解説
本名:武良茂 〔むら しげる〕。
一人称は「ボク」「オレ」「わし」「わたし」、「水木サン(漫画家”水木しげる”を一つのキャラクターとして意識したもの)」。ファンからは「水木御大」の愛称で親しまれた。また荒俣宏が「大先生(おおせんせい)」と呼んでいるためそれに倣うファンもいる。
『ゲゲゲの鬼太郎』を代表とする妖怪漫画と、自身の戦争体験に基づいた戦記物で特に知られている。他にも風刺的短編作品、妖怪にまつわる物語の蒐集や人物伝、自伝的エッセイなど著作は幅広い。
戦前スタイルの古風な漫画調と、アメコミと西洋銅版画に影響を受けた繊密かつ濃厚な背景を合わせた、唯一無二の画風。売れっ子になりアシスタントを使えるようになってからは点描を多用し、草木の一本一本まで丁寧に書き込まれた画面が物語の雰囲気を盛り上げている。
ライバルの手塚治虫をはじめ、アシスタントを務めた池上遼一やつげ義春、ジャンル外では弟子を標榜する京極夏彦や荒俣宏など、多くのクリエイターに深い影響を与えた。また現代の日本において妖怪を扱った作品はほとんどが水木の影響下にあると言ってよい。
妖怪という概念を世間に定着させたほか、魔法陣という言葉と概念も水木由来である。
なお、手塚治虫ほどではないが、一部のキャラクターはスターシステムという形で世界観の異なる作品に登場させる事がある。特にサラリーマン山田という角ばった顔のキャラクターはその代表格で、水木しげるロードに銅像が置かれた唯一の一般人キャラクターである。
また、それ以外のキャラクターも水木しげるのそれとすぐわかるようにデフォルメされた物が多い一方で、客観的に見てもかなり美人なキャラクターが登場する事もある。
人物
泰然自若、超マイペース。
眠ることが大好き。手塚治虫と石ノ森章太郎がお互いに不眠ぶりを自慢しあった際に「僕はどんな時でも10時間は寝ます。生きるためには寝なくては」と説いたところ両者に笑われたというエピソードを持つ。しかし実際に、水木はその二人よりも歳上にもかかわらず、遥かに長生きして持論を体現してみせた。
食に対する執着心も強い。
父親も胃が突出して強く、息子三人からイトツという渾名を付けられていたほど食いしん坊な人であった。それを受け継いだ水木自身は何でも食べる浅ましい奴という意味でズイダなどと呼ばれ、「国旗の先についている金の玉がおいしそうなので」食べようとしたなど、すさまじいエピソードがある。90を過ぎてもその食欲は健在で、メガマック・ドミノピザなどを悠々と平らげ、スタバデビューまで果たした程だった。
1970年代に一度「南方へ引っ越す」ことを決意し、家族へ「蚊はマラリアを持ってるから食われると一発でアウトだ」「一日三時間くらい畑仕事をしてればあとは寝ていられる」「意地汚いお父ちゃんでも食えない不味いイモがあった」などと大まじめで説得を試みて、本気で行こうと思っていたらしいのだが、ラバウルの知り合いが酋長になり文明を受け入れると言ったため断念。
そのトライ族酋長・トぺトロとは、晩年にトラックを買ってやり、死後葬式も古式に則って出すなど生涯の友情が続いた。
ラバウルは、トペトロの死後に起きた火山の大噴火で一時期壊滅的な被害を受けてしまい、住民はオーストラリアなど別の地に移住したが、遺族と水木プロの交流は現在も絶たれずに続いているとの事。
生涯
生い立ち
大正11年(1922年)3月8日、父・武良亮一と母・琴江の次男(武良家は3人兄弟)として大阪で誕生し、生後一ヶ月で鳥取県境港に帰郷した。
武良家は戦国時代から続く豪族の出。曽祖父の惣平は廻船問屋を営み、地元の名士として町会議員を務めるなど一時は大層な羽振りをきかせていたという。祖父も実業の才覚があり、様々な事業を起こしている。父の亮一は早稲田大学を卒業したエリートだったが、お坊ちゃん育ちの遊び人で、一家が帰郷したのも父が道楽半分で次々と事業に手を出しては失敗したためであった。
少年時代
幼少期は「のんのんばあ」という拝み屋のお婆さん(本名・景山ふさ)を慕い、昔話や死後の世界・妖怪の存在を聞いて育つ。
幼いころから絵は得意で、故郷の自然を愛し、絵描きに励んだ。比較的に恵まれた環境で育つが、マイペースで勉強はあまりできなかったため、小学校へは1年遅れで入学した。
1歳年下の同級生たちの中にあって、体格の良い茂はガキ大将的な存在となったが、元気が良くてものんびりした性格だったため、率先して子供らを仕切るタイプではなかった。このころ、自分の名前「しげる」が発音できず「げげる」と発していたことから「げげ」とあだ名されるようになる。これが後の「ゲゲゲ」の由来である。
眠るのが大好きで小学校の一時間目の算数の授業が始まる時間まで起きようともせず、食欲も旺盛なため朝食も必ずおかわりしてゆっくり食べてから、トボトボと登校するため遅刻の常習犯だった。
おかげで算数の成績は落第ギリギリで、おまけにしょっちゅう屁をこくなど半ば教師や同級生からバカにされる劣等生でもあった。
反面、そういった集団生活に溶け込めない様を、親兄弟・親戚・学校関係者がいくら注意してもなかなか聞こうとしない頑固な面もあった。執着した事への熱意は尋常ではなく、たとえブームが過ぎようと興味を持った趣味についてはトコトン掘り下げて楽しむなど、その意味での根気は強かった。
苦難の連続就職失敗
当時の地方の男性は高等小学校(現在の中学校相当)卒で家業を継ぐなり就職するのが一般的だった時代だが、武良家は上記のように比較的裕福な家庭であり、茂の父は早稲田大学卒、大叔父は東京帝国大学を出ているなど高学歴者が多かった。勉学に不熱心だった茂も当然のように旧制中学校(現在の中高一貫校に相当)を志望するが、当然受かるような成績ではなく、断念せざるを得なかった。無試験の高等小学校に進学した茂は、絵のコンクールで何度も入賞するなど画才を発揮する。しかし、絵画と体育以外の成績は、相変わらず目も当てられない有様で、卒業後は親戚の紹介で大阪の会社に就職することになった。しかしマイペース過ぎたためにどの職場も長続きせず、転職を繰り返す羽目になる。
もはや絵描きにする以外に息子の未来はない、と悟った父の許しを受け、その後は絵の勉強をしながら旧制中学を受験するが見事に失敗した。
- このころ、茂はとある神社で「おとろし」を目撃している。
将来に不安を覚えつつも、絵を描きながら読書と宝塚歌劇に熱中する生活を送るが(読書は主に宗教や哲学関係でエッカーマンの『ゲーテとの対話』が特にお気に入りだった)、やがて第二次世界大戦が始まり、昭和18年(1943年)に召集されて大日本帝国陸軍鳥取連隊へ入隊する事になった。
恐れていた軍隊召集、そして灼熱地獄の戦地へ
軍隊でもマイペースぶりは変わらず、古参兵から目を付けられて毎日虐められた。使い道が無いと見なされてラッパ手にされるが、練習しても上手く吹けず、真夏の炎天下の中で敷地内を走らされる罰の日々を過ごす。
とうとう耐え切れなくなった茂は、自ら配置転換を自己申告するという、当時の常識では考えられない行動に出た。人事係の曹長は前代未聞な一兵卒からの申告に驚き、宥めるつもりで「まあ、辛抱してくれや」と、軍隊にしては優しめに諭すが、罰の日々から逃げたい一心の茂は(後年の回顧では「よせば良かったのに」)3度も申告を繰り返すという行為に及んだ。
そのため、とうとう愛想をつかした曹長に「分かった。それでお前は南と北なら、どっちがいい?」と問われる。茂はてっきり本土内配置のつもりで、暖かいところがよかろうと「南であります」と答えたが、その結果、南方戦線行きが決定。軍隊の実情に疎い茂でも、南方での激戦と戦死者の多さは知っていたので、目の前が真っ暗になった(ちなみに後年の感想として茂は、「極寒の北大陸へ送られてたら寒さが苦手な自分は凍死してたかもしれなかったと思うと、まだ南と答えたのはマシだったのかもしれない」とも述べている)。
自由奔放な茂に、規律がすべての軍隊生活は徹底して合わなかった。
何かにつけて上官に殴られる日々が続き、このときの強烈な経験が、後に水木作品の定番「ビビビンタ」のネタとなっている。
派兵先のパプアニューギニアでも、不運と虐めの連続。
食料は常に不足し、「ズイダ」である茂は飢えの苦しみも人一倍だった。
- しかしこの地で、茂は「天狗倒し」の音を聞き、「しらみゆうれん」を目撃するなど、数々の妖怪たちと遭遇、そして「ぬりかべ」に命を救われるという経験もする(詳細はリンク先参照)。
ニューブリテン島ラバウルでは分隊長である上官の不興を買い、隊列から離されてビリケツの不寝番を命じられたが、それが幸いしてか分隊が敵の急襲を受け全員戦死する中、ただ一人生き残る結果となった。
茂自身も、ようやく敵の目を逃れて崖を這い登ったと思えば敵対する部族と鉢合わせし、マラリア蚊の大群に襲われと悲惨な逃避行を辿ることになる。
命からがら本隊に帰還してみれば敵前逃亡として責められ、上官から「何で死ななかったんだ、敗残兵」と罵られた。
最後には「次は必ず死ね」とまで言われ、絶望的な心境へ追い込まれる。もはや自暴自棄な心地だった。
敵地で左腕を失う
今度こそ玉砕を前提として送り出されるところだったが、まもなくマラリアを発病。高熱で動くことができず寝込んでいたところ、敵の砲弾が至近距離で炸裂。その破片を浴び、左腕を切断する重傷を負う。
手術にあたっては、死斑が出来る程の左腕負傷の激痛とマラリアの高熱による意識混濁から、麻酔は用いられなかった。それでも切断される痛みをあまり感じなかったほどの瀕死の状態であり、霞む意識の中で血がバケツ一杯に溜まっていたことだけを覚えていたという。
あまりにひどい状態だったため、周囲は「死ぬのも時間の問題」と決めつけていたが、茂は生まれつきの旺盛な食欲を発揮して一命を取り留め、逆に生命力の異常な強さを恐れられてしまった。
現地では医薬品に加え、食料も不足していた。先を案じた軍医から野戦病院への移動を提案された茂は、意識も朦朧とする中でなんとか「行きます」と答え、移送船に乗り込む。
しかし移動先でマラリアは更に悪化し、毎日寝こんだまま天井を見て暮らすことになった。
トライ族との出会い
配給のタバコなどで食糧を交換してくれる原住民たちの話を聞きつけた茂は、マラリアが小康状態(マラリアは高熱と小康を繰り返す)になるとさっそく彼らの村へ訪ねていった。
その原住民・トライ族(水木は土と共に生きる人という意味合いで敬意をこめて土人と呼ぶ)とは、当初言葉がほとんど通じなかったが、自然に笑顔を交わし合い、仲良くなった。
トライ族の人々は、彼らも戦争に巻き込まれ貧しい生活を送る中で、高熱に苦しむ茂に果物を届けるなど、親身に世話を焼いてくれた。
茂は心を慰めるため、内地から数冊のゲーテ関係の哲学書を戦地にも持ち込んでいた。
一方、トライ族の家庭には宣教師が配った聖書があり、ローマ字で書かれていたため茂も読むことができた。この聖書の内容を通じて、茂は片言ながらトライ族の人々と会話ができるようになっていく。聖書がきっかけだったことから、茂は彼らから「パウロ」と呼ばれるようになった。
この交流は茂の命を救っただけでなく、傷ついた心も癒していった。自然と共に生き、精霊に親しむトライ族と、幼いころから自然を愛し、妖怪に親しんできた茂はウマが合ったのである。
特に当時少年だったトペトロは、生涯最大の友の一人となり、後年、彼が酋長となってからも友情は続いた。
やがて終戦を迎え、生き残った日本兵たちは帰国の喜びに包まれていたが、茂はすでにニューギニアの地とトライ族に深い愛着を抱いていた。トライ族の側もそれは同じで、特に酋長格の一人であったイカリアンというおばあさんからは「家と嫁と畑を世話してやるから残れ」とまで言われ、茂も真剣に永住を考えたという。
しかし軍医から「包帯を巻いてる左腕の切断面に骨が出ているから、再手術しないと死ぬ可能性がある」と宣告され、日本へ帰ることを決意。トライ族には7年後に戻ってくると告げ、復員輸送船雪風に乗り込んだ。
終戦から約半年後の昭和21年(1946年)3月、雪風は無事、神奈川県の浦賀港へと入港。茂は再び日本の土を踏んだ。
帰国、そして漫画家の道へ
両親は左腕を失った茂の身を案じたが、当人は生き延びたこと、特に(利き腕が無事だったため)好きな絵を思う存分描けることの喜びを、より大きく感じていた。
その反面、この後の未来がどうなるのか全く見当も付かないという不安を抱えてもいたが、それはあえて考えないようにしていた。
腕の再手術を済ませた後は、生活のために傷痍軍人としての募金活動から魚売りまで、何でもこなす毎日を送っていた。
そんなある日、募金活動で訪れた神戸市でアパート経営を持ちかけられ、なけなしの金をかき集めて頭金とし、抵当付物件を月賦(今でいうローン)で購入。
物件が水木通りにあったことから「水木荘」と名付けて大家となった。
- 水木通りは神戸市兵庫区に現存する下町。現在の高速神戸線大開駅近辺に沿う住宅街。
ところがどういうわけか入居者は変人ばかりで、茂は家賃の回収とアパートのメンテナンスに振り回される羽目になる。
しかし、紙芝居作家の弟子を名乗る青年が店子となったことで、紙芝居業界に縁ができた。
ここで「生き延びた以上は少しでも好きな道を選びたい」と思い至った茂は、得意だった絵を描く仕事として阪神劇画社に所属し、紙芝居作家の道に入ることを決意する。
この阪神劇画社の社長、鈴木勝丸が人の名前を覚えられないタイプで、茂のこともアパート名から「水木さん」と呼んでいたため、ペンネームを「水木しげる」とした。しかし紙芝居作家となって間もなく、水木は水木荘を売り払い、うまくいかなかった大家稼業から手を引いている。
水木荘には、茂を頼ってやってきた弟、そして管理の手伝いのために呼び寄せた兄嫁とその娘が同居し、互いに支え合って暮らしていたが、水木が西宮市に新しく購入した小さな一軒家にそっくり引っ越した。
昭和28年には巣鴨プリズンから解放された兄も身を寄せることとなり、翌29年7月には兄嫁が水木にとっての甥となる子供を出産、一家6人の大所帯となる。
このころ水木は西部劇物などを描いていたが、紙芝居業界が衰退し始め、現場での売り上げは鈍くなっていた。
そこでウケが狙える題材として怪奇物をやってみないかと言う話になり、鈴木から勧められたのが伊藤正美の『墓場奇太郎』だった。
さっそく伊藤の了承を得た水木は、タイトルを『墓場鬼太郎』に変更し、4本のオリジナルストーリーを制作する。
これが水木と、後に彼の愛息子にして守護神となる鬼太郎との出会いだった。
当初の鬼太郎は、キャラクターデザインなどがグロテスクすぎて、今一つ人気が出なかった。
これが変わるきっかけになったのが、水木のまだ幼い甥っ子だった。ベビィ(水木が幼児を指して言う言葉)の無邪気な仕草や、顔に髪がかかる様子の可愛らしさ、面白さに気付いた水木は、それを鬼太郎の動きやデザインに取り入れる。
こうして鬼太郎は少しずつユーモラスで親しみやすい存在へと変化を始め、当時流行していた空手映画からアクションの要素を取り入れたことで、人気を得ていった。
貧窮との戦い
昭和30年代に入ると、家庭に普及し始めていたテレビに客である子供たちを奪われ、紙芝居業界はいよいよ不景気になった。
東京では紙芝居に代わって貸本漫画が人気を集めていると聞いた水木は、紙芝居の大家で度々仕事をもらっていた加太こうじの支援を得て、貸本漫画家に転業するべく上京した。
加太の紹介で、同じ転業漫画家の先達・相山某に面会した水木は、彼から仕事先として兎月書房を紹介される。
こうして筆からペンに持ち替えたものの、兎月書房の原稿料の払いは悪く、食うや食わずの生活が続き、窮状を凌ぐべく質屋通いが始まった。
- 貸本漫画の業界では、当初の約束をたがえて原稿料を大幅に値切ったり、時には仕上げた原稿を持っていっても「そんなものを頼んだ覚えはない」と切り捨てたりといった暴挙が常態化しており、形容ではなく文字通り漫画と心中に追い込まれる漫画家も出る有様だった。
昭和34年春、西宮に残っていた兄夫婦が、新しく東京で仕事が見つかったと連絡してきた。そこで武良家は西宮の家を売り、その金で調布に古屋を見つけて購入。再び一家揃っての生活が始まる。
兎月書房では戦記物を中心に描いていたが、翌昭和35年、水木は社長に掛け合い、怪奇短編集『妖奇伝』を執筆。
この妖奇伝の第二話「幽霊一家」で漫画版「墓場鬼太郎」のシリーズがスタートするが、読者を選ぶ怪奇性の高い内容は、一部に熱狂的なファンを得たものの売り上げが伸びず、2刊を出したところで打ち切りとなってしまった。
- 水木の作品は、自らの体験を基にした戦記物のリアルさ、怪奇物で見せる独自の世界観がマニアックな読者には人気だったが、反面、一般読者からの広い支持を得ることは難しかった。やがて売れる見込みがないという不評が広まり、あらゆる出版社から締め出しを食らってしまう。この頃の水木は、生活苦を強いられる中で世の中に対する憤懣が募り、それが作風に表れて暗さが増し、そのせいで更に敬遠されるという悪循環に陥っていた。
しかしその直後に、他ならぬ熱心なファンからの応援レターが次々と兎月書房に届いたことで、辛くも鬼太郎シリーズは復活、継続が決定する。これが好評を得たことで水木の知名度は徐々に上がり始め、兎月書房の売り上げにも貢献した。
ところが貸本業界そのものが衰退し始めたこともあって、兎月書房の払いはますます渋くなる。やがて未払いの原稿料はつもりつもって20万円(現在の260万円に相当)にも達していた。
「『戦場で理不尽に殺される』よりは随分やんわりとしているが、それでも『餓死』は恐ろしい」と、貧乏の辛さ、生きることの苦しみを実感した時代だった。
そんな状況にいた昭和36年(1961年)、水木は、既に40近い息子を心配した両親の計らいにより見合いをし、わずか5日後にスピード結婚する。
この時、なんとか見合いを成功させようと水木側が収入や生活ぶりを盛って話していたため、いざ調布に入った妻・布枝は、新居のオンボロぶりに(形容ではなく)声を上げて驚き、聞いていた話とは全く違う水木の極貧生活を知って愕然とした。
おまけに新婚早々、漫画の原稿を手伝わされる羽目になったが、水木の勤勉ぶりに尊敬の念を抱くようになった布枝は、いつか必ず世に認められて成功すると期待していた。
実際に「鬼太郎」は人気を集め出しており、兎月書房に対する水木の立場も向上しつつあった。
- この時代の生活を描いた布枝の自伝が、後に「ゲゲゲの女房」としてドラマ化(後に劇場映画化)され大ヒットすることになる。
しかし経営難に陥っていた兎月書房は、とうとう原稿料を支払わなくなり、業を煮やした水木はついに兎月と「国交断絶」(本人談)。以前から面識があり、才能を認めてくれていた長井勝一の三洋社で「鬼太郎夜話」を描き始めた。
こうして、安くともきちんと原稿料を支払ってくれる三洋社に軸足を移したことで、やっとまともに収入が得られるようになる。まだまだ貧しさから抜け出すことはできなかったが、鬼太郎夜話の刊行も順調に続いていた。
ところがようやく一息ついたのも束の間、その長井が病に倒れ三洋社が消滅、頼みの綱を失った水木は貧窮のどん底に追い込まれる。
- このときの騒動の中で、すでに納入済みで鬼太郎夜話の5刊目となるはずだった「カメ男の巻」の原稿が紛失。幻の作品となってしまった。
昭和37年(1962年)のクリスマスイブには長女が誕生。父となる喜びを得たが、一方で経済状態はさらに悪化していく。
貸本出版社の相次ぐ倒産により、約束手形が次々に不渡りとなり、家の月賦が支払えず不動産屋と弁護士に立ち退きを要求される。
挙句の果てには、大蔵省の誤った調査から土地の半分は国の物だと毎日のように責め立てられ、温厚な水木も怒りが爆発。家に押し掛けた役人に、たまりにたまった質札を突き付け「貴様らに我々の生活がわかるか!!」と叫んだという。
こうした状況から、どれだけ働いても報われない人間社会の理不尽さ、えげつなさに対して怒りを覚えた水木は、悪魔のごとき頭脳を持つ天才児が、悪魔を使役して狡猾な人間を一掃し、不公平な世の中を改革するために立ち上がる「悪魔くん」を構想。東考社の桜井昌一(水木作品の「メガネ出っ歯」のモデル)が水木ファンだったことで採用、出版の運びとなった。
しかし本格的な魔術の要素を詰め込んだその内容は、メイン読者層である子供たちには難解な部分が多く、アナーキーなストーリーも手伝って売り上げが伸びず、やむなく全5巻の予定を3巻で打ち切りとせざるを得なかった。
- この作品の再評価は、後年の雑誌リメイク版を待つことになる。
冷酷な大蔵省には更に責め立てられ続けた結果、家の半分を持っていかれる。
帳簿が間違いと判明した後も謝罪は無く、人に対する不信感に苦しむ日々が続き、いよいよ暮らしも追い込まれていった。水木は心身ともにギリギリの状態に陥り、遂には「自分を理解してくれる人も少ないながらいるので、何とか救われて餓死は免れるんじゃないか」という、祈りにも似た希望に縋る有様だった。
思いがけない雑誌デビュー
将来の希望がまるで見えず、闇の中を手探りで彷徨うような絶望感に苛まれ、途方に暮れていた昭和39年(1964年)、水木の目の前に一筋の光明が差す。
かつての三洋社の社長、長井勝一が病から復帰、新会社青林堂を立ち上げ、後に伝説の存在となる新雑誌月刊漫画ガロの発行を決定。長井から再び定期執筆を依頼されたことで安定した収入を得て、思いがけず貧困最悪の窮地である「餓死」だけは免れることができた。
- 創刊当時の「ガロ」は作家が足りず、水木しげると白土三平らが複数の名義を使って頭数の水増しを行っていたという。
それでも、何とか切り詰めたうえで毎日3食を摂るだけは出来るようになったという程度で、極貧生活に変わりはなく、質屋通いも続いていた。
しかし、マイナー誌ではあったもののこの思いがけない雑誌デビューが、水木に大きなチャンスをもたらすことになる。
メジャーへの扉
『週刊少年マガジン』の事情
翌昭和40年(1965年)、『週刊少年マガジン』は「8マン」の桑田次郎が銃刀法違反で逮捕されて連載中断するわ、「ハリスの旋風」のちばてつやが新婚旅行に出かけてしまって長期休載するわ、W3事件に巻き込まれるわ、とトラブル続きだった。そのため小学館刊行のライバル誌・『週刊少年サンデー』に20万部の差をつけられ、前編集長は責任を取って辞任。編集部はこの逆境を抜け出すべく、他誌にない個性あふれる作品を生み出せる作家を探していた。
そこで新編集長となった内田勝が目を付けたのが、貸本時代に「鬼太郎」で強烈な個性を見せつけ、『月刊ガロ』で実績を伸ばしていた水木しげるだった。「鬼太郎」は出版界にもファンを持ち、作品として高い評価を得ていたのである。
週刊誌デビュー
内田は水木に対し「宇宙モノ」を描かないかと持ち掛けたが、編集部の狙いは自分の個性だとあたりを付けた水木は、得意でないものに無理に手を出しても上手く行き難いと直感し、ひとまず断った。
すると、水木をあきらめきれない内田は再度編集会議にかけ、まずは別冊で読者の反応を見ることを条件に、2ヶ月後に水木の好きなジャンルで描かせてみようということになった。
様子を見ていた水木も今度は快諾。
そしてマガジンの読者層に確実にアピールできる設定、キャラクターを求めて生み出されたのが『テレビくん』だった。講談社刊「別冊少年マガジン夏休みお楽しみ号」に掲載されたテレビくんは大好評を博し、しかも第六回講談社児童漫画賞まで受賞した。
こうして講談社からの依頼が増えだし、水木は最低限の生活費がようやく稼げるようになる。
相変わらず貧乏ではあったが、日々の食卓にご馳走を並べることができる程度の余裕が、やっとできるようになった。
この成功により、同年に同社刊「週刊少年マガジン」8月1日号で『墓場の鬼太郎』「手」が掲載される。
ところがやはり当初はダークな作風が一般受けせず、打ち切りの瀬戸際に立たされてしまった。
- この事態に、編集長で水木をマガジンに引き込んだ責任者であり、鬼太郎の可能性を信じていた内田は、バックアップのためメディアミックス企画を立ち上げる。しかし今までにない題材とテーマ、そして「墓場」というタイトルに関係者が躊躇い、スポンサー探しが難航していた。
それでも最終ギリギリの段階で、貸本時代の鬼太郎を知る熱狂的なファンたちからの高評価と今後の要望が届き、連載継続が決定する。
作品が映像化される
ここで更に水木の運命を変えるきっかけとなったのが、貸本時代に不遇を囲っていた「悪魔くん」のリメイク作品だった。
可愛らしく、親しみやすいヒーローに生まれ変わった「悪魔くん」に、もともと水木作品のファンだった当時の東映プロデューサーが目を付け、実写ドラマとして放映が決定。原作の連載とほぼ同時進行のメディアミックス作品として、1966年10月より全26回の契約でスタートした。
水木も積極的にアイディアを提供し、映画畑から転身したスタッフの気概にも支えられた結果、実写版「悪魔くん」は当時の子供たちから大好評を得た。
こうして、ようやく水木の財政も上向き始める。溜まった質札とも決別でき(質屋の厚意もあり、ほぼ流されずに済んだ)、衣食住に全く不自由しなくなった。また、長女と同じクリスマスイブに次女が誕生。私生活もより賑やかなものになった。
「墓場の鬼太郎」が「ゲゲゲの鬼太郎」に改題されて大ヒット
一方、じわじわと支持者を獲得していった鬼太郎は、やがてマガジンでもトップクラスの人気作となっていった。
この頃、キングレコードとのタイアップ企画として”漫画の作者が、自ら作品のテーマソングを作詞”を売りにした『少年マガジン・マンガ大行進』が発売された。このレコードに水木が発表したのが「ゲ、ゲ、ゲゲゲのゲ」で始まる後の主題歌だった。
当時は連載中の作品名に従い、タイトルは「墓場の鬼太郎」。愉快で親しみやすいサビのフレーズは、早速子供たちに受け入れられた。また自由奔放、何物にも縛られない妖怪の生活を描いた歌詞は、勉強や仕事に追われる毎日を送る、学生やサラリーマンなど青年、成人層にも好評だった。
講談社編集部は、ここまでの実績と実写版「悪魔くん」の成功を叩き台に、マガジンの目玉作品となった鬼太郎のメディアミックス企画を、改めて強く推し進める。
そして遂に昭和42年11月、「墓場」を「ゲゲゲ」と改題することで最後の問題をクリアし、TVアニメ化が決定。昭和43年1月3日から放映開始された「ゲゲゲの鬼太郎」は、全国の子供たちを夢中にし、続編も作られる大ヒット作品となった。
水木は一躍スターダムに駆け上がり、一家は一転して近所でも評判の金持ちとなった。収入面も毎日贅沢が可能なほどに伸びた(ただしその分仕事量は凄まじく、マネージャーを務めた弟は、執筆量的にはもう少し収入が上がらないと割に合わないとこぼす有様だった)。
水木は一気に増えた仕事をこなすために「水木プロダクション」を設立。
『二笑亭』など、奇怪な建築物を愛する水木の建築熱に火が付いたのもこの頃である。
- 「鬼太郎」シリーズはその後も約10年周期でアニメ化を繰り返し、2018年の時点で計7シリーズが製作されている。日本中がひたすら豊かさを追い求めた高度成長期を経て、日本人の心からほとんど忘れ去られていた妖怪にキャラクター性を与えて息を吹きかえらせた「鬼太郎」は、作品に触れた多くの人々の”見えないもの”に対する認識を変えた。苦しかった貸本時代から水木とともに歩み続けてきた「鬼太郎」は、他の漫画家はもちろん、文学者にも影響を与え、日本の文化史に残る一大作品となった。
失速と迷い
この頃、水木は餓死寸前の極貧生活を経験したトラウマから仕事を断ることができず、過剰なまでの執筆依頼を次から次へと受けていた。その結果、家族との触れ合いもおろそかになり、遂には過労により倒れてしまう。
一週間ほど寝たきり状態の生活で休養を取ったが、諸事情で仕事を止めるわけにもいかず、再び多忙な日々に戻らざるを得なかった。
そんな矢先に阪急グループの遊園地、宝塚ファミリーランドから「鬼太郎」をやらせて欲しいとの電話依頼があり、承諾して神戸に行くと、阪急グループ系列のホテルで重役に就いていた戦友たちと、思いがけない再会を果たすことになった。
- 以降、宝塚ファミリーランドでは夏休み企画として、”鬼太郎のお化け屋敷”が平成5年(1993年)まで実に23年の長期にわたり開催されることになる。
そして昔語りの中で、懐かしい戦地へ一度赴く話が浮上し、昭和45年(1970年)の末に飛行機で南方へ再訪する事となった。
現地ではトライ族と約25年ぶりの再会を果たしたが、先のイカリアンというおばあさんとだけは、残念ながら他界により再会は叶わず、現地にあった彼女の墓参りをして冥福を祈った。イカリアンは最後に別れる際の水木の「7年後に戻る」という言葉を信じ続けて他界したとの事で、水木は彼女の墓の前で「遅くなって申し訳なかった」と何度も詫びたという。
水木はその後も幾度となくトライ族の地を訪れ、交流を更に深めていく。
この南方でのトペトロたちとの再会もあり、水木は働き過ぎたことへの反省と精神的な充足を求めて、抱え過ぎていた仕事を整理し、家族とゆったりとした時間を過ごすようになった。
ところがエンジン全開で走り続けてきたことの反動か、水木はここでスランプ状態に陥る。さらに、時期的にオカルトブームの終焉が重なったことなどもあって執筆依頼が激減。当然収入もピーク時に比べて大幅に低下してしまった。
それでも長年の仕事がいくつか継続しており、また、すでに漫画と言う枠を超えて妖怪の大家となっていたため、雑誌の取材やテレビ番組の出演依頼などもあった。そのためかつてのような貧窮を味わうことこそなかったが、精神的なダメージの大きさは、水木自身が感じていた以上のものだった。
妖怪漫画家としてのアイデンティティを見失った水木は、ついには「妖怪なんて本当はいないんじゃないか?」という、貸本時代にも経験しなかった失意の日々に落ち込んでいった。
友情と家族、そして妖怪たちに救われた日々
トペトロたちとの付き合いがあったおかげで、辛うじて目に見えない存在の完全否定にまでは至らなかったが、大好きな妖怪を信じられなくなりかけたこの辛い日々は、水木の心を深く傷つけた。
日々の暮らしができる程度の収入は確保できていたが、プロダクションの運営は厳しくなり始めており、妻の布枝は一時期パートの仕事に出ていた事もあった。
そんな不安定な日々が2年ほど続いたが、修学旅行から帰った次女・悦子が、宿泊先で『目々連』を目撃したことを報告。これが妖怪への思いを再び水木に抱かせ、スランプ脱出のきっかけとなる。
- 次女の悦子は父である茂に似た奔放な性格で、妖怪や悪魔にも幼いころから興味を持っていた。何かとウマのあう悦子を茂も手放したがらなかったため、悦子は武良家に留まり、水木プロに入社。妻の布江にも理解できない部分を公私にわたって支える、重要なパートナーとなった。
- 1984年、父・亮一が死去(享年88)。
昭和60年代からは、民俗学再評価の流れや「ゲゲゲの鬼太郎」アニメ第2期の再放送が繰り返される中で、妖怪が再ブームとなる。
1985年、このブームにのっとりアニメ鬼太郎が13年ぶりに復活、これが最高視聴率29.6%を記録する大ヒット作となり、キャラクター商品も大好評を得る。
水木の経済状態は再び向上し、妖怪の実在については未だ多少の迷いを残しつつも、漫画家としての自信を取り戻したことで精神状態も安定した。
- 後に水木は、貸本時代から雑誌連載、アニメ化と、思いがけない好機が訪れた時の事を振り返り「窮地に陥ると、いつも現れて救ってくれるのが鬼太郎だった」と述懐している。
平成、そして21世紀へ
3期鬼太郎終了の翌年、時代は昭和から平成へと変わる。
この時代の移ろいの中、水木は激動の昭和と自分の経歴を描いた「コミック昭和史」を書き下ろした。これで第十三回講談社漫画賞を受賞。
平成3年(1991年)に紫綬褒章を授章。
妖怪研究家としても活動を再スタートさせ、平成4年(1992年)に岩波書店から初のカラー版「妖怪画談」が出版される。
またこの頃から、友人でもあり弟子でもある京極夏彦や荒俣宏たちと連れ立って世界中を訪問し、現地の妖怪・怪異譚の収集に励んだ。
そして、バブル崩壊以降の乱れた世相を見つめる中で「目には見えないけれど妖怪・精霊はいる」という確信を、あらためて深く得ることになった。
- 甘いもの好き・大食漢・変人と共通点の多い荒俣とは特にウマが合ったようで、荒俣は怪人物、あるいは妖怪の「アリャマタコリャマタ」として水木作品に登場するようになった。二人はその後も度々連れ立って旅行に出かけ、1998年に配本を開始した「ワールド・ミステリー・ツアー13」でも、この大男二人の珍道中について、自ら愉快な筆致で執筆した一遍を見ることができる。
また、日本とはかけ離れた地でも妖怪の特徴や性質には共通点があることも実感し、1994年には「世界中の妖怪は1000種類に分類することができる」という「妖怪千体説」を唱えるに至った。
- この年、母・琴江が死去(享年94)。
このころ、弟子の一人である京極夏彦が小説家として衝撃のデビューを果たす。
- デザイナーでもある京極は、幼少時から筋金入りの水木ファンだった。折からの不景気で仕事が無かった時期に、京極は水木公認の支援団体・「関東水木会」に入会。その活動において、思いがけず水木の面識を得ることになった。一方、水木は京極の編集能力と妖怪についての深い洞察と作家としての力量に関心し、アシスタントにならないかと勧めるが、このときには既に京極は小説家として脚光を浴び、多忙になっていた。
1995年、水木は荒俣宏や京極夏彦、妖怪関連についての仲間である村上健司や多田克己たちと「世界妖怪協会」を設立し会長に就任する。
1996年には、「鬼太郎」が4度目のアニメ化。
バブル後の不況は、人々の視点を物質的なものから精神的なものへと引き戻しつつあった。そうした世相を背景に、4期鬼太郎は原点回帰をテーマとし、最新のアニメ技術で1~2期の作風を平成の時代に復活させるというコンセプトで好評を得た。
水木はこの年、世界妖怪会議を定期開催し、さらに1997年からは機関誌として、角川書店から季刊「怪」を発行、漫画「神秘家列伝」を連載し、読者からの妖怪目撃談にイラスト付きで答えるなどの活動を開始する。
4期鬼太郎は1998年に終了したが、画業50周年を記念して各出版社から復刻された妖怪画集や、戦争における自らの実体験を元に描かれた戦記の数々も、各方面に衝撃を与えた。
この頃には水木しげると、彼が描き出す鬼太郎と妖怪たちの存在は、すでに日本にとってなくてはならないものとなっていた。
そして時代は21世紀に入り、生誕80周年を記念して様々な作品の復刻や妖怪フィギュアの販売、鬼太郎作品の3機種でのゲームソフト製作などが行われ、水木の活躍も続いた。
2007年には「鬼太郎」初の実写映画が公開され大好評で2作品作られる。
時を同じくして「鬼太郎」は5度目のアニメ化を果たし、過去シリーズ同様にヒットする。
平成15年(2008年)に旭日小綬章を受章。
この年はアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」40周年で、それを記念してゲゲゲ以前の貸本時代原作・『墓場鬼太郎』も深夜枠でアニメ化。同じ原作を持ちながら、まったくテイストの異なるアニメが同時期に放送されるという快挙(あるいは珍事)となった。
しかし2008年末、リーマンショックに端を発するアメリカの経済不況が日本にも波及。5度目のアニメが放送中だった「ゲゲゲの鬼太郎」も影響を受け、視聴率的には好評だったにもかかわらず、製作会社の都合で急遽打ち切りとなる(詳細は5期鬼太郎「打ち切りについて」を参照)。
この頃、鬼太郎そのものは東南アジアを中心に世界的な展開を見せ、また、平成22年(2010年)には「ゲゲゲの女房」が実写ドラマ化されて大ヒットするなど、経済的には潤っており、知名度もさらに高まっていた。水木はこの年、文化功労者に選ばれるという名誉を受けるが、高齢による不安もあり、愛する「鬼太郎」が再開されないことへの寂しさを感じるとともに、作品の将来を案じていた。
驚きの2本同時連載
そんな中で平成25年(2013年)12月、水木は御年91歳にして、12月25日発売の「ビッグコミック」(小学館発行)の新年1号より、新連載『わたしの日々』を開始する。
水木はこの時、「怪」で『水木しげるの日本霊異記』の連載も持っており、90歳以上の漫画家が2本同時に連載を持つというのは異例すぎる出来事であった。
- 『わたしの日々』は水木の人生を振り返るエッセイ漫画。2015年5月に連載終了を迎えるまで、平穏な日常から、戦争体験、貧乏生活、貸本や紙芝居まで、かつてエッセイなどで語られたエピソードが全て描かれた。全34話。ある意味、奥方の著作『ゲゲゲの女房』と対の作品なのではないだろうか。
水木と金
水木しげるを語るうえで欠かせないのが金に関する言及である。作家は世間体を気にして収入の増減をおおっぴら語らない傾向にあるが、水木は年を取るにつれて歯に衣を着せず、高齢になっても定期的に鬼太郎で金が儲けられることを喜ぶ発言を多く残している。
特に晩年の墓場鬼太郎におけるインタビューでの発言は有名。鬼太郎をやるのでコメントがほしいと言われた水木は開口一番嬉しいと答え、その理由を「水木サンを何年経っても(鬼太郎は)金儲けさせてくれる」とドストレートに語っている。
本来こういった発言は反感を買いやすいが、水木の場合は貧乏生活の様々なエピソードがファンから非常によく知られているため、水木の愛嬌としてよく受け入れられていた。
大往生、現世との別れ
90を過ぎてなお健啖家であり、『わたしの日々』にも「エツ子(次女)……お父ちゃんの願望を叶えてくれ。」と、散歩中にマクドナルドへ飛び込む姿が描かれた(ハンバーガーを食する夢を立て続けに見て、辛抱たまらなくなったらしい)。体力を維持するためのトレーニングも行っており、家族もファンも当然のように「100を越えて長生きしてくれるのでは」と思っていた。
しかし、平成26年末に心筋梗塞を発症し、約2ヶ月入院。
自宅に帰りしばらく外出は車椅子に頼ることになりつつも、妖怪をはじめとする目に見えない存在への信頼と気力は衰えを見せることがなかった。相変わらず食欲も旺盛で、回復に向けて療養を続けていた翌年2015年11月、自宅で転倒して頭を打ち、急性硬膜下血腫にて入院。これが響いて体が弱っていったと診られている(高齢者が転倒後、急速に体調が悪化するのはよくあることである)。
一時は小康を保ったかにも見え早期回復も期待されたが、平成27年(2015年)11月30日早朝、容体が急変。多臓器不全により、入院中であった都内の病院で亡くなった。満93歳。睡眠と食欲旺盛が長生きの秘訣であった彼は、現役漫画家のまま旅立った。
看取った家族によると、穏やかな眠りにつく如き最期であったという。
その陰でこの日、全くの偶然ながら、運命的な出来事が起きていたのである。
探偵!ナイトスクープでの水木逝去による悲しみの結末
視聴者から依頼を募集し、タレントが「探偵」となってその謎を解決するという朝日放送の人気番組、探偵!ナイトスクープ。その中の一編、「鬼太郎が大好きな少年」のロケ日は、偶然にも水木が亡くなったまさにその日であった。
まさかそのような事になるとは誰一人予想できるわけがなく、取材開始二時間経った頃に「水木しげる逝去」のニュースがスタッフの元に入ったのである。
本来ならば、この手の同好者と会う依頼はほのぼのとした形で終わる事が多いものだが、全く予期せぬこの事態に、収録の裏ではこの依頼の担当だった田村裕探偵とスタッフ一同が動揺しつつ、ロケは続いていく。
そして依頼者の息子と、同じ鬼太郎ファンの少年が互いに鬼太郎の話題で盛り上がり、夜まで和気あいあいとする中、田村裕探偵がとうとう二人に事実を告げた。
最初、少年達は「訃報」の意味がわからなかったが、それが亡くなったという意味である事を知ると泣き崩れた。
- 田村探偵とスタッフは、逝去の事実を伝えるかどうかについて相当迷ったそうだが、ファン愛に溢れる少年達にはきちんと伝えるべき大事な事である、との考えで、事実を告げることを決めたという。
そのVTRの最後には、水木の画像と共に追悼のメッセージが捧げられた。田村探偵は「全く予期していなかった事で、運命的なものを感じるロケだった」と振り返っている。
その後、この番組を見た水木プロのスタッフと先生の娘さんが、追悼式「水木しげるを送る会」に二人を招待、ファン代表として贈辞の挨拶を依頼した。この出来事はネットニュースにも取り上げられた。
献花には各界の超大御所や、多くの著名人が名を連ね、なんと天皇陛下からも贈られて人々を驚かせた。
ひ孫程も年の離れたこの少年達を、水木はさぞ微笑ましく思い、そっと見守っていた事であろう。
もしや、肉体は滅びたが霊は生き続けてる?
今頃、水木しげるは天国ではなく、鬼太郎や妖怪の仲間達と一緒に百鬼夜行の行進に繰り出しているのではないだろうか……。
それとも、かつて共に戦った戦友たちや、置いてきた片腕との再会を喜んでいるのだろうか・・・。
いやいや、分霊してあの世とこの世にて現世の人々、特に日々真剣に生きる人たちを慈悲深く見守っているのではなかろうか‥‥‥。
ちなみに、2017年、このイラストの通り公式コラボが実現した。
さらにさらに、2018年はアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」50周年の節目の年で、6度目(「墓場鬼太郎」を含めれば7度目)のアニメ化が実現し、新たな妖怪及び鬼太郎ブームを巻き起こし、関連書籍が続々出版再開しだしと、妻の布枝も「水木の魂が現世に帰って来ている気がする」とコメントしている。
………やっぱり水木しげるは霊として人知れず現世に舞い戻り、妖怪と人間たちの動向を観察しているのかもしれない。
代表作
他作品への関心
同世代のやなせたかしとは違い、基本的に戦後のストーリー漫画にはあまり関心が無かった。貸本時代にはライバルの手塚治虫の作品を研究していたが、後年にはあまり読まなくなった。ただし、大家となってからも以下の作品には注目していた。
- 『となりのトトロ』 水木は宮崎アニメを好んでいたが、本作は特にお気に入りで、晩年の雑誌のインタビューなどでは「影響を受けた作品」として挙げている。
- 『ルパン三世』 アメコミ調の作画や宮崎駿の演出を通じてアニメには関心を持っていた。
- 『金田一少年の事件簿』 アニメ版4期『鬼太郎』のスタッフが大半こちらに移行したため関心を持った。弟子の京極夏彦も映画で特別出演したため毎週観賞していた。ドロドロした人間関係から事件を解決するストーリーを「オモチロイ」と感じていた。
- 『名探偵コナン』 漫画家としては同郷の後輩にあたる青山剛昌が、『金田一少年の事件簿』の影響で、コナン・ドイルへのリスペクトとしてシャーロック・ホームズをモチーフとしたことに関心を抱いていた。ドイルは心霊主義者でもあり、水木も自著『神秘家列伝』でも描いている。トリックや推理、主人公・江戸川コナンの正体である工藤新一とヒロイン・毛利蘭を始めとする多数の登場人物のラブコメ関係にも興味を感じていた。鳥取に水木ロード同様に記念館やキャラ銅像が出来たことも注目し続けていた。青山も大先輩である水木をかねてから尊敬しており、水木の晩年作・『ゲゲゲの家計簿』の単行本の帯にコメントを寄稿している。
- 『キン肉マン』 読者応募の超人を採用し、水木作品の妖怪にも通ずる超人たちの造形には注目していた。週刊プレイボーイで青年向けに連載されたリメイク版も読んでいた。
- 『ドカベン』 この作品の骨太なキャラ設定やストーリー展開には、原作漫画・アニメ共に興味と好感を抱いていたが、水島新司が野球ものばかり描くことには、当時諸事情で水木が不遇を囲っていた事も手伝って批判的だった。水木は鬼太郎シリーズでも「おばけナイター」や「続ゲゲゲの鬼太郎・スポーツ狂時代」で野球をテーマにしている。
- 『Dr.スランプ』 鳥山明の秀逸なデザインセンスに注目していた。後続番組の『ドラゴンボール』も、主人公・孫悟空が成長してピッコロと戦う天下一武道会編までの中国系格闘アクションと奇想天外な冒険譚を気に入り、アニメで毎週観ていた。しかし悟空の正体がサイヤ人と判明、完全なバトル路線になってからは全く見向きもしなくなり、周囲に触れられても無関心になった。
- 『陽だまりの樹』 手塚治虫の青年向け作品の中では、数少ない水木が評価した漫画。
水木は、他の漫画家の作品は直感的に気に入った物しか関心を持たなかった。たとえ自分を崇拝すると公言する漫画家であっても、例えば根本敬は猥雑すぎる絵柄と因果なストーリー展開の作風を嫌い、「ありゃあクソですよ、クソ!」などと受け付けようともしなかった。
相反する水木への評価
水木は「伝承の伝道師」と称えられる一方で「伝承の破壊者」と批判されるという、相反する評価を同時に受けている。
伝承の伝道師
鬼太郎のヒットは、時代の変化に埋もれようとしていた、日本列島各地の妖怪や民間伝承を復活させ、民俗学が学問としての地位を取り戻すきっかけともなった。
そのヒットを支えたのは妖怪に対する念入りなリサーチであり、ネットのない時代、妖怪の情報を収集するには地道なフィールドワークと古書等の文献にあたるしかなく、水木とスタッフや関係者の努力は並々ならぬものだった。
水木は極貧の貸本時代から、妖怪の絵や話や情報を細目にスクラップ収集していたが、資金に余裕ができた後は鳥山石燕が描いた『画図百鬼夜行』の本格的な研究書を入手し、かつてのスクラップと照らし合わせて吟味を重ねた。その成果は後に画集として結実することとなる。
こうした水木の仕事ぶりとその成果は、当時(昭和40~60年代初頭)からすでに、民俗学等を研究する機関・専門家から「伝承の伝道師」として高い評価を受けていた。
伝承の破壊者
- 「鬼太郎」以降、妖怪が”商品”として注目され、子供向けのキャラクターとして消費されるようになってしまったこと
- 水木の作品に触れたものが、水木作品に描かれている姿・特徴こそが、その妖怪のスタンダードだと思い込んでしまう危険があることなどが、しばしばその論点となっている。
- ただし、これは「作中に登場する妖怪は、水木しげるの目を通して再編集されたものである」と言う注意書きを添えずに使い続けた編集・出版社の責任でもある。
いずれにせよ、これらの意見は賛否どちらも、水木しげるという漫画家がその方面に持つ、影響力の大きさを物語っていると言える。
混乱の原因
デザイン面での混乱
- 妖怪の中には、水木が描いたデザインが一般化してしまい、皮肉にも伝承上の姿を駆逐する結果となっているものがある。
- 妖怪のオーソリティとしてのイメージから、水木の創作したオリジナル妖怪が、古来から伝承されている妖怪だと思われている可能性も指摘されている。
- また、水木は妖怪をデザインするとき、世界各地の工芸品や絵画などを元にしていた。この為、デザインの元ネタの産地と、それをもとに生み出された妖怪の出身地が合わないということも珍しくない。熱心なファンは元ネタを探して楽しむ事もあるという。
書籍の編集方針による混乱
- 水木の妖怪画集には、現代の創作妖怪も特に断りなく収録されている。このため、てっきり伝承の存在だと思い込んで作品に使用してしまった不幸な漫画家もいたりする。またその出所も示されていないため、水木の創作なのかと思うとそうではないようだったりと、妖怪研究家たちも振り回される羽目になっている。
- 彼の著書である小学館から刊行された入門百科シリーズの書籍では、バックベアードをはじめフォービ、ズゥーなど、昭和期に創作されたと思しき妖怪が掲載されている。また、ギリシャの神であるパーンはドイツの妖怪、古ヨーロッパの死神ピクラスは植物の妖怪だとされるなど、姿と名前だけを伝説・伝承から借りて改変したものがあるほか、アメミットはデボラーという名前に変えられている。さらに資料の誤記によりシワテテオがシンナテテオとなっている。……などなど、原典との乖離が激しい。
余談
- 子どものころから好奇心旺盛だった水木は「人が海に落ちたらどうなるのか」という興味を抑えきれず、当時3歳の弟を海に突き落したことがある。幸い事なきを得たが、水木は両親からこっぴどくお灸をすえられた。
- 水木をラバウルまで輸送したのは、日露戦争の日本海海戦時に通報艦として海戦の端を発した事で知られる「信濃丸」であった。乗船当時は触ると船体の淵の鉄板が欠け落ちるほど老朽化が進んでおり、水木も含めた兵士の間からは「浮かんでいるのが不思議」などと揶揄されたが、こちらも沈むことなく無事に戦争を生き抜いた。結果的にではあるが、水木は「日本海軍が飛躍する切っ掛けとなった「日本海海戦」において最初に活躍した船」と「日本海軍最後の大規模作戦行動である「坊ノ岬沖海戦」を生き延び日本海軍の終焉を見届けた艦」の両方に乗船経験を持つ人物となった。
- 神戸市で水木壮の経営を始めた昭和26年から、東京で水木プロダクションを立ち上げるまでの昭和41年までの15年間、水木はコツコツと家計簿を付けていた。仕事の報酬額から、細かな物価までが記されたこの家計簿は、後に『ゲゲゲの家計簿』(上下巻)という作品を生んでいる。武良家の歴史でもあり、また当時の一般庶民の生活を知る一級の資料として読むこともできる名著となった。
- 水木は建築にも特別な興味を抱いていた。『東西奇ッ怪紳士録』では、案内役の”説明猫”に「巣を工夫すれば人生はもっと面白くなるはずだ」と語らせ、かつて実在した奇妙な建築物の物語を披露している。実際にも西宮の住宅が手狭になってきたときには自ら図面を引き、材木を購入して改築を行った。また、鬼太郎のヒットで懐が豊かになると、プロダクションの設立で増築が必要と言う口実ができたこともあり、フリーダムな設計を行って調布の家を迷路屋敷にしてしまった。
- 貧しかった貸本漫画家時代、水木が金のかからない趣味としていたものの一つが「墓巡り」である。近所に多磨霊園があったため、健康維持もかねて中古の自転車で乗り込んでいた。巨大な「墓の街」の中を、子供時代の”冒険ごっこ”のような気持ちで散策するのが好きだったという。
- メジャーデビューを果たすまで、日々の生活費の悩みが常に付きまとっていたため、水木は仕事の報酬について非常に鋭い感覚を持つことになった。京極夏彦から小説家としての収入を聞いたときには、その場で素早く計算を行い「あんた、そりゃ会社勤めするより少しだけいいです」と告げ、京極を驚かせたという。
- 睡眠欲が強く、貧窮期や多忙期でも1日10時間は睡眠時間をとっていたと言う。曰く「睡眠力はすべての源」。徹夜を続けていた手塚治虫や石ノ森章太郎に説教したこともあり「結局あの2人は早死してしまったんだなぁ」とエッセイ漫画に綴っている。
- 水木の乗った復員船は、かの有名な駆逐艦雪風であるが、シン・ゴジラの身長と当艦の全長は同じである(他の水木とゴジラとの繋がりは大海獣や (おそらく)ガイガンにも見られ、作品としてのゲゲゲの鬼太郎はゴジラと同い年である)。
- 水木の描いた紙芝居は現在所在が不明であり、水木プロにも失敗原稿が数点あるのみで、水木本人も探していた。大阪府立中央図書館の国際児童文学館には、水木が太田三六名義で着色を担当したとされる「猫車」という作品が所蔵されている。
水木作品でよく見られる表現
関連イラスト
水木作品
水木風作品
水木画風にされたキャラ達。
関連タグ
手塚治虫:ライバルとして仲が悪いように言われることもあるが、実際には交流があり、手塚の息子、眞が監督したホラー映画「妖怪天国」の一遍「おでん神社」にも、二人ながら(他の漫画家仲間も一緒に)出演している。
やなせたかし:同世代の漫画家。水木と同じく出征経験(中国戦線)がある。
荒俣宏:何度も個人旅行に出かけたほどの友人。
京極夏彦:弟子を名乗り、水木も認めている。共著も多数。
有里紅良:同人映像作品の制作時に水木(と田の中勇)より直接指導を賜った。そして水木と同じ年に逝去した。
夢来鳥ねむ:有里の相方。有里の同人作品制作に参加(ちなみに猫娘役だったらしい)し、彼女同様に指導を賜る。また夢来鳥(と有里)の代表作である『HAUNTEDじゃんくしょん』は水木の作品群へのリスペクトとオマージュの元に構築・執筆されている。
ドリヤス工場:水木しげる風タッチを得意とする漫画家。
平成狸合戦ぽんぽこ:本作で狸達が化ける百鬼夜行のシーンの監修を行っている。また作中のTV番組内で水木をモチーフとしたコメンテーターが登場し、妖怪(狸達)を擁護する意見を述べている。
島木譲二:同記事を参照。