった艦。沈没は乗組員のダメージコントロールにおける不手際の為との指摘もある。
雷型駆逐艦(初代)の、海自の沿岸護衛艦(3代目「いなづま」)も衝突事故を起こしている。

あの後の如月を描いた・・


睦月型駆逐艦二番艦。
太平洋戦争において駆逐艦『疾風』に次ぎ二番目に戦没したと言われる日本軍艦艇(しかし12月9~10日に伊70潜が戦没しており、如月は正確には三番目である)。開戦と同時に始まったウェーク島攻略戦において、アメリカ軍戦闘機から投下された100ポンド(約45キロ)爆弾1発が命中、魚雷(爆雷)が誘爆し船体が真っ二つになり轟沈した。生存者は一人もいなかった。『如月』および『疾風』の轟沈は日本海軍の慢心の結果であり(数度の空襲の戦果報告からウェーク島の航空戦力は沈黙したものと判断されていた)、ミッドウェー海戦の後、転がり落ちて行くように壊滅への道をたどっていく日本海軍の末路を暗示させるものがあるとの意見もある。

33


(※イラストは擬人化キャラクター)
1942年9月26日、1944年6月13日の二度にわたって沈没事故を起こし多数の死者を出した「呪われた潜水艦」。3という数字にまつわる不気味な事故が多発したことで知られる。


1939年2月2日未明、豊後水道水の子灯台西方で演習中に本艦の右舷燈と艦尾燈を二隻の小型船のものと誤認した伊号第60潜水艦がその間を通過しようとしてほぼ直角の角度で衝突した為に沈没。
81名の死者を出す惨事となった。


通報艦。
1892年11月30日、日本がフランスに発注し一年ほど遅れてようやく日本に到着したばかりだったが、イギリスの商船ラベンナ号と衝突し沈没。


第一号型掃海艇
1942年3月1日バタビア沖海戦で狙いの外れた最上の魚雷が命中し撃沈。マスト先端が海上より出ていた為に予備掃海艇として1945年11月30日に除籍されるまで在籍した。

消えた巡洋艦・畝傍


日本海軍がフランスに発注した巡洋艦。
1886年、フランスより回航中に南シナ海で忽然と姿を消した。畝傍は乗組員とともに喪失したと判断された。就役からわずか2ヶ月であった。
畝傍はフランス艦特有の構造から荒海に弱く、おまけに日本側の意向で過大な武装を搭載したためトップヘビーと復原力不足がさらに増大しており、南シナ海で台風に遭遇し転覆・沈没したと考えられている。


幕府海軍

【開陽、蟠竜】艦これin幕末【回天、千代田形】


江戸幕府がオランダに発注して建造されたフリゲートでクルップ施状砲18門を備えた強力な軍艦であり、江戸幕府崩壊後、元海軍副総裁榎本武揚の旧幕府艦隊の旗艦として江戸を脱出し、北海道に徳川家の国を新たに作る為に榎本軍が松前藩と交戦中の1968年11月15日、江差で停泊中に暴風雨に遭い座礁、後日に起る箱館戦争に何ら役立つ事無く沈没する最期を遂げた。
本艦の喪失と明治政府に装甲艦甲鉄が入った事から榎本軍のシーパワーの優位は失われた。


イギリス海軍

上は葉巻


キング・ジョージ5世級戦艦2番艦。
初陣のビスマルク追撃戦では未だ工員を乗せた状態のままで出撃し、デンマーク海峡海戦ビスマルクを損傷させるも、僚艦の巡洋戦艦フッドを失い、自らも大損害を受けて撤退する。この事からフッドを見捨てて逃げ出した臆病者という謂れの無い批判を受けたばかりか、疫病神という悪評もたてられたと言う。
地中海でのマルタ島への補給を行うハルバート作戦では作戦は成功するも、本艦は友軍機ニ機を誤射で撃墜。
その後、東洋艦隊の旗艦としてシンガポールに送られるが、1941年12月10日のマレー沖海戦にて左舷推進軸付近に命中した一発の魚雷により推進軸廊下の隔壁破壊。→爆発で曲がった推進軸のシャフトが艦底を叩き続け水防隔壁扉が次々と開かれる。→大量の浸水発生。→左舷軸二つ使用不能。→発電機八基中、五基が浸水で使用不能。→後部への電力供給止まり、後部の排水ポンプ・艦内電話・舵・照明・換気扇・高角砲が使用不能。→換気扇停止で機関室が排熱出来ず、倒れる機関員続出。照明なく応急隊員の活動も鈍る。速力も低下。舵使用不能で航行の自由さえ奪われる。→浸水による傾斜で電源が通じている高角砲すら使用不能と不運が連鎖して、僅か一発の魚雷でその機能をほぼ失い、もはや回避行動も碌にとれないまま、それでも頑強に耐えるも、僚艦の巡洋戦艦レパルス共々撃沈される最期を遂げた。
彼女と組んだ巡洋戦艦は沈むと言うジンクスも生んだ不幸な艦であった。
また最後の艦隊はコードネームがZ部隊であったが、Zはアルファベット最後の文字で終わりを連想させ縁起が悪いと感じた者も居たという。
戦後、残骸の一部が違法にサルベージされる。

差し迫るキャンパーダウン

(画像は手前のヴィクトリアに迫るキャンパーダウン)
ヴィクトリア級戦艦のネームシップ。
1893年6月22日、地中海で演習中に衝角を装備した僚艦の戦艦キャンパーダウンに衝突され司令長官ジョージ・トライオン中将と共に沈没。
衝突が起こった演習は間隔が充分にとれていない並列に進む二つの戦列が内側に180度回頭するという危険なものだったが、司令長官命令として実行された末の悲劇であった。


第一海軍卿であったジョン・アーバスノット・フィッシャー提督の悲願であるバルト海侵攻の為に38㎝砲塔二基を搭載した大型軽巡洋艦として建造されたが、バルト海侵攻は実現せず、後に空母として改造される。
1940年6月8日、ノルウェーより撤退中にドイツ巡洋戦艦シャルンホルストグナイゼナウの攻撃を受け、風上側にドイツ艦隊が居る為に自艦の速力で逃亡を図ったが、砲撃の激しさからか艦を風上に向け攻撃機を発鑑させようとするも飛行甲板への被弾で失敗に終わり、砲撃のみによって撃沈された世界で二隻だけの空母となる不運な最期を遂げた。
安全が確保されていない海域を駆逐艦2隻のみの護衛で航行しており、航空警戒やマストからの視認警戒も行っていなかった。艦長が航空隊の司令官と喧嘩をした結果、他の艦に航空隊司令を軟禁した上で独断でイギリスへの最短ルートを選択したとの証言もある。


フィジー級軽巡洋艦
1942年3月29日、PQ13船団護衛中にバレンツ海でドイツ海軍駆逐艦戦隊の襲撃を受ける。旗艦であるドイツ駆逐艦Z26を砲撃で大破させ、その止めに魚雷を発射したが、あまりの海水温の低さに魚雷の舵が異常をきたし、反転してトリニダート自身に命中るという余りに不運なアクシデントの為に損傷し、ムルマンスクで応急処置を受ける羽目となる。
5月13日にムルマンスクを駆逐艦四隻の護衛の元に出港し、イギリスに向うも翌日にはドイツ空軍に発見され、爆弾一発が命中して航行不能となり、15日、駆逐艦マッチレスによって雷撃処分された。

ダメージコントロール

(中央が同じ21型フリゲートのアーデント
21型フリゲート
1982年5月23日、フォークランド紛争でアルゼンチン軍のA-4から攻撃を受け、1000ポンド爆弾2発が命中するが不発だった。
24日、不発弾の除去作業に失敗し沈没。


O級潜水艦
第二次世界大戦勃発時には本国艦隊に属し、1939年9月10日の夜にノルウェー沖にてイギリス海軍潜水艦トライトンに敵と誤認され、魚雷二本を受け撃沈された。
トライトン側は当初標的を担当エリアからはぐれたオクスレイではないかと考えたが、味方識別の発光信号にも応じない為に敵艦と判断して攻撃したものであり、悲劇の原因はオクスレイの当直の過失とされた。オクスレイの生存者は二名に過ぎなかった。
彼女は味方に撃沈されたばかりでなく、第二次世界大戦でのイギリス海軍で初めての犠牲となってしまった不幸な艦でもあった。


キャプテン級囲砲塔艦
1869年、プリンス・アルバートロイヤル・ソヴリンに続いて航洋性を持った大口径砲搭載艦として就役した。
1870年9月7日、三度目の航海を海峡艦隊に属して従事中にビスケー湾で嵐に遭い、風雨のおさまった02時15分頃までには行方不明となっている事が認められた。
辛うじて脱出した17名の生存者の証言から転覆して沈没した事が判明し、復元力の不足が原因とされている。
犠牲者には設計者のカウアー・コールズも含まれていた。


アメリカ合衆国海軍

レミングの号砲


ペンシルバニア級戦艦二番艦。
1941年12月8日の真珠湾攻撃で撃沈され、浮揚されなかった戦艦(オクラホマは浮揚されたものの損傷が激しかったため修理を断念)。
第一戦艦戦隊司令官アイザック・C・キッド少将をはじめ1300名余りが戦死した。
現在、沈没時点(浅いためアリゾナの姿がうっすらと見える)にアリゾナ記念館が建っている。


戦艦。姉妹艦は無い。
ハバナで暴動があり居留民保護の為に派遣されていたが、1898年2月15日、爆発事故を起こして沈没した。この事件は強行派・マスコミからスペインの仕業とされ、「リメンバー・メイン」の合言葉の元、米西戦争開戦の口実とされた。
現在、石炭の偶然の爆発によるものと考えられている。

いずれもクレムソン級駆逐艦であり、他の姉妹艦7隻と共に第11駆逐隊を構成していた。
1923年9月8日、カリフォルニア沿岸の難所ホンダポイントで演習中に座礁。近代以降の平時における軍艦の損失としては最悪の記録となった。

海軍拠点に格好の地であるサモアに影響力を持つため、アメリカとドイツが鎬を削るなか、1899年3月15日に台風が来襲。
アピア泊地には英国軍艦一隻、独軍艦三隻と共にアメリカ海軍艦三隻(上記)も停泊していた。他国より先に湾を出れば自国の影響力が衰えるという面子からどの艦も湾より脱出しないチキンレースの末、外洋への退避を決断した英コルベット艦カライアピを除き、湾内にいた全ての軍艦が16日までに座礁した。
生き残ったカライアピは名声を馳せ、この時に襲来した台風はカライアピ台風とも呼ばれる。
上記のアメリカ軍艦はニプシックのみが復帰できた。


ガトー級潜水艦
1943年月28日に竣工し、公試運転を終え、10月6日、ニューロンドンを出港しパナマ運河方面に向かうもそれ以後消息不明に。
マリナー飛行艇による誤爆、Uボートによる攻撃もしくは敷設した機雷と触雷、火災事故などの説があるが、未だに残骸も発見されていない。


バラオ級潜水艦
工事の遅れにより起工から進水まで11ヶ月、その後就役まで18ヶ月かかり、その1ヶ月後の1945年3月15日、乗組員が魚雷発射管の外部ハッチを開けた状態まま内部ハッチを開け沈没。引き揚げ後14年間放置された末にスクラップとして処分される。


スレッシャー/パーミット級原子力潜水艦一番艦。
1963年4月10日、バラストタンクの弁の氷結により浮上できず圧壊・沈没。


スキップジャック級原子力潜水艦三番艦。
1968年に行方不明となり、その後残骸が見つかる。魚雷の爆発事故が原因とも。

ドイツ海軍

アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦


画像はアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦
アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦二番艦。完成間もなく訓練も未熟な状態でヴェーゼル演習(ノルウェー侵攻作戦)に駆り出された。
1940年4月9日、オスロ攻略のためドレーバク水道を航行中、オスカシボルグ要塞の砲撃により炎上したうえに操舵不能となり、更にカホルム島要塞の魚雷発射管からの魚雷ニ発が命中して航行不能となり、転覆・沈没した。


第一次世界大戦後、最初の駆逐艦として就役したZ1型駆逐艦の3番艦。
1939年8月、バルト海で水雷艇ティーガーに衝突し、ティーガーを沈没させてしまう。
同年10月、悪天候により浸水しタービンが爆発し一時的に操艦不能となったが、どうにか17ノット発揮可能になり、帰投後キールで修理を行った。
1940年2月22日ヴィーキンガー作戦中に駆逐艦隊の出撃を知らされていなかったドイツ空軍の誤爆により沈没。生存者はいなかった。

1899年3月15~16日にサモアのアピア泊地を襲った台風にて全て座礁(アメリカ海軍の項も参照)。
後にオルガのみ復帰。


スウェーデン海軍


スウェーデン国王グスタフ・アドルフ二世により建造された64門の大砲を装備した強力な戦列艦であったが、一段だった砲甲板を二段にしたためにトップヘビーとなった。
1628年、ストックホルム沖で処女航海中、帆に受けた強風でバランスを崩し転覆、沈没した。


ソビエト海軍・ロシア海軍


L型潜水艦
1942年10月11日、独ソ戦に参加すべくウラジオストクからパナマ運河経由でムルマンスクに移動中、中立条約を結んでいた日本の伊号第二十五潜水艦に米海軍の潜水艦と誤認され、攻撃され撃沈。


液体酸素を気化させてディーゼルエンジンを動かす615型(ケベック型)潜水艦。
1957年9月26日にエンジンが爆発し沈没。


658型(ホテル型)潜水艦の一番艦。
伊号第三三潜水艦と同じく、呪われた潜水艦。
原子炉事故、衝突事故、火災事故を引き起こし、ついたあだ名は“ヒロシマ”・“未亡人製造機”


627型潜水艦(ノヴェンバー型)潜水艦。
1960年10月13日に冷却剤損失による放射能漏れを起こす。
1970年4月11日にオケアン70演習からの帰還途中に火災事故により沈没。


645型潜水艦(改ノヴェンバー型)潜水艦。
一次冷却剤として鉛を使う溶融金属冷却原子炉を搭載。
1968年5月24日、原子炉が暴走を起こす。乗員142名が被曝し、うち10名が死亡した。
1981年9月6日、カーラ海に投棄された。

ゴルフ級潜水艦


629型(ゴルフ型)。
1968年に謎の逸脱の末、ハワイ近海で爆発・沈没。艦内で反乱が起きたとも言われるが、原因不明。
1972年にCIAが極秘のうちに残骸をサルベージ


ヤンキー型原子力潜水艦。
1986年10月6日、ミサイルが爆発し沈没。


設計深度1250mを誇るソ連の新型潜水艦(NATOコードネーム:マイク級)だったが、1989年4月7日に火災事故により沈没。

オスカー級攻撃型原子力潜水艦


949A型(オスカーII型)潜水艦。
2000年8月12日、バレンツ海で爆発・沈没。


ガングート級装甲艦
バルト艦隊用に建造された前弩級戦艦であり、ドイツ帝国海軍よりも強力な火力を持つ高速で航洋性のある軍艦を目指したが、航洋性に欠け、速度は目標に達せず、予定以上の重量増加で主要装甲帯が水没しているなどの欠陥を抱えた。
1896年9月、演習より帰投中、ビヨルケ=ズント海峡の暗礁で艦底を損傷するが、復旧処置が効を奏し、自力でクロンシュタットに帰港できた。
1897年6月12日、トイトルフ中将の旗艦としてヴィボルグ湾での演習中、海図に無い暗礁で再び艦底を損傷し、復旧作業も及ばず、曳航も試みられたが、浸水による傾斜が増すばかりで破棄が決定され事故発生より6時間あまり後の21時49分頃に転覆した。
沈没まで時間があったため死者は出なかった。


フランス海軍

陸軍の敗北によりフランスは降伏。
ヴィシー政権はドイツと休戦協定を締結し中立を維持するが、フランス軍がドイツ側に参加することを恐れたイギリス首相ウィストン・チャーチル植民地のフランス海軍艦艇を攻撃させる。以降、フランス海軍はヴィシー政権とアメリカやイギリスの支援を受けた自由フランスとに別れて戦うことになる。
1942年11月11日、ドイツ軍は休戦条約を無視しフランス全土を占領。 トゥーロンのフランス艦隊接収を仕掛けてきたが、フランス海軍は11月27日に全艦艇を自沈させた。

ツーロンの悲劇



大型潜水艦「Surcouf」


20.3cm砲を2門搭載し大型潜水艦。
フランス降伏後、イギリスのポーツマス港へ脱出。1940年9月から自由フランスに所属した。
1942年2月18日、カリブ海でアメリカ貨物船「トムソン・ライクス」と衝突して一瞬で沈没。そのまま敵国ドイツの潜水艦と間違われ停船及び救助はなされなかった。


ルドゥタブル級潜水艦
1932年7月7日、シェルブール沖で海上公試でのエンジン試運転中にバラストタンクに原因不明の注水が為され、圧縮空気タンクも未だ取り付けていなかった為に沈没。
ルドゥタブル級潜水艦で唯一の未完成艦となった。

イタリア海軍

イタリア戦艦ローマの最期


ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦四番艦。
連合国へのイタリア降伏翌日の1943年9月9日、艦隊司令長官カルロ・ベルガミーニ大将の旗艦として連合国へ引き渡す為に艦隊を率いてマルタ島に向う途中、ドイツ空軍の攻撃を受け、誘導爆弾フリッツXを三発被弾し航行不能となり、火災が火薬庫に引火し爆沈。
姉妹艦と違い敵と砲火を交える機会もなく、昨日まで味方だったドイツに攻撃されたばかりか、誘導爆弾に撃沈された最初で最後の戦艦となった不運な艦であった。


コンテ・ディ・カブール級戦艦の三番艦。
1916年8月2日、タラントで原因不明の爆発事故により沈没。

スペイン海軍

ハイメ1世


(画像はハイメ1世)
いずれもエスパーニャ級戦艦
ネームシップのエスパーニャはリーフ戦争での支援活動中の1923年8月26日に座礁。浮揚作業に入るも翌年11月の暴風で更に破損し放棄。
二番艦のアルフォンソ13世はスペイン第二共和政時代にエスパーニャと改名される。
スペイン内戦ではエスパーニャはフランコ側、三番艦のハイメ1世は人民戦線側として敵味方に別れて戦った。エスパーニャはビルバオ封鎖中の1937年4月30日、自軍の機雷によって沈没。ハイメ1世はフランコ側の爆撃による損傷を修理中、6月17日に原因不明の爆発を起こし後に解体。人為的な妨害という説もある。


韓国海軍


浦項級コルベットの14番艦。
2010年3月26日、爆発で船体が真っ二つとなり沈没。
天安沈没現場の周辺で北朝鮮製の特徴を示す大型魚雷の残骸が発見され、また天安の沈没に前後して北朝鮮の潜水艦と母艦の活動が確認されたため、北朝鮮による魚雷の攻撃を受けて沈没したと考えられている。ただし、北朝鮮側は関与を否定し「韓国の謀略」であるとしている。

タイ海軍

トンブリ / スリ・アユタヤ


トンブリ


(下は姉妹艦のトンブリ
トンブリ級海防戦艦二番艦。
1951年6月の海軍クーデター事件で陸軍部隊の砲撃により沈没。

インド海軍


キロ型潜水艦
2010年に火災事故を起こし搭載機材を取り替えるも、2013年8月13日にムンバイの工廠で爆発し沈没。

インドネシア海軍


船体に強化プラスチックを使ったステルスミサイル艇。
進水後一カ月経った2012年9月28日に火災事故を起こし沈没。

中国人民解放軍


035型潜水艦(明型)。
2003年4月16日にエンジンが艦内の酸素を吸う事故を起こし乗組員が全滅。
後に艦本体は回収される。

関連タグ

不運艦 不運艦二軍 不運艦三軍&おまけ

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