生涯
戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。徳川家康が創始した将軍家とその一族を徳川家と呼ぶ。
天文11年(1543年)に、三河国(現・愛知県東部)の松平氏の一族・安祥松平家の第6代当主・松平広忠の嫡男として岡崎城で生まれる。幼名は竹千代。
6歳の時に今川家に人質に出されるも、戸田康光の裏切りで尾張の織田信秀に引き渡されて人質となり(莫大な金銭と引き換えであり、後年に家康は「売られた」と表現している)、若かりし織田信長と出会っていたという。2年後、父・広忠が横死。今川家が織田信広を捕虜にできたため、織田家と今川家の人質交換により今川家の人質となった。ただ、最近発見された新史料から「元々松平家は織田家に人質を送って臣従していたが、信広との人質交換で(既に松平家臣団は織田家から奪う形で支配下においていた)今川家が松平家を正式に支配下にした。裏切り云々は後の江戸幕府の影響で作られた話」とする異説もあるらしい。
今川家では個人的な虐めにはあったが、政務見習いとして教育され、厚遇されていたようである。実際に16歳の時に元服した時には、「松平元信」と、今川家の通字である「元」の字を与えられている(その後「元康」と改名)。さらに、今川義元の姪・瀬名姫(築山殿)と結婚しており、この時点では、今川家における将来の重臣候補であった。
信長臣下時代
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いには今川軍として従軍したが、義元討死の報を聞き、今川家からの独立を決意。三河一向一揆で家臣の大半に背かれるが、一揆を鎮圧し家臣団の団結を図った。永禄5年(1562年)に信長と清州同盟を結び、「松平家康」と改名。のち永禄9年(1566年)に朝廷から清和源氏新田氏流徳川姓の名乗りを許され「徳川家康」となった。
その頃、甲斐の武田信玄と結び遠江を掌握、浜松に移るが、強力な武田家の前に、遠江や三河の山間部を侵食されていく。元亀3年(1572年)、三方ヶ原の戦いで家康は信玄に大敗を喫し、この時の苦渋に満ちた肖像画を描かせ、自戒したという。
ただし、この戦いは徳川の敗戦であったものの、交戦によって武田軍を足止めした事で、その後の陣中にて病を悪化させた信玄が死去。上洛の阻止に大きく貢献した為、決して無意味に戦力を損失させた訳では無かったとも言える。
天正3年(1575年)、長篠の戦いでは織田家の援軍とともに武田勝頼を破り、奥三河を奪取し、徐々に遠江の山間部を制圧していく。
天正7年(1579年)、武田家に通じたと疑われた築山殿と長男・松平信康を殺害するよう信長に命じられ、家康は築山殿を殺害し、信康には切腹を命じた。天正10年(1582年)、武田家の滅亡後、家康は混乱に乗じて駿河を獲得、幼少期を過ごした駿府に戻る。
天正10年(1582年)6月、信長の勧めで堺観光に来ていたが、本能寺の変での信長の死を知り、明智勢から逃れるため、服部半蔵の先導で伊賀越えを行う。豊臣秀吉が明智光秀を倒したが、変わらず織田家との同盟関係を維持しつつ、一方で空白地帯と化した甲斐全域と信濃の大半を占拠し、戦国最強と言われる武田旧臣を多く召抱えて戦力の増強を進める。そして秀吉の天下統一が始まると、織田信雄と組んで秀吉に対立。天正12年(1584年)の小牧・長久手などの局地戦では勝利したが、秀吉は信雄と和睦、政略面では敗北してしまう。その後も、自らの官位による権限をうまく利用して、秀吉からの上洛要請を拒否していたが、秀吉は半ば強引に自らの妹や母親を人質として送りつけ、更には短期間で従一位と関白の地位まで手にした結果、家康も完全に逆らう事が出来なくなり、秀吉に臣従する道を選ぶ事になった。
豊臣政権下
天正18年(1590年)、小田原の役では先鋒として従軍し、役後の論功により関東(武蔵・相模・伊豆・上野・上総・下総の全土と、下野・常陸の一部)に国替えとなるが、これは家康を危険視していた秀吉の策略とも言え、元の領地であった三河の領民達との繋がりを断ち、更には大阪から遠く離れた地で北条氏が滅んだ後も各地に抵抗勢力が残っている状態の関東へ追い込む事が目的であったともされている。国替えを受け入れた家康は、未開の地であった江戸を新しい拠点とし、土地の整理や町づくりに専念。また、借金をしなければならない程資金難な状態であるのを逆に利用して後の朝鮮出兵の拒否を正当化する。
力を温存しつつ、豊臣家に臣従し続けた家康であったが、朝鮮攻略がうまく言っていない事に業を煮やした秀吉が自ら朝鮮に渡ろうとした際は、前田利家や浅野長政と共に反対。秀吉の渡海がなければ朝鮮攻略が進まないと主張する石田三成と激論を交わしたが、秀吉に万一の事あれば天下は相果てると主張した結果、何とか秀吉を納得させる事になった。それらの功績から秀吉からの信頼を得るようになった家康は、豊臣一族を除けば最高位の内大臣に任じられ、秀吉に次ぐ実力者としての地位をたしかなものとしていき、慶長3年(1598年)、病床に伏す秀吉に前田利家、上杉景勝らとともに豊臣秀頼の後見人として頼まれ、五大老筆頭として大坂城西の丸に入り政治を任された。
関ヶ原の戦い
秀吉の死後、政治の中心を任されていた家康は朝鮮からの撤兵を決定し、国交回復に努める事になるが、他の五大老や五奉行を上回る力を持っていた事を危険視していた三成は、秀吉の死後から10日後、毛利輝元を証人に長政を除く他の五奉行と起請文を交わす秀吉の遺命破りに乗り出す事になり、これに対抗する形で家康も禁じられていた他大名との縁組を積極的に行い、朝鮮出兵における論功行賞も取り仕切る事になる。
ただし、縁組行為に関しては「秀吉の許可無くしてはならない」という内容で、その秀吉本人が死んだ後の場合は誰が縁組の許可をするのか記載されておらず、また論功行賞に関しても、既に政治の中心は家康本人となっている事から、遺命破りとして扱うのには客観性に欠けているとされている。事実、これを遺命破りとして主張したのは先に遺命破りに出た三成の派閥で、また家康本人が謝罪を行った事で罰則無しの和解にもなっている。
その後も三成との政治的対立が続き、彼の訴えを聞き入れた利家とは、互いの屋敷に大名達が集まって武力衝突寸前にまでなったが、相互に訪問し合い、家康が向島へ退去することでこの一件は和解となった。一方で三成の方は、以前より対立関係が悪化していた福島正則や加藤清正を始めとする豊臣恩顧の大名達からの襲撃を受ける事になり、家康がその間を取り持った末、三成は五奉行の解任と蟄居となる形で政争に敗北。実質的に、家康が豊臣家の最高権力者となった。
慶長5年(1600年)、越後領主となっていた堀秀治から上杉家による自領に対する政治工作の訴えを受けた家康は、上杉景勝に事実確認の為の上洛を要請するも、直江兼続から「直江状」の突き付けによる挑発で返された結果、上杉家を逆賊として討つ「会津征伐」に乗り出すが、出陣している隙を突く形で兼続と結託していた三成が挙兵。この知らせを聞いた家康は三成と直接対決すべく会津から引き返し、関ヶ原の戦いで東軍を率いて、勝利した。
征夷大将軍として
慶長8年(1603年)、朝廷から征夷大将軍に任じられると、江戸に幕府を開き、世界史上類を見ない250余年に及ぶ天下泰平の礎を築きあげた。2年後、将軍職を三男・徳川秀忠に譲り、駿府に隠居。将軍職は徳川将軍家が継承することを内外に示したもので、自らは大御所として幕府の舵取りを行い続けた。
孫の竹千代(後の家光)が嫡男であるのに秀忠と江は弟の国松(後の忠長)ばかり愛されて不遇であることを竹千代の乳母・春日局から知り、秀忠一家と家臣たちに竹千代こそ徳川家の後継者であると自ら宣言した。
一方で、可能な限り平和的な形で戦国の世を終わりにする為、豊臣家との関係修復も図っており、孫娘にあたる千姫を豊臣秀頼の妻として嫁がせている。徳川家と豊臣家の婚姻関係は、生前の秀吉と交わしていた約束でもある。
しかし、家康の征夷大将軍就任から10年以上の年月が過ぎても、豊臣家側は既に日本の中心となった徳川家に対し臣下の礼をとる事を拒否し続けており(淀殿を中心とする豊臣家側は、家康が死ねば再び天下は豊臣家のものになると考えていた)、更には二条城で家康と秀頼の会見が行われた後、徳川と豊臣の関係修復を望んでいた加藤清正、浅野長政、池田輝政といった遺臣達も次々と死去した結果、残された時間の少なかった家康は、方広寺鐘銘事件をきっかけに豊臣家との決戦に挑む。これが、戦国時代最後の戦いとされる大坂の陣の開戦であった。
慶長19年(1614年)冬、淀殿、秀頼母子の籠もる大坂城を攻略するために多くの大名を率いて出陣し、「大坂冬の陣」の開戦となるが、真田幸村を中心とする豊臣軍の防衛戦に苦戦。実戦投入された新型大砲が功を奏し一時的に和睦するが、大阪城の堀を埋め尽くし、要塞である真田丸を破壊して裸の城へ追い込む。
その後、豊臣家への最後通告(秀頼の大和か伊勢への移封と浪人達の追放)も拒否で返された結果、もはや交渉の余地無しと見た家康は再度出陣。慶長20年(1615年)7月、2度目の攻略戦である「大坂夏の陣」を経て豊臣家を滅ぼし、ようやく戦国の世に終止符を打つ事に成功した。
それから1年が経った元和2年(1616年)、駿府にて死去。享年75歳 (満73歳)。それから250年近くの間、家康の築いた江戸幕府の時代は続いていく。
死後、「東照大権現」として日光東照宮に祀られ、遺骸は久能山東照宮に葬られた。
死因
『徳川実記』の記載によると死因は胃癌である可能性が高い。其処には「見る間に痩せてゆき、吐血と黒い便、腹にできた大きなシコリは、手で触って確認が出来るくらいだった」といった胃癌患者に見られる典型的な症状の記載がある。
ちなみに、息子の秀忠、孫に当たる光圀も、一説には消化器系の癌を患ったと言われており、いわゆる「癌の家系」であった可能性がある。
鯛の天ぷらによる食当たりという説が有名であるが現在では否定されている。
食道を患った状態で天ぷらなどの胃に負担をかける料理に嵌った事で寿命がさらに縮まったとされ、天ぷらも体調悪化の一端を担ってはいたと言われる。
ちなみに家康が食べた天ぷらであるが、今日のタネに衣を付けた物ではなく、鯛の擂り身を油で揚げるという、今日で言う薩摩揚げやジャコ天(現在でも方言によっては「天ぷら」と呼称)の様な物であったらしい。
人物
「鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギス」
と例えられるほど我慢の人というイメージが一般的だが、本来の家康は短気で怒りっぽい性格。特に若かりし頃は血気盛んで軽率な行動も目立ち、冷静さ、忍耐強さはそれを反省した末に苦労して身に付けていった後天的なものだった。
その血気盛んな性格が災いとなり、元亀3年の三方ヶ原の戦いの惨敗は信玄の挑発に乗った結果である。
苛立ったり追いつめられたとき、爪を噛む癖があったという。
また戦で興奮し神経がたかぶると、鞍壺(人がまたがる部分)を拳で叩きまくる癖があった。結果、叩きすぎてタコができてしまい後年は指の曲げ伸ばしに不自由したという。采配の柄を噛む癖もあったと伝わる。
「狸親父」と言われるように戦略家としてのイメージが強いが、本人は「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元に継いで、「東海一の弓取り」と呼ばれたほど武闘派の武将であり、むしろ若い頃の秀吉についてまわるようなイメージそのもので、野戦が得意であった。
また、剣術、弓術、馬術、砲術の達人であり、水泳や銃も得意であったという。逸話として、70歳の時に真冬の川を家臣の目の前で悠々と泳いで見せた後、自ら重量のある銃を持って、鳥を撃ち落としたというものがある。
身長は159cmと伝えられており、家康着用の小袖から身長は155cmから160cmと推定されている。これは当時の成人男性の平均身長とほぼ同じである。
また肩幅は約50cm、ウエストは100〜120cm程だったと伝わる。足袋のサイズは22.7cm
血液型はA型またはO型とみられる。
生活は非常に質素で、身の周りの生活から国の財政まで物惜しみ切り詰めた。
良く言えば倹約家、悪く言えば吝嗇屋。ただし、必要な際には出費を惜しむことはなかった。
結局、天下統一後も死ぬまでそれは変わらなかったが、先述の鯛の天ぷらなど、多少の贅沢は覚えたらしい。なお、秀吉以上に莫大な遺産を残している。
趣味は鷹狩り、猿楽(能)、囲碁。政治・歴史関係の書物を好み、収集・出版している。
健康オタクでもあり、日本史上初めて「健康や生活習慣」を意識した人物だともいわれる。名だたる医学者・薬学者を手当たり次第に抱え込んだほか、自身も生薬の扱いに精通し、当時3歳の孫の家光の大病を、家康自身が調合した薬で治したという逸話がある。特に薬に関しては医者よりも詳しく、自分で量の調節をしていたと言われている。しかし、この薬は劇薬に近かったという説があり、最期の寸前の服用が寿命を縮めたという意見もある。
食事も質素で、偏食と美食三昧を非常に嫌い、決して過食することのないようにも留意していた。
「美食ばかりでは、うまいものもうまく感じなくなる。ぜいたくは月に2~3度で十分」と言い、麦飯と豆味噌中心の一汁一菜か二菜で食事をしていたという。
季節はずれのものはどんなに珍しいものであっても見向きもしなかったという。同盟を組んでいた織田信長から季節はずれのひと籠の桃が届けられた際、すべて家臣に与えてしまったという逸話が残されているほど。
また、冷たいものは胃腸に悪いと考え、飯は四季を通して炊きたてを用意させ、たとえ戦場であっても携帯用の干し飯を火であぶって食べるという徹底ぶりだった。
酒は強かったようだが、飲みすぎないようにしていたという。
質素な食事・適度な運動が健康に良いと始めて気づいた日本人かもしれない、と司馬遼太郎は彼を評している。事実、彼の生きた16~17世紀において、享年75歳はかなりの長寿である。
三河一向一揆との戦いでは、浄土真宗の門徒団が安祥松平家の支持母体の一つだった事と、在地の家臣のほとんどが一向門徒であり、また今川統治時代に援助をうけた恩があったため、家臣の多くが一揆衆として敵対。主家と宗門の板挟みになった家臣たちは談合の末、家康に降伏する。鎮圧後には、一揆に荷担した家臣たちを咎めることなく、元の知行で召抱えた。
家臣団の結束力をよく言われるが、家康時代までの松平家は多くに別れ、また土地柄ゆえか家臣たちにも南北朝以前の気風が強く残っており我が強く、主君といえど容易には従わない者が多く、この事が長男・松平信康や正室・瀬名姫の死にも繋がったと言えなくもない。父も祖父も家臣や一門の纏めに苦慮し、双方とも家臣の反乱により殺されるという末路をたどっている。これらの家臣をまとめあげ、「鉄の結束」と呼ばれるほどに統率した家康の手腕は相当なものであり、家康本人も家臣を何より大切にし、秀吉から「徳川の宝は何か」と尋ねられたとき、「主命とあらば、命を投げ打つ五百余騎の三河武士たち」と答えた逸話がある。
この背景には、我の強い家臣の意見をよく聞き、理不尽な賞罰を行わず、また抜群の記憶力により、たとえ小さなものでもたてた武功を絶対に忘れないというところがあった。また百姓の直訴にも罰せず聞き入れ、それが正当なものであれば正しい裁断を行った。しかし、宇喜多秀家のお家騒動の件では、自らの裁断の結果、彼に不満を抱いていた家臣達が結局離反して徳川に召抱えられる事を望むようになった結果、秀家の逆恨みを買ってしまい、関ヶ原で三成に加担する事になっている。
領地経営などから名君の評価は豊臣時代からすでに定着していたようで、公家衆の日記やイエズス会の報告書などでは庶民が徳川の統治を望む声が記録されている。また、当時は誰もが実現不可能だと思っていた戦のない泰平の世を作り上げたことは宣教師からも驚きをもって記されている。旧教国を貿易から締め出し、旧教国が対立する新教国と交易を開始し、キリシタンの弾圧を強めたにも関わらず、宣教師からの評価は秀吉より相当甘く、「神に愛されているようだ」とまで書かれている。西洋から見ても、理想に近い為政者であったようである。
厭離穢土・欣求浄土
戦国武将は各々の政治スローガンを旗印や印鑑に示し、それがその人物の為人を表すものとなったが、家康が掲げたのは「厭離穢土・欣求浄土」だった。意味は「汚れた国土を嫌い離れたく、浄土のような平和な世界を求める」というもので、信長の「天下布武」、信玄の「風林火山」、上杉謙信の「毘」など武力や強さ、勇ましさなどのイメージできるものが多い中で比べると、家康はすでに天下泰平の理想を考えていたことになる。
後世の評価
江戸時代
江戸時代には、「神君」「権現様」と称され敬われていたが、早い段階で書かれた大坂方寄りの軍記物・難波戦記や、秀吉の生涯を描いた太閤記が人気を博し、神格化されたせいで物語の主人公になることのない家康自身はむしろ地味な存在である。
江戸時代に編纂された逸話集などでは、神格化を推し進めるものばかりではなく、むしろ失敗した出来事や説教臭い面、頑固な面、家臣にやりこめられる描写もされるなど、相当に人間臭い人物であり、江戸の庶民は存外家康を身近に感じていたらしいことがうかがえる。
江戸時代後
明治時代になって、明治新政府の方針により大々的に秀吉の復権がなされ、豊臣贔屓の講談物などが次々発表されるにおよび、旧体制の象徴として家康は腹黒い狸親爺のイメージが定着する。豊臣政権の簒奪者のイメージを付与されるのもこの頃である。徳川宗家第18代目当主の徳川恒孝氏も自身の著書で、戦前は家康公は腹黒い狸親父と教わっていたのであまり好きではなかったと書いている。
戦後になり、山岡荘八の『徳川家康』の連載が始まると再評価の動きがはじまる。本書は特にビジネスマンへの影響が絶大で、今もビジネス書として読み継がれている。
しかしその後、明治政府を神格化し、江戸幕府を日本人を歪んだ民族にするという偏った考え方をしていた司馬遼太郎の小説によって、再び狸親父や悪逆非道の野心家としてのイメージが広められ、山岡によって広められた泰平を求める求道者としての家康像と共存している状況にある。
なお山岡の『家康』は、後に韓国で『大望』の題で出版されてベストセラーとなった。韓国人の間で家康の人気が高いのは豊臣秀吉の印象が悪い裏返しということもあるが、山岡作品の影響が大きい。また同作は21世紀になってから中国語にも翻訳されて数百万部を売り上げ、中国人の戦国武将のイメージに大きな影響を与えた。近年の中国では日本の戦国時代を素材にした日本産ゲームや漫画などが浸透しており、その中には山岡作品の家康像とは異なる描き方のものもあるが、家康が中国人に最も人気がある戦国武将となっているのは明らかに山岡作品の影響である。
現在
近年でも、日本では司馬の小説等による家康悪人説の影響力や風評被害が強く、酷いケースでは、本能寺の変や豊臣秀次事件、石田三成襲撃事件、宇喜多騒動に関してまでも、家康が黒幕だったという、無茶苦茶とも言える陰謀論さえ出回っている程である。
大河ドラマや戦国時代を題材としたフィクション作品では、豊臣秀吉、石田三成、直江兼続、真田幸村、武田信玄等といった家康と敵対した武将達ばかりが題材にされる上に、彼等が判官贔屓とも言える形で「正義の武将」として扱われる傾向るが目立った結果、家康はの場合は「悪逆非道な野心家」と評される等、どちらかと言えば悪いイメージが強調されることが多い。
家康の行いに関して特に批判されるのは…
- 豊臣政権を乗っ取り石田三成を隠居へ追い込んだ。
- 上杉家に謀反の疑いをかけて会津征伐を起こした。
- 関ヶ原の戦いで小早川秀秋の裏切りを仕向けた。
- 豊臣家を最終的に滅ぼした。
等であるが、これらは起こるべくして起こった事とも言え、これらを理由に家康を「極悪人」や「卑怯者」等と一方的に批判するのは、当時の時代背景やどういう経緯で起こってしまったのかについて全く知らず、理解もしていない者の見当外れな主張でしかない。
秀吉の死後に、豊臣政権が家康中心となったのは、そもそも秀吉が生前に行った朝鮮出兵や秀次事件といった悪政が問題過ぎた結果、死後の豊臣政権が大きく信頼を失ってしまった為であり、それを立て直し、朝鮮との国交回復を行うには、死去した秀吉に次ぐ地位や権限を得ていた家康が中心となった政権となるのはむしろ必然的な事で、家康を殆ど一方的に脅威と見なし、身内との対立関係を悪化させていた三成では、豊臣家の舵取りは出来なかったに等しい。また、三成に隠居を言い渡したのも、三成の命を狙った武将達の彼に対する憎しみが殊の外強くなってしまった為で、こうなる前に和解する為の尽力をしなかった三成にも責任があったと言わざるを得ない。
上杉家に謀反の疑いをかけて会津征伐を起こした点も、家康を批判するのは殆ど筋違いである。土地の整理や武器、浪人を集めた点を「謀反」とするのは言い掛かりに聞こえなくもないが、それ以前に上杉家は直江兼続の策謀で、新たに越後の領主となった堀秀治に対し悪質な嫌がらせに等しい行いを繰り返し(全ての年貢の持ち出し、米を作る農民の連れ出し、越後に置いていた家臣達を使った一揆の誘発、秀治が借りた米の借用書の買収と催促、上杉謙信の遺骸放置等)、それらの件で秀治に助けを求められ、さらに最上義光や伊達政宗からも訴えを聞いた家康が、上杉がかつての自領を取り戻す為、越後に戦争を仕掛けようとしてしているのではないかと疑うのも仕方のないものであった。
関ヶ原で裏切りが起こった点についても、家康や裏切りを実行に移した小早川秀秋を批判しきれない経緯があった。豊臣秀頼が生まれた事で、それまで後継者だった秀秋は用無しと言わんばかりに冷遇されて養子に出されただけでなく、秀次事件ではあわや切腹させられそうになり、朝鮮出兵での行動に難癖を付けられた挙句に秀吉や三成によって大幅な厳封処分を受けてしまい、その窮地を家康に救われているので、秀秋がそれに恩義を感じて家康率いる東軍についたのも、当然といえば当然の事である(さらに言えば、秀秋は関ヶ原の戦いから2年後に21歳の若さで亡くなったため、汚名返上する機会も時間も無かったとも言える)。むしろ、秀吉存命時に散々な仕打ちを行っていながら、秀秋が豊臣側に味方をするのは当然と考えていた三成の方がおかしいと言えなくも無い。その事実を知っていた高台院も、関ヶ原の開戦直前に甥の秀秋が相談に来た際は、どちらにつくかは良く考えるべきであると諭している程である。
そして豊臣家を滅ぼした点であるが、これも家康は最初からそうしようとはせず、前述通り孫娘の千姫を秀頼と婚姻を結ばせる事で和睦しようとしていた。また、家康は官位でも最高位となる従一位となった上、征夷大将軍に加えて「源氏長者」という関白以上の地位を手にした以上、豊臣家の権限が既に終わったと見るのも当然の事であり、更に家康は自らの征夷大将軍就任から10年近くもの間、豊臣家が徳川家の臣下に入るか否かを決める時間の猶予も与えていたのだが、淀を中心とする豊臣家の反徳川派は、時代の流れを認められず、豊臣家を一大名家として存続させようとしていた家康からの譲歩も、交渉役を務めた片桐且元を実質上追放する形で拒絶。交渉決裂となり大阪の陣が勃発しても、大阪城が落城する寸前まで抵抗を続けた為(武士の世界では、落城寸前まで抵抗を続けた城主が降伏するのは恥とされており、それを選ぶくらいなら潔く切腹すべきとされている)、結果的に助命嘆願が認められず滅ぼされるに至ったので、これも一概に家康が悪いとは言えないものである(ちなみに、除名嘆願を認めず攻撃を命令したのは、息子の秀忠の方であり、また秀頼本人も淀殿と異なって降伏はせず切腹する道を望んだとされている)。
家康本人も、天下泰平という理想の為とは言え、秀頼を討つしかなく、それによって妻となっていた千姫を哀しませた事に心を痛めていた様で、秀頼を失った心痛から病に臥せった千姫に見舞いの手紙を送り、後の春には回復を喜ぶ内容の手紙も送っている。これらの千姫宛の手紙は、家康が自ら筆を取って書いたものとされており、そしてそれが家康の生涯最後に書いた手紙となっている。
フィクション作品では、「戦国無双」「戦国BASARA」など、様々な作品に登場している。2000年代までの架空戦記では悪のラスボスであり、過程はともかく最終的には殺される役回りが多かったが、近年の創作物では家臣の三河武士に焦点が当てられる事も多く、人材掌握力に長け、家臣たちに慕われる家康像が強調されている。
また、昔からの俗説に「本物の『徳川家康』は暗殺・病没など何らかの形で死亡してしまい、徳川家を維持するため、本人そっくりの他人が影武者として『徳川家康』を演じている」というものがあり、隆慶一郎著の「影武者徳川家康」など、影武者説を採用した作品も少なくはない。
生地の岡崎ではやはり他地域に比べて人気が高い。また第二の故郷ともいえる静岡、特に浜松市民には大人気で、出世大名家康くんなるゆるキャラが誕生し、浜松市福市長を務めている。
なお、一般の人気とは別に、歴史学者・歴史研究家からの家康の評価は、非常に高い。200年以上の長期にわたる安定政権を樹立した日本史上唯一の人物であり、日本の武家政権の長の中で最優秀の人物、と評する研究家も少なくない。(近代以降も含めた)「日本の為政者の中でも最も傑出した人物」と評する研究者もいるほどである。
関連タグ
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織田信長 今川義元 武田信玄 明智光秀 豊臣秀吉 前田利家 伊達政宗 石田三成 上杉景勝 小早川秀秋 真田信之 真田幸村
タモリ(缶コーヒーBOSSCM、宇宙人ジョーンズシリーズ「関ヶ原の戦い編」にて家康役を担当。演者本人のトレードマークであるサングラスをかけたままであったが、演じた本人も含め全く違和感が無かったとのこと)
創作物上の扱い
徳川家康(戦国無双)
CV:中田譲治
こちらを参照→ 徳川家康(戦国無双)
関連タグ
徳川家康(戦国BASARA)
CV:大川透
こちらを参照→ 徳川家康(戦国BASARA)
関連タグ
東軍 東軍コンビ 若虎組 兄貴と狸 太陽と日輪 東西トリオ 松ヶ原
徳川家康(采配のゆくえ)
こちらを参照→ 徳川家康(采配のゆくえ)
徳川家康(信長の野望)
こちらを参照→ 徳川家康(信長の野望)
徳川イエヤス(戦国乙女)
こちら参照→徳川イエヤス
徳川家康(へうげもの)
CV:鶴見辰吾
超が付くほどの生真面目で質素倹約・質実剛健・正義を重んじる情熱派。太眉で福耳。
家臣や領民を思う政治を心がけ、家臣達もそんな家康を慕っている。
贅沢を嫌い、侘びや数寄にあまり興味を示さないが、古田織部とは良くも悪くも親しい関係を持っている。
純朴なねねに恋心を抱いており、古田にそのことを見抜かれている。
平和を望む光秀に好印象を抱き、決起した光秀を助けようとしたが間に合わず、
光秀の最期を看取ってその遺志を継ぎ、天下泰平のため強かに行動することを誓った。
徳川家康(戦国大戦)
「1560 尾張の風雲児」(「松平元康」時代)、「1570 魔王上洛す」、「1590 葵 関八州に起つ」(「徳川家康」時代)と「1477 破府、六十六州の欠片へ」(「松平竹千代」時代)で勢力を移りつつ参戦。
同一人物のため、同時にデッキ編成に組めない。
「松平元康」Ver.
CV:野宮一範
今川家に従属していた時の姿。
二つ名は「三河の希望」。
今川家特有のフェイスペイントは、タヌキを想起させる隈取り。
スペックは、コスト2 武力6/統率8の弓足軽で、特技は「防柵」と「魅力」。
同コスト帯では武力が低めだが、その分統率が高め。
持ち計略である「忍従の陣」(にんじゅうのじん)は、元康を中心として、横長の長方形陣形を展開。
範囲内に居る味方武将の武力を「陣の中に居る時間」に比例して武力を徐々に上げていく。
ただし、一度範囲内から出ると累積がリセットされるため注意が必要。
「今は我慢、辛抱だ!
いつか僕らに風が吹くさ!」
「徳川家康」Ver.
CV:浜田賢二
桶狭間の戦いで義元が討たれた混乱に乗じて独立し、織田家と同盟を結んだ後の姿。
二つ名は「三河の鷲」。
昔と比べて大人びた風貌になったが、名残のように隈取りが残っている。
スペックは、コスト2.5 武力8/統率9の弓足軽で、特技は「制圧」と「魅力」。
「防柵」が「制圧」に変化して、コストが0.5増加し、それに伴い武力が2、統率が1増えた。
鉄砲隊が多い織田家では少々火力面に不安が残る。
持ち計略の「鶴翼の陣」(かくよくのじん)は、家康を角に置いた、「自軍から見て逆台形の陣形」を展開。
家康の移動速度を落とす代わり、陣形に入った味方武将の武力を上げる。
かなり長い効果時間を持つため、攻勢に出られれば高い制圧力を発揮できる。
「何も恐れず進め!
我らは屈強なる三河武士だ!」
「徳川家康」Ver.1590
CV:立花慎之介
本能寺の変で信長亡き後、徳川家が天下取りに飛躍しはじめた頃の姿だが、年号的に関東に転封されたからとも言える。
二つ名は「関八州の覇者」。
隈取りは相変わらず残っている。
スペックは2.0 武力7/統率10の弓足軽で、特技は「魅力」
徳川家では数少ない采配持ちで、徳川家固有の計略「三葵計略」の三段階目「三葵躍進」が発動できる9枚の武将の一人。
持ち計略は「三葵の采配」で属性は翠葵。無点灯では微量の武力上昇と兵力を徐々に回復、葵ランプの消灯速度減少だが、紅葵点灯後の発動では更に武力が上昇し、蒼葵点灯後の発動では統率と移動速度が上昇する。SR武田信玄(1.0)の風林火山と兵力回復の方法が異なるだけで効果はほぼ同じ。
徳川家全体に言えることだがランプが消灯しないことと士気が残っている限り、三葵躍進が何度でも可能。
「関八州の地より、天下太平を目指す
我らの新しき戦いが始まるのだ」
CV:浜田賢二
1590には彼のSS版も存在し、原作:山岡荘八、作画:横山光輝の劇画「徳川家康」からの参戦。
二つ名は「海道一の弓取り」。
スペックは2.5 武力8/統率8の槍足軽で、特技は「魅力」
持ち計略は「結束の陣」で属性は翠葵。武力が上昇するがランプの消灯速度が上昇する。計略コンボが前提の徳川家において、単体の発動で他武家と戦える数少ない一枚。
「予は勝とうと決心した」
CV:小野大輔
更に1590には彼のEX版も登場している。
二つ名は「天下への大志」。
スペックは2.0 武力6/統率9の槍足軽で、特技は「魅力」「防柵」
持ち計略は「葵紋の陣」で属性は翠葵。統率が上昇し葵紋ランプの点灯が減少する。特筆すべきは効果時間と葵紋ランプの減少速度であり、運用次第では半永続的にランプが点灯したままということも可能。
「勇敢なる三河武士たちよ。
今こそ、我らが主役に躍り出る時!」
「松平竹千代」Ver.
CV:古川小百合
今川家に人質として出されるはずの所を、家臣の裏切りで織田家に送られた史実の姿を描いている。1590で徳川家が追加されたので徳川家の一枚として登場。
二つ名は「三河の人質」。
スペックは1.5 武力4/統率5の槍足軽で、特技は「魅力」「新星」
持ち計略は「忍従の日々」で翠葵属性。忍従の陣の単体強化版だが、武力が徐々に上がる効果に加え兵力も徐々に回復する効果を持つ。新星技能により最終的に6/7になる上、統率による効果時間の依存が非常に高く、統率を上げて発動すると最終的に単体超絶強化並の性能が長時間続くことになる。
「どんなつらいことが待っていても・・・・・・
ボクは耐えてみせる!」
徳川家康(殿といっしょ)
CV:桐本琢也(ドラマCD)
「我慢強い」ことを必要以上に強調されており、全ての価値観に「我慢強さ」を持ち込むほど忍耐力が高い。短気な息子・秀忠に対しては「我慢値が5しかないお前にはまだ家督は譲らない」と諫める一方、その秀忠(と父)からあらゆる艱難辛苦を受け続けている真田信行に対しては敬意を表している。
お笑い好きな秀吉とも我慢芸一本で挑むなどそれほど仲は険悪ではないが、三成からは「ここまで価値観が違う人間は初めて見た」とかなり嫌悪されている。
一方でプライドも高く、若い頃には信玄から「歯牙にもかけられていない」と勘違いして一方的に宣戦布告しウンコを漏らすほどボコボコに負けており、信長からも散々にバカにされていた。
徳川家康(BRAVE10)
CV:石塚運昇
「古狸」と恐れられる老獪な武将で、目的のためには手段を択ばないため、豊臣方の武将からは警戒されている。ヒロイン・伊佐那海の生家(出雲)を焼いた張本人であるため、真田一門からはすこぶる評判が悪い。
息子・秀忠との仲も非常に険悪である。
徳川家康(信長の忍びシリーズ)
CV:置鮎龍太郎
『尾張統一記』序盤にて織田方に攫われ、人質として信長と知り合う。幼い頃より苦難の多い人生の為かなり我慢強く、あまりの苦節ぶりに信長が滂沱して一緒に遊ぼうと言い出したほど。幼児の頃より辛抱強く常に優しい笑みを浮かべるなど人間が出来ているものの、女性好き(by瀬奈)なのはこの頃からで、帰蝶には一転して泣きつこうとするなど立場の使い分けが上手い。
今川の元に戻ったことで義元の姪・瀬奈姫/築山殿を娶るが、これが大後悔の始まりとなる。
『信忍』本編では周囲から「狸」呼ばわりされるほど丸々と太った姿で登場し、食いしん坊になっていた。嫉妬深い妻からは側室を娶ったり美人に色目を使ったりしているなどムチャクチャ恨まれているが、「あれでも私の妻なのだ…助けたい…!!」と部下たちに頭を下げるなど、恐妻家ではあるが家族を思う気持ちに偽りはない。
緊張するとトイレが近くなる悪癖があり、三方が原では間に合わなかった。
『軍師黒田官兵衛伝』では伊賀にいた時に本能寺の変が勃発したため、命からがら逃げ延びた。
「徳川家康」(パズあに)
「徳川家康」(ラヴヘブン)
乙女パズルゲームの攻略キャラクター。初期レアリティはRでの登場。
異世界の危機を救うため、主人公により召喚された。
徳川家康(戦国ランスシリーズ)
大柄なタヌキの妖怪として登場。欧州を支配する妖怪王独眼竜政宗に対抗意識を抱いてる。
臆病で小心な性格をしており戦国のJAPANでも徳川家を乗っ取ってからは特に行動をしていない。
徳川家の生き残りの戦姫を地下牢に閉じ込めている。
正史では死亡している。