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江戸時代の編集履歴

2023-06-01 15:06:03 バージョン

江戸時代

えどじだい

徳川将軍家が日本を統治していた時代。1603年から1867年までの265年間。

江戸時代

日本史の時代区分のひとつ。徳川将軍家による江戸幕府日本を統治していた時代。徳川家康征夷大将軍に任命された1603年から大政奉還がされた1868年までを指す。


別名「徳川時代」。安土・桃山時代と合わせて近世と呼ばれる。黒船来航の1853年以降を特に幕末といい、幕末のみ近代に含むことがある。


島原の乱から戊辰戦争までに至る230年間大規模な武力紛争が起こらなかったという、史上稀に見る平和な時代であった(天下泰平。ただし、蝦夷地松前ではシャクシャインの戦いクナシリ・メナシの戦いという大規模な戦闘が起き、それぞれ三桁の死者を出している)。


幕藩体制

江戸時代の支配体制は徳川将軍家を頂点とし、全国の大名・幕臣たちが従う封建体制である。これを幕藩体制と呼ぶ。幕府は将軍の政庁を指し、は大名の政庁を指すが、これらはいずれも将軍や大名の家政機関であった。徳川家康が江戸に移る前から臣従していた大名を譜代、関ヶ原の戦い前後に徳川家に従った大名を外様といい、この間には差別があった。


譜代大名は老中(臨時職として大老)や城代などに任じられ、幕府政治の中枢を担う。外様大名は江戸初期には謀反を警戒され、些細な不備を咎められ改易されることも多かった(水害で被災した広島城の無断修繕を責められた福島正則など)。後に幕藩体制が安定しても、慣例として外様が幕府の要職を務めることはなかった。しかし幕末になると松前崇広のように外様でも能力が認められれば老中を務める例が出てくる。


また、徳川家の直属の臣下である旗本御家人は江戸に集められ、番方(近代陸軍でいう師団)に編成された一方、町奉行勘定奉行寺社奉行と合わせて三奉行という)などの役方をも担い、実務に当たった。


一万石以上の領知を与えられた大名は、有事の際には一つの備(軍団)を編成して軍役に当たるが、平時には領国(藩)を自由に支配することを認められた(自分仕置権)。しかし、御家騒動、無嗣断絶、幕法(武家諸法度)違反などの失態を犯せば、減転封・改易などの厳しい処置が待っていた。


徳川家の家臣である大名たちは、軍役のほかに証人(人質、多くの場合は大名の妻子)を江戸に送ること、年に一度将軍に拝謁すること(参勤交代)、また幕府の公共政策である御手伝普請、そのほか国役・諸国高役金などの上納を義務付けられていた。参勤交代に関しては、よく言われている大名財政を悪化させることで藩の実力を削ごうとしたという意図はなく、実際には将軍と大名との軍事的主従関係の確認という目的であった。いずれにしてもこれは大名家への大きな負担となり、多くの藩が財政難に悩まされた。


このように徳川将軍家は強大な権力を握っていたが、原則として大名領に直接支配を及ぼすことはなかったから、江戸時代は一種の連邦国家でもあった。特に領知高の多い大名は国持大名と呼ばれ、盛岡藩南部家・仙台伊達家・秋田藩佐竹家・米沢藩上杉家・加賀藩前田家・岡山藩池田家・広島藩浅野家・長州藩毛利家・徳島藩蜂須賀家・土佐藩山内家・佐賀藩鍋島家・熊本藩細川家・薩摩藩島津家などがこれに当たる。家門大名としては御三家(尾張・紀州・水戸)、福井藩松平家、松江藩松平家・高松藩松平家などがある。


江戸時代の文化

江戸・大坂・京の「三都」を中心に商業や流通が整備され、都市文化が栄えた時代である。元禄文化天明文化化政文化などと言われる町人主導の文化(担い手には武士など他の階層もいたが)が隆盛した。地方でも各藩の殖産興業政策によって、現代につながる地場産業や郷土料理に代表される地域独自の文化が熟成された。


儒教朱子学陽明学・古学)が奨励され、手習所を通じて庶民にも教育が普及した。さらに吉宗の時代から蘭学が本格的に学ばれ、西洋の科学知識・技術が導入されていった。ほかにも農学、暦学和算が学ばれ、日本の古典を研究する国学も興っていった。


創作での扱い

いわゆる「時代劇」で扱われるのは多くがこの時代であり、基本的に11代将軍徳川家斉が実権を握っていた文化・文政期とその前後の風俗をモチーフにしている。


ただし、江戸時代といっても長く、時代によって服装などの風俗がかなり変化している。江戸時代前期の元禄期を舞台にした『水戸黄門』や、中期の享保期を舞台にした『暴れん坊将軍』が、文化・文政期の風俗を描いているのは、時代考証的にはおかしい(もっともこの2作品に関しては、設定自体が荒唐無稽であるが...)。


時代の移り変わり

前史

後北条氏討伐後、豊臣秀吉の命によって徳川家康は東海地方から関八州へ移った。家康は江戸城を本拠と定め、江戸の都市開発に着手する。


江戸幕府の創設

秀吉の死後、石田三成らとの対立の末、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、西軍に属した大名を厳しく処分し、秀吉子飼いの大名たちも外様大名として服属させる。そして、慶長8年(1603年)に家康は将軍に任じられ、江戸幕府を開いた。


江戸には徳川家に服した諸大名の屋敷が設けられ、商人や職人たちを呼び寄せて急速に拡大した。家康は石見銀山をはじめ各地の有力金銀鉱山を接収して直轄地に収めた。江戸・駿府・京・佐渡(後には甲府)に金座、江戸・駿府・京・大坂・長崎に銀座を設け、良質の金貨・銀貨を鋳造させた。家康は計数貨幣である小判(小判1枚が「一両」である)を基軸とした貨幣制度の確立を理想としたが、小判は東日本を中心に流通し、西日本では秤量貨幣(重さで量って価値を決める)である丁銀の使用が残った。


慶長20年(1615年)の大坂夏の陣豊臣秀頼を滅ぼした家康は、名実ともに天下人となる。全国の三分の一の領土を支配した家康は絶大な権力を握り、滅ぼした大名の旧領を自身の一族である家門(親藩)と古くから仕えた譜代の家臣たちに給知した。


2代将軍・徳川秀忠は武家を統制する「武家諸法度」、朝廷公家を統制する「禁中並公家諸法度」などを発布して支配体制を確立、さらに幕閣の本多正純、豊臣恩顧大名の福島正則加藤忠広などを改易していった。


武断政治と鎖国

3代将軍・徳川家光の代には、老中・目付・大目付・六人衆(若年寄の前身)を置き幕府の諸役職を固め、武家諸法度に参勤交代を定めるなど強固な幕藩関係を構築した。外交面では、朝鮮出兵により破綻した朝鮮王朝との外交関係は対馬藩の仲介で修復され、琉球王国島津藩を通して服属させた。朝鮮・琉球に加えて、長崎を窓口に幕府が直接貿易する清朝オランダ以外との交易を禁じ、いわゆる「鎖国」体制(海禁体制)を完成させた。


大坂を拠点に北前船などの海運が整えられ、離れた地方からなどの物資が大量に移入できるようになったことから、江戸・大坂・京都の三都がさらなる大都市に発展する基盤が作られた。貨幣経済の発展に伴い銅銭の需要が急拡大したが、幕府は輸入品(あるいは民間が勝手に鋳造した私鋳銭)だった永楽銭などを通用禁止とし、代わりに寛永通宝を大量に鋳造し、流通させた。


戦国の世が完全に終わってからも、人々の心はまだ戦国時代の荒々しい気風を残していた。明日をも知れぬ人の命の価値は鳥の羽根ほどに軽く、子捨て・姥捨て・病人の放置といった行為が日常茶飯事で、町方では「婆裟羅」「傾奇者」を気取った侍や武家奉公人らによる辻斬り刃傷沙汰喧嘩強盗恐喝など、死をも恐れぬ乱暴なふるまい横行していた。幕府の威光を示すために断行された度重なる大名家の取り潰しは大量の浪人を生み出し、農民たちは厳しい年貢の取り立てに喘ぎ、社会不安はいや増した。


寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱は鎮圧に半年を要し、一揆軍・幕府軍ともに多くの死傷者を出した。寛永19年(1642年)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の諸大名・百姓の経営は大きな打撃を受ける。さらに、慶安4年(1651年)には幕政に不満をもつ軍学者・由井正雪ら多くの浪人による討幕の謀議が発覚している。


文治政治への転換と改革の試み

4代将軍徳川家綱・5代将軍徳川綱吉の代には、戦国の遺風を残す武断政治から、儒教の徳治主義の考えに基づく文治政治への転換が図られた。家綱は証人制・末期養子の禁を緩和し、綱吉は湯島聖堂を建立して儒学者の林家を取り立て、さらに生類憐れみの令を布告して捨て子や動物の殺生を禁じた。


この時期は、安土桃山時代から連続する人口の急増と大開拓の時代であり、測量や土木技術の発達を背景に、湖沼干潟などの埋め立てや干拓が盛んに行われ、低湿地の耕地化が進んだ。特に将軍のお膝元である関東平野は幕府の肝いりで利根川東遷事業/荒川西遷事業という一大プロジェクトが行われ、それまで雑木林や荒れ地、湿地帯が多かった関東平野は、江戸時代に大半が農地化した。さらに商品作物の生産が盛んな村では他所から米を購入して納税用の年貢に充てるという買納制が広まるなど、貨幣経済が農村にも浸透していく。寛文11年(1671年)に幕命を受けた江戸の商人河村瑞賢が盛岡藩や仙台藩の産米を江戸に運ぶ東廻海運と、出羽国の幕領米を大坂経由で江戸に運ぶ西廻海運を開いた。水運の整備と開拓の進展により、それまで辺境だった奥羽地方でも米の生産力が急上昇して、その経済が潤い文化の発展に繋がった。


貨幣経済の浸透・畿内の産業発展は、三都では「米価安の諸色高」という状況を招いた。武士たちは年貢米を大坂などの蔵屋敷で換金して生活必需品を購入し、あるいは参勤交代で江戸に滞在するため、米価安は死活問題であった。幕府・諸藩では財政難が深刻化し、各地で幕政・藩政改革が進められた。幕府では勘定方役人荻原重秀が貨幣悪鋳(貨幣を市中から回収して金銀配合率を下げる)を行ってその差額(改鋳益金)を収公して赤字補填に充てた。それによるインフレ元禄文化の繁栄を現出したのである。しかし、6代将軍徳川家宣のもとでの将軍侍講新井白石・側用人間部詮房の「正徳の治」は貨幣良鋳を行ったことでデフレを発生させてしまい、失敗している。またオランダとの貿易赤字による金銀流出を防ぐため海舶互市新例を布告している。


幕府及び各藩の改革で最も成功し、後世の模範とされたものが享保元年(1716年)に就任した8代将軍・徳川吉宗による「享保の改革」であった。吉宗は商品作物(菜種綿花サトウキビ)、養蚕、救荒作物(サツマイモ)などの生産を奨励した。商品作物の生産には大量の肥料が必要になるので、蝦夷地房総でとれたニシンイワシの絞りかすや人糞尿などが金を出して買う肥料(金肥)として利用された。

財政改革の一環として幕領の年貢を検見法(毎年税率を決める)から定免法(税率を一定にする)に改め、同時に貨幣悪鋳による金融緩和政策をとった。さらに参勤交代を緩和する代わりに上げ米の制を定めて、諸大名から一定の年貢を収公した。

産業奨励と倹約の二本柱で財政再建を狙ったこの改革は諸藩の藩政改革のモデルとなった。しかし、米本位の経済体制からはついに脱却できず、米価対策に悩み続けた吉宗は「米公方」ととあだ名されるようになってしまった。


ゆきづまる幕藩体制

享保までの大開発により(特に西日本では)未利用の原野がほとんどなくなり、人口増加は停滞した。排水の悪い低湿地や海沿いまでもが耕地とされたことで、水害が多発する。村落周辺の山々は過剰利用(などの燃料調達と、堆肥にするための過度の落ち葉かき)のため大半がはげ山になるなど、環境負荷は限界に達していたのである。


さらに、農村・漁村では、貨幣経済の浸透により豪農地主、網元への土地・資本が集積していき、小農民が小作人や農村雑業層に転落するなど、階層分化が進んでいった(これを資本主義への移行期と捉えることもできる)。


加えて日本近海ではロシアや欧米列強の船舶が出没し、緊張が高まった。


幕府・諸藩の財政難は続き、9代将軍徳川家重と10代将軍徳川家治に取り立てられた田沼意次は、有力商人たちに「株仲間」と呼ばれるカルテルを組織して新規参入を規制することを認める代わりに、運上・冥加を取り立てる施策を講じた。また、金貨と銀貨の為替レートの固定を狙い、計数銀貨として明和五匁銀を発行した。これはほとんど流通せず、金貨の単位である朱の単位を使った「金代り通用の銀」こと南鐐二朱銀が代わって発行され、徐々に定着していくことになる。しかし、商業資本重視の政策は下層への搾取を生み、多くの貧農が村を捨てて江戸に流出した。天明3年(1783年)の浅間山の大噴火、疫病の流行、各藩の失政(稲作の過剰な奨励や備蓄米を流用して飢餓輸出を強行するなど)が重なったことによって、「天明の大飢饉」と言われる大飢饉が発生してしまう。天明6年(1786年)の家治の死を機に、田沼は失脚した。この飢饉でも餓死者を出さなかったといわれる白河藩主・松平定信(8代将軍・徳川吉宗の孫)が老中に就任して「寛政の改革」に着手した。定信は飢饉に備えた「社倉」「義倉」による穀物備蓄、「七分積金」による福祉政策、「人足寄場」による無宿人更生など積極的な社会政策を打ち出す。また、風紀粛正と物価安定、食糧生産優先の意図で倹約令や風俗統制令を頻発した。経済政策は株仲間から運上・冥加金を取り立てる田沼の政策を継承しているが、贅沢品の流通が物価高騰の原因として商品作物の栽培を制限した。江戸は清酒や醤油、木綿など多くの物資を輸送費がかかる上方からの移入に頼っていたが、定信は物価抑制のため上方から江戸への酒の移入を厳しく制限するとともに関東産商品の品質改善を図った。この改革は幕府の財政立て直しには一定の効果を上げたものの、過度の締め付けにより文化の停滞を招いた。寛政5年(1793年)、財政問題をめぐって11代将軍徳川家斉と対立を深めた定信は失脚した。


定信失脚後も松平信明など「寛政の遺老」たちにより基本的な施政が引き継がれる。蝦夷・松前にはロシア帝国のラクスマンやレザノフが来航し、蝦夷地開発は喫緊の課題となった(寛政11年(1799年)以降、幕府は蝦夷島を松前藩から収公して直轄化している)。加えて将軍徳川家斉は天井知らずの漁色家であり、膨張する支出から幕府財政は火の車となっていった。この時代は文化14年(1817年)の信明の死で一区切りが付き、文政元年(1818年)から家斉は側用人の水野忠成を登用して幕政に当たらせ、その弛緩した施策は化政文化の最盛期をもたらした半面、腐敗、綱紀の乱れが生じ幕府財政の悪化に拍車がかかった(大御所時代)。1841年(天保12年)の家斉の死を経て、12代将軍・徳川家慶のもと老中・水野忠邦が享保・寛政の両改革を手本に「天保の改革」に取り組むが、流通の混乱と不況の悪化を招いただけであり、狙いの財政立て直しも成功しなかった。


このように幕府の改革は、旧態依然の質素倹約令で民間の活動を押さえつけようとしたことから失敗するものが多く、幕府の権威は緩やかに落ちていく。


幕末の風雲

嘉永6年(1853年)、ペリー率いる4隻のアメリカ艦隊が浦賀に来航、老中・阿部正弘はオランダから得た情報で来航を予期していたにもかかわらずほとんど対策をとることがかなわず「国書」のみを受け取り、返事は翌年に持ち越すこととなった。阿部は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に加わらない人々にも外交についての意見を求めたが、妙案はなかった。これ以降は国政を幕府単独ではなく合議制で決定しようという「公議輿論」の考えだけが広がり、結果として幕府の権威を下げることとなった。

嘉永7年(1854年)、ペリーは7隻の艦隊を率いて再来航、幕府は折衝を重ね「日米和親条約」の締結し、安政5年(1858年)には大老・井伊直弼孝明天皇の勅許を得ずに「日米通商修好条約」を締結するに至った。軍事力が圧倒的に劣ることを考えれば、幕府の外交方針はやむを得ないものであったが、「天皇の許しを得ずに条約を結んだこと」「戦いもせずに外国に屈したこと」が尊王攘夷派の怒りを買い、幕府はその対策に窮していくことになる。

大老・井伊直弼は尊王攘夷派を弾圧したが(安政の大獄)、安政7年(1860年)、江戸城・桜田門外で水戸・薩摩両藩の浪士に襲撃されて暗殺された(桜田門外の変)。

この事件以降、幕府は緩やかに衰退していく。京の都は攘夷派の志士により治安が乱れ、治安組織として新選組が創設され、会津藩主・松平容保は「京都守護職」に就いて京の治安は会津藩と新選組にゆだねられることになる。

その間、文久2年(1862年)には薩摩藩の行列を横切ったイギリス人が殺傷される「生麦事件」が起き、それが原因で「薩英戦争」が、文久3年(1863年)、文久4年(1864年)には長州藩が攘夷を実行してその報復を受ける「下関戦争」が勃発、両藩は軍備のちがいに大敗を喫した。

しかし、この敗戦は攘夷がもはや時代遅れの空論であることを両藩に知らしめ、両藩は軍備の近代化に着手することとなった。

慶応2年(1866年)、2度目の「長州征伐」を前に薩長両藩は秘密裏に同盟を締結(薩長同盟)、幕府軍は思わぬ長州軍の反撃にあい敗北を喫し、14代将軍・徳川家茂が陣中で病没したことで撤退する。

同年12月には幕府寄りだった孝明天皇が崩御、15歳の睦仁親王が即位する(明治天皇)。

慶応3年(1867年)、事態は幕府に不利になっていく。政治的に孤立を深める15代将軍・徳川慶喜は同年10月に大政奉還を決断し京を離れるが、慶応4年(1868年)1月、薩長両軍と旧幕府軍との間で戦いが起き旧幕府軍は敗北(鳥羽伏見の戦い)、慶喜はこの戦いの結果を見ることもなく江戸へと帰り寛永寺に謹慎、同年4月11日、江戸城は無血開城、明治天皇は「五箇条の御誓文」を宣布、旧暦1月1日にさかのぼって明治に改元し江戸時代は終焉を迎えた。


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