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概要

第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、別名:WW2)は、1939年9月1日から1945年9月2日にかけて、日本ドイツイタリアなどの枢軸国と、イギリスフランスアメリカソ連中華民国などの連合国によって行われた戦争で、人類史上2度目の世界大戦である。主にヨーロッパアジアアフリカ太平洋の地域に分かれる。

前夜

1918年11月に第一次世界大戦が終結した後、パリ講和会議によって国際社会にヴェルサイユ体制が成立し、敗戦国のドイツは巨額の賠償金支払いに追われて経済は混乱していた。1929年10月にニューヨーク・ウォール街から始まった株価大暴落をきっかけに、各国に大不況・世界恐慌が広まった。この不況への対処は各国様々であった。

イギリスは自国の植民地を囲い込んで自国製品を売り込んだ(ブロック経済)。恐慌の発端となったアメリカはニューディール政策を採って危機を脱しようとした。日本は満州中国への進出を加速させ、自国市場拡大を目指した。フランスは左傾し、親ソ的な人民戦線内閣が成立。最も悲惨だったのはドイツで、一時的に立ち直りかけていた経済は一気に破綻、失業率は40%以上に達し、銀行や有力企業も次々倒産した。ドイツ人の間には絶望と怒りが広がった。ちなみに、共産主義を標榜するソ連では影響がほとんどなかった。

1933年1月にドイツでヒトラーが率いるナチスが政権を獲得した。ヒトラー政権はヴェルサイユ体制に強く反発し、先立って政権を獲得していたイタリアのムッソリーニらとともにファシズムを台頭させた。

1936年にスペインで左派政権とフランコ将軍率いる右派反乱軍とのスペイン内戦が起こると、ドイツは新兵器の実験のためにフランコを支持して介入し、フランコ将軍が政権を掌握し独裁政治を敷いた。このスペイン内戦は第二次大戦の前哨戦と呼ばれた。ドイツは独仏国境ラインラント地域への進駐(1936年)、オーストリア併合(1938年)、ズテーテン(チェコスロバキアの一部)割譲(1938年)など周辺のドイツ人居住地域に勢力拡大を続けた。

日本では二大政党制が行き詰まり、信用を失った政府に代わって軍部が台頭。満州に駐屯する関東軍は1931年に満州事変を起こした。憲法上からも世論からも日本政府にこれを止める力はもはや無く、翌年には関東軍の傀儡である満州国が建国された。こうしたことから、日本は中国はもちろんそこでの権益を狙う米国などと対立。終いには国連を脱退し、国際的孤立を深めた。さらに、1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに、日本と中国は本格的な戦争状態に突入した。

こうした流れの中、日独伊は1937年11月、日独伊防共協定を交わした(枢軸国の成立)。この後、紆余曲折はあったものの1940年9月の日独伊三国軍事同盟に至る。

勃発

1939年9月1日にナチス・ドイツはソ連と共謀してポーランドへ侵攻し、ポーランドと相互防衛条約を結んでいた英仏両国は、9月3日に対独宣戦布告を行う。これが第二次世界大戦の始まりとなった。9月17日にはソ連の赤軍もポーランドに侵攻を開始し、ポーランドの領土がドイツとソ連の間で分割された。この時、ヒトラーは外相リッペンドロップの話を真に受け、ポーランドに侵攻しても英仏は口出ししないだろうと踏んでいたが、予想に反して宣戦布告を受け、英仏方面の制空権・制海権掌握を準備せぬまま、対英仏戦に突入した。

1940年にはドイツはデンマークノルウェーを占領し、フランスも電撃戦を受けてパリを占領された。また、オランダベルギーなどベネルクス三国もドイツに占領。フランスは休戦条約に応じ、フランス北半分をドイツに占領され、南半分はフランス領土として安堵され、ペタン元帥率いるヴィシー政権は親独政権として枢軸国となった。

1940年9月にイタリアが東アフリカ植民地の拡大を企図していて、さらにドイツ政府からは北アフリカ駐留イギリス軍への攻撃を要請されたこともあり、イタリアがエジプトに侵攻したことで北アフリカでの戦闘が勃発(北アフリカ戦線)。

日本は資源確保のため1940年本国占領後のオランダ領東インド自国の勢力圏下に置こうとし、これが失敗すると同じく本国占領後の仏領インドシナを占領し資源確保と対中支援ルート遮断を図った。日本のこのような態度は和平交渉中の米国に不信感を与え、米英中蘭の対日経済制裁「ABCD包囲網」が発動される。そして、1941年12月8日ハル・ノートを受けた日本は真珠湾攻撃を行い、日米開戦。この前後にドイツは米ソとも開戦。こうして、戦火は文字通り世界中に拡大した。

経過

ポーランド侵攻やフランス侵攻などを成功させたドイツは1941年6月22日、ソ連に宣戦布告(独ソ戦)。この年の秋にはレニングラードを包囲、モスクワまで十数キロまで迫る快進撃をなしとげたが、冬の到来により短期決戦を想定していたドイツの目論見は外れ持久戦の様相を呈することになる。対英戦も1940年から続くバトル・オブ・ブリテンで苦戦し、ついに英国を屈服させることはできなかった。独ソ戦は1942年のスターリングラードの戦いを機に形勢が逆転し、西部戦線でも1944年の米英仏のノルマンディー上陸作戦を機に本格的な反攻を受け、米英ソの猛攻で戦局は次第にドイツ劣勢に傾いていく。

イタリアは、大戦当初からドイツと共に快進撃を続けたが、これまた連合国軍の反撃で次第に劣勢に立たされるようになった。そして、1943年にはムッソリーニが失脚。新政権は連合国と停戦し、イタリアは枢軸国で最も早くに戦争から脱落した。

大東亜共栄圏を掲げ、開戦直後は優勢だった日本も、総力戦研究所の予想通り、1942年(昭和17年)のミッドウェー海戦を機にアメリカ軍の圧倒的な物量に押されるようになる。人材・資源が日に日に減っていく中、日本はアッツ・ガダルカナルサイパン硫黄島などにおいて無謀な玉砕戦や特攻を展開するに至った。

終戦

1945年2月に米英ソ三ヵ国によって、戦後処理の内容を話し合うヤルタ会談が開かれた。この時、ドイツを連合国が分割統治することが決められると共に、ソ連の対日参戦が極秘裏に決定した。同年5月にヒトラーが自殺したことでドイツは降伏。

ドイツ降伏後も日本は最後の枢軸国として戦争を継続させていた。しかし、依然として米軍の空襲が続き、米英ソのポツダム会談の後に原爆を二発も落とされ、ソ連も中立条約を破棄して参戦するなど、もはや日本に戦う余力は全く残されていなかった。そして、昭和天皇の御聖断に基づいて終戦を決定され、1945年8月15日に玉音放送がされ、9月2日の降伏文書調印で日本の敗戦が確定。ここに、第二次世界大戦は連合国の勝利で終わりを告げた。

この世界大戦の結果、多大な犠牲者を生み、最低約5千万人から最大約8千万人と言われ、当時の人類人口の2.5%以上に及ぶ。そのうち、武器を持たない一般市民の犠牲は約5500万人と言われている。

意義

目的

第二次世界大戦を起こしたのは枢軸国側であるが、枢軸各国によって戦争目的には共通点と共に違いも存在する。

ドイツは、ドイツ人の生存権を東方に拡大し、中東欧にドイツ人主導の千年帝国を築くことを夢見ていた。リトアニア、ポーランド、チェコの領土を併合してスラヴ人を奴隷化し、その跡地にドイツ人を中心とするアーリア人を入植させるという野望である。事実、ウクライナスロバキアを従属下に置いて食糧を略奪し、飢餓による人口削減を計画的に行った。

日本は不況などを背景とした領土拡大への欲求に加え、日中戦争開始とドイツとの軍事同盟締結で制裁が激化、中国との戦争を続けるのに必要な石油・ゴムなどの戦略物資が不足していた。

この解決策として、東南アジアの英米蘭の植民地を併合し、あるいは勢力下に置く事で、資源獲得を狙うことが主な目的であった。また、多分に後付けの理屈ではあるものの、「大東亜共栄圏」を旗印に「欧米の支配からのアジア解放」を表向きの開戦理由とした。

イタリアの参戦理由は多分に日和見的なもので、国内の経済の行き詰まりを打開するためと、民衆の人気取りのためであった。第二次大戦前に占領したエチオピアアルバニアに加え、北アフリカのイギリスとその衛星国及び植民地を占領してその後釜に座ろうとした。

イギリスは日独による勢力拡大によって脅かされた自国の領土や勢力圏を守るため、これまでの経済や国際秩序を成り立たせた植民地体制を維持しようとした。

ソ連はスターリンによる粛清の影響で政治も経済も疲弊が続いており、そこにドイツの侵攻が起こったため、これを祖国防衛の戦い、すなわち「大祖国戦争」と称した。大戦末期には自国領土と社会主義圏拡大を図って膨張政策に転じ、各国にパルチザンの浸透を図った。

米国は当初中立を保ち、英仏ソ中の支援に徹していたが、日本の真珠湾攻撃を受けて参戦。日本の大東亜共栄圏構想とドイツの東方生存圏構想に対抗するため、この戦争は領土拡大を狙ったものではないとする「大西洋憲章」をイギリスと締結した。

中国では蒋介石中国国民党が対日抵抗戦争のかたわら、毛沢東中国共産党の討伐を続け、一時は共産党を殲滅寸前まで追い込んだ。しかし、第二次大戦開戦に先立つ1937年、蒋介石が拉致監禁される西安事件が起り、日本軍という共通の敵への対抗のために共闘に転じた。

親日的なタイ、ファシズム独裁のスペイン、永世武装中立のスイススウェーデンなどは中立を保った。イランは親独的政治で脱植民地化を図ったが英ソの侵略を受けた。南米各国ではファシズム政治が多かったが、米国の圧力で連合国側に着いた。

軍事面

第一次大戦において科学技術の発達と向上によって兵器が飛躍的に発展したが、この大戦においても大量殺戮が可能な兵器や武器が増えた。

まず航空戦力の威力がそれまで以上に発揮された。しかも、それを先に証明したのが、スペイン内戦に介入したドイツと、中国戦線や真珠湾における日本など枢軸国側であった。日本海軍は航空戦力を最も重視した海軍であったが、緒戦で多くの空母・機体・搭乗員を失い、生産力の脆弱さから航空兵力の再生産ができず、戦争が長引くほど地力に優れる米海軍との格差が広がっていった。

それまで海戦といえば戦艦の大砲で打ち合う艦隊戦法だったが、航空機の発達で空母の建造が急務となった。「大鑑巨砲主義」と呼ばれた戦艦の時代は、日本海軍による英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」の撃沈、米軍による戦艦大和の撃沈により終わりを迎え、戦艦同士による海戦も日米海軍のスリガオ海峡海戦を最後に行われなくなった。

各国で爆撃機による敵国への無差別空襲が行われるようになり、独軍はゲルニカロンドンに、日本軍は重慶に、英軍はベルリンハンブルクに、米軍は東京大阪に爆撃。枢軸軍以上に連合軍による民間人を巻き込んだ大量殺戮が展開された。そして、ロケット開発から始まったミサイル技術が出現し、末期には原子力より生み出された究極の兵器「原子爆弾」が登場し、広島長崎を軍民問わず一瞬にして破壊。それまでの戦法を決定的に変えるものとなった。

戦後

大航海時代以来の帝国主義植民地による西欧の時代の終焉が決定的になった。これにより植民地によって成り立った英仏蘭は戦勝国でありながら経済的には困窮。国際的な影響力を縮小させた。インド・ベトナム・インドネシアなどアジアを筆頭に、アフリカアラブラテンアメリカなどの国々も独立し、これらは国際的発言権を強めるようになる。

衰退した欧州諸国に代わって米ソが影響力を大いに増大させ、アメリカ合衆国を基軸とする西側陣営とソビエト連邦を基軸とする東側陣営の2大陣営による冷戦構造が成立。東欧が共産化したほか、ヤルタ会談の構想になかった中国の共産化が発生。朝鮮は南北に分断され、1950年に朝鮮戦争が勃発。中東ではイスラエル建国によりパレスチナ問題が始まる。

ソ連を始め英仏中も核兵器を保有していき、米ソを中心にした冷戦の時代が始まった。

敗戦国となったドイツは米ソ英仏の4カ国による分割統治を受け、米英仏占領地域は西ドイツ、ソ連占領地域には東ドイツがそれぞれ成立。西ベルリンでは米英仏による占領が1990年のドイツ再統一まで続いた。日本はGHQによる占領統治が1952年まで続いた。日本と西ドイツは米国の庇護のもと、戦前の巨額な軍事費と植民地という二重の負担から解放されたことで経済大国へと成長していった。

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