武田信玄
たけだしんげん
武田信玄(史実)
戦国時代屈指の騎馬軍団を有し、また優秀な家臣団を従えていた。
孫子を信奉し愛読した希代の軍略家としても知られている。とりわけ、旗印に掲げた孫子の一節「風林火山」は非常に有名(意味については当該記事参照のこと)。
その優れた能力から後世の人々からは甲斐の虎、甲斐の龍などと呼ばれるようになった。
生涯
甲斐国守護武田信虎の嫡長子として誕生。幼母は西郡の有力国人大井氏の娘・大井夫人。幼名は太郎。ただし、近年では彼の生まれた時点では嫡長子ではないとされており、1517年に竹松という4歳年上の兄が生まれていたが、彼が僅か7歳で夭逝した為、太郎が嫡長子になったという説が有力視されている。
元服後の名前は武田晴信。その後父である信虎を追放し、家督を相続する。
そして法号・「徳栄軒信玄」を名乗った。
領土をめぐる対立で、北条氏康や今川義元らと激突していたが、上杉謙信という共通の脅威に対することで利害が一致、天文23年(1554年)「甲相駿三国同盟」を結ぶことに成功した。
しかし、その同盟も永禄3年(1560年)5月、義元が桶狭間の戦いで戦死し、今川氏の支配体制が揺らぎはじめると、永禄11年(1568年)の武田軍の「駿河侵攻」によって崩壊することになった。
また、上杉謙信との対立は、5度にわたる川中島の戦いが知られており、特に熾烈を極めたのは永禄4年(1561年)の第四次・川中島の戦いであった。
この戦いにおいて信玄は妻女山にこもる謙信に別働隊が夜討ちをかけ、あわてて山を駆け下りてきた上杉軍を別働隊とともにはさみうちにする策を講じたが、謙信は武田軍が立てるかまどの煙が少ないことから夜討ちがあることを察知、上杉軍は夜陰に紛れひそかに山を下り、武田軍を急襲する。
作戦を逆手に取られた武田軍は副将・武田信繁(信玄の弟)、山本勘助などの有力武将を数多く失い、信玄自身も負傷するなどの苦戦を強いられるが、作戦が失敗したことを知った武田別働隊の到着により辛うじて窮地を脱することに成功した。
だが、信玄は晩年に謙信と和睦(甲越和与)している。
そして信玄と謙信の死後、彼らの後を継いだ武田勝頼と上杉景勝は同盟(甲越同盟)を締結した。これに伴い、信玄の娘・菊姫が謙信の後継者・上杉景勝と結婚した。
織田信長とは同盟を結んでいたことがあったが、のちに破綻。元亀4年(1573年)、京都への上洛を目指すのだが、時間を掛け過ぎた事が命取りとなった。
上洛の途中、三方ヶ原の戦いで徳川家康率いる軍を完膚なきまで押し潰したが、首実検の最中で信玄は突如吐血。続く野田城の戦いにも勝利したが、持病はどんどん悪化する一方となり、長篠城での療養も効果は無く、遂に甲斐への撤退を決定し戻る中、陣中で死去した。
死因は結核とも胃癌とも言われているが、一説には持病が悪化して城に帰る途中狙撃されその傷がもとで亡くなったという説もある。
信虎追放に関して
信虎の追放に関して、諸説あるが
甲斐国志によれば互いに合意の上で、信虎が隠居したとされる。
今川義元が追放に協力(共謀)していたとする説もある。
勝山記などから経済的な疲弊が追放の要因の一つであった可能性を示唆されている。
信虎の統治時代に外征の軍資金を確保する為に領民や国人衆に重い負担を課していたり
周辺諸国と激しく対立していた影響で
永正16年(1519年)に今川氏との対立による路次封鎖と凶作の影響による物価高騰
享禄2年(1529年)に小山田氏との対立による路次封鎖で物価高騰
路次封鎖によって物資が届かない事や国内の凶作が、幾度かの物価高騰や飢饉を招いた。
天文9年(1540年)にも大飢饉(天文の飢饉)が起きた事によって
領民から信虎への反発や不満が、かなり高まっていたという。
この事態を重く見た晴信や家臣(板垣信方・甘利虎泰・飯富虎昌など)、弟の信繁も追放に協力にしたと言われており、最終的に駿河へと追放が行われたとされる。
(駿河にある今川家は、信玄の姉である定恵院が嫁いでいる)
以後、信虎の隠居費用を晴信が今川家に支払い続けたり、信虎が諸国巡りをして高野山引導院を参詣した時は、晴信が弟の信繁を介して高野山引導院に謝礼を行っていたりと、度々父の世話をしていた。
人物像
長所
戦略家・戦術家としては「越後の龍」と称されている上杉謙信と並び非常に優秀で、また隠密集団である「三ツ者」や「歩き巫女」といった組織を結成する事によって情報収集においても高い能力を発揮している。
正室の三条夫人と夫婦仲が良かった。快川和尚(快川紹喜)の円光院の葬儀記録によれば
「武田信玄公とは、比翼の契り、夫婦仲が睦まじかった。」「夫人は信玄公のお考えに寄り添って行動されていた。」「信玄公を中心とする武田家のその歩みは、夫人の遺徳を守る意気と心映えが大地の様にしっかりと正直に豊かに嘘偽りなく、目的に向かって進んでいます。」と記したとされる。武田家の近習衆の警護等を務めていた御料人衆がおり、五味新右衛門をはじめ十人の家臣が三条夫人に付けられていたという。
また『円光院寺伝』によると、信玄が臨終間際の際に馬場信春を呼び寄せ、信玄が日頃から信仰していた陣中守り本尊と刀八毘沙門及び勝軍地蔵を託して
三条夫人の墓がある円光院に納めてもらう様に伝え、更に自分の遺体も円光院に三年間密葬させるよう遺言したという。この二体の仏像の方は遺言通り、現在も円光院に所蔵されている。
次男、信親の目が治癒する事を祈る願文(1556年(弘治2年)疱瘡によって失明したとされる)や
長女、黄梅院の安産を祈願する願文(1557(弘治3)年と1566(永禄9)年の二通「富士御室浅間神社文書」 2019年発表の論文により、黄梅院は嫁ぎ先である北条に残り小田原城で氏政の正室として最期を過ごし、亡くなった事が史料の再検証や北条家の供養記録の検証などにより判明している(病死と言われている))など、子の健康や安産を想い祈願する願文が現存している。
信玄は数多くの和歌や漢詩を残している。詩歌は「武田晴信朝臣百首和歌」「為和集」「心珠詠藻」「甲信紀行の歌」等に収録され、漢詩は「武田信玄詩藁」として編纂されている。
また、集外三十六歌仙にも選ばれている。(後水尾院の勅撰あるいは後西院の勅撰と伝えられている)絵も嗜んでいたとされており直筆作と伝わる「百合蝶の図」 と 「蘆雁の図」が現存している。
恵林寺の再興、誓願寺の再建・境福寺の再建・北口本宮冨士浅間神社の東宮本殿の再建・武田八幡宮の再建・円満寺の再建の援助、慈雲寺の境内の整備を援助など数々の寺院の再建や援助を行っている。
人身掌握にも長けており、家督を継いだ後は、内政に力を注いでいく事になり、治水事業である「信玄堤(しんげんつつみ)」を築き、「甲州法度」によって領地である法秩序を整えていき、更には金山開発によって財政も固めていった結果、「武田二十四将」と称される家臣達の信頼を得ている。
信玄の治める甲斐の土地は、山地である事から耕作の可能面積が少なく、川の急な流れにより幾度も氾濫しやすい等の農耕に不向きな土地である事や、海が無い故に塩や海産物の供給を得られない、更には風土病(正式名日本住血吸虫症)といった様々な問題を抱えており、これらの状況を改善するべく領土拡大をしたかったという側面もある。
信玄は領国内の度量衡の統一、領国内の交通路を整備して伝馬制度を確立、治山や治水工事、新田開発、鉱山や森林資源の開発を行ったり、小麦・大麦・大豆・蕎麦・粟・ひえ・きびの穀物類を作る事を領民に推奨する等、厳しい環境に置かれている甲斐が出来る限り改善するよう努力していた。
また、外交においては今川氏、北条氏や織田氏などと同盟・婚姻関係関係等を結ぶ事で背後の敵を極力減らす事に成功している。
多くの金山を支配下に置き、恩賞として甲州金という小粒の金塊を配下の武将に与えたことでも知られている(ちなみに、金山奉行をつとめた大久保長安は、武田氏滅亡後は徳川家康に仕えている)。
信玄は戦において、「確実な勝利を得る」為に、様々な形で磐石な体制を整えた上で戦いを挑んでおり、及ぶ生涯の戦の中で、敗戦は3回しか経験しなかったとされ、最盛期において信玄は名実共に「戦国時代最強の武将」として名を轟かせていった(ただし、敗戦こそ少ないものの、自軍の損害もかなりの物となっているのも事実で、有力な配下を失ってしまった戦いも多い)。
有名な兵法書「孫子」からとった「風林火山陰雷」を馬印とした武田軍は、当時最も驚異的に勢力を拡大化させていた織田信長でさえ、「武田軍の強さは天下一」と恐れさせる程であったと、宣教師ルイス・フロイスの記録において語られている。
- 第4次・川中島の戦いの勝敗はいまもって評価の分かれるところである。戦いの前半は上杉軍が武田軍を圧倒し、武田軍は多くの有力武将を失うことになったが、戦いの後半に武田別働隊が到着すると今度は武田軍が上杉軍を圧倒することになり、多くの上杉兵が討たれることになった。結果として、名のある有力武将を数多く失った武田軍も、武田軍以上に戦死者の多かった上杉軍もそれぞれに勝ちどきを上げることになり、双方、痛み分けという形で領国に引き揚げることとなった。
信玄は、自国の領民を大変愛しており、領民にも平気で暴力を振るう者も数多くいた戦国武将としては大変珍しいレベルで、領民に危害を加えていない。領民に不満を持たれていた時期があった父を反面教師とした部分もあっただろうが、『甲州法度』にも領民を積極的に保護する法律を多く加えている。
短所
様々なフィクションで、信玄は正義感の強い人情家として描かれるのに対し、実際は政治能力に長けていても、合理性を追求するあまり、仁義の志は低かったという評価もある。
また、生涯において70回にも及ぶ形で積極的に戦争を起こした事実や、信長の比叡山焼き討ち以上とされる神社仏閣の破壊や略奪を繰り返し(ただし、恵林寺の再興、誓願寺の再建・境福寺の再建・北口本宮冨士浅間神社の東宮本殿の再建・武田八幡宮の再建、円満寺の再建を援助、慈雲寺の境内の整備を援助などもしている)、更には父・信虎を追放(信虎統治時代に幾度か起きた飢饉や物価高騰、信虎と家臣の対立など信虎に対して不満が溜まっていた家臣や領民を救おうとしたという経緯がある)した経緯から身内に対しても猜疑心が強く邪魔となれば容赦無く排除していた等から、非常に好戦的で冷酷な部分もあったとされている。
武将として、様々な戦において勝利を重ねていった結果、次第に増長していく傾向の見られる様になった信玄は、身内の心情や意見も省みようとしない苛烈な策略や戦後処理も辞さなくなる事もあり、数少ない諫め役であった弟の信繁を失った事で、より悪化の兆しを見せる様になった。
また、織田信長とは戦術や軍資金の調達方法が対比されることが多い。
楽市楽座で域内経済が自由化されるため、自治を奪った形となっても最終的に資金の拠出元の豪商らを成長可能とし、彼らからの拠出が出来た信長に対し、武田領内では金山に頼りながら軍資金の拠出をすることを求められたらしく、積極的に侵略戦争を繰り出した事から、晩年には領内経済が疲弊気味であったようだ。
ただし、これには事情があった。信長は貿易が頻繁にできる地域を支配していたが、信玄の領地では貿易が難しかったため金山に依存せざるを得なかったのだ。
- 天文11年(1542年)に異母妹の禰々(ねね)が嫁いだ諏訪頼重の領土へ侵攻した際には、妹の婿やその家族の安全を保障して開城させておきながら、約束を反故にして兄弟の頼高共々甲斐に連行し、東光寺で強引に切腹に追い込んだ(ただし、頼重も信玄との盟約を無視して上杉憲政と単独講和している)。あまりのショックで禰々は心を病んで鬱病になり、彼女は夫の死から1年も経たず、信玄を恨みながら死去している(一説には、心を病んだ末の自刃とも言われている)。
- その後、信濃侵攻の大義名分として頼重と禰々の間に生まれた子である千代宮丸を擁立させているのだが、頼重を自害させた自身を憎んでいずれ反乱を起こされる事を危うんだ結果、これも一方的に破棄。頼重の娘である諏訪姫に自身の子(後の武田勝頼)を産ませて新たに擁立する事を画策し、家臣団の反対も無視して諏訪姫を側室として娶った後、大叔父である満隆の反乱を機に、邪魔な存在となる千代宮丸を殺害を命令した。この形振り構わない政策の結果、生まれて来た勝頼と一部の家臣団との関係は複雑であり、武田家滅亡の遠因にまで至っている。
- 天文15年(1546年)における佐久方面にある笠原清繁の志賀城を攻めた際には、清繁が上杉憲政に求めて送られてきた援軍を撃破した信玄は、あろうことかその討ち取った3000人以上の上杉軍の首級を志賀城の回りに打ち立てる事で戦意喪失に追い込んで、数日後に清繁を始めとする300人余りは討ち取られ志賀城は落城した。
- 織田信長が「信玄公が上洛する暁には、わたしが喜んで露払いをつとめましょう」という書状と貢ぎ物を送ったおりには大いに喜び、「信長にはくれぐれも油断なきよう」という家臣の意見を一笑に付し、まったく聞きいれなかったことがある。
- 有能な部下であった家康を大敗に追い込まれた信長は信玄の実力を恐れていたとされるが、信玄も信玄で信長を恐れていたという説もあり、後に同盟を破棄してまで信長包囲網への参加を引き受けたのも、信長打倒への焦りからであった可能性が高い。
- 永禄3年(1560年)に同盟を結んでいた今川家当主・今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれた後、今川氏は三州錯乱(松平家康の自立)や遠州惣劇(井伊直政の父・直親らの造反)などによって領内は混乱。織田の後ろ楯を受けた徳川家康の侵攻を許してしまう。このため信玄は今川氏真を見限り(氏真が北条と共に武田領に塩の輸出を禁止したこともあって)同盟を破棄している。永禄8年に傅役である飯富虎昌が義信を担いで謀反を企んだとして、昌景に密告され捕らえられて、その責任を取る形で自害したとされている。信玄は「飯富虎昌が我々の仲(信玄と義信)を引き裂こうとする密謀が発覚したので自害となった、義信との親子関係に問題はない」(10月23日付『尊経閣古文書纂』)という趣旨の書状を小幡源五郎に送っている。重臣として家中でも発言力の高かった虎昌に責任を取らせる名目で、切腹をさせたとする説もある(虎昌が親今川派だったとする説もある)。虎昌は信虎時代からの武田家の重臣で、武将としての実力も非常に高かった。しかし、虎昌は信虎時代に謀叛を起こした前科があったことなどがあった。今川義元の娘を娶っていた嫡男の義信と今川への方針に相違があり、義信の意志が変わる事はなく反発して謀反を起こす危険性があったため、義信は最終的に東光寺に幽閉される事になった(永禄8年から9年にかけて、信玄と義信の和解に奔走する動きがあったものの事件から2年後の永禄10年(1567)に義信が病死)。ただし、義信事件は多くの諸説があり今後も定説が覆る可能性がある事は考慮すべきである。ちなみに、もしも信玄が今川を攻めなかった場合、駿河が徳川や北条に占領されていた危険性があるので、戦略的視点から見れば駿河侵攻は失策ではない。
衆道を嗜む信玄
・衆道は当時としては嗜みの一つとして知られており権力を持った武士は小姓を持つことも甲斐性の度量を示す尺度であった。そして武田信玄も衆道を嗜んでいたと言われている。その信玄が小姓に対して宛てた手紙(浮気の釈明状と言われる物)が残っている。しかし、手紙が本物か偽物か定かではないとする説がある(手紙の「春日」の部分に後から付け足したような痕跡が指摘されていたり、他の手紙と筆跡が違うのではないかと疑問視する意見もある。)ちなみに、相手は小姓時代は春日虎綱と名乗っていた高坂昌信とされていたが、実際の手紙の相手は春日源助である。高坂が、春日源助と名乗っていた公的な記録が無い事から、別人である可能性が高い。
また、王道という言葉を度々使用し、王道を征くという言葉の元祖は信玄であるといわれる。
評価
戦後の高度成長期~バブル時代~ミレニアム前後において、信玄は経営者の理想像と目されることも多く、また88年の大河ドラマ「武田信玄」のヒットもあり人気に拍車が掛かりその分武田家滅亡時の事実上の当主だった武田勝頼は批判の対象となっていた。
しかし21世紀になりさらなる研究が進み武田家滅亡の原因を作ったのは、功を焦った勝頼では無く、数多くの功績を挙げた結果、増長して身内の始末も厭わなくなった信玄のやり方にあったとする意見も出ている(ただし、信玄にはそれらの行動をしなければならない事情があった)。この事態を招いた信玄は、病に倒れこの世を去ってしまったので、それら全ての責任を負う事になった勝頼に問うのは、あまりにも理不尽な話だと言える。
その一方で、徳川家康は武田信玄の軍略を高く評価し、江戸時代では信玄の軍略は人気だった。
さらに、信玄の造った信玄堤が約400年経った現在でも機能し続けて水害を減らしていることから、彼を讃える声もある。
創作における武田信玄
個別記事有り
- 『戦国無双シリーズ』のキャラクター。→武田信玄(戦国無双)
- 『戦国BASARAシリーズ』のキャラクター。→武田信玄(戦国BASARA)
- 『信長の忍び』のキャラクター。→武田信玄(信長の忍び)
- 『戦国コレクション』のキャラクター。→戦騎女王・武田信玄
- 『ラヴヘブン』のキャラクター。→武田信玄(ラヴヘブン)
- 『織田シナモン信長』のキャラクター。→ラッキー(織田シナモン信長)
- 『Fateシリーズ』のキャラクター。→武田信玄(Fate)
- 『戦国 A LIVE』のキャラクター。→武田信玄(戦国ALIVE)
戦国大戦
上杉謙信に次ぐ3.5コスト、武力10、統率11、特技・魅力という良くも悪くも驚異的なスペックで参戦。
乱戦で殆どの敵武将を弾いていく姿はまさに「ブルドーザー」(御屋形ドーザーとも)。
計略の「風林火山」は武力・統率力・兵力・移動速度を上げる豪華なもの。
しかし消費士気も9と高く、通常の条件ならば一試合で2回しか使えないのが難点。
デッキ構成も悩ませる玄人向けのカードとなっている。
一方でSS(戦国数寄)カードでも登場。絵師は漫画家の高橋ヒロシ氏で、コスト3の武力9、統率8に魅力持ちと上記の自分自身と比べるとやや落ち着いた感じがあるものの、コストに相応しいスペックを持っている。
計略は「斗怒露駆け(とどろがけ)」で汎用計略である「轟駆け」の当て字だが、轟駆けと同じく突撃ダメージが増加するが、武力が5増加するというのが相違点。士気は5と轟駆けよりも1つ重いが使い所によっては活躍が見出せる。
しかしライバルとして、同コストで山県昌景や同じくSSの秋山信友、更にはコスト0.5下には飯富虎昌、そして「戦国大名カード」の自分自身(「風林火山」の信玄のイラストをアップにさせたもので、所持計略は「采配」(範囲内の味方全員の武力を3上げるもの))が存在する。特に山県や秋山に到ってはどちらも基礎スペックは一長一短だが、向こう2人には計略使用時の武力上昇が+6であり、更には速度上昇までついているが故に、そちらを優先される事が多い為(但し効果時間の長さは此方の方に軍配が上がる)、出番がなかなか来ないのが実情である。
しかしバージョンアップにより速度上昇騎馬が突撃準備状態でも迎撃(しかも特大)を取られるようになってしまった為、相対的にこのカードの価値は上がっているともいえる。
バージョン1.10「魔王、上洛す」においてはもう一枚のSRカードが登場した。
イラストは今まさに力尽きようとしている様子であり、その姿は圧巻である。
コストは3に下がり、武力8、統率12、攻城、魅力持ちとなった。
統率12は今川家のSR太原雪斎と同じで、全カード中最高の能力である。
計略は「瀬田に旗を」。消費士気は6。
自身は撤退するが、武田家の味方の武力と統率力と移動速度が上がる、というものである。
消費士気は軽くなっているので、計略コンボも考えられる様になったが、自身が撤退してしまうのが最大のネック。故に、計略と特技の攻城がなかなか噛み合っていない。
上記の信玄と同じく、使いどころに悩む玄人向けのカードである。
バージョン2,20では若き日の武田信玄つまり、武田晴信が槍として参戦。
これまでの信玄は全て騎馬であったが、今回は騎馬以外の兵種で実装された信玄となる。
コストは2,5コスト、武力7、統率6と一見するとコスト比にしては低いように感じられるが、特技に魅力、軍備、新星をもっており成長すると武力9、統率8になり、軍備持ちの為耐久力も高く成長させやすいことを考えると破格のスペックである。
計略は「若虎の朱槍」。消費士気は5であるが、完全に成長すると士気4で使えるようになる。
兵力によって効果が変わる計略で兵力が一定以上だと、武力upと槍長さの上昇と車輪状態になり、一部計略を除いた騎馬の突撃を完全に無効する無敵槍撃を自動で行う。一方兵力が一定未満だと武力と槍撃ダメージのup、槍長さの上昇する。
英傑大戦
戦国大戦の後継作品である本作では、緋勢力で登場。
3,5コストの騎兵で武力10知力11で魅力に相当する特技である「昂揚」持ちと、戦国大戦を世襲したようなスペックなっている。
計略は勿論の消費士気9の大型号令である「風林火山」。
緋の味方の武力+6、知力+3、移動速度30%が上昇し、兵力が上限を超えて約35%回復するという非常に豪華なもの。
前作同様消費士気が重いという欠点があるが、それを持っても破格の性能をしている。
兵力が上限を超えて回復する為、先打ちがしやすくなっている。
士気流派を使うことで、これまでは不可能だった一試合で3回風林火山や、風林火山を効果終了直後に再び打つといった芸当が可能なり遥に初心者から上級者まで使いやすい号令として、存在感を表している。
戦国ランス
貝(かい)と信濃の民から神の如く慕われる、出陣した戦は無敗の名領主。
赤い重厚な鎧に身を包み、その素顔を見た者はいない。
武田家は武田四将軍と呼ばれる忍者頭高坂義風、軍師真田透淋、武田最強の武士馬場彰炎、武田随一の将軍山県昌景の4人を中心としており、信玄はその4人の意見を戦に強く反映する。
pixivにはほとんど信玄のイラストはなく、鎧の中の姿が描かれてもおかしくないのだが・・・ネタバレになるので理由はお察し下さい。
戦国ARMORS
既に病死しているが、天下人となった豊臣秀吉により(謙信共々)甦生され、重臣級甦土無「乾闥婆」を与えられ配下とされる。筋骨隆々の堂々たる体躯(かなり大柄な明智光秀を悠々と見下ろすほどの長身)であり、背負った水瓶に入れた「若水」により不老不死となっている。
「変若水」を作り出す甦土無「人魚」の唯一の適合者・お市を守護するのが役目であり、秀吉に対しては敬意を抱いていないものの、血沸き肉躍る戦いを求めてその任を全うしている。
類稀なる軍略家であり将棋も得意だが、思いつくダジャレは小学生レベルであり笑いの沸点は恐ろしく低い。
戦場においては風林火山に準えた体術と「乾闥婆」より生ずる虎火砲(気泡を爆裂させる技で、重臣級甦土無の中でも最強の火力を有する。はっきり言ってラスボスである秀吉の甦土夢「阿修羅」より強い)を用いて戦う。乾闥婆は精力を限界まで酷使するため常人であれば使った瞬間命を落とす代物であるが、既に死んでいる信玄には変若水のある限り使用可能。
光秀と石川五右衛門のタッグにより倒されたかに思えたが、運よく変若水の湖に落ちたため一命をとりとめ、最終回では秀吉を裏切り光秀の逃走に加勢した。