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日本航空123便墜落事故の編集履歴

2024-01-02 21:44:40 バージョン

日本航空123便墜落事故

にほんこうくうひゃくにじゅうさんびんついらくじこ

1985年8月12日に発生した航空事故

単独機事故としては世界最悪かつ航空事故としてはワースト2の犠牲者を出した航空事故(9.11アメリカ同時多発テロを除く)としても知られる。その数は520名。これは搭乗していた乗員・乗客のほぼ全員に相当する。


犠牲者の数そのものもさることながら、その中に多くの著名人やその関係者が含まれていたことも相まって、今でも単に「123便」もしくは「日航機事故」と言えばこの事故を思い浮かべる人が多いほど人々の記憶に強く刻まれた事故である。


この事故は、現在日本の航空会社が起こした最後の死亡事故である。それ以前は3~5年周期で死亡事故が発生していたが、この事故以降死亡事故を起こしていない(事故後30日以内に死亡した者を死者と認定するためカウントされていないが、1997年に起きた日航機乱高下事故で負傷した客室乗務員が20ヶ月昏睡の後死亡した事例がある)。


概要

1985年8月12日、乗員乗客あわせて524名を乗せた東京国際空港羽田空港)18:00発大阪国際空港伊丹空港)行日本航空123便(B747SR-100 JA8119)は、離陸からおよそ12分後、後部圧力隔壁が破損した衝撃で垂直尾翼を失い、油圧系統を全喪失。操縦桿を用いた操縦が不可能な状態へ陥った。

この事態にパイロットはスコーク77緊急事態)を宣言し羽田空港へ戻る事を地上管制へ要請。また通信を傍受していた米軍横田基地も最優先で123便を受け入れる準備を整えた。


爆発音直後、パイロット達は操縦桿で右旋回し羽田空港に戻ろうとしたが徐々に抜ける油圧オイルがパイロットから手段と希望を奪った、しかしエンジン出力を制御することで飛び続けることを可能にした。またダッチロールとフゴイド運動で迷走する機体だったが、フゴイド運動を制御することで墜落を免れているのも事実だった。

異常発生から30分以上迷走を続けた後、群馬県長野県の県境の、後に命名される御巣鷹の尾根にひっくり返るような形で墜落した。墜落時に機体は跡形も無く破壊されたが、機体後部だけは先に脱落して落下したことで衝撃が小さく、火災に巻き込まれることもなかったのでこの部分にいた4名が生存できた。


異常発生から墜落までの機内のやり取りの一部始終コックピットボイスレコーダーが鮮明に記録しており、原則英語でやり取りする航空管制が途中からパイロットの負担軽減を考慮して一部日本語でやり取りされている様子、「パワー上げろ!」「マックスパワー!(エンジン最大出力)」と必死に叫びながら操縦するコックピットクルーのやり取り、墜落直前の断末魔、地面に激突した衝撃音も記録されている。ちなみに当時のコックピットボイスレコーダーは30分ループのエンドレステープを使用していたが、長期運用によってテープが延びており、異常発生から墜落直前までの状況がギリギリ記録されていた。


コックピットクルー

機長:高濱雅己(49歳・運航部門指導教官・海上自衛隊第1期航空学生)

副操縦士:佐々木祐(39歳・機長昇格訓練生)

航空機関士:福田博(46歳・エンジニア部門教官)


通常機長が客室から見て左側の席に座るが、この時は佐々木副操縦士の機長昇格訓練を実施していた為、通常時とは逆に訓練生の佐々木副操縦士が左席に座っていた。一方、高濱機長は客室から見て右側の席に座っていた。


当日の飛行計画

墜落したJA8119は事故発生当日以下のフライトプランをこなす計画だった。

  • 羽田発千歳行き 503便
  • 千歳発羽田行き 504便
  • 羽田発福岡行き 363便
  • 福岡発羽田行き 366便
  • 羽田発伊丹行き 123便
  • (伊丹発羽田行き 130便)当日は欠航

事故の推移

CAP=高濱機長 COP=佐々木副操縦士 F\E=福田航空機関士

時刻音声出来事
18:12123便、羽田空港を離陸
18:24:35CAP:なんか爆発したぞ高度約23,000フィート、機体後部で衝撃音が3回ほど聞こえる。この時機首上げ3度超と後部与圧隔壁・垂直尾翼・油圧配管を破損、補助動力装置(APU)は機体後方に吹っ飛んだ。
18:24:37離陸構成警報もしくは客室高度警報が作動するが3~5回で警報音が消える。
18:24:47COP:スコーク77トランスポンダの緊急信号であるスコーク7700を発信。東京航空交通管制部(以下東京ACC)がこれを受信
18:24:51東京ACC:日本航空123便、確認しますが緊急事態を宣言しますか?ここで緊急事態宣言の再確認が行われ、正式に緊急事態宣言が出される
18:25:04再び離陸警報もしくは客室高度警報が作動、19:47:28まで鳴り続ける
18:27:47F\E:ハイドロプレッシャーオールロス(油圧全喪失)
18:28:31東京ACC:日本航空123便、大島へレーダー誘導のため方位磁090で飛行せよここで機長からBut now uncontrol(しかし現在操縦不能)と返答される。管制はこの時点で123便が初めて操縦不能であることを知る
18:31:15東京ACC:現在位置は名古屋まで72マイル、名古屋に着陸するか?この時機長は羽田に降りることを提案。管制側も了承すると同時に本来なら英語で行われる交信に日本語を許可
18:33:54F\E:オキシジェンマスク(酸素マスク)できたら吸った方がいいと思いますけど航空機関士が酸素マスク着用を提案し機長、副操縦士も同意するが最後まで着用した形跡はなかった
18:45:18米軍横田基地(以下YOK):日本航空123便、横田進入管制所、救護についている。聞こえたら機体識別コード5423を発信せよ交信を傍受していた米軍により横田基地の受け入れが可能であることを通知するが123便はこれを拒否。横田基地は以降も受け入れ体制を維持する
18:53:27東京ACC:日本航空123便、日本航空123便東京ACCが123便を再び呼び出すも操縦不能とのみ返信
18:54:25F\E:えージャパンエアー123リクエストポジション?管制官は「羽田から55マイル北西、熊谷より25マイル西」と返信。現在地を示すラジオ磁気指示計の受信アンテナは垂直尾翼にあるため垂直尾翼が破損した状態では使用できなかった
18:55:16(管制官が横田と羽田が最優先で着陸可能ということに対して)F\E:あい了解しましたこれが123便との最後の無線交信になる
18:56:07CAP:あたま上げろ
18:56:10CAP:パワー
18:56:14GPWS:SINK RATE(降下率に注意)対地接近警報装置(GPWS)作動
18:56:16GPWS:WHOOP WHOOP PULL UP(ウーウー機首を上げろ)墜落までGPWSが鳴り響く
18:56:21CAP?:もう、ダメだもしくはあーダメだ(資料によって解釈は異なる)機長らしき声の断末魔。これがボイスレコーダーに残された最後の肉声。事故調査報告書は判別不能としている(実際聞き取りにくい)
18:56:23最初の衝撃音右主翼と機体後部が地面をかすった、あるいは樹木に接触し、第四エンジンが脱落
18:56:26二度目の衝撃音右主翼が地面を抉るように接触し、全エンジンが脱落。完全にコントロールを失う
18:56:28録音終了機体後部が分離し、先に墜落。ボイスレコーダーは電源が絶たれたことによりここで録音が途絶える
18:56:30日本航空123便墜落

捜索・救助

機影が消えた直後にレーダー監視していた在日米軍が戦闘機をスクランブル発進、自衛隊も災害派遣要請を受ける前に救難ヘリコプターを先行派遣した、正式な要請が来たのは派遣後数時間経ってからだった。

現場上空に最初に現れたのは米軍機だった、火災と黒煙を発見し報告して帰投した。

次に来たのは自衛隊の救難ヘリコプターだったが火災の黒煙と火災で生じる上昇気流で地上へ近づけなかった。

地上では警察と近隣3県から集められた消防士と地元消防団などにおいて救助隊が編成され、第一空挺師団など自衛隊も出動準備を整えたが、日暮れの時間帯であったこと、墜落場所が山岳地帯であったことや当時の機体スペックの限界などが救助隊の行く手を阻み、救助隊第一陣が到着したのは事故発生の翌朝だった。

また現地に認可前のショルダーホンNTTの技術者が持ち込み自衛隊に直談判、超法規的措置により使用可能となった。


現場は爆発の衝撃により周囲が焼け焦げ、見る影も無く破壊された機体の残骸、乗客の遺品、墜落の際の激しい衝撃により激しく損傷した乗員・乗客の遺体が散乱しており、想像を絶する凄惨な状態であったとのことである。

当時救助隊として現場入りした者などの証言では「焼け焦げた木の枝かと思ったら人間の腕だった」「地面の土が人の血でぬかるんでいた」「帰ってからしばらく食事が喉を通らなかった。肉の焦げ目を見るだけでも吐き気がした」という。


しかしこの絶望的状況の中で4人の生存者が発見される。全員が女性で、機体後部にいた為に難を逃れた。


生存者発見後、遺体の収容作業が開始されたが、先述の通り墜落の衝撃と火災で犠牲者の遺体は激しく損傷しており、男女の区別もつかないほどに焼け焦げたもの、手足が断裂してバラバラになったもの、遺体に別の遺体がめり込んでしまったものなど筆舌に尽くし難い凄惨たる状況であったという。事実遺体の判別に従事した看護師「今でもデパートにおいてある首のないマネキンを見ることが出来ない」という。

ただし中には損傷の少ない犠牲者の遺体もあり、これらの方々の多くは機体後部にいた乗客だった(後部席の乗客については墜落直後は多数が生存していたという証言もある)。


DNA鑑定が実用段階になく冷房や保存技術も普及仕切っていなかった当時、遺体の身元確認は困難を極め最終的に4ヶ月もの期間を要した。

懸命に機体をコントロールし、最後まで墜落させまいと努力していた機長は、5本の歯が付いた顎の一部だけが本人のものであると確認された。


遺体安置所になった藤岡市市民体育館は強烈な死臭が漂い、後にクリーニングを実施したものの死臭を除去しきれず、体育館は取り壊されて移転したという。

原因

事故調査報告書に基づいて記述する。

1987年(昭和62年)6月19日、運輸省事故調査委員会により事故調査報告書が公表された。

まず圧力隔壁の不完全な修理をされたパッチ接続部が金属疲労で破断(衝撃音1)、与圧空気が破損部位から流出し補助動力装置を吹き飛ばし(衝撃音2)、次に機体尾部と垂直尾翼が吹き飛んだ(衝撃音3)。この時の油圧配管4系統を破壊した。


この隔壁の破断は、1978年にこの機体が起こした「しりもち事故」後の修理にミスがあったことが原因である。

一部破損の上部隔壁はそのままに新しい下部の隔壁をリベットで止める事になっていたが、一部破損の上部隔壁と新しい下部隔壁の距離が足りず補修用パッチで距離を稼いだ。だが何故か補修用パッチを切断して補修し、本来リベット三列で加わる圧力を分散する構造をたった一列で圧力を受けていた。結果として強度不足で寿命を短くしていた。

当時理由を調べようとしたが、企業及び作業員が国外だったため調べられず真相不明のまま迷宮入りしてしまった。後にテレビ局が追悼特番の取材で、当時の技師に質問したが、「仕様です」としか回答せず無意味だった。


この調査結果を受けて、修理履歴のある機体の点検作業と非破壊検査の徹底化、油圧配管の脆弱性が解消された。

最終的に原因不明になったこととそれへの考察、仮説

  • 1.パイロット達が酸素マスクを使用しなかったこと

事故があったのは高度約23,000フィートは約7,000メートル(エベレスト登山級の高度)、高度順化していない一般人なら数分以内に失神する環境であり、真っ先に使うべき酸素マスクを使わないのは異常である。また後述する客室高度警報と離陸構成警報の表示(警報音ではない)が交互または同時に現れてパイロット達が混乱している可能性もある。

さらに18:25:04から新たな警報が鳴り始めてからも酸素マスクを使わない理由もわからない、尤も低酸素症だったからと言われたら反論できないが。

ただ、「事故の推移」で記したように航空機関士は装着を勧めている。事故調査報告書では、操縦に専念するため後回しにしたと推測されているほか、機長が「なんで騒いでんの?」「ジャパンエア、どこだ」などと唐突に怒鳴っている、上記の着用勧告に対し生返事のみを返したなどの理由で低酸素状態による判断力低下が起こっていた可能性も指摘されている。

  • 2.衝撃音直後の警報音がすぐ止まったこと

生存者の証言に「爆発音の後に白い霧が見えたがすぐに消えた、酸素マスクが出てきて使用した(意訳)」といものがあるので、少なくとも"貨物室での減圧はあった"と思われる。

しかし操縦室では酸素マスクを使用していないことから"減圧を認識していない"と思われる。

また衝撃音直後の「ギアみてギア」という発言から少なくとも降着装置の異常が疑われる。

以上の事から降着装置の異常と機首上げ3度と強いGの発生により脚位置指示器が誤作動し、約1.5秒間だけ"離陸構成警報"が動作したと思われる。

  • 3.18:25:04から警報がなり始めたこと

ダッチロールはしていたが高度23,000フィート前後を概ね水平飛行していたので"客室高度警報"だと思われる、また同時に徐々にフゴイト運動が大きくなる。この警報は高度1万フィートを下回るまでの間連続して鳴動している事になっている。

ただしDFDRは客室高度警報と離陸構成警報は記録範囲外、書き起こしでは警報音を共用している関係か区別もしていない。

  • 4.高度1万フィート未満で警報が動作したこと

フゴイド運動のGで脚位置指示器が誤作動している間だけ"離陸構成警報"が動作していたのなら説明がつく。またフゴイト運動の上昇最高点での数秒間は警報が止まっている。

  • 5.墜落直前に失速速度以下になっていたのに失速しなかったこと

本事故で亡くなった著名人およびその関係者

  • 坂本九(43歳):座席番号64H(2階席)
    • 国民的な人気歌手であり、マナセプロダクション所属のタレント。大阪府羽曳野市の市議選挙に出馬する友人(過去に坂本のマネージャーを務めていたことがあった)の選挙応援として、8月13日に行われる事務所開きに駆け付ける途中だった。
    • なお、坂本本人は本事故以前から日本航空を信頼しておらず、飛行機での移動にはいつも全日空を使っていた。しかし、当日は全日空便が満席で、飛行機やホテルなどを手配した招待側の側近はチケットを確保できなかったため、仕方なく確保したのがJAL123便のチケットだった。
    • 同行していた所属事務所のマネージャー(本事故で共に死去)は当日、羽田空港で全日空便への振り替えを何度も交渉したが、お盆ということもあって叶わなかった。墜落から99時間後の8月16日、身に付けていた笠間稲荷神社のペンダントが決め手となってようやく身元が確認された。
  • 北原遥子(24歳):座席番号29D
    • 女優。元・宝塚歌劇団雪組の娘役。帰省先である横浜の実家から、大阪の友人に会い行く途中。死因は脳挫傷と内臓破裂で、8月17日の午後、両親によって遺体の身元が確認された。比較的前方の座席だったが、墜落時の衝撃で奥に分け入った場所まで投げ出されたため、墜落後の火災に巻き込まれず、遺体は目立った外傷や損傷もない綺麗な状態で発見された。
  • 中埜肇(63歳)
    • 阪神電気鉄道専務取締役鉄道事業本部長兼阪神タイガース球団社長。久万俊二郎(阪神電気鉄道社長兼阪神タイガース球団オーナー)の代理として、東京都内の運輸省本庁舎で開催された日本民営鉄道協会民鉄協)の会議に出席し、大阪へ帰る途中。
    • 同行していた阪神電気鉄道常務取締役の男性も共に犠牲となった。遺体は墜落から4日後の8月16日、歯型と着衣(8月10日の福岡出張時に購入した博多織の青いネクタイと、この年のタイガース球団創立50周年を記念して作られた虎のロゴマーク入りのネクタイピンを付けていた)によって身元が確認された。
  • 浦上郁夫(47歳)

グリコ・森永事件の終息を父・浦上靖介の墓前に報告するために大阪に向かう途中。

  • 塚原仲晃(51歳)
    • 医学博士・大阪大学基礎工学部教授。1986年から開始予定であった文部省特定研究「脳の可塑性」の責任者として、同研究に関する文部省との打ち合わせを終えて帰る途中。
  • 竹下元章(47歳)
    • 元・広島カープのプロ野球選手(捕手)。事故当時は指月電機製作所の社員。群馬県代表となった東京農大二高野球部在籍の息子を応援するために、阪神甲子園球場へ向かう途中。
  • 緋本こりん(26歳)
    • 当時絶大な人気を誇っていた同人漫画家。8月11日に東京都内で開催されていたコミックマーケット28におけるアニメ雑誌『ファンロード』関連のイベントに参加した帰り。なお、事故当時は同人漫画家という職業の知名度が現在ほど高くなかったため、新聞などによる報道では一般人として扱われ、本名で掲載されている。訃報は『ファンロード 1985年10月号』(1985年10月1日発売)にて公表された。
  • なお、事故当時者が有名人では無いが、大相撲の元大関清國(当時は7代目伊勢ヶ濱親方)の妻と長男・長女が、また吹田明日香の母親が何れもこの機に搭乗し、全員亡くなっている。

運命の分かれ道

当初はJAL123便に搭乗する予定だったが、偶然にも直前で回避したため難を逃れた人物もいる。


東海道新幹線で移動

  • 逸見政孝
    • 当時のフジテレビアナ。夏休み休暇に入り、実家のある大阪へ123便で帰省する予定だったが、晴恵夫人が飛行機が苦手であった事と、「新幹線のほうが安い」という息子の太郎氏の助言から東海道新幹線へ変更した。
    • 但し、氏自身は8年後の1993年にがん性悪液質を患い、48歳の若さで逝去している。
  • 稲川淳二
    • 東京での仕事が終わった後、大阪へ123便で移動するはずだったが、東京での仕事の前から体調がすぐれず、翌日の朝一番の新幹線で大阪入りする事になった。
    • だが氏の友人であり、スタッフの和田浩太郎は、すぐにも別の用事で大阪に向かうために空港へ行き、たまたま大阪に予定よりも早く着くこの便の席が手に入ってしまい123便に搭乗、事故に遭遇し亡くなった。氏は後にこの出来事を『生涯忘れられない運命の分かれ道』と語っている。
  • 明石家さんま
    • 1985年7月まで東京でテレビ番組『オレたちひょうきん族』の収録があり、終了後はJAL123便で大阪へ戻り、ラジオ番組『MBSヤングタウン』の生放送へ出演するのが日常だった。しかし、8月より別番組の収録が関西で行われるようになったため前日の新幹線での移動に切り替えた。翌日、ラジオで123便が墜落した事を知ったさんまは言葉を失い、番組内容を変更することだけを話した他、音楽も氏の希望で暗めの雰囲気のものが放送された。以後新幹線で行ける場所への移動に新幹線を使うようになったという。
    • また、この出来事がきっかけで、氏の座右の銘は『きてるだけで儲け』となり、娘のIMALUの名付けの元ともなった。
    • なお、当日にキャンセルし、他社便で移動したというのは誤りであることが判明している。

別の飛行機で移動

  • 麻実れい
    • 当日の123便に搭乗する予定だったが、搭乗前の仕事が早く終わって一便早い飛行機に振り替えた。
  • 西川のりお
    • 大阪に帰る為に搭乗予定だったが、羽田空港に向かっている時に利用していたタクシーが渋滞に巻き込まれ搭乗に間に合わず命拾いをした。
  • いしだあゆみ浅野ゆう子
    • 共に帰郷するため搭乗する予定だったが、羽田空港に到着するのが遅れて別の便に搭乗。
  • 深田恭子
    • 当時2歳で、家族に連れられて搭乗予定だったがモノレールの遅延により間に合わず命拾いをした。
  • 当時の笑点メンバー一行(高座名は当時)
    • 5代目三遊亭圓楽桂歌丸林家こん平・初代林家木久蔵(現・林家木久扇)・三遊亭楽太郎(後に6代目三遊亭円楽)・古今亭朝次(現・7代目桂才賀)・三遊亭小遊三山田隆夫
    • 8月13日に徳島での仕事(阿波踊りへのゲスト参加)を控えており、徳島行の飛行機の予約を取っていた。しかし当初予約しておいた便が悪天候で条件付きの運航となったため、1本後の123便にしようという案(伊丹に着陸後、神戸港からフェリーで徳島入りするプラン/※1)が出たものの、こん平が「いいんじゃないかい。予約した便でゆったり行こうよ、きっと着陸できるよ」と提案したために123便への搭乗を回避している。しかし同行していた広告代理店の社員は先を急いで振り替えてしまい、帰らぬ人となった。
    • なお事故そのものは徳島へ到着後、宿泊先ヘ移動中に知ることになり全員がショックを受け、特に歌丸師匠に至っては後年「もしあの時に乗ってしまっていたら笑点の歴史はそこで終わっていたか、今とは全然違う番組になっていたかもしれない」と語っている。
    • 前述した元大関・清國はこの事故で家族を亡くした後、気を持ち直して再婚した。この再婚後に生まれた息子・嘉由生(亡くなった長男・長女の名から一文字ずつと、生きるという字をとって名付けた)は後年、木久扇師匠に弟子入りし、林家希林(真打昇進前は木りん)を名乗って落語家になっている。奇しくもやはり関係者に犠牲者が出た阪神タイガースがこの年以来38年ぶりの日本一を獲った2023年、希林は真打に昇進した。

移動手段不明等

  • ジャニー喜多川少年隊メンバー(錦織一清植草克秀東山紀之)
    • 8月11日に公演が始まった近藤真彦氏の大阪での舞台の応援のために、123便に搭乗して大阪に行く予定だった。しかし、ジャニー喜多川は公演初日の記者会見に来て欲しいという要請を受けて前倒しで大阪入り。少年隊の3氏は搭乗をキャンセルして東京に残った。
    • 結果的に命が助かったのだがこの30年以上後に日本国内全体を巻き込む大スキャンダルが発覚したため、ジャニー喜多川に関しては予定通り当便に乗り事故に巻き込まれ他界してれば事故以降30年以上の被害が出ることがなかったため被害拡大を防げたのではないかとの意見もある。
    • 但し、ジャニー喜多川が悪事を働いていたとはいえ、多くの死者を出した事故に「巻き込まれていれば良かった」と他人の死を望むのはあまりにも不謹慎な話ではある。彼がいなければそれ以降のアイドルグループが誕生することもなかったのもまた事実である。
  • 舛添要一
    • 当日の123便のチケットを所持していたが、最終的に搭乗しなかった。なお、氏はよど号ハイジャック事件発生便への搭乗も免れている。

なお、一般客も例外ではない。事故当日、当時羽田空港へ乗り入れる唯一の軌道系交通機関(※2)で、遅れることが珍しい東京モノレールに何故か遅延が発生し、123便に乗り遅れて助かった人が居たという。逆にキャンセル待ちが成功して123便に乗り、そのまま事故に遭遇して亡くなった乗客もいる。

また、真偽は不明だがコミックマーケットにおいて同人誌を買いすぎたために123便に乗ることをキャンセルして、鈍行で帰宅することに切り替えて難を逃れた人もいるらしい。


※1···当時、明石海峡大橋は未開業。

※2···京急空港線の当時の終着駅・羽田空港駅は現在の天空橋駅で、空港内には乗り入れていなかった。


JAL366便

ところで、JA8119の事故直前のフライトであるJAL366便には、運輸大臣の山下徳夫阪神タイガースの選手やスタッフが搭乗していた。


山下は同日、大手海運会社の三光汽船が明日(つまり1985年8月13日)倒産することを聞き付け、故郷の佐賀から帰京するために急遽366便に搭乗した。三光汽船はその当時戦後最大級の倒産劇と言われただけでなく、そのオーナーは山下の派閥(番町政策研究所・当時は河本派)のボス、河本敏夫であり、政治的な立ち位置も含め危急に対処する必要のある案件であった。当時佐賀空港はまだ存在せず、福岡からの羽田便搭乗となり、同便に乗っている。

仮に366便が墜落していた場合、翌日の同社倒産対応にも影響を及ぼしただけでなく(張本人である河本も沖縄開発庁長官として内閣に在籍していたが、これを受けて辞任に追い込まれた)、航空史上未曽有の大惨事に対してよりにもよって所管の担当大臣である運輸相が事故当日に不在(しかも事故被害の当事者)になるという前代未聞の事態の可能性もあった。


阪神タイガースの選手やスタッフは、前日まで行われていた福岡・平和台球場での試合(中日ドラゴンズ戦)から後楽園球場での試合(読売ジャイアンツ戦)に備えて移動していた。東京に着いたタイガースの選手は、自分達に暖かく接していた中埜の搭乗を知り絶句。当時の監督・吉田義男は中埜の生存を信じ、翌日の新聞を取らなかったと言う。しかし、選手は中埜への手向けとして優勝するため奮起。その年、阪神は21年ぶりの優勝と、2リーグ分裂後は球団史上初となる日本一を果たした。優勝のウイニングボールは中埜の霊前に手向けられ、その後遺族に贈られたが、現在は遺族が阪神球団に再び寄贈し、記念館にて展示されている。この事故の影響もあり、当時の阪神の主力選手・真弓明信は飛行機恐怖症になった。また球界では新幹線で移動できる場所への飛行機移動を控え、やむなく飛行機を利用する場合でも原則全日空を使うようになった。

余談だが、この366便の乗客(一般人)は事故後「床下から変な音がした」と証言している。


その他

  • 日本航空では羽田-伊丹線の便番号に123122を使用していない。永久欠番としている(全日空も羽田-那覇線の臨時便のみに使用している)。
  • 日本航空では大田区の羽田空港整備地区に事故機の残骸(垂直尾翼、圧力隔壁など)や乗客の遺品を展示した施設「JAL安全啓発センター」を開設している。普段は社員の研修に使用しているが、予約すれば一般人でも見学できる。東京モノレール新整備場駅が最寄り駅。
  • 日本の航空会社が起こした死亡事故としては最後であるが、日本国内で海外の航空会社が人身事故を何度か起こしている。
    • その中で最大のものは1994年にチャイナエアライン小牧空港(現・愛知県営名古屋飛行場)で墜落炎上した事故(中華航空140便墜落事故)で、271人中264人が死亡した。なお、日本国内で民間機が墜落、もしくは全損する事故は、この事故を最後にゼネラル・アビエーション(遊覧・訓練・報道・自家用など)の小型機を除き40年近く発生していなかった。
    • しかし2024年1月2日、JALのA350海上保安庁DHC-8が羽田空港で衝突し、双方が大破炎上。海保機のクルー5人が殉職する事故が発生してしまった。(日航機の搭乗者は火が回る前に脱出し、全員生存)
    • また運航中に乗客乗員が死亡した出来事(急病人を除く)としては1999年7月23日の全日空61便ハイジャック事件で機長が刺殺されている(ただし、これは事故ではなく事件である)。なお航空事故死亡者にはカウントされていないが1997年に日本航空706便が乱気流に巻き込まれた事故で、重傷を負った客室乗務員は後に死亡している。
  • 生存した被害者、特に一家全員を失った少女に対する取材は執拗を極め、写真週刊誌も現場写真の撮影を優先するなどマスコミの取材の態度も問題点が多く、世間の非難を浴び写真週刊誌衰退の一因ともなった。
  • 悲惨な事故ではあった一方で、普通であれば即座に墜落してもおかしくなかった(事実としてトルコ航空981便墜落事故やアメリカン航空587便墜落事故においては離陸上昇中に油圧全喪失(後者の場合は垂直尾翼も喪失した)に陥った結果クルーにはなすすべもなく墜落している)が、当該機ではトラブル発生から30分以上も飛行していた。このことから、舵面が失われた場合でもエンジンコントロールである程度機体制御が可能であることが、航空業界で認知される事となり、後年発生した事故(後述)においてその教訓が活かされることとなった。また、死亡したパイロットに対しても2年後の1987年に航空業界で最高の栄誉とも言えるポラリス賞が追贈されている。
  • ボーイング747型機の油圧系統はフェイルセーフに基づいて多重化されていたのだが、当時製造されていたクラシックタイプはどういうわけか機体尾部に配管が集中するという設計になっており、この事故で実質的に設計ミスが発覚することとなってしまった(せっかくのフェイルセーフが役に立たなかった)。この点については後年改修が行われた。
  • 日航のクラシックジャンボの内、事故機と同型の-100SRにおいては1994年までに全機が退役した。同型を2006年まで運航したANAよりかなり早い退役となっている。なお、入れ替わりに-100Bなどの初期型が国内線に就航したり、2階席拡大版の-300SRが導入されたりなどした。-300SRはANAが発注しなかったため、旅客機時代は世界でJAL(子会社含む)のみが保有した機種であった(後にANAも含め直接の後継機である-400Dも導入されている)。
  • 犠牲者のうち3人は神戸市の女子校、親和女子高等学校の教員で修学旅行の下見に行った帰りだった。当時親和女子の3年生に在学していた杉田水脈氏は、数日前にそのうちの1人の授業を受けたばかりであり、3人が校内で生徒達に慕われていたため、今でも忘れることができないという。親和女子はそれ以来修学旅行に飛行機を使わず、後に学校を移転してからも慰霊碑を併設して花束をそなえているという。(参照:Xでの杉田氏と同校の後輩女性の会話
  • なお、同じ日本航空が協賛(提供はロート製薬の1社)していたクイズ番組「アップダウンクイズ」も、この事故の余波により日本航空が協賛から外れ、同社によるカウキャッチャーが廃止された挙げ句、2ヶ月後の同年10月6日に最終回となっている。この最終回「22年間ありがとう!シルエット大会」では、前述の麻実氏が解答者6組12人のうちの1人として出演(相方は同じ宝塚OGの鳳蘭氏)しており、同番組の22年間・全1084回を通じて最後の問題見事に正解したという。

陰謀論


・国が重要な事を隠すために自衛隊を使って撃ち落とした


・無人標的機が衝突した


・アメリカが撃ち落とした


・自衛隊が火炎放射器で生存者を焼却し、口封じした


・ペテルギウス流星群から飛来した隕石のソニックブーム


等といった陰謀論が出回っている。


確かにこの事故はわかっていない事が多々あり、いろいろな可能性を考えて議論することは必要である。だがこれらの陰謀論ははっきり言ってこの事故をダシにしていい加減な話や、政治思想を他人に信じ込ませようとする行為である。


実際に軍隊による撃墜事件と判明した大韓航空機撃墜事件もソ連の隠蔽工作が結局短期間で破綻しており、 そもそも1954年に発生した中華人民共和国人民解放軍空軍キャセイパシフィック航空機撃墜事件や1955年のブルガリア国防軍によるエル・アル航空機撃墜事件・1973年に起きたイスラエル空軍リビア航空機撃墜事件、そして1988年のアメリカ海軍ミサイル巡洋艦ヴィンセンスによるイラン航空655便撃墜事件等、軍事組織の攻撃による民間機撃墜事件は何れも早期に発覚しており、さらに1994年のルワンダにおけるハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件や2001年シベリア航空機撃墜事件、そして2014年マレーシア航空撃墜事件等、実行した武装勢力や軍事組織が不明な事件でもミサイルによる撃墜自体は判明している。


日本で同様の事件が起こっても目撃者全員の口を塞ぐなど全く不可能な話であり、ニュースキャスターの辛坊治郎氏がこれらの陰謀論を自らの取材で得られた事実と突き合せて検証した所、そもそも様々な事象が発生した時系列が滅茶苦茶で事実誤認だらけであり、まるで話にならないと自身のラジオ番組で指摘している。


しかしこれらの陰謀論は定期的にリバイバルされており、近年では「元日航の客室乗務員で犠牲者CAと同期だった」「東京大学大学院博士課程修了・博士号収得」と自称する青山秀子氏による陰謀論本が出版されており、航空系が本業でない森永卓郎などの一部評論家による持ち上げ、Amazonレビュー等、これらのトンデモ論を真に受ける人も少なくない。

youtubeでは、デマ系チャンネルの「アシタノワダイ」が漫画にして広めたことがある。この動画は一旦は削除されたらしいが、転載されている(加えて、この転載の際に「何らかの理由で削除された」と削除自体を宣伝化しているようなものも見られる)。

個人サイト黎明期やHTMLでの2ちゃんねるまとめ全盛期ごろはこれらを否定する資料の書籍やサイトも多数あったが書籍が古すぎて絶版になったりサーバーのサービス終了でサイトが閉鎖したりして手軽に見られる資料が減っており、そこを狙って広告料稼ぎのためのデマ動画やSNSアカウントが跋扈している。


近年のリバイバル陰謀論の中には当時の機材スペックや通信状況(インターネットも無くガラケーすらなかった)、現場までのアクセスといった時代的な背景を一切無視したり、自衛官や米軍兵士をチート能力化させたオーパーツ設定のものが多く見受けられる。


テレビ局の取材に対して「墜落時の対地相対速度はおよそ350ノット/hと考えられ失速による墜落ではなく意図して急降下中であった」と証言する元旅客機機長なる人物がいたが、この人現役時代に最後に乗ったのDC-7 それともYS-11 まさか零戦とか言わねーよな?

というのも、基本的に実用ジェット機は翼面荷重が高くそのため失速速度も高い。そして一般的に、失速状況からの回復手段は急降下による増速である。しかも機体の状況が水平舵の機能も失っているため、乗員はエンジン出力の制御と主翼のフラップでしか行えない。

プロペラ機は推進機がアンダーパワー気味である分、ジェット機より翼面荷重が低く、失速速度が低い。この為、低高度で失速したとしても、失速からの回復は(ジェット機に比べれば)容易である(多くのプロペラ機は、エンジン推力を失っても、滑空により低速で不時着することすら可能である)。特にレシプロエンジンの場合、アンダーパワーではあるがスロットルレスポンスが高いため、機首下げ姿勢を取らずとも回復できる機種もある(零戦のパイロットの一部は、この手法で米軍機にオーバーシュートさせる「木の葉落とし」という技法を使ったと言う)。

しかし、ボーイング747はジェット機としては無理のない設計である分、低高度での失速の回復は非常に難しかった。日航123便に使われた747-SR100などの「クラシック・ジャンボ」は、失速状態からの機首下げによる回復の限界最低高度は6,000フィート(約2,000m)とされている。


また、「地元民の目撃情報や羽田管制成田管制米軍横田基地のレーダー情報から墜落地点が解っていたにもかかわらず救出活動が14時間もなされなかったこと」を陰謀論に結びつけることが多々ある。

しかし、位置はわかっていても近づくことができないこんな山岳地帯に入っていける消防車ベース車など当時どころか現在に至るまで国産1車種しか存在していないわけだが、如何に羽田→伊丹間のフライトで燃料は満載ではなかったとしても、ボーイング747が搭載する燃料が燃えていたら、このクラスの消防車で手に負える火災ではない。

では空中からということになるが、山火事などに使われる消防ヘリや飛行艇などでの水散布は、その量が数トンから数十トンになり、面積あたりの投射量も多い。その下に脱出中の生存者がいたらその水で殺してしまう。実際に、2022年4月には、岩手県内に起きた比較的小さな山火事のために700kgの水をヘリで投射したが、それの直撃を受けた消防団員が胸腰椎骨折の重傷を負ってしまっている。

しかも、燃えているのはジェット燃料であるため、ただの水では消火できない(家庭でも天ぷら油火災や石油ストーブ火災の消火に水を使ってはならないのと同じである)。この当時だとアルカリ系強化液消火剤を使うことになるが、これは人体にとって有毒である。一般に無毒とされる、家庭用消火器として普及している粉末式消火剤は、上空からの投射には適していない(火災の熱による上昇気流で拡散されてしまう)し、仮に強引にでも有効な量を投射したとしたら、いくら無毒とは言っても呼吸器系に大量に侵入すればやはり生命の危機に置かれる。


また、「陸自の空挺部隊は夜間降下は可能だと言っていた」と言うが、それは、ヘリが安定してホバリングできる状況でなければならない。下はジェット燃料による大火災が起きていて、その熱による上昇気流によってヘリは安定したホバリングができない。また、固定翼機からのパラシュート降下も、同じ理由で現実的ではない。

それに当然、かなりの輻射熱で高温になっていることも考えられ、そこに生身の人間を降ろすことは特攻と同義である。

炎が消えたように見えても、炭化した森の木々が燻っていることは充分に考えられ、そこへ持ってきて夜間とくれば、安全な場所へ誘導して降下することは極めて非現実的としか言えない。


つまり、夜が明けて墜落現場が目視可能になるまで手のつけようはなかったのである。


そもそも当時一生懸命に救助をしてくれた自衛隊の人達にだってそれぞれ人生がある生身の人間である。上記のような陰謀論で、その人達に人殺しの濡れ衣を着せようとするのは浅ましい行為である


以下、わかる範囲で陰謀論、デマに反論を書き込んでみる。(追記・修正があればよろしくお願いします。)


123便の真実を知ったら政府に殺される。

本、テレビ、ネットなどでこれらの「真実」を知る人はたくさんいる。それだけの人数を暗殺できるのか。そもそもそのような「真実」を暴露している、青山氏をはじめ、ほとんどの人が今もピンピンしている。

さらに、生存者の少女の父親は日本共産党の現職市議であったため当時も共産党による調査は行われており、当時は現在よりも共産党の党勢が大きかったため何か陰謀の痕跡が見つかれば敵討ちとばかりに国会での追及やデモなどを行っていたはずだがそういったことはなく共産党も単なる事故であるとの判断をしている。


自衛隊が火炎放射器で生存者を焼き殺した。

100人以上もの人達を焼き殺そうとしたら山火事になるし、自衛隊の方も無事ではすまない。そんな虐殺の痕跡を完璧に隠蔽するなど物理的に不可能である。そもそも、夜間の山岳地帯にいきなり降下等、特殊部隊でも困難であり、ましてや、火炎放射器を背負って、急な山岳地帯で、生存者を短時間で、焼却など荒唐無稽である。

また、遺体が完全に炭化していること、二度焼きされたようだとの証言もあることを根拠にする意見もある。しかしジェット燃料は引火点が高いので裸火があっても燃えにくいが、燃料自体が高温になれば着火点はガソリンよりも低く、発熱量はガソリンよりも高い。

羽田―大阪便は天候の良い日で通常42000ポンド(約19トン)ほどの燃料を積むという。これは目的地の空港に着陸できなかった場合に代替え空港に向かう燃料も含まれている。さらにこの機体は初めに記したように伊丹到着後すぐ折り返し便として出発予定だった。よって事故時には少なくとも20トン以上の燃料が残っていたという。

それが燃えればどうなるかは説明なしでも分かるであろう。


123便は核兵器を運搬していた。

非核三原則って知っているか?そもそもなぜ旅客機で運ぶのか、どこに積むのか、大体そんなものを積んでいる飛行機が墜落したら辺り一帯放射能で汚染されているはずである。当然、多くの人間が被爆する。これは、123便の救助に向かった人々が「123便には医療用放射性同位体が貨物室で輸送されていたので残骸には触るな」という指示を受けたことが根拠として広まったとされる。医療用放射性同位体の航空輸送は現代でも普通に行われているので核兵器云々の根拠にはならない。

付け加えると当時、この様な輸送の正確性を求められる物品の輸送は、航空機が比較的使われやすかった(国鉄貨物の信頼が地に堕ちていたため。現在は特に環境への配慮から鉄道貨物が復権している)。


異常発生直後、航空機関士が2度「オレンジエア」と発言した。(報告書ではオールエンジン...(解読不能)と表記されている)これはミサイル、標的機のことだ

この音声では(後年にリマスターしても)聞き取り不能の部分が多い。(緊急事態発生時なら緊張、動揺で噛んだり呂律が回りにくくなったりするのも当然である。上記のように低酸素状態の可能性もあったので尚更である)また、直前に機長が「エンジン?」と尋ねているので「オールエンジン(フェア)」(全エンジン異常なし)でも辻褄はあう。ほかにも車輪関連の警報は油圧と共に正面の計器盤にオレンジのランプがつくため、「オレンジギア」、「ボディギア」と脚の異常(誤作動)を指摘した、という声もある。さらにオレンジの物体の正体も下記でほぼ特定されているため、ミサイル等への指摘とは考えにくい。

そもそもこの発言前の「ギアみてギア」の質問を2回無視していることになる。

異常事態が発生しているのに747の計器監視を放棄して呑気に外を見ていたとは考えられない。


墜落直前の機体の写真にオレンジ色のもの(胴体下の中央辺り)が写り込んでいる。これは突き刺さっているミサイル(または標的機)だ。墜落現場の映像でもその残骸らしきものを見たし、安全啓発センターにも展示されていた。

明らかに衝突防止灯である。(夜間の飛行機の点滅しているあのライト。件の写真をよく見ると主翼端もオレンジ色に光っている)こんなハッキリ写るほどの飛行物体が当たったら(爆薬なしでも)その場で空中分解するだろう。また、墜落現場のオレンジ色の残骸は主翼の一部(日の丸が書かれていた部分)であることが確認されているうえ、展示されている残骸は胴体の赤、紺色のラインが入っていた部分の可能性が高い。(当時のJALの塗装はメイン画像のように胴体に赤、紺のラインが入っていた)


TRON(国産OS)の開発者が乗客として乗っていた。彼らを殺し、計画を潰すため(マイクロソフトで全OSを独占するため)米軍が撃墜した。事実、TRONはマイナーなソフトになってしまった。

TRONは無事実用化され、世界中に広まっている。(ロケット人工衛星、自動車やカメラなどに組み込まれているとのこと。というかパソコン、スマホ以外のコンピュータ搭載機器のOSはだいたいこいつらしい。)さらに開発者の坂村健氏は2023年現在ご存命である上、関係者が乗っていたかも不明である。ただ、TRONをめぐって米国から貿易摩擦を理由に圧力をかけられたことや、それが遠因でパソコン用TRONの計画がポシャったことは事実らしい。


異常事態発生前に乗客が撮影した機窓写真にこちらに向かってくる物体が写っている

問題の「物体」は点の形をしている。ミサイル、標的機ならば高速移動しているため煙や、ぶれた物体の都合で線状に見えるはずである。よって、汚れか何かの可能性が高い。


中曽根元総理が「真実を墓場まで持っていく」といっていた。この真実とは123便の墜落のことである。

この発言を中曽根元総理が本当にしたのかは真偽は不明。仮に言っていたとしてもいつ、どこで、どのような状況で発言したのかをしっかり把握するべきである。

ちなみに中曽根康弘氏には日航123便どころではない「墓場まで持っていくべき話」ウンザリするほどある。

なお、この当時三光汽船倒産事件が同時多発的に発生しており、同社が自民党重鎮の河本沖縄開発庁長官がオーナーである企業であることは上に記した通りだが、はっきり言って同時期に発生した2事件の間でもこっちの方が「墓場まで持って行くべき話」があると言われている(同社の、通常の貨物輸送より空き船の転売をメインにした商売方式や、政治献金諸々など)。

また、この事件は事故の翌日が倒産日であるが、事故の影響で倒産の件が隠れたなんてこともなく、前述の通り河本大臣は引責辞任に追い込まれている。


米軍横田基地と墜落地点の間にアメリカも知らない自衛隊の秘密施設があるため、米軍の救助を断った。

ここまで行くと陰謀論というよりは都市伝説。その中身もぶっ飛んでいて、中にはUFOとかいうものも。ただ、どうやら在日米軍からの救助の打診があったのは事実らしく、日本側は「誰がそれを受けて、断ったのか不明」らしい。


この陰謀を否定するものは工作員である。

いわゆるレッテル貼りである。正直、このような説に疑問を持つ人がでてくるのはごく自然なことである。メディアやネットの発達・多様化によりデマや風評の拡散が懸念されている今日であるならなおさらである。

このようなレッテル貼りで反論意見を聞き入れようとしないのは問題のある姿勢である。


陰謀論反論サイト

https://togetter.com/li/1146084

http://enokidoblog.net/talk/2018/09/30472

https://ameblo.jp/boumu/entry-12398533398.html


また、中曽根元総理など陰謀に加担したと言われている人たちや、青木透子氏を始めとする陰謀説を唱えた人たちをネットで中傷する人たちがいるが、たとえどんな理由があっても誹謗中傷や私的制裁は絶対にしてはいけない。


敢えて不合理な点をあげるとするならば、それは「ボーイングは与圧された航空機の損傷が致命的な事態になることを熟知していたはず」「ボイスレコーダーを遺族への配慮という理由で公開していない」いう点である。

大東亜戦争末期の日本本土空襲において、少なくない数のB-29が日本軍による迎撃を受けた結果空中分解しているためだ。B-29の場合は後部ではなく、アスペクト比の高い主翼付根付近に損傷を受けるとあっさり空中分解することが多かった。これは日本側も(その原因は間違えていたが)把握しており、戦闘機は極力ここを狙ったと言う。

ただ、常に災害に襲われ続ける日本と異なり、内陸での災害が比較的少ない大陸国家では、過去の災害事例が忘れ去られやすい傾向にある。同じ様に大戦中に日本軍との戦闘で培った、艦船のダメージコントロール技術のハズが、1967年にはすっかり失われており、結果ベトナム戦争で作戦展開していた空母フォレスタルが大火災を生じさせる事態になっている。

追記するとボイスレコーダーの音声を公開することも、国際的な条約上(シカゴ条約)認められていないことなのだが(しかし既に半分近い音声が出回っているためもう遺族への配慮も機密保全もしようがないと考えられる。この出回っている音声も元々は事故調査関係者が流出させたものである。)

8月12日に起きたその他の航空機事故・トラブル等


1958年8月12日・全日空下田沖墜落事故


この日の羽田発・小牧空港(名古屋)行きの全日空25便は伊豆下田沖の利島付近の海上に墜落し、乗員乗客計33名全員が亡くなった。

全日空にとって初の航空機墜落・死亡事故となった。


2005年8月12日・JALウェイズ58便エンジン爆発事故

事故から丁度20年が経過したこの日、福岡発ホノルル行きのJALウェイズ58便は離陸直後に左エンジンから出火するトラブルに見舞われた。幸い30分後に無事福岡空港に引き返し、乗客にけが人はでなかったが、エンジンの破片が市街地に落下し、けが人が生じる事態となった。


2017年8月12日・全日空37便の気圧トラブル


この日の全日空37便は離陸直後、機内の気圧トラブルが発生した。

8月12日18時発・羽田発伊丹空港行きという点が123便の事故と全く同じだったが、トラブル発生後は千葉県上空経由で羽田空港に緊急着陸し、事なきを得た。(乗客乗員などに怪我人等は無し)


また、事故から35年が経過した2020年の夏には成田空港で、JAL123という便名が出現することとなり、騒動となった。整備作業者が偶然打ち込んでしまったらしい。

(実際にフライトレーダーの履歴で数回JAL123が打ち込まれたことが確認されている)


関連タグ

航空事故

メーデー!航空機事故の真実と真相

衝撃の瞬間

テネリフェの悲劇 本事故を上回る583人の犠牲者を出した史上最悪の航空事故。また、こちらの事故機は衝突した双方の機体も本事故と同じボーイング747型機である。

TWA800便墜落事故 事故の悲惨さと陰謀論のはびこり具合で類似している。

NNN臨時放送 都市伝説の一つ。詳細は記事を確認して貰いたいが、元ネタの有力候補としてあげられる(情報を断片的に記憶したことで事実と異なる記憶にすり替わるマンデラ効果の一種と考えられる)。


関連動画


類似事故(本事故の教訓が生かされた案件)


  • ユナイテッド航空232便不時着事故」この事故では、エンジン爆発により油圧を失った際偶然客室に乗り合わせていた非番の訓練教官が当事故を研究しており、シミュレーター訓練で当機の操縦法を習得していた為、機体を最寄りのスー・ゲートウェイ空港の滑走路まで降ろす事に成功している。当案件との違いは、垂直尾翼の有無(全壊(操縦不能)か小破(操縦困難))と確認手段の有無(夜(視認不可)か昼間(別油圧装置の異常動作の視認))だけだったが、着陸直前に乱気流により機体が吹き飛ばされ一瞬で横転させられ犠牲者が出てしまった。

  • また、2003年に発生したDHL貨物便撃墜事件においては地上にいたテロリストの放った地対空ミサイルが左主翼に命中し油圧系統が破壊されたものの上記2件の事故を教訓にして、エンジン推力のみで空港への緊急着陸にオーバーランしながらも成功し乗員3人全員(貨物機なので乗客はなし)が生還している。
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