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スクウェアの編集履歴

2020-12-11 23:36:14 バージョン

スクウェア

すくうぇあ

正方形のこと。またはかつて存在したゲーム制作会社。現在のスクウェア・エニックスの前身。

概要

株式会社スクウェアとはかつて存在したゲーム会社であり、現在のスクウェア・エニックスの前身。1983年に徳島県の電気工事会社・電友社ソフトウェア開発部門として設立された。


創業地は同業社の光栄(現:コーエーテクモゲームス)と同じ神奈川県横浜市港北区日吉であり、付近に存在する慶應義塾大学日吉キャンパスや神奈川大学などの学生がアルバイトを経て社員になるケースが多かった。スクウェアの初期作品を手掛けたスタッフに神奈川県出身が多いのはそのため。


創業当初は主にPCゲームを手掛けていたが、1985年にファミコン向けソフト『テグザー』で家庭用ゲーム機に参入。翌1986年に電友社から独立した。ディスクシステムではスクウェア含めた7社の団体で『DOG』というブランド名で販売した。


ファミコンに参入したばかりの頃は地味な存在であったが、『ファイナルファンタジー』や『聖剣伝説』等のヒットでRPGジャンルにおいてエニックスと共に一時代を築きあげるようになる。特に『魔界塔士Sa・Ga』は当時「ゲームボーイの小さな画面ではRPGは困難」とされていた中で見事実現させたパイオニアでもある。

そしてスーパーファミコンでは当時一、二を争う程の美麗なドット絵グラフィックやサウンド等で名を馳せ、それは「聖剣伝説3」あたりで一つの頂点を迎える。


プレイステーションに参入してから発売された『ファイナルファンタジー7』はプレイステーションの普及に貢献しただけでなく、ゲーム業界に大きく影響を与える作品となった。

同時期には麻雀ゲームや3D格闘ゲーム、野球など様々なジャンルのソフトを手掛けた。


1995年には本社をアルコタワーに移転。1996年には子会社としてデジキューブを設立。

1998年にはエレクトロニック・アーツと提携して「エレクトロニック・アーツ・スクウェア」を設立した。しかし、任天堂との関係悪化(後述)、有力スタッフの相次ぐ独立、映画製作の失敗を経て2003年にエニックスと合併。スクウェア・エニックスとして再出発することとなる。


主なソフト

PCソフト


ファイナルファンタジーシリーズ


サガシリーズ


聖剣伝説シリーズ


フロントミッションシリーズ


他ゲーム


2003年以降のゲームはスクウェア・エニックスの記事にて。


任天堂とスクウェアの関係

ファーストとサードパーティー

ファミリーコンピュータ家庭用ゲームに参入するもイマイチヒット作が出ず、これで最後にしようと世に出されたファイナルファンタジーの思わぬヒット及びシリーズ化等を経て任天堂の重要サードパーティの一つとなる。FF3の大量発注に追い付けなくなった際には任天堂からバックアップを受けて乗り切っており、後に任天堂と共同開発した「スーパーマリオRPG」は開発費高騰に悩んでいたスクウェアに対し任天堂が開発費を負担した上でソフトを作らせる救済案としての性格も強かった。つまり、サードパーティーとして任天堂は目に掛けていたというわけである。しかし、同時にこれを切っ掛けに親密だった両社が互いにギクシャクしだし、後にスクウェアがメインのプラットホームをSONYプレイステーションに移して以降、任天堂との関係に曇りが見え始めた。


世間的には任天堂のゲーム機にファイナルファンタジーを出さなくなった事で任天堂が激怒した…と見られていたが、実際はハードを移行したから関係が悪くなったと言う事ではない。実際に任天堂の山内溥社長(当時)は「サードパーティはハードを選ぶ自由があるから仕方ない」とスクウェアの事情を了解していた。


この時点ではまだ大きな揉め事になる話ではなかったのである。ここまでは


ところがこの裏でスクウェアがエニックス(当時)をPS陣営に誘っていたのである。しかもその際にNINTENDO64は駄目だ」と吹聴した(※1)という情報が任天堂の耳に入った事で山内社長は激怒。これが任天堂とスクウェアの関係が長く断絶した理由であったとされていた。

当時の業界関係者は「任天堂に後ろ足で砂をかけて出ていったようなもの」と述べている。当時の任天堂のスクウェアへの拒絶っぷりは凄まじく、社長や広報室長、果てはニンテンドー・オブ・アメリカ(NOA)などの世界各地にある任天堂の法人さえも拒絶していたほど。


後に合併するエニックスはPSにドラゴンクエストⅦをリリースする際にきちんとした理由と、今後も任天堂のゲーム機にもソフトをリリースする事を表明していた。発売時期にも気を配っていたらしい。

このため任天堂との関係はこじれるような事はなく、その後ドラゴンクエストモンスターズを発表しゲームボーイのリバイバルブームに乗る事が出来た。


一方、この時のスクウェアは牽引力のあるファイナルファンタジーシリーズを武器に怖いもの知らずだったのだろう。プレイステーションに活躍の場を移して以降は鳴り物入りのCD-ROMを活用したファイナルファンタジー7を筆頭に破竹の勢いでブイブイ言わせ、世間では「ハード普及の成功のカギはスクウェアが握っている」と言われたり、一部では「有力なサードパーティがファーストとの力関係の立場を逆転させた革命児」と評価された事もあって次世代機での道を華やかに、そして順風満帆に歩んでいた。


スクウェア 「ニンテンドウ64より、ずっとすごい!!


と、まるで自社のゲーム「バハムートラグーン」に登場したヨヨの様である。

しかし、世間の目に映る姿とは裏腹にスクウェアの社内には暗雲が漂っていた。既にFF7の時点で開発費がSFCの頃よりも膨れ上がってしまい、ファイナルファンタジー10の頃にはソフトの売れ行きに反して経営悪化に悩まされていた。

そして「ファイナルファンタジーのネームバリューだけでは通用しない現実」と、「身の丈に合わぬ異業種進出による重篤な危機」、「後ろ足で泥をかけて出て行ったことへのしっぺ返し(倍返し)」の三重苦が襲いかかってくる事になる。


映画事業の失敗による経営の危機

かつてスクウェアを倒産の危機から救った「ファイナルファンタジー」 が、今度はスクウェアを窮地に陥れた。それが2001年に公開された世界初のフル3DCGによるSF映画「ファイナルファンタジー」の興行収益の赤字による経営難である。


公開前は「あのファイナルファンタジーが映画化され、フル3DCGで展開するとはどれだけ凄い作品になるのだろう」と期待されていた。


ところが先行でアメリカで上映され、映像美の凄さは確かに評価されたが、肝心の内容がかなりの不評であった事が取り沙汰されてしまう。この評価が公開前の日本国内にもインターネットを介して伝わってしまい、上映前の段階でマイナスイメージがついた上に、いざ上映されると前評判通りの映画だった事から、挽回するどころか悪評に更に拍車がかかってしまった。当時日本語吹き替えがなく字幕のみで、凝った映像に観客が集中できなかった点も不評の一因であった。


さらに当時既にゲーム制作の方でも指摘されていた制作費管理の甘さが致命傷となる

映画の企画自体が動き出したのは1996年で制作のためにスタジオをハワイ・ホノルルに作ったのが1997年5月。しかし制作遅延などで完成したのは2001年秋。当初の予算は84億円だったが、最終的には157億円が注ぎ込まれた

興行収入20億円はなんだかんだ上出来であったが、この制作費の前では…


冗談抜きに(赤字額歴代1位ではないものの)ギネスブックに採り上げられるほどの大損害。それが当時の経営悪化が深刻化していたスクウェアに大打撃を与えてしまったのである。


その不評ぶりは、当時の地上波でロードショー番組が扱わなかった事からも伺える。日本で協賛していた日本テレビは同時期に公開された千と千尋の神隠しの方をプッシュしてしまっていた。


さらに肝心の本業であるゲーム開発では、ファイナルファンタジーシリーズ一本化の方向転換で一部スタッフ(モノリスソフトブラウニーブラウンのスタッフ等)が去って行った事で新規作品があまり育たない状態となる。また一つの頂点を極めた2Dドット絵のグラフィッカーの大量離脱や、FF以外の既存作品の停滞と深刻な状況が重なっていた。

恐ろしい事に和田氏が社長となった時は法務部門や財務部門といった会社経営の重要なポジションの人間達まで離職していたという。開発部門が力を持ち過ぎてしまい、内部は想像以上にガタガタになっていたのである。


関連会社のデジキューブでも経営悪化が目立ち、当時としては画期的なコンビニを中心とした物流システムだったが、後年は商売としてはあまり上手く行かなくなっていき、エニックスと合併してから半年後に倒産してしまった。


これらの件で瀕死に陥ったスクウェアはかつてのパートナーである任天堂に救済を求め関係修復を図ったものの、任天堂は優しくも甘くも全くなかった。


任天堂

そう、かんけいないね

このままながめているのもいいか

興味ないね

「自分が目の黒いうちはウチの敷居は跨がせん」(※2)


もしもバハムートラグーンであの最後に出る選択肢がどれも冷酷かつ非情に突き放すものばかりだったら……この時のスクウェアはそれを突き付けられてしまったヨヨの立場だった。


任天堂がここまで怒った本当の理由は先述の言いふらしの件(だけ)ではなく、デジキューブ設立時に、任天堂の流通のやり方を時代遅れとディスった事が会社そのものをコケにされたと感じたかららしい(外部リンクの和田洋一氏のnote参照)。配慮というものに欠けたすれ違いが、おおよその原因だったと和田氏は予想している。

当時はライバルと目されたエニックスが先述のように筋の通った理由かつビジネスとしての配慮を欠かさなかった事が、スクウェアとエニックスのサードパーティとしての明暗を分けたとも考えられる。


この頃の任天堂は、当初は小さなソフトハウスにすぎなかった「ゲームフリーク」の大出世作ポケットモンスターの、口コミから始まった「スーパーマリオブラザーズ」以来の大ヒットとその波から社会現象が起こっていた。それに伴って既に過去の遺物と思われかけていたゲームボーイが再び注目を集め、携帯ゲーム機復活と地位が確実となる活気の中心に任天堂はおり、携帯ゲーム機では一強の地位にあった。

スクウェアはこの波に乗れない状態であり、バンダイワンダースワンでの過去作移植リリースに留まった。なにせゲームボーイカラーに作品を出したくても任天堂には出禁なのだ


これに関してであるが、当時スクウェアは任天堂とは正規の交渉ルートも失っていた状況にもかかわらず、少なくとも社内プレゼンではゲームボーイアドバンスでの開発予定を発表していたらしい。和田氏は知らぬ間に任天堂との復縁ができていたのかと思っていたが、よくよく聞いてみると実際は全く復縁しておらず、挙句に「任天堂は結局FFを欲しがるだろうから、あっちからお願いに来るだろう」「それを気に復縁できちゃったりして」などと天狗になっている上に脳天気なことを言い出す始末。危機的な事態に全く深刻になっていなかった事に和田氏は唖然としたという。

証券マン出身の和田氏はビジネスにおける交渉のノウハウを熟知しており、この有様を「企業経営としては致命的な行為」「このままだと本当に任天堂から永久出禁になってしまう」「下手するとソニーのセカンドパーティになってしまい同業他社のようにマルチに出す事ができなくなる(選択肢が無くなってしまう)」と強い危機感を抱いた。当時のスクウェアはゲーム業界では顔が大きくなってしまったのが逆に仇になっていたのである。


ちなみに経営難に関してはSCEIからの援助を受けて立ち直っている。この時点で倒産寸前であり受けない選択肢は無かったのだが。先述の山内社長の「サードパーティにあるハードを選ぶ自由」を、自ら選択肢を減らした結果がこの有様である。当時の経営陣はバランスシートすら読めなかったらしいのだから恐ろしい。


こういう経緯もあり、和田氏は任天堂とソニーの両者の顔を立てる形で、まずは任天堂との復縁計画を立てる事を始めたという。頭の痛い問題を抱えながら、ネット上での風説も考慮した上で一発で事を決めないといけない重大な交渉だったとか。


そして和解へ

任天堂は山内溥社長の引退と、その後の任天堂の経営にはノータッチの姿勢・意思の表明があり、スクウェアはエニックスと合併をしスクウェア・エニックスの設立を経て、ようやく任天堂とスクウェアの本格的な和解への道が開かれた(※3)。


スクウェア・エニックスの社長に就任した和田氏は、スクウェア・エニックス発足前に自ら役員を引き連れて京都に出向き、過去のスクウェアの失言と態度の件を山内に丁重に詫びたと噂されていた。実は和田はスクウェア時代に任天堂と何度も交渉を重ねており、専務クラスの重役まで行き着いた時にスクウェア(デジキューブ)の配慮の無さ等を詫びた上で山内に対面。和田の力量を試される質問があったりスクウェア創業者のこと等を聞いていたりしたらしい。(※4)


これを機にゲームボーイアドバンスファイナルファンタジータクティクスアドバンスで本格的に任天堂のゲーム機に復帰。更にその後、引退した山内が設立した基金「ファンドキュー」の支援で『ファイナルファンタジークリスタルクロニクル』が開発されており、旧スクウェアと任天堂の提携強化が進んだ。


これらの一件は日本のビデオゲーム業界史上、有名なファーストとサードパーティーの間に起きた確執劇として知られるようになった。

そして(法的問題以外で)サードパーティがファーストを本気で怒らせたらどうなるのかが実際に発生した、恐らく唯一のケースである。和田氏によれば任天堂やソニーはかなり大人な対応をしていたとされ、交渉の取っ掛かりになってもらった任天堂の専務からはかなり気にかけてもらっていた事、ソニーからも懐の深い対応もされていたという。


つまりあの時「革命的なファーストとサードパーティの力関係の逆転」と世間が見ていたのは錯覚に過ぎなかったのである。


その後の顛末はスクウェア・エニックスを参照。


脚注

  • ※1
    • 実はエニックスだけではなく、複数のサードパーティーに吹聴していた事が後に明らかになっている。実際どういった形で任天堂に発言が伝わったのかは不明だが、少なくとも複数のサードパーティ関係者に話していて伝わらないワケがない。それどころか他のサードパーティを誘う時点で不信感を持たれたとも考えられる(ただし、和田氏はこれが根本的な原因ではないと読んで探っていた)。なおエニックスは慎重方針だったようで、ソニーに対してはプレイステーションの販売台数の確約を条件として提示していた。
    • この当時のスクウェアは他社からのヘッドハンティングが非常に多く、しかも他社で開発中のスタッフまで引き抜いていたくらいである(ただし、これは飯野賢治の発言で事実かは不明)。これは「ドリームファクトリー」の事だとされる。逆のスクウェア離脱組はスーパーマリオRPGの頃から存在し、その後ほとんどが任天堂を主要な取引先(セカンドパーティ)に選んでいる。ナムコ傘下として設立されたモノリスソフトも最終的にそのポジションに落ち着いた。また、雑誌「ゲームラボ」が当時掲載していた噂を扱うコーナーで「スクウェア社内ではソニー派と任天堂派で対立しているらしい」という不確かな噂を紹介していたが果たして…?
  • ※2
    • 任天堂元社長・山内溥が実際に発言したらしい。スクウェアの営業は本当にあらゆる場で任天堂から門前払いを食らっていた時期が続いていたといわれる。また、公の場での「スクウェアとまた手を組むことは?」のインタビューに対して「絶対に有り得ません」と言い切ったともされる。
    • 先述のスクウェア子会社のデジキューブは経営難に陥った頃に株主総会で「任天堂に土下座してても売上の良い任天堂ソフトを扱わせてもらうべきだ」(デジキューブはPS本体とソフトをメインに扱っていた為)という趣旨の突き上げを食らった際、デジキューブ社長が「土下座したくらいで扱わせてもらえるならいくらでもやってますよ!」という趣旨の回答を返していたことからデジキューブ設立における大失言で山内がどれだけ怒っていたかは想像に難くない。
    • なお、デジキューブの流通システムは店舗側に不利な縛り(定価販売かつ初期入荷で売れ残った場合のみ返品は認めるが、追加による入荷の場合は返品を認めない)があったのが衰退の原因一つでもある。

  • ※3
    • 実はエニックスとの合併前に任天堂とスクウェアとの間にペーパーカンパニーを挟んだ関係修復の計画(これは当時、山内のポケットマネーから出資されていたゲーム開発の出資制度「ファンドキュー」の認可目的だったとされる)があったらしいが、和田のnoteではある意味企業体質が試されていた節もあったようである。その名残はファイナルファンタジークリスタルクロニクルの発売元が任天堂であった事にのみ残っている(その後のHDリマスター版では発売元はスクエニになっている)。

  • ※4
    • 失言や態度に関してはスクウェア側も経営が危ぶまれた時には既に後悔しており(当初は、まだまだ任天堂一強であった携帯ゲーム機に参入したくてもできなかった事もある)、合併前は時既に遅し・覆水盆に返らず状態であった事をスクウェア時代の社長が発言している。(後述)
    • 先述の和田が京都に直接出向いた時点で、この一件はかなり深い溝で隔たれたものだったと言える。なお、和田氏は山内社長の怒りの影響を「スクウェアは京都の地を踏めなくなっていた」と例えている。

ちなみに交渉においては山内の所にこぎつけるまでに任天堂の一階にあるとされる一般応接ブースから始まり徐々にレベルが上っていき最終的に山内社長との会談の場に辿り着いた。その時の山内社長の容姿等から「ラスボス」、応接の場となった部屋を「竜王の間」と例えている。

    • 和田と山内との交渉の際、山内はスクウェア創業者の宮本雅史を「エロひげ」とアダ名し、アパレルという異業種に手を出していたことを「駄目だね」と皮肉っていていた事もnoteで明かしている(当時宮本雅史は髭を生やしていたらしい。間違いの無いように言うとゲーマーの間でヒゲと揶揄された坂口博信の方ではない)。和田の憶測ではあるが、どうやら山内と宮本雅史の間からは愛憎入り交じった確執のようなものが感じ取れたとの事。

確執の時から20年以上過ぎ、いよいよ本当の競演の日へ…

2015年11月、Nintendo Directにてスマブラ3DS/WiiUクラウドFF7から奇跡の参戦との情報を経て、遂に任天堂の顔であるマリオと対面する日が同年12月に来た。

あの確執の時代では、まずありえなかった事である。


ちなみに2006年に放送された「HIDECHAN!'s Cafe」というラジオでの小島秀夫との対談で野村哲也は「(スマブラに)オファーが来れば喜んで差し出す」と言っていた。また「任天堂のゲーム機でキングダムハーツで一応出ているんですけどね」と半ば冗談なコメントも発言していた。


スーパーマリオRPGやマリオバスケでスクウェアとタッグを組んだ「マリオバスケ 3on3」などでサボテンダーなどファイナルファンタジーシリーズのキャラは出ていたものの、意外な事に任天堂の作品にファイナルファンタジーシリーズの主人公が直接出演するのは実は初めての事である。


クラウド「こんな日が来るとは思わなかったな。」


ネコピーチ興味ないね(※)」


クラウド「Σ(゚д゚lll)えっ?」


ニャニャニャ!ネコマリオタイムでのDLCファイターのクラウドの紹介回で実際にネコピーチが発言したあくまでもネタ発言である。いくら現在和解しているとはいえ任天堂キャラクターにそれを言わせるとは…。


なお、クラウドの参戦ムービーには過去のスクウェアの出来事を揶揄しているとされるものもあり、「FF7の戦闘突入時の再現で任天堂キャラVSクラウドの構図が任天堂とスクウェアの対立」、「オーディンがミッドガルのステージをクラウドとシュルクの間で一刀両断するところがモノリスソフトのスクウェアからの別れ」を表しているとされる。


大乱闘スマッシュブラザーズSPECIALでクラウドが続投することも決定した上に、HDリマスター版FF7がニンテンドースイッチでついに任天堂のゲーム機に登場したのである。


さらには聖剣伝説3オクトパストラベラーの新旧作品のスピリットが登場した。



…そして、ヤツまで現れた。


泥を塗る発言をした人物についての流言飛語について

これに関しては、当時在籍していたFFシリーズのプロデューサーであった坂口博信がプレイステーションに魅力を持った事によってやらかしたと噂された事もあるが(PSへの魅力を持った事とそれにスクウェア自体が同調したのはほぼ事実)、そもそも彼が発言したという確証はどこにもない。


おそらく当時のスクウェアにおけるプロデューサーとしての発言力が強かった事による(後に独立したブラウニーブラウンがマジカルバケーション「ヒゲのおきて」と暗喩していた程)ネット上での推測による単なる噂にすぎないと思われる。過去には「ドラクエを“けちょんけちょん”にする」という思わせぶりな発言も伝えられたが、これは初代『FF』開発時、スクウェア社内での発言で、件の騒動とは全く時期が合わない。


後にスクウェアの鈴木社長(当時)が2001年に日経産業新聞において「PSへの独占供給を決めた際にハードの選択と言う事ならば仕方ないと山内は言ってくれていた」「しかし、その後の対応がマズかった。我々はNINTENDO64はダメだと公言してしまった」と発言しており、確執に至った原因がスクウェア側の失言だった事は確かであるが、この件については誰がいつどこで問題となる発言をしたのかは依然として不明である。「社内全体にそういう空気が存在していた」という感じだろうか。

なお上記の通り、「サードパーティ間で発した失言」は遠因にすぎず、「デジキューブの経営戦略由来の失言」が決定的だったとされる。


この断絶の真相に限りなく近いとされる理由を明かしたのはスクウェア側のみで任天堂側は両社間だけの問題としているのか、断絶当時に「当社とスクウェアさんとはゲームに対する考え方が違いますので…」と開発の捉え方の不一致としたコメント以外に公的には(引退して経営にノータッチとなった山内氏も)一切言及せずに現在に至る。

企業倫理にまつわるモラル無き失言である為、任天堂が激怒するのは無理もないのだが。


このような経緯もあってか上記※1のペーパーカンパニー計画は、当時のメインプラットフォームであったプレイステーションのSCE(スクウェアの再建に手を貸した)までも敵に回す事を回避する為の苦肉の策だったとの見方もされている。後にSCE(当時)はスクウェア・エニックスの株を売却し主要株主から離れている。


余談

フルCG映画の失敗で窮地に陥ったスクウェアだったが、まだ3DCG映像作品は諦めておらず、合併後に旧スクウェア組が中心となって3DCGのOVA「ファイナルファンタジーVII アドベントチルドレン」が制作された。


2001年の映画とは裏腹に今作は完成前から国際映画祭に招待される程の大好評を博し、商業上映していないにも関わらず400万本を出荷する大ヒットを記録しており、雪辱を果たしたと言える。物語がFF7の後日談だった事からも伺える。


その後、漫画作品四姉妹エンカウントにおいて任天堂キャラとFFキャラの組み合わせのネタに不適切な表現があるとスクエニが作者と出版社に抗議した。これは「FF13の主人公・ライトニング」をある任天堂キャラクターに捕食される(?)ネタにした事への抗議なのだが、むしろ同じくネタにした「その任天堂キャラクター」の漫画上の描写の方が酷かったりする。

あくまで推測にすぎないが、過去の任天堂との間に受けた確執の影響がどんなものだったか痛感している故に、組み合わせにおける不適切なネタをスクエニ側が許諾したと勘違いされないよう過敏になっていたのではないかとの見方もある。結果第9話は単行本未掲載となった。一方、この件で任天堂側が抗議したという話は特に出ていない。


2019年にはFF7・FF9・FF10・FF10-2・FF12もHDリマスター版としてニンテンドースイッチでリリースされた。オンライン専用のFF11・FF14(オンラインではないFF13は理由不明)はともかく、FF8が何故含まれていないのかは不明と言われていたが、RPGamerはその理由について『最新機種(SWITCHPS4)に移植しても許容できないほど3Dグラフィックが醜い。中途半端にリアルなグラフィックは解像度の上昇には耐えられない』とコメントしており、要するに予算や解像度の作業にコストがかかってしまうことから見送ったとの事。また、オリジナルのソースコードが失われているとの話もあったが、諸問題が解決したのかFF8リマスターも2019年にリリースされる事となった。


断絶期もしくは和解に至った頃の作品が任天堂のゲーム機に出るのは何とも感慨深いものである。


関連イラスト

魔界塔士Sa・Ga

集合


関連タグ

スクウェア スクウェア・エニックス 任天堂

スクウェアソフト:1992年から2003年3月までの製品に使われていたブランド名。

デジキューブ:スクウェアによって設立された子会社。コンビニでのゲーム販売を主に行っていたが、スクウェア・エニックスが誕生した後も存続していたが、同年12月に倒産。2006年には法人消滅。


主な関係人物

  • 宮本雅史(創業者、初代社長)
  • 鈴木尚(創業者、4代目社長)
  • 水野哲夫(2代目社長)
  • 武市智行(3代目社長)
  • 和田洋一(5代目社長、スクウェア・エニックス設立後も引き続き担当)
  • 坂口博信(2001まで副社長)
  • 植松伸夫(FFシリーズなど多くの作品で作曲を担当)
  • 下村陽子(ライブアライブ、パラサイト・イブなどの作品で作曲を担当)
  • 菊田裕樹(聖剣伝説シリーズの作曲を担当)
  • 天野喜孝(FFシリーズのキャラクターデザイン、美術担当)
  • 鳥山求(ババムートラグーンのプランナーなど)
  • 野島一成(ババムートラグーンのディレクター、キングダムハーツのシナリオ担当など)
  • 野村哲也(キャラクターデザイン、キングダムハーツのディレクターなど多数担当)

スクウェア社員が独立して立ち上げた会社


エレクトロニック・アーツ:同社の日本進出と、スクウェアの海外進出の為に一時期提携していた。


ファイナルファンタジー7:任天堂との確執を引き起こした直接の原因というイメージが強く残ってしまっていた作品。実際の確執の原因は先に述べている通り。


ヨヨ:よりにもよって当時のスクウェアはこのポジションに近かったといえる。細部は異なるがかなり似たところがあった。


興味ないね:まさに当時のスクウェアに対する任天堂の反応だったと言える。スマブラではクラウドの上アピールとして採用。


エスーシャ新次元ゲイムネプテューヌVⅡ):劇場版FF製作のエピソードとモデルとしたクラウドを含めて作られたモチーフキャラ。流石に任天堂との関係悪化までは設定に採用されていない。モチーフキャラなのか一時期、スマブラの他社組に似ていると言われていた。


スクエア:社名の由来。


外部リンク

スクウェア(ゲーム会社)- wiki


元スクウェア・エニックス社長の和田洋一のnote「そろそろ語ろうか(その壱):当時のスクウェアの内情とデジキューブの顛末、スクウェア・エニックス後について


元スクウェア・エニックス社長の和田洋一のnote「そろそろ語ろうか(その弐)」:任天堂との確執と和解の話

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