幕末の頃、京都を中心に活動した治安組織。Pixivでは、これに関連した作品イラストに付けられるタグ。
一般的な表記は「新選組」がほとんどであるが、Pixivでは「新撰組」が多い。
なお、どちらでも意味に違いはなく、当時から混用されていたらしい。肝心の近藤勇からして、書状などでは双方を用いていた。
曖昧さ回避
概要
江戸幕府支配が揺らぎ、政情不安となった江戸時代は19世紀後半の日本。
文久3年(1863年)2月、清河八郎が作った「浪士組」は、上洛する14代将軍・家茂護衛のため江戸を出発。その中に、芹沢鴨・近藤勇・土方歳三・山岡鉄舟などが参加していた。一部を除いて、ほとんどが農民や町人の出であった(名字があるから武士ではないかと誤解する人もいるが、江戸時代の町人達も、公的な文書に残らないだけで、名字は持っており、日常生活では普通に使っていた)。
3月に浪士組は江戸に戻り、近藤や芹沢らは京に残って、京都守護職に就任した会津藩主松平容保御預かりの「壬生浪士組」を結成。8月に発生した、8月18日の政変に出動し、その功績が認められ9月に「新選組」を拝命、同月に派閥争いで芹沢一派を殺害。
文久4年・元治元年(1864年)6月に、池田屋事件や禁門の変で活躍し、一躍名を轟かせ、同年10月に伊東甲子太郎らが入隊。市中見廻りで多くの尊王攘夷派や倒幕派を摘発し、後に幕府直属となる。しかし、慶応3年(1867年)10月に慶喜の大政奉還がされ、264年続いた幕府の世は幕を下ろした。そして、同年11月に思想違いから脱退し「御陵衛士」となった伊東らを殺害した(油小路事件)。
慶応4年・明治元年(1868年)に戊辰戦争が開戦すると鳥羽・伏見の戦いで敗北。治安組織としての新選組はここで役目を終える。
江戸に撤退し、新政府軍甲府進軍を阻止するために出征するが、進軍にもたついているうちに先に甲府を占領され敗退。江戸へ帰還後、3月に名を「甲陽鎮撫隊」と改め、甲州勝沼の戦いで敗走し、構成員の方針違いにより隊は分裂。新選組の名に戻し流山で土方らに隊を託し、近藤は新政府軍に投降しその後処刑。沖田総司は肺結核で病死。斎藤一は会津で戦い、明治の世では警察官となり西南戦争で抜刀隊に参加、その後も長寿を保った。土方は北海道に向かう榎本武揚と合流し、明治2年(1869年)に函館で戦死。その後、新選組は降伏・解散となった。
立場
清河八郎は尊王攘夷派で、寧ろ反幕府的立場を取っていた(そのため、江戸に戻ってから殺害される)。初期メンバーの中にも根岸友山の様に攘夷・倒幕派がいたが、幕領・旗本領が多い多摩出身の近藤・土方が実権を掌握し、佐幕派中心である会津藩後援を得た段階で、完全に幕府(というか会津藩)寄りの組織となった。
しかし、それが新選組の命取りとなる。松平容保を気に入っていた孝明天皇が崩去してから、朝廷は公武合体派より倒幕派が有力となり、容保配下として倒幕派を捕縛・殺害していた新撰組は、復権した倒幕派(特に藩士が大勢殺された長州藩士や土佐藩士)に会津藩もろとも敵視されてしまい、戊辰戦争で東北地方の諸藩が大きな被害を受けるキッカケの1つを作ってしまったともいえる。
京都では、市民は西国出身者が多い尊王攘夷・倒幕派に親近感を持っていたため、完全にアウェーであり不人気であった。おまけに、広く信仰を集める壬生寺や西本願寺に居座り、境内で大砲の訓練をするなど色々と迷惑を掛けたため、余計に嫌われる羽目となった。それでも徐々に打ち解けた地元民もいたようで、隊士の葬儀を地元民が手伝ったという記録が残っている。
その強さ
「新選組は逃げ回ってばかりいるのに、何故か強かった」などといわれる新選組の戦術は、徹底した集団戦法であったとされる。例えば4方から11人ずつ敵に斬り掛かり、相手が攻撃を捌き切れなくなったところで一斉攻撃する、などである。多人数に追われた際も包囲されない細い路地へ逃げ込み、振り向き様に相手を斬り捨てるといった戦法で切り抜けた。それ故当初「壬生の食い詰め浪人衆=壬生浪」と侮蔑・嘲笑された彼等は次第に「壬生の人喰い狼=壬生狼」と呼ばれ恐れられる様になって行った。また、家屋などに突入する際には、最初に斬り込む者を「死番」と呼んで当番制とし、スムーズな突入が出来る様にした。
これらの戦法は京都市街では非常に有効で、結成時の幹部で“敵”に斬られて死んだ者は1人もいない。もっとも、それは戦死者より内部粛清で死んだ者の方が遥かに多いということでもあるので、余り威張れたことではないかもしれないが……
その後
当然ながら、同志を大勢殺された西国出身者が首脳の大半を占める新政府では、とことん厳しい追及を受けた。会津藩ですら完全な領地没収を受けず、家老を切腹させて勘弁してもらったのに、自分から投降した近藤があっさり斬首されたくらいである。
当事者の記憶が残っている明治 - 大正期には、維新政府に刃向った「敵」として評価されない時期が長かったが、講談などに出る機会が多いため、それなりに人気はあったらしい。単純な悪人というより、主役志士達のライバル的扱いも受けることがあった。
しかし、昭和に入り子母澤寛の「新選組始末記」などが出ると、ようやく再評価を受始めた。太平洋戦争末期には戦闘機隊名に使われるなど、一定の人気が出ていた。その後も多数の小説その他諸々が出続け、現在では幕末日本の象徴的な日本史に輝く存在として、神様が羽織を買う程根強い人気を誇る。
隊士一覧
京都守護職会津藩御預りの新選組は発足時は24名という少人数であったが最大時には約230名程の隊士がいたとされている。
太字は最大規模化(1865年6月)当時の役職。【】内は他の部隊での役職。
名前 | 加盟時期 | 役職(戊辰戦争終結迄) | 主な流派 |
---|---|---|---|
芹沢鴨 | 1863年 | 初代(筆頭)局長→粛清 | 神道無念流剣術 |
近藤勇 | 1863 - 68年 | 2代目局長→(甲州勝沼の戦い)甲陽鎮撫隊隊長→斬首 | 天然理心流剣術 |
新見錦 | 1863年 | 局長→副長→粛清 | 神道無念流剣術 |
山南敬助 | 1863 - 65年 | 副長→総長→粛清 | 小野派一刀流・北辰一刀流剣術 |
土方歳三 | 1863 - 69年 | 副長→(甲州勝沼の戦い)甲陽鎮撫隊副長→【旧幕府軍】参謀→(箱館戦争)陸軍奉行並→戦死 | 天然理心流剣術 |
伊東甲子太郎 | 1864-67年 | 組頭2番→参謀→軍奉行→脱退→【御陵衛士】盟主→(油小路事件)暗殺 | 北辰一刀流剣術 |
沖田総司 | 1863 - 68年 | 副長助勤→組頭1番→1番隊組長→小銃頭→副長助勤→病死 | 天然理心流剣術 |
永倉新八 | 1863 - 68年 | 副長助勤→2番隊組長→小銃頭→副長助勤→(甲州勝沼の戦い後)離隊→【靖兵隊】副長→降伏 | 神道無念流剣術 |
斎藤一 | 1863 - 68年 | 副長助勤→組頭4番→3番隊組長→槍頭→脱退→【御陵衛士】(間者)→脱走→【新撰組】復帰→副長助勤→(会津戦争)残留→【会津新撰組】隊長→降伏 | 一刀流剣術または無外流剣術 |
松原忠司 | 1863 - 65年 | 副長助勤→組頭7番→4番隊組長→病死 | 関口流・北辰心要流柔術 |
武田観柳斎 | 1863 - 67年 | 副長助勤→組頭6番→5番隊組長→軍奉行→脱退→粛清 | 北辰一刀流剣術 |
井上源三郎 | 1863 - 68年 | 副長助勤→組頭3番→6番隊組長→槍頭→副長助勤→(鳥羽・伏見の戦い)戦死 | 天然理心流剣術 |
谷三十郎 | 1864? - 66年 | 副長助勤→組頭8番→7番隊組長→大銃頭→死亡(または粛清) | 直心流剣術・宝蔵院流槍術 |
藤堂平助 | 1863 - 67年 | 副長助勤→8番隊組長→大銃頭→脱退→【御陵衛士】→(油小路事件)戦死 | 北辰一刀流剣術 |
三木三郎(鈴木三樹三郎) | 1864-67年 | 目付→9番隊組長→監察方→脱退→【御陵衛士】→【薩摩軍】一番隊→【赤報隊】2番隊隊長→【新政府軍】徴兵7番隊→軍曹 | 北辰一刀流剣術 |
原田左之助 | 1863 - 68年 | 副長助勤→小荷駄雑具方→10番隊組長→小荷駄奉行→副長助勤→(甲州勝沼の戦い後)離隊→【靖兵隊】副長→離隊→(上野戦争)【彰義隊】→戦死 | 種田流槍術 |
尾形俊太郎 | 1863 - 68年 | 副長助勤→組頭五番→監察方兼文学師範→副長助勤→(鳥羽・伏見の戦い)目付→(会津戦争)離隊 | 不明 |
山崎烝 | 1863 - 68年 | 監察方→小荷駄雑具方→監察方→副長助勤→(鳥羽・伏見の戦い)戦死 | 香取流棒術 |
島田魁 | 1863 - 69年 | 監察方→監察方兼伍長→(会津戦争)軍目→(箱館戦争)【守衛新撰組】隊長→降伏 | 心形刀流剣術 |
篠原泰之進 | 1864 - 67年 | 監察方→監察方兼柔術師範→脱退→【御陵衛士】→【薩摩軍】一番隊→【赤報隊】2番隊→【新政府軍】軍曹 | 北辰一刀流剣術・良移心倒流柔術 |
その他の隊士 | 相馬主計 池田七三郎 市村鉄之助 市村辰之助 大石鍬次郎 吉村貫一郎 平山五郎 平間重助 野口健司 佐伯又三郎 河合耆三郎 谷万太郎 谷周平 奥沢栄助 加納鷲雄 服部武雄 毛内有之助 松永主計 野村利三郎 酒井兵庫 尾関雅次郎 佐々木愛次郎 山野八十八 大野右仲 阿部十郎 楠小十郎 安藤早太郎 蟻通勘吾 中島登 林信太郎 富山弥兵衛 新田革左衛門 前野五郎 佐野七五三之助 三浦啓之助 など |
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架空隊士
新選組を扱った小説や時代劇などの作品には実在しない隊士が登場することがあり、またアニメやゲームなどの作品では主人公(プレイヤー)が隊士となって活躍するという設定になってることが多い。
新選組血風録
加納惣三郎 田代彪蔵 深町新作 松永主膳 鹿内薫 長坂小十郎
壬生の恋歌
入江伊之助 時雨綱太郎 千石静馬 山田峯太 畑中三郎 鶴橋多喜人 猪俣蛾次郎 代々木晋
ゲーム・漫画・アニメの隊士
真田小次郎 鷲塚慶一郎 雪村千鶴 秋月小次郎 富永セイ 鵜堂刃衛 見田健
関わった事件・戦
事件・戦(戊辰戦争) | 時期(西暦) | 内容 |
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大和屋事件 | 1863年 8月頃 | 初代局長・芹沢鴨ら約30名の隊士が、京都の生糸問屋大和屋庄兵衛に金策を謝絶されたことに腹を立て放火。 |
八月十八日の政変 | 1863年 8月18日 | 御所警備に出動、その働きを評価される。 |
池田屋事件 | 1864年 7月8日 | 京都三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた長州・土佐藩などの尊王攘夷派志士を襲撃。新選組の名を一躍有名とする。 |
明保野亭事件 | 1864年 7月13日 | 池田屋事件残党捜索を命じられ、新選組隊士15名と会津藩士5名の計20名が共に探索に出動。 |
禁門の変 | 1864年 8月20日 | 8月18日の政変で京都より追放されていた長州藩が失地回復を目指して挙兵、それを会津藩や薩摩藩などと共に撃退。 |
ぜんざい屋事件 | 1865年 2月3日 | 大阪で土佐勤王党残党による大坂城乗っ取り計画を阻止。 |
三条制札事件 | 1866年 10月20日 | 土佐藩士8人が三条大橋西詰北の制札を引き抜こうとした所を襲撃・捕縛。 |
油小路事件 | 1867年 12月13日 | 七条油小路で元参謀・伊東甲子太郎を暗殺、及び御陵衛士を壊滅。 |
天満屋事件 | 1868年 1月1日 | 紀州藩士・三浦休太郎護衛に斎藤一・大石鍬次郎ら7名が付いた。そして、海援隊・陸援隊士総勢16名と戦った。 |
鳥羽・伏見の戦い | 1868年 1月27 - 30日 | 旧幕府軍に従い参加するが敗北する。井上源三郎ら隊士12名が戦死し、榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へ撤退する。 |
甲州勝沼の戦い | 1868年 3月29日 | 甲陽鎮撫隊と改名し板垣退助軍と激突するが敗北。隊士2名が戦死。永倉・原田らが離隊し靖兵隊を結成。 |
宇都宮城の戦い | 1868年 5月11・15日 | 第1次攻城戦で旧幕府軍が勝利(この際土方歳三が宇都宮城を陥落)。第2次攻城戦で敗北。 |
会津戦争 | 1868年 6月10日 - 11月6日 | 会津に入り、薩摩藩や土佐藩を中心とした新政府軍と戦うが土方ら本隊は蝦夷地へ向かい、斎藤一ら13人が会津に残留するが、最終的に会津藩は降伏。 |
(白河口の戦い) | 1868年 6月10日 - 8月31日 | 負傷した土方の代わりに斎藤一が隊を率いて会津藩遊撃隊などと共に白河城を占領、新政府軍と激突するが城を奪取される。 |
(母成峠の戦い) | 1868年 10月6日 | 会津藩や伝習隊など旧幕府軍と共に戦うが敗北する。 |
(会津城籠城戦) | 1868年1月8日 - 11月6日 | 会津に残留した斎藤一ら13人が会津新撰組を結成し新政府軍と戦うが最終的に会津藩は降伏、会津戦争は終結。 |
箱館戦争 | 1868年 12月4日 - 1869年 6月27日 | 旧幕府軍と共に五稜郭に入り新政府軍と戦うが最終的に土方歳三が戦死、新選組は降伏。 |
(二股口の戦い) | 1869年 5月24日 - 6月9日 | 土方率いる旧幕府軍が箱館に通じる二股口に進撃する新政府軍に対して、旧幕府軍は台場山に胸壁と陣地を構築して小銃で防戦、2週間に渡って新政府軍進撃を阻止した。 |
隊服や装備
新選組の服装といえば、上記のイラストの様に袖口に山形の模様(ダンダラ模様)を白く染め抜いた浅葱色の羽織が非常に有名である(羽織のダンダラは、歌舞伎などの演目『忠臣蔵』で赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした際に着ている羽織の柄をモデルにしたと伝わっていて、浅葱色は武士の死に装束の裃の色である)。
このように、新選組のシンボル的な隊服で有名だが、実はこの隊服は最初の1年程で廃止されたらしく、池田屋事件の際に着用していたとする証言が最後の記録である。この事件の2日後に目撃された隊士の服装は、着込襦袢・襠高袴・紺の脚絆・後鉢巻・白の襷であったそうだ。また、明治末期に老人が、新撰組は黒羅紗筒袖の陣羽織を着ていたと証言していることから、ダンダラ羽織廃止後は黒ずくめであったと考えられる。新選組に尾行されていた大村藩士・渡辺昇によれば、尾行者が黒衣・黒袴であれば直ぐに新選組であると分かったという。
警備や戦闘の際には、鉢金・鎖帷子・籠手・胴などの防具を装着した。武器は市街地戦を想定し打刀と短槍であった。局長の近藤勇は打刀とほぼ同寸の長脇差を好んだ。副長の土方歳三も、刃長2尺8寸の和泉守兼定・1尺9寸5分の堀川国広の刀を用いていた。
局中法度
新選組には「鉄の掟」と呼ばれた「局中法度」が存在し、厳格に運用され、違反した隊士は粛清された。成立は会津藩預かりとなった壬生浪士組時代に近藤ら試衛館派から芹沢ら水戸派に提示されたと考えられている。法として機能し始めたのは「新撰組」と名を改め近藤・土方を中心とする組織が整ってからで、伊東甲子太郎ら一派の暗殺の際にも適用されたといわれる。(ただし伊東らの暗殺は敵対勢力(倒幕派)としての暗殺説もある)
内容は以下の通り
- 一、士道ニ背キ間敷事
(武士道に背く行為をしてはならない)
- 一、局ヲ脱スルヲ不許
(新撰組からの脱退は許されない)
- 一、勝手ニ金策致不可
(無断で借金をしてはならない)
- 一、勝手ニ訴訟取扱不可
(無断で訴訟に関係してはならない)
- 一、私ノ闘争ヲ不許
(個人的な争いをしてはならない)
右条々相背候者切腹申付ベク候也
(以上いずれかに違反した者には切腹を申し渡すものとする)
この通りこれを1つでも破れば切腹という非常に厳しい隊規を定め、烏合の衆である浪人集団を統率していた。また鳥羽・伏見の戦い以前の5年間での新選組内部における死者は45名に上り、内訳を見ると倒幕志士との戦闘による死者数は6名で、その他はほとんどが切腹や暗殺などの粛清絡みのものであった。記録を見る限りでは、新撰組は自組織内での相互不信と内部抗争に明け暮れて、敵よりも同志を殺した数の方が余程多かったされ、この法度が新選組崩壊の原因の1つともされている。
しかしながら、職にあぶれた柄が悪い浪人達を纏め上げて一端の武士に鍛え上げるには、これ程厳格にする必要があったことも否めないであろう。
関連イラスト
史実の新選組
かっこいい新選組
何か異なる新選組
関連動画
創作の新選組
イケメンに描かれることが多い。時代劇は勿論漫画や隊士と恋愛出来る乙女ゲームもある。
最近では男性アイドルのアニメでも新選組の舞台に挑戦するエピソードがあるなど女性人気が高い。
Pixivにおける2次創作
新選組を主題とする作品
- 鞍馬天狗(大佛次郎)
- 新選組始末記 / 新選組遺聞 / 新選組物語(子母澤寛)
- 新選組血風録 / 燃えよ剣(司馬遼太郎)
- 壬生義士伝 / 輪違屋糸里 / 一刀斎夢録(浅田次郎)
- まぼろし新撰組(栗本薫)
- ヒトごろし(京極夏彦)
- 総司の夢 / 歳三の剣(小松エメル)
- 御法度(1990年)
- 壬生義士伝(2003年)
- 実録 新選組(2006年)
- 燃えよ剣(2020年)※公開は2021年
- 新選組始末記(1961年、1977年)
- 新選組血風録(1965年、1998年、2011年)
- 燃えよ剣(1966年、1970年、1990年)
- 壬生の恋歌(1983年)
- 壬生義士伝~新選組でいちばん強かった男~(2002年)
- NHK大河ドラマ『新選組!』(2004年)
- NHK正月時代劇『新選組!! 土方歳三 最期の1日』(2006年)
- 輪違屋糸里~女たちの新選組〜(2007年)
- 幕末相棒伝(2022年)
- 君とゆきて咲く〜新選組青春録〜(2024年)
作品名50音順に追加。
メイン作品
- 青のミブロ
- 風光る
- ガンダムセンチネル(ニューディサイズ)
- 機関幕末異聞ラストキャバリエ
- 行殺♥新選組
- 銀河烈風バクシンガー(銀河烈風隊)
- 月華の剣士
- 修羅の刻(幕末風雲編)
- 新選組(手塚治虫)
- 新撰組異聞PEACEMAKER、PEACEMAKER鐵
- 新選組といっしょ
- 戦国コレクション
- ちるらん新撰組鎮魂歌
- 艶が~る
- ツワモノガタリ
- 飛べ!イサミ
- ドリフターズ
- 薄桜鬼
- 幕末志士の恋愛事情
- 幕末尽忠報国烈士伝MIBURO
- 幕末Rock
- 一の食卓
- 遙かなる時空の中で5
- 風雲新撰組
- 風雲幕末伝
- ブッチギレ!
- マカロニほうれん荘
- 萌えよ剣
- 龍が如く維新!
- るろうに剣心
作品内での関連用語
モチーフ
- 鉄華団(機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズ)
- SHINSEN-GUMI(首都高バトル(PSP))
- エイエ戦サー、桜坂新撰組(スクフェスALL_STARS)|
- 黒撰高校(Mr.FULLSWING)
- 鬼殺隊(鬼滅の刃)
余談
- 新選組を描いた映像作品は数多くあるが、最古のものとしては大正3年(1914年)に公開された日活の「近藤勇」という映画とされる。フィルムこそ現存しないが、永倉新八がまだ存命の頃であり、永倉も晩年は映画を嗜んでいたことから件の映画を鑑賞していた可能性はある。
関連タグ
池田屋事件 ぜんざい屋事件 三条制札事件 油小路事件 天満屋事件