手塚治虫
てづかおさむ
概要
兵庫県宝塚出身(出生は大阪府)の漫画家・アニメーション作家(1928年11月3日-1989年2月9日)。没年齢は満60歳だが、生前の手塚は年齢を2歳上に偽っており、死去時にこの事実が公に知られることになった。
戦後直後の1946年から死去直前の1988年まで40年以上の長きにわたり旺盛な執筆活動を続けた、人呼んで「漫画の神様」。ガンで亡くなる直前まで仕事をし続け、今際の際にもペンを握る動作をするという「死ぬほどの漫画好き」。比喩表現でなく文字通り命を懸けて漫画を描き続けた人物である。
彼が生涯に描いた漫画は約700タイトル、15万ページと言われ、彼に関する研究書も1000冊を超え、いずれも日本の漫画家では一番の量を誇る。それまで舞台劇視点の演出で、笑い・滑稽さという喜劇的要素が主体であった従来のマンガに、悲劇を伴う物語性のエッセンスと、映画におけるカット割りを導入した「演出」という概念を持ち込み、「ストーリー漫画」の開祖として戦後の日本の漫画に決定的な影響を与えた(※注1)。また日本のテレビアニメを事業として成り立たせた人物であり、漫画だけでなくアニメの分野でも大きな足跡を残している(後述)。
トレードマークはベレー帽、黒縁眼鏡、団子鼻。「治虫(おさむ)」と言う名前は、甲虫のオサムシになぞらえてつけたもの。最初の読みは「オサムシ」だったが、ペンネームの後に「氏」をつけると、「オサムシシ」となるため、「オサム」に変更したようだ。本名は「治(おさむ)」。
代表作は『鉄腕アトム』、『ブラック・ジャック』、『火の鳥』、『ブッダ』、『リボンの騎士』、『ジャングル大帝』、などに代表されるヒューマンドラマが特に高い評価を受け、知名度が高い。その一方で『MW(ムウ)』のような人間の醜さや業を描いた作品や、『アラバスター』『バンパイヤ』など悪の妖しい魅力に溢れたグロテスクな作品を好んで描いたことも知られている。『きりひと讃歌』『鳥人大系』『人間昆虫記』など、人間の心の闇を描いた、救いのないほど暗い作品も多い。
よく知らない人からは「堅い」「高尚」といったイメージを持たれていることがあり、確かに『火の鳥』などそのような傾向のある作品もなくはないが、実際の手塚作品は娯楽性を重視した作品が多数である。
経歴
生い立ち
裕福なサラリーマンの長男として大阪府に生まれ、昭和初期としては大変恵まれた家庭環境のもと、当時新興の住宅地であった兵庫県宝塚で育つ。
両親とも漫画好きで子供の漫画趣味に理解があり、田河水泡の『のらくろ』シリーズをはじめ200冊以上の漫画本が揃っていた。当時としては珍しく家に映写機がありチャップリンの喜劇やディズニーやフライシャー兄弟などのアニメ作品を好きなだけ見ることができた。また、ジョージ・マクマナス、ミルト・グロスなどのアメリカの漫画作品、松本かつぢの少女漫画などにも親しんでおり、デビュー初期の手塚の絵柄は戦前の少女漫画とアメリカのコミック・アニメーション文化(特に松本かつぢとディズニー)の影響が極めて強い。さらに、育った家には世界文学全集があり、ゲーテやドストエフスキーなど海外の文学作品を読むこともできた。
このように、映画やアニメーションに東西の漫画文化や外国文学まで吸収できるという文化的にとても恵まれた環境が、漫画家として手塚を羽ばたかせるのに果たした役割は大きかった。
また、手塚家には宝塚の少女歌劇団のスターが出入りしていた。彼女たちの姿は手塚の女性キャラ像に大きく影響を与えたほか、「変身」の面白さを彼に教えることとなり、後に「リボンの騎士」を生む下地となった。
少年期
小学生時代の治は体が弱く重度の近眼で天然パーマ、また両親が東京出身のため関西弁を話さなかったことから、クラスで浮いた存在としていじめられていたが、彼の描いた漫画が評判になるといじめはなくなり、クラスメートはもちろん教師からも一目置かれるほどになった。しかし、中学生になると太平洋戦争が生活に影を落とすことになる。
工場での勤労奉仕中に漫画を描いているのを発見されて殴られ、作品を破られたり、大阪空襲に遭遇して九死に一生を得るなどの体験が後の反戦思想に影響した。この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになる。また、工場での栄養不足の食事と不潔な環境が原因で両腕が重度の白癬菌症に侵され、一時は壊死により切断寸前の危機に陥ったが、医師の粘り強い治療により完治する、という経験をする。この時の感動が、手塚が後に医師を目指すきっかけとなった。終戦直前に高校受験をしたが漫画にしか興味をもたなかったため失敗。
その後、勉強をし直して大阪帝国大学附属医学専門部に合格、医学生となる。この医学専門部は戦時体制で作られた軍医の養成所のようなもので、大学と違い(旧制)中卒でも受験することができた(手塚が卒業した年に廃止されている)。
デビュー、人気作家に
医学生時代の1946年、4コマ漫画『マアチャンの日記帳』でプロデビューを果たし、間もなく関西の新聞に4コマ作品を複数連載するようになった。翌年、坂井七馬原作で書き下ろした『新宝島』が赤本ブームを起こし、戦後関西に彗星のように現れた若き漫画家として多忙を極めるようになった。この頃は大阪の出版社からの描きおろし漫画がメインであった。漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなったため母に相談し、「医学より漫画が好きなら、漫画家になりなさい」という一言で漫画家に専念することを決めたという(ただし医学専門部は1年留年して卒業し、医師免許も取得している)。医学専門部同期のある医師は、解剖のスケッチで手塚は毎回高得点を出すのでよく写させてもらっており、一方頻繁に授業を休んでいた手塚の代返を引き受けていたという(休む理由を聞いてもはぐらかされたそうだが、おそらく執筆のためであろう)。卒業後数年経って開かれた同窓会に手塚は多忙のため不参加だったが、代わりに会費数十人分の寄付をしてくれて盛大な会を開くことができたそうである。
同校卒業直前から「ジャングル大帝」で雑誌連載に重点を移し、東京に転居、少女漫画、青年漫画、大人漫画などジャンルを問わない活躍をみせた。しかし東京ではスポ根漫画家の福井英一との猛烈な競争に苦しみ(手塚はこうした熱血・根性系の作品を苦手としていた)、さらには桑田次郎、武内つなよし、横山光輝など後輩の売れっ子漫画家が次々と出現したことで、一時ノイローゼに陥った。
1959年に結婚。手塚眞(1961年生まれ)をはじめ3人の子に恵まれた。1962年に「虫プロダクション」を設立し、日本初のTVアニメ『鉄腕アトム』の放映を成功させる。
低迷と復活
1968年頃から、劇画の流行で「時代遅れの作家」というレッテルを貼られ一時不振に陥った。白土三平や水木しげる、永井豪らのライバルを意識して作風を変え、時代に追随しようと格闘するも、この時期は虫プロダクションの経営問題などアニメ分野での苦難も重なってとりわけ暗い作風が目立ち、『どろろ』などの打ち切り作も多い。ついに虫プロは1973年に倒産、手塚自身も1億5000万円(当時)の借金を負うことになってしまう。しかし、同年から少年チャンピオン側の「これで最後」という厚意で連載したとされる『ブラック・ジャック』で久々の大ヒットを飛ばす。続く少年マガジンの『三つ目がとおる』もヒットし、ライフワークの『火の鳥』の連載も再開し完全復活を遂げる。1977年から『手塚治虫漫画全集』の刊行も始まり(この際、旧作を「現在の読者」に受け入れてもらいたいとの思いから手塚自身で描き換えを行い物議を醸した)、「漫画の神様」という評価を確固たるものとした。
以降は『アドルフに告ぐ』など青年・成人向けの作品に活動の重点を移していくが、『ユニコ』などの幼年向け作品、『七色いんこ』や『ブッキラによろしく!』などの少年漫画も晩年に至るまで描き続けた。秋田書店の編集者であった壁村耐三によれば、「子供まんがの手塚治虫」が口癖であり、終生、少年誌にこだわりを持っていたという。
最期
手塚治虫は「命を懸けてマンガを描く」というのを比喩表現ではなく本当に実践してしまった人である。彼は癌に倒れた病床でも漫画を描き続け、凄まじい最期を遂げた。
手塚は、担当医の言うことも聞かず描き続けた。手が動かなくなっても痛み止めのモルヒネを打って描き続けた。奥さんは「もういいんです」と手塚を静止しようとするが手塚はそれでも漫画を描こうとした。手塚は骨と皮だけのような状態になってもベッドの上で漫画を描くのを止めようとしなかった。
死因はスキルス性胃癌。癌の中でも比較的悪性度の高いもののひとつで、通常の癌よりも発見が難しくかつ進行が早いと言われ、当時の技術では救命は困難であった。なお、手塚の死後、一般的な胃癌に関してはピロリ菌の感染が主因と判明しているが、スキルス性胃癌に関しては明確な原因は今もって不明であり、ピロリ菌のほか睡眠不足、ストレスや食生活(後述するように、このいずれも手塚の生活に当て嵌まる)が原因といわれる。正確な病名の告知はされていなかったが、医学博士でもある手塚は癌に対する知識を持っていた。
連載中の作品の登場人物を癌で死なせたり、日記の節々にそれらしい記述がみられたりなど、自分が癌だと悟っていた節も窺える。子息の手塚眞も「恐らく知っていたでしょう」と語っている。その飽く事無き漫画に対する執念がどこから来ていたのか、誰にもわからない。
マネージャーが聞いた彼の最後の言葉は「頼むから仕事をさせてくれ…」であった。
人物
漫画に対する姿勢
仕事は能力の限界かそれ以上を常に引き受け、また、大御所であるのに仕事の依頼が入りやすいよう原稿料は低く抑えていた。編集者時代の鈴木敏夫が手塚と仕事をした際には「原稿料は幾らでもいい。僕のは単行本になれば売れるから」と言われたという。
殺人的な仕事量を(月産300ページ以上+アニメ+講演+審査員)こなしながら仕事に対して異常なまでの完璧主義で、一切の妥協を許さなかった。休暇はなく、移動中にも漫画を描き続け、ゆれる車内でもほぼ問題なく作業できるほどの技量を持っていたが、その完璧主義とあまりに多い仕事量から、締め切り破り・逃亡の常習犯として編集者から恐れられていた。それを表すエピソードの一部として「中国で無断発行された海賊版を目にするも、著作権侵害されたことではなく下手な絵に描き直されていることに怒り、訂正させるためにタダ働きした」といった出来事が語られている。
また最新テクノロジーや、学会で話題を呼んだ学説を漫画に反映する事も多く、『ジャングル大帝』では大陸移動説、『火の鳥』では騎馬民族征服王朝説、『アドルフに告ぐ』ではヒトラーユダヤ人説などを題材にし(大陸移動説はのちに定説となったが、騎馬民族征服王朝説とヒトラーユダヤ人説はその後の研究で否定されている)、寺沢武一は「色々教えてもらったけど、あの忙しさの中でどうやってそんなに最新の情報を取得できるのか、そのアンテナを手に入れる方法だけは学べなかった」と述懐している。
向上心も人一倍で、新人賞の審査を任された際には「本当は審査員ではなく、応募する側になりたい」と言い、晩年、大物と呼ばれるようになっても出版社に原稿を持ち込んで逆に出版社に恐縮されることもあったという。
手塚はたとえ極端なデフォルメを施されたキャラクターでも基本的なリアリティにこだわりを持っており、『ジャングル大帝』のアニメ制作の現場でダチョウの足指の数(2本指)を間違えたアニメーターを厳しく叱責したという逸話がある。
晩年のインタビューで、「めげそうになるたびにね、主流というようなものに敵愾心を抱いてね、コンチクショウと思ってやってきたですね。たとえばね、水木さんの『ゲゲゲの鬼太郎』が受けたとなると、すぐそれを負かそうと『どろろ』を描いてみたりね。(『スコラ』1985年5月23日号)」と語ったように競争心・敵愾心は高く、新たな作品を生み出す原動力にもなっていた。
手塚治虫の信条
漫画を描くうえで、これだけは絶対に守らねばならぬことがある。
それは、基本的人権だ。
どんなに痛烈な、どぎつい問題を漫画で訴えてもいいのだが、基本的人権だけは、断じて茶化してはならない。
それは、
一、戦争や災害の犠牲者をからかうようなこと。
一、特定の職業を見くだすようなこと。
一、民族や、国民、そして大衆をばかにするようなこと。
この三つだけは、どんな場合にどんな漫画を描こうと、かならず守ってもらいたい。
これは、プロと、アマチュアと、はじめて漫画を描く人とを問わずである。
これをおかすような漫画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです。
―― 『マンガの描き方――似顔絵から長編まで』 (1977)より
睡眠
手塚の睡眠時間は一日2~3時間であり、NHKがテレビ取材に来た時には3日間ほぼ全く寝ないで仕事をし続け、取材班が驚愕したというエピソードがある。その光景は全国放送された。松本零士は学生時代に手塚の仕事を1週間手伝った時に、手塚が1週間全く寝る姿を見ずに終わり驚愕した。手塚は食事も漫画を書きながら片手で済ませてしまい、こうした生活が命を縮める原因になったという可能性は否めない。もっと健康に気を配っていれば長期的に見てもっとたくさん漫画を描けたかも知れない。
長寿だった水木しげるに対して、手塚は60歳という早くに亡くなっていることがよく比較されるが、一方で宮崎駿は「彼は猛烈に活動的な人だったから、普通の人の3倍くらいやってきたと思う。60歳だけど180歳分生きたんですよ。天寿を全うされたと思います」と手塚の人生を評している。
人柄
多忙な生活にもかかわらず、交友関係の広さは有名だった。駆け出しの漫画家にも対等に接し、作品に目を通していた。漫画家のみならず各界を代表する文化人との親交もあり、芸能人や落語家、演劇関係者、テレビ業界人、小説家、現代美術家などに多くの友人がいた。
良くも悪くも子供っぽいところがあり、松本零士にチョコレートが入ったうどんを食わせたと言う逸話がある。ただし、松本零士本人は漫画家仲間であるちばてつやにパンツに生えたキノコを食べさせるというもっとおちゃめなことをしている。
さらに、「家のトイレのスリッパの上にティッシュでくるんだカリン糖を置く」といういたずらもしていたことがあり、カリン糖がなくなるとまた新しいのを置いて、飽きるまでやっていたと次女・千以子は語っている。
朗らかな人柄で、ファンがサインを求めてきた時には、どんなに忙しくても全力でサインを描くのが日常であった。ファンレターの返信にも熱心で、多忙にもかかわらず時には直筆で返事を書くことすらあった。手塚と手紙のやりとりをした人物は藤子不二雄、石ノ森章太郎、矢口高雄、富野由悠季、芦田豊雄、眉村卓など著名人にも数多い。
手塚治虫はアシスタントに給料を渡す際には余分に1000円を出し、「必ず映画を見るんだよ」と微笑んだ、など面倒見の良さが多く伝えられている(当時の1000円は映画を見た後で食事ができるほどの価値があった)。虫プロを辞め演劇の世界に身を投じた制作進行は、食えるようになるまで毎月仕送りを貰い、劇団の広告を出してもらい泣いて感謝した、というエピソードもある。
特技
彼が小学生の頃、黒板に完璧な円が描け、それはコンパスを使った先生が描いた円より完全な円であった。プロになってからも正確な円や正方形をフリーハンドで描けたという。
また、当時手塚は大好きな昆虫の図鑑を自作しており、そこには写真と見紛うばかりの精緻な絵が残されている。戦争の影響で絵の具が手に入りづらく、赤色が無かった時には自分の血で代用した事があり、それも確認できる。
速読の能力が高く、500ページある本も20分程で読めた。上述の情報の収集でもその力を大いに活用していた。
作風
4コマから大長編漫画まで、子供向けから大人向けまで、ギャグ漫画からシリアスな社会派漫画まで幅広い。「ペーター・キュルテンの記録」のようなドロドロとしたものも描くが、「ドン・ドラキュラ」や「アトムキャット」のようなほのぼのとした作品も描く。彼の遺作である『ルードウィヒ・B』『グリンゴ』『ネオ・ファウスト』はいずれも作風を変えており、『ルードウィヒ・B』は少年向け作品、『グリンゴ』は大人向け作品、『ネオ・ファウスト』は青年向け作品である。
そうした様々な作風の手塚漫画の中でも、概ね共通している特徴は、何よりも「ストーリーの面白さ」を最重要視したことにある。現在の一般的な漫画は「キャラクターを魅力的に描くこと」を何より重視し、ストーリーも絵柄も「キャラをいかに立たせるか」ということに焦点を当てたものが多い。これに対し、手塚作品は「ストーリーをどう語るか」ということに焦点があてられており、キャラクターはストーリーの面白さを読者に伝える「役者」として造形されている。
初期に単行本で作品を発表していた時期は、『来るべき世界』に代表されるような緻密に構成されたストーリーも特徴であった。しかし手塚も雑誌連載が主となってからは、多忙もあって設定や構成を細かく準備せずにスタートし、読者の反応を見ながら展開を考えていくことが多くなった。例えば、『ブラックジャック』は連載長期化に伴って過去の出来事などが後付けで考え出されたことや、『キャプテンken』は重要な謎が連載中に読者から当てられてしまったため途中で変更されたことはファンの間で有名である。『陽だまりの樹』、『W3』など、物語の根幹にかかわる設定がラストで唐突に明かされることも多い。
自身のストーリー漫画の画期性を「悲劇性の導入」と主張したことからも分かるように、ストーリーのの終盤で登場人物が死ぬなど悲劇的なラストに終わることも多い。手塚自身が「私は、他の人と比較にならないほどペシミストなんです」と話しているとおり、カタストロフィー(破滅)や悪人を描くことをとりわけ好んだ。ただし、子供向けの作品でもしばしば容赦ない鬱展開を描いたのは賛否が分かれるところである(宮崎駿が「安直なペシミズム」として批判している)。
歴史や科学技術を題材にした作品であっても漫画的なハッタリを大事にしており、それは専門の医学も例外ではない。『ブラック・ジャック』の後書きで東大医学部の学生から「そんなでたらめをかくのなら、漫画家をやめちまえ。」と怒鳴られたことがあったと明かされているが、これに手塚は「でたらめなことがかけない漫画なんて、この世にあるものでしょうか。」とコメントしている。
ニヒリストとヒューマニスト
手塚は存命中から「ヒューマニスト」「平和主義者」の文化人として賞賛されることが多かったが、手塚自身はヒューマニストの代表として見られることをことさら嫌っていたことで知られる。かつて渋谷陽一は手塚にインタビューした際、「俺についてヒューマニズムと言うな、とにかく、俺はもう言っちゃ悪いけど、そこらへんにいるニヒリズムを持った奴よりもよほど深い絶望を抱えてやってるんだ」「ここではっきり断言するけど、金が儲かるからヒューマニストのフリをしているんだ。経済的な要請がなければ俺は一切やめる」とシリアスな顔で怒られたという。
手塚には露悪趣味の一面があり、「『正義の味方』や『良い子』的な善のキャラクターよりも悪の魅力を存分に振りまいて暴れまわる悪役キャラクターの方が魅力を感じる」と自著で述べていたり、代表作『ブッダ』について、「終わりの方なんか早くやめたくてこんなもの何故書き出したのだろうと思うくらい嫌悪感がありましたね」などと語っていたりしたことさえある。
一方で、彼の発言には平和主義者・ヒューマニストとしての信条も確かに垣間見える。『マンガの描き方』(1977年)で述べた「漫画を描く上での原則」(後述)や、平和や人権などに対する考え方は間違いなくヒューマニズムと平和主義に根差したものである。晩年のエッセイ『ガラスの地球を救え』(1989年)では、人間の持つ醜い一面を列記しつつ「それでもなお、ぼくは人間が愛おしい」と書き記している。
こうしたことから、上記の発言も、「道徳的な作家扱いされることに戸惑った手塚が照れ隠しで語ったもの」というふうに解釈されることが多い。
絵柄
基本的な絵柄はデフォルメ色の極めて強いアニメ的なものだとされるが、初期はディズニーの影響が強いバタ臭い絵柄であり、1960年代後期以降は劇画の影響を受けた絵柄に変わっている(手塚は初期の作品を再版する際自分で絵に手を入れており、現在広く知られているのはこの後期の絵柄である)。また作品によっては、一見手塚作品には見えないほど作風を変えていることもある。
1960年代に連載した『人間ども集まれ!』や『上を下へのジレッタ』などは、小島功ら大人漫画の作風を意識しており、内容も他の手塚作品とは大きく異なる。1960年代末の劇画流行時にはそれまでの丸っこい描線を捨てて直線的な描線に切り替え、水木しげる風の点描や写実的な背景を取り入れたり、晩年にはフランスの漫画家メビウスのタッチを「メビウス雲」「メビウス線」として自作に取り入れるなど、時代の流行に合わせた絵柄の変化には積極的であった。
手塚漫画における絵は「ストーリーを語るための手段」としての意味が大きく、手塚は1コマの絵画的完成度を高めるために時間を使うよりも、作品を多く描きたいというタイプであった。ある時、少年マガジンの編集者が「先生は見開きの中で、特に重要視しているコマというものはありますか?」と手塚に質問したところ、「ありません!」との即答だったという(『虫ん坊 2010年9月号』より)。(※注2)
手塚は先輩漫画家に師事した経験などはなく、本格的な絵画教育を受けていないことには負い目があったらしく、大友克洋の絵についての文章の中で「特にぼくはデッサンの基礎をやっていないから、こんな絵を見せられてはたまらない。」と語ったこともある。また「アドルフに告ぐ」の単行本を出版するにあたって、「自分の絵が表紙では子供っぽい」との理由でリアルな画風のイラストレーター・横山明に表紙の絵を依頼することになったという。
コマ割り
コマ割りの実験の元祖と目されるだけあり、非常に凝ったコマ割りが豊富。コマからハミ出す表現は当然の事、外側から内側に向かって渦を巻いて集束していく、という実験的なコマ割りや、大胆に斜めにカットしたコマを視線誘導でつなぐ、などの斬新な手法が『ブラック・ジャック』など、一部の(主に対象年齢の高い)作品で見受けられる。また、時にはキャラクターが枠線をぶち破ったり引き千切って武器にしたりするなど、コマ割りをギャグとしても使用している。
エロティシズムへの志向
手塚は「形の定まらないもの、変化・変身するものに強くエロス(ここでは生命力と言う意味と性的な魅力双方の意味)を感じる」、と常から発言しており、幼少期から昆虫に魅かれていたのも、アニメーションに夢中になったのも、大本はそこに理由がある。また、今でいう「ケモナー」的な趣味があり、ボッコ隊長など色気のある擬人化動物を描いた。さらに、人間が動物(特に犬)に変身するというモチーフは「バンパイヤ」「きりひと賛歌」「火の鳥 太陽編」など、度々登場する。2014年には机の引き出しから未公開・ボツ原稿の他にケモエロを含む沢山の落書きが発見されており、そちらの方でも先駆者であったことが窺い知れる。
幼少時より故郷の宝塚で宝塚歌劇団の男装スターに親しんでいたことや、昆虫の雌雄嵌合体を目にした影響などから、曖昧模糊とした性別的要素を持ったキャラクターを好んで創作していた。例として、男と女の2つのハートによって揺れ動く『リボンの騎士』のサファイア、ボタン一つで性別が変化する『メトロポリス』のミッチイなどが挙げられる。
また、あのアトムも原型は少女であり、長い睫毛などに女性的な部分を残している(ちなみに、実現はしなかったが1970年代にはアトムを女性が演じる形で実写化が企画されていたこともある)。特に「男だと思ったら女の子だった」という男装ネタは非常に多く、手塚作品に登場した男装キャラは数え切れない。
キャラクター
手塚は自身の考案したキャラクターを複数の作品に登場させることを用いたことでも有名だが、これは友人や友人の関係者を毎回登場させていたことが始まり。手塚スターシステムの第一号キャラは友人の祖父をモデルにした「ヒゲオヤジ(伴俊作)」である。また友人をモデルにした「アセチレンランプ」もデビュー前に誕生している。その他、馬場のぼるを始めとする漫画家仲間もモブキャラクターとして頻繁に登場し、彼らは手塚漫画の最初期から晩年まで活躍し続けた。
なお、手塚漫画にしばしば登場する「ヒョウタンツギ」「ママー」「スパイダー」といったキャラは手塚治虫の妹・美奈子が子供時代に考えたキャラであり、兄妹の間では漫画のキャラを共有していい決まりだった。これらは、ラブシーンやシリアスな展開を描いてしまった時に、手塚が照れ隠しで登場させることが多い。
手塚治虫が開拓した分野
- 日本におけるストーリー漫画の開祖。
- もっとも、「ストーリー漫画」とは「手塚治虫の影響下にある戦後日本の漫画」を指すので同語反復的ではある(注記も参照)。
- 主要人物が死亡する悲劇性のある漫画を描く。 → 地底国の怪人
- ただし、実際には手塚以前に松本かつぢが『?(なぞ)のクローバー』で主要人物の死を描いている。
- 日本最初の30分連続TVアニメシリーズを制作する。 → 鉄腕アトム
- 日本で最初のカラーTVアニメを制作する。 → ジャングル大帝
- 日本で(おそらく世界でも)最初に育児漫画を描く。 → マコとルミとチイ
- 日本で最初に漫画のアシスタント制度を導入する。
- アシスタント用語の「ベタ」は手塚が使い始めた。
- 日本漫画で最初のボクっ娘。 → リボンの騎士、ひまわりさん
- 日本漫画で最初のネコ耳キャラを登場させる。 → ヘケート
- 女の子の猫口(ω ←これ)の開発。 → ピノコ等
- 萌え要素としてのアホ毛を一番はじめに行う。 → 低俗天使
- 現在はよくある女の子の目の下あたりに///の斜線を引いてこのキャラはかわいいですよという記号を作る。
- 静まり返っている時の「シーン」というオノマトペを漫画で最初に描く。 → ぐっちゃん
- さらに「バンパイヤ」では「野球場が静まり返っている場面で、球場広告にまでシーンと書かれている」というギャグを描いている
- 複数の4コマ漫画で、1つのストーリーを形成する「ストーリー4コマ」の先駆。 → AチャンB子チャン探検記
アニメーター
手塚はディズニー狂いを自称するほどディズニーに傾倒しており、アニメ作りにも人一倍強い情熱を燃やしていた。1961年、アニメスタジオとして虫プロダクション(通称「虫プロ」)を設立。
『鉄腕アトム』が日本初の30分テレビアニメとして制作される際、手塚は制作費を格安に設定し、関連商品の著作権収入で資本を回収するというビジネスモデルを選んだとされる。これは制作費を破格に安くしたのはテレビアニメを普及させやすいのと、他の企業と差を付けるためだったと語る。(しかしこれは当時のスタッフによれば実際は違い、テレビ局は虫プロに対して多額の額を支払っていたという証言もある。)
当初は毎週の30分アニメの制作は無謀なものと言われたが、止め絵やバンクの多用による作画枚数の節約を演出の妙で克服し、『鉄腕アトム』は見事成功。日本でもテレビアニメが成り立つことを初めて示した。一方でこれはスタッフの過酷な重労働と、手塚が漫画によって蓄えた資金によって初めて実現したものであり、常に破綻の危機をはらんだものであった。しかし、鉄腕アトムは4年間放送が続き、他のテレビ局も30分アニメを作るようになる。アトムは海外で40ヶ国で放送されるなど大ヒットし、玩具と海外からのロイヤリティーだけでも制作できるようになった。手塚も「アニメ鉄腕アトムは後半は黒字」と語っている(※注3)。
さらに手塚自身、アニメーターを軽んじていたわけでは決してなく、虫プロはむしろアニメーターを絶対的に尊重し、作家性を重んじる社風であったと、富野由悠季らが証言している。
手塚の存命中からアニメーターの給料が安いのは手塚のせいと雑誌で非難されることがあったが、手塚はこう反論している。
- 「しかしね、ぼく個人我慢ならんのはね、こういう声があるんだよ。手塚があのアトムを売る時、べらぼうな安値できめてしまったから、現在までテレビアニメは制作費が安くて苦労するんだと。冗談じゃないよ。」
- 「あの時点での制作費はあれが常識なんで、あの倍もふっかけようもんなら、まちがってもスポンサーはアトムを買わなかったね。そうしたら、テレビアニメ時代なんて夢物語だったろうね」
- 「たしか四十何万が制作費で、ぼくの持ち出しは二十万くらいでしたかね。ところがアトムがべらぼうにあたったんで、アニメ番組はあたるということで、それから半年ほどあとには、アニメものがたちまちバタバタとできたんだ。その制作費は、なんと百万ですよ!つまりそれだけ出してもモトがとれてお釣りがくると企業は踏んだんだ。それから先はご覧の通りですよ。現在制作費は五百万円が下限で、六、七百万円ぐらいはスポンサーが出しますよ」
また杉井ギサブローは、手塚治虫が低予算のリミテッドアニメの手法を日本アニメ向けに確立させなかったら、日本は間違いなく世界一のアニメ大国になることはなかったであろうとも語っている。彼は東映アニメーション(東映動画)や海外受注を積極的に行った第一動画などもその過失があることを強く批判している。
逸話
- 戦時中でも漫画を描き、監督役に見つかりにくい掲載場所としてトイレを選ぶが、紙不足の時代であり原稿は尻拭きに使われてしまった。
- デビュー当時の手塚は「医学生」「医者」の肩書を前面に押し出して活動していた。漫画の地位が低かった時代、「優秀な人物が書いた知的読み物」というイメージが読者の親世代へのPRに必要だったためである。それにあたりあまり年齢が若すぎると説得力が出ないと考えたのか、プロフィールで逆サバを読んでいた。さらに「医学専門部」というわかりにくい経歴を説明するのが面倒くさかったか、はたまた高校受験失敗がコンプレックスになっていたのか、「旧制浪華高校」「大阪大学予科」といった存在しない学校名を学歴として掲げることもあった。この年齢と学歴の詐称はつじつま合わせのため(あるいは本人が前に言ったことを忘れたため)にその時々で内容が変わっていき、没後に整理されるまで、様々な媒体で書かれた略歴や年譜の内容がバラバラという状態が続いた。
- 締め切りをとっくに過ぎているのにかかわらず、アシスタントに今週の出来を聞いていまいちと聞いたら、ほぼ完成していた原稿を没にして、8時間で20枚を書き直した。
- 仕事を引き受けすぎ、ウソをついて締め切りをずらしたり、人目がなくなった隙に逃亡するなどの行為も常習的に行っていた事から、口の悪い編集者からは「おそ虫」「ウソ虫」「雲隠れ才蔵」などと呼ばれていた。
- ある時などは『ちょっとそこの銭湯に』と言い出して洗面具を持って行くのを編集が見送ったら、実家の宝塚まで600キロの道を逃走していた。
- 手塚の逃走癖は晩年まで直らず、手塚番になる編集者には、編集長から「常にパスポートと数十万の現金を用意しておけ」と言われたという。時として海外まで逃げることがあったからである。
- 周囲の編集者やスタッフに「チョコレート食べないと書けない(深夜に。チョコレートは手塚の好物だったが、コンビニなど無い時代である)」「差し歯がないから描けない」「スリッパがないと描けない」「浅草の柿のタネが食べたい」などと無理難題を言い出して困らせることがよくあった。
- 漫画「ブラックジャック創作秘話」では、「カップ麺の赤いきつねを買って欲しいと手塚から頼まれ、すぐ近所の店で探そうとすると、何故か「高田馬場ではなく下北沢の赤いきつねが食べたい」と指定され、しかたなくタクシーで買いに行った」「秋田県に取材へ行った際、手塚が鉛筆を忘れて描けないというので急いで買ってくると「秋田のユニじゃ描けない」と何故か不満そうな反応だった」など、元スタッフが経験した手塚の不思議な言動が紹介されている。どうやら、探しに行かせている間に時間稼ぎをしたり休息を取ることが目的の場合があり、指定の品が早く届いてしまうと期待外れという事情があったようである。
- 締切が近く編集が喧嘩しそうになると、数本の連載作品を机に並べ同時進行で一気に仕上げたことがある。
- アメリカ旅行中ファックスの存在しない時代に、1ミリ方眼紙と電話での口頭指示でコマ割りを仕上げ、口頭で本棚の過去作品から背景指定を行い、帰国してからアメリカで描いたメインキャラを張り付け原稿を完成させた。
- アニメの打ち合わせで「ここはこういうシーンでいこう」と、対面に座っている人向きの絵(手塚側から見て上下反転の絵)を描き出した。
- 手元に資料のない状態で作画するなど、優れた記憶力を持っていたことで知られる。手塚は自著『マンガの描き方』のなかで、「漫画を描くということは、ものを描きうつす作業ではなく、自分の頭の中にうかんだイメージを描くのだということである」として、「ものの姿かたちをじっと観察することで頭の中に記憶させ、見なくても描けるようになる訓練」の必要性について書いている。
- 九州に逃亡した際に、現地で「火の鳥(ギリシャ・ローマ編)」を執筆したが、資料などは持ってきていなかった。建築や服装などは全て頭の中に記憶されていた。
- 野球の試合を見に行った後、家に帰って資料ゼロの記憶スケッチで描いた後楽園球場のイラストが本物と完全に瓜二つで、ライトの数までぴったり同じだった。
- 進行が切迫してネームや下書きすら描けていない時には、原稿に貼り付ける活字だけでも編集者が先に作っておくために、手はペン入れをしながらこれから描く予定のネームを口述で指定するという離れ業をやってのけた。描く前から原稿の完成図が頭の中にイメージできており、それを紙に引き写すだけだったという。
- ファンに絵をせがまれて…手を描きます→足を描きます→胴体を描きます→最後に顔を描いてナンデモカンデモ博士の出来上がり。
- 「ぬいぐるみはお尻がかわいい」と言って、自宅の部屋中にあるぬいぐるみを、お尻が見えるよう後ろ向きに並べていた。
人間関係
漫画家
赤塚不二夫 |
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石ノ森章太郎 |
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荒木飛呂彦 |
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さいとう・たかを |
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鳥山明 |
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福井英一 |
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藤子不二雄(藤子・F・不二雄・藤子不二雄Ⓐ) |
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永井豪 |
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松本零士 |
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水木しげる |
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やなせたかし |
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横山光輝 |
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アニメ関係者
その他
批評眼にも優れていたらしく、前述のように
・21世紀になっても藤子不二雄の漫画が残ると予想→21世紀にメディアミックスがされたもので言えば「ドラえもん」、「怪物くん」など
・自分や(原作者である)石ノ森章太郎が死んでも「秘密戦隊ゴレンジャー」「仮面ライダー」が続くと予想→スーパー戦隊シリーズ、平成ライダー、令和ライダー
・鳥山明の作品は30年後も読まれていると予想→「ドラゴンボール」など
などなど、「彼の作品は残る」と言われた漫画家は大抵実際に後世まで作品が残っている。
その他、漫画・アニメ関係者に限らず手塚作品から影響を受けたクリエイターは数多く『グイン・サーガ』で知られる小説家、栗本薫は耽美小説でも有名だが、手塚の『新撰組』の丘十郎と大作の関係に妖しさを覚え、その道に目覚めた、と語っている。また、魔夜峰央は代表作となった『パタリロ!』において、革新的な作風・手法を編み出すべくあらゆる要素を詰め込み、実験的な作品に挑戦し続けたが、結局BLからストーリー4コマまで、すべて手塚治虫に先んじられていたことを知って愕然としたと告白している。
誤解
手塚治虫の話題にはネット上では誤解も非常に多い。
- 石ノ森章太郎
- 愛弟子の一人には石ノ森章太郎がある。石ノ森がデビューする前は手塚の原稿を手伝うアシスタントとしても活躍していた。 石ノ森章太郎の実験的作品『ジュン』を手塚が酷評したという『ジュン事件』から、手塚と石ノ森は不仲だったと紹介されることもある。
- ただこれは、かつて石ノ森が手塚の経営する虫プロ商事の雑誌『COM』にジュンを連載していたが、ジュン読者からの「手塚治虫からジュンなんてマンガじゃないという悪口を書いた手紙が送られてきた」という手紙にショックを受け、COM編集部にジュンの連載中止を申し出るも、のちに手塚が石ノ森の自宅まで「申し訳ないことをした」と謝罪に来たことで両者の関係は修復されたというエピソードであり、実際に手塚と石ノ森の仲はわりと良く手塚の漫画には度々石ノ森が登場する。
- 大友克洋
- 大友克洋と対面したときには「あなたが描くような程度の低い絵は僕にも描けるんです」と発言し、実際に大友タッチの繊細な絵を描き上げたという有名な都市伝説が存在する。
- 本当はこれは大友克洋が手塚治虫のファンだったことに由来するファンサービスであり「お前が描くような程度の低い絵は僕にも描けるんです」など言ってない。大友に絵をプレゼントしたことで交流を深めたのが面白おかしく脚色された。
- 事実、手塚は大友のことを雑誌「ユリイカ」にて「大友さんは世にもすてきな本物の宝物をほくらに見せびらかす。ほくらは驚嘆し、羨望し、憧憬してかなわないと思う」と画力を絶賛している。また、手塚が「大友くん、マンガの地位を向上させてくれて本当にありがとう」と感謝を述べつつ握手をしてきたこともあったという(出典)
- 大友克洋は手塚漫画に親しんで育っており、代表作の「AKIRA」を手塚治虫に捧ぐとAKIRAの最終巻に描いている。大友は後に手塚治虫原作のアニメ映画「メトロポリス」では脚本を担当し、雑誌の表紙(アニメビジエンス Vol.3)に鉄腕アトムのイラストを描き下ろしたこともある。
- 梶原一騎
- 水木しげる
- 手塚治虫と水木しげるの関わりについて、以下のようなエピソードがネット上で有名。
”手塚はある出版社パーティーの席で全く面識のなかった水木に話しかけ、「あなたの絵は雑で汚いだけだ」「あなたの漫画くらいのことは僕はいつでも描けるんですよ」と言い放ったという。水木はその場では全く反論せず、のちにこの体験をもとにして「自分が世界で一番で無ければ気がすまない棺桶職人」を主人公にした短編『一番病』を描いた。” |
このエピソードは手塚と水木の関わりを述べる際にはほぼ必ずと言っていいほど持ち出されるくらいによく知られており、明らかな事実として紹介されることもあるが信憑性には疑問があり、ガセ情報の疑いがある。
- このエピソードはウィキペディアの「手塚治虫」の記事に10年以上も記載されていたが、そもそも情報の出処は示されておらず、確かな裏付けはない(現在は出典不明として削除されている)。
- 『水木サンの幸福論』という本では、水木自身が『一番病』に登場する棺桶職人は確かに手塚治虫がモデルであると語っているが、「初対面の手塚に否定的な発言をされたことが一番病を執筆するきっかけになった」といったような話はまったく出てこない。
- 『妖怪と歩く』という本では、水木は「講談社漫画賞の授賞パーティーで手塚治虫と実質的に初めて会った」「手塚からは冷ややかな態度で「曙出版か何かで描いておられましたね」という言葉をかけられただけだった」と回想しており、「面識のなかった水木に手塚が否定的な発言をしてきた」という話とは明らかに食い違っている。
- 佐々木マキ
- 漫画家・絵本作家の佐々木マキが、2011年に出版された作品集(『うみべのまち』太田出版)のあとがきで、『朝日ジャーナル』にて実験的な漫画を発表していた頃、文芸春秋の誌上で手塚治虫から「狂人である」「朝日ジャーナルは狂人の作品を載せてはならない。ただちに連載を中止すべきである」という主張をされたことがあったと書き、これがニュースサイトに取り上げられたことで「手塚が佐々木マキの漫画活動を妨害した」「手塚が佐々木マキを狂人扱いした」といった誤解が広まったが、実際の手塚の文章(『わからぬ漫画』文芸春秋1970年3月号)では、佐々木のことを「狂人である」と断じている表現はなく、「狂人の作品を載せてはならない」「ただちに連載を中止すべき」といった主張もされていない。
注記
(※注1) 昭和の戦前に宍戸左行、松本かつぢらはストーリー漫画の要素とされた「映画的演出」を取り入れた漫画を発表しており、特に松本かつぢの作品にはストーリー漫画のもう一つの特徴とされた「悲劇性」も盛り込まれている。このことから「手塚治虫=ストーリー漫画の開祖」という見方には異論が出され、現在では「ストーリー漫画=手塚の影響下にある戦後日本の漫画」という同語反復的な定義に落ち着いている。
(※注2) 1950年代初期の作品は丁寧なタッチで描かれており、特に人物が細かく描き分けられた群衆シーンなど、1コマ1コマに手間をかけてでも絵の魅力を重視していた時期もある。
(※注3) 『鉄腕アトム』も前半は大赤字で、手塚が私財を投じて穴埋めしていた。
関連イラスト
関連タグ
- 島本和彦:本名・手塚秀彦。つまり「もう一人の手塚先生」であり、「手塚治虫先生への遠慮もあるし、自身の作品も「手塚作品」と呼ばれないよう配慮してペンネームを使用している」と語っている。
- パワーレンジャー:マーベルコミック版に登場したダークレンジャーのメンバーの名前-の元ネタとして使われている。
- カプコン:2020年秋に手塚治虫記念館で「カプコンVS. 手塚治虫CHARACTERS」が開催された。
usersタグに関しての注意
- 50、200、300などの単位でusersタグを作らないでください。
- 特定作品の投稿には作品名タグを使ったほうが探しやすくなります。
- BLやR-18などの投稿には原作者名を含むタグは使わないようにしましょう。
- これは、現在手塚治虫に関連するタグの使用マナーがよくないことを理由に、ある程度使うタグを統一しようという動きがあるためです。