概要
日本の刀剣類の内、日本独自の作剣法に基づいて製作された、一定の様式の刀の総称。長いものは太刀・打刀、短いものは脇差あるいは短刀と呼ぶ。
特に代名詞と言えるのは打刀であり、日本刀と言えば大抵打刀を指していると言っても過言ではない。また、打刀はしばしば刀と略称される。
本来この刀というものは、厳密には刀剣類の内、斬撃用の刃先が刀身の片方のみにある刀剣を示しているのだが、英語圏やサブカルチャー界隈では、刀(KATANA・カタナ)=日本刀と定義される事が多い。特に後者の場合は、例え片刃の刀剣であってもそれが非日本的あるいは西洋的と解釈されれば片刃の○○或いは片刃○○(○○には剣や刀等が入る。)と呼称され、しばしば日本刀とは別枠として分類される。
日本ではこの日本刀の使用を前提に独特の剣術、多数の流派が生まれ、そこから(剣道)や(居合)等も生まれた。
なお、漢字の意味を厳密に分けるなら、両刃の刃物を「剣」と呼び、片刃の刃物を「刀」と書くのが正確である。大抵の文化圏では、両刃の「剣」と片刃の「刀」が共存し、突き刺し易い武器を望む時は剣、切り裂く武器を望む時は刀と、用途によって使い分けられていた。しかし、日本では日本刀の誕生の後、戦闘用の刃物は、ほぼ日本刀様式に移り変わった為、「剣」も「刀」も、あまり区別されずに使われる傾向にある。
日本刀が「刀」である以上、それを用いた武術の呼称は「剣術」ではなく、正しくは「刀術」であるべきなのだが、「刀術」という呼称は、江戸時代の一部書籍には見られるだけで定着しないままであり、日本人が「剣」と「刀」を特に区別していなかった事を表していると言えるだろう。
タグとしては和風もしくは片刃の刃物等の含まれる作品にも付けられる傾向がある。
特徴
刃が片方に有り、刀身が反った「曲刀」に分類され、刀身と柄が一体成型では無く、柄に差し込んだ刀身の一部(中茎)を目釘により固定する(薙刀は勿論の事、日本式の槍も反りが無い事を除けば同様の構造である)。
また、厳密な意味に於いて刀身もまた一体成型では無く、複数種の異なる素材を接合させた複合素材の一種で有り其れ故切れ味が良く、細身で長さの割に軽い(とは言え鉄の長刀なのでそれなりの重さがあるが)。
細く長いにもかかわらず、独特の鍛造工程により極めて丈夫に出来ている。
また日本刀の特徴である波紋は刀匠の趣味流派により地金の模様と合わせて千差万別であり、刀の強度・切れ味と密接に関わっており、刀の反り具合も波紋の焼き入れ過程で決定する。
その美しさ故に、美術品としても重要な要素である。
これは一種の炭素繊維でありこれが刃金と地金を植物の根の様に双方に食い込み接合させつつ性質の違う金属の性質を殺さず融合させる事に成功しており硬度と靭性の両立を成しえている、近年その原理が解明されつつあり日本の素材技術の発達に大きく貢献している。
中国でもその切れ味を古くから知られ、多くの日本刀が輸出され実際に明王朝後半には武器として使われた。「日本刀」という名称も、欧陽脩の詩「日本刀歌」に出てくるのが初見とされる(詩の主題は日本刀ではなく、日本にしか残されていない中国の古典籍だが)。刀剣を美術品として観賞する習慣の無かった中国では、日本刀は実戦に供され使い潰されてしまったのか、確実な伝世品は伝えられていない。
但し、倭寇(後期倭寇)による被害が大きかった明朝では、対策の為に戚継光などが日本の兵法の研究を行い、その一環で日本刀を模した「苗刀」が作られ、剣術も込みで中国武術の一部の流派に採り入れられている。
利用(主に打刀・太刀)
戦時
実際の戦場での用途は、(主に南北朝の動乱からの太刀や大太刀や室町時代からの太刀や長巻を除けば)主要武器の弱点を埋める補助兵器であった。平安~鎌倉時代の主兵装は騎馬武者の弓矢、南北朝〜室町時代には歩兵の弓矢と騎馬武者の太刀、大太刀、長巻、薙刀など、戦国時代にかけて足軽の槍が主兵装となり、安土桃山時代には鉄砲が主兵装と成っていく。
刀剣は*携帯性が良いという特性から、洋の東西問わず補助・予備的な立ち位置に付く事が多かったが、使う前に自身が戦闘不能・戦闘そのものが終了する可能性を考慮すれば主兵装と比べ使用率は低くかったであろう。とは言え主兵装だけでは対応出来ない場面もある為、その備えとして武士や足軽・雑兵関係無く多くの兵士が携帯していた。
山がちな起伏の激しい土地では、ピュドナの戦いやテルシオ成立以前のスペインの剣歩兵等の様に間合いの長い長槍よりも小回りの利く刀剣の方が有用であった例もある。
また、スイス傭兵等は方陣を組んだ長槍兵の最前列から数列目までの兵士は乱戦に備え刀剣を携帯していた。但し、これらは海外の例なので差し引いて考える必要もある。
他には、16世紀後半に日本を訪れたカトリック教司祭パードレ・ガスパル・ビレラ曰く「(日本の合戦では)双方まづ矢を放ち、更に近づきて槍を用い、最後に剣を交ふ」としている。
なお、トーマス・D・コンラン氏(『日本の史的構造(古代・中世):南北朝期合戦の一考察』)は南北朝の乱に起きた合戦における戦死・負傷の記録を調べた結果、全体的には弓矢による傷が一番多く、太刀(薙刀含む)による傷は、戦乱が最も激しい時期でも4割に満たないが、戦死と負傷の割合においては、矢傷は20対80、太刀傷は53対47、であり(槍傷は負傷が一例のみ・石礫は効果なし)
弓矢こそが南北朝期におけるもっとも重要な立場にある武器だったとしながらも殺害効率は太刀に劣ると評した。
注意点として、これらの研究・考察は軍忠状や手負注文と呼ばれる死傷記録に基づくが、記録に偏りがあり、具体的には記録の内容は戦場から生還した兵士達の自己申告が中心である事や、その記録対象に成るのも正規兵のみで、軍勢の大多数を閉めていた非正規兵は除外されている。
また、敗走した側はこの様な死傷記録は残さない場合も多い為、死傷が戦勝側に偏りがちで有る事も留意すべきである。
手負注文や軍忠状は史料としては一級品だが、合戦の情報は断片的なものでしかない。
また首を確保するのは後述にもあるが、主に馬手差しや短刀等の役目である事にも注意しなければならない。
平時
端的に言えば、罪人への刑罰や祭事の祭器など様々な用途に利用されたが、どちらかと言えば日常的に用いられる凶器としての面が強かった。
日本刀剣が生まれた中世という時代区分は、一般的に平安時代から戦国時代末期までの約500年以上の期間を指す。この中世という時代は、大小様々な合戦・小競り合いが断続的に続いた時代である。
物語の主題にされやすい為、何かと合戦ばかりピックアップされやすい。
それゆえ日常生活の事はあまり目立たないが、この中世という時代は、
法律や治安組織が満足に機能していない、自力救済の時代であった。
強盗・野武士の略奪や敵対勢力による暗殺は勿論の事、些細な揉め事でも刃傷沙汰(あるいは村同士の水場・境界線争い)に発展する事も少なくなかった。
強盗・略奪者達は携帯性の高い刀剣を持ち込む場合が多く、それを争いに利用する事は珍しくなかった。
要は今よりも法律を守らない人が多くて、警察も碌に仕事をしないので、自分達の身は自分達でどうにかするしかなかった時代だったのである。
その為一定年齢に達した武士の男児は枕元に太刀を置き襲撃に備えていたが、武士だけでなく百姓も場に応じ、武器(刀剣)を日頃から携帯する必要性が有り、日常の護身としても(体面を保つ武器としても)重要だった。
戦国時代ごろに成ると成人した男は、武士でなくとも一本の脇差か打刀あるいは、その両方を差す風習も生まれた。
中世においては、武士のみならず民衆にとっても、刀剣は大切な役目を持っていたのである。
因みに、村同士の抗争・合戦の為に、刀や脇差だけでなく、槍・薙刀や弓矢や鉄砲も所持する場合も多かった。この様な時代は豊臣秀吉による自力救済の禁止(喧嘩停止令)と刀狩令で一区切りが着き、17世紀中期以降、江戸幕府と諸藩の統治(幕藩体制)が安定するに伴い徐々に鳴りを潜めていく。
とは言え、江戸時代に成っても、町や村の外には犯罪者の巣窟だった為、庶民には許可制ながらも脇差の携帯が許されていたし、江戸幕府による武術武道の奨励は護身と治安維持の為だったとも言われる。
その他
一部の高級品は、拵えや刃文(刃紋)等が評価され、美術的価値も高い。
鞘や柄などの拵えだけではなく、刀身そのものが芸術品としての価値を持っている。
こうした物は、寺社に奉納されるか大名などに所有され続けるかで実戦で使われなかった物も多く、現在まで伝わり文化財に指定されている物も多い。
実用品は大量生産された物(数打ち)も多い。近代になって軍刀用に作られた「昭和刀」の大半はこの様な品である。大量生産品の日本刀も、美的にはともかく、武器としての資質は古刀に決して劣るものではない。古くから伝わる著名な刀でも、同田貫の様に、切れ味は良く頑丈でも外見が悪いと評価されない例がある。
歴史
古代の西日本における刀剣は大陸からもたらされた作剣法に基づいて製作され、反りの無い片刃の直刀(ちょくとう)が使われていた(両刃の直剣もあったが、当時の中国と同様に主流では無かった)。
日本固有の作剣法に基づいて製作された日本刀が発生したのは平安時代頃の事である。
日本刀の成立には、東北地方北部から北海道に住んでいた蝦夷が使っていた蕨手刀が影響しているとの説と、直刀(大刀)から発展したものとする説がある。
蕨手刀の特徴は刀身から柄までを一体で製作される共鉄造である。
刀身と柄の境目で角度が付けられており、これが彎刀のルーツとされる。
一方で、彎刀は茎造という茎を柄に差し込む構造であり、正倉院の大刀には刀身と柄に角度を付けたものもある事から直刀から彎刀へと発展したものと考えられる。
平安時代から鎌倉時代にかけての戦闘は騎馬武者同士の騎射が中心であった為、接近戦に備える武器として日本刀(以下、「刀」と表記)が活用された。
(なお、鎌倉時代以降戦闘規模の拡大により騎射が上手では無い兵士が増加すると共に太刀での戦闘が増えたという説もある。)勿論、補助の軽装歩兵もおり彼らは薙刀・太刀が主武器であった。
南北朝時代には、鎌倉時代とは逆に弓は徒歩の兵士が主に使い、馬上での白兵戦が主体と成る。馬上で使用する太刀を発展・長大化させた「大太刀」が流行、更に大太刀から、その柄を延長して操作性を改善した「長巻」が派生したりと言った変化もあり、野戦での威力を重視して武器が長めに作られる様に成った。
室町時代(室町時代中期)には、南北朝時代で使われた長大な太刀の使用は激減、一旦は定寸(約69㎝)と呼ばれるサイズに落ち着く、その後戦国時代に突入すると南北朝時代でも流行した足軽と呼ばれる軽装歩兵のゲリラ戦が主体に成った為かどうかは知らないが、「片手打ち」と呼ばれる短寸の刀が多く成った。戦乱が激化し軍勢の規模が拡大した戦国時代後半~江戸初期にかけて再び長く成っていき、定寸よりやや長めの直刀に近い刀が流行した。
文化面においては、武士以外の庶民にも武装が普及して、宣教師に「成人男子は全員帯刀している」と報告されるほど広まった。尤も刀の品質は様々で有り、品質の悪い量産品や、高級品でも実戦向きの物はあちこちで使い潰された為、伝世率は低い。
江戸時代には、もはや実戦で使われる事も稀と成り、戦国時代より短めの一般生活に支障の少ない大きさに落ち着く。
重い刀を差すのを嫌い、普段は竹光を持ち歩く侍や武士も多かった。
しかしながら、上意討ち・仇討ち・闇討ち等では鉄砲も槍も持ち出すのが難しい為、刀が主な武器として使われた。また、これまでに作られた刀の(主に美術品としての)評価が最終的に固まったのもこの時期である。
幕末には刀が武器として注目され、中世風の長い刀が一時は流行するが、長過ぎると狭い場所での戦闘では使い辛い事が判明し、再び適度な長さに戻る。狭い市街地や屋内での戦闘が多かった新撰組や攘夷派の志士は刀や短槍で戦ったが、広い場所での野戦に成ると銃には対抗出来る訳も無く、戊辰戦争で会津藩・新撰組・彰義隊などが敗北していくのと共に、刀も退場して行った。
但し、帯刀が禁止されても多くの家では行事に使う刀を所有し続けたし、昭和に入ると軍刀として従来のサーベルに代わって日本刀が使われる様に成り、実戦用の武器として日本刀が大量に製作された。一般に目にしなく成るのは第二次大戦後の大々的な(銃器・槍含む)没収による。
現在では、刀は伝統的工法のものしか製造・所持出来ず、所持は最寄りの市町村の教育委員会に届け出る必要がある。
思想・文化(伝承・伝説含む)
日本では古来より、剣には悪しきものを祓い断ち切る力があるとされてきており、神道において八百万の神の中には剣に纏わる神々が、武神・守護神として存在している。
古事記・日本書紀にある日本神話の時代には、布都御霊剣や天叢雲剣等の神剣・霊剣が存在し、それらを振るった須佐之男命・建御雷之男神・神武天皇・日本武尊など、英雄の逸話が伝えられている。
現代で言う日本刀の成立は、平安時代、即ち武士の成立とほぼ同時期であった。
武家の棟梁たちは、代々名刀を珍重して伝え、名刀には伝説が伴う。
例えば童子切安綱は源義光が酒呑童子を切った刀と伝わり、渡辺綱が一条戻橋の鬼を斬ったという髭切は源氏の棟梁の象徴とされた。
「刀は武士の魂」とは言われる事があるが、この言葉自体は近代に生まれた言葉とも言われている。
先述の通り実際には鎌倉の武士の武術は「弓馬の道」、戦国時代の功名の代名詞は「槍働き」である。
中世の太刀・打刀はあくまでも戦時では、槍薙刀や弓の弱点を補填する補助武器であり、平時では護身(或いは凶器)であった。
同時に武士・非武士問わず成人男子にとっての精神的支柱的な道具としての面もあり、特に非武士同士の抗争では相手の刀(または脇差)を奪う事は重罪であった。
やがて、戦国時代後期から江戸時代にかけて各大名から施行された刀狩り、及び豊臣政権や徳川幕府が制定した喧嘩停止令によって庶民が表向きの武装を失い、攻撃力の高い槍や大太刀等の長物の所持も制限が課せられた為武士も実際に所持する武装は護身用で有った刀だけと成った事で、刀は武士の象徴と成っていったと考えられる。
但し、実際にはこれらの法令・政策は徹底しておらず、実質的に無許可の携帯所持、一揆への持ち出しが禁止されただけで、多くの武器(当然無許可の物も含む)がまだ庶民の家に残っていたと言われている。
江戸中期以降には一定の手続き共に大金を払えば、商人や百姓でも郷士という身分を与えられ苗字、帯刀出来る様にも成った。
有名どころでは坂本龍馬の祖先がこれに当たる。
なお、平和なイメージのある江戸時代であるが、今の日本と比べれば、(地域や時期によるが)まだまだ治安が悪かった為、長距離を移動する等の際には、庶民でも許可制ながらも脇差を身に着ける事が許されていたり、護身用として剣術等の武術が奨励されていた時期もあった。
主な日本刀
現代において刀と言えば大方は、打刀(うちがたな・うちかたな)の事を指す。
しかし戦国時代頃までは太刀が一般的であり、武功やそれに関する慣用句などには太刀が付く事が多い。 (例、太刀打の功名、一番太刀打)
以下は現代日本における大まかな分類を記す。
太刀・打刀
どちらも刃渡り(刀身の長さ)が二尺(約60cm)以上三尺(約90cm)未満の物を指す。
基本的に太刀の方が長く他にも細かな違いはあるが、刀身自体はどちらも日本刀である。
そもそも太刀・打刀は、刀身と拵えが別である。単純なパターン分けだけでも「刀身太刀」「刀身打刀」×「太刀拵え」「打刀拵え」で4パターンある。実際に、昔ながらの長い太刀の刀身を室町時代以降に刷り上げ打刀拵えに作り変えた例がみられる。
太刀拵えはストラップみたいにぶら下げ(刃を下向きに佩くという)、打刀拵えは刃を下向きにして「帯に差す」。故に太刀の鞘には「一の足」「二の足」「帯執」というぶら下げパーツが付いている。
太刀は打刀よりも全体的に刀身の反りが深い傾向にある。また、太刀の方が歴史が古く、先の方が両刃に成っている剣から刀へ移行する過渡期に制作されたと言われる物もある。
一般的に打刀は切れ味を重視した構造で刃こぼれし易く、太刀は頑強に作られている反面、その分切れ味は打刀に劣るとされ、「剃刀」と「出刃包丁」に例えられるが、
誤りであり、原型こそ太刀と少し異なるものの大した差異はない。
単に戦乱期に造られたか安定期に作られたか、新品か中古品かの違いであり、安定期に造られたものや使い古された物は太刀も打刀も幅狭で薄い。
大太刀
刃渡り三尺以上の物を指し、「野太刀」とも呼ばれる。
当時の日本人の体格等から実戦で使いこなせる者は少なく、力や権威を誇示したり神に奉納したりといった目的で作られた物も多かったとも考えられている。
この辺りは、巨大武器的な側面を持つと言えなくもない。
よく誤解されるが斬馬刀とは別物。
脇差(わきざし)
刃渡り一尺(約30cm)以上二尺未満の物を指す。
名称は打刀の方を「本差」とした場合の脇に差す物である事から。
携行する場合は打刀とほぼ同じで、本差と両方を差している姿を「二本差し」とも呼びこれは武士そのものの別称の一つとなっている。
「本差が折れた時等の際のスペア」・「本差と併用しての二刀流」・「いざという時の切腹(自害)用」・「病気等の魔除け」・「成人男子の印(江戸期以前)」等、その存在の意味合いは多い。
小太刀(こだち)
簡単に言えば「脇差にしては長いが、二尺未満で打刀より短い」刀。
定義は曖昧だがサイズからすれば脇差に分類され、「長脇差・大脇差」とも呼ばれる。
その短さから護身用的扱われ方が多く専門の術技も在り、剣道大会等でも演舞を普通に見る事が出来る。
また江戸時代に武士以外では刀と脇差の併用、および市街地での帯刀が禁止されていた為、侠客(つまりヤクザ)等にとっては合法的に持てる最大の武器として「ドス」と呼んでこれらで武装していた。
短刀
刃渡り一尺未満の物を指す。馬手差しとも呼ばれる場合がある。主に民間人や女性が扱う懐刀・道中差が有名だが、中世の戦場においては敵兵の首を切断し首級を確保したり耳や鼻を削ぐことに重宝された。これらは戦場での活躍の証拠であり、これらを献上することにより位が上がったりご褒美をもらうことができた。(ただし、一定未満の階級の者が首級や削いだ鼻・耳を献上した場合や死体や女子供の物を確保しても手柄になり難く、むしろ後者は処罰の対象になる場合もあった。)
日本刀の構造の種類
(鋼の簡単な分類:硬・中軟・軟)※ある人の文献参照
- 無垢(丸鍛え):平安の時代から、日本刀の基本は無垢(という説もある)。
但しその古い鋼の作り方、鍛錬の仕方は現在完全に失伝している。
現在の日本刀の製造方法の多くは、戦国以降、とりわけ新刀、幕末新新刀の製造方法なのであり、国宝の刀剣類の製法である古式鍛錬ではない。
以下、現在主流とされる日本刀の構造の例
- 割り鋼:刃を硬、残りを中軟
- まくり:鎬、刃を硬、心鉄に軟
- 甲伏せ:刃を硬、心鉄を軟
- 本三枚:刃を硬、鎬、心鉄を軟
- 四方詰:刃を硬、鎬、棟を中軟、心鉄を軟
- 三枚合わせ:鎬を中軟、棟、刃を硬
- 折り返し三枚:本三枚と同じ。二つ折りにして本三枚と同じ構造にする。
隕鉄を使用して鍛えた刀
隕鉄を使用して鍛えた刀は隕石に含まれる鉱物(主に色んな鉱物を含む隕鉄)で作り上げた刀である。因みに隕鉄を使用して鍛えた刀の正式な一般名詞はまだ無さそうである(文部科学省の中の人は隕鉄を使用して鍛えた刀の一般名詞を考えてみてよ!)。
有名な物には明治時代に榎本武揚が刀工である岡吉国宗に製作を依頼した隕鉄を使用して鍛えた4振りの刀が存在する。岡吉国宗によって製作された「4振り全てに対して榎本武揚がつけられた称」が流星刀である。あくまで称(所謂呼び名だよ!あだ名じゃないからね!)で刀の号(固有の通称・刀工の名称)では無いので注意してね!
現代では刀工である吉原義人が製作した天鉄刀が存在する。
因みに大野裕明が依頼し刀工の藤安将平が製作した隕星剣(隕星剣は両刃の剣である。此方も号じゃなくて称かな?)がある。
隕石の鉄である隕鉄は入手困難で原材料が高いから、あんまり長いのは存在しないんじゃないかなぁ・・・。
刀のイメージ
下記の番組を始めとした人気時代劇の多くは打刀が主流である江戸時代を舞台にしており、それがイメージに影響を与えていると推測される。
使い方
基本的には騎乗の場合は片手、徒歩の場合は両手で扱う場合が多い。
たまに二刀流を用いる事もある(二刀流は多くはないが、二本装備する事自体は普通であるし、補助的な扱いではあるが二刀流を扱う流派は少なくない)。
ほとんどの刃物に言える事だが刃筋を立てないと立てた時と比べ切れ味が減衰し破損し易い。
しかし達人でも実戦では、刃筋を立て続ける事は困難だという。
また、よく言われる切断対象に対し当たってから意識して引いて切るのが正しいだの、日本刀同士の戦闘では刃で受けず鎬で受け流すものだのと言われるが、日本刀の使用方式は、流派と呼ばれており、かつ複数存在している為、引いて切る事を否定する流派も有れば、鎬で受け流さない流派も有る。
更に同じ様な動作で有ってもそれを行う・行わない理由が、流派ごとに異なる場合がある。
しかし、今ある多くの流派は江戸時代に成形されたものも少なくない上、それ以前の時代に成立したものでもどちらかと言えば金と暇がある人向けで、技術の情報漏洩が武術としての死活問題に繋がる為、中世の剣術(武術)は誰もが習える様な普及している技法とは言い難かったし、技法として一般的だったかは微妙である。
そのため中世の平均的な刀法は不明ではあるが、防御法に関しては江戸時代以前から存在する戦に関連した「鎬を削る」「火花を散らす」という慣用句が存在するがいずれも刃で受けるという前提から生まれた言葉でもあり、古流剣術では単なる受けを避ける傾向が強い為、逆説的に書けば鎬で受け流す・回避する方法より刃で直接防御をする方式が主流だった可能性が高い。
また、古流剣術の中には鍔迫り合いを忌避する流派も多い事から、此方も敵の刃を自分の刀の刃で受け止めてしまうのは珍しい事では無かったのかもしれない。
(時代が異なるので差し引く必要があるが、元新選組だった斉藤一によれば「実際の乱戦では刀を振り回すのが手一杯であり、突きも仲間に言われなければなかなか入らず、技を使う事も困難であった。気が付けば相手が倒れていたという有様だった」と回想している。)
よく知られているもので「峰打ち」がある。
峰打ちは固い物に棟(峰)でぶつけた時は叩いた時に刃が耐えられずに刀身が開いてしまう。
弾く時に峰打ちをするとぶつけた時と加わる力が違い、刀には力が加わらない為、棟に傷があるものがよくある。
一方、鎧で武装した兵士同士の戦闘では、一般に言われる様な時代劇の様なチャンバラでもなく、だからと言って甲冑の隙間を単に突き合った訳でもないようである。
有職故実家の近藤好和氏は、中世の軍記物に「切る」ではなく「打つ」描写が多い事に着目し、当時の日本刀はあまり鋭く研がなかったのではないかと推測している。あまりに鋭くしすぎると、すぐ刃こぼれして使い物に成らなく成るからである。
その他、兵法書である『雑兵物語』には、「(無防備な)手足を狙って切れ、真っ向(ここでは甲冑部分)を狙うな」と、注意書きが文体を変えて二回登場し、比較的信頼性の高い「太平記」「平家物語」「信長公記」等の軍記物からは膝を切る、兜の鉢を打つ 腕を切った等の記述が多くみられる。
柳生心眼流の甲冑剣術も敵が切り付けてくる(打ち付けてくる?)事を想定した技が多い事から、鎧の隙間や非装甲部分を斬突するだけで無く、甲冑越しから殴りつけたりする様な非常に乱暴な使い方が多かったと思われる。
また、刀が鎧に対して有効ではないにしても、中世の多くの兵士は財力の関係上、簡素な鎧で済まさざるを得ない場合が多く、四肢、特に膝周りの防護は雑兵でなくとも軽装に成りがちで、戦国時代には裸同然の兵士も中にはいた。介者剣術の演武や当時の再現などに見られる様な甲冑を着用出来た兵士はそれほど多くはなかった。
これらのことから、日本刀の切れ味がより重視される様に成ったのは、近代(江戸時代)以降であると判断してもよさそうだ。
武術流派の天真正伝香取神道流の大竹利典師範曰く「鎧の縫い目をヒュッと斬れば動脈まで斬れる。首にほんの少し押し込めば半分くらいまで斬れる」と説明されている。
刀で最も斬れる個所は「ものうち三寸」、切っ先から数㎝がよく斬れ、試し斬り等の映像を見ると切っ先で斬っているものが多い。
刀の切れ味にもよるが刃をただ手に置いただけでは斬れないが引いただけで刀の重さで切れてしまう。
余談
よく日本刀は、三人しか斬れないと言われるが、この話の元ネタは、評論家で太平洋戦争に従軍した経験のある山本七平氏の自伝が初出とされる。
山本七平氏曰く、日本刀で斬れるのはせいぜい三人までとし、その理由も自らの経験に基づくものとしている。
しかし、肝心の経験というのが、戦地でなくなった戦友の遺体を、その一部だけでも本土へ持ち帰る為、軍刀で切断した時に上手くいかなかった事のみであり、他は軍刀に対する不評を聞いた事ぐらいである。その為「日本刀で斬れるのはせいぜい三人まで」という言説は、山本氏本人が遺体の処理の為に軍刀を使用した時の感想であり、戦闘で刀を使用した時の感想ではない…というのが有力である。
三人しか斬れないという主張の根拠として、斬り付けた際に刀身に付着する脂や血糊が原因で斬れなく成るという説や、日本刀の欠点として語られる目釘の脆弱性が原因だという説もあるが、前者に関しては出典が不明であり、仮に脂や血糊で切れ味が低下する事が事実だったとしても、後者の説を含めて、三人までしか斬れないか否かはまた別の話である。
包丁で肉を切っていると刃に脂が付いて切りにくく成った、という自身の経験から前者の説を支持する人もいるが、片手だけを動かす包丁と全身を使う剣術では刃物に掛かる力が段違いであり、包丁を使った経験を日本刀に適用する事には無理がある。
これもかなり昔から指摘されている事ではあるが、一度の白兵戦の中で敵を3人倒すのは、槍であれ刀であれ、同条件であっても困難ではないかというものもある。
これもまた記録が残りにくい要素である為、検証は困難であるが。
伝承の域を出ないが、剣豪として知られる足利義輝と柳生宗章(柳生石舟斎の四男で柳生宗矩の兄)はそれぞれ最期の戦いに対多数戦を想定して、複数本の刀を用意し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて戦えたと伝われている。それは剣豪である故に刀の耐久性の限界をはっきりと認識しているかもしれない。
また、江戸時代の軍記『関八州古戦録』によれば、二人とも怪力と知られる戦国時代の武将、清水康英と太田康資の対決に、清水が金棒で太田の刀を叩き折って勝利したと伝われる。刀の限界を知る太田もそれ以降、得物を刀からより耐久性がある金棒に転換したという。
(ちなみに同書にも「鬼真壁」と渾名される真壁氏幹の活躍が書かれている。その真壁氏幹は何故か塚原卜伝から剣を学んだ割りに金棒を使い、後年霞流棒術を創始した)
関連イラスト
関連タグ
記事のある日本刀
銘がキャラクター名に流用されることが多く刀の方が扱われてる作品を探すのは難しい。
あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
や行
ら行・わ行