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概要編集

2022年度大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は平安時代末期から鎌倉時代初期までを舞台として描かれたた政治群像劇である。史実では、承久3年(1221年)に承久の乱が起こるまでは朝廷と鎌倉幕府の勢力は拮抗しており、武家政権が朝廷を監視し行為に介入しはじめるのも承久の乱で朝廷が鎌倉幕府軍に敗れてからである。


平家編集

歴史上最初の武家政権として知られるが、朝廷と共存する道を選ぶがのち藤原摂関家のように朝廷を牛耳るようになり官位も独占した。また平家を巨大勢力たらしめた日宋貿易の利益もあり平家一族は繁栄するがそれはやがて驕りとなり「平家にあらずんば人にあらず」と言うほどになった。このため後白河法皇をはじめとする皇族や藤原氏などの貴族に嫌われ、また自身が貴族化したことで真に武士の世を望んでいた武士たちを失望させた。そして、平家の繁栄につながりをもたないあるいは平家に抑圧された諸国の武家の憎悪を一身に浴び、やがて壇ノ浦の戦いで滅亡の憂き目にあうこととなった。


本作では三代目鎌倉殿・源実朝が大型の唐船を作って宋と交流し、鎌倉から京に政庁を遷す構想を持ったことがかつての平清盛とまったく同じであることが、鎌倉に武家の都をともに作った主君・源頼朝の意思に反することに執権北条義時の絶望と怒りを買い、彼に頼朝の血を引く実朝を公暁に殺害させる動機となった。

平清盛編集

(演:松平健

松平清盛

入道相国・平相国とも呼ばれる朝廷すら意のままに操る程の絶大な権力を持った平家の棟梁。頼朝にとっては父・義朝の仇であり、宿敵である。

頼朝が平家打倒の兵をあげたことに激怒し追討軍を派遣するも、富士川において戦わずして潰走、これを知った清盛は自ら軍勢を率いて出陣しようとするが、直後に謎の熱病(史実ではマラリアとされる)にかかり死去する。ネット上には「文覚と後白河法皇の呪いが天に通じたのでは?」という声もある。

清盛が幼い頼朝を見逃したために平家が滅亡に追いやられたことは、頼朝自身に「敵を滅ぼす時は遺恨を残さぬよう根こそぎ族滅すべし」という「根切り」の理念を決定づけさせ、やがてそれは義時にまで受け継がれていくことになる。

松平はTBS大型時代劇『平清盛』でも清盛を演じ、『草燃える』では本作の主人公である北条義時を演じており、『義経』では弁慶を演じている。また『平清盛』では松山ケンイチが演じたため松ケンからマツケンとネタにされた。また松平は『おんな城主直虎』で武田信義の子孫・信玄を演じている。


平重盛編集

(演:なし)

清盛の長男。第3回までの時点で既に亡くなっているが、本来であれば平家の棟梁となることを期待された人物である。窪田正孝が演じた『平清盛』の時と違い異母弟・宗盛との関係は悪くなく信頼関係もあったこと、兄(重盛)が生きていれば、平家の滅亡もなかっただろうとのことが宗盛自身の口から語られている。


平宗盛編集

(演:小泉孝太郎

清盛の三男。平家の次期棟梁。小泉は『義経』で甥の平資盛を演じている。

父・清盛亡き後、器量のなさを露呈するが、幼帝・安徳天皇と一門の行く末を守るため、必死の思いで源氏の追跡に立ち向かう。

壇ノ浦の戦いで平家が大敗した際には死にきれず、捕虜として鎌倉に連行された。その際には嫡男・清宗のことを案じていたり、頼朝に対する弁明状(のちの腰越状と思われる)を代筆したりと非常に人間臭い側面を見せた。また、長兄の平重盛に関しても言及しており、「兄がいれば平家はこのようなことにはならなかったものを」「(兄弟関係について)互いに心のうちを開いたことはなかったが、互いに信じ合っていた。兄弟とはそのようなものにござる」と語っており、兄弟仲はそれなりに良く(重盛と棟梁の座を巡り争った)石黒英雄が演じた『平清盛』の時の人物像とは対照的である。

鎌倉で宗盛と会った頼朝は「宗盛に恨みはない。(平治の乱で敗れたときには)むしろ助けてもらった恩義があり、できれば助けたい」とも政子に述べているが、「平家打倒の大義がある以上それもできない」とも述べている。

平家物語』で有名な「この世で見たいものはすべて見た。悔いはない」という知盛入水の際の名セリフは、京に連れもどされるおり彼が言っている。

京へ連行され、途中で首を討たれる直前に義経の計らいで清宗と再会。


平知盛編集

(演:岩男海吏)

清盛の四男。後白河法皇から申し出があった源氏との和睦を疑っていたが、時すでに遅く一の谷で大敗を喫する。壇ノ浦で入水。


平清宗編集

(演:島田裕仁)

宗盛の嫡男。壇ノ浦で父と共に捕らえられ、鎌倉に連行される。

頼朝の命により京に連れ戻される途中、父とともに首を討たれる。


平維盛編集

(演:濱正悟

重盛の嫡男。宗盛の甥。

富士川の戦いで鳥の羽ばたく音を敵襲と間違えて敗走する失態を犯してしまう。


二位尼(平時子)編集

(演:大谷恭子)

清盛の妻で宗盛の母。壇ノ浦の戦いで宝剣を抱え安徳帝に先んじて入水。


天皇家編集

後白河法皇編集

(演:西田敏行

清盛とは当初蜜月の仲であったが、後に対立。治承3年(1179年)には清盛によって幽閉されており、幽閉の身でありながらも度々頼朝の夢の中に生霊として現れては彼に(パワハラ紛いの行動も交えて)助けを求めてくる。文治元年(1185年)の平家滅亡後、義経に前例のない検非違使と伊予守を兼任させて兄・頼朝との仲を裂く策謀家としての本領を発揮、「日本一の大天狗」と称される通り、なかなか食えない人物。

平家木曽義仲源義経よりもコントロールがきかない源頼朝が武家の頂点に立ったことをおそれて「平家、義仲、義経、なぜ滅びた」と嘆き、ともに平家打倒の策を練った平知康に「おまえが悪い、下がれ」と怒りの矛先を向ける身勝手さを見せる。

頼朝上洛からしばらくして病に倒れ、建久3年(1192年)、「ワシは朝廷を守りきったぞ…」と呟きながら、後鳥羽天皇にあとを託し崩御した。ある意味、義時に対し強い朝廷不信を植え付けた元凶とも言える。

西田氏は『新・平家物語』(1972年)では本作の主人公である北条義時を演じており、クランクアップの際には「義時から50年」の言葉と過去に出演した大河ドラマの場面写真(※)がプリントされたボードでその偉業が讃えられる形となった。

(※公開されたクランクアップ集から確認だけ出来る範囲でも「鎌倉殿の13人」「新・平家物語」の他に「おんな太閤記」「翔ぶが如く」「八代将軍吉宗」「葵徳川三代」「八重の桜」「西郷どん」の場面写真が使用されている模様)

なお、西田氏は2024年10月17日に亡くなったため、『鎌倉殿』が最後の大河ドラマ出演となった。


丹後局編集

(演:鈴木京香

後白河法皇の愛妾。平清盛によって鳥羽殿に幽閉されている時期から登場。最後まで彼の傍に付き添った。

女性の身でありながら謀略に長けており、後白河法皇に対して謀略の献策もする切れ者。ただし、木曽義仲が都を離れる際には義仲のことを少し可愛そうに思う素振りを見せた。

「平家、なぜ滅びた」と嘆き、ともに平家打倒の策を練った平知康に「おまえが悪い、下がれ」と怒りの矛先を向ける身勝手さを見せた法皇に便乗し、「出ていけ!」とヒステリックに叫んだ。

後白河法皇の亡き後は落飾している。

大姫と北条政子が後鳥羽天皇への入内のため、御所を訪れたときにこれを出迎えるが、都の女として生まれたその瞬間から権力獲得の道具として政争の中で生きてきた丹後局にとって、政子達(及びその背後にいる頼朝)の認識は甘過ぎるにも程があり、二人に対してねちねちと嫌味を言い、「厚かましいにもほどがある!」と散々に貶す。これにより、大姫はショックを受けてしまい、程なくして病死。間接的にではあるが大姫を死に至らしめることとなってしまった(本人はそんなこと知る由もないだろうが…)。

和田合戦後、鎌倉に向かい「3人も子供を失ってつらい。普通の生活の方がいいと思うことすらあります」と本音を吐露した政子を「頼朝殿と夫婦になったのなら、普通の生活を求めてはいけませぬ」と叱咤激励した。史実では実名は高階栄子で元は平業房の妻。治承三年の政変で夫が解官の上、伊豆国に流罪に処されのちに処刑されたため後白河院に近侍した。業房との間には戦国時代の山科言継の祖先である山科教成らの子がいる。北条時政が病死した翌年の1216年に逝去。



以仁王編集

(演:木村昴

後白河法皇の第三皇子。父の法皇を幽閉するなど専横を極める平家を倒すべく、諸国の源氏に「平家追討」の令旨を送り、源頼政を伴って決起した。しかし、清盛に鎮圧され、奈良へ逃亡するも討ち取られる。

演者はダイジェスト版のナレーションも務めているだけでなく、『鎌倉殿の13人』と同時期にアニメ『平家物語』では以仁王と敵対する平知盛を演じている(そして、なぜか、木村自身が演じる以仁王とアニメの平知盛のビジュアルも似ている)。


安徳天皇編集

(演:相澤智咲)

高倉天皇の第一皇子。生母は清盛の娘・平徳子。後白河法皇の孫にして清盛の外孫。後白河院が清盛に押し込められた際、清盛により父・高倉院に代わって皇位に付けられた。壇ノ浦の戦いでは敗北を悟った平家方の手で女官に抱き抱えられて三種の神器もろとも海の底へ消えていった。三種の神器と天皇の奪還を至上命題としていた源義経は目の前で繰り広げられたこの惨劇に愕然とし、畠山重忠和田義盛も戦の手をとめ合掌して冥福を祈った。


後鳥羽上皇編集

(演:尾上凛→尾上松也

後白河法皇の孫で、高倉天皇の第四皇子。安徳天皇の異母弟。『新古今和歌集』の編纂を命じたことでも知られる。平家と安徳帝の都落ちの際、三種の神器が欠けた状態で急遽即位、壇ノ浦の戦い後も剣はついに見つからなかったことで即位の正当性が語られた。また、後白河法皇崩御には朝廷を守り抜くことを法皇に約束した。

27話より尾上松也演じる成長した姿で登場。頼朝急死の一報を聞くや、彼の死が事故死であること、それも御家人たちに言えないほどの事故だったこと、死の四年前に上洛した際に大量に水を飲んでいたことを総合して考え、飲水の病による落馬」が原因とその場で突き止めるなど切れ者ぶりを見せつけた。

また、32話では千幡に名を与えた際に木材の接合部位である「実(さね)」という言葉の意味を含めて「実朝」、と名付けたことから、博識さも見せつけた。それ以外にも刀剣をみずから打つなど武芸に通じ、蹴鞠、ジオラマ、似絵に通じるなど多芸。なお、似絵に関しては身近な人物の肖像には悪気なくデフォルメを加えるためか当人からは顰蹙を買う。

のちに鎌倉幕府に対して承久の乱を引き起こす人物で、頼朝の死後、混乱する鎌倉幕府の内情を探りつつ、あくまでも「鎌倉殿」を自らの忠臣と位置付け、これを統御下に置こうと目論む。しかし牧氏事件において、鎌倉と京との間で両属関係にあった平賀朝雅が自らの思惑とは離れたところで討たれたことで、これを主導した義時の名を初めて意識することとなり・・・。

兼子の「なぜ後鳥羽院が北条義時を嫌うのか」との問いに、慈円が「人が最も恐れるのは自分と似たもの」と答えたことに不快感を示し、抜き身の刀で彼の口を塞ぐ仕草を見せる。

また43回で自身を上皇だと知らなかった時房にタメ口を使われた上肩を小突かれて不快感を露わにするが、蹴鞠で打ち解けており、第46回では実朝亡き後の鎌倉殿選定を蹴鞠の勝負で決めている。

このとき決めた次期鎌倉殿が慈円の兄・九条兼実の曾孫・三寅であり、この人事も慈円の手の内にあることに不快感を見せる。その後慈円を退かせ、藤原秀康と結託して軍備の増強と鎌倉への政治工作に着手。義時を朝敵とする院宣を発し手始めに伊賀光季を滅ぼし「義時の首を差し出せば鎌倉に手出しはしない」と迫る。しかし、これが政子や泰時を始め鎌倉方を奮起させる結果となる。

敗色が濃くなった藤原秀康や三浦胤義らから院が陣頭に立つことを望まれるが、藤原兼子に諌止され彼らを見捨てる。承久の乱に敗北し出家させられた後、隠岐に配流された。その際になぜか隠岐にいた文覚と再会し頭を噛まれていた


ちなみに後鳥羽院を演じる尾上と仲章を演じる生田は高校時代の同級生であり、この奇縁について公式ガイドブックのインタビューで「『鎌倉に行け』と命じてすぐ『はっ』と承諾されたシーンは気持ちよかったですね」と冗談まじりで答えていた。


土御門上皇編集

後鳥羽院の第一皇子。本編未登場。鎌倉に融和的であり承久の乱に全く関与しておらず、幕府も土御門院を罰する意思をもたなかったが、父・後鳥羽院が隠岐に弟・順徳院が佐渡に配流されることが決まったため、みずからの意思で土佐に配流される。後に都へより近い阿波に遷る。後嵯峨天皇の父。


順徳上皇編集

後鳥羽院の第三皇子、仲恭天皇の父。本編未登場。父・後鳥羽院とともに対鎌倉強硬派として乱を主導したため、承久の乱後、佐渡に配流される。子孫に後醍醐天皇後村上天皇などを輩出する。


仲恭天皇編集

順徳院の第三皇子。後鳥羽院の孫。3歳で即位するがわずか3ヶ月で承久の乱が起き乱後、退位させられる。以後は祖父・九条道家の邸で養われたため「九条廃帝」と呼ばれた。後鳥羽院の血を引いていることや反鎌倉勢力に利用されることを危惧した義時から一幡の前例に倣って暗殺を決意させたものの・・・


朝臣編集

九条兼実編集

(演:田中直樹

藤原北家御堂流の公卿で九条流の祖。主に鳥羽上皇期に活躍した藤原忠通の六男。通称は月輪殿、月輪関白。

自身もまた、朝廷の実力者として平家や源氏とまみえていく。

義経に検非違使と伊予守を兼任させる前例のない後白河法皇の命令に不快感をもっており、法皇に対し命令を何度も聞き返して不満を表明する。

後白河法皇の在世中から法皇を見限っており、上洛した頼朝と手を結ぶ。

法皇崩御後もしばらく権勢を奮っていたが、土御門通親の台頭と共に徐々に力を失い政界から引退。実朝の鎌倉殿就任の頃には完全に隠居の身になっていたが、後鳥羽上皇の側近を務める実弟・慈円から鎌倉周辺の情報を聞き「源氏に先はないか...」と見切りをつけ、何があっても都を守り抜くよう彼に言い含めた。第39回時点の相関図からは姿を消しており、作中ではここが最後の出番となった模様。

九条流摂家の祖であり、前々作麒麟がくる小籔千豊が演じた二条晴良の先祖、次々作光る君への主要人物である藤原道長の子孫(昆孫)にあたる。

2012年の『平清盛』では、本作で運慶を演じた相島一之が九条兼実を演じている。


慈円編集

(演:山寺宏一

後鳥羽天皇の側近の1人。九条兼実の同母弟

歴史書「愚管抄」の作者として知られる中世随一の名僧。

千幡(のちの実朝)を征夷大将軍に任命してほしいという文が鎌倉から後鳥羽院の手元にもたらされた際にその場に居合わせ院から「どうするのが良いか?」と尋ねられ、「夢のお告げで、鎌倉の武士は壇ノ浦の戦いで失った宝剣の代わりと出ました。大事にしたほうが良いでしょう(要約)」と答えた。また院が提案した千幡の元服名「実朝」に「よろしいかと」と同意した。

基本的に年長者の貫禄と老獪さを併せ持った優秀な軍師。後鳥羽院がサラサラと書き上げたデフォルメ満載の藤原兼子の似絵を切り裂いた兼子を「大人げない」と笑っていたが、900年後に放映されている国民的アニメに登場する某キャラクター似の自分の似絵にはムッとして、院の面前でくしゃくしゃに丸めてしまった

兼子から「なぜ後鳥羽院が北条義時を嫌うのか」と問われ「人が最も恐れるのは自分と似たもの」と答え、暗に後鳥羽院と義時が似た者同士であることを指摘したため後鳥羽院の逆鱗に触れかけ、刀を鼻先に突きつけられる。その際も悲鳴をあげることなく、「親譲りの大事な鼻にございます」と平然と言い放っているあたり確信犯と思われる。

また、第46話では政子と義時に対して三寅の出自を説明していた。その際に頼朝からの流れを早口で言い切り、さすがの義時も「…もう1度言ってもらえるか」と困惑していた。

余談だが、このセリフは割と長くて複雑であるため一般の人が言うと必ずと言っていいほど嚙みそうなものなのだが、演者の山寺はなんとリハーサルの時から完璧に言い切っていたらしい

更にこれを凄いと思った周囲がふざけて「もう一回」と言っても噛まずに全部成功させたとか。さすが山寺宏一である。

第47話では鎌倉追討の乱を起こそうとする後鳥羽院の意向を知らされなかっただけではなく、真っ向から反対したため、後鳥羽院の不興を買い追放される。


三寅→九条頼経編集

(演:中村龍太郎)

九条道家の三男。兼実の曾孫。のちの鎌倉幕府第4代将軍。源実朝暗殺事件後、源氏の血も継いでいることにより、次期鎌倉殿として3歳で京の都より下向。嫡子は鎌倉幕府第5代将軍の頼嗣。第

2001年の『北条時宗』では成人した姿で登場し義時の曾孫・時頼と対立し失脚(宮騒動)、京に追い返されたところを時頼が派遣した刺客に襲われて嫡子の頼嗣ともども殺害される。ちなみに演者は宇梶剛士である。史実では宮騒動の後に京に送還され、赤痢に罹って38年の生涯を終えている。


九条良経編集

(演:なし)

兼実の嫡子で慈円の甥。三寅の祖父。通称は後京極摂政。慈円による三寅の家系紹介で名前だけ登場。史実では兼実に一年先んじた1206年に逝去。


九条道家編集

(演:なし)

良経の嫡子。三寅の父。慈円による三寅の家系紹介で名前だけ登場。史実では四男・一条実経を偏愛した反面、次男・二条良実を疎んじ子や孫の代で九条家が九条(後九条)・二条・一条に分裂する要因を作っている。


藤原(西園寺)公経編集

(演:なし)

三寅の母方の祖父。通称は大宮大納言。慈円による三寅の家系紹介で名前だけ登場。妻は一条能保と坊門姫の娘・全子で娘の掄子が九条道家に嫁ぐ。また平頼盛(清盛の異母弟)の曾孫でもあり平家の血も引く。姉は藤原定家の後妻のため定家の義弟に当たる。史実では兼子の政敵。なお、三寅が鎌倉へ下向した頃はまだ西園寺を称していない。子孫に後醍醐天皇暗殺未遂事件を起こした西園寺公宗や幕末から戦前に掛けて活躍した西園寺公望がいる。


一条能保編集

(演:なし)

妻は頼朝の同母妹・坊門姫。慈円による三寅の家系紹介で名前だけ登場。史実では頼朝の信任厚く京都守護として義経追捕などに活躍。大姫と同じ1197年に逝去。


一条高能編集

(演:木戸邑弥

能保の嫡子。母は頼朝の同母妹・坊門姫。大姫の婿候補の一人。史実では大姫と父・能保が没した翌年の1198年に早世。のち配下の御家人たちが土御門通親暗殺計画を立てる。異母弟の信能・尊長は承久の乱で後鳥羽上皇方に与して処刑され、別の異母弟の実雅も伊賀の方の娘婿になり伊賀氏の変に加担したとされ流罪、伊賀の方の死後すぐに伊賀一族が許されて御家人に復帰する前、流刑地において変死している。


土御門通親編集

(演:関智一

兼実のライバルである村上源氏の公家。娘を入内させている兼実に対抗して自らも養女を入内させている。頼朝を嫌いながらも贈り物は受け取るという曲者ぶりを発揮する。

後鳥羽院の後見人として権勢を奮い、鎌倉の内情を逐次報告する。そのことにより暗殺計画が持ち上がる。また第28回では後鳥羽院の命により、失脚した梶原景時の引き抜き工作にも関わったと見られるが、この後明確な描写も言及もないまま物語からはフェードアウトしたようで、通親と同様の立ち位置にある慈円が登場した第32話時点では既に故人である模様。史実では1202年(作中時系列では第29話-第30話の間)に急死しており、これを機に後鳥羽院による院政が本格化していくこととなる。

子孫に北畠親房・顕家父子がいる。



藤原兼子編集

(演:シルビア・グラブ)

後鳥羽天皇の乳母で、朝廷随一の権力者となる。通称は卿局、卿三位、卿二位。史実では源範頼の養父だった叔父の藤原範季に養育されている。土御門通親は姉・範子の夫。子がいない実朝の後継問題に際し政子と丁々発止のやりとりを行う。その中で知力に富み、兼子から結構ひどい嫌味を言われても終始堂々とした態度であった政子を気に入り、一緒に酒を飲んだ。

鼻を大きく描かれ、デフォルメ化された後鳥羽院御製の似絵にムッとして、院の面前で破り捨ててしまうなど彼に対して遠慮なく意見できる人物である反面、院の機嫌を損ねていらぬ逆恨みを被らないよう時房と院の蹴鞠対決に介入し引き分けにするなど、配慮のできる人物。承久の乱の際は院自らが戦いに出るようにと提案した朝臣達に対し、毅然とした態度で反対している。史実では乱後に延暦寺と争い所領を没収されたり盗賊に命や財産を狙われるなど辛酸を舐め1229年に没した。


平知康編集

(演:矢柴俊博

後白河法皇の側近。あだ名は鼓判官。幽閉されている法皇のそばに仕えている。平姓を名乗っているものの、清盛らとの血縁関係はごく薄い。

後白河法皇、丹後局とともに平家打倒の策を練り、木曽義仲追放(この場合は、知康に田舎育ちであることをからかわれた義仲が「鼓判官と人に呼ばれたのは、何度も打たれたからか」と言いながら知康をボコボコにしたため、義仲の追放は一種の逆恨みである)や源義経の破滅に関与したことが、むしろ法皇の怒りを買い、「おまえが悪い、下がれ」と叱責され、不興を買ってしまう。

第27回では頼家や配下の若武者たちに蹴鞠の指導を行う指導員として鎌倉に流れ着いたが、頼家がこれからは政務に励む意思を示したことを理由に罷免される(この際、誤って井戸に転落しかけ、頼家・義時・阿野全成らに助けられるというアクシデントが発生した)。

去り際に北条時連と会話し、彼に名を改めるよう進言するその後、時連の蹴った鞠が頭に直撃し、そのことがきっかけで呪詛の人形を発見する。

これが最後の出番であろう・・・と誰もが思っていたところ、第47回でまさかの再登場を果たす。この時は「押松」と名前を変え、みすぼらしい風体ながらも藤原秀康配下の下人として義時追討の院宣を主だった御家人たちに下す役目を仰せつかっていた。実に頼家死去から18年ぶりの鎌倉訪問である。当人は鎌倉のことを気に入ってたらしく、三浦館で膳を振る舞われた際にも「やっぱり鎌倉はいいなあ〜」と呟きながら山盛りのご飯を美味しそうにかきこんでいた。が、その間に院宣が義時らの手に渡ってしまったため、押松こと知康も食事の最中に膳を抱えたまま担ぎ上げられ、捕縛されてしまった。

史実では、比企の乱の勃発する前に帰洛したという記述を最後に記録から名前が消えており、このことから『吾妻鏡』などに名前の残る秀康の従者・押松丸と絡めた上でまさかの再登場となったものと見られる。押松丸については鎌倉にて身柄を押さえられた後、鎌倉側からの宣戦布告の返書や数日分の食糧を持たされて京に送り返されたと伝わる。


源仲章編集

(演:生田斗真

宮廷魔術師

後鳥羽天皇の側近の一人。佐々木秀義同様、宇多源氏の出。比企能員方の御家人が阿野全成の子・頼全を京の都で討ったときは彼らに協力、首を取るところを目の当たりにし顔をしかめる。

三代将軍・実朝の教育係として鎌倉に下向、和歌の名手でもある左大臣・藤原定家を紹介する。

その後も鎌倉と京の間を行き来しており、京都守護職の平賀朝雅に色々と入れ知恵をしていたようだが・・・・・・?

39話で久々に登場し、義時のもとに現れて義時が時政を追放したことへの葛藤に理解を示し、「自分は執権殿の味方です」と宣言する。

40話では後鳥羽上皇の密命を受け………

42話では仲章の行動が鎌倉を揺さぶることを目的とするものと義時に警戒され、尼御台・北条政子、鎌倉殿・源実朝、執権・北条義時の長男・泰時の要請を受けて、朝廷からしかるべきお方を次期鎌倉殿にお迎えするようお願いすると勝ち誇ったように義時、時房兄弟に語ったことで、時房に不快感を感じさせ、義時に鎌倉を乗っ取るために朝廷が仕組んだ謀略であることを悟らせる。その際、義時に「執権殿は伊豆に隠居なさってはいかがか」「その後は、私が執権になってしまおうかな、はははは」と嫌味ったらしい態度を見せ、義時や広元に仲章の粛清を決意させることとなった。

この際、この嫌味ったらしい態度に対して義時だけでなく視聴者も少し腹が立ったようで、ネット上では「こんなに腹立つ生田斗真初めて見た」「みなもとの なんかはらたつ なかあきら かおはいいのに かおはいいのに」とまで言われてしまっている。詳細はこちらから。

44話では朝廷では栄達できないことから朝廷と実朝の力を利用して幕府の実権を握ろうとの野心を義時に吐露、朝廷に指一本触れさせない武士の都を作るためあえて策略をもって有力御家人を粛正してきた義時との対立が決定的になる。その直後、義時はトウを刺客に差し向けるが、仲章自身が囮になり、トウは仲章配下の者に取り押さえられる。

トウを捕らえたことで義時に対する勝利を確信していたが、太刀持役を義時から取り上げたことが災いし、公暁に義時と誤認されて斬られるという無惨な最期を遂げる。最期の瞬間も女性の様に甲高い絶叫を上げた挙句、血反吐を吐きながら「寒い...寒いぞ...寒いんだよおおおお!!」と喚くなどウザさたっぷりながらも、積もり積もったヘイトを払拭せんばかりに(義時や視聴者にとっては)爽快な死に様を晒した。

義時への愉悦と慢侮の為の嫌がらせが、結果的に義時の命を救い、自らは彼の身代わりとなる形で破滅に至ったその皮肉極まる末路に、義村からは「笑えるな」と嘲られ、広元からも「手間が省けた。災難でしたが、自業自得」と揶揄された。


藤原定家編集

(演:なし)

藤原北家御子左流の公卿。都落ち前の平忠度との逸話で知られる藤原俊成の子で「新古今和歌集」編纂を後鳥羽上皇に命じられたことでも知られる。当時の都で最も和歌に精通していたとされる大歌人で作中では台詞のみにてその存在が示されており、文通で実朝の和歌の添削に当たっていた。史実では自身の日記である「明月記」において時政の13回忌における牧の方の振る舞いについて批判している。ちなみに嫡子(三男)・為家の妻は時政と牧の方の孫娘である。

『草燃える』では岡本信人が演じていた。


藤原秀康編集

(演:星哲也)

後鳥羽上皇の側近。

三寅の鎌倉下向を主導した慈円を疎み、後鳥羽院に取り入って彼の追い落としを画策する。

源頼政の孫の頼茂が三寅の将軍就任を不服として謀反を起こした際には、鎮圧を命ぜられた。承久の乱では事実上の総大将として鎌倉勢を率いる泰時に大敗し、後鳥羽院に陣頭に立つことを三浦胤義とともに願い出るが見捨てられる。史実ではのちに捕縛され処刑されている。


藤原国通編集

(演:なし)

平賀朝雅の妻だったきくの再婚相手。承久の乱登場、左近衛中将に就いていたためりくからは「宰相中将殿」と呼ばれていた。きくの母・りくの面倒を見ていた。承久の乱後、彼の屋敷でりく・きくと泰時・時房が再会した。史実では源実朝と源仲章が鶴岡八幡宮公暁に暗殺された時、実朝らに随行していた。また承久の乱後から義時逝去の時期まで二度も生死を彷徨うものの長生きし6代執権・北条長時の時代まで生きる。ちなみに『平清盛』に登場した藤原成親は外祖父・藤原隆季の異母弟に当たる。


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鎌倉殿の13人 平安時代 鎌倉時代 源頼朝 源実朝

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