「我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」
──芥川龍之介『神神の微笑』
概要
海外(主に宗教や文学作品)で描かれたものが、日本でおかしな形となって受け入れられてしまうこと。あるいは、まともな形で伝わった後で原形を留めないほどに変容すること。
最たる例:クトゥルフ神話→『這いよれ!ニャル子さん』
主に近年の萌え文化に何でもかんでも取り入れてしまう日本サブカル界隈の無節操ぶりを指すが、その傾向は古くからあり、古代飛鳥時代にまで行きつく。
例えば江戸時代の文政8年に、かの有名な滝沢馬琴が著した傾城水滸伝がある。なんとこれは水滸伝の女体化パロディー小説である。また浮世絵業界でも歴史上の偉人女体化ネタが「見立て」「やつし」と呼ばれてブームになっており、ジャンルを問わずそういった傾向があったらしい。
このように日本は古来より海外からもたらされた文物を、受け入れ真似て根付かせるだけでなく、自分たちに見合ったものに作り変えたり、それまでにない新たな創作物を生み出し、大きくまたは全く異なった独自のものに発展させてきた。
料理なら、中国からラーメン(日式ラーメンとも)、インド→イギリスと続いてカレーライス、イタリアのスパゲッティからナポリタン。
また擬人化文化も江戸時代から盛んで、動物、競走馬、軍艦、重機、国家、銃器、刀剣、ウルトラ怪獣、細胞…などなどあらゆるものが擬人化され、日本の蔑称やテロリストすら可愛く萌え化してしまう。こうした驚異的かつ容赦の無い咀嚼力が、仏教伝来、鉄砲伝来、近代化、戦後復興も成し遂げた日本の歴史の根底にあると言っても過言ではない。
この傾向は昨今でも変わらない様子であり、それどころかむしろ限りなくパワーアップし続けている。
原因・背景
それらの価値観形成の根幹にあるのは、どうやらあらゆるものを受け入れる多神教信仰が常識として根付いているためのようだ…という前提で本記事は話を進める。
「お盆(一説にはヒンドゥー教)に休んだらハロウィン(ケルト)を楽しみ、クリスマス(キリスト教)に騒いで神社(神道)に初詣行って葬式に坊さん(仏教)呼びます。」
この言葉に全てが集約されている。
ちなみにクリスマスに騒ぎ始めたのは戦後からの話ではない。クリスマス会という概念は戦国時代に伝来し、江戸時代にはキリスト教禁令で一時姿を消したものの明治に入って復活し、昭和初期には既に一般化されていた文化である(昭和7年に発生した白木屋大火は、クリスマスデコレーションの電球の故障が出火原因だった)。
そもそも日本に古くから伝わる神道や仏教には「完全な善」「完全な悪」が存在しない。怨霊でさえも丁重に祀り「御霊」として神格化することでその怒りを鎮めようとした背景からも、そのことが窺えるだろう(神頼みの際に「神様仏様」なんて表現が普通に出てくるのがその表れ)。それどころか海外ではお互いに邪教徒として殺し合いまでした神々をも、同じ社に並べて崇め奉るほどである(死神、疫病神、貧乏神といった人間にとって害悪でしかないような存在までもが日本では神格を与えられている)。
「八百万の神」という言葉が示す通り、一神教で言うところの「唯一神」の概念とは畏敬の対象がかなり異なっており、超常的な存在であるなら無機物だろうが仏だろうが人だろうが関係なく「神」扱いしてきたのが、古来伝統の日本の宗教観なのである。分かりやすい一例として『女神転生シリーズ』があり、超常的存在は唯一神といった者も含めて例外なく、人間にとって存在そのものが善だろうが悪だろうが関係なく全て「悪魔」と一括りにされ、容赦なくぶっ倒したり仲間に引き入れて一緒に戦ったりできる。
そのため、実は大方の日本人が悪魔という存在を真に理解できていない。
唯一神を頂く一神教(特にアブラハムの宗教…ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が顕著)において、一切の擁護なく侮蔑され恐れられる悪徳を偶像化したものがいわゆる「悪魔」なのだが、災害(神の怒り)にガンガン襲われる災害銀座とも呼べる島国に暮らす日本人が、たかだか海外からやってきた人の悪意を偶像化した悪の権現ごときを今さら恐れるはずもなく、やはりあっさりと受け入れて神格化してしまうのだ。
そもそも上記のような一神教では、神の教えこそが絶対であり、極端な話、内容が虐殺だろうが迫害だろうが神(正確には神の代弁者=神父)の御意ならば無条件に従うのが敬虔さである。
逆に神の意志にそぐわぬ者、敵対する者は容赦なく悪者として扱われ、時代や場所によっては人間としてすら扱われない。
そうした教えのもとで生きている人々にしてみれば、他宗教の神など悪魔と何ら変わりないのだ。いまだにあちこちで宗教関連の紛争や戦争が起きているのも大方これが原因である(もっとも状況ははるかに複雑かつ政治的にはなっているが)。
また、日本でも宗教的な対立や宗教が度を超えて政治に介入したため、武力闘争の事態になった例がないわけではない。代表例としては戦国時代の一向一揆や、信長の比叡山焼き討ち、江戸時代初期の島原・天草一揆といったところだろうか。
雑に纏めてしまうと、日本人にとっての「善・悪」とはどちらも主観的な価値観のひとつで、かつ世界を構成する要素の一つであり、反対に一神教が根付く国の人々にとっての「善・悪」とは、神が定めた基準または神の意志が善、それに逆らう勢力の意志が悪で、その神に忠誠を誓えば善人、放棄すれば悪人ということになる。また、海外、とくに英語圏の創作作品では上記の考え方から、善悪は価値観と言うよりは「善=神、悪=悪魔や魔王」と実体の捉えやすいものと考えられていることも多く、善行を積むと神の祝福≒正義パワーがチャージできる、という仕組みを持った作品もある。
一方で日本人は、そもそも宗教に対する線引きがあいまいな上、良くも悪くも宗教活動という意識自体があまり無い。というより生活に溶け込み過ぎているため、わざわざ意識する必要がない。早い話、日本人の感覚では道端の石っころにさえ神様が宿っている(日本人の擬人化気質はここが起源)ため、神様は非常にありふれた存在であり、解りやすく言えばご近所さん的な地続き感覚があるのだ。ちなみにこういった感覚は日本にしか存在しないかというとそういうわけでもなく、ヒンドゥー教とかも似たような状態である。
はっきり言って、伝統的に受け継がれてきた日本人にとっての「神」という存在は「怒らせたらヤベェ奴ら」でご機嫌を取ってなだめる対象であり、「会いに行こうと思えばいつでも会える身近な存在」という意識が基本なのである。
おだてて利益を得れば感謝し、供物と言う名の報酬を与える事を惜しまない、故に人間すら神になる、これが日本古来の祭り文化の基本精神である。
もっと言うなら「それが神であるかどうか」すらぶっちゃけどうでもいい。
これのいい例が妖怪で、日本人の場合メインは妖怪の括りである河童や天狗ですら水や山の神にするし、中には鬼を祀っている神社があったりする。
当然、他国からやって来た神様に対しても括りが一緒なので扱いは全く変わらないし、場合によっては遠慮や容赦など全くしない。「私が唯一絶対の神である」と主張する他国の神様のすぐ横で「ふーん、そーすか」と興味なさげに酒を飲んでるのが日本の神様と表されることもある。無論、神道の多様性によって、変わらぬ信仰こそを後生大事にしている方々もいる。
また、日本人が宗教や神といった存在を軽んじているのかと言えばそうでもなく、むしろ厳しい。宗教施設(自国に土着している神社・仏閣はもちろん、教会やモスクに至るまでよっぽどのカルト系でもなければ宗教施設全般)に破壊活動を行うと、一般的な日本人は祟りが怖いので「なんて罰当たりなことを!」と非難する。
「ただの建築物である、バチもクソもない」という完全に宗教に傾倒していない人間との決定的な差は、ここにあるといっていいだろう。
しかし、中には宗教に無頓着すぎるあまり悪質なカルト教団に騙され、悲劇を生んでしまった事例も存在する。
もうひとつの傾向
宗教観と並んで価値観のデタラメっぷりを加速させているのが言語体系であると言える。
世界でも珍しい表意・表音文字併用言語であり、しかも表音文字も一般的な形態だけで2種類ある。このためにラテン文字言語体系における子音子「l」と「r」の区別がつきにくいという欠点はあるものの、ほぼ世界において日本人に発音できない単語は存在しない……と思っている日本人が多いが、実際はその逆。文字で正規表現できる音が100前後しかなく、他の言語と比較すると極端に少ない(例えば英語の音は3000前後と言われている)。
ところが、日本語は大和言葉(古来の日本語)の他にも、多数の外国語の影響を受けている。しかし、文字は大和言葉に合わせて開発されてきたため、このあたりの訛りを厳密な正規表現だけで表現することができない。
このため、発音に関してはかなりいい加減で、もともと表音文字のはずの仮名が時代によって全く違う音だったりする。結果として近現代にあっては表記に困るととりあえず文字同士を組み合わせたり、記号でも何でも使って力技で表記してしまうのが当たり前の思考になってしまっている。
- What time is it now? (今何時?) → 掘ったイモいじんな
- Князь Суворов (クニャージスヴォーロフ、ロシアのバルチック艦隊旗艦) → 国オヤジ座ろう
- Can you ski? (スキーできる?) → 巨乳好き?
- English → イギリス
- España → イスパニア(エスパーニャ)
そのため外来語の導入が非常に容易……というよりいい加減に導入してしまうため、文化的に影響の強い中国を除いたとしてもそれ以外の外来語を抜きで会話するのは事実上不可能な状態になっている。
挙句、上記の通り「勝手に漢字を当てる(タチの悪い事に漢字は無駄に多いため意味に合う漢字があるし、昔に限るが勝手に漢字を作り始めることすらあった)」ことで、勝手に「日本語」を作り上げてしまうのである。
英語などは、戦前はイギリス、戦後はアメリカ合衆国と強く結びついたために日本人が使いやすそうなので作り出した英語を例に引くまでもなく、本来の発音とは別モノになっており、一部はとんでもないことに英語圏に逆輸入されるに至った。(「TSUNAMI」「WAIFU」など)
そして言葉を簡単に吸収してしまうということは、文化を簡単に吸収してしまうことと同義である。
ヨーロッパなど西洋諸国は、獲得した植民地に独自の文化や言語があった場合これらをことごとく潰して自国の文化を強要し、従わない者に対しては逮捕や拷問まで行なっていた。そのおかげで現在までに絶滅した言語の数は計り知れない。
実際、明治初期の日本もそんな西洋列強を参考にしていただけに北海道のアイヌや沖縄の琉球民族に対してかなり強引に日本文化を押し付けた過去がある。アイヌ語も話者が激減し今となっては絶滅危惧の言語である。ところがそんな中、やはり日本人である、文化の吸収も少なからず見られた。
例えば北海道の地名は
といったふうにアイヌ語をもとに半ば強引に当て字を当てて地名としたものがほとんどを占める。言語だけではない。もともとアイヌが崇めていた神々を奉る神社なんかも普通にあったりする。これが西洋なら悪魔呼ばわりされて排除の対象になっていたところだ。
こうして日本は外から新しくやってきた文化に対して何の抵抗もなく引き入れて改良を重ね、それすらも日本の文化の一つと位置づけてきたのである。
そのため、日本の文化はどの様式が日本本来のものなのかを分類するのがもはや不可能。日本での主食である米も大陸から渡来してきたものだし、中国から儒教や仏教をいただき、南蛮渡来のカステラや金平糖(しかも本国では一旦廃れて技術が途絶えたために職人が日本にわざわざ研修しにくる)を作り、文明開化と同時に牛鍋をつつき、戦後はロックンロールを流しながらハンバーガーを食べ、メモ帳一つで秘伝のウィスキーを模倣して自家製にするなど雑食にも程がある。
しかも、言葉を改造してしまうことで分かる通り魔改造が十八番であるため、原型を逸脱した日本独特の存在になってしまうものもある。
- 代表的な例
と、もはや枚挙にいとまがない。
更に日本語には同義語が途轍もなく多い。例えばたった一年を表すだけでも西暦、和暦、干支、皇紀といったように複数の表し方がある(実際に中国や韓国ではもう元号が使われていない)。他の大体の単語も和語、外来語、どちらで表しても伝わるだろう。外来語や新しい概念が入ってきてもなお旧来の言葉を使い続けややこしくする、もうメチャクチャである。
一方で文法はファジーなところが見受けられるものの、実は世界的にも硬い体系を持っている。
これはコンピュータに理解させるために開発された言語「Mind」 →Wikipediaの記事 が日本人にとってコードだけで何やってるか理解しやすいという点に現れている。
これにより複雑な事象をより安易に文章で表現できる。
日本人が外国語の習得を苦手とするのは主に文法のほうに由来する。
日常会話はともかく、正規表現を使えば必ず伝わるのが日本語だが、日本語と同じような文法の言語は世界的に見てもトルコ語やドイツ語、韓国語ぐらいしかないのだ。(最も韓国語は日本語と同じ文法なのに文字が異様に少ない事で識字による意思疎通が非常に難しく、誤字脱字が多くなりやすい)
このため、外国語を習得しようとすると大体の日本人が文法で蹴っ躓く。英語などは真剣に文法通りの会話をするより、テキトーに単語を並べて会話している人のほうが外国人に出会って慌てなかったりする(出川イングリッシュが近い例で、向こうの人も馬鹿ではないので単語さえわかれば自分で補完して理解してくれることが多い)。
例えば日本人も外国人に「カワゴエ サンチョウメ ◯◯ ドコ?」と聞かれれば「川越の3丁目にある◯◯に行きたがってるんだな」と理解できるのと同じで、外国人に時間を尋ねようとハチャメチャな文法を使って混乱させるくらいなら単純に「what's time?」などと言ってしまえば「時間を聞きたがっているな」と判断して教えてくれるだろうし、写真を見せながら人(he、she)をこれ(This)とピンポイントに指差してwhere?(ドコ?)と聞けば「今指差している人を探しているのかな」と分かってくれる(本国の人間がwhere?を「誰?」とか訳すわけないし)のである。
日本人が見つけた結果
本来は悪徳の化身として描かれていたはずのサキュバス(夢魔)やダークエルフ(黒エルフ、自然と共に生きるエルフと違い、悪魔や魔王と共謀し私利私欲に走る)などの受容と変容が挙げられる(黒エルフは本来ドワーフを意味するとの説もある)。
日本人の感性では、そもそも根幹の「無条件に悪徳であること」が受け入れられない(理解できない)ので、それらをなんとか解釈しようと「なんで悪と決め付けて迫害するのか?」「世界を構成する一要素が失われては世界が滅ぶのでは?」「子作りって悪なの?度を弁えればめでたいことでは?(姦淫を悪と断定するのはおかしいのでは?そもそも子供を産まないと人類が滅ぶのでは?)」「大体迫害するならなんで神様はそんなものを作ったの?」「そもそも正義とは何?」「押し付けた正義は正義なのか?」「正義のためならなんだって許されるならそれはむしろ悪では?」といった感じで深読みから始めてしまう傾向にある。
結果的に考えるのが面倒になり「エッチな事が専門の悪魔=サキュバス」「俗っぽい自分勝手なエルフ=ダークエルフ」等と勝手に定義し、「サキュバスなのにエッチな事が苦手」、「自然共生が行き過ぎて却って他者の害になるエルフと適当が故融通が利くダークエルフ」等、場合によってはその定義すら放り投げて例外なくネタにするため、外国人に困惑される事例が多数。
このような定義は結局「基本的な形」でしかなく、好き勝手なアレンジが得意な日本人からすれば「ノリが全て」でしかないのである。
要は楽しけりゃなんでもいいのだ。
そのせいで解釈違いがどうのと言ったところで、本家本元からすれば「どっちも間違ってる」という事でわちゃわちゃしたりするのだが。
ちなみに自国発祥のものに対してももちろん容赦なんてするわけはなく、それ自体は以前からあったものの世界中に伝播するパンデミックを起こしたのがこれ。「駆逐艦をハイエースしてダンケダンケ」とか2013年以前だったら確実に頭のおかしい人である。
もっともこのジャンル自体は昭和初期にはあったのだが。ちなみに同時期の元同盟国は違うジャンルでやらかしていたりする。
と、ここまで書いてみたものの、このような「海外の文化を自国の文化にアレンジして取り入れる」ことが必ずしも日本の専売特許という訳ではない。
文化的・地理的に日本にこのような傾向が強いのは間違いないが、海外は海外でその国の文化風俗によって、日本では想像もつかないようなアレンジを生んでいたりする。
ハワイのスパムムスビ、パラオのウドン、台湾のカレー、柔術がブラジルに持ち込まれた事で独自進化したブラジリアン柔術などなど…。
最近の傾向
我々の先祖は昔からたくましく、その例として有名なのがアクの強いごぼうを食べようとしたことである。最初はあのような代物を誰が食べようとしたのだろうか…。
ごぼう
海外から見たごぼうの印象は凄まじく悪く、世界大戦中に農民が善意で負傷した敵国の兵士にごぼう入りの食事を提供したところ、戦争裁判にて訴えられかけたことがあったくらいである。(「見た目が貧相だからってなんだ!美味いんだぞ牛蒡!」という弁護にもなってない弁護や大喜びでパクつく日本兵を見せて説き伏せたとかなんとか)
彼岸花
彼岸花の球根には猛毒が含まれているがその魅力に惹かれた命知らずの日本人は球根を美味しく食べようと試行錯誤した。そして遂に猛毒の球根は「水に一晩中つけておくと良質なタンパク質が含まれる食べ物」に変身し、家庭に出される料理の材料の一部へと変貌した。
どんだけ飢えてたんだよ。もう終わりだよこの国。
フグ
フグ食の文化は縄文時代に遡る、もちろんそのままフグを食べた人は死んだだろう、だがたまたま可食部だけを食べて生き延びた人もいるだろう、普通ならもう一生フグなんて食べようだなんて思わないはずだ、しかし美味しかったのだろう、どうすれば安全にフグを食べられるか(数多の犠牲を払いながら)研究することとなった、そしてフグの可食部と不可食部を見分けることが可能となった、しかし江戸時代になるとフグ食が禁止された、それでも食って死んだバカは「将軍のために戦で使うはずの命を食い意地で失った愚か者」としてお家取りつぶしにするほどであった。
だが、明治時代になるとかの有名な伊藤博文がフグ食を再び可能とした、(大臣が来るけどシケで魚がない!何も振る舞えないのは名折れだ!仕方ない、罰される覚悟でフグを出す!→美味いじゃん、え禁止なの?勿体無いよ解禁!という流れ)よくやった。
そしてこのフグ本体よりも、「ここが毒と判明したのにもかかわらず」何故食べようと思ったのか分からないフグの卵巣の漬けという食べ物があり、こちらはなぜ毒が抜けるのか分かっていない時に直感だけで正解ルートを(もちろん多大な犠牲を出しながら)引き当てた。つまりは
- 「この魚美味そう」→食べる→毒によって死亡
- 「でもどうにかして食べたい…そうだ!」
- 「毒になっているところを切除しよう」→多大な犠牲を出しながら卵巣が毒と断定
- 「卵巣抜きのフグは美味い!でも切除が難しいな」
- 「身があれだけ美味いんだから毒の卵巣だって美味いはず」→卵巣を丸ごと食べる→卵巣の毒により死亡
- 「でもどうにかして食べたい…そうだ!」
- 「酒に漬けよう」→食べる→毒によって死亡
- 「砂糖に漬けよう」→食べる→毒によって死亡
- 「食塩に漬けよう」→食べる→毒によって死亡
- 「食塩に漬けて1年待とう」→食べる→毒が残っていて死亡
- 「塩漬けで2年漬け込んで、その後に糠とか麹で半年~1年程度漬けこんで食べよう」→食べる→「大丈夫だ、美味い」
…ということである。
同じように言われるのはナマコだが、あれは見た目がヤバいだけで味はイケるので、ファーストペンギンが美味しいと言えばただの食わず嫌いである。
しかし、フグは明確に猛毒であり、実際に何人も死に、かつ「ここを食べると死ぬ」と判明しているのである。
何故わざわざその毒部を食べようと考えたのか?
他にも食べるものはあったろうに、そこまでの危険を冒してまで食べる価値をどこに見出していたのか?
彼らの発想はどうなっていたのだろうか…。今もなお解毒の原理はよくわかっていない。
日本に見つかった結果
漫画・アニメ
ゲーム
音楽
- caramelldansen → ウッーウッーウマウマ(゚∀゚)
- IevanPolkka ※初音ミクの爆発的ヒットのきっかけとなった。
- Dragostea Din Tei
- サタニックメタル → 聖飢魔Ⅱ
- ゴシックメタル → ヴィジュアル系/V系
- めざせモスクワ → もすかう
映画・ドラマ
神・精霊
その他この世に存在する神・精霊の類全て
アパレル
競走馬
その他
偉人
萌化された偉人を挙げればキリがない
関連項目
SCP_Foundation SCP-835-JP(消照闇子)
謎の惨殺現象をSCP財団日本支部によって「萌え化」することで無力化されたSCP。
対義語:勘違い日本(逆に海外の視点からの「どこかが間違っている」日本。代表例としてフジヤマ、ニンジャ、ヤクザなど、中国と混同したであろう「超高層ビルの最上階に何故かあるヤクザの事務所」等はお決まり)。