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豊臣秀吉

とよとみひでよし

室町時代末 - 安土桃山時代にかけての戦国大名。庶民から身を起こして戦国の世の日本を平定し、天下人となった。羽柴秀吉とも呼称される。
目次 [非表示]
  • 1 概要
  • 2 生涯
  • 2.1 織田政権初期
  • 2.1.1 参照:「三木の干殺し」
  • 2.1.2 参照:「鳥取の飢え殺し」
  • 2.2 天下人への第1歩、中国大返しの「羽柴筑前守秀吉」
  • 2.2.1 参照:「高松城の水攻め」
  • 2.2.2 参照:「山崎の戦い」
  • 2.3 清洲会議から織田家主導権争いである賤ヶ岳の戦いへ
  • 2.3.1 参照:「賤ヶ岳の戦い」
  • 2.4 両雄並び立たず、小牧・長久手の戦い
  • 2.4.1 参照:「小牧・長久手の戦い」
  • 2.5 関白への第1歩、紀州征伐
  • 2.5.1 参照:「第二次紀州征伐」
  • 2.6 関白への第2歩、「内大臣秀吉」の四国征伐
  • 2.7 豊臣秀吉誕生と九州征伐
  • 2.8 小田原征伐と天下統一
  • 2.8.1 朝鮮出兵
  • 2.8.2 参照:「朝鮮出兵」
  • 2.8.3 秀次事件
  • 2.9 天下人の最期
  • 3 人物
  • 4 創作作品における豊臣秀吉
  • 4.1 個別記事あり
  • 4.2 『信長の野望』シリーズ
  • 4.3 『太閤立志伝』シリーズ
  • 4.4 『へうげもの』
  • 4.5 『戦国ARMORS』
  • 4.6 『殿といっしょ』
  • 4.7 『ザ・ドラえもんズスペシャル』(羽柴秀吉)
  • 4.8 『歴史大戦ゲッテンカ』(モンキー秀吉)
  • 4.9 『信長の忍び』(木下秀吉)
  • 4.10 『ラヴヘブン』(羽柴秀吉)
  • 4.11 『半妖の夜叉姫』(木下藤吉郎)
  • 4.12 『戦国大戦』
  • 4.13 『首』
  • 4.14 NHK大河ドラマ
  • 4.14.1 太閤記(1965年)・黄金の日日(1978年)
  • 4.14.2 天と地と(1969年)
  • 4.14.3 春の坂道(1971年)
  • 4.14.4 国盗り物語(1973年)
  • 4.14.5 おんな太閤記(1981年)
  • 4.14.6 徳川家康(1983年)
  • 4.14.7 独眼竜政宗(1987年)
  • 4.14.8 春日局(1989年)
  • 4.14.9 信長_KING_OF_ZIPANGU(1992年)・琉球の風_DRAGON_SPIRIT(1993年)
  • 4.14.10 秀吉(1996年)
  • 4.14.11 利家とまつ~加賀百万石物語~(2002年)
  • 4.14.12 功名が辻(2006年)
  • 4.14.13 天地人(2009年)
  • 4.14.14 江〜姫たちの戦国〜(2011年))
  • 4.14.15 軍師官兵衛(2014年)
  • 4.14.16 真田丸(2016年)
  • 4.14.17 麒麟がくる(2020年)
  • 4.14.18 どうする家康(2023年)
  • 4.14.19 豊臣兄弟!(2026年)
  • 5 関連タグ
  • 露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢


    概要編集

    生没年天文5年(1536年) - 慶長3年8月18日(1598年9月18日)
    出身不明(後述)
    幼名日吉丸(諸説あり)

    出自定かならぬ身分から身を起こし、戦国大名となった「戦国一の出世頭」。本能寺の変にて主君・織田信長が横死した後、政権を奪取し、天下統一した。一介の庶民から全国の支配者にまでのし上がった、日本史上唯一の人物である(庶民出身の戦国大名は、秀吉の他には実弟・秀長、遠縁に当たる加藤清正などごく少ない)。

    また、姓「豊臣」は正親町天皇から賜姓されたものな為、どちらかい言うと称号に当たり、現在でも「羽柴秀吉」という名前が用いられる書籍も存在する。


    生涯編集

    織田政権初期編集

    足軽若しくは百姓の子として、天文5年(1536年)または天文6年(1537年)、尾張国愛知郡中村郷中中村(現・名古屋市中村区)で木下弥右衛門・なか(後の大政所)の子として生まれたとされるが明確なものではない。

    幼名とされる「日吉丸」の名は後世に創作されたものと思われ、信憑性は非常に低い。


    ある時期から「木下藤吉郎」と名乗り天文23年(1554年)頃、信長に仕官したとされる。永禄4年(1561年)、織田家家臣浅野氏の娘・ねね(「おね」とも)と結婚。

    また、この若き日に出会った前田利家とは生涯を通じた友人であったともいわれる。


    信長上洛後、近江の小谷城の戦いで活躍し、戦功として小谷城と近辺の領地を預けられる。尚、この際に地名を「長浜」に、自身の名を「羽柴藤吉郎秀吉」と改めている。


    武田家陣代である武田勝頼と正面衝突した長篠の戦い(天正3年(1575年))や、この後越前一向一揆と上杉家と一向一揆の双方との戦争にも従軍している。しかし。原因は定かでないが、この際重大な軍務違反である無断帰陣を行い、長浜に帰城。信長から大いに叱責されている。


    そして秀吉は毛利家に備えるため、播磨国へと出兵。別所長治荒木村重離反も相次いだが苦難の末、播磨平定を終える。


    参照:「三木の干殺し編集


    三木城開城で東の憂いが断たれた秀吉は、続く因幡国対毛利戦で吉川経家が入る鳥取城を完全封鎖。此処に鳥取の飢え殺しが行われ、鳥取城は僅か4ヶ月で降伏開城することととなる。


    参照:「鳥取の飢え殺し編集


    しかし、羽衣石城の南条元続が吉川元春に圧されて後退する最中、村上水軍も総動員した毛利家総攻撃の前に損害を嫌って秀吉は、天正9年(1581年)後半には備前国、並びに備中国から退却する決定を下す。


    天下人への第1歩、中国大返しの「羽柴筑前守秀吉」編集

    後退した戦線を巻き返すため、秀吉は天正10年(1582年)3月、2万の軍勢で備前国に再侵攻。破竹の勢いで戦勝を重ねて行き、備中高松城に籠城する勇将・清水宗治攻略に着手。

    城を水攻めによって水没させると、毛利輝元は遂に織田家と和睦を決意。しかしこの交渉の最中、天正10年(1582年)6月、本能寺の変で主君・信長が光秀の謀反により横死、その事実を知った秀吉は直ちに毛利氏と講和を締結させると即座に撤退を開始。信長を討った光秀討伐に兵を向けた。


    参照:「高松城の水攻め編集


    備中高松城の戦いで毛利氏と手早く講和交渉を纏めると、秀吉は疾風の如く馬首を返し京都へと進軍、山崎(摂津国山城国の国境)で光秀を討ち果たすことに成功する。後にこの迅速な撤退行動は中国大返しと呼び習わされる様になった。


    参照:「山崎の戦い編集


    清洲会議から織田家主導権争いである賤ヶ岳の戦い編集

    前述の通り光秀を山崎の地で主君の敵を討つが、織田家家督を相続していた信長の嫡男・信忠までもが自刃したことより、早急に織田家後継者を決定するための会議が清洲城で開催されることとなった。これを後に「清洲会議」と呼ぶ。

    重臣・柴田勝家は信長の3男・信孝を後継者として推していたが、秀吉は当時3歳であった信忠の長男・三法師(後の秀信)を後継者として推薦。織田家重臣・丹羽長秀もこれに同調して三法師を織田家当主とすることが決定する。この頃から主君であった信長の仇を討ち、信長の4男・秀勝を養子に迎え入れていた秀吉の権力が増大して行く。


    秀吉はさらに信長の次男・信雄、重臣・丹羽長秀らと共に、越前を領する柴田の後援を得た信長の3男でもある岐阜城主・信孝との対立を深める。冬を待って秀吉は信孝と勝家を分断、天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳において勝家・滝川一益らを破って勝利を収めると勝家は居城・北ノ庄城で自刃、一益は降伏の上隠居、降伏した信孝を切腹させた。この戦いは便宜上、信雄・信孝兄弟の争いという名目で決着が付いたが、秀吉本人はますます織田家内で権力を強めた。


    参照:「賤ヶ岳の戦い編集


    両雄並び立たず、小牧・長久手の戦い編集

    賤ヶ岳の戦い後、秀吉と信雄の対立が表面化する。信雄は、当時5ヶ国の太守であった徳川家康の協力を取付けると、家中の親・秀吉派家老を粛清。これをキッカケに小牧・長久手の戦いが勃発した。

    しかし、この小牧・長久手の戦いは先の賤ヶ岳の戦いとは異なって秀吉が譲歩した形での和睦となり、信雄・家康連合軍の善戦と四国九州の状況から引出された譲歩は後の日本史に多大な影響を及ぼすこととなる。なお、この和睦交渉中、秀吉は朝廷から従五位下左近権少将に任官し、これ以後、かつての主家・織田家を上回る官職を受けることとなった。


    天正12年(1584年)11月21日、秀吉は官位を従三位に改められて、晴れて公卿に任ぜられるのである。この時点で秀吉は、信長の孫・三法師や信雄よりも官位が上となった。


    参照:「小牧・長久手の戦い編集


    関白への第1歩、紀州征伐編集

    天正11年(1583年)には大阪城築城を開始。天正14年(1586年)に天守閣が完成。同年、秀吉に謁見した大友宗麟はこの城を眼前にして驚愕の余り「三国無双の城である」と讃えている。

    明くる年の天正13年(1585年)3月10日、正二位内大臣に叙位。3月21日、先の小牧・長久手の戦いで敵側に付いた紀伊諸勢力平定を行い、全体を統治下に置いた。


    参照:「第二次紀州征伐編集


    関白への第2歩、「内大臣秀吉」の四国征伐編集

    小牧・長久手の戦いで秀吉に反旗を翻した内の1組織である紀州諸勢力を平定すると、今度は四国長宗我部元親に矛先を向けた。


    秀吉は四国にも自身の手で出兵を試みるがこの頃、秀吉は病を患っていたことによって四国征伐については総大将として弟・秀長が着任し総動員兵力10万、加えて毛利輝元小早川隆景宇喜多秀家といった各地の大名も動員した凄まじい規模の軍団は5月4日、進攻を開始。7月25日、元親は降伏開城した。


    豊臣秀吉誕生と九州征伐編集

    さて、この四国征伐が行われていた頃、朝廷では秀吉の官職をどうするか侃々諤々とした論争が為されていたが(関白相論)、最終的には秀吉が前関白である五摂家近衛前久の猶子となることによって天正13年(1585年)7月11日、秀吉は関白に任ぜられることとなる。


    この過程で新たに「豊臣」という姓が創設され、天正14年(1586年)9月9日、下賜される。ここに天下人・豊臣秀吉が誕生する。


    その頃九州では大友氏・龍造寺氏を下した島津義久が勢力を大きく伸ばし、島津に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めて来ていた。関白となった秀吉は島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令(後の惣無事令第1号)を発したが九州攻略を優勢に進めていた島津氏はこれを無視し、秀吉は九州に攻め入ることとなる。天正15年(1587年)には秀吉自ら弟・秀長と共に20万の大軍を率い、九州に本格的に侵攻し、島津軍を圧倒。島津義久を降伏させた。


    小田原征伐と天下統一編集

    天正17年(1588年)、側室・淀殿との間に長男・鶴松が産まれ、後継者に指名。同年、後北条氏家臣により真田家の名胡桃城が奪取されたことをキッカケとして、秀吉は天正18年(1589年)に関東へ遠征、後北条氏本拠・小田原城を包囲した。

    3か月の篭城戦の後に後北条氏は降伏した。第4代当主・北条氏政とその弟・氏照は切腹、第5代当主・氏直、氏政の弟・氏規は紀伊の高野山に追放された。小田原城を包囲中に、伊達政宗ら東北の大名も秀吉に恭順の意を示した。これによって、名実共に秀吉の天下統一事業が完遂された。


    朝鮮出兵編集

    甥・秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、太閤(前関白の尊称)と呼ばれる様になるも、同年2月には政治顧問ともいえる茶頭千利休も切腹させている。

    秀吉が利休を切腹させた理由は未だ分かっていないが、一説では豊臣家家臣だけでなく自身が警戒している家康や政宗とも親交を持っている利休の存在が、豊臣政権の脅威となると思い込んだ結果、この様な決定を下したのではないかといわれている。

    また、実際に利休は武器を集めており、これを秀吉の配下が「(徳川との繋がりのことも)謀反の疑いあり」と報告し秀吉が直接問い質したところ、利休は「殿下がそう思われるならそうでしょうな」と否定しなかったため、謀反の疑いを放置は出来ず切腹させる他なかった、という意見もある。

    後年、秀吉は利休の死を惜しむ言葉を残していた。


    文禄・慶長の役となった文禄元年(1592年)、秀吉は明征服のため朝鮮王朝に服属を要求。拒絶されると朝鮮屈伏を目指して肥前国(佐賀)の名護屋に城を築くと、3月に宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した。

    当初こそ日本軍は朝鮮軍を圧倒したが明の援軍、民衆による義勇軍が抵抗の兵を挙げると戦況は膠着し始め、文禄2年(1593年)、明との間に講和交渉が開始されたが、秀吉も明も自らが勝ち、相手が負けたとの思惑から交渉は決裂。慶長2年(1597年)、小早川秀秋を元帥として14万の軍勢を朝鮮に派兵した。

    秀吉は蔚山に城砦を築き、そこを拠点として朝鮮を征服する計画を立て、自らも海を渡る計画を立てていた。しかし、翌慶長3年(1598年)6月に秀吉が死去すると、五大老筆頭格である家康の意向により日本軍は撤収、朝鮮半島を蹂躙した対外戦争は終わりを告げた。


    参照:「朝鮮出兵編集


    秀次事件編集

    明・朝鮮連合軍との戦争の真っ只中である文禄4年(1595年)7月、秀吉は関白・秀次を謀反の疑いがあるとして高野山に送ると出家させ、その上で切腹させた。 そして、三条河原において、秀次の家族及び女人らも処刑されることになり、遺児(4男1女)及び側室・侍女ら併せて39名が処刑された。

    さらに連座して秀次の家臣達も処分され、秀次の正室である菊亭晴季の娘や側室で最上義光の娘であった駒姫らも処刑された。また、秀次と親しかった秀秋も連座して切腹させられそうになっている。

    なお、この処刑の責任者は石田三成であったともいわれている(駒姫処刑に関しては最上家との関係を重視し止めようとしたともいわれているが、その時点で既に処刑は執行されていた)。

    なぜ突然秀吉が自身の後継としていた甥且つ当代の関白でもあった秀次を切腹に追い込んだのかは諸説あり今も論議されている。


    天下人の最期編集

    2度目の朝鮮出兵の最中、慶長3年(1598年)、醍醐で花見を楽しんだその年、秀吉は次男・秀頼を輝元や家康など五大老に託して内外に多数の火種を残したまま8月18日にその波乱の生涯を閉じた。

    直前に家康に秀頼のことを託したともいわれている。


    辞世の句は、

    露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢


    流民から1代で天下人にまで駆け上った人物が最期に為した句として見るには、余りに儚きに過ぎる清廉な詩である。


    秀吉の死は暫くの間は秘密とされることとなった。遺骸は伏見城内に安置され、翌慶長4年(1599年)4月13日に阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬された。


    なお、秀吉は死後朝廷から『豊国大明神』の神号を与えられ、豊国神社に祀られたことから、仏式葬儀は行われなかったという。

    生前の最終的な官位は従一位・太政大臣であるが、大正4年(1915年)に正一位が贈位されている。


    人物編集

    鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス

    といわれる程の自信家。且つ『人誑し(ひとたらし)』といわれた程に周囲の人々を惹き付ける不思議な魅力を持った人物とされている。

    家族思いであり、正室・北政所や母・大政所には健康を気遣う手紙を良く出していたと伝わる。母の大政所の臨終に間に合わなかった時にはショックの余り卒倒したという。

    後年、権力を手にしてからは華美な服装や装飾を好み、現存はしていないが、千利休に黄金の茶室を作らせたり、大規模な花見では家康や独眼竜伊達政宗に仮装させて参加させたといわれており相当な派手好きといイメージが付いている。


    織田家家中の際には「木綿藤吉」(絹の様な派手さはないが、何にでも使える便利者)と謳われた。人の心の機微に通じ人格的には難しいところのある信長と君臣が良い関係を築いており、また信長死後の天下平定の際にも(黒田官兵衛らの助力もあったが)その才は外交・調略に遺憾なく発揮された。一部では「引継いだ織田家勢力の誇示と硬軟使い分ける辺り、ある意味で信長以上にえげつない」という評価もある。


    戦国時代とはいえ、中々に残虐な行為を行っていた事が明らかとなっている。

    ただし、下記の行動に関しては、当時の倫理観や道徳観が現代とは大きく異なる事には留意したい。

    上月城での戦いでは、赤松政範が自身の首と共に降伏し、家臣の助命を願った物の毛利氏への見せしめのためか、女子供含めて皆殺しにされたとされている他、自身との血縁が明らかとなった貧困の姉妹を京に呼び寄せて処刑したりもしている(もっとも、血縁のある親族を放置しておくとあらぬことを考える者も出て来たりはするので、それを防いだともいえる)。聚楽第に秀吉を非難する落書きがされた時は、100人以上もの人間が処刑されている。秀次を切腹させたのちにも、係累の人々40名以上を全員処刑し穴の中に放り込み首塚を作ったが、『秀次悪逆』の文字が書かれており、人々からは「畜生塚」や「秀次悪逆塚」と呼ばれていたという。この時に秀次の側室となる予定であった最上義光の娘・駒姫も同様に処刑されている。この処刑は当時からしても惨いものであったで、人々からは罵声が飛んだとも。秀次正室である一の台は前大納言の娘でもあったため、北政所が助命嘆願をしたが叶わなかった。

    また、晩年の振る舞いは老害といっても差支えないような記録は多数残っており、ドラマなどでも、以前は品は無くとも明るく振舞い優雅に過ごした姿で書かれたりしていたが、近年では晩年になるに従い老いて醜悪になったり、普段は気さくで明るいが、政治になると冷徹な一面を描いたりする二面性を有していたり、強欲な面を隠しながらも明るく振舞うといった、様々な性格の秀吉が描かれている。

    一方で多数功績もあるため、簡単に推し量れない人物であるのは間違いない。


    容姿は多くの史料で小柄な色黒の猿似であったといわれ、髭が薄かったため付け髭をしていたという。

    身長は小柄という記録が多く残されており、身長は140cm半ば - 150cm程であったと思われる。

    血液型は血判状からO型であると判明している。

    ルイス・フロイスが書き残した史料では「多指症で右手の指が6本あった」「その6本の指は病気と呼ぶのが憚られる程、非常に自然にバランス良く並んでいた」とも言われている。これを裏付ける物として、今のところ利家の回想録「国祖遺言」にのみ残っている。

    醜悪な容貌とも伝わるが、その事は秀吉自身も分かっていた様で、「予は醜い顔をしており、五体も貧弱」と語ったという記述がある。


    好色で女好きであったが、出自のためか上流階級の嗜みであった男色には全く興味を示さず、派遣された美少年の小姓に女兄弟はいるかと尋ねたほど。

    側室は16名いたが、実子は少ない。秀吉と別れた後、再婚後に別の男性と子を産んだ女性もいるため、種無し説は当時からある物の、側室・南殿との間に、若いころに早世してしまったが実子が2人いたといわれているため、生来の種無しとは考え辛い。天下を取った時には50歳近い年齢になっていたので、性能力の減退も考えられる(このためか、秀頼が秀吉の実子ではないという説もある)。


    信長から「猿」と呼ばれていたことが有名であるが、当時の資料には信長が秀吉のことを猿と呼んだという記録は無く、それらの逸話は江戸時代の軍記物や太閤記によるものとされる。ただし、秀吉が猿のような顔をしていたいう資料は当時でもわずかにある為、そこから生まれた逸話なのかもしれない。なお信長が秀吉のことを「ハゲネズミ」と書いた書状は存在している。

    後世においても秀吉=猿という固定観念は非常に強く、猿顔であったり、本当に猿の姿で描かれる作品も多く(後述のゲッテンカの他、戦国毒饅頭ハンベエ、戦極姫1作目等)、時たまゴリラの様に描かれる場合がある。


    近年発見された、信長死後の1585年に秀吉が出した手紙として「わしは信長のように甘くはない」というものがある。「信長『様』」と尊称を付けずに呼び捨てにしている点や、信長を甘いと表現している点から『実は信長をそこまで尊敬していなかったのではないか』『信長よりも恐ろしい人物だった』と言われるようになっているが、実はかなり誤解がある。

    と言うのも、尊称を付けなかったことについては、当時から国主を名前のみで呼ぶ例があると言われており、当時の秀吉は官位で織田家を凌駕していた為、もはや尊称をつける立場でもなく、信長をどう思っていたのかは想像の域を出ない(関白となり信長の地位を超えた位を得たことも関係があるかもしれない)。

    そして「信長のように甘くない」とする記述に関しては、この手紙の内容に意味がある。そもそも、この手紙は家臣である脇坂安治に送られたもので、その内容は「吉の御意に違う候輩、信長の時の如く少々拘え候へとも苦しからずと空だのみし許容においてはかたがた曲事たるべく候」というもの。

    現代訳すると「俺が追放した奴を匿ってると処分するよ。もう信長の時の時代じゃないんだよ」というものになる。これだけ見ると『やっぱり秀吉の時代は信長時代よりも恐ろしいんだ。やはり秀吉は信長よりも恐ろしく冷酷だ』と感じるだろう。しかし、逆に言うと『なぜ信長は甘かったのか?』という事になる。信長の時代は尾張から始まり、最終的には天下一の勢力となるが、群雄割拠の時は当然の事、本能寺の変が起きるまで数多くの敵対勢力が健在であった。故に追放した家臣が敵対勢力に行かれると織田家の内情が漏れる事となるので、それよりは同じ家臣に匿われてる方がマシであり、もし匿った家臣を処罰することになると、その家臣も敵対勢力に寝返りかねなかったのだ。

    つまりは人情などではなく、単に「やると織田家が不利になるのでできなかっただけ」である。だが秀吉の時代になると秀吉一強が確定し、敵対勢力も軒並み平定された為、大目に見る必要がなくなったのだ。これは奉公構と呼ばれ、後の江戸時代では秀吉の時代よりも厳しくなっている。


    秀吉は信長の子息に対しても場合によっては厳しく、織田信雄には領地を没収している他、織田信孝に至っては切腹にまで追込んでいる。ただし、どちらも秀吉から手を出したというよりは、両者とも先に秀吉に喧嘩を売った末の結末である。秀吉が擁立した三法師(信長嫡孫で後の織田秀信)は秀吉から一門級の扱いを受けており、官位においても非常に厚遇されていた事から、織田家を排除しようとしていたわけではないことは確かである。


    創作作品における豊臣秀吉編集

    個別記事あり編集

    1. 戦国無双シリーズ』のキャラ。→豊臣秀吉(戦国無双)
    2. 戦国BASARAシリーズ』のキャラ。→豊臣秀吉(戦国BASARA)
    3. 戦国乙女』のキャラクター。→豊臣ヒデヨシ
    4. 境界線上のホライゾン』のキャラ。→羽柴・藤吉郎・秀吉
    5. 戦国コレクション』のキャラ。→太閤娘・豊臣秀吉
    6. Fateシリーズ』のキャラ。→豊臣秀吉(Fate)
    7. モンスターストライク』のキャラ。→豊臣秀吉(モンスト)

    信長の野望』シリーズ編集

    シリーズを通じて能力は戦闘以外は極めて高い超一流武将。政治力は長らく最大の100であった。内政官・外交官さらに軍指揮官としても1級品であり軍団長も任せられるなど木綿藤吉の渾名は伊達ではなく家臣にすれば非常に有難い存在。

    大名としての登場は当然本能寺の変以降となるが勢力は大きい上に弟の秀長に黒田官兵衛・蜂須賀正勝・石田三成・加藤清正など優秀な家臣も多く、明智家や徳川家といった強力なライバルがいる中でも難易度的にはそれ程難しくはない。

    また、秀吉に関するイベントも多く登場する。


    太閤立志伝』シリーズ編集

    秀吉の立身出世をテーマとした作品なだけあって、実質的なメインキャラといった扱い。

    能力に関しては信長の野望と大体似通った感じとなっている。

    作品によっては織田家以外の大名家に仕官したり、武士以外の道に進むことも可能。

    更には明智光秀に同調したり自ら挙兵して、信長に対して反旗を翻す事も可能。

    ⅡやⅢでは主人公の前に立ち塞がる最大のライバルになることもある。


    へうげもの編集

    (CV:江原正士

    愛嬌ある様子の反面、腹黒く冷徹に行動する。

    信長の家臣であったが、千利休に扇動されて光秀を唆して決起を促し、さらに自ら本能寺に潜入して信長を斬殺した。

    若い頃は日焼けで色黒、ヒゲが生えないのか、天下人となった後は付け髭で威厳を保っている。金ピカ趣味は終生健在で、既に悪趣味の領域。

    主人公・古田織部を通称の「佐介」と呼び続ける親しい付き合いで、秘密の共有者であり、数少ない友としている。織部から見ると孤独な男であるが、数寄者としてのセンスは乏しい。

    黄金太閤夢のまた夢

    左は関白の秀吉。右は晩年の太閤秀吉。


    戦国ARMORS編集

    ラスボス。桃山政権を掌握する太閤。

    低い身分より信長に取立てられ、1人が千兵に値する重臣級甦土無「阿修羅」を拝領する。しかし、「国内統一を果たした後に甦土無を廃棄する」と言い始めた信長に愛想を尽かし、さらに信長の考えを尊重する姿勢を見せた光秀を見限る。

    本能寺で信長を暗殺すると、その罪を光秀1人にお仕着せ、織田家を乗っ取る。瞬く間に日本を制圧すると、少しでも反抗の意志を見せた者を根こそぎ始末する暴虐な独裁者に成り下がった。

    幼い頃に受けた困窮や迫害から「力こそ全てである」という意識が強く、邪魔者である光秀に対してもその力を認めているフシはあった。

    信長が作り上げた甦土無「帝釈天」により海外にまで手を伸ばそうと目論み、その生態コアとなりうる信長の遺児・お長(架空の人物)を嫁がせようとしたが…?


    殿といっしょ編集

    秀吉様といっしょ!(左端)

    大のお笑い好きでサル顔。笑いで天下を取ることを目論んでいたらいつの間にか本当に天下を取っていた(本人・談)。とにかく「オモロいヤツがえらい!」という発想に凝り固まっており、笑いの沸点が異常にシビアなお市をなんとかしてウケさせようと四苦八苦していた(信長から「笑わせられないと斬る」といわれても「望むところですとも!!」と本気の眼をして応え半兵衛に止められていた)。

    顔が怖過ぎる蒲生氏郷のことを死ぬほど畏れている。


    ザ・ドラえもんズスペシャル』(羽柴秀吉)編集

    信長の重臣で、ズーズー弁でしゃべる田舎者。主君を討った光秀を討伐すべく中国大返しを行う最中、ヴァンパイアサイボーグに洗脳されたドラリーニョに命を狙われる。

    本来はイケメンであったが、襲撃の際負ったケガを直そうとのび太が巻いたタイム風呂敷が原因で首から上だけ猿に退化してしまった。しかし、サル顔となっても「男は顔じゃあないでござるよ」と笑い飛ばすなど、器も大きい。

    最終的にドラえもんズにより歴史改変が修正され、天下統一を果たした。


    歴史大戦ゲッテンカ』(モンキー秀吉)編集

    本名は「豊臣秀吉」。装備アイテムカード組合わせで、ゴリ秀吉に変身する。

    ゲッテンカ秀吉


    信長の忍び』(木下秀吉)編集

    CV:山口勝平(アニメ) / 小野大輔(戦国大戦)

    信長のパシリから侍大将へと出世するが、出世後もパシリ兼務。愛嬌はあるが文も武も駄目(いわゆるボケ担当)。しかし、意外性と信長に対する忠誠心は高く、ここぞという場面では勇気ある決断と行動を見せる。

    詳細は該当項目を参照。→羽柴秀吉(信長の忍び)


    後述の『戦国大戦』とまさかのコラボ。戦国数寄枠として一時期排出された。


    ラヴヘブン』(羽柴秀吉)編集

    乙女パズルゲームの攻略キャラ。初期レアリティはR。

    異世界の危機を救うために、主人公により召喚された。


    半妖の夜叉姫』(木下藤吉郎)編集

    漫画版に登場。既に織田家に任官しており、任務をこなしながら出世している。

    犬夜叉殺生丸の娘であるとわ達が「大妖怪並の妖力に並ぶ」と称する強い欲望の持ち主。


    戦国大戦編集

    若き日の姿「羽柴」名義で参戦した後、『1582 日輪本能寺より出づる』で遂に独立勢力「豊臣家」を率いて再登場を果たす。


    流石天下人だけあってそのカードは多数存在しており、

    ・最初のバージョンより存在する、自軍の大筒の前にハリボテの城を召喚する「一夜城」を計略に持つ織田家のSR「木綿藤吉 羽柴秀吉」

    ・計略「立身への采配」を持つムックの付録であるEX、「戦国大名 羽柴秀吉」(イラストは一夜城同様)

    ・計略「1本釣り」を持つ釣りバカ日誌のやまさき十三氏が描いた若き日の「お気楽家臣 木下藤吉郎」

    ・前述の漫画『信長の忍び』より参戦した「侍大将兼パシリ 木下秀吉」

    ・漫画『へうげもの』より参戦した「天下の簒奪者 羽柴秀吉」

    ・日輪ゲージによって様々な効果を得る采配「日輪の天下人」を計略に持つ豊臣家SR「黄金の天下人 豊臣秀吉」

    ・1582へのバージョンアップの際に一新されたスターターパックの中の「戦国鬼札 羽柴秀吉」(戦国鬼札版、イラストは一夜城同様)

    ・同じく戦国鬼札の「戦国鬼札 豊臣秀吉」

    ・当初はデータでのみ存在、戦国鬼札に登録することで使用可能(後にカード化)電影武将・宴「戦国一の出世人 豊臣秀吉」

    ・1590へのバージョンアップで追加された「刀狩の陣」を計略に持つ「関白 豊臣秀吉」

    ・1477へのバージョンアップで追加された「豊国の采配」を持つ「日本一の出世人 木下藤吉郎」

    その数なんと11枚。さらに全カードに二つ名が付いている。

    そのどれもがスターター以外の8枚はスーパーレア級のカードで、EXに至ってはカードの意匠こそアンコモンと同じだがムックの付録で通常排出は無い、ということで彼の優遇っぷりがよくわかる。


    群雄伝ではスターター及びSR、EXの秀吉を用いて話を進めていくのだが、真っ直ぐに立身出世を目指す姿が描かれる。半ば無理矢理前田利家に織田家への口利きをしてもらったと思ったら直後に仮にも上役にあたる利家を呼び捨てして友のように振舞ったり(歳が離れたまつと利家が祝言を挙げる際は変態呼ばわりした)するなど、どこか憎めないお調子者としての姿も散見された。


    編集

    俺が天下取ったらあいつら皆消えて貰う

    2023年11月23日に公開された北野武監督作品。北野監督がビートたけし名義で主演も兼任。

    本作主人公。織田軍の武将。

    腹に一物を抱える野心家であるが、農民上がりで武士としての価値観を一切持たない。


    NHK大河ドラマ編集

    太閤記1965年)・黄金の日日1978年編集

    どちらも緒形拳が秀吉を演じた作品で前者は初めて大河ドラマで主人公となった作品で当時新人の緒形が抜擢された。また、緒形はTBS版『徳川家康』(1988年)にも秀吉役で出演している。


    天と地と(1969年)編集

    木下藤吉郎秀吉の名前で登場。演者は浜田光夫


    春の坂道(1971年)編集

    演:2代目中村芝鶴


    国盗り物語(1973年)編集

    日吉→木下藤吉郎→羽柴秀吉の名前で登場。演者は火野正平


    おんな太閤記1981年編集

    西田敏行扮する秀吉がねね(演:佐久間良子)を呼ぶ際に用いた2人称「おかか」は流行語ともなった。


    徳川家康1983年編集

    演:武田鉄矢


    独眼竜政宗(1987年編集

    座頭市シリーズで知られる勝新太郎が演じた。戦国BASARA版秀吉の如く、穏和で人たらしといった従来の秀吉像を覆したキャスティングが話題となった。小田原に参陣した政宗との格の差が描かれるシーンは圧巻で、政宗に刀を預けて立ち小便する(「お前何ぞ脅威ですらない」といっているに等しい)、食事をしながら政宗の方を見ようともせず、高価な甲冑をこともなげに「つかわす」の一言で政宗に与えてしまうという手法でスケールの大きさを描いている。


    春日局1989年編集

    演:藤岡琢也


    信長_KING_OF_ZIPANGU1992年)・琉球の風_DRAGON_SPIRIT1993年編集

    演:仲村トオル


    秀吉1996年編集

    竹中直人によるエネルギッシュ溢れる好演が人気を博した。名台詞「心配御無用!」は流行語にもなった。以後暫くの間信長の野望シリーズなどではこの竹中直人の演じた秀吉に似た顔グラフィックが秀吉の顔グラフィックとして使用された他、後続ドラマでも「利家とまつ」で香川照之が演じた秀吉始め竹中の秀吉と似たキャラ造形が登場し続けることになった。軍師官兵衛に至っては、竹中が秀吉役として再登板している。「心配御無用!」もセルフパロディされた。


    利家とまつ~加賀百万石物語~2002年編集

    演:香川照之


    功名が辻2006年編集

    演:柄本明


    天地人2009年編集

    演:笹野高史


    江〜姫たちの戦国〜(2011年))編集

    演:岸谷五朗


    軍師官兵衛2014年編集

    再度竹中が演じた。陽気な人柄と黒木瞳演じる妻・ねねとのおしどり夫婦ぶりが人気を博した。明るい人柄であるが、女好きで度々浮気をしてはおねに叱られている。後年側室に迎えた茶々に愛情を注ぐが、彼女がねねのことを悪くいった際は「茶々、ねねのことを悪くいうのは許さぬ」と叱る程、ねねへの愛情と信頼は深い。天下人に上り詰め栄華を極めるが、後継ぎである秀頼の誕生後、老いて衰弱して行く自身への焦りから、利休・秀次を殺めるなど政治面での暴走をして行く。遂には病に倒れ、官兵衛が最後に謁見した際に「官兵衛、お主の思うような天下人になれず、済まなかった」と謝罪し、最後はねねに看取られて生涯を閉じた。


    真田丸2016年編集

    小日向文世が演じた。主役が真田信繁ということで、秀吉の馬廻衆であったにもかかわらず他の作品ではまず取り上げられなかった信繁との絡みが非常に多かった。人たらしの性格と、目的のためなら人命を顧みない冷酷な性格の両方を併せ持つ、二面性がある人物として演じられた。


    麒麟がくる2020年編集

    佐々木蔵之介が演じた。主人公・明智光秀とは対となる存在。こちらも小日向秀吉同様人たらしの性格と冷酷な性格の両方を併せ持つ、二面性がある人物として演じていたがより如才ない裏がある性格になっている。


    どうする家康2023年編集

    ムロツヨシが演じる。勝家に背中を蹴られても「蹴りたい時に蹴って下され」といって流しており、おどけた様子と異様に腰の低い様子を見せるなど、飄々とした性格と早口染みた軽妙な喋りが目立つかなりアクの強いキャラとして描かれている。また、折に触れて下ネタも交えた物言いに走ることも多く、家康からはその点も含めて良い印象を持たれていない。

    一見すれば、旧来の陽気で明るい藤吉郎(秀吉)像に回帰したかの様に見えるが、一方では信長との交渉の折に今川と織田との戦いに際して、あくまでも敗北したのは今川で松平(徳川)は勝っていたと主張する家康(当時は元康)に対し、信長が大高城を落城寸前に追込んだのも義元を誘き寄せるための罠であったという「物の見方」を得意げに示し、家康の動揺を誘い愕然とさせてもいる。このくだりからも分かる通り、前述した道化師染みた態度とは裏腹に、行動の端々には頭のキレの良さと、そこはかとない闇の深さが見え隠れしている。


    豊臣兄弟!2026年編集

    演:池松壮亮


    関連タグ編集

    歴史 日本史 英雄 神社 人神 戦国時代 安土桃山時代 戦国武将 戦国大名 大河ドラマ 大阪

    木下藤吉郎 羽柴秀吉

    織田信長 ねね 豊臣秀長 豊臣秀次 豊臣秀勝 小早川秀秋 豊臣秀頼  茶々

    織田信忠 丹羽長秀 池田恒興 前田利家 堀秀政 蒲生氏郷 織田秀勝

    柴田勝家 お市 明智光秀 徳川家康 滝川一益 織田信雄 織田信孝

    毛利輝元 伊達政宗 上杉景勝 宇喜多秀家 大友宗麟 佐竹義重

    蜂須賀正勝 竹中半兵衛 黒田官兵衛 石田三成 千利休 加藤清正 福島正則 前田慶次 足利義昭

    山内一豊 小早川隆景 真田昌幸 大谷吉継 小西行長 古田織部 島左近


    緒形拳 竹中直人(主役作品で秀吉を演じた俳優)

    高木渉ビーストウォーズメタルスで「秀吉の物真似」を披露している。ちなみに真田丸では小山田茂誠役で出演した)

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