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永倉新八の編集履歴2013/03/16 13:39:29 版
編集者:Mya
編集内容:余談改訂。「新撰組」の永倉新八に追記。

永倉新八幕末新撰組の幹部として活躍した剣士。初期の壬生浪士組三頭体制では副長助勤を務め、後期の世間に一般的な新撰組としては二番隊隊長を務めた。諡は範之。

  • 生:天保十年四月十一日(西暦1839年5月23日)
  • 没:大正四年(西暦1915年)1月5日

沖田総司近藤勇土方歳三といった新撰組同士が非業の死を遂げる中で明治維新後も生存し、かつその軌跡が明らかになっている稀少な人物で、新撰組の名誉回復に大役を買った。彼の性格をして曰く、

「江戸人らしい物事にこだわらぬ恬淡たる性格のもちぬしで、そうした性格が、あの人を生き残させたんでしょうな」

池波正太郎「聞書永倉新八」)

「気前は江戸ッ児風の人物でした」

子母沢寛「新撰組遺聞」)

 と各文人は語っている。細かい事を気にせず第一印象を大事にして義理人情に篤い好漢であったとされるが、しかし一方でそれでは政治という力学を正面から解す事は難しい、とも付記されてある。明治維新後にも芹沢鴨の粛正を惜しんだり、かと思えば浪士組創始者の清河八郎を先生と呼び続けたりと、その観察は正しい様に思える。

江戸幕府が倒れた後も生存した永倉は生き存えた自らに対して、

「なんらこだわりのなくなった明治、大正の聖代になってからもことごとに気になるものとみえ、つねにいちだんの謹慎を表する心事はとうてい私どもの解しあたわぬ真剣味を持続し、私どもをしてむしろ怪訝の念をいだかしめていたものである」

(「夢のあと」/「新撰組顛末記」)新八長男、義太郎談。

 と長男にいわしめるような自己に厳しい半生を送っている。明治維新後も敗戦の人として慎ましくヒッソリと生きながら、一方で新撰組隊士としての矜持を忘れることなく幕府軍と新撰組の伝道に生きた姿は一見、矛盾していながらも永倉という人物をこの上なく清廉に見せる。

永倉新八、江戸に生まれる

※年月が漢字の場合は旧暦、数字の場合は新暦を示すものとする。

※正確には本姓は「長倉」で、「永倉」は脱藩後の自称であるがこの項目では「永倉」で統一する

永倉新八は松前藩士で江戸定府(松前ではなく江戸に在勤する藩士)、福山藩取次役である長倉勘次の嫡男として生まれた。百五十石取りである武士の子として八歳の頃には既に竹刀を握り、神田猿楽町にて岡田利貞岡田十松)が構える剣道塾、撃剣館に教えを受け、数えで十八歳の頃に神道無念流、本目録を授けられる。

が、永倉は剣技を磨いた自分の実力が如何ほどか実際に試してみたくなり、同期に入門した神道無念流の門弟も、次男三男は特に次の塾へと教示を改めて行った為、嫡男という事で藩邸に留められていた永倉は十九歳の春、堪りかねて藩邸を脱出してしまう。無論ながらこれは脱藩行為であり処罰対象なのであるが、松前藩は剣の道こそ武士の本懐であると、鷹揚に見て目こぼしした。

そうして江戸の本所亀沢町にて百合本昇三が営む神道無念流百合本塾に寄宿する事となった永倉は、四年の歳月を掛けて大いに剣術を研鑽した。二十二の歳には神道無念流の免許を得ているのだが、困った事にそうなると今度は現在の自分の実力が他の国では如何ほどのモノなのか試したくなり、同じく松前藩同門の浪人である市川宇八郎(後の靖兵隊隊長である芳賀宜道)と連んで二十五歳の春、今度こそ江戸から出奔してしまう。此処まで来るといっそ清々しい。

江戸を出て各地で武者修行をしながら渡り歩いた永倉はその年の内に江戸へと舞い戻り、伊庭秀業伊庭軍平伊庭八郎の父)の門弟で坪内道場を構える心形刀流門下の坪内主馬に師範代就任を依頼され、これを受けた永倉は陽が明けてから暮れるまで門弟をしごきつつ、出稽古に出ては名のある剣人と剣を交えまた出先でも門弟をしごき上げ、自然と実戦剣術として名を上げてきた天然理心流近藤勇らとも交友を暖める事となり後、永倉は近藤が道場主である試衛館の食客となる。また、新撰組にて後年に永倉の伍長となる島田魁坪内道場の弟子であり、従って永倉とは師弟の関係にあった。

一方で世情としては嘉永六年(西暦1853年)、黒船ペリーが来日し、初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使のタウンゼント・ハリスが強行に推進した恫喝に近い開国要求を徳川幕府はソックリそのまま呑むという一国の政府としてあるまじき弱腰を晒し、いよいよ以て世間は倒幕だ勤王攘夷だと囂しくなってくる。

そして文久三年(西暦1863年)三月、時の天皇である孝明天皇攘夷の意を鮮明にし将軍徳川家茂上洛を命じ、実に二百二十九年振りとなるこの将軍上洛の途に同行する尽忠報国の士が清河八郎の発案により、板倉勝静の名で徴募された。この浪士組の前身に予てから攘夷の思想を持っていた永倉は天然理心流の面々を誘い浪士組へと参加する事となり、会津藩預かりとなって一路、京都へと上がる事になる。そして清河幕府の命を借りて尊皇倒幕の兵、即ち浪士組を徴募し暗躍していた事が露呈した事から板倉の命で佐々木只三郎によって粛正されると、折から京都在勤にて攘夷運動を行うと申し入れていた十四名は隊名を改めた壬生浪士組にて、局長に芹沢鴨新見錦近藤勇の三名、副長に山南敬助土方歳三の二名を抱き、永倉はその下の副長助勤に任ぜられる事となる。屯所は京都壬生村に置かれた。

文久三年五月に十四名から始まった壬生浪士組の役職一覧は、同年六月の時点で以下の通りになる。

氏名役職派閥合流時点
芹沢鴨局長芹沢派頭領江戸から上洛
新見錦局長(後に副長へと降格)芹沢派江戸から上洛
近藤勇局長近藤派頭領江戸から上洛
山南敬助副長近藤派やや中道江戸から上洛
土方歳三副長近藤派江戸から上洛
沖田総司副長助勤近藤派江戸から上洛
永倉新八副長助勤近藤派やや中道江戸から上洛
原田左之助副長助勤近藤派やや中道江戸から上洛
藤堂平助副長助勤近藤派やや中道江戸から上洛
井上源三郎副長助勤近藤派江戸から上洛
平山五郎副長助勤芹沢派江戸から上洛
野口健司副長助勤芹沢派江戸から上洛
平間重助副長助勤芹沢派江戸から上洛
斉藤一副長助勤近藤派やや中道江戸から上洛
尾形俊太郎副長助勤京都で合流
山崎烝副長助勤京都で合流
谷三十郎副長助勤島田魁の槍術同門京都で合流
松原忠司副長助勤京都で合流
安藤早太郎副長助勤京都で合流
島田魁調役永倉と親しい京都で合流
川島勝司調役京都で合流
林信太郎調役京都で合流
岸島芳太郎勘定方京都で合流
小関弥平勘定方京都で合流
河井耆三郎勘定方京都で合流
酒井兵庫勘定方京都で合流

壬生浪士組の結成

文久三年(西暦1863年)、京都大阪にて続々と佐幕勤王の志士が募りだし俄に治安が悪化し出すと、大阪奉行壬生浪士組に取締方を依頼してくる事となり、壬生浪士組もこれを快諾。永倉も含めた二十名ばかりを選抜すると大阪へと降る。

七月十五日、芹沢の提案で大阪取締の面々は船下りによる涼みに出かけた。参加したメンバーは芹沢鴨山南敬助沖田総司、永倉新八、平山五郎斉藤一島田魁野口健司の八名だが、船着き場で降船した芹沢が現場に居合わせた大阪力士と道を譲る譲らぬから始まった口論で、最終的に脇差による抜き打ちにてこれを殺害するに至る(但しこの頃の大阪武士を何かにつけて蔑視する角界の風潮というものがあり、これは芹沢が仕掛けた喧嘩とも言い難い)。更に同じ様な力士にもう一人、遭遇したが永倉らはこれを殴り捨て、一方で船下りの途中、体調を崩した斉藤を介抱する為に遊郭、住吉屋に登楼していると夜、俄に下が騒がしくなった。昼間の一件を知った力士六十名が八角棒を持ち怒りに任せて報復に来たのである。体調を崩した斉藤を慮り一同は決戦を覚悟すると、真っ先に豪放磊落な芹沢が血の気に逸って脇差片手に身を乗り出し階下へと飛び降りたのに続いて残る六名も飛び降り抜刀。即座に斬り合いになると、永倉も力士一名を切り捨て他の面々も大いに武士の面目を保つ戦い振りにて六十名の力士はたまらず潰走した。恐らくこれが永倉新八に於ける真剣での緒戦という事になるであろうか、永倉の負傷は味方である島田が振った脇差の切っ先が左腕を裂いたのみの軽傷のみであった。

壬生浪士組側は何れも軽傷、他方の力士側は六十名中、死者五名、重軽傷者十六名という散々な有様であった。(※筆者註:上記の船着き場にて行われた力士斬り捨ては同じ永倉の記録である浪士文久報国記事、並びに島田魁島田魁日記では「両者を殴り倒した」とされており、新撰組顛末記とで若干の差異が見られる。此処では新撰組顛末記の文章を基に記した)

この顛末の後、芹沢近藤に相談して大阪奉行松平信敏(松平大隅守)に「武士に対して無礼を働いた何者とも知れぬ五、六十名の集団を相手取って斬り合いになった。再び左様な事があれば今度こそ一同で根切りにする」と報告していた所、後に同じく角界の年寄りが惨状を報告して来たが、大阪奉行は「相手は会津藩預かり、京都壬生浪士組である。武士による理不尽の無礼から切り捨てとあれば非があるのは其方である」と沙汰がおり、この一件は壬生浪士組の斬り得という事になった(しかも詫び金まで取った)。

芹沢鴨の殺害、新撰組結成される

文久三年(西暦1863年)八月十八日、公武合体を唱える会津藩は同じくの薩摩藩と組んで、尊皇攘夷思想である長州藩の主立った公家七名を京都から追放するという事件が起きる。これを八月十八日の政変七卿落ち)と呼ぶが、そうして壬生浪士組も下向する長州藩士が狼藉を働かぬよう蛤御門を固め、この功績より松平容保から新撰組の隊名と切り捨て御免の特権を得た。

だがこの頃、片腕であった新見錦が切腹に追いこまれると芹沢はそれより隊の事なぞ一瞥もせず日がな一日、乱暴狼藉をほしいままとして、鬱憤が隊内で爆発寸前となる。朝廷からも行動が目に余ると芹沢の捕縛命令が下されており、そうしてやむなく近藤土方歳三山南敬助藤堂平助沖田総司(※刺客については諸説有り)の四名を刺客に選び芹沢を粛正するのである。文久三年九月十八日夜、芹沢死去(副長助勤で芹沢派の平山五郎もこの折、同時に殺害された。同じく芹沢派の平間重助は辛くも難を逃れ脱走に成功する)。

永倉は芹沢と同門(神道無念流)で芹沢とも親しかった事から刺客から外されたか、事後にその報告を聞く事になる。この時は内々で粛正された事とせず「賊(長州藩士)によって殺害された」と発表された。そうして此処に近藤を頭領とする一頭体制の新撰組が完成する。

池田屋事件にて永倉、最前線を戦い抜く

同じく文久三年、新撰組の名を賜った九月二十五日、永倉は折より泳がせていた長州藩の間者である御倉伊勢武荒木田左馬之助越後三郎松井竜次の四名から暗殺されそうになるも辛くも難を逃れ、翌、二十六日、近藤の許可を得て斉藤一林信太郎の両名を従えて、永倉は先ず御倉伊勢武荒木田左馬之助を殺害する。続く越後三郎松井竜次の二名は取り逃がしたが、同じく長州の間者であった楠小十郎を捕縛の末、原田左之助がこれを殺害した。

そうした大立ち回りを経た文久三年が過ぎ、元号が改まっての元治元年(西暦1864年)、六月の五日に島田魁浅野藤太郎山崎烝川島勝司の四名が長州藩士の潜伏所を強襲し古高俊太郎を捕縛すると、土方がこれを厳しい拷問の末、六月二十日、長州藩士によるクーデターの自白に成功させる。六月の中旬、強風の日を選んで京都に火を放ち、動乱に乗じて京都守護職、京都所司代と佐幕派の中川宮を斬殺し、孝明天皇を長州へと奪って倒幕の倒幕の旗印とするという過激な内容である。

その報せを受けて新撰組は即座に長州藩士の潜伏先である池田屋へと踏み込み、永倉は最前線にて近藤藤堂沖田と共に池田屋に正面から突入すると、池田屋の二階に潜伏していた長州藩士二十余名と交戦する事になる。これが世にいう池田屋事件である。

先述の通り不意を打って新撰組が強襲した池田屋の二階には三十名ばかりの長州藩士で溢れかえっており、窮鼠となった面々は死中に活を求める必死の勢いで剣を抜き新撰組との乱闘になった。藤堂はずれた鉢金を直す瞬間に打ち込まれて眉間を負傷、流血で視界を奪われた窮地を永倉に救われる。藤堂の救援として相対し切り倒した長州藩士で永倉は四名を斬った計算になるが、永倉もこの四名目を切り倒した時点で自身の大刀が折れ、長州藩士が所持していた大刀を分捕って再び応戦した。また、この時点で沖田が持病(肺結核?)を拗らせ戦闘不能となった為、藤堂と共に池田屋の外へと出して新撰組は両名を欠いての戦闘となる。

最終的に新撰組池田屋にて投降した長州藩士八名を捕縛したが、池田屋から帰還する折に、永倉などは敵を切り捨てた返り血と抉られた左手親指の付け根の血で深紅に染まり返って、優に五日を経過してもその鬼神振りを囁かれる程であったという。また、実際に池田屋にて計画されていた八月十八日の政変の巻き返し政権簒奪は長州藩だけでなく他藩の陰謀も様々に荷担されての事象であった事が後の自白から明らかになり、この計画が明るみに出てかつ新撰組が大勝を収めなければ徳川幕府と明治維新の政局は一年、縮まっていただろうと云われた。

禁門の変勃発。永倉、建白書の提出

そうして謀略による政権奪還が水泡に帰し、業を煮やしたか長州藩は遂に有形力を率いての武力行動に出る。宍戸備後益田得右衛門介真木和泉福原越後など長州藩の要職にある面々が京都に藩兵三百名を率いて出陣して来たのである。蛤御門の変禁門の変第一次長州征伐)である。それまでの新撰組の任務としては主に治安維持や逮捕といった警察活動が主であったので、永倉自身も含めて軍事面に於ける新撰組の行動はこれが緒戦となる。対する京都守護職の会津藩は八月十八日の政変で協力関係にあった薩摩藩と連絡を取り、会津藩が二百名の兵を、幕府見回り役が三百名の兵を拠出する。更に新撰組は会津藩の幕下に編入されて遊軍、或いは特殊部隊として活躍する事となる(この時、永倉ら副長助勤以上の役職にある人物は甲冑が用意された)。蛤御門の変にて新撰組は長州藩に破られ掛けた蛤御門を奪還、更に潰走する長州藩を追走するなどの働きを見せ、長州藩の征伐に大役を買う事となる。永倉は腿に銃弾と刀傷を受けているが戦線から脱落することなく最後まで戦い抜いた。

尚、この事変の折、薩摩藩から徴募された侍大勝に西郷吉之助が居たという事実には、後の歴史を知る者として唯々、驚かされるばかりである。最後の徳川将軍である徳川慶喜が「当初から倒幕の姿勢を顕わにしていた長州は許せるが、時勢で掌を返した薩州は許せん」と後に発言しているのはこうした理由がある。

以上の通り新撰組は八面六臂の活躍を見せるが、芹沢暗殺以来から新撰組の主権を恣にしていた近藤の隊士への家来に当たるかのような態度に、次第に隊内でも不満の声が上がるようになってくる。殊に永倉は当初、清河八郎浪士組に合流した意志である公武合体、並びに攘夷思想を重視していた為、現状の新撰組の、まるで幕府近藤の走狗のような政治的立場にも眉をひそめる所であり、このままでは新撰組の存続も怪しいとして会津藩主、松平容保建白書非行五ヶ条)を提出する下りとなる。この建白書提出に同調の動きを見せたのは副長助勤である斉藤原田、そして調役である尾関政一郞島田魁葛山武八郎の計六名で、直々に松平容保に対して、

「右五ヶ条(筆者註:建白書の記載五ヶ条)について近藤が一ヶ条でももうしひらきあいたたば、われわれ六名は切腹してあいはてる。もし近藤のもうしひらきあいたたざるにおいては、すみやかにかれに切腹おおせつけられたく、肥後候(筆者註:松平容保)にしかるべくおとりつぎありたい」

(『新撰組顛末記』P.133より抜粋)

と宣言した。この急を告げる事態は一先ず松平容保の取り成しによって和解となったが、「新撰組に集った面子は組織行動の仕来りとして役職こそ持つものの、一つの思想の元に集った同志であり其処に上下はない」という永倉の考えから次第に近藤との関係は隙間風が吹き込む事となった。また、度重なる激戦を経て隊士不足となった新撰組江戸にて藤堂の仲介で伊東甲子太郎北辰一刀流の面々が合流し、殊に藤堂伊東と謀って近藤を暗殺し新撰組の実権を奪取しようという動きまで出始める。此処に来て新撰組佐幕勤王といった思想の違いなどで割れるのである。

こうして元治元年(西暦1864年)十月二十七日、江戸にて伊東ら五十名の隊士を編入した新撰組は隊の構造を一新せしめる。

氏名役職
近藤勇局長
山南敬助副長
土方歳三副長
伊東甲子太郎参謀
沖田総司一番隊隊長
永倉新八二番隊隊長
斉藤一三番隊隊長
松原忠司四番隊隊長
武田観柳斎五番隊隊長
井上源三郎六番隊隊長
谷三十郎七番隊隊長
藤堂平助八番隊組長
鈴木三樹三郎九番隊組長
原田左之助十番隊隊長

新撰組の太陽、山南敬助切腹。油小路事件

だが、やはり尊皇攘夷の思想を強く持って浪士組に志願した最古参の山南が諸般の理由に耐えかねて遂に脱走する。隊の法規によれば無断脱隊は切腹である為、永倉は沖田によって連行された山南を惜しんで、自らは見ぬ振りをするからと再度の脱走を勧めるものの、その志を篤く受け止めつつ脱走は固辞し、山南は見事に切腹して相果てる。介錯人は同じく沖田であった。元治二年二月二十三日の事である。享年三十三歳。新撰組にあって希有な鷹揚たる太陽の如き人物を失ったこの事件については永倉も堪えたようで、新撰組顛末記では涙ながらに筆を綴っている(同じく永倉の肉筆本である「浪士文久報国記事」では山南の切腹について触れられていない)。

さて、時は前後するが嘉永七年三月三日(西暦1854年3月3日)、日米和親条約によって横浜函館長崎を開港する事が決定し、安政五年六月十九日(西暦1858年7月29日)、不平等通商を定めた日米通商修好条約が締結されるに至って、この決定に際し鎖国攘夷を是とする孝明天皇の勅許無しに幕府が無断で決定を行ったとして朝廷幕府の人事権に介入する事件が起きる(勅許がなかったのは日米通商修好条約)。また先の蛤御門の変にて朝敵となった長州側の責任を追及する幕府の姿勢も第二次長州征伐の幕府軍敗戦で面目を丸潰しにし、徳川幕府の命も最早これまでと西郷隆盛薩摩に帰国して国論を倒幕に固めるのである。慶応二年七月二十日には将軍徳川家茂が薨御、同年十二月二十五日には倒幕の姿勢に控え目であった孝明天皇が相次いで崩御するという時勢も追い打ちをかける。

が、依然として新撰組に名を置く永倉はというと三条橋制札の警備(慶応二年九月十二日、三条制札事件)や長州藩士の取締でやはり白刃の下を潜り抜け、身を粉にして任務に励んだ。その甲斐あってか慶応三年六月十日、新撰組は会津藩預かりから幕府直轄組織へと出世を果たし、晴れて武士の仲間入りを果たすのである(但し永倉に関しては当初から武士の出自ではあった)。

その後、伊東甲子太郎が薩長の密偵になると偽って離脱した折に自らの息が掛かった藤堂平助、実弟である鈴木三樹三郎ら十二名を率いて高台寺へと居を移し近藤勇を暗殺しようと企んだが(「御陵衛士」、或いは「高台寺党」の結成)、これは同行した斉藤一による密告で明るみに出る事となり、逆に伊東大石鍬次郎に殺害される。

日を同じくしたその夜、帰りが遅い伊東の身を心配して尋ねてきた藤堂らも永倉らが殺害する。慶応三年十一月十八日、油小路事件である。永倉自身は藤堂と相対し、しかし予てから近藤より藤堂は有意の士である事から生かしておきたいと云われていた事もあって意図的に包囲を緩め逃がすが、それと知らぬ隊士の三浦常三郎が追ってこれを相打ちの形で殺害してしまった。

そして、新撰組の働きはさておいてそれ以外の政治的動力によって徳川幕府は大政奉還によって日本国主の座から退く。慶応三年十月十四日である。こうなると佐幕派として最前線で法規を無視した強引な切り捨て御免を働いていた新撰組は一転して公権力から追われる身となり、一身に怨嗟の声を受ける事となるのである。去る十一日に於いては屯所を引き払って大阪に降るよう命令が下り、永倉も身動きできぬ状況の中で、永倉と誼を通じていた島原遊郭、亀屋の芸妓である小常が永倉の長女であるお磯を出産するも、産後の肥立ちが悪く落命。永倉はこれを大変、不憫に思うが政治の大局にあって動静がつかず葬儀には参加できないまま埋葬の手当金を渡し、小常を松川通りの新勝寺に埋葬させる。が、乳母、岡田貞子が機転を利かし生後間もないお磯を担いで永倉に面会を申し出てきたので、晴れて永倉親子は邂逅を果たした。

永倉は貞子に対して五十両の金を渡し江戸、松前藩藩邸の従兄に当たる永倉嘉一郎を頼るよう申しつけている。この折、今生の別れになるだろうと、と呼ばれた永倉も涙を隠せなかったと云うが、激動の幕末を生き抜いた永倉は明治二十年、京都にて女優となっていた長女、尾上小亀と再会を果たすのは後の話である(後年、動乱を生き延びた永倉が永倉嘉一郎お磯の事を尋ねると存ぜぬという回答が出た為、手渡した五十両を着服してお磯は売られたのだろうと予想されている)。

慶応三年も四日ばかりで間もなく暮れるという年の瀬、とぐろを巻いていた怨念の頂点にある新撰組局長である近藤が元御陵衛士阿部十郎佐原太郎内海次郎らに鉄砲にて襲撃され右肩を負傷する。以後、近藤大阪城二の丸で傷の養生に専念し、局長不在の間は副長である土方が指揮を任される事になった。また、この頃には一番隊隊長の沖田も持病の肺結核が悪化し大阪へと搬送されており、従って本来であれば副長の筈の土方が隊長代行に就任し、自動的に二番隊隊長の永倉が副長代行を勤めるに至っている。

鳥羽伏見の戦い

明けて慶応四年(明治元年、西暦1868年)、正月祝いとの酒樽を開いて居た所、伏見幕府陣屋を見下ろす事が出来る御香宮神社麓に薩摩藩兵が大砲を四門、引き上げ砲撃を開始した。鳥羽・伏見の戦いの開幕である。この砲撃によって誠に迷惑な事ながら京都伏見にある目立った幕府関連の建築物は全て狙い撃ちにされ、霰玉に焼夷弾にと玉も種類に事欠かず、最早猶予無しと土方は応戦の命令を下し、新撰組も自らが所持する一門の砲で応戦しながら永倉が率いる二番隊は決死隊として山の麓に陣取る敵陣へと切り込む事になる。永倉は直ちに伍長島田魁伊東鉄五郎に命じて軍勢を整えるとすぐさま突撃し、薩摩藩兵は三町ばかり追い立てられて後退した。しかし薩摩藩兵は撤退間際、火を放ったのでやむなく永倉らは撤退する。

尚、この折に重い武装を纒い火に迫られ、塀まで追い詰められた永倉を、怪力の島田が難なく引き上げて塀の上へ登らせたというエピソードがある。

結局、野戦でこそ勝勢にあるものの依然として砲撃の手は休められず全体として敗戦色が強い新撰組と会津藩兵はへと撤退した。そして鳥羽・伏見の戦い本戦にて新撰組は淀堤、千本松に居陣する。これには薩摩藩兵が対陣し鉄砲にて砲撃を加えるが、対する新撰組鉄砲の数が足りずまたもや永倉以下、甲冑を脱ぎ身軽となった状態で抜刀して決死隊を決行、薩摩藩兵に斬り込みを掛ける(淀千両松の戦い)。しかし長い距離を追撃すれば後方と連絡を絶たれる恐れがある新撰組は距離を取って常に砲撃を続ける薩摩藩兵に対して次第に劣勢となり、淀城にも入城を断られた事から幕府軍は大阪へと撤退。

無事、大阪に撤退が完了すると新撰組は副長土方が五十名を率いて橋本宿を固め、永倉は斉藤と同じく二十名を伴って八幡山に着陣する。が、坂本宿は早々と新政府軍の手に落ち土方は撤退、連絡がつかぬ永倉と斉藤の隊は撤退が遅れ八幡山から敵中突破に等しい撤退戦を繰り広げる事になるのである(橋本の戦い)。永倉、斉藤土方大阪城にて再会を果たすが、再度の戦端は開かれず初めから隠居の身を決めていた徳川慶喜が主な幕臣をあれやこれやと口八丁で纏め上げ軍艦富士山丸順動丸にて離脱、戦線を放棄し一路、江戸へと出向してしまう。一月十日の事である。

敗戦色が強くなった上に薩摩藩陣地に燦然と錦の旗が翻ったことで幕府軍の士気も地へと落ち、こうなると新撰組も大将不在のままで大阪に駐留する訳にはいかず、やむなく富士山丸順動丸に同乗して東下する事となり、こうして鳥羽・伏見の戦いは幕府軍の敗戦という形で幕を閉じる。尚、鳥羽・伏見の戦い緒戦から淀千両松の戦い橋本の戦いにて六番隊隊長、井上源三郎や永倉自らの伍長である伊東鉄五郎ら隊士十四名が戦死している。

新撰組、江戸に東下し甲府鎮撫隊へ

徳川慶喜に随行して江戸に戻った新撰組は暫しの暇を与えられ、永倉ら隊士一同も深川の品川楼で豪遊に耽るが、ふと静寂を求める気分になって品川楼から出でて小径をぶらついていると三人連れのと行き当たり、永倉は酔っていたので「これは失礼仕った」と頭を下げそのまま通り過ぎようとしたが、相手方が「失礼で済むか!」と食って掛かったものだから永倉も「なにをっ」とに手を股立ちになり掛け応じると、相手はそのまま歩き去っていく。そうして永倉もから手を離し何事もなくぶらぶらとしていると先程、通り過ぎた筈の奴輩が抜刀して油断した永倉の背から大上段で斬りかかってくるのを、(恐らくは品川楼の)若い衆が気が付き「や、旦那様!?」と叫んだので永倉は後ろも振り返らず抜刀して相手の刀を半身で受け止め流すと、返す刃で相手の横面を斬り込み絶命させた。永倉は目の下を浅く切ったのみで、残りも来いと叫んでみれば残された二人のは肝を潰してそのまま遁走する。

永倉は気にすることなく洲本品川楼に戻ると隊士一同が永倉の目の下にある傷を目に止め、永倉が事の経緯を説明すると土方から「かるい身体でござらぬ。自重さっしゃい」と一言の叱責を受けるに至った。

さてその頃の日本の政情はと云うと尾張徳川家が勤王として当初から立場を鮮明としていた為、薩長土の倒幕隊が早くも陸路にて東海道江戸に向けて出立していた。この時、フランス幕府に対して同情的で、対してイギリスは薩長を後援するという体勢を取っていた為、長く外国の干渉を受けると後の新政府成立後、要らぬ茶々が入りかねないと新政府軍の西郷隆盛と幕府軍の勝海舟が内々で示し合わせて可能な限り外国の干渉を除外した上での早期の江戸城無血開城を試みていた。そしてその頃の新撰組と云えば、甲府城を奪還した上で徳川慶喜を其方に移すという案を近藤が提出し、幕府側は賛成の意を表明し新撰組に対して隊士の補充、並びに軍備と軍資金の下付を行うが、その実は江戸の無血開城に向けてその意向に対して相反する断固とした抗戦思想を持った近藤の、体の良い厄介払いであった。

そうして永倉を含めた新撰組は新たに甲府鎮撫隊という役目と名を持って明治元年三月一日、甲州街道を進んだが、新政府軍の進軍は新撰組のそれを優に上回っており、甲府城は戦わずして新政府軍の手に落ちる事となる。小さな衝突として甲州勝沼の戦いがあったが、この戦いは新撰組側の脱走兵が後を絶たず、幕府旗本が来援するという虚報で脱走者を食い止めるも勝敗は火を見るより明らかであった。

更にこの甲府への進軍に自軍への虚報でもって隊士を欺いた事が知れ、斥候に出た永倉が帰参した時には兵糧すら十分でなかった事から他の隊士は既に陣払いの末、自らの判断で小仏峠の方角へ撤退していた。永倉と原田は大いに驚き即座に馬を駆ってようやっと吉野宿にて撤退した隊士に追い付き説得を試みたがこれが上手く行かない。更に局長の近藤が追い付くが、この頃には信望が地に堕ちていた近藤の言に耳を傾ける人間は一人として居らず、永倉と原田八王子まで出向き説得に尽力するが一同は新撰組への復帰の意志が皆無で、会津藩に身を預け徳川の為に奉公しようというので、では最後にその旨と改めた暇乞いを近藤に告げるよう説得し、遂に近藤も首を縦に振り、隊士の扱いは永倉と原田に任せた上で江戸にて合流する事で解散するのである。

永倉は自らの筆をしてこの甲府での一連の動静を以て「新撰組の瓦解」と表現している。

近藤勇の信望、地に着き新撰組瓦解。靖兵隊の旗揚げへ

前述、近藤江戸にて落ち合うと定めたものの、待てども近藤は現れず、隊士も新撰組を見限って三々五々に散り散りとなり、最後に残ったのは永倉、原田島田魁矢田賢之助など十名ばかりであったという。これらの残党は会津藩に投じようと決議し、永倉の発案で松本良順から三百両の軍資金を借り入れ、この資金でもって近藤も含めた新撰組隊員を今一度、招集して集団で会津に向かう事となった。

かくして永倉の説得は功を奏し、新集団を結成して会津へと向かう段になって今度は近藤が合流に対して首を縦に振らない。それどころか「我カ家来ニ相成ルナラ同志イタスヘク左様ナケレハゼヒナク断リ申」という始末である。

結局、近藤会津への合流を突っぱねるばかりで説得に赴いた永倉らとは遂に物別れとなり、一方で近藤土方に励まされて再度の決起を思い立ち「大久保大和」の偽名を使用して流山にて脱走した幕府兵を糾合するも、官軍に加わっていた伊東甲子太郎一派の残党である加納鵰雄によって偽名である事を看破されてしまい、最終的には新政府軍へと投降する事となる。が、しかし慶応四年四月二十五日、長州藩士を数多く斬った怨嗟を受けてか早々に板橋にて斬首される。以後、この時に流山で徴募した人員を率いて新撰組土方を部隊長と抱く部隊となるが、土方は最後まで自身を「副長」と称し貫いた。

一方、近藤と決別した永倉は期する所あって深川冬木町の弁天社内に居住する剣士、芳賀宜道を訪ねる。彼こそは永倉が若かりし頃、共に諸国を巡って剣術の研鑽に励んだ市川宇八郎であり、市川は強烈な攘夷論者で藩論とソリが合わず暇を出され、芳賀家の養子になっていたのである。永倉は再び芳賀宜道と一隊を築き会津を枕に戦死を遂げようと、靖兵隊を成立する。靖兵隊には永倉と共に新撰組を脱退した原田左之助林信太郎前野五郎中条常八郎松本喜三郎矢田賢之助らが合流し、其処に諸藩の脱走兵や旗本など百名ばかりがたちどころに集い、再び一つの組織として動き出すに足る人員が揃うのである。

氏名靖兵隊での役職
芳賀宜道隊長
永倉新八副長
原田左之助副長
矢田賢之助仕官取締
林信太郎歩兵取締
前野五郎歩兵取締
中条常八郎歩兵取締
松本喜三郎歩兵取締

靖兵隊、戊辰戦争に参戦

慶応四年四月一日、遂に江戸城が無血開城すると靖兵隊もその前日、会津へと奔走するが、原田だけは妻子への愛着に翻意し職を辞した上で江戸へと帰参。彰義隊に参加した上で、上野にて戦死する(※但し生存説有り)。

永倉が属する靖兵隊は岩井宿を経て室宿へと進み、小山で新政府軍を破り鹿沼宿に到着する。其処で幕府兵を率いる大鳥圭介土方とその麾下の新撰組はこの時、大鳥の幕内にあった。故に此処で靖兵隊新撰組と共闘している)、並びに会津藩兵を率いる秋月悌次郎と合流し宇都宮を攻めた。(戊辰戦争宇都宮の戦い)。此処でも永倉は鳥羽・伏見の戦いの如く抜刀隊の先頭に立って塀を乗り越え敵陣へと斬り込むと、宇都宮城の城兵は総崩れとなって壬生へと撤退するに至る。

宇都宮城から撤退した新政府軍は壬生にて土佐藩の藩兵と合流して体勢を整え、逆に宇都宮を得た幕府軍は宇都宮より出でて幕田ヶ原に着陣した。矢田賢之助の斥候で情報を得つつ四月二十四日、折からの雨をついて幕府軍は壬生城を攻めるが、幕府軍は弾薬を湿らせて鉄砲が使い物にならず、そう来ると永倉は十八番の抜刀隊を結成してまたも先頭に立ち敵の銃弾をかいくぐって攻め入る。しかし今度の新政府軍は兵力も勝り士気も高く、兵数で以て周到に戦を仕掛け圧迫してきた為、劣勢に陥った幕府軍は幕田ヶ原を放棄して宇都宮城に撤退したが、此処でも堪えきれず宇都宮を破棄。日光街道を走って今市宿に寄りて負傷者を手当てすると(重傷者が存外と多かったが永倉は此処でも軽傷であった)、早急に会津の城内へと入った。

会津に入った靖兵隊は幕府軍の直轄組織として扱われ、永倉は日光街道の茶臼山に陣取った新政府軍を追い払うよう命を受けると、間道から忍び寄り抜刀して新政府軍へと斬り込み、逃げる兵士は随伴した臨時徴募の漁師五十名に狙撃させるという戦法を採って緒戦で勝利を収める(壬生の戦い)。

そうして戦機は熟し慶応四年四月二十一日、遂に新政府軍と幕府軍が正面衝突と相成る。永倉は靖兵隊を率いて今川宿の新政府軍を攻めたが、敵の砲火にて新撰組時代からの盟友である矢田賢之助が顔面に銃弾を受けて死亡。永倉は戦友の首を取られまいと銃弾が飛び交う中を這って矢田の首を切り取り、その首を抱きかかえながら指揮をとったが、その日は勝敗がつかず日暮れと共に戦闘は終了。精兵揃いの靖兵隊もこの日の戦闘で戦死者二十名、負傷者三十名を数えるまでに至った。永倉は隊を纏め上げ引き上げると高徳宿まで撤退し、戦友の亡骸を高徳寺に埋葬した。

また、散発的な戦闘でも永倉は胸壁(防塁)に潜伏した上で大刀にて兵に登った新幕府軍の兵士を刺し殺し、慌てて撤退する小隊を靖兵隊の隊士と共に抜刀して鬼怒川まで追い上げ多数を溺死させるなど、全く以て明治の世に一本による大活躍を成し遂げている。

四月二十一日、幕府軍総督の命により即刻、日光東照宮を新政府軍から奪還せよと命令が靖兵隊に下り、この命に対して永倉と芳賀宜道は、靖兵隊は主力として残し指揮を林信太郎前野五郎の両名に託して、日光東照宮奪還は会津藩兵を借りて行う事とする。そして両名は会津若松城下に入り一泊すると翌朝、新政府軍の砲声にて新政府軍が既に会津若松城下へと迫っている事を知る。城下は既に大混乱で会津若松城の兵備も厳重に固められて出入り不可能になっていた為、両名は原隊へと踵を返す事となった。

高徳宿に引き返す途上、永倉らは幕府軍の総督らと偶然、落ち合い此処で雲居龍雄に、共に米沢藩へと赴き救援の兵を挙げてそれを指揮して欲しいと嘆願され、永倉ら両名もこれを快諾して雲居龍雄を含めた三名は一路、白石路を走って米沢へと急ぐ。

米沢藩の関所では厳しい警備が敷かれていたが、関所を警備している鉄砲隊の中に新撰組で共に戦線を駆け抜けた近藤芳助を発見し、共に同行したいという近藤芳助も加えて四名で米原藩に到着する。しかし、米原では佐幕派と勤王派が甲論乙駁を未だに繰り返しており一向に藩論が纏まらず徒に日々を過ごし、同年九月に会津若松城は遂に落城するのである。

これによって永倉、芳賀は最早、米原に留まる意義はないと、雲居から百石取りで上杉家に仕官の伝手を造るという話を丁重に断って、町人百姓などに化けて苦労の末、失意の元に江戸へと帰参する事になった。

尚、永倉らが残した靖兵隊は一部を除き近藤隼雄が率いる新遊撃隊に編入されて十月一日、水戸城を攻める弘道館戦争に従軍するが一日で敗退。敗走先の銚子にて高崎藩に降伏してその役割を終えている。

永倉、江戸に帰還し松前藩に帰順

その後、芳賀宜道は江戸にて妻の実兄で官軍の脱走兵取締を行っていた藤野亦八郎と酒の末に口論となり切り捨てられ、遺体は菰に巻かれた上で川に投げ捨てられるという憂き目に遭い、実の兄ながらこれは余りの所業であるとの妻の懇願で、芳賀の仇討ちに肩入れするも身の危険を感じた藤野函館への転勤を願い出て、この赴任の途中に病没したので仇討ちは沙汰止みとなった。

とまれ、永倉も江戸で身分を偽って潜伏するには気苦労絶えず危険も多いと十分に悟り、実家である松前藩への帰参を願い出て、明治二年二月、松前崇広の家老である下国東七郎の計らいでこれが聞き入れられ、百五十石で歩兵のフランス式練兵を担当する事になった。永倉新八が生まれた長倉家は新八の大叔母である長倉勘子が第十二代松前藩藩主、松前資広の愛妾として正妻に次ぐ寵愛を受けており、その伝手から長倉一族は松前藩で大きな発言力を持っていた為、奥羽列藩同盟から脱し勤王派として働いた松前藩にすんなりと佐幕派筆頭の新撰組二番隊隊長が帰参できる運びとなったのである。

だが永倉が休養で江戸をふらついていると両国橋にて伊東甲子太郎の実弟である鈴木三樹三郎と運悪く出逢い、その場でこそ剣の腕はさほどでもない伊東三樹三郎は永倉に適わぬと思ってか何事もなく別れたものの、その日以来、永倉の身辺をつけ回す人間が現れ、そしてある日、同じく過激な言論から藩内で孤立し、単独で江戸に潜伏していた雲居龍雄が斬首の上で梟首に処されていると聞き連れそれを見て、いよ以て幕府の命運は尽きたと血涙を流し、鈴木三樹三郎の一件から藩に迷惑を掛ける訳にはいかぬと暇乞いを願い出る(尚、雲居龍雄の斬首を担当したのは「首切り浅」と有名な山田浅右衛門であった。当時、十七歳であったという証言から第九代、山田吉亮と思われる)。

が、それを聞いた松前藩は永倉に同情的な姿勢を示し、下国東七郎が松前藩の藩医である杉村松柏が婿養子を一人、欲しているという斡旋を仲介する。鈴木三樹三郎杉村がいる函館までは流石に追えぬだろうという配慮を永倉は有り難く頂戴し、杉村家への婿入りを決めるのである。

永倉新八、杉村家の婿養子に

明治三年3月、永倉は江戸(当時は既に東京)を出て杉村の養子、杉村新八(治備)となり、4月1日からはフランス伝習隊の調練を担当(箱館戦争は明治二年5月18日に終戦している)。明治八年には杉村家の家督を継いで名を杉村義衛(よしえ)と改め、明治十五年10月に樺戸監獄の看守剣術師範に招聘され同十九年まで当職を勤め上げた後に辞職。同年に上京の途上、函館にて戦死した土方歳三伊庭八郎の剣友を弔い、米沢では雲居龍雄の妻女を訪ね、上京してからは牛込に居を構え剣道場を開いて剣術指導に励んだ。日清戦争勃発時には元会津藩士であった山川浩陸軍少将の伝手から抜刀隊に志願するも山川少将の高齢を慮ってか、少将の志願と共に立ち消えとなった。

明治の世になってからは過去の事を語る事も殆ど無くなり、友と呼べるような存在も持たず密やかに暮らしたという。かと思えば島田魁によると彼が明治二十年秋、西本願寺の警備夜勤中にヒョッコリと訪ねてきたとも云い、かつて駆け抜けた戦場の模様を来訪したりもしていた模様である。この上京は京都三条河原に晒された近藤勇の首級を探し当てるべくの旅路であったという。明治三十二年になると妻子が小樽にて薬局を営んでいた為、東京での新撰組慰霊碑を建立し終え再度、小樽に転居。以後、小樽にて人生を尽くす。

「新撰組」の永倉新八

数多の戦場を駆け抜けた新撰組の隊長就任者では、斎藤一鈴木三樹三郎と共に幕末を生存して生き抜いた人物であり、晩年には自らの手によって著書「新撰組顛末記」を纏め、新撰組の名誉挽回、並びに現代へと続く人気を築き上げる大役を買う。近藤勇と袂を分かちながらも新撰組を敗軍の一組織に終わらせなかった大の恩人でもあり、自らの手で近藤土方両名を筆頭とした新撰組の慰霊碑を板橋寿徳寺に建立した一途な人間でもある。慰霊碑の建立には東京府へまず上申し、この上申に対して東京府は内務卿の大久保利通へ裁可を仰ぎ、大久保利通から上申が更に太政大臣三条実美へと上がって判断を受け裁可が降りたので、参議大隈重信伊藤弘文の調印が行われるという非常に大変で大がかりなものであった。寿徳寺への墓石建立が明治九年の事である。また、近藤勇土方歳三の生地である多摩にも上記両名の顕彰碑を建立を計画していたが、此方の建立許可が下りた時は明治二十一年にもなっていた。多摩の顕彰碑は日野にある土方家の菩提寺、高幡山金剛寺に建立された。

同時に「新撰組顛末記」と自らの日記である永倉著書の「浪士文久報告記事」は幕末の史料として織田信長に対しての信長公記に比する第一級史料となった。

同じく新撰組から離脱した元隊士である阿部十郎(但し上記の通り阿部十郎伊東甲子太郎と共に御陵衛士として新撰組から離脱している為、永倉とは敵同士という事になる)の言では、剣の腕について「一に永倉、二に沖田、三に斎藤の順」としている。敵の目からしてそのようにいわしめるという事は、考えようによっては身内の言よりも信憑性があるのかも知れない。

「沖田総司、是がマア、勇の一番弟子でなかなか能く仕いました。其次は斉藤一と申します。それから是は派が違いますけれども、永倉新八と云う者が居りました。此者は沖田よりはチト稽古が進んでいました」

『史談会速記録』より抜粋。安部隆明(阿部十郎)談

自らをして「自分に剣以外の才能はない」「竹刀の音を聞かないと朝食が喉を通らない」と明治開国後も各地で剣術指導に励んだ。一方で数多の死線を潜り抜けた新撰組二番隊隊長の猛者ながら、

イザ、真剣をぬき払って、さあ、どっこい互いに向かい合った。三尺の間合い、そんなもの、実際に正確な間隔なぞ取れっこないさ。両人ともスッカリ逆上(あがっ)ているからな。三尺の間合いを取ったつもりでも、外目(よそめ)からみれば実は六尺以上も離れてにらみ合ったまま……なに、偉そうなことを申したって、実際はみんなビクビクしているんだ、命のヤリトリだからな……

栗賀大介『北海道歴史散歩』より抜粋。杉村義郎

真剣を取って向かい合った命の取り合いに対してあっけらかんと吐露しているのが如何にも江戸人らしく心地よい。

現在も続く天然理心流道場は第四代に近藤勇が就任し第五代には近藤勇の甥である近藤勇五郎が継承しているが、その後継である六代目、内藤忠政はどうしても天然理心流の剣が知りたいと永倉に指導を頼んでいた事実が七代目、瀧口鉄生の口から判明している。靖兵隊となって剣より銃の戦闘が多くなっても剣一筋で戦い抜いたある意味で不器用な、江戸人らしい性格が見て取れる。

また大正二年、東北帝国大学農科大学(現北海道大学)の剣道部部員が永倉の話を聞きつれ指導を依頼したが、御年七十五を数える永倉の高齢を慮って固辞を薦めた家族に対して「型を教えるだけだから」と出向いた所、道場の熱気に当てられたのかやはり家族の心配通り自ら竹刀を取り、神道無念流を始めとした各流派の型を披露した後、

「さあ、諸君、よく見てください、人を斬るときはこうして斬る」

 と大上段に構えたは良いがそのままひっくり返って逆に身体を痛め、学生に介抱されて帰ってきたという話が残っている。

墓所は北海道小樽市入船町の量徳寺だが現在、一般参拝者の墓参は禁じられている。妻は杉村松柏の娘であるよねで一男一女に恵まれ子孫は現代に名を連ねており、平成十六年には永倉新八、九十回忌の法要が量徳寺にて行われ、永倉新八の孫と曾孫の手にて九十回忌の石碑が除幕された。

余談

・上記の通り永倉を含めた新撰組の面々は悉くの長州藩士を手に掛けており、後に薩長同盟から政権与党へと返り咲いた長州藩士から蛇蝎の如く嫌われた新撰組が今日、この様な評価を受けるというのは全国的にも椿事である。近藤勇流山にて新政府軍に投降(自首)するも早々に斬首刑へと処されたのは、それまで長州藩士を数多く切り捨てて来た為と云われている。

・上記、池田屋事件では多くの長州藩士が死したが、かの有名な坂本龍馬が殉死したのは近江屋事件であり、また永倉の手記である浪士文久報国記事新撰組顛末記でも坂本龍馬についての記載は全く見受けられない(唯一、新撰組顛末記P.34に「(前略)佐々木只三郎はのちに坂本龍馬を斬った男で(後略)」とある)。

 坂本龍馬が暗殺された当初、当然ながら新撰組もその容疑者に挙げられていたが、鳥羽・伏見の戦い終戦後、生き残った大石鍬次郎によって「犯人は京都見廻組今井信郎、高橋某ら四名」という証言をしている。その今井信郎も実行犯については「京都見廻組組頭である佐々木只三郎以下七名である」との自白を行っている。しかも今井信郎坂本龍馬暗殺の罪で服役までしている。

 京都見廻組新撰組と違って正式に会津藩の重役から命令がないと動けない正式な組織である以上、では坂本龍馬の暗殺を誰が命令したのかという点に対しては、佐々木の実兄である会津藩公用方、手代木直右衛門の遺族が纏めた伝記に「直右衛門が誌の数日前に、命令を下したのは京都所司代である桑名公、松平定敬だと語った」とあり、また同じく遺族の依頼で纏められた「佐々木只三郎伝」では、「命令は松平定敬ではなく松平容保から」であるとされている。

 何れにせよ先述の通り京都見廻組は会津要職にある人間の命令でしか動けない規律の取れた組織なので、坂本龍馬の暗殺下手人は京都見廻組、その下令はかなりの会津要職から下されたと見て良いというのが今日の結論である。永倉の佐々木只三郎については的確であった。

池田屋事件にて負った左手親指の傷は中々に深手であったらしく、後年まで左手拇指の動きに支障があったと、永倉の孫である杉村逸郎が語っている。

・慶応三年に近藤勇鉄砲にて襲撃されその療養の為、大阪に下ると新撰組隊長の役割は副長である土方歳三に委ねられるが、土方が所用などで不在の折には副長代行として永倉が土方の任務を担当していた(慶応三年の時点で一番隊隊長である沖田総司は療養の為、新撰組から離脱している)。非行五ヶ条の提出にて近藤との仲は冷え込んでいた永倉ではあるが、新撰組の万人がそうであるように土方とは終始、親しかった様子である。

・永倉の死因は「虫歯を原因とする骨膜炎、敗血症」であり、有名人としては極めて稀な虫歯を起因とした死亡である。歯はよく磨こう。

・勤王派でありながら属していた藩が佐幕派で政争の末、利用された挙げ句に斬首された河上彦斎という存在もあり、佐幕派の筆頭であった永倉が長寿を得た点と対比するだに、げに運命とは残酷なモノかとも思う。

・著書を精査するだに、数多の戦場を潜り抜けた永倉が最も肝を冷やしたのは鳥羽・伏見の戦いの後半戦、橋本宿に陣取った土方歳三の本隊と連絡が切れ斉藤一と共に孤立する中、八幡山からの敵中突破であった様子である。

・何事に対してもがむしゃらな性格をしていた為、「がむしん」という渾名を付けられていた。勝てば官軍の東京近藤勇土方歳三両名からなる新撰組隊士の供養塔を建立するなど、その渾名は如何にもである。

・若い頃は坪内道場の師範代として稽古や出稽古にと頻繁に剣道の面を付けては外してを繰り返していた為、自然と髪が後ろに流れ総髪気味になっていたという。

池田屋事件にて池田屋に先陣を切って斬り込んだ面子の中では唯一の生存者として明治の世を生き抜いた。この永倉とその伍長を勤め、同じく池田屋で奮戦した島田魁が共に生存したのも縁というものであろうか。

・前述の通り蛤御門の変近辺で永倉と西郷隆盛とは面識があったらしく、後の明治三十一年(西暦1896年)、上野にて建立された西郷隆盛像を目にして「本人像とは異なる」と語っている。隆盛夫人の糸子も同様の発言をしているのが興味深い。

・妻であるよねとの間には一男一女をもうけるが、よねとの夫婦仲は決して良くなかったようでよねは独居で札幌に住まい、新八は長男義太郎、並びに長女ゆきとその婿夫婦である岡田伝次(杉村家は兵役忌避による義太郎廃嫡によって再び婿養子を迎えたのである)と同居して小樽に棲まった。

小樽で没した永倉新八の遺骨は東京に分骨され、板橋にある新撰組慰霊碑の脇に墓所がある。

外部リンク

北海道札幌市北区HP

 晩年の永倉が道場で負傷したエピソードを記している。

寿徳寺

 永倉が先頭となって建立した新撰組の供養塔が祀られている。

高幡山金剛寺

 土方歳三の菩提寺。先述の通り「故幕府新選隊士 近藤昌宜・土方義豊碑(殉節両雄之碑)」が建立されている。

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永倉新八の編集履歴2013/03/16 13:39:29 版
編集者:Mya
編集内容:余談改訂。「新撰組」の永倉新八に追記。
永倉新八の編集履歴2013/03/16 13:39:29 版