1928年11月3日生まれ。兵庫県宝塚出身(出生は大阪府)の漫画家。
ガンで亡くなる直前まで仕事をし続け、今わの際にもペンを握る動作をするという、まさに「死ぬほどの漫画好き」。比喩表現でなく、事実として命を賭けて漫画を書き続けた。
概要
人呼んで「漫画の神」。日本のストーリー漫画の開祖として知られる。
彼に関する研究本は1000冊を超え、日本漫画家では一番の量を誇る。その与えた影響の強さは漫画の歴史の本にはほぼ100%手塚治虫の名前が書いて有るほどである。
没後25年の2014年になってさえ漫画のアカデミー賞と呼ばれるアイズナー賞で翻訳作品が受賞するなど、現代でさえ評価の高さは衰え知らずである。
それまで舞台劇視点の演出で、笑い・こっけいさという喜劇的要素が主体であった従来のマンガに、悲劇を伴う物語性のエッセンスと、映画におけるカット割りを導入した「演出」という概念を持ち込み、革命を起こしたとされる。
「治虫(おさむ)」と言う名前は、甲虫のオサムシになぞらえてつけたもの。最初の読みは「オサムシ」だったが、ペンネームの後に「氏」をつけると、「オサムシシ」となるため、「オサム」に変更したようだ。本名は「治(おさむ)」。
代表作は『鉄腕アトム』、『ブラック・ジャック』、『火の鳥』、『ブッダ』、『リボンの騎士』、『ジャングル大帝』、などに代表されるヒューマンドラマが特に高い評価を受け、知名度が高い。
その一方で『MW(ムウ)』のような人間の醜さや業を描いた作品や、『アラバスター』『バンパイヤ』など悪の妖しい魅力に溢れたグロテスクな作品を好んで描いたことも知られている。『きりひと讃歌』『鳥人大系』『人間昆虫記』など、人間の心の闇を描いた、救いのないほど暗い作品も多い。
大人向けの雑誌に連載され文学作品のように受け止められたものに『陽だまりの樹』や『アドルフに告ぐ』『ばるぼら』等がある。
また商業としてのTVアニメの地位の確立に尽力しており、漫画だけでなくアニメの分野でも大きな足跡を残している。(後述)
手塚治虫が開拓した分野
●日本におけるストーリー漫画の開祖(というか、手塚治虫の影響下にある漫画を指す呼称として「ストーリー漫画」という語が作られたのである)
●日本で最初に主要人物が死亡する少年漫画を描く(地底国の怪人、ただし少女漫画では松本かつぢが『?(なぞ)のクローバー』で主要人物の死を描いている)
●日本最初の連続TVアニメシリーズを制作する (鉄腕アトム)
●日本で最初のカラーTVアニメを制作する(ジャングル大帝)
●日本で(おそらく世界でも)最初に育児漫画を描く(マコとルミとチイ)
●日本で最初に漫画のアシスタント制度を導入する
●アシスタント用語の「ベタ」は手塚が使い始めた。現在のアシスタント用語としても使われる。
●日本漫画で最初のボクっ娘(リボンの騎士)
●日本漫画で最初のネコ耳キャラを登場(ヘケート)
●女の子の猫口(ω ←これ)の開発 (ピノコ等)
●萌え要素としてのアホ毛を一番はじめに行う。(低俗天使)
●現在はよくある女の子の目の下あたりに///の斜線を引いてこのキャラはかわいいですよという記号を作る。
●静まり返っている時のオノマトペの「シーン」。さらに「バンパイヤ」ではこれをギャグとして使用している。
経歴
裕福なサラリーマンの長男として大阪府に生まれ、昭和初期としては大変恵まれた家庭環境のもと、当時新興の住宅地であった兵庫県宝塚で育つ。
両親とも漫画好きで子供の漫画趣味に理解があり、田河水泡の『のらくろ』シリーズをはじめ200冊以上の漫画本が揃っていた。当時としては珍しく家に映写機がありチャップリンの喜劇やディズニーやフライシャー兄弟などのアニメ作品を好きなだけ見ることができた。また、ジョージ・マクマナス、ミルト・グロスなどのアメリカの漫画作品、松本かつぢの少女漫画などにも親しんでおり、デビュー初期の手塚の絵柄は戦前の少女漫画とアメリカのコミック・アニメーション文化(特に松本かつぢとディズニー)の影響が極めて強い。さらに、育った家には世界文学全集があり、ゲーテやドストエフスキーなど海外の文学作品を読むこともできた。
このように、映画やアニメーションに東西の漫画文化や外国文学まで吸収できるという文化的にとても恵まれた環境が、漫画家として手塚を羽ばたかせるのに果たした役割は大きかった。
また、手塚家には宝塚の少女歌劇団のスターが出入りしていた。彼女たちの姿は手塚の女性キャラ像に大きく影響を与えたほか、「変身」の面白さを彼に教えることとなり、後に「リボンの騎士」を生む下地となった。
小学生時代の治は体が弱く重度の近眼で天然パーマ、また両親が東京出身のため関西弁を話さなかったことから、クラスで浮いた存在としていじめられていたが、彼の描いた漫画が評判になるといじめはなくなり、クラスメートはもちろん教師からも一目置かれるほどになった。しかし、中学生になると戦争が生活に影を落とすことになる。工場での勤労奉仕中に漫画を描いているのを発見されて殴られ、作品を破られたり、大阪空襲に遭遇して九死に一生を得るなどの体験が後の反戦思想に影響した。この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになる。また、工場での栄養不足の食事と不潔な環境が原因で両腕が重度の白癬菌症に侵され、一時は壊死により切断寸前の危機に陥ったが、医師の粘り強い治療により完治する、という経験をする。この時の感動が、手塚が後に医師を目指すきっかけとなった。終戦直前に高校受験をしたが漫画にしか興味をもたなかったため失敗。その後、勉強をし直して大阪帝国大学附属医学専門部に合格、医学生となる。
プロとしてのデビューは医学生時代に発表した4コマ漫画『マアチャンの日記帳』で、間もなく関西の新聞に4コマ作品を複数連載するようになった。その後書き下ろしの赤本「新宝島」を描き、赤本ブームを起こし、戦後関西に彗星のように現れた若き漫画家として多忙を極めるようになった。この頃は大阪の出版社からの描きおろし漫画がメインであった。漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなったため母に相談し、「医学より漫画が好きなら、漫画家になりなさい」という一言で漫画家に専念することを決めたという(ただし医学専門部は1年留年して卒業し、医師免許も取得している)。
同校卒業直前から「ジャングル大帝」で雑誌連載に重点を移し、東京に転居、少女漫画、青年漫画、大人漫画などジャンルを問わない活躍をみせた。しかし東京ではスポ根漫画家の福井英一との猛烈な競争に苦しみ(手塚はこうした熱血・根性系の作品を苦手としていた)、さらには桑田次郎、武内つなよし、横山光輝など後輩の売れっ子漫画家が次々と出現するなか、一時ノイローゼに陥った。
1959年に結婚。手塚眞(1961年生まれ)をはじめ3人の子に恵まれた。1962年に「虫プロダクション」を設立し、日本初のTVアニメ『鉄腕アトム』の放映を成功させる。
1968年頃から、劇画の流行で「時代遅れの作家」というレッテルを貼られ一時不振に陥った。白土三平や水木しげる、永井豪らのライバルを意識して作風を変え、時代に追随しようと格闘するも、この時期は虫プロダクションの経営問題などアニメ分野での苦難も重なってとりわけ暗い作風が目立ち、『どろろ』などの打ち切り作も多い。ついに虫プロは1973年に倒産、手塚自身も1億5000万円(当時)の借金を負うことになってしまう。しかし、同年から連載した少年チャンピオンの『ブラック・ジャック』で久々の大ヒットを飛ばす。続く少年マガジンの『三つ目がとおる』もヒットし、ライフワークの『火の鳥』の連載も再開し完全復活を遂げる。1977年から『手塚治虫漫画全集』の刊行も始まり(この際、旧作を「現在の読者」に受け入れてもらいたいとの思いから手塚自身で描き換えを行い物議を醸した)、「漫画の神様」という評価を確固たるものとした。
以降は『ブッダ』など青年・成人向けの作品に活動の重点を移していくが、『ユニコ』などの幼年向け作品、『七色いんこ』や『ブッキラによろしく!』などの少年漫画も晩年に至るまで描き続けた。
作風
4コマから大長編漫画まで、子供向けから大人向けまで、ギャグ漫画からシリアスな社会派漫画まで幅広い。「ペーター・キュルテンの記録」のようなドロドロとしたものも描くが、「ドン・ドラキュラ」や「アトムキャット」のようなほのぼのとした作品も描く。彼の遺作である『ルードウィヒ・B』『グリンゴ』『ネオ・ファウスト』はいずれも作風を変えており、『ルードウィヒ・B』は少年向け作品、『グリンゴ』は大人向け作品、『ネオ・ファウスト』は青年向け作品である。
そうした様々な作風の手塚漫画の中でも、概ね共通している特徴は、何よりも「ストーリーの面白さ」を最重要視したことにある。現在の一般的な漫画は「キャラクターを魅力的に描くこと」を何より重視し、ストーリーも絵柄も「キャラをいかに立たせるか」ということに焦点を当てたものが多い。これに対し、手塚作品は「ストーリーをどう語るか」ということに焦点があてられており、キャラクターはストーリーの面白さを読者に伝える「役者」として造形されている。→スターシステム
初期に単行本で作品を発表していた時期は、『来るべき世界』に代表されるような緻密に構成されたストーリーが特徴であった。しかし手塚も雑誌連載が主となってからは、読者の反応を見ながらストーリーを変更することや、多忙もあって設定や構成を細かく準備せずにスタートし、執筆しながら展開を考えていくことが多くなった。
例えば、『どろろ』の終盤で明かされる主人公の一人どろろの秘密は後付設定であることや、『キャプテンken』は重要な謎が連載中に読者から当てられたため、途中で変更されたことはファンの間で有名である。
基本的な絵柄はデフォルメ色の極めて強いアニメ的なものだとされるが、初期はディズニーの影響が強いバタ臭い絵柄であり、1960年代後期以降は劇画の影響を受けた絵柄に変わっている(手塚は初期の作品を再版する際自分で絵に手を入れており、現在広く知られているのはこの後期の絵柄である)。また作品によっては、一見手塚作品には見えないほど作風を変えていることもある。
1960年代に連載した『人間ども集まれ!』や『上を下へのジレッタ』などは、小島功や当時流行した大人向けナンセンス漫画の影響が強く、内容も他の手塚作品とは大きく異なる。1960年代末の劇画流行時にはそれまでの丸っこい描線を捨てて直線的な描線に切り替え、水木しげる風の点描や写実的な背景を取り入れたり、晩年には大友克洋経由でフランスの漫画家メビウスのタッチを「メビウス雲」「メビウス線」として自作に取り入れるなど、時代の流行に合わせた絵柄の変化には積極的であった。
手塚漫画における絵は「ストーリーを語るための絵」として意味が大きく、手塚は1コマの絵画的完成度を高めるために時間を使うよりも、作品を多く描きたいというタイプであった。ある時、少年マガジンの編集者が「先生は見開きの中で、特に重要視しているコマというものはありますか?」と手塚に質問したところ、「ありません!」との即答だったという話も存在する(『虫ん坊 2010年9月号』より)。
ただし、1950年代初期の作品は丁寧なタッチで描かれており、特に人物が細かく描き分けられた群衆シーンなど、1コマ1コマに手間をかけてでも絵の魅力を重視していた時期もある。
コマ割りの実験の元祖と目されるだけあり、非常に凝ったコマ割りが豊富。コマからハミ出す表現は当然の事、外側から内側に向かって渦を巻いて集束していく、という実験的なコマ割りや、大胆に斜めにカットしたコマを視線誘導でつなぐ、などの斬新な手法が『ブラック・ジャック』など、一部の(主に対象年齢の高い)作品で見受けられる。また、時にはキャラクターが枠線をぶち破ったり引き千切って武器にしたりするなど、コマ割りをギャグとしても使用している。
手塚治虫は物語に仕掛けを仕込むことも多く、『W3』では日本漫画史上にない仕掛けをラストに仕込み当時の子供達を驚愕させ、『陽だまりの樹』では最後の一コマで驚きの内容を伝え、事前知識の無い読者を驚愕させた。
手塚は自身の考案したキャラクターを複数の作品に登場させることを用いたことでも有名(手塚スターシステム)だが、これは友人や友人の関係者を毎回登場させていたことが始まり。手塚スターシステムの第一号キャラは友人の祖父をモデルにした「ヒゲオヤジ(伴俊作)」である。また友人をモデルにした「アセチレンランプ」もデビュー前に誕生している。その他、馬場のぼるを始めとする漫画家仲間もモブキャラクターとして頻繁に登場し、彼らは手塚漫画の最初期から晩年まで活躍し続けた。
なお、手塚漫画にしばしば登場する「ヒョウタンツギ」「ママー」「スパイダー」といったキャラは手塚治虫の妹・美奈子が子供時代に考えたキャラであり、兄妹の間では漫画のキャラを共有していい決まりだった。これらは、ラブシーンやシリアスな展開を描いてしまった時に、手塚が照れ隠しで登場させることが多い。
よく知らない人からは「難解」「堅い」「高尚」といったイメージを持たれている(特に晩年に描かれた青年漫画の印象による)ことがあり、確かに「火の鳥」などそのような傾向のある作品もなくはないが、実際の手塚作品は娯楽性を重視した作品が多数である。
歴史や科学技術を題材にした作品であっても漫画的なハッタリを大事にしており、それは専門の医学も例外ではない。『ブラック・ジャック』の後書きで東大医学部の学生から「そんなでたらめをかくのなら、漫画家をやめちまえ。」と怒鳴られたことがあったと明かされているが、これに手塚は「でたらめなことがかけない漫画なんて、この世にあるものでしょうか。」とコメントしている。
自身のストーリー漫画の画期性を「悲劇性の導入」と主張したことからも分かるように、登場人物が死んだり悲劇に終わることも多く、子ども向けの作品でも容赦ない鬱展開を好んで描いたのは賛否が分かれるところでもある。ちなみに日本の漫画で主人公の死を描いたのは手塚の「ロック冒険記」が最初であると言われる。
手塚は「形の定まらないもの、変化・変身するものに強くエロス(ここでは生命力と言う意味と性的な魅力双方の意味)を感じる」、と常から発言しており、幼少期から昆虫に魅かれていたのも、アニメーションに夢中になったのも、大本はそこに理由がある。また、今でいう「ケモナー」的な趣味があり、ボッコ隊長など色気のある擬人化動物を描いた。さらに、人間が動物(特に犬)に変身するというモチーフは「バンパイヤ」「きりひと賛歌」「火の鳥 太陽編」など、度々登場する。2014年には机の引き出しから未公開・ボツ原稿の他にケモエロを含む沢山の落書きが発見されており、そちらの方でも先駆者であったことが窺い知れる。
幼少時より故郷の宝塚で宝塚歌劇団のレビューに親しんでいたことや、昆虫の雌雄嵌合体を目にした影響などから、曖昧模糊とした性別的要素を持ったキャラクターを好んで創作していた。例として、男と女の2つのハートによって揺れ動く『リボンの騎士』のサファイア、ボタン一つで性別が変化する『メトロポリス』のミッチィなどが挙げられる。
また、あのアトムも原型は少女であり、長い睫毛などに女性的な部分を残している(ちなみに、実現はしなかったが1970年代にはアトムを女性が演じる形で実写化が企画されていたこともある )。特に「男だと思ったら女の子だった」という男装ネタは非常に多く、手塚作品に登場した男装キャラは数え切れない。
人物
仕事は能力の限界かそれ以上を常に引き受け、また、大御所であるのに仕事の依頼が入りやすいよう原稿料は低く抑えていた。編集者時代の鈴木敏夫が手塚と仕事をした際には「原稿料は幾らでもいい。僕のは単行本になれば売れるから」と言われたという。
殺人的な仕事量を(月産300ページ以上+アニメ+講演+審査員)こなしながら仕事に対して異常なまでの完璧主義で、一切の妥協を許さなかった。休暇はなく、移動中にも漫画を描き続け、ゆれる車内でもほぼ問題なく作業できるほどの技量を持っていたが、その完璧主義とあまりに多い仕事量から、締め切り破り・逃亡の常習犯として編集者から恐れられていた。それを表すエピソードの一部として「中国で無断発行された海賊版を訂正させるためにタダ働きした」といった出来事が語られている。
手塚の睡眠時間は一日2~3時間であり、NHKがテレビ取材に来た時には3日間ほぼ全く寝ないで仕事をし続け、取材班が驚愕したというエピソードがある。その光景は全国放送された。松本零士は学生時代に手塚の仕事を1週間手伝った時に、手塚が1週間全く寝る姿を見ずに終わり驚愕した。手塚は食事も漫画を書きながら片手で済ませてしまい、こうした生活が命を縮める原因になったことは否めない。水木しげるは1日10時間以上寝ることもある自分を引き合いにして「結局あの2人は先に死んでしまったんだよなぁ」(もう1人は石ノ森章太郎)と自著内に描いている。
長寿だった水木しげるに対して、手塚は60歳という早くに亡くなっていることがよく比較されるが、一方で宮崎駿は「彼は猛烈に活動的な人だったから、普通の人の3倍くらいやってきたと思う。60歳だけど180歳ぶん生きたんですよ。天寿をまっとうされたと思います」と手塚の人生を評している。
多忙な生活にも関わらず、交友関係の広さは有名だった。駆け出しの漫画家にも対等に接し、作品に目を通していた。漫画家のみならず各界を代表する文化人との親交もあり、芸能人や落語家、演劇関係者、テレビ業界人、小説家、現代美術家などに多くの友人がいた。
また最新テクノロジーや、学会で話題を呼んだ学説を漫画に反映する事も多く、『ジャングル大帝』では大陸移動説、『火の鳥』では騎馬民族征服王朝説、『アドルフに告ぐ』ではヒトラーユダヤ人説などを題材にし(大陸移動説はのちに定説となったが、騎馬民族征服王朝説とヒトラーユダヤ人説はその後の研究で否定されている)、寺沢武一は「色々教えてもらったけど、あの忙しさの中でどうやってそんなに最新の情報を取得できるのか、そのアンテナを手に入れる方法だけは学べなかった」と述懐している。
向上心も人一倍で、新人賞の審査を任された際には「本当は審査員ではなく、応募する側になりたい」と言い、晩年、大物と呼ばれるようになっても出版社に原稿を持ち込んで逆に出版社に恐縮されることもあったという。
晩年のインタビューで、「めげそうになるたびにね、主流というようなものに敵愾心を抱いてね、コンチクショウと思ってやってきたですね。たとえばね、水木さんの『ゲゲゲの鬼太郎』が受けたとなると、すぐそれを負かそうと『どろろ』を描いてみたりね。(『スコラ』1985年5月23日号)」と語ったように競争心・敵愾心は高く、新たな作品を生み出す原動力にもなっていた。
また、良くも悪くも子供っぽいところがあり、松本零士にチョコレートが入ったうどんを食わせたと言う逸話がある(ただし松本零士本人は別の漫画家であるちばてつやにパンツに生えたキノコを食べさせるというもっとおちゃめなことをしている)。
さらに、「家のトイレのスリッパの上にティッシュでくるんだカリン糖を置く」といういたずらもしていたことがあり、カリン糖がなくなるとまた新しいのを置いて、飽きるまでやっていたと次女・千以子は語っている。
手塚治虫はアシスタントに給料を渡す際には余分に1000円を出し、「必ず映画を見るんだよ」と微笑んだ、など面倒見の良さが多く伝えられている(当時の1000円は映画を見た後で食事ができるほどの価値があった)。虫プロを辞め演劇の世界に身を投じた制作進行は、食えるようになるまで毎月仕送りを貰い、劇団の広告を出してもらい泣いて感謝した、というエピソードもある。
朗らかな人柄で、ファンがサインを求めてきた時には、どんなに忙しくても全力でサインを描くのが日常であった。ファンレターの返信にも熱心で、手塚と手紙のやりとりをした人物は著名人にも多い。
手塚はたとえ極端なデフォルメを施されたキャラクターでも基本的なリアリティにこだわりを持っており、『ジャングル大帝』のアニメ制作の現場でダチョウの足指の数(2本指)を間違えたアニメーターを厳しく叱責したという逸話がある。
彼が小学生の頃、黒板に完璧な円が描け、それはコンパスを使った先生が描いた円より完全な円であった。プロになってからも正確な円や正方形をフリーハンドで描けたという。
また、当時手塚は大好きな昆虫の図鑑を自作しており、そこには写真と見紛うばかりの精緻な絵が残されている。戦争の影響で絵の具が手に入りづらく、赤色が無かった時には自分の血で代用した事があり、それも確認できる。
悪書追放運動の際には、漫画を読んだこともないのに漫画を悪書と決めつけ、世の中から抹殺しようとする人たちに悩まされていた。一方晩年は多くの人から称賛され、手塚作品の「ヒューマニズム」の側面や「平和主義」の側面ばかりが取り上げられるようになり、逆に違和感を表明するようになる。
ちなみに手塚自身は自分がヒューマニストの代表的な見方をされることをことさら嫌っていたことで知られている。
かつて渋谷陽一は手塚にインタビューした際、「俺についてヒューマニズムと言うな、とにかく、俺はもう言っちゃ悪いけど、そこらへんにいるニヒリズムを持った奴よりもよほど深い絶望を抱えてやってるんだ」「ここではっきり断言するけど、金が儲かるからヒューマニストのフリをしているんだ。経済的な要請がなければ俺は一切やめる」とシリアスな顔で怒られたという。
また、「『正義の味方』や『良い子』的な善のキャラクターよりも悪の魅力を存分に振りまいて暴れまわる悪役キャラクターの方が魅力を感じる」と自著で述べており、ヒューマニズム系の作品として評価されるものの中には、「どうしてこんなものを描いてしまったのか自分でもわからない」などと作者自身が自嘲気味に述べている作品もある。
実際、手塚自身が「私は、他の人と比較にならないほどペシミストなんです」と話しているとおり、カタストロフィー(破滅)や登場人物の死、悪人を描くことをとりわけ好んだことは事実ではある(宮崎駿らが批判している)。
一方で、彼の作品にはヒューマニストとしての横顔も垣間見えることもまた事実である。
塚が『マンガの描き方』(1977年)で述べた「漫画を描く上での原則」や、平和や人権などに対する考え方は間違いなくヒューマニズムに根差したものであり、エッセイ「ガラスの地球を救え」では、人間の持つ醜い一面を列記しつつ「それでもなお、ぼくは人間が愛おしい」と書き記しており、清濁併せ持った部分含めて人間という存在を肯定しつつ、未来を見据えて人間の在り方を真剣に模索せんとする信条が全編にわたって書き綴られている。
戦争という悲劇で人間の持つ破壊性、暗黒面を否応なしに思い知らされつつも、決して人間という存在を突き放すことなく、深い愛を持って見据えているという意味では、形だけの薄っぺらいヒューマニズムではない、真なるヒューマニズム思想の持主であるといえよう。
上記の発言も、道徳的な作家扱いされることに戸惑った手塚が敢えて露悪的に語ったものと解釈されることが多い。
逸話
- 戦時中でも漫画を描き、監督役に見つかりにくい掲載場所としてトイレを選ぶが、紙不足の時代であり原稿は尻拭きに使われてしまった。
- 締め切りをとっくに過ぎているのにかかわらず、アシスタントに今週の出来を聞いていまいちと聞いたら、ほぼ完成していた原稿を没にして、8時間で20枚を書き直した。
- 仕事を引き受けすぎ、ウソをついて締め切りをずらしたり、人目がなくなった隙に逃亡するなどの行為も常習的に行っていた事から、口の悪い編集者からは「おそ虫」「ウソ虫」「雲隠れ才蔵」などと呼ばれていた。
- ある時などは『ちょっとそこの銭湯に』と言い出して洗面具を持って行くのを編集が見送ったら、実家の宝塚まで600キロの道を逃走していた。
- 手塚の逃走癖は晩年まで直らず、手塚番になる編集者には、編集長から「常にパスポートと数十万の現金を用意しておけ」と言われたという。時として海外まで逃げることがあったからである。
- 締切が押し迫った時、周囲の編集者やスタッフに「チョコレート食べないと書けない(深夜に。チョコレートは手塚の好物だったが、コンビニなど無い時代である)」「差し歯がないから描けない」「スリッパがないと描けない」「浅草の柿のタネが食べたい」などと無理難題を言い出して困らせることがよくあった。本当に困っている場合もあったが、見張りがいなくなった隙に逃げ出したりして休息を取るのが目的であることが多かった。
- 締切が近く編集が喧嘩しそうになると、数本の連載作品を机に並べ同時進行で一気に仕上げたことがある。
- アメリカ旅行中ファックスの存在しない時代に、1ミリ方眼紙と電話での口頭指示でコマ割りを仕上げ、口頭で本棚の過去作品から背景指定を行い、帰国してからアメリカで描いたメインキャラを張り付け原稿を完成させた。
- アニメの打ち合わせで「ここはこういうシーンでいこう」と、対面に座っている人向きの絵(手塚側から見て上下反転の絵)を描き出した。
- 手元に資料のない状態で作画するなど、優れた記憶力を持っていたことで知られる。手塚は自著『マンガの描き方』のなかで、「漫画を描くということは、ものを描きうつす作業ではなく、自分の頭の中にうかんだイメージを描くのだということである」として、ものをじっと観察して姿かたちを頭の中に覚え込んで描けるようになる訓練の必要性について書いている。
- 進行が切迫してネームや下書きすら描けていない時には、原稿に貼り付ける活字だけでも編集者が先に作っておくために、手はペン入れをしながらこれから描く予定のネーム(そのページのコマ割り、セリフ、改行位置や字体など)を口述で指定するという離れ業をやってのけた。描く前から原稿の完成図が頭の中にイメージできており、それを紙に引き写すだけだったという。
- ファンに絵をせがまれて…手を描きます→足を描きます→胴体を描きます→最後に顔を描いてナンデモカンデモ博士の出来上がり
最期
手塚治虫は「命をかけてマンガを描く」というのを比喩表現ではなく本当に実践してしまった人である。彼は癌に倒れた病床でも漫画を描きつづけ、凄まじい最期を遂げた。
手塚は、担当医の言うことも聞かず描き続けた。
手が動かなくなっても痛み止めのモルヒネを打って描き続けた。
奥さんは「もういいんです」と手塚を静止しようとするが手塚はそれでも漫画を描こうとした。
手塚は骨と皮だけような状態になってもベッドの上で漫画を描くのを止めようとしなかった。
死因はスキルス性胃癌。癌の中でも比較的悪性度の高いもののひとつで、通常の癌よりも発見がむずかしく、かつ、進行が早いといわれ、当時の技術では救命は困難であった。なお、手塚の死後、一般的な胃癌に関してはピロリ菌の感染が主因と判明しているが、スキルス性胃癌に関しては明確な原因は今もって不明であり、ピロリ菌のほか睡眠不足、ストレスや食生活が原因といわれる。正確な病名の告知はされていなかったが、医学博士でもある手塚は癌に対する知識を持っていた。連載中の作品の登場人物を癌で死なせたり、日記の節々にそれらしい記述がみられたりなど、自分が癌だと悟っていた節も伺える。子息の手塚眞も「恐らく知っていたでしょう」と語っている。その飽く事無き漫画に対する執念がどこから来きていたのか、誰にもわからない。 マネージャーが聞いた彼の最後の言葉は「頼むから仕事をさせてくれ…」であった。
関連マンガ家
藤子不二雄の二人は手塚治虫の『新宝島』に衝撃を受け漫画家を志した。その時の要素を二人は「絵が動いてる!」と驚いたと語っている。
彼らは学生時代に手塚のファンとして手塚にハガキを出しその返事として「しっかりしたタッチで将来がたのしみです」と直筆のハガキを受け取った。
これがますます彼らを漫画家に志すことに拍車をかける。藤子不二雄は彼にちなんで初めは「手塚不二雄」のペンネームで漫画を投稿する。しかし余りにも露骨なため「手塚の足にも及ばない」という意味を込め「足塚不二雄」名義にした。
その後藤子不二雄としてデビューし手塚の住んでいたトキワ荘で暮らす。たびたび手塚治虫のアシスタントとして手塚の仕事を手伝ったりしていた。藤子・F・不二雄(藤本弘)は生涯に渡って手塚を「最大の漫画の神様」と尊敬し続け、自伝や漫画の書き方の本で手塚を絶賛していた。藤子不二雄Ⓐ(安孫子素雄)も藤本と同様に手塚を尊敬し、自伝漫画『まんが道』では手塚を最大の師として登場させ、「手塚治虫はふたりにとって神であった」「いや、日本中の漫画少年にとっても神であった」と頻繁に手塚を「神」と表現した。
現在手塚が「漫画の神様」と称されるのは彼らの影響によるもの。
手塚治虫の漫画「ブラック・ジャック」「七色いんこ」では藤子のドラえもんが登場したり、藤子不二雄が漫画家25周年を迎えた際には手塚タッチのドラえもんとドラえもん風のヒョウタンツギを描いた色紙をプレゼントしている。手塚と藤子不二雄は三人でラーメン屋に行ったことも何度もある。(ラーメン店松葉)
また、手塚は藤子不二雄のことを「彼らの作品は21世紀にも残る。素晴らしい作品」と自分の著書で絶賛している。
石ノ森も手塚治虫の『新宝島』に衝撃を受け漫画家を志したと語る。
中学生の頃、手塚に分厚いファンレターを出したところ、手塚からさらに分厚い封筒の返事が届き、ますます手塚のファンになったという。その封筒の中身で手塚は「キミのマンガは他人には描けない物が沢山溢れている。将来有望だ」と絶賛した。
そして石ノ森章太郎は手塚が連載していた雑誌「漫画少年」の投稿欄に毎回投稿するようになる。
そこで手塚の目に止まり、念願がかなって手塚の漫画を手伝うことになった。ちなみに最初に手伝ったのは『鉄腕アトム』の「電光人間」と言う話で、後に手塚は漫画少年に送ってきた石ノ森のことを「天才的な少年の絵」と褒めている。
その後、石ノ森は手塚のアシスタントとして活動した。手塚は回を追うごとに上手くなる石ノ森の絵を見て舌を巻き「鉄腕アトム」を手伝ってもらったと語る。
石ノ森がプロの漫画家になった理由も手塚が編集者に紹介したことによる。
そして石ノ森は、漫画家としてデビューして手塚が住んでいたトキワ荘に住んだ。
手塚は自身の漫画に石ノ森を度々登場させている。
また手塚が亡くなった時に石ノ森は悲しみの気持ちと大ファンだった思いを遺作『グリンゴ』の巻末で語っている。手塚は石ノ森の作品である「仮面ライダー」「ゴレンジャー(スーパー戦隊シリーズ)」に対して「石森(石ノ森の旧名)氏の作品は素晴らしい。特に仮面ライダーなどは僕や彼が死んでも作品が続くであろう。」と絶賛している。
赤塚不二夫も手塚治虫の漫画「新宝島」に大きな衝撃を受ける。
そして手塚の『ロストワールド』に出会ったことで漫画家になることを決意した。
彼が18歳の時は長谷邦夫、石ノ森章太郎と一緒に「墨汁一滴」を描く仲間として手塚の家を訪問した。
赤塚が新人漫画家としてデビューした頃、手塚は『赤塚クン。りっぱな漫画家になるには一流の映画を観なさい、一流の小説を読みなさい、そして一流の音楽を聞きなさい』と助言した。
手塚の助言を受けた赤塚はレコード店に行き店員に『一流の音楽が聞きたいんです。一流のレコードをください』と言い店員は何を渡したらいいのか分からず困ったという。
その後赤塚も手塚が住んでいたトキワ荘で暮らした。
手塚は赤塚をたびたび自身の漫画に登場させている。また赤塚はトキワ荘時代に手塚のアシスタントとして手伝ったこともある。
手塚は赤塚の作品に対し、「僕が生まれて始めて涙がでるまで笑い転げた漫画は赤塚クンの作品である」と語っている。
●永井豪
永井豪も手塚治虫に影響を受け漫画家を志したと語る。
「僕の漫画家人生は手塚先生の作品から始まった。」とも言い、4歳の頃お土産のロストワールドを見た時に「運命が変わった」と語り、以降手塚治虫の漫画をよく読みいつも衝撃を受けていた。
アンソロジーコミック『ブラック・ジャックALIVE』で永井豪がブラック・ジャックを描いた時はブラック・ジャックと永井豪自身と学生時代の手塚をいっしょに登場させ、学生時代の手塚にブラック・ジャックが「お前は漫画家より医者に向いている」と発言すると、手塚治虫キャラ全員と永井豪も存在が消えかかった(手塚治虫が漫画家になっていなかったら永井豪も漫画家になっていなかったという表現)。
また、代表作「マジンガーZ」に関し、当時のロボットものの人気作であった横山光輝の「鉄人28号」と「鉄腕アトム」を上げており、これらの作品に入れ込んでおり、この2作に負けないくらいの魅力を持つ新たなロボット漫画を書きたいという強い憧れがマジンガーZの誕生につながったと、「マジンガーZ」ジャンプ掲載版単行本のあとがきで語っている。
意外なことに、手塚のアシスタント経験は無い。しかし、もともと手塚のアシスタントを申し込みに行ったら手塚が出張のため手塚プロにいなくて、かわりに手塚の元アシである石ノ森章太郎を紹介され、石ノ森章太郎のアシスタントになった経緯がある。
手塚は永井を「彼ほど現実離れした凄いアイデアを思いつく漫画家はいない」と褒めている。また、作品中に永井をモデルにしたキャラクターを度々登場させている。
●松本零士
松本零士も手塚の漫画に衝撃を受け漫画家を志した。
彼が小学二・三年の頃に学級文庫があり、それは手塚が描いた『新宝島』『キングコング』『火星博士』『月世界紳士』であった。
松本が「漫画少年」の常連だった高校生の頃には手塚から「テツタイコウ テツカ(手伝い請う。手塚)」の電報を受け取る。松本は最初はイタズラかと思ったが、それはイタズラではなく本当に手塚が緊急のアシスタントを求めた電報であった。
そこで松本は緊急アシスタントとして手塚を手伝いながら、漫画家について根掘り葉掘り質問した。これは松本がプロ漫画家になる思いを強めたとも言う。
松本がプロの漫画家になり上京してからも手塚とは親交があり、手塚が一人で突然に松本の下宿に行くこともあったという。その時は窓の外から「おーい松本君。メシ食わせるから、出てこーい。」と誘った。松本が手塚と気が合ったのはお互いがあけっぴろげのためだと語る。手塚はジョークとしてではあるが、「自分が死んだら『火の鳥』の続きは松本君に…(描いてもらってくれ)」と発言したこともある。
しかし『宇宙戦艦ヤマト』で爆発的ヒット、続く『銀河鉄道999』もヒットし、名前が売れると同時に、当時の市民団体から「戦争賛美の戦場マンガ家」のレッテルを貼られ手塚とは相反する道を行くことになり、自身と政治思想的に近い新谷かおるとともに右派マンガ家の重鎮とされてしまう。
さいとう・たかをも手塚治虫に憧れて漫画家を目指した。
昭和30年頃の学生時代には漫画家志望者として手塚治虫の自宅に尋ねた。
しかし、運が悪く手塚は既に東京に上京していたためにさいとうは手塚に合うことはできず手塚の母とニ・三言話しただけで帰ることになった。このころのさいとうの漫画は現在とは全く異なる、絵本のようなファンシーな絵柄であった。
その後、さいとうは「手塚に憧れて漫画家を目指したが手塚調の丸っこいタッチの絵が描けず現在の絵になった」と証言している。
後に「劇画」と呼ばれる分野の開拓に貢献し手塚の最大のライバルとして彼の漫画家生命を大きく揺るがした。
手塚の「ブラックジャック」の『デベソの達』という回にはゴルゴ13が登場する。また手塚とさいとう・たかをとの共作「過去からの声」も存在する。
●横山光輝
横山光輝も手塚治虫の『メトロポリス』に感銘を受け漫画家を志す。
しかし、横山は高校卒業後は神戸銀行に入社する。
手塚はある日、大阪東光堂の社長に連れられたスマートな青年と出会う。
社長はその青年は神戸銀行に務めていると言い、社長は「うちでデビューさせようと思いますが、どうでっしゃろ?」と聞いた。手塚は彼の作品を読み「売れるかも知れませんな」と褒め、その青年は漫画家としてデビューすることになった。
その青年こそが横山光輝である。
横山はその後、手塚と『黄金都市』『ターザンの洞窟』で共作をした。
手塚は横山を「かれほど"彗星のように"という形容のあてはまる男はいない」と絶賛している。
『鉄人28号』は『少年』誌上で手塚の『鉄腕アトム』と人気を二分する大ヒット作となった。
またプライベートでも手塚と横山は付き合いがあったようで横山が東京に来たばかりの頃は手塚がいろいろアドバイスしていた。
荒木が漫画家としてデビューしたのは手塚が荒木を第20回手塚賞の準入選に選んだことによる。その時の作品は「武装ポーカー」で荒木は20歳であった。手塚は荒木に手塚賞を与える際に絶賛しており「これはすごく面白かった。近代にない。僕は大好き。東京へ是非来て下さい。あんまり東北から出る人って少ないんですよね」と荒木が東京に来ることを薦めた。また荒木はその時、手塚と握手した様子を「1980年の暮れに、手塚治虫先生に握手していただいた時に、うわっ漫画家の手ってすごい柔らかくてフワフワだぁ。と思った。 ぼくはあんまり『柔らかいっスねえ!』って言われた事ないけどきっとジャイロ(荒木の作品の登場人物)の手はフワフワだな。 」と自身の作品「ジョジョの奇妙な冒険」の第七部「スティール・ボール・ラン」に書いている。
●鳥山明
鳥山は幼少の頃より「鉄腕アトム」など見て育ったと語る。
手塚は植田実との雑誌対談で「三十年たって振り返りもされない建築はまずいと思うんです。漫画だって三十年たっても読まれなきゃ本物じゃないと思っているんです。今、描いているものも未来世紀になっても読まれなければ、失敗だと思います。(中略)漫画という常に不定形の文化には存在し得ないものなのか。やはり大当たりする鳥山明のパターンが漫画の姿なのか・・・。鳥山明にはかなわんです(笑)」と発言している。
手塚は他に「鳥山明は純粋でいい。やっと私の後継者が出てきた。」とも「80年代のアトムがどうもウケが良くなかったのは、Dr.スランプという強敵がいたからじゃないかと思っている。最初に読んだとき『やられた!』と思った」など語っている。
鳥山も手塚に付いて発言したことがあり、1998年に集英社からジャンプコミックスで「手塚治虫THE BEST」が発売された時は単行本の帯に一巻ずつ少年ジャンプの漫画家が帯にメッセージを寄せていた。鳥山は「雨ふり小僧」が収録された第二巻に以下のように語っている「一度だけ漫画で涙が出てしまったことがある。若い頃読んだ『雨ふり小僧』。プロとなった今、出会い、今度は汗が出た。」
現在、手塚賞の審査委員は鳥山が務めている。
水木しげるのデビュー当時、漫画は手塚治虫のような作風の漫画しか売れず、「私は(手塚治虫を)ライバルだと思ってやってきた。若い時から漫画界に君臨してきた彼に対して屈折した思いもあった」「手塚さんがコンクリート塗装の大きな道を闊歩してきたとすれば、私は細く曲がりくねった悪路をつまずきながら歩いてきたようなものだ」と自著『水木さんの幸福論』で語っている。
また水木は手塚のことを名指ししたわけではないが、「水木サン(水木の一人称)はいつでも自分がオモチロイと思ったものだけを描くんです。誰かにウケるものを描こうなんて考えたこともない。そんなことを考えて描く人は三流ですよ」と語っている。不遇時代に描かれた水木の漫画『怪獣ラバン』は、ゴジラをはじめ、武内つなよしや手塚の『鉄腕アトム(ミドロが沼の巻)』の模倣・模写が見られるが、水木としては「流行を真似したマンガを描かなければならなかった」ということで、かなり鬱屈した思いを持っていたようである。ちなみに水木は、手塚をモデルにした「アゴ塚」なる漫画家が、同業者に罠にはめられて死ぬというという内容の「おゝミステイク」という作品を描いたことがあり、また、手塚の競争心と仕事中毒ぶりを棺桶職人に投影して揶揄した『一番病』という作品も描いている。
なお、手塚治虫の息子の眞は大の水木ファン、水木しげるの長女の尚子は大の手塚ファンであり、水木の次女の悦子は「姉が手塚さんのマンガをかなり読んでいたことを水木は気にしていたようです」と話している。また水木の娘が水木に対して「お父ちゃんの漫画には未来がない。手塚漫画には未来がある」と言うと。水木は「これが現実なんだ!おれは現実を描いているんだ!」と激怒したという。水木の娘が手塚からサインを貰った時は『お父ちゃんの雑なサインと違って、丁寧に描いてくれた!』と言い、水木をガッカリさせている。 一方の手塚眞も「わたしが水木さんのマンガを読んでいるのを父はかなり気にしていたようです」と語っており、手塚・水木の家族からは、おたがいをライバルとして意識していたという証言は多い。『どろろ』は水木の『墓場の鬼太郎』(のち『ゲゲゲの鬼太郎』に改題)に触発され、妖怪を手塚が取り込もうとした試みであった(ただし、手塚は水木が漫画家になる前から妖怪探偵団など妖怪漫画を描いている)。
しかし二人はプライベートでは必ずしも仲が悪かったというわけでもなく、後年には親交を深め、手塚の息子、手塚眞制作の映画『妖怪天国』に二人仲良く出演したり、一緒にテレビ出演するなどしていた。また地方へ仲良く温泉旅行に行ったこともある。
ちなみに水木は自分のエッセイ漫画で「手塚・石ノ森師弟は睡眠時間を削ってまで仕事したから早死にしたのかなあ」と哀しげな顔を浮かべる自画像を描いている(水木氏は超多忙な時期でも7〜8時間、それ以外の時期は10時間は寝ていたという)。
水木と同じく手塚からは「年上の後輩」(9歳年上)であるやなせたかしは、アニメ映画作品『千夜一夜物語』や『やさしいライオン』を一緒に制作することで自らを引き上げてくれた「大恩人」として年下の手塚を尊敬しており、「人生の師匠」だとたびたび語っていた。大人向け作家だったやなせが子供向けの作品を作るようになったのは手塚治虫のせいとまで語っている。また、手塚の仕事ぶりについて、「本当に超人なんでね。アニメーションと漫画を両方描くのは、結局ぼくにはできなかった。手塚さんといい、石ノ森さんといい、あんなに寝ないで仕事すれば死にますよ。」と水木と同じような事を話していた(やなせ氏も昼寝が日課で、自分と水木しげるが年下の手塚・石ノ森が死んだあとも遥かに長生きしたのは睡眠を大事にしたからだ、と語っている)。
●福井英一
存命時手塚と人気を二分したスポ根漫画の元祖的存在の福井とのライバル関係は、他のどの漫画家とのそれよりも激烈であった。
作風だけではなく、関西の裕福な家庭に芸術にかこまれて育った手塚と東京下町の職人を父に持つ福井は正反対で、地域間の対立感情も手伝い激しい競争をしていた。福井は酒の席で「やい、この大阪人、あんまり儲けるなよ」「金のために描いているとしか思えねえ」と手塚に喧嘩をふっかけることもあったという。一方、手塚も連載漫画のなかで、漫画家のページ稼ぎや手抜きの手法の見本として描いた絵が、福井の漫画の主人公に酷似していたため、福井から『おれの漫画のどこが無意味で、どこがページ稼ぎだ』と直接激しい抗議を受け、福井に謝罪した。
そんな福井が突然の過労死を迎えたとき、手塚はライバルの死去に対して、『これでもう骨身をけずる競争はなくなったのだ』と安堵感を覚えていることに自己嫌悪に陥ったという。
尤も、手塚と福井は壊滅的に不仲であったというわけではなく、お互いの漫画に登場させあったり、旅館で朝まで物まねで盛り上がるといった深い親交もあった。手塚のアシスタントを勤めた福元一義は、当時他の漫画家が手塚を遠ざける傾向があった中で、積極的に手塚と付き合っていた数少ない存在が福井だったと振り返っている。
手塚は石ノ森章太郎への手紙でもはっきりと過労が才能ある漫画家の将来を奪ったことを悲しんでいたが、皮肉なことに手塚自身も福井同様に限界以上に仕事を引き受け続け、その寿命を縮めてしまうことになる。
「宇宙戦艦ヤマト」で第一次アニメブームを作った西崎義展も「機動戦士ガンダム」で第二次アニメブームを作った「富野由悠季」も虫プロ時代の手塚治虫の社員である。手塚が直々に面接した。
富野氏はアニメ、鉄腕アトムや海のトリトン、リボンの騎士、巨人の星対鉄腕アトム、どろろ、ワンサくんなど多くの手塚作品のアニメの脚本・絵コンテ・演出に携わった。手塚と何度も対談もしている。
手塚治虫が「マンガの神様」と呼ばれる理由の一つにこの、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二雄、横山光輝、松本零士、西崎義展、富野由悠季、をアシスタントや部下として使ったことがある。
また批評眼にも優れていたらしく、前述のように
・21世紀になっても藤子不二雄の漫画が残ると予想→21世紀にメディアミックスがされたもので言えば「ドラえもん」、「怪物くん」など
・自分や(原作者である)石ノ森章太郎が死んでも「秘密戦隊ゴレンジャー」「仮面ライダー」が続くと予想→スーパー戦隊シリーズ、平成ライダー
・鳥山明の作品は30年後も読まれていると予想→「ドラゴンボール」など
などなど、「彼の作品は残る」と言われた漫画家は大抵実際に後世まで作品が残っている。
その他、漫画・アニメ関係者に限らず手塚作品から影響を受けたクリエイターは数多い。『グイン・サーガ』で知られる小説家、栗本薫は耽美小説でも有名だが、手塚の『新撰組』の丘十郎と大作の関係に妖しさを覚え、その道に目覚めた、と語っている。また、魔夜峰央は代表作となった『パタリロ!』において、革新的な作風・手法を編み出すべくあらゆる要素を詰め込み、実験的な作品に挑戦し続けたが、結局BLからストーリー4コマまで、すべて手塚治虫に先んじられていたことを知って愕然としたと告白している。
誤解
手塚治虫の話題にはネット上では誤解も非常に多い。
●愛弟子の一人には石ノ森章太郎がある。石ノ森がデビューする前は手塚の原稿を手伝うアシスタントとしても活躍していた。 石ノ森章太郎の実験的作品『ジュン』を手塚が酷評したという『ジュン事件』から、手塚と石ノ森は不仲だったと紹介されることもある。ただこれは、かつて石ノ森が手塚の経営する虫プロ商事の雑誌『COM』にジュンを連載していたが、ジュン読者からの「手塚治虫からジュンなんてマンガじゃないという悪口を書いた手紙が送られてきた」という手紙にショックを受け、COM編集部にジュンの連載中止を申し出るも、のちに手塚が石ノ森の自宅まで「申し訳ないことをした」と謝罪に来たことで両者の関係は修復されたというエピソードであり、実際に手塚と石ノ森の仲はわりと良く手塚の漫画には度々石ノ森が登場する。そもそもこの作品は盗作疑惑が持ち上がっていたことが議論の原因であった(石ノ森本人も、ジュンのアイディアは小説からの借用である事を
認めている)。
●大友克洋と対面したときには「あなたが描くような程度の低い絵は僕にも描けるんです」と発言し、実際に大友タッチの繊細な絵を描き上げたという有名な都市伝説が存在する。本当はこれは大友克洋が手塚治虫のファンだったことに由来するファンサービスである。(「お前が描くような程度の低い絵は僕にも描けるんです」など言ってない。大友に絵をプレゼントしたことで交流を深めたのが面白おかしく脚色された。) 大友克洋は代表作の「AKIRA」を手塚治虫に捧ぐとAKIRAの最終巻に描いている。その他に大友克洋は後に手塚治虫のアニメ映画の脚本を手がけている。(原作:手塚治虫、脚本:大友克洋 メトロポリス)。事実、手塚は大友のことを雑誌「ユリイカ」にて画力を絶賛している。 大友克洋が描いた鉄腕アトムも存在する。
●梶原一騎とも仲が悪いことにされることが多く、実際作風も人柄も水と油ほどに違うのでそう思われるのも無理はないが、実際には合作もあり親交があった。手塚治虫と梶原一騎の合作『巨人の星対鉄腕アトム』は必見。梶原原作の『あしたのジョー』は虫プロでアニメ化されている。
こちらも参照→:http://matome.naver.jp/odai/2140822722724510701
(手塚治虫が褒めたことのある漫画家一覧)
アニメーション作家として
手塚はディズニー狂いを自称するほどディズニーに傾倒しており、アニメ作りにも人一倍強い情熱を燃やしていた。1961年、アニメスタジオとして虫プロダクション(通称「虫プロ」)を設立。
『鉄腕アトム』が日本初の30分テレビアニメとして制作される際、手塚は制作費を格安に設定し、関連商品の著作権収入で資本を回収するというビジネスモデルを選んだとされる。これは制作費を破格に安くしたのはテレビアニメを普及させやすいのと、他の企業と差を付けるためだったと語る。(しかしこれは当時のスタッフによれば実際は違い、テレビ局は虫プロに対して多額の額を支払っていたという証言もある)
当初は毎週の30分アニメの制作は無謀なものと言われたが、止め絵やバンクの多用による作画枚数の節約を演出の妙で克服し、『鉄腕アトム』は見事成功。日本でもテレビアニメが成り立つことを初めて示した。一方でこれはスタッフの過酷な重労働と、手塚が漫画によって蓄えた資金によって初めて実現したものであり、常に破綻の危機をはらんだものであった。
しかし、鉄腕アトムは4年間放送が続き、他のテレビ局も30分アニメを作るようになる。アトムは海外で40ヶ国で放送されるなど大ヒットし、玩具と海外からのロイヤリティーだけでも制作できるようになった。手塚も「アニメ鉄腕アトムは後半は黒字」と語っている。(前半は大赤字であった)。
そのため、しばしば現代のアニメーターが給料が低いのは手塚のせいと批判されることが多いが、杉井ギサブローは東映アニメーション(東映動画)や海外受注を積極的に行った第一動画などもその過失があることを強く批判している。
現状のアニメーターの労働環境は他に、俗に“焼畑アニメ”と称される、1~2クールの重点短期制作・メディアミックス展開による収入嵩上げ・はっきり言えば粗製乱造で企画・原作を使い捨てる角川グループの責任の部分も大きいとされる。またこの部分は手塚より前から存在したディズニーの影響も大きい。
さらに手塚自身、アニメーターを軽んじていたわけでは決してなく、虫プロはむしろアニメーターを絶対的に尊重し、作家性を重んじる社風であったと、富野由悠季らが証言している。
また手塚の存命中からアニメーターの給料が安いのは手塚のせいと雑誌で非難されることがあったが、手塚はこう反論している。
「しかしね、ぼく個人我慢ならんのはね、こういう声があるんだよ。手塚があのアトムを売る時、べらぼうな安値できめてしまったから、現在までテレビアニメは制作費が安くて苦労するんだと。冗談じゃないよ。」「あの時点での制作費はあれが常識なんで、あの倍もふっかけようもんなら、まちがってもスポンサーはアトムを買わなかったね。そうしたら、テレビアニメ時代なんて夢物語だったろうね」「たしか四十何万が制作費で、ぼくの持ち出しは二十万くらいでしたかね。ところがアトムがべらぼうにあたったんで、アニメ番組はあたるということで、それから半年ほどあとには、アニメものがたちまちバタバタとできたんだ。その制作費は、なんと百万ですよ!つまりそれだけ出してもモトがとれてお釣りがくると企業は踏んだんだ。それから先はご覧の通りですよ。現在制作費は五百万円が下限で、六、七百万円ぐらいはスポンサーが出しますよ」
また杉井ギサブローは、手塚治虫が低予算のリミテッドアニメの手法を日本アニメ向けに確立させなかったら、日本は間違いなく世界一のアニメ大国になることはなかったであろうとも語っている。
手塚治虫の信条
漫画を描くうえで、これだけは絶対に守らねばならぬことがある。
それは、基本的人権だ。
どんなに痛烈な、どぎつい問題を漫画で訴えてもいいのだが、基本的人権だけは、断じて茶化してはならない。
それは、
一、戦争や災害の犠牲者をからかうようなこと。
一、特定の職業を見くだすようなこと。
一、民族や、国民、そして大衆をばかにするようなこと。
この三つだけは、どんな場合にどんな漫画を描こうと、かならず守ってもらいたい。
これは、プロと、アマチュアと、はじめて漫画を描く人とを問わずである。
これをおかすような漫画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです。
―― 『マンガの描き方――似顔絵から長編まで』 (1977)より
作品
手塚作品を参照。
手塚スターシステムのキャラクター
●ケン一
●レッド公
…など他多数。
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島本和彦:本名・手塚秀彦。つまり「もう一人の手塚先生」であり、「手塚治虫先生への遠慮もあるし、自身の作品も「手塚作品」と呼ばれないよう配慮してペンネームを使用している」と語っている。
パワーレンジャー:マーベルコミック版に登場したダークレンジャーのメンバーの名前の元ネタとして使われている。
※上記以外の50、200、300などの単位でusersタグを作らないでください
※特定作品の投稿には作品名タグを使ったほうが探しやすくなります
※腐作品やR-18など公式に見られたくない投稿には原作者名を含むタグは使わないようにしましょう
- これは、現在手塚治虫に関連するタグの使用マナーがよくないことを理由に、ある程度使うタグを統一しようという動きがあるためです。
外部リンク
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