誘導分岐
- 古代イスラエルの王。旧約聖書にも登場する。本項で解説
- ソロモン72柱の略称。
- ソロモン諸島。南太平洋にある諸島・国家。第二次世界大戦の激戦地の一つ。
- 『機動戦士ガンダム』シリーズに登場する宇宙要塞・小惑星。→宇宙要塞ソロモン
本項で解説されるソロモンをモデルにしているキャラクター
以下は記事なし。
概要
Solomon 名前はヘブライ語で「平和の人」「平和に満ちた」を意味する。
紀元前971年ごろから紀元前931年ごろまでの約40年の間イスラエルを統治した第3代目の王。
ダビデ王とバト・シェバの二人目の息子で、イスラエル王国の全盛期をもたらした。
イスラム教徒からはスレイマンないしスライマーンの名で知られる。なお、スレイマンはトルコ語圏、スライマーンはアラビア語圏における呼称である。
聖書の中には『主はその子を愛され、預言者ナタンを通してそのことを示されたので、主のゆえにその子を「エディドヤ(主に愛された者)」とも名付けた。』とあり、すべての人、すべての赤ん坊を愛している神が、中でも特にソロモンを愛したということがわかる。
故に、ソロモンが王位を継いだ時に神が「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」と彼に言い、ソロモンが「民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕(しもべ)に聞き分ける心(=知恵)をお与えください。」と答えたことで、喜んだ神から満ち足りた知恵を授けられる。こうして彼は知恵者として知られ、「ソロモンの知恵」の中では「大岡政談(大岡裁き)」のモデルになった二人の娼婦による赤ん坊の親権争いの裁判はとくに有名である。
…また政治に力を注ぎ、色々な事業をした彼は、その一端として魔術にも長けていたと言われる。エルサレムに神殿を建設中がなかなかうまくいかなかったソロモンは、神であるヤハウェに祈り、そのヤハウェの命を受けた大天使ミカエルが現れ、黄金に輝く指輪を与えたことは特に有名で、その名前を「ソロモンの指輪」としている。この指輪は真鍮と鉄でできており、呪文を唱えながらこの指輪の真鍮部分を使うと天使を従わせ、更に鉄の部分を使うと悪魔を従わせることができた。
伝承の一つには
エルサレム神殿を完成させることはできたのだが、神の使いである天使は何もなかったものの、強制的に働かされた悪魔たちは激怒したという物も。ソロモンは真鍮でできた壺に悪魔を封印し、「バビロンの穴」がある深い湖に沈めたが、後に人々が財宝が入っているのでは、と壺の封印を解いてしまい、悪魔たちが逃げ出してしまった。その悪魔たちこそがソロモン72柱の悪魔たちであると云う。
14世紀には72柱の一柱であるベリアルにまつわる神と悪魔の裁判というテーマで
「ベリアルの書」が成立。ベリアルはその裁判における地獄の代表者として、
神に「イエスが地獄の住人に干渉し地獄の支配権までもを強奪した」と訴えた。
イエスはモーセを弁護人として、訴訟は裁判官であるソロモンが裁決する事となった。ベリアルは裁判を有利に運ぶため、ソロモン王の機嫌を取ろうとするが、判決はイエスの勝利となる。
悪魔たちを使役するために、使われていたとされるソロモンの魔術書には「ソロモンの大いなる鍵」と「ソロモンの小さな鍵(ゴエティア)」の二つあり、大英博物館に保管されている。
逸話
また、指輪には動植物の声を聞くことができる効果もあったとされ、シクラメンの呼び名に「ソロモンの王冠」と名がついていることに関連する。(ちなみにイスラエルで1〜2月にかけて定番の花であり、シクラメンを国花とする国にイスラエルがある。)
ソロモン王は多くの外国の女を愛した。すなわちパロの娘、モアブびと、アンモンびと、エドムびと、シドンびと、ヘテびとの女を愛した。
(列王紀第11章1節)
政略結婚を外交の一つとしていた事もあり、ソロモンには700人の王妃と300人の妾、総勢1000人のハーレムがいたとされる。
ソロモン伝承におけるこのハーレム(後宮)の比重は存外に大きく
旧来の解釈では異邦の姫君であった彼女たちの故地における信仰をも看過し許容したことで、
イスラエル国内の信仰を巡る論争の火種になったとされることが多い。
「しかしソロモンは…愛して離れなかった。彼には王妃としての妻七百人、そばめ三百人があった。その妻たちが彼の心を転じたのである。」(列王紀第11章)
愛故に許容したとも受け取れるが、実相は不明である。
彼の妻や親しい女の逸話としてはパロ=ファラオの娘、シバの女王の逸話が有名である。
その他アモン人ナアマとの間にユダ王国の初代の王レハブアムを成し、彼と継嗣たちがダビデ家の血統を南ユダ王国において継いだ。
ソロモンに娘を嫁がせたというエジプトの「ファラオ」は、研究者の間では21王朝のシアメン(紀元前978年~紀元前959年)であったとされているが、考古学上はその2代後のシシャク1世の時とされる事もあり、諸説存在する。
…エジプトの王パロはかつて上ってきて、ゲゼルを取り、火でこれを焼き、その町に住んでいたカナンびとを殺し、これをソロモンの妻である自分の娘に与えて婚姻の贈り物としたので、ソロモンはそのゲゼルを建て直した…(列王記9章15節)
旧約聖書サムエル記に登場する「エジプト人」、或いは列王記に登場し、カナン人の都市ゲゼルを攻略し、持参財としてソロモンの妃となったエジプト王女に与えたという王はシアメンにあたると
言われている。シアメンの王名は各地の記念碑文などに残されており、彼は比較的強力な王であったといわれている。
ソロモン王の最初の妻であったこの女性の解釈も様々である。この妻を喜ばせるために壮大さや豪奢を求めるようになったソロモンは、杉材を贅沢に使った「パロの娘のための家」を建てた。それだけでなく、あらゆる贅を尽くして宮殿を飾ったその中で、特に目を引くのが「ソロモンの金の盾」である。(新約聖書は「盾」をイエス・キリストに対する信仰のシンボルとして扱っている箇所があるため、そのつながりがあるとする説もある。)
シバの女王はシバ王国(新約の解釈だと『地の果て』からやって来た「南」の国)の支配者で、
ソロモンの知恵を噂で伝え聞き、自身の抱える悩みを解決するために遠方の国家からエルサレムの
ソロモン王の元を訪れたとされる。彼女との間には新バビロニア王国の2代目の王、ネブカドネザル2世が生まれたとされる。別の解釈だとエチオピア説があり、女王マケダ(=シバの女王)の間に生まれた子はエチオピア帝国の始祖メネリク1世とするものもある。
外国との交易を広げて国の経済を発展させ、統治システムとしての官僚制度を確立して国内制度の整備を行った。また、外国との貿易のための隊商路を整備のため要塞化された補給基地を建て、大規模な土木工事をもって国内各地の都市も強化している。
さらに軍事面ならびに外交面では、近隣王国と条約を交わし、政略結婚を重ねて自国を強国に育てあげた。イスラエル王国の領土はユーフラテス川からガザにまでおよび、誰もが無花果や葡萄の樹の下で安心して暮らすことができたという。
「ソロモンの英知」 「ソロモンの栄華」などと偉大な王として名を馳せたが、しかし
ソロモン王の野心的な事業は賦税や労役を国民に課すこともあり、ユダヤ教以外の宗教を容認したことによる国内での宗教対立を誘発したりと古代イスラエルの亀裂を引き起こしたとされる。
ソロモンの死後、息子のレハブアムが継いだが、紀元前922年にヤロブアムを擁した10支族によってイスラエルは南北に分裂、対立していくことになる。王国に内在していた矛盾を増幅させ、それがソロモンの死とともに一気に噴出した結果である。そのため、ソロモンはイスラエル統一王国の最後の王になってしまった。
旧約聖書
そこで神は彼に言われた、「あなたはこの事を求めて、自分のために長命を求めず、また自分のために富を求めず、また自分の敵の命をも求めず、ただ訴えをききわける知恵を求めたゆえに」
見よ、わたしはあなたの言葉にしたがって、賢い、英明な心を与える。あなたの先にはあなたに並ぶ者がなく、あなたの後にもあなたに並ぶ者は起らないであろう。
(Ⅰ列王記3:11~12)
神はソロモンに非常に多くの知恵と悟りを授け、また海べの砂原のように広い心を 授けられた
ソロモンの知恵は 東の人々の知恵と エジプトのすべての知恵にまさった
彼は三千の箴言を語り、 彼の歌は一千五首もあった。彼はレバノンの杉の木から、 石垣に生えるヒソプに至るまでの草木について語り、獣や鳥やはうものや魚についても語った。 ソロモンの知恵を聞くために、すべての国の人々や、 彼の知恵のうわさを聞いた国のすべての王たちがやって来た。
(Ⅰ列王記4:29~34)
旧約聖書にある「箴言」、「伝道者の書」、「雅歌」の3つの詩歌は、 ソロモンに因るものとされる。
クルアーン コーランの記述
イスラムにとってのソロモン(預言者スライマーン)とは、コーランに
『我ら(アッラー)がダビデとソロモンに知恵を授けたので、二人は「讃えあれ、アッラー。信仰深い僕(シモベ、イスラム教徒を指す)の数多い中から特に我らを選び出し給うた」と神を賛美した。また吾らは、ダビデに後継者としてソロモンを与えた。あれほど立派な僕はまずあるまい。実に良く改悛する男であった』
とあるように、ソロモンは神・アッラーを畏れる敬虔なイスラム教徒であり、神に祝福された王者として描かれている。また、
「いよいよ我ら(=アッラー自称)が彼(ソロモン)に死の断を下した時も、さすがの彼ら(精霊たち。ちょうどその時有名なソロモンの神殿の建設中で、精霊たちはみな苦役に服していた)も全然その死に気がつかなかった。ただ一匹の土蛆がいて、それが彼の杖(ソロモンの死体はその杖に寄りかかってあたかも生あるものの如くであった)を喰っていただけのこと。彼がばたりと倒れた時(一年かかって蛆が杖を喰いつくし、ソロモンの死体は倒れた。がその時に神殿は完成していた)精霊どもやっと気がついて、ああ、目に見えぬ世界の事情がわかっていたら、なにも屈辱的な苦役をいつまでも続けるのではなかったに、という次第」―コーラン34:13(14)
ハディースにも引用あり。
{主よ、わたしを御赦し下さい。そして後世の誰も持ち得ない程の王国をわたしに御与え下さい 38-35}
スライマーン(ソロモン)は、アッラーに、以後いかなる被造物にも与えることのない
王権を求めたとされる。アッラーはそれに応え、彼の王権を許した。
{スライマーンの命令でかれの軍勢が集められたが、かれらはジンと人間と鳥からなり、(きちんと)部隊に編成された 27-17}
スライマーンはダーウード(ダビデ)の後を継ぐ。彼は鳥の声を聞く。鳥は天の導き、天使。27-16とあり、鳥は御使いの象徴と考えられる。
またスライマーンは風や火などの自然界の諸力を支配した。
{そこでわれは、風をかれに従わせた。それはかれの思うままに、その命令によって望む所に静かに吹く 38-36}
彼スライマーンとアッラーの意に叛くものには火の裁きが与えられたと云う。
{またスライマーンには風を(支配させ)、(その風の一吹きで)一朝に一ケ月(の旅路)を、また一夕に一ケ月(の帰路)を(旅させた)。またわれはかれらに熔けた銅の泉を湧き出させた。また主の御許しによりあるジン(幽精)に、かれの面前で働かせ、かれらの中われの命令に背く者には、烈しい焔の懲罰を味わわせた 34-12}
この風を操る力を以ってスライマーンの船団は一か月かかる旅路を一昼夜に短縮できた、
と云うのである。
{またわれはシャイターンたちを、(かれに服従させた。その中には)大工があり潜水夫もあり、/またその外に、スライマーンの命令に服さず鎖に繋がれた者もいた。 38-37 – 38-38}
彼の父ダーウードに、鉄を柔らかくすることで恵みを与えたように。スライマーンは銅のような固いものを溶かしてしまえる力が与えられた。
スライマーンは溶かした銅を戦争にも平和にも活用し、戦争にあっては、銅を鉄と混ぜて青銅を作り、剣や鎧や短刀といった武器に用いた。平和にあっては、銅を建築や像の製造などに用いた。
スライマーンの人間の軍にも鳥の軍にも問題はなく、蟻にも慈悲深く、彼らの囁きを聞き、足で踏みつけることもなかった。
スライマーンは頭を下げて歩き、謙虚にいつも地面を眺め、常にアッラーに感謝した。
ある日彼は、軍の前線に赴き、蟻が他の蟻にこう言うのを聞いた。
{蟻たちよ、自分の住みかに入れ。スライマーンとその軍勢が、それと知らずにあなたがたを踏み躙らないよう 27-18}
スライマーンは蟻の言葉を聞き、{その言葉の可笑しさに顔を綻ばせた 27-19}。
スライマーンには馬の病気がわかり、馬の言葉で彼らと話し理解し、命令に従わせることも
出来た。西欧の伝承と同じく万物の声を聴き意思を交わすことができたとされる。
魔導書 グリモワール
ソロモン王に帰せられる多くのグリモワールが中世末期からイタリア・ルネサンスに書かれたが、
畢竟、前代(中世盛期)のユダヤ教カバラとアラビア錬金術の書物の影響を受けており、さらに遡れば古代後期のギリシア=ローマ魔術に辿り着く。
その中でも著名なのは『ソロモンの大いなる鍵』と『ソロモンの小さき鍵』という二冊の魔術書である。
このうち、『ソロモンの大きな鍵』の特徴は書の内容よりも付録的な記載の豊富な護符などの図版である。『ソロモンの小さな鍵』については、こちらのほうが有名である。ゲーティアもしくはレメゲトンとも呼ばれる。その内容はソロモン72柱の解説と使役の仕方が記されている。知名度から『ソロモンの小さな鍵』の方がソロモンの鍵だと認識されることも多いが本来は『ソロモンの大きな鍵』の方を指す。
ソロモンの大きな鍵
詳細は「ソロモンの大いなる鍵」を参照
今日『ソロモンの大きな鍵』という名で知られる書物は、マグレガー・メイザースによって大英博物館にあった“ソロモンの名を冠する7種類の断章”を基に内容を再構成したグリモワールである。基になったグリモワールも15世紀前後のものとみられており、オリジナルはすでに失われている。よってオリジナルのグリモワールがソロモン本人の著作かどうかも定かではない。
その内容は、魔術用具の作り方や儀式を行うための約束事に始まり、精霊の召喚の仕方までに至る。魔術書としての典型、まさに理想的な内容であると言える。しかし、最も特徴的な内容は豊富な図版と付録の大量なペンタクル(魔術用の護符)、七つの惑星の霊の力を借りる為の術式等についての解説である。
ソロモンの小さな鍵
「ソロモンの小さな鍵」は4種または5種の魔法書を合本したグリモワール「レメゲトン」もしくはその第一部「ゴエティア」の呼称である。20世紀初頭にアレイスター・クロウリーによって公刊されたが、これは「レメゲトン」のうち「ゴエティア」のみ収録している。この『ソロモン王のゴエティアの書』の元になったのは、マグレガー・マサースが大英博物館所蔵のレメゲトンの稿本から作成した私家版で、魔術史家フランシス・X・キングによれば、アラン・ベネットからクロウリーに譲られたものであるという。英訳とされているが、底本に使用された古写本も英語で書かれている。
「レメゲトン」は「悪霊のはたらきによる業」である「ゴエティア」と「善天使のはたらきによる業」である「テウルギア」に関する魔術書を集めたもので、現在、大英図書館に17世紀から18世紀のいくつかの英語の稿本が保管されている。第一部の「ゴエティア」はヨーハン・ヴァイヤーの『悪魔の偽王国』およびレジナルド・スコットによるその英訳との関連性が指摘されている。クロウリーの『ソロモン王のゴエティアの書』の現行版『ゴエティア ソロモン王の小鍵』の編者ハイメニーアス・ベータの序文によれば、ドイツ語圏で「レメゲトン」と呼ばれた選集は、第一部に「ゴエティア」ではなく「ソロモンの鍵」を収録していたという。そのためドイツの学者たちは「ゴエティア」についてほとんど言及していない。第2部「テウルギア・ゴエティアの術」はトリテミウスの『ステガノグラフィア』からの影響が指摘されている。第三部以降のタイトル「パウロの術」「アルマデルの術」「アルス・ノトリア」はいずれも、アグリッパの『学問のむなしさと不確かさについて』の中でテウルギアに属する術名として列挙されている。「アルマデル」と「アルス・ノトリア」はレメゲトンとは別個の古くからのソロモン系魔術書としても存在している。
内容構成
以下の5部からなる。
ゴエティア(Goetia)
悪魔についての書。ソロモン王がいかにして悪魔を使役し名声を得たかを記し、その悪魔の性質や使役方法を述べる。レメゲトンのなかでも特に有名で、しばしばこれ単独で『レメゲトン』『ソロモン王の小さき鍵』と呼ばれる。Goetia とは、古代ギリシア=ローマにおける「呪術」「妖術」を指すギリシア語 γοητεία(ゴエーテイア)のラテン語形で、ルネサンス期には悪霊の力を借りる儀式魔術とほぼ同義であった。これは今日の魔術でいう喚起魔術、すなわち悪魔などの人間より下位の霊的存在を使役する魔術作業に相当する。
テウルギア・ゴエティア(Theurgia Goetia)
悪魔と天空の精霊についての書。つまりこの書は善悪双方の精霊の使役法を記したものである。Theurgia とは、古代の新プラトン学派の人々が行ったとされる、神霊を勧請する祈祷などの儀式的実践である θεουργία(テウルギア)のラテン語形である。降神術、神働術、動神術、神通術とも訳される。これは今日の魔術でいう召喚魔術、すなわち神など人間より上位の霊的存在による魔術作業に相当する。『学問のむなしさと不確かさについて』において儀式魔術を含むあらゆる学術を批判したアグリッパは、儀式魔術にはゴエティアとテウルギアの2部門があるとし、前者を「不浄の霊との交渉による業」、後者を「善天使に導かれた業」(と多くの人がみなしている魔術)として論じている。
アルス・パウリナ(Ars Paulina)
惑星時間を支配する精霊、黄道十二宮360度の角度一つ一つに宿る精霊や十二宮の中の惑星など、星に関する魔術についての書。ゴエティアが悪しき精霊を、テウルギア・ゴエティアが善悪双方の精霊を取り扱っているのに対し、こちらは善なる精霊のみを取り扱っている。そのため『ソロモン王のテウルギアの書 第一章』とも呼ばれる。なお Ars Paulina とは「聖パウロの術」の意味で、一説にはこれがパウロによって発見されたともいう。
アルス・アルマデル・サロモニス(Ars Almadel Salomonis)
天の四つの高度と黄道十二宮360度を支配する大精霊についての書。これもアルス・パウリナと同じく善なる精霊のみを取り扱っており、『ソロモン王のテウルギアの書 第二章』とも呼ばれる。Ars Almadel とは「アルマデルの術」という意味である。このアルマデル(Al-madel)というアラビア語がどういう意味かははっきりしていないが、本書では魔術に用いる蝋板を「ソロモンのアルマデル」と称している。
アルス・ノヴァ(Ars Nova)
ソロモン王が神殿の祭壇で行っていた祈りの書とされ、魔術一般と聖なる知識について記されている。大天使ミカエルが、稲妻とともにソロモン王に授けたという。また、ソロモン王はこれと同時に多くの神からの手記を受け取っており、これによって名高い智恵を得たという。Ars Nova とは「新しき術」の意。また「名高き術」(Ars Notoria)、「書記術」(Ars Notaria)とも言う
このほかに「真正奥義書」(ソロモンの真の鎖骨)「賢者の石論」「観念の亡霊」「九個の指輪の書」「九個の燭台の書」「精霊の三つの形の書」「魔神を追い払う刻印」「ネクロマンシー論」
などの魔導書がソロモン王の著名で出版された。
関連タグ
ソロモン(Fate):彼の三つの宝具は自身の魔術書の名を冠している。
レンタルマギカ:ヒロインの一人アディリシア・レン・メイザースは
魔術師としてのソロモンの末裔という設定。
悪魔くん:全ての漫画版『悪魔くん』の共通点の一つとして
ファウスト博士は悪魔くんに「ソロモンの笛」を与える。これは悪魔を従わせる力をもつ笛で、ソロモン王が使ったというものであった。
栄華の象徴
聖書の列王記上第10章後半にはソロモンの富について記述されている。
ソロモンの歳入は金666キカル(約22.8トン)、そのほかに隊商の納める税金、貿易商、アラビアのすべての王、地方総督からの収入があった。
ソロモン王は延金の大盾を200個作った。一つの大盾につき用いた金は600シェケル(約6.8キログラム)であったという。この他に延金の小盾も300個つくった。一つの小盾に用いた金は3マネ(約1.7キログラム)であったという。王はこれらの盾を「レバノンの森の家」に置いた。
王は更に象牙の大きな王座を作り、これを精錬した金で覆った。王座には6つの段があり、王座の背もたれの上部は丸かった。また、座席の両側には肘掛けがあり、その脇に2頭の獅子が立っていた。6つの段の左右にもそれぞれ獅子が、合計12頭の獅子が立っていた。これほどのものが作られた国はどこにもなかった、としている。
ソロモン王の杯はすべて金、「レバノンの森の家」の器もすべて純金でできていた。ソロモンの時代には銀は値打ちのないものと見なされており、銀製のものは無かったという。
ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富と知恵を有し、全世界の人々が、神がソロモンの心に授けた知恵を聞くために彼に拝謁を求めたという。彼らは、それぞれ贈り物としての銀の器金の器、衣類、武器、香料、馬とらばを毎年携えてきた。
王はエルサレムで銀を石のように、レバノン杉をシェフェラのいちじく桑のように大量に供給した。ソロモンの馬はエジプトとクエ(現在のトルコのキリキア州にある町)から輸入された。王の商人は代価を払ってクエからそれを買い入れた。
エジプトから輸入された戦車は1両につき銀600シェケル(約6.8キログラム)、馬は1頭につき銀150シェケル(約1.7キログラム)の値が付けられた。同じようにそれらは王の商人によってヘト人やアラム人のすべての王に輸出されたという。
以上のように聖書には記載されている。おそらくは誇張も多々含まれているだろうが、
しかしソロモンが交易により栄えた様子はうかがい知ることができると思う。
このように後代のヨーロッパを始め西洋社会における栄耀栄華の代名詞として
ソロモン王の名は記憶された。
異邦との交流
ソロモンの時代は古代オリエントの列強の一員として国際化が進んだ時代である。
従来の旧約聖書解釈によれば、イスラエル王国の最盛期を築いたソロモンは、諸外国の王女などと政略結婚を行うことによって巧みな政治・外交政策をとっていたとされる。
ソロモン王は多くの外国の女を愛した。すなわちパロの娘、モアブびと、アンモンびと、エドムびと、シドンびと、ヘテびとの女を愛した。(列王紀第11章1節)
また異邦の王としてはエジプトのパロ(ファラオ)の他にツロの王ヒラムとの交流が有名である。
ソロモンは隣国 のツロ(現レバノン)の王ヒラムに使者を遣わし、神殿建築に必要なレバノンの香柏の材木を譲ってほしいと求めた。この木は一般にはヒマラヤスギと呼ばれている。50~60メートルに成長し、建築材料として特に耐久性に優れた木材であり、当時地中海沿岸に面したツロの山には数多く自生していた。
ヒラムは見返りにソロモンから小麦とオリーブ油を受け取った。ソロモンとヒラムは共同で海上交易も行っている。
また、ヒラムという王と同じ名前の青銅職人がティルスから派遣され、ソロモンの神殿建築に際して青銅工芸の技術によって貢献した。(後述)
各地に残る伝承
コーチン・ユダヤ人は、インドの南西海岸の港市コーチンに住む、古代ユダヤ人の子孫である。ケーララ州に住んでいる人々は伝統的にマラヤーラム語を話す。
現在のコーチン・ユダヤ人が多様性に富んでいるのは、ケララからの数度にわたる移住のおかげである。またソロモンが度々船をケララに寄せたとの伝説からイスラエル王国が二つに分裂した後にマラバール海岸に定住していた人たちではないかという説がある。しばしば「黒いユダヤ人」といわれる。
徳島県の剣山は、四国山脈を見渡せる高峰として登山客に人気のスポット。
山岳信仰の対象であった剣山は、古くから様々なミステリーに彩られている。その中で最もスケールの大きな説は、「古代イスラエルの王・ソロモンの秘宝」が当地に眠っているというもの。
この考えのベースとなっているのは、日本人とユダヤ人(イスラエル人)は共通の祖先をもつという「日ユ同祖論」。日本の神社の構造や儀式の作法、年中行事、修験道の服装が似ているというもので、明治時代にやってきた英国商人ニコラス・マクラウドが日本人とユダヤ人との共通点に気づき、唱え出したのがきっかけとされている。
他に同祖論に着目した研究者はマーヴィン・トケイヤーやヨセフ・アイデルバーグなど。
前1021年頃に建国された古代イスラエル王国は前586年滅亡、12支族のうち10支族が国外に逃れて姿を消した。当時日本は縄文時代末期だったが、古代イスラエル人が日本に渡来したというものである。
シャムシール・エ・ゾモロドネガル(ペルシャ語: شمشیر زمردنگار, Shamshir-e Zomorrodnegār、エメラルドをちりばめた剣 の意)とは、ペルシャの伝説アミール・アルサランに登場する剣である。この剣はエメラルドのビーズがちりばめられた剣で、元々はソロモン王が持っていた。身につけるだけで魅了の魔法に抵抗し、鋼の装甲を持つ悪魔に対抗できる唯一の武器であった。
恐ろしい角を持つフラッゼレイ(ペルシャ語:فولادزره 鉄鎧の意)という悪魔の母魔女が、彼を不死身にする為、この特殊な剣以外の全ての剣に魅力を行使していた。フラッゼレイは、魅了に抵抗し悪魔に対抗できるシャムシール・エ・ゾモロドネガルを厳重に守っていた。
この剣によって与えられた傷は、フラッゼレイの脳を含む多数の薬剤を調合した特殊なポーションでなければ治せなかった。
ソロモン王の母の墓
パサルガダエはアケメネス朝のキュロス2世によって建設された、当時のペルシャ帝国の首都で、キュロス2世の墓が存在する。今日では、ユネスコの世界遺産に登録されている。
一般にパサルガダエ考古遺跡で発見される芸術作品や建築物は、エラム、バビロニア、アッシリア、古代エジプトからの先例に基づき、かつ、いくらかのアナトリアの影響を受けた形でのペルシャ美術の統合体の一例となっている。
イスラームによるイラン征服時代、アラブ人の軍隊は、パサルガダエ考古遺跡にたどり着いた際に、パサルガダエ考古遺跡を破壊する計画を持っていた。当時の墓守は、アラブ人の軍隊にパサルガダエは、キュロス2世を奉じて作られたのではなく、ソロモン王の母を尊重して作られたとどうにか信じさせる事によって、破壊を回避した。その結果、墓碑は、クルアーンの韻文に取って代わられ、今日では、ソロモン王の母の墓と知られるようになった。
漁師と鬼神との物語アラビアンナイト(第3夜 - 第9夜)
ある漁師が網を打つと、スライマーン(ソロモン王)の封印がある壷が取れた。漁師が壷を開けると、サクル・エル・ジンニーという鬼神が現れた。鬼神が漁師を殺そうとすると、漁師が「本当にこの小さな壷に入れるのか」と聞き、鬼神が壷に入ったところを、再度封印してしまった。鬼神は封印を解くように懇願するが、漁師は「イウナン王の大臣と医師ルイアンの物語」を語り断った。しかし、鬼神は再度懇願したため、漁師は封印を解き、鬼神はお礼に、不思議な魚が取れる湖を漁師に教えた。
漁師はその湖で魚を取り、王(スルターン)に献上して多額の褒美をもらった。王の料理人が魚を料理しようとすると、調理場の壁から乙女が出てきて、魚を黒こげにし、壁の中に消えて行った。王は不思議に思い、漁師から湖の場所を聞き、調査に出かけたところ、湖の畔の宮殿に住む故マームード王の子であるマサウダ王に出会った。以前、マサウダ王は、妻が黒人と浮気しているところを見つけ、黒人を殺そうとしたが、逆に妻の魔法にかかり、下半身を石にされて動けなくなり、国民は魚にされ、国は湖にされていた。王は話を聞くと、黒人を殺し、黒人のふりをして、マサウダ王の妻に魔法を解くように命じ、魔法が解けると女を殺した。王には子供がいなかったので、マサウダ王を養子にして、都に帰り幸せに暮らした。
ユダヤの伝承「王様に愛された花」
シクラメンの花言葉は「遠慮」「気後れ」「内気」「はにかみ」
この花をヘブライ語で「ラケフェット」と呼び、また「ネゼル・シュロモー(ソロモンの王冠)」というニックネームを持っている。それには、ソロモンに関わる逸話が起因していると言われている。
『偉大なソロモン王は、自分の王冠を作るときに花のデザインをあしらいたいと思っていました。
彼は万物と会話ができる力を得られる指輪を持っていたので、あらゆる花にお願いするのですが断られて、気落ちしている王に「元気をだして」と言葉をかけたのがシクラメンだと言われます。
ソロモン王はその優しいシクラメンを気にいり、私の王冠にとシクラメンに頼みました。シクラメンは静かにうなずきました。しかし、本当はとても嬉しかったのですが、恥ずかしくて顔を上げることが出来ず、それ以来シクラメンの花は、うつむきかげんになったのでした。』
花言葉の由来や、イスラエルではシクラメンが国花となっているのは、ここから起因していると思われる。また、この伝承にはいくつかバリエーションがあるとされている。
ソロモンの鉱山
ソロモン王の鉱山は、エルドラド(黄金郷)が16世紀の新世界にスペインのコンキスタドールたちをいざなったように、19世紀アフリカにヨーロッパの探険家たちを誘い寄せた。
とりわけ人々の想像力をかき立てたのは、かつてグレート・ジンバブエ遺跡と名付けられた廃墟の近く、チマニマニ山脈にソロモン王の鉱山があり、そこで働く鉱山労働者たちに宿りと庇護を与えていたのではないかという説だった。だとすれば、と当時の人々は考えた。聖書に登場する伝説の王ソロモンが貴金属や宝石を掘り出した鉱脈が見つかるのではないか? 以後数十年というもの
冒険家や一攫千金を夢見る人々が伝説の鉱山を探したが、誰一人それを見つけることはできなかった。
ルネサンス後には、『旧約聖書』中に登場するシバ王国の首都オフィールへの関心が高まり、ポルトガル人はアフリカの奥地にソロモン王の鉱山が存在するという情報をいくらかもたらした。モノモタパと呼ばれる王がオフィールを支配するといわれ、富と権力を有する王の伝説はプレスター・ジョン伝説や黄金郷エル・ドラードの伝説と同列に置かれていた。1560年に宣教師ゴンサーロ・ダ・シルヴェイラが訪れた当時のモノモタパ王国の首都はファロと呼ばれる山の上に位置しており、オフィールと似たファロという地名が伝説の信憑性を高める一因になったとも言われる。
オフィールが南アフリカのモノモタパ王国にあるという説は、16世紀のポルトガル人によるソファラの後背地の探検の動機の一つともなった。1514年からのアントニオ・フェルナンデスの探検を皮切りに、彼が持ち帰ったモノモタパの国やソロモン王の財宝の情報を手がかりに、多くの探検者がザンベジ川をさかのぼった。
後述のソロモン諸島の探索・発見と合わせ、大航海時代から帝国主義の時代における
秘宝伝説が広く人口に膾炙していた事を窺わせる。
オフィール
オフィルOphirは
旧約聖書で金の産地として語られる地名。ソロモンの時代に金,象牙,サル,孔雀,白檀の木などをこの地から運び出したという (列王紀上9・28,10・11) 。
東アフリカ,東方,アビシニア (エチオピア) ,アラビアと諸説があるが確定できない。
伝承上の説話ではあるものの上記のインド・ケララ州の伝説と合わせソロモンの交易ルートが
非常に広範にわたっていたことを示す伝えであると言える。
エチオピア建国神話
エチオピアは紀元前10世紀のシバの女王とソロモン王の子、メネリク1世を伝承上の国家の起源としている。旧約聖書の列王記によれば、エチオピア(もしくはイエメン)とされる「南の土地」はシバの女王によって統治されていた。シバの女王は美と才知を兼ね備えた女王だったが、二十歳となった折に同じく評判の高かったエルサレムの王の元へ訪れ、駆け引きの末に二人は惹かれあい、ついにシバの女王は子を宿すに至った。
だが、女王は母国の統治を投げ出すこともできず、帰国を選択する。こうして帰国後に生まれた子供がメネリク1世であり、成人したメネリクは父のソロモン王を訪問し、対面を果たしたあとは多数のユダヤ人をエチオピアに招いた。
この伝承を確立したのは、紀元前5世紀頃に建国されたアクスム王国の王室と、1270年にエチオピア帝国を建国したイクノ・アムラクだった
両者は正当性を主張するため、ともにメネリク1世直系の子孫と名乗る。特に後者のイクノ・アムラクは国内の安定のために正当性を確立する必要があり、エチオピアの古事記とも言うべき「国王頌栄(ケブレ・ネガスト)」を編纂させた。
王から編纂を命じられた家臣のイシャクはエチオピア帝国を「ソロモン王朝」とするために新約聖書、旧約聖書、コーラン、そしてアクスム王国時代から残るアラビア語文献とアレキサンドリア図書館のコプト語の文献を中心にしてシバの女王とソロモン王の子であるメネリク1世からイクノ・アムラクへと続く系譜を、アムダ・セヨン1世の代に作り上げた。その伝説を裏付ける史跡は未だ発見されていないが、エチオピア北部のゴンダルに住んでいたベータ・イスラエルと呼ばれるユダヤ人の集団は、メネリク1世がソロモン王との対面を済ませて帰国する際に同行した人々の末裔だと伝えられている。
彼らは1974年のエチオピア革命後の中央革命捜査局による迫害からイスラエル政府によって救出される まで、エチオピア国内で陶磁器の商いを営んでいた。これらの経緯により、エチオピア皇室を象徴する紋章はソロモン王を由来とする五芒星となっており、エチオピア連邦民主共和国の国章や国旗もそれにちなむ形となった。
円卓の騎士ガラハッドの聖杯探索
アーサー王の城で聖杯の幻影が姿を現すようになり、アーサー王は聖杯を見つけ出すべく、円卓の騎士たちに命じるが誰もが失敗に終わっていく。そんな中、遂にガラハッドに白羽の矢が立つのだった。
ガラハッドは旅路で「白い盾」「ソロモン王の船」「ダビデ王の剣」「血を流す聖槍」等々、数々の聖遺物を手に入れ、それらの助けを借りて遂にカルボネックに至って聖杯に到達した。
ダビデの剣は「ソロモン王の船」に存在した伝説の剣で、船の持ち主であるペレス王さえ鞘から抜くことの叶わない剣だった。ガラハッドはこの剣を船で見つけ、見事鞘から引き抜いて己が物とした。
セファー・ラジエール
天使ラジエルは神の玉座を取り囲むカーテンの中に立ち、全てを見聞きする。ゆえに他の天使達の知らない地上と天界の全ての秘密を知り尽くしており、その宇宙の神秘についての知識を一冊にまとめた書物、「ラジエルの書」を常に携えていたという。
ラジエルの書は、始めは楽園を追放されたアダムに与えられた。が、それに嫉妬した天使達が、ラジエルの書を奪い取って海に捨ててしまった。 神の命を受けたラハブによって回収され、
アダムの手に戻ったという。
そして遥か後に、この書物はダビデを介し、ソロモン王に引き継がれた。
書物はソロモンに大いなる魔術を与え、『ソロモンの鍵』と呼ばれる数冊の魔術書を書き上げた。
だが、数々の奇跡や偉業を成し遂げさせたその後「セファー・ラジエール」の原書は所在不明となる。
カバリスト達は、『セファー・ラジエール』がカバラの根本経典だったのではないかと考えている。
ニュー・アトランティス
英国の哲学者フランシス・ベーコンが書きかけていた未完の小説『ニュー・アトランティス』
において理想的な文明社会を築く島国「ベンサレム」。
ペルーから船出した主人公一行は、日本、中国を目指すが風に恵まれず、進退きわまっていた。そんな時にようやく未知の島「ベンセレム」にたどり着く。
その地における理想の学問の府をソロモンの館(Salomon's House)とベーコン卿は命名した。
ベンサレムでは遥か昔に欧州とは異なる方法で伝えられた聖書の教えが信仰されており、
プラトンの素材も含め伝統的な叡智の象徴や約束された理想郷のイメージが混交されている。
当時の大航海時代と学問の発展による
未来の学芸・科学の社会発展への願いが仮託されているとされる。
トマス・モアなどを始めとしたユートピア小説の一つに分類され、科学技術の発達した
理想郷のような世界として描かれた。
東南アジアの口伝「豆鹿と虎」
賢い豆鹿が木陰で居眠りをしていると、傍らで水牛が糞をした。
そこへ豆鹿を狙う虎が現れる。
「何してるんだ」と虎が問う。豆鹿はどう答えたらよいか思案する。
「いい匂いがするでしょ」
「それはなんだ」「ソロモン様がめしあがるお粥です。見張りをするように命じられたのです」
「うまそうだな」と、虎は食べたがる。
豆鹿は自分がここから遠ざかったら食べてもいいと言い残し、逃げる。
虎は粥(実は牛糞)をなめて初めて騙されたことを知る。
話は続く。
とぐろを巻いた蛇をソロモンの腰ベルトだと偽り、豆鹿は虎の好奇心を煽る。
偽ベルトを締めた虎は蛇に巻きつかれて死にそうになる。
さらに虎を騙す。蜂の巣をソロモンの銅鑼だと偽り、叩きたくなるようにしむけ、
銅鑼を叩いた虎は蜂に刺されてさんざんな結果となる。
こうして豆鹿は凶暴な虎を知力で度々負かした。
「豆鹿説話」はかつては口承民話であったが、現在では主に子ども用民話本としてインドネシアやマレーシアで普及している。
インドネシアの子ども百科事典には「カンチル(豆鹿)は数々の物語のな
かで非常に賢い動物として描かれており、森の王者の虎を騙し、川の王者鰐をも策略によって
負かす。悪戯者だから敵も多い」と解説されている。
またマレー半島には、鹿がワニを並ばせて川を渡る説話が存在する。
川の向こう岸に果実のなった木があるのを見つけた鹿は、向こう岸へ渡るのに『俺はソロモン王の命令によってお前たちを数えに来た。こちらから向こう岸まで一列に並びなさい』といってワニたちを並ばせた…。
東南アジアという遠隔地での伝承のためイスラム教の影響が大きいとされるが、
極めて広範にわたるソロモン伝承の歴史を感じさせる一例である。
契約の箱
神の指示を受けたモーセが選んだベツァルエルが、神の指示どおりの材料、サイズ、デザインで箱を作成し、エジプト脱出から1年後にはすでに完成していた。
アカシアの木で作られた箱は長さ130cm、幅と高さがそれぞれ80cm、装飾が施され地面に直接触れないよう、箱の下部四隅に脚が付けられている。持ち運びの際、箱に手を触れないよう二本の棒が取り付けられ、これら全てが純金で覆われている。そして箱の上部には、金の打物造りによる智天使(cherubim ケルブ)二体が乗せられた。
荒野をさまよっていた時代には祭司たちが担いで移動させていたが、ヨシュアの時代以降は、主にシロの幕屋の至聖所に安置される。サムエル(紀元前11世紀の人物)を養育した大祭司エリの時代には、ペリシテ人によって奪われるが、ペリシテ人を災厄が襲ったため、彼らはこの箱をイスラエル人に送り返す。そしてソロモン王(紀元前925年没)の時代以降は、エルサレム神殿の至聖所に安置される。
すべてのイスラエルの教師であり、主のために聖別されたレビ人に、王はこう言った。
「イスラエルの王ダビデの子ソロモンが建てた神殿に、聖なる箱を納めよ。
あなたたちはもはやそれを担う必要がない。あなたたちの神、主と
その民イスラエルに奉仕せよ。」 - 歴代誌下 35:3
エチオピアの北部、アクスムという街にある「Church of Saint Mary of Zion
(シオンのマリア教会)」。
この教会の礼拝堂には、かの有名な映画「インディージョーンズ 失われたアーク」に登場する
モーセの十戒が刻まれた「本物のアーク」が置かれていると言われる教会。
普段は「アークの番人」と呼ばれる選ばれた1人の修道士のみ、礼拝堂に入ることを許されている(彼だけが、本物のアークを見ることが出来る)だが毎年11月末にはこの教会の祭礼があり
その時に「アーク」が教会の外に持ち出される。
(一般では、オリジナルではなく、レプリカが持ち出されるとも言われている。)
上記のエチオピア伝承に絡めた異説と云える。
また日ユ同祖論ではしばしば日本の神輿と聖櫃(契約の箱、アーク)が関連付けられる。
中央アジアの伝承
スライマーン山脈
スライマーン山脈(スライマーンさんみゃく、英語:Sulaiman Mountains、ウルドゥー語/ペルシア語:کوه سليمان Koh-e Sulaimān)は、アフガニスタン南部の山脈からパキスタンのバローチスターン州北部にまたがる山脈。現地語ではクーヒ・スライマーン。
名前の由来はイスラエル王国の王ソロモン(預言者スライマーン)が訪れたとされることに由来する。全長は450km。最高頂はバローチスターン州のタフティ・スライマーンと呼ばれる地点・標高3,487mである。
スライマン=トー
スライマン=トーないしスレイマン=トーは、キルギス第二の都市オシ近郊にある山である。山の名前は「スライマーンの山」の意味で、預言者のスライマーン(ソロモン)が逗留したとされる伝説に従って18世紀に名づけられたものである。
崇拝の対象となってきた文化的景観として、2009年には、キルギスでは初めてユネスコの世界遺産リストに登録された。
かつては、イスラーム伝播以前からの伝統的な信仰にとっても、ムスリムにとっても重要な巡礼地となっていた。この山はいまなお地元のムスリムたちの崇拝の対象となっており、モスクのある最高峰への階段が設置されている。そのモスクは1510年に建設されたもので、20世紀に大規模な修復をほどこされたものである。
この山の信仰の歴史は古く、新石器時代に遡る線刻画などが刻まれた礼拝所なども残っている。
岩山はフェルガナ渓谷の平原から出し抜けに屹立しており、優れた景観とともに、地元民にとっても旅人にとっても人気の場所となっている。スライマーンは『クルアーン』における預言者の一人で、山には彼の墓とされてきた社もある。伝説によれば、頂上にあるその社に登り、聖なる岩を横切っている広場で腹ばいになると、健康な子供を授かるとされている。山の木々や茂みには無数の小さな布切れが結び付けられている。それらは訪れた人々が願掛けで結んでいったものである。
山にはソビエト連邦時代に作られた博物館もあり、出土した考古資料や歴史についての展示をしている。山腹のふもと近くは共同墓地になっている。
タフテ・ソレイマーン(ペルシア語: تخت سلیمان Takht-e Soleymān)
イラン最西部、西アーザルバーイジャーン州のタカブの近郊にあるゾロアスター教及びサーサーン朝の聖地。2003年7月3日、ユネスコの世界遺産に登録された。名称はペルシャ語で 「ソロモンの玉座」を意味する。
アッバース朝時代の歴史家タバリーが『諸使徒と諸王の歴史』で述べる宗教都市シーズ、後代のゾロアスター教文書に言及されるサーサーン朝の国家的最重要拝火壇のひとつ「アードゥル・グシュナスプ聖火」が、このタフテ・ソレイマーン遺跡であった可能性が高いと考えられている。フィールーザーバードのようなイランの多くの遺跡と同様に、ゾロアスター教の寺院、宮殿、レイアウトなどは、イスラーム建築の発展に大きな影響を与えた。
この遺跡にソレイマーン(ソロモン王)の名前がつけられた由来は、かつてソロモン王がこの土地の100mの深さのある火口湖に怪物を閉じ込めたという伝説が残っていることに求められる。また、他に火口湖跡がいくつもあり、これらの窪地は湧き水であふれている。その窪地は、ソロモン王が古の時代に作ったと言い伝えられ、現在まで至っているといわれている。4世紀には、イエスとザラスシュトラと関係のある1人のアルメニア人がまた、イスラーム時代の歴史家たちがこの湖に対して様々に伝説などを記録している。旧火口湖の側にあるゾロアスター教の寺院もこの伝説にもとづいている。
考古学調査では、タフテ・ソレイマーン遺跡には紀元前5世紀のハカーマニシュ朝や後期パルティアの住居なども周辺から多数発見されているが、その他にもサーサーン朝の王が刻まれている硬貨やビザンツ帝国皇帝のテオドシウス2世の硬貨も見つかっている。伝説によると、サーサーン朝の歴代の君主たちは王位を受ける前にタフテ・ソレイマーンを訪問し、火をささげたと言う。
テンプル騎士団とフリーメイソン
テンプル騎士団(テンプルきしだん)は、中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会。
正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち(ラテン語: Pauperes commilitones Christi Templique Solomonici)」であり、日本語では「神殿騎士団」や「聖堂騎士団」などとも呼ばれる。
テンプル騎士団の歴史は第1回十字軍の成功にさかのぼる。第1回十字軍は聖地の占領に成功したものの、十字軍参加者の殆どは聖地奪還に満足して帰国してしまい、中東地域に残されたキリスト教勢力(十字軍国家)は不安定なものであった。この事に憂慮して聖地の守護を唱えたフランスの貴族、ユーグ・ド・パイヤンのもとに9人の騎士たちが集まり、聖地への巡礼者を保護するという目的で活動を開始し、すでに活動していた聖ヨハネ騎士団修道会の例にならって聖アウグスチノ修道会の会則を守って生活するという誓いを立てた。エルサレム王国のボードゥアン2世は彼らの宿舎の用地として神殿の丘を与えた。神殿の丘にはもともとソロモン王のつくったエルサレム神殿があったという伝承があった。このことから会の名称「テンプル騎士団」が生まれることになる。
アル=アクサー・モスク
テンプル騎士団初期の本部、エルサレムの神殿の丘にある。元の神殿の遺構の上にたてられたため、十字軍はその神殿を「ソロモン王のエルサレム神殿」と呼んだ。「テンプル騎士団」の名はこの「神殿(temple)」から取られた。
多くの団体が自らの出自をテンプル騎士団と結びつけることで、その神秘性を高めようとしてきた歴史もある。著名なものはフリーメイソンで、彼らは19世紀に入ってから神殿の図が入った紋章を使い始め、自らのルーツをテンプル騎士団と結び付けようとした。代表的な伝説は、騎士団がロバート・ブルース支配下のスコットランドで存続したというもので、ここからスコットランド儀礼のフリーメイソン団やフランスを中心とするジャコバイト系フリーメイソン団、諸々のオカルト系フリーメイソン団が生まれた。現在もダ・ヴィンチ・コードなど多くのフィクション作品において、テンプル騎士団の神秘的なイメージは利用されつづけている。
フリーメイソンのヒラム伝説
フリーメイソンでは、青銅職人のヒラムは単なる青銅職人ではなく、エルサレム神殿建築を指揮した親方とされている。
ある時、ヒラム(ヒラム・アビフ)の技の秘密を無理矢理聞き出そうと、3人の職人(ジュベラ、ジュベロ、ジュベルム)がヒラムに迫った。ヒラムは断ったので、3人はヒラムを殺し、遺体を埋めてアカシアの葉で目印を付け、逃亡した。ヒラムの行方不明を聞いたソロモン王が、人をやって捜索させると、地面から出たアカシアの葉から、ヒラムの遺体が発見された。これが証拠となり、3人の下手人は処刑されたという。
フリーメイソンの儀式では、親方階級に昇進する際、志願者をヒラムに見立て、その殺される顛末を疑似体験させるという。しかる後、志願者は親方として“蘇生”するのだという。
テンプル騎士団にまつわる伝説は多い。伝説の多くはテンプル騎士団の最初の本部が置かれたエルサレム神殿とのつながりから生まれたものである。代表的なのが、彼らはエルサレム神殿の跡地から聖杯を、あるいは聖櫃を、あるいはイエスが架けられた十字架を発見したなどというものである。
ソロモン諸島の由来
南太平洋のメラネシアにある島嶼群であり、またその島々を国土とする国家である。ただし、地理的にはソロモン諸島に属するブーゲンビル島は、国家の領域的にはパプアニューギニアに属す。
1568年、スペイン人探検家のアルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラがヨーロッパ人として初めて渡来。ガダルカナル島で砂金を発見し、これが捜し求めていた古代イスラエルのソロモン王の財宝だと考え「ソロモン諸島」と名付けた。
1893年にイギリスの植民地となり、1900年にはドイツ領だったソロモン諸島の北部もイギリスが獲得した。同年にはコプラ産業も開始。
第二次世界大戦中の1942年、日本軍に占領されるが、アメリカ軍とのソロモン諸島の戦いではガダルカナル島が日米の激戦地(ガダルカナル島の戦い)となる。
第三次ソロモン海戦も参照。当百科事典内におけるソロモンの悪夢もこちらに関連。
神殿研究所
神殿研究所(しんでんけんきゅうじょ、מכון המקדש - The Temple Institute)は現在のイスラエルのエルサレム市で、エルサレム神殿の再建を目的として掲げて活動している非政府組織である。
神殿研究所はユダヤ教カハネ主義のラビ、イスラエル・アリエル(Yisrael Ariel)によって1987年に設立された。神殿研究所は過去に破壊されたエルサレム神殿(ソロモン第一神殿)、第二神殿に替わる、『ソロモン第三神殿』と呼ばれる神殿を神殿の丘に再建する事を目的として掲げ、そのための研究を行なっている非政府組織である。神殿の丘の上にはイスラム教の聖地である岩のドームがあり、もし実際に神殿を建築しようとするとこれが破壊される事になることから、実現の見通しは立っていない
また研究所では、神殿再建の日に備えて、祭司服や神具、あるいは古いレシピで作られたパンやオリーブ油の研究や製作も行なっているとされる。
中東和平が進展した1990年代には、ユダヤ教の研究者の中から「古代のユダヤ神殿は、岩のドームと全く同じ場所ではなく、100メートルほど離れた場所にあった。だから第三神殿は、イスラムの岩のドームのとなりに作り、2つの宗教が同じ聖地を共有する形にすべきだ」とする
パレスチナ和平にとって都合の良い新解釈も出された。だが、今のイスラエル右派はこの説を採らず「岩のドームを壊して第三神殿を作ろう」と叫びつつ「ユダヤ人以外はエルサレムから出て行け」と求めるビラを市内でまいている。 (Third intifada in pipeline: PLO official)
ユダヤ人共同体も一枚岩ではなく、集団内外でも様々な反応が見られる。
シオニズムが始まった当初、ヒレル・ツァイトリンやジョエル・テイテルバウムなど多くの宗教的ユダヤ人は、ユダヤ人か否かに関わらず、世俗的なイデオロギーであるナショナリズムには反対の立場を採り、シオニズムに対する闘争を展開した。
「エルサレムの王」の名
『コヘレトの言葉』(コヘレトのことば、ヘブライ語:קֹהֶלֶת)、あるいは『コヘレトの巻物』
(מְגִילָת קֹהֶלֶת)または『コーヘレト書』は旧約聖書の一文献で、ハメシュ・メギロット(五つの巻物)の範疇に含まれている。ハメシュ・メギロットとは旧約聖書の諸書に属する五つの書物、『コヘレトの言葉』、『雅歌』、『哀歌』、『ルツ記』、『エステル記』を指すユダヤ教の概念である。コヘレトとは「伝道者」を意味するので、『伝道の書』とも呼ばれる。
『コヘレトの言葉』は冒頭の一文により、その著者が古代イスラエル王国第三代王ソロモンであることを仄めかしている。
エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。
— 1:1
ソロモンを著者とする説は保守的な注釈家たちの間では広く受け入れられており、彼らはこの記述をもって、ソロモンが「コヘレト」という異名でも呼ばれていたと主張し、その由来を、コヘレト(קהלת)が多くの共同体(קהילות)をエルサレムに集めた(הקהיל)からであると説明している。
『箴言』(しんげん、mišlēy、Liber Proverbiorum)は、ユダヤ教では「諸書」の1つであり、キリスト教では知恵文学の1つとして『詩篇』の後に置かれる。
題名はヴルガータ訳におけるタイトル『Liber Proverbiorum』に由来する。
内容は教訓の集合で、様々な徳や不徳とその結果、日常における知恵や忠告等である。『箴言』中の格言の多くはソロモン王によって作られたとされている。これは、律法に関する五書がモーセの名で呼ばれているように、知恵文学(箴言、コヘレトの言葉、雅歌)はソロモンの名で呼ばれるからである。
西暦前717年ごろに完成された「箴言」の書には、ソロモンの書いた格言の多くが収められている。
最後の二つの章だけはソロモンではなく、ヤケの子アグル、およびレムエル王の作とされているが、
レムエルはソロモンの別名であると考える人もいる。