概要
長らく日本文化の中心だった京都から遠く離れた土地でありながら、角塚古墳(最北の前方後円墳)や平泉の栄華に代表されるように、古くから文化が根付いてきた地域である。しかし、岩手県の多くの地域はその気候的要因により近代まで稲作に不向きな貧困地帯であった。
内陸部は山あいで交通の便が悪いことや、主な重工業が新日本製鉄の釜石製鉄所位しかなく、前述の貧困要素もあり所得水準が全国でも低かったことから「日本のチベット」と揶揄される時代もあった。
沿岸部の三陸地域は太平洋に面した日本有数の豊かな漁場ではあるものの、その独特の地形上の理由(リアス式海岸)や環太平洋地域の地震震源域に接している代償として、巨大津波の襲来及びそれによる大きな被害を幾度も受けてきた歴史がある(三陸沖地震)。
昭和に入って、多くの人々の努力により農法の改良や寒冷な岩手の風土に適した商品作物の栽培がすすみ、農業が栄えるようになった。著名人では宮沢賢治も土壌改良に身を捧げたが目立った効果は見られず、遂には無理がたたって志半ばイーハトーヴォへと旅立ってしまった(改良法自体も手探り同然で、熱意はともかく的外れな行為に注力してしまったとの指摘もある)。
ご存じの通り現在では北海道や青森県、秋田県、山形県などと共に、自給率100%を超える数少ない県の一つである。また東北新幹線や東北自動車道の開通後は次々と製造業が立地するようになり、トヨタ自動車は岩手を愛知に次ぐ日本第二の拠点と位置づけている。交通の拠点となった盛岡市は仙台市に次ぐ東北地方の中心地となって、サービス業もそこそこ隆盛している。