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松本零士の編集履歴2023/02/27 07:15:05 版
編集者:ドレクスラー
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松本零士

まつもとれいじ

「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」、「宇宙海賊キャプテンハーロック」等で有名な日本の漫画家。(1938~2023)

プロフィール

本名:松本晟(まつもと あきら)

1938年1月25日、福岡県久留米市に誕生。生年月日は石ノ森章太郎と同じである。

妻は漫画家の牧美也子

日本の漫画・アニメ界に「スペースファンタジー」というジャンルをぶち立てた、SF漫画の巨人。

宇宙空間を「未知の空間」から「壮大なドラマの舞台」へと昇華させたのは、日本のサブカルチャーにおいてはこの人の功績も大きい。

そして、多くの作品がアニメ化されたが、松本自身もアニメ制作に深く関与した。

松本が関わったアニメは商業的にも大成功を収めてアニメ市場の育成に大きく貢献した。

その作風はのちの多くのクリエーターたちに絶大な影響を与えた。

日本の漫画・アニメ文化に対する貢献から、紫綬褒章、旭日小綬章を得ている。

近年は、漫画家団体の要職を務め、業界の発展にも寄与した他、宇宙戦艦ヤマト著作権関係や槇原敬之の歌詞絡みなど、アニメーション漫画におけるクリエーターの著作権保護について積極的な言動を行って、時には訴訟にもなって世間を騒がせたが、サブカル界の著作権意識向上にも繋がり、結果的には後輩たちの権利強化に貢献した。

(ちなみに槇原とは和解し、槇原のファンクラブクリスマスカードイラストを松本が描いたりしている)

また、表現規制問題については、漫画家(現参議院議員赤松健らと共に、クリエーターの中心的存在として積極的に活動し、児ポ法改正反対運動では、政治家にロビー活動活動も行うなど大きく貢献しており、マンガやアニメといった創作物は規制の対象外となった。そういう意味では、漫画やアニメなどに加えて、このピクシブの恩人のひとりとも言えるであろう。

有名な弟子に漫画家新谷かおるがおり、松本の作品に新谷が、そして新谷の作品にも師匠の松本がそれぞれ登場している(『キャプテンハーロック』の登場人物ヤッタラン副長が新谷モチーフのキャラ)。また、新谷の弟子に漫画家の島本和彦ゆうきまさみらがおり孫弟子にあたる。

その貢献は、漫画・アニメといったサブカル界に留まらず、特に宇宙開発系で、松本の作品に触れて宇宙に興味を抱いたという業界関係者も多く、日本と言うか全地球の宇宙開発技術の発展にも貢献しているのである。

トレードマークは赤いドクロのマークが入った帽子(通称:零士キャップ)。

これは松本が45年以上にもわたって被り続けているもので(従って若い頃の写真や映像では被っていない)当初は執筆するときにが邪魔になるからと市販のベレー帽野球帽を被っていたが、それを見かねたアシスタントの女性が手縫いで帽子を作って松本にプレゼントしたもので、その後も帽子が古くなるたびにその女性が新調してくれていた。

素材はニットでドクロマークも手縫いで縫い付けられたもの。最初は白い糸で縫い付けられていたが、松本が「俺は生きているから血の通った赤に」とペンで赤く塗ったので、その後新調されるときは赤い糸で縫い付けられるようになった。

また、過去の取材のときには「ドクロは生きる証、そしてペンを持って戦う戦士の象徴」とも話している。

松本の言う通り、生きている間はこの赤いドクロの帽子を被り続けたことになる。

なお親友のちばてつやと一緒にトークショーに呼ばれた際、互いの帽子を交換して登壇するというお茶目をやって観客席を沸かせたというエピソードもある。

趣味は古書の漫画単行本を収集することで、自ら古本屋などに足を運んで地道に集めた漫画古書は数万冊に及んだ。ときには原作者も持たないような貴重な古書もあり、藤子不二雄の連名による唯一の書下ろし単行本『UTOPIA 最後の世界大戦』も所有しており、のちに松本所有の原本を元にして完全復刻版が出版されたこともあった。

2023年2月13日に急性心不全で逝去。満85歳没。

親友でもあったちばてつや、弟子の新谷かおる、その他貞本義行柴田亜美江口寿史などの多数の同業者、銀河鉄道999シリーズでおなじみの野沢雅子池田昌子声優やファン以外にも、日本政府、政財界、鉄道各社、フランス大使館JAXAなど各界からその偉大な功績に対して追悼のことばが送られた。

経歴

誕生

1938年に福岡県久留米で誕生。

松本が誕生したときには日本は戦争中であり、まもなく1941年には太平洋戦争が始まった。

松本が7歳となった1945年には既に日本の敗色は濃厚となっており、日本上空にアメリカ軍航空機が襲来するようになっていたが、松本は敵味方機問わず空を飛行する航空機に憧れを抱くようになって、これがのちの『漫画家松本零士』の誕生のきっかけともなった。

そんなある日、松本少年はグラマンF6F「ヘルキャット」に機銃掃射されたが、幸運にもケガすることもなく無事であった。

命の危険にさらされたはずの松本少年であったが、航空機に対する興味を失うこともなく、その後も来襲するアメリカ軍機を眺めていたという。

その年に終戦となり、松本の父・松本強は叩き上げで陸軍少佐にまで登った軍人で陸軍航空隊のテストパイロットも務めたが、戦後は「敵国の兵器に乗るつもりなどない」と自衛隊(当時は警察予備隊)への勧誘を蹴って貧乏暮らしだった。松本は父の誇り高い姿に感化され、漫画家となってからは父の性格をモデルにしたキャラクターを幾人も世に送っている。

母は教師で、よく自分の宿題を細かく添削してくれたという。頑固一徹の父に苦労しつつ、それに耐えて家族を支える姿を間近で見ていた。

駆け出し漫画家時代

幼いころから松本は、海野十三をはじめとしたSF作品に親しみ、小学校の学級文庫にあった手塚治虫の作品群に触れ、高井研一郎らと同人サークル「九州漫画研究会」(石森章太郎主宰の「東日本漫画研究会」の九州支部)を結成し、同人誌「九州漫画展」を主宰する。

1954年、高校一年の時に「漫画少年」(学童社)に投稿した『蜜蜂の冒険』が掲載されてデビューを飾り、その後に『毎日小学生新聞』から正式な掲載依頼があり、商業漫画家としてのデビュー作となる『三ツ太郎都へ行く』という作品を執筆している。今となってはピンとこないが、松本の当初の作品は昆虫ものが多く、松本の引き出しの多さを実感できるだろう。

その後も『毎日小学生新聞』に多くの漫画が掲載され、憧れの手塚治虫からも知られる存在となった。

1957年、少女漫画誌『少女』(光文社)での連載が決定して上京。

なお、手塚は上京したばかりの松本に目をかけて、自宅に泊めたりと何かと世話をしている。

また、『鉄腕アトム』の連載で急遽臨時アシスタントを頼んだこともあった。手塚は多数のレジェンド漫画家とこのようなエピソードを持っており、後輩の才能を見抜く能力と面倒見の良さと漫画業界への貢献度は比類するものがないレベルであろう。

まずはペンネーム「松本あきら」として少女漫画誌で活動し、本郷文京区)の「山越館」に下宿した。

ちばてつや高橋真琴、牧美也子らとは本郷にあった講談社御用達の缶詰用旅館「太陽館」で始終顔を合わせており、同人誌を作るなど親しく交流した。

伝説的な漫画家たちの梁山泊トキワ荘』には直接関係なかったが、入居者とは交流があり、特に憧れであった手塚や同級生の石ノ森と親しかった。

この3人の親しい関係のエピソードとして、松本のところに石ノ森から「手塚先生が(締切に間に合わず)原稿を落としそうだから手伝ってくれ」という連絡があったが、松本も自分の連載で手が離せず、散々悩んだうえで石ノ森に断りと入れた時に目が覚めて、それが夢オチに終わってホッとしたという経験を語ったこともあった。

ちばてつやとは、半同棲の生活時代から実に70年近くの付き合いとなる親友となり、松本の猿股(パンツのこと)に生えた謎のキノコ(のちにヒトヨタケと判明)をちばに炒めて食べさせるといった、昭和ならではのヤンチャエピソードも残っている。なお、その松本も手塚からイタズラチョコレート入りうどんを食わされたことがあったが、手塚を敬愛していた松本はそれをイタズラとは思わず喜んで食べたそうである。

講談社御用達の缶詰用旅館「太陽館」で親しかった漫画家牧美也子と結婚。牧は少女漫画家のトップグループに君臨しており、様々な実績も挙げていたが(タカラトミー(旧タカラ)の着せ替え人形リカちゃん』のデザインも担当している)、一方で松本は漫画家としてはなかなかヒット作に恵まれず、この頃は妻の牧に養ってもらっている状態であった。

しかし夫婦仲はとてもよく、編集者(のちの少年画報社社長)がいつもあてつけられているほどであった。

1968年に『漫画ゴラク dokuhon』(日本文芸社)で『セクサロイド』(ペンネーム:松本零士)を連載し、青年誌に進出。現在の作風が確立された。

1971年、『男おいどん』がヒットし、講談社出版文化賞を獲得。

なお大ヒットとなった『男おいどん』は実写映画化企画が進んでいたが、主人公の大山昇太役が当時の大スター郷ひろみに内定したことを聞いた松本が「イメージが違いすぎる」と制作直前になって断りを入れ、企画がボツになったこともあった。(それはそれで見てみたかった気もするが・・・)

アニメとの関り

アニメ制作への憧れはデビューまもなくから抱いており、同じようにアニメに興味を持っていた手塚と石森と「本格的なアニメを作りたい」と夢を語り合い、一般に流通していような舶来の映像器具を共同で購入して共有していたこともあった。

しかし、アニメに市民権がない時代で、警察から何か怪しい闇商売に関与していると疑われて、3人の自宅が家宅捜索されたこともあったという。

やがて手塚は虫プロを立ち上げ、本格的なアニメ制作にとりかかっていくが、そんなある日、夜の10時ごろに『鉄腕アトム』のアニメを制作していた手塚から突然「映写機が壊れたから編集ができん助けてくれ」という連絡があった。

敬愛する手塚のSOSに慌てて、自分の車に映写機(共有していた機材かは不明)を積んで駆け付け、どうにか撮影と編集に間に合って、無事に試写会を開催できたという。

従って、松本の映写機が無ければ、『鉄腕アトム』の試写会がどうなっていたかわからなかったことになり、日本アニメ界の誕生期にも大きな貢献をしたことになる。

1974年、西崎義展ら倒産した虫プロアニメーターらが企画していたテレビアニメシリーズ『宇宙戦艦ヤマト』のプロジェクトに、セクサロイドを評価していた西崎からの声掛けで参画し、当初メカニックデザイン担当だったところを、かねてからアニメ制作に強い意欲があったことから、全面的に監修する立場となる。

西崎以外の虫プロ勢が途中で脱落していくなか、世界観構築やメカニック、キャラクターデザインなどを手掛け、絵コンテも描くなど松本がこの作品に果たした役割は大きかったが、あくまでも原案は西崎ら旧虫プロ勢であり、のちに知的財産権を巡って松本と西崎の裁判になったときは、「原案」は西崎、「総設定・美術・デザイン」などは松本として和解している。逆を言うと作品の根幹部分は松本が担っていたということになるだろう。

よく勘違いされるが、松本の描いた漫画版は原作ではなくコミカライズである。

『宇宙戦艦ヤマト』のテレビシリーズは裏番組(『アルプスの少女ハイジ』)が強力だったため低視聴率に終わったが、のちの映画化で人気が爆発し社会現象ともなり、『さらば宇宙戦艦ヤマト』などの続編も制作されて、宇宙戦艦ヤマトシリーズとして続いていくこととなる。

『宇宙戦艦ヤマト』のヒットによってそれまでの『テレビまんが』が『アニメ』として社会に定着し、月刊OUTアニメージュといったアニメ専門誌が出版されていくこととなり、今日に続くアニメオタク界が形成された。

松本はこの成功によって、アニメ界に関わっていくようになった。

松本の実績に目を付けた東映動画からアニメのイメージクリエーターとして声がかかり、『惑星ロボダンガードA』や『SF西遊記スタージンガー』の制作に関わってスマッシュヒットを記録し、アニメ業界での存在感を高めた。

その後に満を持して、自らのアニメ化を想定して原案をあたためてきた『銀河鉄道999』や『キャプテンハーロック』などのスペースオペラ作品のアニメ化にも着手して大ヒットとなり、その道の第一人者としての地位を確立した。

特に『銀河鉄道999』が残したアニメ界における貢献は絶大であり「オタキング」岡田斗司夫によれば、それまでどちらかと言えば日陰的な扱いであり、上映する映画館すら少なかったアニメ映画を、その圧倒的な商業的成功によって実写映画と同じ位置まで引き上げたのは『銀河鉄道999』の劇場版であったという。

それはアニメ界の二大巨星『宇宙戦艦ヤマト』と『機動戦士ガンダム』でもなし得なかったことであり、今日当たり前にアニメ映画が定着して多くの映画館で上映され、次々と興行記録を塗り替える程の隆盛を迎えるようになったのも、『銀河鉄道999』の存在あってこそであった。

さらには『機動戦士ガンダム』も、旧虫プロ勢として『宇宙戦艦ヤマト』に関わった富野由悠季が、打倒『宇宙戦艦ヤマト』を目指して制作したものであり、両作品のなかには多くの共通点も見られるなど大きな影響を受けている。従って松本は、日本アニメの黎明期を支えた『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』『機動戦士ガンダム』に直接的間接的に関わるという、アニメ界でも大きすぎる足跡を残した。

1980年には、フジサンケイグループとのコラボで『新竹取物語1000年女王』によって、現代でいうところのメディアミックスを展開。新聞紙面での漫画連載、フジテレビでのテレビアニメ放映、ニッポン放送でのラジオドラマ、それに完全新作で劇場版も制作したが、スペースオペラブームも陰りが見えており、商業的に成功とは言い難かった。

その後テレビで『クイーン・エメラルダス』を企画化するころにはブームが終焉し、企画の頓挫から以後はアニメ化されることは無くなった。

伝説的漫画家として

1980年代から漫画関係や宇宙開発に関連する団体に積極的に加盟して役職を務め、漫画家としては自身の作品群の総括に入るなど、舞台袖でのまとめ業に取り掛かっていく。

多数の漫画関係や宇宙関係の施設の名誉館長を務めたが、そのうちの『郡山市ふれあい科学館』においては、その影響力を惜しげもなく発揮し、自ら直接JAXAと交渉してロケット現物の展示を成功させたりしている。

松本が宇宙関連団体に積極的に関与した理由として「子供たちに宇宙に関心を持ってもらいたい」と述べているが、その理想は見事に実現したものと思われる。

1990年代になると、松本零士作品で育った世代のアニメーション監督が増え、再び自らの作品がアニメ化されるようになった。

また、過去の作品が次々とゲーム化されて、若い世代にも知名度が広がっていくようになった。

2000年以降は制作活動の第一線を退いて、宝塚造形芸術大学の客員教授となったり、夫婦で作品展を開くなどの穏やかな活動が主となった。

切磋琢磨した同世代の伝説的な同業者が次々と亡くなっていく中、業界の重鎮となった松本は、日本漫画家協会の常務理事を務めるなど、業界の取りまとめや後輩の育成にも尽力し、上記の通り、業界の危機となった児ポ法改正反対運動のときには、先頭に立って政治と交渉し業界を守り抜いた。

そのとき中心の一人であった赤松によれば、政党党首であろうが大臣であろうが、松本やそのとき協会理事長であったちばてつやの名前を出せば面談を断る政治家はおらず、交渉の場でもレジェンド2人の前では終始ニコニコしており、松本が熱弁する「日本漫画のすばらしさ」に対して反論することもなく(そりゃレジェンドに対して反論できんだろ)、「漫画を守ろう」という流れに自然となっていき、その圧倒的な存在感を示している。

松本の作品は全世界で愛読され、フランスで勲章を受章するなど、世界各国に招待された。そんな中で、2019年に訪問先のイタリアで体調を崩して病院に搬送されたが、大事に至らず数日で退院し、日本に帰国している。

そして上記の通り2023年に逝去。最期は自身が銀河鉄道999(もしくは、ヤマトかジャスダムアルカディア号クイーン・エメラルダス号他多数に乗り放題である)に乗り、星の海に旅立って行ったのだった.......。

作風

少女漫画、戦記、ダメ男の日常、SFその他、多くのジャンルを手掛けて、その広い作品範囲は『4畳半から宇宙ロマンまで』とも言われたが、やっぱり松本の作品群で最も印象深いのがスペースオペラものであろう。これは松本が宇宙へのあこがれが強いロマンチストであり、強い拘りと豊かな想像力を駆使し執筆していたためである。

ロマンチストでありながらも、漫画描写については徹底したリアリストでもあり「実在する兵器については、写真や設計図等を基に忠実に描く」ことをモットーとしている。

メカニック描写に対する拘りは尋常ではなく、その細かく精緻な書き込みは読者を圧倒する。特に宇宙船内などに所せましと書き込まれたメーター(通称『松本メーター』)が有名。

松本がメカの描写に拘った理由を弟子の新谷に語ったことがあるが「飛行機や戦車は小道具や大道具ではない。ひとつのキャラクターで、主人公と運命をともにする友達なんだ」ということであった。

兵器への愛が深すぎて、戦艦大和が坊ノ岬沖で発見された際、船体が前後に断裂して転覆していたと知るや、泣いて悔しがったというエピソードは有名。また、厚木基地を訪れた際には、当時の自衛隊の基地司令官から、終戦時に旧日本軍の航空機が大量に地下に埋められたという話を聞いて、すぐにでもその『』を掘り出したいとも述べ、実際にもすぐにでも掘り出しに行きそうな勢いだったが、アメリカ軍も駐屯しているので無理であった。

また、多くの場合で漢のロマンの追求というべき作品を上梓している。

これは松本自身の口癖でもあり、常に「男は~」とか「男のロマンは~」と口走っていた。(今日の男女平等のご時世では叩かれそうであるが、あくまでも昭和の概念ということで)

ある日弟子の新谷が「先生がいつも言ってる男のロマンってなんですか?」と聞いたところ松本は「首まで泥水につかっていても、星を見上げようとすることだ」と答え、新谷は「自分の師匠はこの人しかいない」と感動したそうである。

この本人の言い回しのように、松本の作品のせりふ回しは詩的で印象的なものが多く、作品の感動を一層深めている。

ただ、アイデアに溢れすぎているばかりに、物語の風呂敷を際限なく広げてしまうため、その風呂敷を畳むのは下手糞とも言われ、長編は尻すぼみになりがち。

後年には自分の作品群を関連させて『松本作品サーガ』を構築しようとしていたが、どうしても後付け設定で無理があったり矛盾するものも多かった。(雪野弥生プロメシュームとか雨森始メーテル親父ドクター・バンとか)

その広大すぎる風呂敷の典型例が、代表作である銀河鉄道999である。

「アンドロメダ編」こそは、一つの惑星で一つの短編を作るような作風だったのが功を奏したのか、またアニメがテレビも劇場版も見事なエンディングを迎えられたこともあって、松本の作品では非常に美しく終わる事が出来た名作であった。

しかし本人の思い入れも強く、続編「エターナル編」の連載を開始。

映画化もされたが(ALFEEによる主題歌『Brave Love ~Galaxy Express 999』は名曲との評価も高い、ゴダイゴの『銀河鉄道999』といい、メアリー・マッグレガーの『SAYONARA』といい銀河鉄道999の劇場版は音楽に恵まれている。当然、テレビ版のささきいさおが歌うオープニングも名曲)、連載中断となり、その後も『幻想新幹線0』、『無限創造軌道 80th ANNIVERSARY クロニクル』など世界は広まる一方であったが、松本が逝去し残念ながら(松本本人の作品としては)全てが未完に終わった。

あと、アニメ化に恵まれた印象の松本作品にしては意外にも、漫画・アニメのメディアミックスのコミカライズが尻つぼみとなることも多く、有名どころでは『宇宙戦艦ヤマト』の漫画が途中をバッサリとカットしたダイジェスト版となったり、続編の『さらば宇宙戦艦ヤマト』に至っては物語途中で未完となっている。

もっともネタ扱いされるのは『惑星ロボダンガードA』であろう。アニメにもイメージクリエーターとして関与したが、もともと松本は巨大ロボットものが好きではなく、漫画版については主人公メカであるダンガードAがなかなか登場せず、最後の1コマでようやく登場しただけであった(それもただつっ立っているだけ)。

クラシック音楽の愛好家で、特にリヒャルト・ワーグナーの作品群には強い影響を受けたと語る。この辺りについても、作品の各所に滲み出ている。

松本の作品には、長い髪の毛、スレンダースタイル、切れ長の瞳が特徴的な美女、いわゆる『松本美女』が登場することも特徴と言えよう。

特に『銀河鉄道999』に登場するメーテルは、声優の池田ボイスも相まって、アニメを見た多くの少年たち(今やおじさんもしくはおじいさんになってしまったが)の初恋の女性となったことでも有名である。

今日でいえば二次元の彼女とか俺の嫁と言ったところか・・・

『松本美女』については、漫画界の神、いわゆるゴッドこと手塚治虫に『ブラックジャック』作中でイジられたこともあった。

ちなみにメーテルは作中でよくになるが、あれは別に松本の趣味ではなく、編集者からの要求であったとか・・・(あとは読者からの期待)

あと、キャラを愛するばかりに、ギャグに使うことには厳しく、ヤンキー漫画の金字塔『カメレオン(漫画)』の作中でメーテルと星野鉄郎が茶化されると「大事なキャラクターを汚された」と激怒して、作者の加瀬あつしを自宅に呼びつけて一晩中説教したらしい。(でも、もっと前に江口寿史も『すすめ!!パイレーツ』で同じようなことやってたし、SMAP×SMAPコントでもやってたような・・・どこまで本気だったのか(笑))

ただ、加瀬は松本の永年のファンでありむしろご褒美だったのでは?訃報に対してもTwitterでお悔やみの言葉を送っている。

食べ物の描写も特徴と言えるだろう。

特にラーメンビフテキの美味そうな描写には定評があり、ラーメンライスの普及に松本の作品が多大な貢献をしたことは言うまでもない。

また、今日ではステーキと呼ばれることが殆どであろうが、昭和の時代は松本作品の影響もあってビフテキと呼ばれることも多かった。そして、ビフテキが憧れの高級料理と刷り込んだのも松本の作品の影響が大であろう。

これは、駆け出しの漫画家時代に、互いに切磋琢磨していた親友のちばてつやと「有名漫画家になって座布団のようなビフテキを食べたい」と語り合っていたことが元となっている。

戦争マンガ

『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』で爆発的に名前が売れた結果、悪書追放を要求する過激な市民団体に目をつけられ、『戦場まんがシリーズ』(『ザ・コクピット』)を以って戦争賛美の戦争マンガ家に仕立て上げられてしまう。

実際の『戦場まんがシリーズ』はけっして戦争賛美な内容ではない、この頃の悪書追放運動家は「見たくもない醜悪な内容」ということで本当に読んでいない

松本以外のミリタリー好きの大御所同業者と言えば、真っ先に宮崎駿の名前があがる。

松本と宮崎で共通しているのは、兵器に対する拘りと愛情が深すぎて、その描写の緻密さとマニアックさと知識は余人を寄せ付けないレベルにあるが、と言ってその兵器が活躍する戦争に対しては決して賛美はしない、むしろ反戦的な立ち位置にあるというところだろう。これは両人とも戦争を実際に体験した世代ということも大きいものと思われる。

松本の反戦思想は、『戦場まんがシリーズ』で人気のエピソード『音速雷撃隊』によく表れており、特攻兵器『桜花』に翻弄される主人公を始めとする登場人物(敵味方問わず)の悲劇を見事に表現している。

松本の反戦思想の根幹には父からの「人は生きるために生まれてくる、死ぬために生まれてくる命はないぞ」という言葉があったという。

そのため、反戦運動や自殺防止運動などにも積極的に参加して、新聞紙上などで自分の想いを熱く語ることも多かった。

と言って、憲法9条死守のいわゆる護憲派ではなく、むしろ憲法改正容認派であった。思想的には、護憲派の理想的なリベラルではなく、「戦争に負けて惨めな想いを二度と味わわないように、憲法を改正して必要な抑止力を整えよう」という現実的平和主義であったようだ。

ただし、松本も媒体に応じてそれなりのポジショントークをしており、また、大物なだけにその影響力を利用しようと、発言を切り取られて利用されることも多く、見方によっては主張が一貫してないようにも見えてしまうが、そもそもクリエーターやその作品に対して、過度に政治性を求めることが不自然なのであって、純粋に作品を楽しむことが一番であると思われる

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