江戸時代
日本史の時代区分のひとつ。徳川将軍家による江戸幕府が日本を統治していた時代。安土・桃山時代と合わせて近世と呼ばれる。
徳川家康が征夷大将軍に任命された1603年から大政奉還がされた1868年までを指す。黒船来航の1853年以降を特に幕末という。
いわゆる「時代劇」で扱われるのはだいたいこの時代であり、特に11代将軍徳川家斉が実権を握っていた文化・文政期とその前後が舞台となることが多い。
ただし、江戸時代といっても長く、時代によって服装などの風俗がかなり変化している。江戸時代前期の元禄期を舞台にした『水戸黄門』や、中期の享保期を舞台にした『暴れん坊将軍』が、江戸後期の風俗を描いているのは、時代考証的にはおかしい(もっともこの2作品に関しては、設定自体が荒唐無稽であるが...)。
島原の乱から戊辰戦争に至る230年間、大規模な武力紛争が起こらないという史上未曾有の平和な時代(天下泰平)を現出した(ただし、蝦夷地・松前ではシャクシャインの戦いとクナシリ・メナシの戦いという大規模な戦闘が起き、それぞれ三桁の死者を出している)。
時代の移り変わり
前史
後北条氏討伐後、豊臣秀吉の命によって徳川家康は東海地方から関八州へ移った。家康は江戸城を本拠と定め、江戸の都市開発に着手していく。秀吉の死後、石田三成らとの対立の末、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、西軍に属した大名を厳しく処分し、外様大名たちは徳川家への服属を余儀なくされていく。そして、慶長8年(1603年)に家康は将軍に任じられ、江戸幕府を開いた。
江戸幕府の創設
江戸には徳川家に服した諸大名の屋敷が設けられ、商人や職人たちを呼び寄せて急速に拡大した。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣秀頼を滅ぼした家康は名実ともに天下人となる。2代将軍・徳川秀忠は武家を統制する「武家諸法度」、朝廷や公家を統制する「禁中並公家諸法度」などを発布して支配体制を確立、さらに幕閣の本多正純、豊臣恩顧大名の福島正則や加藤忠広などを改易していった。生まれながらの将軍・徳川家光の頃には武家諸法度に参勤交代を定めるなど強固な幕藩関係を構築した。朝鮮出兵により破綻した朝鮮王朝との外交関係は修復され、琉球を島津家に服属させ、加えて清帝国、オランダ、アイヌ以外との交易を禁じて貿易を統制する「鎖国」体制(海禁体制)を完成させた。
戦国の世が完全に終わってからも、しばらくは戦国時代の荒々しい気風を残した社会であった。度重なる大名家の取り潰しは大量の浪人を生み出し、社会不安は増していった。さらに、冷害により寛永飢饉が発生するなど、農民たちの困窮も深刻であった。寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱では、キリシタンの天草四郎(益田時貞)を中心に、重税に耐えかねた農民が一揆を起こし、これに主家を失った浪人が加わったことで鎮圧に半年を要し、一揆軍・幕府軍ともに多くの死傷者を出すに至った。また、慶安4年(1651年)には幕政に不満をもつ軍学者・由井正雪ら多くの浪人による討幕の謀議が発覚し鎮圧する事件も起こった。
幕藩体制
徳川将軍家のもとに全国の大名・幕臣たちが従う政治体制は幕藩体制と呼ばれる。関ヶ原の戦い・大坂の陣に勝利して全国の三分の一の領土を支配した家康は絶大な権力を握り、滅ぼした大名の旧領を親藩、譜代の家臣たちに給知した。譜代大名は老中(臨時職として大老)や城代などに任じられ、幕府政治の中枢を担っていく。また、徳川家の直属軍団である旗本・御家人は江戸に集められ、番方(今でいう師団)に編成された一方、町奉行・勘定奉行(寺社奉行と合わせて三奉行という)などの役方をも担い、実務に当たった。
一万石以上の領地を与えられた大名は、有事の際には一つの備(軍団)を編成して軍役に当たるが、平時には領国(藩)を自由に支配することを認められた(自分仕置権)。しかし、預けられた領知を支配できず無嗣断絶、御家騒動や失政を起こせば、減転封・改易などの厳しい処置が待っていた。
徳川家の家臣である大名たちは、軍役のほかに証人(人質)を江戸に送ること、年に一度将軍に拝謁すること(参勤交代)、また幕府の公共政策である御手伝普請、そのほか国役・諸国高役金などの上納を義務付けられていた。参勤交代に関しては、よく言われている大名財政を悪化させることで藩の実力を削ごうとしたというのは誤りで、実際には将軍と大名との軍事的主従関係の確認という目的であった。いずれにしてもこれは大名家への大きな負担となり、多くの藩が財政難に悩まされていく。
元禄・享保時代
4代将軍徳川家綱・5代将軍徳川綱吉の治世では戦国の遺風を残す武断主義から文治政治に改め、「天下泰平」を謳歌する穏やかな社会が創出されていく。家綱は証人制・末期養子の禁を緩和し、綱吉は湯島聖堂を建立して儒学者の林家を取り立て、さらに生類憐れみの令を布告して捨て子や動物の殺生を禁じた。
この時期は、前代の安土桃山時代に引き続く人口の急増と大開拓の時代であり、測量や土木技術の発達を背景に、湖や潟、浅瀬などで埋め立てや干拓が行われ、低湿地の耕地化が進んだ。特に将軍のお膝元である関東平野は幕府の肝いりで利根川東遷事業/荒川西遷事業という一大プロジェクトが行われ、それまで雑木林や荒れ地、湿地帯だった関東平野の多くは、江戸時代に急速に農地化した。
また大坂を拠点に北前船などの海運が整えられ、離れた地方から米などの物資が大量に移入できるようになり、江戸・大坂・京都の三都が大都市に発展、金座・銀座・銅座が貨幣を鋳造して貨幣経済が発展しはじめたのもこのころである。開拓と水運の整備により、奥羽地方などそれまで辺境だった地域でも米の生産力が急上昇して、その経済が潤い文化の発展に繋がった。さらに商品作物の生産が盛んな村では他所から米を購入して納税用の年貢に充てるという買納制が広まるなど、貨幣経済が農村にも浸透していく。
一方で、貨幣経済・畿内の工業発展により三都では「米価安の諸色高」という状況を招いた。武士たちは年貢米を大坂などの蔵屋敷で換金して生活必需品を購入し、あるいは参勤交代で江戸に滞在するため、困窮してしまう。幕府・諸藩では財政難が深刻化し、各地で幕政・藩政改革が進められた。幕府では勘定方役人荻原重秀が貨幣悪鋳(貨幣を市中から回収して金銀配合率を下げる)を行ってその差額(改鋳益金)を収公して赤字補填に充てた。それによるインフレで元禄時代の好景気を現出したのである。
その後、6代将軍徳川家宣のもとでの将軍侍講新井白石・側用人間部詮房の「正徳の治」は貨幣良鋳を行ったことでデフレを発生させてしまい、失敗している。またオランダとの貿易赤字による金銀流出を防ぐため海舶互市新例を布告している。
幕府及び各藩の改革で最も成功し、後世の模範とされたものが享保元年(1716年)に就任した8代将軍・徳川吉宗による「享保の改革」であった。吉宗はそれまでの米作偏重を改めて菜種、綿花、藍、養蚕、サツマイモ、サトウキビなど飢饉対策作物や商品作物の生産を奨励。商品作物の生産には大量の肥料が必要になるので、この頃から蝦夷地や房総でとれたニシンやイワシが肥料として西日本まで流通するようになった。
財政改革の一環として幕領の年貢を検見法(毎年税率を決める)から定免法(税率を一定にする)に改め、貨幣悪鋳を行った。さらに参勤交代を緩和する代わりに上げ米の制を定めて、諸大名から一定の年貢を収公した。
産業奨励と倹約の二本柱で財政再建を狙ったこの改革は諸藩の藩政改革のモデルとなり、幕府財政の安定化には大いに役立ったが、米価対策に悩み続けた吉宗は「米公方」とあだ名された。
社会の安定を背景に、庶民にまで教育が普及し民間の文化が栄えた。幕府や諸藩の学問奨励政策もこれに資した。幕府の統制下で海外の最新の情報や技術も輸入され、蘭学が知的階層に受け入れられる。一方で儒教を基にして朱子学・陽明学が官民ともに学ばれ、実務的な農学、趣味と実益を兼ねた和算の研究、日本の古典を研究する国学も盛んになった。
江戸・大坂・京都を中心に商業や流通が整備され、地方でも各藩の殖産興業政策によって、現代につながる地場産業や地域独自の文化が熟成されていった。東北地方を中心に飢饉は時折起こったものの、この時期には国内外を含めて戦乱は起こらず、まさに「天下泰平」の時代が確立された。
宝暦・天明時代
農村・漁村では、貨幣経済の浸透により豪農や地主、網元への土地・資本が集積していき、小農民が小作人に転落するなど、貧富の差が拡大していった(これを資本主義への移行期と捉えることもできる)。日本近海ではロシアや欧米列強の船舶が出没し、緊張が高まった。
幕府・諸藩の財政難は続き、9代将軍徳川家重と10代将軍徳川家治に取り立てられた田沼意次は、有力商人たちに「株仲間」と呼ばれるカルテルを組織して新規参入を規制することを認める代わりに、運上・冥加を取り立てる施策を講じた。しかし、天明3年(1783年)の浅間山の大噴火、疫病の流行、各藩の失政(稲作の過剰な奨励や備蓄米を流用して飢餓輸出を強行するなど)が重なったことによって、「天明の大飢饉」と言われる未曽有の大飢饉が発生してしまう。天明6年(1786年)の家治の死を機に、田沼は失脚した。この飢饉でも餓死者を出さなかったといわれる白河藩主・松平定信(8代将軍・徳川吉宗の孫)が老中に就任して「寛政の改革」を布告する。しかし、過度の締め付けにより文化・経済が停滞したうえ、財政立て直しの面でもさほどの成果を上げることはなかった。寛政5年(1793年)、財政問題をめぐって11代将軍徳川家斉と対立を深めた定信は失脚した。
大御所時代と天保の改革
定信失脚後も松平信明など「寛政の遺老」たちにより基本的な施政が引き継がれる。ロシア帝国のラクスマンやレザノフが来航するなど、蝦夷地開発は喫緊の課題となった(一時的に幕府は蝦夷地を松前藩から収公して直轄化している)。加えて将軍徳川家斉は天井知らずの漁色家であり、膨張する支出から幕府財政は火の車となっていった。この時代は文化14年(1817年)の信明の死で一区切りが付き、文政元年(1818年)から家斉は側用人の水野忠成を登用して幕政に当たらせ、その弛緩した施策は化政文化の最盛期をもたらした半面、腐敗、綱紀の乱れが生じ幕府財政の悪化に拍車がかかった(大御所時代)。1841年(天保12年)の家斉の死を経て、12代将軍・徳川家慶のもと老中・水野忠邦が享保・寛政の両改革を手本に「天保の改革」に取り組むが、流通の混乱と不況の悪化を招いただけであり、狙いの財政立て直しも成功しなかった。
このように幕府の改革は、旧態依然の質素倹約令で民間の活動を押さえつけようとしたことから失敗するものが多く、幕府の権威は緩やかに落ちていく。
幕末(安政〜慶応)
嘉永6年(1853年)、ペリー率いる4隻のアメリカ艦隊が浦賀に来航、老中・阿部正弘はオランダから得た情報で来航を予期していたにもかかわらずほとんど対策をとることがかなわず「国書」のみを受け取り、返事は翌年に持ち越すこととなった。阿部は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に加わらない人々にも外交についての意見を求めたが、妙案はなかった。これ以降は国政を幕府単独ではなく合議制で決定しようという「公議輿論」の考えだけが広がり、結果として幕府の権威を下げることとなった。
嘉永7年(1854年)、ペリーは7隻の艦隊を率いて再来航、幕府は折衝を重ね「日米和親条約」の締結し、安政5年(1858年)には大老・井伊直弼が孝明天皇の勅許を得ずに「日米通商修好条約」を締結するに至った。軍事力が圧倒的に劣ることを考えれば、幕府の外交方針はやむを得ないものであったが、「天皇の許しを得ずに条約を結んだこと」「戦いもせずに外国に屈したこと」が尊王攘夷派の怒りを買い、幕府はその対策に窮していくことになる。
大老・井伊直弼は尊王攘夷派を弾圧したが(安政の大獄)、安政7年(1860年)、江戸城・桜田門外で水戸・薩摩両藩の浪士に襲撃されて暗殺された(桜田門外の変)。
この事件以降、幕府は緩やかに衰退していく。京の都は攘夷派の志士により治安が乱れ、治安組織として新選組が創設され、会津藩主・松平容保は「京都守護職」に就いて京の治安は会津藩と新選組にゆだねられることになる。
その間、文久2年(1862年)には薩摩藩の行列を横切ったイギリス人が殺傷される「生麦事件」が起き、それが原因で「薩英戦争」が、文久3年(1863年)、文久4年(1864年)には長州藩が攘夷を実行してその報復を受ける「下関戦争」が勃発、両藩は軍備のちがいに大敗を喫した。
しかし、この敗戦は攘夷がもはや時代遅れの空論であることを両藩に知らしめ、両藩は軍備の近代化に着手することとなった。
慶応2年(1866年)、2度目の「長州征伐」を前に薩長両藩は秘密裏に同盟を締結(薩長同盟)、幕府軍は思わぬ長州軍の反撃にあい敗北を喫し、14代将軍・徳川家茂が陣中で病没したことで撤退する。
同年12月には幕府寄りだった孝明天皇が崩御、15歳の睦仁親王が即位する(明治天皇)。
慶応3年(1867年)、事態は幕府に不利になっていく。政治的に孤立を深める15代将軍・徳川慶喜は同年10月に大政奉還を決断し京を離れるが、慶応4年(1868年)1月、薩長両軍と旧幕府軍との間で戦いが起き旧幕府軍は敗北(鳥羽伏見の戦い)、慶喜はこの戦いの結果を見ることもなく江戸へと帰り寛永寺に謹慎、同年4月11日、江戸城は無血開城、明治天皇は「五箇条の御誓文」を宣布、旧暦1月1日にさかのぼって明治に改元し江戸時代は終焉を迎えた。
将軍一覧
- 初代 徳川家康
- 2代 徳川秀忠
- 3代 徳川家光
- 4代 徳川家綱
- 5代 徳川綱吉
- 6代 徳川家宣
- 7代 徳川家継
- 8代 徳川吉宗
- 9代 徳川家重
- 10代 徳川家治
- 11代 徳川家斉
- 12代 徳川家慶
- 13代 徳川家定
- 14代 徳川家茂
- 15代 徳川慶喜
関連タグ
代官 役人 奉行 / 町奉行 / 与力 / 同心 / 岡っ引き
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