日本の時代区分の1つ。初期の律令国家時代は古代、末期の平氏政権時代は中世に当たる。中後期の王朝国家時代は中世への過渡期であり、「中古」とも呼ばれる。
概要
一般的には延暦4年(794年)に桓武天皇が平安京(現・京都)に遷都したことを始期とし、鎌倉幕府が成立するまでの平安京に政治中心があった時代を指すが、幕府成立時期について諸説あるため終期は元暦2年(1185年)、(平家滅亡と守護・地頭設置開始)から建久3年(1192年)、(源頼朝が征夷大将軍に任命される)の間で意見が分かれている。
政治
平安京建都
平安時代発端は道鏡事件混乱の中で、称徳女帝(聖武天皇の第1皇女)が後継者を残さず崩御したことに始まる(坂上康俊『律令国家の転換と日本』)。坂上によれば、奈良時代を統治した天武天皇の子孫たる皇族に代わり、藤原百川らが擁立したのは天智天皇の孫である光仁天皇であった。その後を継いだ桓武天皇は百済系帰化人の出身である高野新笠を母としており、天武系皇女であった光仁帝の皇后・井上内親王や天武系皇族出身・氷上川継といった桓武の政敵は謀反したとされて殺害あるいは追放された。またこの頃、平城京の物流を支えた難波津(現・大阪市にあった)は森林乱伐による土砂の蓄積により機能不全を起こしていた。こうして桓武天皇は、天武系政権本拠地である平城京を離れ、物流に優れた淀川流域に遷都した。この地域は側近・藤原種継と姻戚関係にあった渡来人の秦氏や桓武母方の縁者である百済王家の地盤でもあった(『律令国家の転換と日本』)。最初は長岡京に遷都がされたが、新都造営に当たっていた種継暗殺とその黒幕とされた皇太子・早良皇子を乙訓寺に幽閉し自害に追込む、新都を洪水が襲う(792年)といった悲劇が続く。桓武天皇は早良皇子の祟りを恐れて長岡京を諦め、葛野郡宇太村の地に平安京を築いた。
親政と貴族の争い
桓武天の後継者である平城天皇 - 文徳天皇時代にかけては、比較的天皇親政傾向が強く、奈良時代からの大貴族である藤原氏を始め、嵯峨源氏などの源氏、学者系橘氏や大伴氏(伴氏)等が権力を競った。しかし、文徳天皇が崩御して幼い清和天皇が即位すると、外戚・藤原良房が実質的な摂政となって権力を握り、また、応天門の変で大納言・伴善男を失脚させ、嵯峨源氏の左大臣・源信は自邸に籠ってしまうなど、良房の独り勝ちな有様となった(『律令国家の転換と日本』)(編集者注・伴善男はこの事件の黒幕とされ、源信は一時この事件の黒幕と疑われていた)。良房の後継者であった藤原基経は、光孝天皇の時に後世でいう関白の地位を得る。光孝の次に即位した宇多天皇は菅原道真らを登用し、藤原氏の力を抑えて親政を行う。しかし、次の醍醐天皇時代にかけて、阿衡事件による参議・橘広相(宇多天皇の侍講)失脚や右大臣に昇った菅原道真大宰府左遷等、藤原氏勢力はさらに強大化して行った(『律令国家の転換と日本』)。
- 阿衡事件(阿衡の紛議)…仁和3年(887年)11月、宇多天皇即位に当たって天皇の侍講を務める参議・橘広相が藤原基経を関白に任じる際に起草した勅答「よろしく阿衡の任をもって卿の任にすべし」が、文章博士・藤原佐世の解釈によれば「阿衡」とは位のみで職掌がないという意であるという。これを重く見た基経は朝廷への出仕を取りやめ、天皇と藤原氏の政治的抗争に発展。翌年6月、宇多天皇は左大臣・源融の助言により勅書を改定して収拾しようとしたが、基経は広相処罰を主張、讃岐守・菅原道真が基経に送った書簡により基経は矛を収め、事件は終結した。
摂関政治全盛期
醍醐・村上天皇時代を摂関を置かない「延喜・天暦聖代」という理想の親政時代と後年呼ぶが、歴史学的には地方政治混乱や社会秩序弛緩等から疑問視されている(朧谷寿「栄華への道」『王朝と貴族』)。藤原実頼が冷泉天皇の関白となってからは、摂政・関白が常設されるようになった。『愚管抄』は「冷泉天皇以降、天下の政は摂関の手中にあった」と述べる。しかし、摂関といえど天皇を無視して政治を行えたわけではないようだ。当時の朝廷の最高意思決定機関であった陣定は天皇の意によって開催されることが多く、その結果も天皇の裁可を必要とした(吉村武彦「平安時代の政務」『古代史の基礎知識』)。吉村がいう通り、摂関家が権力を維持するためには外戚となって天皇の意思をコントロールすることが必要であり、外戚地位を失えば(院政期の様に)その権力はたちまち失われるものであった。
安和の変で実頼が醍醐源氏の左大臣・源高明らを失脚させた後は、藤原氏に競合する貴族はいなくなる。これに代わり、藤原兼通・兼家兄弟争いや道長・伊周の伯父甥争いといった藤原氏内での熾烈な骨肉争いが続く(「栄華への道」『王朝と貴族』)。道長がこの争いに勝ち残り、娘を次々と入内させて外戚となり、内覧兼左大臣として朝廷全権を握り、藤原氏全盛期をもたらす(「栄華への道」同)。息子・頼通は、父が準備した路線に従って半世紀に渡って摂関として君臨するが、弟・教通共々外孫の親王が生まれず、外戚地位を失ってしまう(「摂関政から院政へ」『王朝と貴族』)。外戚地位を失った摂関家は、藤原摂関家と血の繋がりが薄い後三条天皇が即位して以降、天皇が親政・院政として自ら権力を握る様になると次第に衰えて行った。
こうして11世紀後半 - 12世紀半ばまでは上皇・法皇(退位した天皇)による院政、12世紀半ば - 終期までは武力・財力を独占した平家政権による政治がそれぞれ行われた。
朝廷
朝廷の政務
朝廷官僚達は案件を弁官の元に持参し、弁官の指示で書類書直しや追加がされた。その上で弁官は書類を公卿(大臣や大納言・参議ら)の元に持参して決裁を受ける。公卿の決済は初期は大内裏朝堂院で行われていたが、内裏の傍にある外記庁を経て、紫宸殿東側にある陣座で行われる様になった。天皇の最終決済が必要な際は、大臣が持参したという(以上、坂上康俊「政務処理と法」『律令国家の転換と日本』)。坂上によれば、高官は直接天皇への奏上が認められていたが、それ以外は蔵人頭(くろうどのとう)という役職が奏上を務め、高級貴族出世コースとなると共に、天皇親政の際は手足ともなった。摂関政治の最盛期に行われた陣座での審議は「陣定」とも呼ばれ、民政から軍事・人事に至る幅広い内容を扱い、参加した公卿達の意見は纏めて天皇に奏上された。これに対して、摂関の意向を踏まえた天皇の是認若しくはやり直し、変更裁断が下された(「覇権の座と摂関政治」『王朝と貴族』)。また、検非違使という軍事・警察・裁判を兼ねた治安維持機構も置かれ、これも天皇への直接奏上が認められて高級貴族の犯罪にも対処出来る様になっていた。同じく勘解由使が置かれ、国司交代に際して前任者勤務評定を審査する様になった(「政務処理と法」『律令国家の転換と日本』)。
外交・軍事
外交・軍事においては、まず、奈良時代末期の遣唐使で1つの事件が起こる。帰国した遣唐使に、唐の皇帝・代宗が送った使者の孫興進が同行していたのである。当時の日本外交は唐の律令と同じく中華思想を取り、「日本が中華であり、周りは外蕃である」としていた(坂上康俊「帝国の再編」『律令国家の転換と日本』)。坂上によれば他方、唐に対しては朝貢国の立場を取り、遣唐使にはこの立場の使い分けを命じ、唐で揉めない様に詔勅で命じた例もある。となれば、唐から使者が来れば皇帝の代理として振る舞い、天皇はこれを臣下として迎える羽目となる。時の光仁天皇は御座から降りて使者を迎えたが、これ以降の遣唐使の派遣は十数年ごとから数十年ごとへと減少して行く(「帝国の再編」『律令国家の転換と日本』)。そして寛平6年(894年)に菅原道真が遣唐使に任ぜられるも、その再検討を上奏。それ以後は遣唐使は停止されてしまった。一方で光仁天皇の頃、新羅は国内の混乱と日本の介入を恐れ、「調」を持参した使節を送って来る。即ち実質的な朝貢である。もっとも、光仁は「次は調に加えて王からの上表文を持参しないと大宰府から追返す」という詔書を渡したため、新羅との外交は途絶えてしまう。また、渤海は定期的に日本への朝貢を行ってきた。東方の蝦夷に対しては、征夷大将軍・坂上田村麻呂が胆沢城を築き、蝦夷の将・アテルイ(伝説には悪路王と同一視される)を降伏させる。その後も戦いが続くが、征夷大将軍・文室綿麻呂の頃には小康状態となる。こういった経緯で始まった平安時代の軍事では新羅や蝦夷の脅威が低下したと見なされ、諸国防衛に当たっていた律令軍団制度は放棄されることになった(「帝国の再編」『律令国家の転換と日本』)。これに代わって諸国治安維持の役割を担うようになって行くのが、この頃登場して来た「武士」である。
また、新羅混乱を避けた漂流民が度々帰化を求めて来るが、技能を有するといったメリットがないため、朝廷は追い返してしまう(坂上康俊「帝国の再編」『律令国家の転換と日本』)。坂上によれば、この頃、新羅からの海賊による被害も増加し、貞観14年(872年)には渤海使が持ち込んだという咳逆病流行による大祓が行われた。当時の『貞観儀式』追儺の祭文によれば日本国家領域外は「穢く悪き疫鬼」が住むところとされる。こうした中、天皇の清浄を守るために死刑が忌避され、天皇が京都から離れることはほとんどなくなった(坂上康俊「帝国の再編」『律令国家の転換と日本』)。また、怨霊も登場する。桓武天皇の時代には皇太子・安殿親王(後の第51代・平城天皇)体調不良や延暦19年(800年)から始まった富士山噴火(延暦の大噴火)が早良親王の祟りとされ、これを恐れた桓武は早良親王に追号を与えて「崇道天皇」とし、醍醐天皇時代からは皇族の死や天災が道真の祟りとされて、朝廷はこれらの事件に関わった者の鎮魂に追われた。こうして、奈良時代の中華思想と天皇が各地を行幸し時に外征すらした世界観に代わり、穢れた外縁や怨霊の脅威から清浄な天皇を守ろうとする同心円世界観への変化が貴族社会を覆って行った。ただし、坂上が述べているように、新羅との貿易などはその後も盛んに行われている。なお、当時の唐・宋・新羅などとの貿易中心は唐商人であり、日本人商人の国際貿易進出は平安時代末期以降のこととなる(森公章、「遣唐使の後に続くもの」『遣唐使の光芒』)。
文化
文化面でも諸国との国交衰退に伴って日本独自の国風文化が発展し、漢字を基とした「仮名文字」(「ひらがな」・「カタカナ」)が創造された(なお、「仮名文字」は決して女性のために作られた訳ではないが、平安時代以降、暫くは主に女性が使用していた)。日本人の美意識の根本はある意味この時代に形作られたともいえ、この時代を代表する紀貫之が「仮名文字」で著した『土佐日記』、紫式部が著した『源氏物語』を始めとした物語文学などが生み出された。また、清少納言が著した『枕草子』には超新星爆発(かに星雲と思われている)が記されており、「末法思想」が蔓延した平安貴族達に与えた不安と衝撃を今に伝えている。しかし、森公章の様に、遣唐使廃止後に続く民間貿易活発化と唐物(中国からの舶来品)への活発な需要から、遣唐使廃止による国風文化成立という図式への疑問も示されている(森公章、「遣唐使の後に続くもの」、同書)。
末期の遣唐使に参加した僧が、最澄・空海である。彼らはそれぞれ延暦寺を本拠地とする天台宗と東寺などを拠点とする真言宗を開いた。真言宗は密教であり除災招福の儀式すなわち加持祈祷を行えることから、天災や疫病などを穢れや怨霊のせいと恐れる朝廷から頼りにされた。天台宗も最澄の弟子である円仁らの頃には密教の側面が強まって真言宗と競ったが、同時に法華経を中心に禅や念仏等も重んじる総合仏教でもあった。穢れや怨霊に怯える貴族社会は、陰陽道台頭ももたらした。当時の貴族は、陰陽師が吉凶を占った結果に従って出仕を休む日(物忌)から日常生活までを決めている。陰陽道大成者は安倍晴明であり、泰山府君祭を導入して朝廷に定着させている。平安後期には「末法思想」が広まった。これは釈迦の入滅後2000年後に仏法が滅びるという一種の終末思想である。この頃の計算では、末法元年は西暦1052年と予想された。この頃丁度武士が台頭して世が乱れていたので、平安貴族は、暗黒時代が平安末期に訪れると信じており、諦めに似た厭世気分が蔓延して行く。この問題意識は、後の鎌倉仏教に引継がれて行った。
地方
9世紀後半頃から、律令で定めた貢納物が諸国から届かなくなって来た(吉村武彦『古代史の基礎知識』)。律令で諸国を治めたのは上から順に「守(かみ)」「介(すけ)」「掾(じょう)」「目(さかん)」に分類される官吏の組織として各国に派遣された国司である。貢納が滞れば、彼らの連帯責任となったが、逆に責任所在が曖昧となる欠点があった。そこで国司の総責任者(通常は「守」、親王が名目上の「守」となる常陸・上総・上野は「介」)を受領と呼び、貢納納入責任を集中した。受領は徴税から軍事指揮までの支配権を朝廷から一任され、強大な支配力を有する様になった。受領財物収奪は激しく、郡司や庶民が受領の非道を都に訴える事件も頻発する様になった(以上、吉村武彦『古代史の基礎知識』)。
蝦夷戦争が落ち着いた9世紀末頃より、坂東を中心に群盗蜂起が問題となった。律令制で兵士を動かすには天皇の勅許を含む面倒な手続きが必要であったため、太政官の判断で軍勢を動かせる追捕官符というものが発行される様になった。諸国には「押領使」が設置され、追捕官符を受取った受領指揮下で1国の全軍を率いて出動した。940年、平将門の乱が勃発すると坂東はほぼ完全に朝廷から独立してしまうが、藤原秀郷や平貞盛らの初期武士が押領使として活躍してこれを鎮めている。西国では同時期に藤原純友が海賊を率いて反乱を起こしている(以上、吉村武彦『古代史の基礎知識』)。
朝廷の支配地域
- 東北地方…平安初期には蝦夷討伐に坂上田村麻呂、平安中期には安倍・清原氏の内紛に源頼義・義家父子が介入した前九年・後三年の役が、平安後期 - 鎌倉初期には奥州藤原氏が支配していることから朝廷の意向は届かなかったと思われる。
- 関東・九州地方…国司。受領を繰返している下級貴族が土着化して武家による支配が始まる(関東の平将門・貞盛・藤原秀郷・九州の菊池氏など)。
- 瀬戸内海…海賊が席巻して朝廷の支配をおびやかせている。藤原純友征伐後も脅威は残っており、平清盛の父・忠盛も討伐軍を率いて出陣している。
以上のことから、朝廷の支配地域は思いの外狭く、近畿地方を中心とした限られたものと思われる。それ以外の地域は受領・国司の元で初期の武士達が支配していた。ただし、武士が有力となるには単なる武力だけではなく朝廷の権威も必要とされていた様である。例えば三浦・上総氏といった関東有力武士勢力基盤は、国衙の官職という肩書、朝廷名家の血筋たる軍事貴族の立場に依存していた(関幸彦「武士団の三類型」『武士の誕生』)
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