概要
社団法人『落語芸術協会』第5代会長を務めた平成期江戸落語界の重鎮であり、演芸番組『笑点』終身名誉司会(2016年5月22日-2018年7月2日)および永世名誉司会(2018年7月19日-)。
本名は『椎名巌』(しいな いわお)。
来歴
生い立ち
1936年8月14日、神奈川県横浜市中区真金町に生まれる。実家は当時の横浜で指折りの遊郭『富士楼』であり、戦禍で焼失した後も店を一手に切り回していた祖母の椎名タネ(歌丸の談では「ヤクザですら道を譲った『真金町三大ババア』の1人」)が終戦を機に営業を再開したため、貧窮に喘ぐ世の中にあって比較的裕福な少年期を送る。
本人曰く「お金さえあれば何だって揃う支那街(=中華街)があったおかげで、アタシたちハマ(=横浜)の人間はどれだけ救われたか」と語る反面、戦況悪化による疎開で千葉県にある母方の実家へ一時転居した折に強烈な食糧難に直面した体験から「アタシゃね、さつまいもが食えねぇんだよ」とも述懐している。
まだ個人の所有物としては高価だった自宅のラジオを通じて毎日のように落語を聞くうちに夢中になり、小学校の同級生や教師相手に聞き覚えた様々な落語を披露する、いわゆる天狗連に等しいアマチュア活動に没頭し、4年生の頃には早くも「自分の将来は噺家しかない」と悟る。70代の頃に受けたインタビューによると「あの頃は一度聞いただけで全部憶えたもんです」と答えており、すでに落語に対する人並み外れた情熱を秘めていたとされる。
中学校進学後に生の落語を聴く機会に恵まれ、その場に訪れた春風亭柳之助(後の5代目春風亭柳昇)の舞台を目にした一件から落語の道に進む欲求を抑えきれなくなり、NHK出版部に勤めていた親類の縁を頼って15歳で5代目古今亭今輔に入門。前座名『古今亭今児』(ここんてい いまじ)を拝命した。
当時はまだ在学中であったため、放課後や休日に5代目今輔の自宅へ出向いて稽古を重ねる通い弟子の生活を送ったが、この期間を見習い修業相応と認められて卒業翌月の4月に東京四大定席の1つ『鈴本演芸場』で初舞台を踏んだ。
破門と移籍
念願叶って本職として落語を語り聴かせる噺家となり、どんな小さな会にも二つ返事で足を運んでは全力投球で演じる精力的な活動を続けていた17歳の頃、歌丸の背中を押したタネが逝去。歌丸曰く「アタシは血(=家族)に縁の薄い生まれでしてね」とするように3歳で実父と死別、9歳で実母と離別しており、タネとの死別で天涯孤独の身となった。さらに数年後、新作落語を主軸とした5代目今輔に反発するように元々の希望である古典落語に進みたがった姿勢、さらには当時の落語芸術協会内で問題となっていた「若手の待遇改善」の直訴が引き金となって破門を言い渡される危機に立たされた。
21歳の当時、すでに結婚して一子を儲けていたためにどうにかして食い扶持を稼がなければならず、僅かに舞い込む噺家仕事を必死にこなしつつメッキ工場のアルバイトや内職(輸出用スカーフのへり縫い、マッチ箱のラベル貼りなど)、化粧品メーカー『ポーラ化粧品』の飛び込み営業で糊口を凌ぐ日々を送り、しばらくして三遊亭扇馬(後の3代目橘ノ圓)の助け舟を得てどうにか破門を解かれたが、そこで提示された「今輔一門への復帰ではなく別門への移籍」の条件に従って1961年に兄弟子である4代目桂米丸門下となる。なお、セールスマンの苦労を語る上で「男に化粧品の事なんてわかりゃしませんから、アタシゃ何度洗顔クリームをポマードと間違えて売っちまったことか」をオチとしていた。
ちなみにこの頃、歌丸は以前から徐々に進められていた公娼制度の廃止、いわゆる「赤線規制」の仕上げとなる『売春防止法』の完全施行により富士楼が廃業に追い込まれ、生家すらも失った。
移籍に際し、古今亭の亭号を使えなくなった事で新たな師匠となった4代目米丸から『桂米坊』(かつら よねぼう)を、1964年に改めて桂歌丸を拝命した。歌丸の名については、米丸曰く「歌丸という芸名の由来は、桂を名乗る噺家で桂歌之助以外に『歌』が入る落語家がほとんどいなかったため」としているものの、これはあくまでも「まくら」(落語の本題に入る前の雑談)で語られただけのものであるため客観的確証とは言い切れず、その真意は米丸本人のみぞ知る所である。
なお、4代目米丸の談によると移籍から程無く古典に打ち込みたい旨を直訴され、それに対して米丸が快諾した事が歌丸を古典の名人たらしめる重要な岐点となった。
笑点
1965年に7代目立川談志が企画立案した演芸番組『金曜夜席』へ5代目三遊亭圓楽、林家こん平らと共に出演する。1966年に金曜夜席の後継番組として始まった笑点にもそのままスライド出演し、2年後の1968年に師匠の4代目米丸、大師匠の5代目今輔の口上を以って歌丸の名で真打に昇進。
歌丸の談によれば「笑点の放送開始以前に談志さんが選んだ十数人の候補者と共に公開オーディションを受けさせられ、これと言った座興を持ち合わせていない自分は困った挙げ句に正装で高座に上がって一礼した後、前座に舞台袖から持ち込ませたもりそば1枚を黙々と平らげてみせ、懐から取り出した手ぬぐいで口を拭いて『おそばつ様でした』(『お粗末様でした=ご馳走様でした』のダジャレ)とだけ言って終わった。この的外れなオチはお客さんにバカウケしたが、何よりも談志さんが腹を抱えて笑ってた」とあり、苦肉の策を見事に実らせて掴み取ったレギュラーの座であったと回顧している。
やがて、4代目三遊亭小圓遊との「ハゲ・バケ(妖怪)戦争」と呼ばれる絶妙な罵倒合戦で番組を日曜夕方枠の定番にまで押し上げたものの、歌丸と同じく古典派の土俵にあった小圓遊本人は番組のためにキザを装う偽りの自分があまりにも辛かっただけでなく、地方巡業先で二人一緒に居る所を見た視聴者から『仲が悪い筈なのに』と言われた事で親友同士でありながら表立って行動を共に出来なくなり、良き相談相手を失った憂さ晴らしから酒が手放せなくなった末に、高座や「笑点」の収録などに差し支えるほど重症のアルコール依存症を患い、1980年に食道静脈瘤破裂で急逝する事態となる。また、2年後の1982年末には「笑点」の3代目司会者三波伸介も、小圓遊の後を追うように急逝していた。ちなみにその小圓遊が死去により降板した約3年後の1983年にレギュラー入りした三遊亭小遊三が水色の紋付を引き継いでいるが、小圓遊とは対照的に、落語芸術協会副会長の座に小遊三が就いたり、以下の解答をしていることから、歌丸とは友好関係を築いている。
小遊三「大御所の 隣に座れて いい気持ち」→歌丸「山田くん、内緒で1枚やってくれ」
この後、小圓遊存命中からやっていた5代目三遊亭圓楽との「ハゲ・馬面戦争」を本格的に繰り広げた。
その圓楽降板に際し代わりにレギュラー入りした、まだテレビ出演の経験が浅く真打昇進から間も無い三遊亭楽太郎(現・6代目三遊亭円楽)がキャラに困っていた時に、「俺をネタにして構わないから」と助言を与えた事が嚆矢となり、小圓遊そして圓楽に続く「じじい・腹黒戦争」の構図を生み出した。
そして1983年から4代目番組司会として復帰した5代目圓楽を「馬頭観音」だの「圓楽さんに鹿の遺伝子を組み込んだ(つまり“馬鹿”になった)」だの「笑点の司会者は……馬」などと罵倒して巻き込む三角関係のお約束で番組の人気を不動のものとした。
1985年8月12日、他の笑点メンバーとともに伊丹経由で徳島へ向かうため羽田空港へ向かったが、悪天候により予約便の離陸が遅れていた。そこでダイヤ通りの離陸が予定されていた1本後の便に変更しようとメンバーやスタッフらは打ち合わせていたが、林家こん平が「予定通りの飛行機で行こうよ」と言い出したため皆でそれに同意した。
この変更先として上がっていたのが日航123便である。こん平の一言がなかったら桂歌丸の生涯はここで終わり、笑点も今のような番組ではなくなっていた。
2006年の笑点40周年記念特番への出演を最後に5代目圓楽が司会を勇退する運びとなり、表も裏も知り尽くした最古参として5代目番組司会に就任してからは新たに参入した春風亭昇太を定着させるべく付かず離れずの対応で引き立てつつ、こん平の代理を経て正式にメンバーとなった林家たい平を含むベテラン陣(三遊亭小遊三、三遊亭好楽、木久扇、6代目円楽、山田隆夫)を相手に奮闘した。
司会者への正式就任後、自身を罵倒するような回答は基本的に座布団を大量没収し、全員が悪ノリした時には全員の座布団を全没収することも稀によくあった。
一方で回答者、特に好楽を貧乏や素人扱いするネタに対しては「失礼だよ」と宥めフォローすると見せかけて罵倒した方に座布団を贈呈する傾向が強く、山田くんのクビネタで座布団を奪い取られた時は奪い取った枚数+1枚あげるよう指示する事が多かった。
司会者への正式就任後に新たに解答者に加入した昇太が入りたての時はうまく笑いを取ることができず、ある時に歌丸が「なるほど嫁が来ないわけだ」「早く嫁もらいなよ」と昇太が独身であることをいじり、また、昇太が歌丸をよく死亡ネタで罵倒していたことから、小圓遊、5代目圓楽、6代目円楽に続く「死亡・独身戦争」の構図を生み出した。
ちなみに5代目圓楽が亡くなった10日後に放送された「笑点」内の大喜利にて、5代目圓楽から司会を引き継いだ歌丸が、5代目圓楽が卒業した後に加入してきた昇太を、当時昇太が49歳でありながら未だ独身であることをいじりつつ、自ら解答。
歌丸「圓楽さーん!」→楽太郎「(司会でありながら解答した歌丸に代わって)聞こえるかーい?」→歌丸「安心しなー!奥さんは昇太が面倒見るってさー!」→昇太「いや、いや…」→歌丸「どうやら昇太さんにもおめでたが近づいてきたようでございます」
2016年4月30日、「体力の…私はもう限界なんですね」の宣言と共に5代目番組司会の座を降りる電撃発表に臨み、放送開始満50周年という大きな節目を迎えた直後の同年5月22日、三問目最後の回答者となった小遊三の下ネタオチに対して直前まで大盤振る舞いしていた全員分の座布団没収で応える有終の歌丸ジェノサイドを発動して勇退の花道を飾り、兄弟番組『BS笑点』『笑点Jr.』で総合司会を8年間務めた経験を持つ昇太の6代目番組司会就任を発表した。
これにより、金曜夜席からの出演者全員が番組を降板(ただし、こん平に限っては「病気療養に伴う長期休演中」であり明確な降板意思を発表していない)するという大転換期となったが、半世紀に及ぶ番組への多大な貢献を考慮した制作側の意向によって司会歴23年を誇る5代目圓楽でも成し得なかった番組史上初の「終身名誉司会」に就任し、同年4月3日から始まった前帯番組『もう笑点』(2018年7月1日放送分まで)への継続出演も決定した。
晩年
老齢に加えて後述の体質的問題から来る基礎体力の衰えに加え、40代で患った脱腸を皮切りに急性腹膜炎、腰部脊柱管狭窄症、腸閉塞といった様々な大病の発症と手術を経験した影響、そして超長期の喫煙(最も多い時期で缶ピースを1日60~80本)を病因とした慢性閉塞性肺疾患(COPD)の進行で番組や寄席などの出番直前まで医師と看護師の介添えによる酸素吸入を必要とする深刻な病身に陥った。
しかし、それでも妻である冨士子夫人の「あなたが落語を辞めたら張り合いが無くなる」の一言と自身の落語に対する飽く無き探求心を支えに入退院を繰り返しながら高座をこなし、語り手の減少から消滅しかけていた噺の発掘、そして「江戸落語中興の祖」と謳われる初代三遊亭圓朝の手による『圓朝噺』(『死神』に代表される初代圓朝の創作および改作噺。戯曲的要素が強い難解な構成のため「江戸落語の最高峰」とも目され、全うに演じるには高い技量を求められる)の継承に注力した。
2007年の勲四等旭日小綬章叙勲に続き、文化庁は2016年5月25日に「卓越した話芸で落語界の向上と発展に尽力した」という伝統芸能への功労を理由に文部科学大臣表彰の決定を発表し、同年5月31日に表彰式が執り行われた。表彰に当たり、馳浩文科相(当時)は「国民の誰もが認める落語家だと思います。表彰させていただけて嬉しいです」と敬意を表し、これに対して噺家らしく「大臣の倍以上に嬉しく思います」と洒落混じりに返礼した。
その後、またも数度の入退院を繰り返す中で足の筋肉が極端に衰え、肺疾患の悪化もあって十数歩の徒歩すらままならない状態となったが噺家としての執念はいよいよ凄まじく、高座に上がる際には数人の手を借りて車椅子から座布団に移り、日によってはそれまで舞台袖に備えていた酸素吸入器を装着したまま高座を務めた。これについて、盟友の6代目円楽はマスメディア出演の度にいつものひねくれた円楽節を交えつつ文字通り高座に命を懸ける歌丸の姿勢を絶賛すると共に「鼻からチューブが下がっていて『嫌だな』『見苦しいな』と思うお客さんは、何も言わずに目を閉じてください。目を閉じて、姿が見えなくても、落語は聞けるんです」と理解を訴えた。
最晩年まで師弟二人会で共演を続けた東西落語界現役最高齢(2018年4月時点で93歳)の4代目米丸は、2017年4月に漫才師の内海桂子と共に招待された東京日本橋『三越劇場』90周年記念式典で歌丸の容態について「あの人は芯が強いから大丈夫。心配していません」と飄然と述べ、これを耳にした歌丸も「師匠が元気なのにアタシが死ぬわけにはいかない」と師匠の薫陶を胸に病身を推してでも高座に上がり、一席でも多く噺を語る励みとした。
しかし、2018年当初から呼吸器不全による心肺機能の不調に拍車が掛かり、病院を中心に自宅と仕事場を行き来する生活を続けながら体調を整えて4月19日に国立演芸場定席で生涯最後となる『小間物屋政談』を演じ切った5日後の24日、寛解と増悪を繰り返した肺炎の悪化により入院。29日に危篤状態に陥るも奇跡的に意識を取り戻し、6月には協会副会長を務める小遊三に会長職代行を任せ、8月恒例の高座復帰を目指して懸命のリハビリとボイストレーニングを重ねる日々を送った。
見舞いに足を運んだ6代目円楽、木久扇、小遊三などの報告によって闘病の様子が断片的に伝えられる中、6月20日に6代目円楽と共に訪れた笑点の番組関係者によって面会の一部始終がプライベート撮影されており、後述の追悼特別番組終盤に「初公開映像 生前最後の映像」と銘打たれて放送された。この時、歌丸は顔を覆うような大きな酸素マスクを装着し、自力の寝返りも難しいほど脱力した様子だったが、折に触れて木久扇が話していた歌丸の発声訓練『パタカラ体操』を実演した上、「『パンダの宝はパンだ』って書いてある 椎名の宝はカネだった」と洒落すら飛ばしてみせた。
7月1日未明に容態が急変し、翌2日午前11時43分、慢性閉塞性肺疾患により病没。享年81。
法名は『眞藝院釋歌丸』(しんげいいんしゃくかがん)。「真」は芸に真摯に取り組んだ事と生まれ育った横浜市中区真金町にちなみ、そこに高座名の「歌丸」が加えられたものである。
送別とその後
7月8日、放送予定を変更して「桂歌丸ありがとうSP」と銘打たれた特別番組に切り替え、前半はメンバーによる思い出のトーク、後半は追悼大喜利を行って故人を悼んだ。
10日、遺族の意向通りに近親者のみで葬儀が営まれ、葬儀委員長を務めた4代目柳亭市馬の計らいで従来の白無垢ではなく生前に好んで袖を通した緑地の長着を死装束とし、扇子や手ぬぐい、着物数着、渓流釣りの継ぎ竿など愛用の品々が棺に納められたとされる。以前から『もう笑点』出演時などで絡子(らくす、曹洞宗における略式袈裟)を着用していた6代目円楽は、5代目圓楽との縁で知己を得ていた群馬県の曹洞宗寺院である釈迦尊寺で2016年3月に得度して僧籍『楽峰圓生』(らくほうえんしょう)を持つ僧侶として作法に則った僧衣で参列した。
翌11日に営まれた告別式では師匠の4代目米丸や弟弟子のヨネスケ、笑点メンバー、落語協会から会長の4代目市馬および理事の古今亭志ん輔、上方落語協会から相談役の笑福亭鶴瓶など、落語界以外の芸能界の関係者や多数の一般弔問者が参列し、改めて生前の人脈の広さと人徳の深さを偲ばせた。
弔辞を読んだ4代目米丸は、数限りない思い出を挙げる中で米丸一門への移籍を差配した5代目今輔の温情に満ちた裏話を初めて披露した。
また、6代目円楽は弔事の中で歌丸が大らかに、しかし締め所は見逃さず笑いに繋げた手腕を讃え、何よりも自身の噺家人生において欠かせない存在であった事から実父・師匠に次ぐ「第3の父」と称して偲んだ。
12日、ゴールデンタイムの2時間枠を使って『ミスター笑点 桂歌丸師匠追悼特番』(副題『ありがとうミスター笑点 桂歌丸師匠』)を生放送。日本テレビに残る最古の大喜利の映像、6代目円楽や小圓遊との罵倒合戦、自身の司会昇格と同時に加入した昇太への猛烈ないじりによる独身キャラの完成に至るまでの経緯、歌丸ジェノサイド(全員座布団全部没収)のダイジェストなどの様子が流れた。
19日、兄弟番組の1つ『笑点 特大号』のオープニングアニメ中でそれまでの終身名誉司会に代わって「永世名誉司会」に就任(事実上の追贈)。番組オフィシャルサイト『笑点web』もこれに倣って肩書きを書き換え、引き続き歌丸の概要を「出演者」の項目に留める事となった。
24日、江戸落語界に対する生前の功績を考慮した日本政府は、没年同日まで遡って従五位(5代目柳家小さん、林家彦六などと同列)を追叙する認可を閣議決定した。
人物
笑点を落語に詳しくない人々や子供でも気軽に楽しめる有名番組へと押し上げた偉人であり、落語界の大御所であるにも関わらず、表舞台やマスメディアなどで暴言やタメ口などで威張ることはなく、誰に対しても常に後述の美しい日本語と敬語を使って会話するという礼儀と威厳を重ね持った人物であった。
芸風
入門前の素人落語も含めれば80歳(2016年時点)ですでに70余年のキャリアを誇った「人生是落語」の体現者であり、師匠の4代目米丸も5代目今輔と同じく新作一筋を貫く関係から江戸落語界に身を置いていながら江戸言葉に縛られないという珍しい芸風を活かして「美しい日本語で語る」の信念を常に心掛け、家庭の事情で幼い頃から遊女の日常生活を余さず目にしていたために郭噺の説得力が非常に高く(生前の本人曰く「自分が生まれ育った家の事を思い浮かべてやっている」)、それに因んだ珍芸『化粧術』(地塗り、紅点し、髪留め、入れ胸などの化粧風景の形態模写)を持っていた。ちなみに「笑点」の大喜利でも、第2328回(2012年8月19日放送)の3問目において、6代目円楽の「私下手でしょ?お化粧。そういえばあなた『女と化粧』というのやってたわよね。ちょっと見せて。」といった回答に歌丸は自ら実演した後、「山田、私に1枚よこせ。」と、自分が司会をしているにも関わらず、自ら座布団をもらっていた。
動画資料『化粧術』
同時に、芸人として最後まで世相を反映した新しいネタを取り入れる努力を忘れず、木久扇が大喜利中に流行りもの(AKB48『ヘビーローテーション』、ピコ太郎『PPAP』など)を披露して年甲斐も無く与太郎を演じる姿に舞台上でこそ演出として辟易した素振りを見せたものの、その姿勢を高く評価していた。
その反面で粗雑に映った芸に対する批評は厳しく、裸芸「絶対見せない de SHOW」を持ちネタとするアキラ100%に対しては本人と彼を安易に起用するテレビ関係者を真っ向から苦言を呈し、演芸人としての矜持を貫いた。
被り物ネタ
持ち前の細身と目鼻の整った顔立ち、薄い頭髪の関係から笑点では被り物との相性が非常に良かった1人であり、カツラ(フサフサの白髪、カールヘアーの金髪、月代を晒した落ち武者、おどろおどろしいざんばら髪、ボリューム豊かなアフロヘアー、剃り跡の青々しい坊主頭など)を被って客席に向き直した姿だけで収録会場の観衆を大いに賑わせ、特に大喜利夏季恒例のお題「幽霊になって一言」では舞台袖から天冠が持ち出されただけで会場を大爆笑させた(毎年8月はメンバー全員が揃いの浴衣か白麻の夏着物を着用する決まりがあり、この夏着物が死装束を連想させるため、制作側も夏着物に袖を通す収録回に調整するようになった)。
笑点・夏の風物詩『歌丸に天冠』
年齢を重ねるほどに味わいを深める一種のカツラ芸は番組の名物として認知されるようになり、司会後期にはそれを間近で何十年と見続けてきた6代目円楽が発した「いらないいらない。若返っちゃう」「おかしいよそれ。増えてるもん」の一言に対し、その洒落を理解した前提で乱暴にカツラを脱ぎ捨ててさらなる笑いで返すという力技をも披露した。
死亡ネタ
6代目円楽率いるブラック団の不謹慎ネタ(代表例:「遺体がしゃべった」「忌中って札が出てた」「真金町在住の老噺家が…」「さ、おじいちゃん。病室に戻りましょうね」)も名物であったが、過去に死亡説が2度出回ったらしく、死亡説を耳にした日本テレビ報道部が噂の裏取りをしてきた際は笑点スタッフが仰天して冨士子夫人に安否を確認する事態にまで発展した。ちなみに、歌丸本人は後年になってその話を耳にするまで全く知らなかったが、それ以降も大喜利中で披露される自身に関する不謹慎ネタには寛容の心を以って全て受け止め、期待通りの座布団没収で応えた。
マルチタレントとして
芸一筋・落語一本の人生と思いきや、笑点記念企画の一環で7代目談志と漫才に挑み、大喜利の賞品企画で本格的な女装写真撮影に臨んだ事すらあり、映画出演、落語天女おゆい』本人役、ドラマ出演もこなすなど、マルチタレントとしての側面もあった。
動画資料『落語天女おゆい』歌丸出演シーン
プライベートではZippoライターや化石の収集、土地の古老から噂を仕入れて滅多に遭遇しないとされる大物を狙う渓流釣りを楽しむ趣味人の一面を持ち、特に肺疾患発症のために足を運べなくなった渓流釣りには最後まで未練を残したとされる。
健康面
70歳を過ぎても好物の硬い煎餅を平気で噛み砕いた自前の歯(当時の本人曰く「歯だけは丈夫」)が自慢の種。反面、ヒレやささみですら進んで箸を伸ばさず医師から「あなたはもっと肉を摂って太りなさい」と口うるさく勧告されるほど獣肉の脂肪を受け付けない体質であった上、遊郭特有の習慣「引け飯」(客と遊女が床入りする深夜近くに夕食を摂る)を当然としていた朝食抜きの1日2食生活、魚介類と蕎麦を好む嗜好も手伝って20代の頃から一般男性の平均体重を遥かに下回る軽量(2015年時点の本人の談で「38kgあるか無いか」、2016年11月末出演の『徹子の部屋』で「今の体重が36kgなんてみっともなくて言えたもんじゃない」「一番体重があったのが40代の頃で50kgってのが最高で、普段47、8kgを保ってたんです」)のままで50年以上過ごした。
加えて、「小さなコップに注がれたビールを7分目まで飲んだだけで病院に担ぎ込まれた」と語ったほどの極端な下戸のため甘味を好む甘党でもあり、こうした食生活によって「病気のデパート」と自虐するほど中年期以降は病に苦しんだ。
また、先に述べた異常な喫煙習慣を約58年間続けていたが、肺気腫増悪を境に禁煙の最上位「断煙」に踏み切った。
本人の談によれば、元から肺を患いやすい体ではあったものの落語界といういささか異質な閉鎖社会の因習、さらに「『飲む(酒やタバコ)・打つ(賭博)・買う(女遊び)』をやってこそ一人前の芸人」とする定義がまかり通っていた当時の時代背景もあり、半ば強がりで吸い出したのがそもそものきっかけであった。
歌丸と真金町
生涯一時期を除いて横浜の真金町で暮らしていた。地元の横浜橋通商店街を頻繁に利用して名誉顧問として顔役を務め、死んだ後も「永久名誉顧問」として商店街も至るところで彼のポスターやイラストを見かけることができる。
真金町は色町ということで差別的な扱いを受けたこともあったが、歌丸が真金町の遊郭の生まれであることを隠さずに公表したことで町の人間は大いに勇気付けられたといい、死去した際には商店街の名前を「歌丸通商店街」にしようとする動きもあったほど地元の名士として尊敬されていた。
なお、高座で語ったところによれば顧問料は「大福10個」だったそうである。
定紋の疑問
系譜から見れば、歌丸は江戸6代目から一代限りの名跡借りを実現した上方の7代目桂文治に通じており、その文治が名跡を襲名するまでは2代目桂文團治を、もっと遡れば初代桂米團治を名乗っていた事から4代目米團治を師とする上方の桂米朝とは遠縁の同門に当たる。しかし、歌丸が使用した定紋は東西桂一門共通の『結三柏』ではなく『丸に横木瓜』である。
これは「落語界では真打昇進後の紋変えは自由」、つまりは定紋と替紋の使い分けはもとより定紋そのものの変更や創作を咎めないとする慣習から来ているためであり、2代目桂小文治門下であった5代目今輔も当初に在籍した初代三遊亭圓右の『高崎扇』(初代圓朝一門の定紋)とも『結三柏』とも関わりの無い『三つ茶の実』に、後年にはさらに『丸に違い鷹の羽』に変更している。
- 系譜から見る定紋の変遷
7代目文治(結三柏)→2代目小文治(結三柏→切り竹十字)→5代目今輔(高崎扇→結三柏→三つ茶の実→丸に違い鷹の羽)→4代目米丸(三つ茶の実)→歌丸(三つ茶の実→丸に横木瓜)
持ちネタ
など、主に郭噺と怪談噺を得意とした。
今児時代には5代目今輔が持ちネタとしていた柳家金語楼の創作落語『バスガール』『ラーメン屋』などを高座に掛けていたが、年齢を経る毎に徐々に古典落語への傾倒を深め、結果として5代目今輔が得意とした怪談噺の多くを継承した。
6代目円楽の分析によると「古典の中には、どうしても現代の価値観や理解と相容れない表現を持つもの、相関関係がやたらと複雑なものがある。しかし、お師匠さん(=歌丸)はそれらに色々と手直しを加え、観客にも演者にもわかりやすくしてくれた」「誰もやらなくなってひっそりと消えていく運命にあった数々の噺を積極的に演じたお陰で、後世に掛け替えの無い財産を残してくれた」と評し、アプローチの方向性こそ違えど7代目談志同様に現代に通用する古典落語の保護・継承に努め続けた功績を称賛した。
関連イラスト
あいつ「やるかじじい!」
「何処で打つのか延珠の鐘が陰に籠ってもの凄く、ボーン…と鳴ります」
「一度でいいから見せてみたい、アタシが本気で闘(や)るところ。歌丸です」
関連タグ
林家木久扇 三遊亭好楽 三遊亭小遊三 三遊亭楽太郎(6代目三遊亭円楽) 林家たい平 春風亭昇太 山田隆夫
TOKIO(ジャニーズ) 三遊亭圓楽 立川談志 桂米朝 ヨネスケ 林家こん平 2代目林家三平