※『艦隊これくしょん』の該当キャラクター(扶桑型ほか)については不幸艦を参照して下さい。
対義語⇒幸運艦
なお、翔鶴も不運艦と紹介されることがあるが、突出した幸運艦だった瑞鶴との対比で被害担当艦となった翔鶴が不運だと言われたのであり、実際には瑞鶴と同等の戦果を挙げている武勲艦であった。
該当艦
日本海軍
装甲空母として建造され、大日本帝国海軍の期待を担いながら第一機動部隊・第三艦隊・第一航空戦隊司令長官小沢治三郎中将の旗艦として初陣を飾ったマリアナ沖海戦で、潜水艦アルバコアの雷撃により魚雷一本命中。→衝撃で前部エレベーターが昇降中に停止。→その穴を丸太などで埋める。→魚雷で破壊されたガソリンタンクから漏れたガソリンが気化。→前部エレベーターは塞がれ、舷側扉開放、後部エレベーターを下げるなどで換気を図るも作戦続行で後部エレベーターをいつまでも下げたままにも出来ない、気化したガソリンの為に乗組員の作業もはかどらない等の理由もあり追いつかず、それどころか換気扇を全て回した結果、艦内に気化したガソリンを広げる結果に。→帰投した攻撃隊収容中に何かが引火し、装甲で上部を覆った密閉式の構造の為に爆発が上に逃げずに艦内を破壊する結果に。→1944年6月19日16時28分に沈没という不運の連鎖により、たった一発の魚雷で不沈空母と謳われながらも最期を遂げる事となった。
ミッドウェー海戦の敗北などの影響により空母に改造される事となった大和型戦艦三番艦。1944年11月19日に装甲空母として竣工し、28日13時30分に横須賀を出港して呉に回航中の29日3時16分、潜水艦アーチャーフィッシュの雷撃により魚雷四発が命中。ダメージコントロールを図るも、本艦は竣工したものの実際は未完成であり、その不備と乗組員の未熟もあり復旧作業は捗らず10時57分、就役からわずか10日で沈没するに至った。またアーチャーフィッシュは時速19ノット、信濃は20ノットで、直線で振り切るなら信濃の方が有利だったが、対潜航行運動(いわゆる「之の字運動」)を始めた結果、アーチャーフィッシュの方に寄ってしまい、さらにアーチャーフィッシュの艦長が「魚雷の深度を浅くする」という判断をして攻撃、バルジの上の装甲の薄い急所に命中。あとはお察しのとおりである……。これにより、信濃は「世界最大の空母」という栄誉と同時に「世界一短命な艦」という不名誉も一緒に背負ってしまった。
角田覚治少将の第二航空戦隊旗艦として活躍をするはずだった初陣ではガ島攻撃に向かう近藤信竹中将率いる第二艦隊に配属され1942年10月11日にトラックを出撃。僚艦である姉妹艦隼鷹と共に搭載機による前路警戒や対潜警戒、17日にはガダルカナルのヘンダーソン飛行場並びルンガ泊地の敵艦船への航空攻撃などを行ったが、20日に発電機室で火災が発生。速力が低下したため、22日に旗艦を隼鷹に変更。さらに搭載機を隼鷹に移した後、トラックへ引き返す事になった。
そのため26日の南太平洋海戦には参加できず、猛将角田提督の旗艦として本来飛鷹が得る筈だった勇名は隼鷹のものとなり、また重大な戦局にあった11月12~15日の第三次ソロモン海戦にも参加できないままトラックにて待機状態で、内地に修理のために帰還することとなる。
翌年再びトラックに進出。今度はマーシャルに向かう途中の1943年6月10日、米潜水艦トリガーの魚雷を四本受け(三発は不発)航行不能となり、更には護衛の駆逐艦夕暮を敵と誤認して損傷させ、軽巡洋艦五十鈴に曳航され横須賀に帰港。
そして念願の艦隊戦、それも空母戦としての初陣である1944年6月19日からのマリアナ沖海戦で、20日に撃沈される最期を遂げた。その折に曳航作業の失敗や消化ポンプが故障したことが沈没の要因とされる。
南太平洋海戦で勇名を馳せ、マリアナ沖海戦では煙突を失いながらも帰還し、更には戦争を生き延びた姉妹艦隼鷹とは対照的ともいえる生涯だった。
(イラストは同じ雲龍型航空母艦の葛城
雲龍型航空母艦の一番艦。
1944年8月6日に竣工。栄光ある第一機動艦隊の旗艦を一時務めるも、特攻兵器桜花、陸軍空挺部隊をマニラに輸送するという最初の出撃で12月19日に潜水艦レッドフィッシュに雷撃され、最初の魚雷命中により航行不能となり、次に命中した魚雷は当たり所が悪く、搭載していた桜花の誘爆を引き起こし沈没した。陸軍兵士が防水扉を閉めなかった事なども浸水を早めたと言われる。
ワシントン海軍軍縮条約に触れるとして廃艦となる運命であったが、コロラド級戦艦三隻とネルソン級戦艦二隻の建造を認めてまでして海軍が手に入れた軍艦であり、姉妹艦の長門と共に国民のアイドル的な存在であったが、太平洋戦争では開戦時の真珠湾攻撃より帰投する南雲機動部隊の援護やミッドウェー作戦、第二次ソロモン海戦などに参加するも敵と砲火を交える機会を得る事は出来ぬまま、1943年6月8日に停泊中の柱島にて謎の爆沈を遂げる。
世界に衝撃を与えた最上型軽巡艦(後に最上型重巡洋艦)一番艦。
1942年3月1日のバタビア沖海戦にて米重巡洋艦ヒューストン撃沈に寄与するも、その折に放った魚雷が友軍の第二号掃海艇と輸送船佐倉丸を撃沈し、第十六軍司令官今村均中将の座乗する陸軍特殊船神州丸を大破着底、陸軍病院船蓬菜丸を横転着底させる損害を与える事となる。
ミッドウェー海戦では、1942年6月5日、ミッドウェー島砲撃任務の中止で帰投中、発見した潜水艦タンバーの攻撃を避ける為の第七戦隊旗艦重巡熊野の回頭命令が上手く伝わらず僚艦の重巡三隈と衝突し艦首が潰される。その後、三隈と駆逐艦荒潮、朝潮の護衛のもとトラック島に向うも米機動部隊からの空襲により大破するが沈没は免れる。艦首が潰れ速力は出ないが、それにより抵抗が大きくなった為か舵の利きがよくなり回避行動は容易になった為とも言われる。しかし、その折に衝突被害は軽傷だった三隈は撃沈され、駆逐艦二隻も損傷した。
1944年10月25日のスリガオ海峡海戦にて艦首脳部が全滅するなど大損害を受け微速で撤退中、最上が停止していると誤解した第五艦隊旗艦重巡那智と衝突。その後、空襲により航行不能となり駆逐艦曙に雷撃処分された。
開戦当初の輸送船団護衛、通商破壊などに活躍した艦であったが、二度も友軍艦と衝突し、また味方を沈めてしまった不運な艦でもあった。
春雨型駆逐艦のネームシップ。国産により初めて建造された駆逐艦。
1902年3月1日に起工するが10月30日の晴れの進水式で直前に水中台が浮上し中断され31日にやり直す羽目になる。
日露戦争に参加。1904年10月11日に触雷し艦尾を喪失。日本海海戦の最中である1905年5月27日の深夜、駆逐艦夕霧と衝突。
1911年11月24日、横須賀から佐世保へ向かう途中、嵐を避けるために向かった的矢湾の管崎付近で座礁し沈没。64名の乗組員のうち生存者は20名だった。
なお第二次大戦で活躍した白露型駆逐艦の春雨は2代目。
樅型駆逐艦。1927年8月24日の無灯火訓練中に軽巡洋艦神通と衝突し船体を両断されて沈没した。この折に神通を回避しようとした軽巡洋艦那珂に蕨の姉妹艦葦も衝突され、第三砲塔より後部を失っている。(美保関事件)
若竹型駆逐艦四番艦。1932年12月3日、構造上の欠陥で復元性に問題がある上に物資の過積載により、荒天により沈没。
1934年6月29日に電と衝突し沈没。特型以降の駆逐艦では唯一隻太平洋戦争に参加出来なかった艦となる。一説には沈没は衝突時のダメージよりはダメージコントロールにおける乗組員の不手際の為との指摘もある。しかも電は以前の雷型駆逐艦(初代)、のちの海自の沿岸護衛艦(3代目「いなづま」)も衝突事故を起こしている。
太平洋戦争において駆逐艦『疾風』に次ぎ二番目に戦没したと言われる日本軍艦艇(しかし12月9~10日に伊70潜が戦没しており、如月は正確には三番目である)。開戦と同時に開始されたウェーク島攻略戦において、アメリカ軍戦闘機から投下された100ポンド(約45キロ)爆弾1発が命中、魚雷(爆雷)が誘爆し船体が真っ二つになり、あっけなく轟沈した。生存者は一人もいなかった。『如月』および『疾風』の轟沈は日本海軍の慢心の結果であり(数度の空襲の戦果報告からウェーク島の航空戦力は沈黙したものと判断されていた)、ミッドウェー海戦の後、転がり落ちて行くように壊滅への道をたどっていく日本海軍の末路を暗示させるものがあるとの意見もある。
(※イラストは擬人化キャラクター)
1942年9月26日、1944年6月13日の二度にわたって沈没事故を起こし多数の死者を出した「呪われた潜水艦」。3という数字にまつわる不気味な事故が多発したことで知られる。
1939年2月2日未明、豊後水道水の子灯台西方で演習中に本艦の右舷燈と艦尾燈を二隻の小型船のものと誤認した伊号第60潜水艦がその間を通過しようとしてほぼ直角の角度で衝突した為に沈没。
81名の死者を出す惨事となった。
通報艦。日本がフランスに発注し、一年ほど遅れてようやく日本に到着したばかりの1892年11月30日にイギリスの商船ラベンナ号と衝突し沈没。
1942年3月1日バタビア沖海戦で狙いの外れた最上の魚雷が命中し撃沈。マスト先端が海上より出ていた為に予備掃海艇として1945年11月30日に除籍されるまで在籍した。
日本海軍がフランスに発注した巡洋艦。1886年、フランスより回航中に南シナ海で忽然と姿を消した。畝傍は乗組員とともに喪失したと判断された。就役からわずか2ヶ月であった。畝傍はフランス艦特有の構造から荒海に弱く、おまけに日本側の意向で過大な武装を搭載したためトップヘビーと復原力不足がさらに増大しており、南シナ海で台風に遭遇し転覆・沈没したと考えられている。
幕府海軍
江戸幕府がオランダに発注して建造されたフリゲート艦でクルップ施状砲18門を備えた強力な軍艦であり、江戸幕府崩壊後、元海軍副総裁榎本武揚の旧幕府艦隊の旗艦として江戸を脱出し、北海道に徳川家の国を新たに作る為に榎本軍が松前藩と交戦中の1968年11月15日、江差で停泊中に暴風雨に遭い座礁、後日に起る箱館戦争に何ら役立つ事無く沈没する最期を遂げた。
本艦の喪失と明治政府に装甲艦甲鉄が入った事から榎本軍のシーパワーの優位は失われた。
イギリス海軍
キング・ジョージⅤ世級戦艦の二番艦。初陣のビスマルク追撃戦では未だ工員を乗せた状態のままで出撃し、デンマーク海峡海戦でビスマルクを損傷させるも、僚艦の巡洋戦艦フッドを失い、自らも大損害を受けて撤退する。この事からフッドを見捨てて逃げ出した臆病者という謂れの無い批判を受けたばかりか、疫病神という悪評もたてられたと言う。
地中海でのマルタ島への補給を行うハルバート作戦では作戦は成功するも、本艦は友軍機ニ機を誤射で撃墜。
その後、東洋艦隊の旗艦としてシンガポールに送られるが、1941年12月10日のマレー沖海戦にて左舷推進軸付近に命中した一発の魚雷により推進軸廊下の隔壁破壊。→爆発で曲がった推進軸のシャフトが艦底を叩き続け水防隔壁扉が次々と開かれる。→大量の浸水発生。→左舷軸二つ使用不能。→発電機八基中、五基が浸水で使用不能。→後部への電力供給止まり、後部の排水ポンプ・艦内電話・舵・照明・換気扇・高角砲が使用不能。→換気扇停止で機関室が排熱出来ず、倒れる機関員続出。照明なく応急隊員の活動も鈍る。速力も低下。舵使用不能で航行の自由さえ奪われる。→浸水による傾斜で電源が通じている高角砲すら使用不能と不運が連鎖して、僅か一発の魚雷でその機能をほぼ失い、もはや回避行動も碌にとれないまま、それでも頑強に耐えるも、僚艦の巡洋戦艦レパルス共々撃沈される最期を遂げた。
彼女と組んだ巡洋戦艦は沈むと言うジンクスも生んだ不幸な艦であった。
また最後の艦隊はコードネームがZ部隊であったが、Zはアルファベット最後の文字で終わりを連想させ縁起が悪いと感じた者も居たという。
戦後、残骸の一部が違法にサルベージされる。
(画像は手前のヴィクトリアに迫るキャンパーダウン)
ヴィクトリア級戦艦のネームシップ。
地中海艦隊旗艦として1893年6月22日の演習中に衝角を装備した僚艦の戦艦キャンパーダウンに衝突され司令長官ジョージ・トライオン中将と共に沈没。
衝突が起こった演習内容は間隔が充分にとれていない並列に進む二つの戦列が内側に180度回頭するというものであり、危険な行為と理解されながらもトライオン中将の命令である以上実行された末の悲劇であった。
第一海軍卿であったジョン・アーバスノット・フィッシャー提督の悲願であるバルト海侵攻の為に38㎝砲塔二基を搭載した大型軽巡洋艦として建造されたが、バルト海侵攻は実現しなかったために後に空母として改造される。1940年6月8日、ノルウェーより撤退中にドイツ巡洋戦艦シャルンホルスト、グナイゼナウの攻撃を受け、風上側にドイツ艦隊が居る為に自艦の速力で逃亡を図ったが、砲撃の激しさからか艦を風上に向け攻撃機を発鑑させようとするも飛行甲板への被弾で失敗に終わり、砲撃のみによって撃沈された世界で二隻だけの空母のうちの一隻となる最期を遂げた。
安全が確保されていない海域を駆逐艦2隻のみの護衛で航行しており、航空警戒やマストからの視認警戒も行っていなかった。
艦長が航空隊の司令官と喧嘩をした結果、他の艦に航空隊司令を軟禁した上で独断でイギリスへの最短ルートを選択したとの証言も。
フィジー級軽巡洋艦。1942年3月29日、PQ13船団護衛中にバレンツ海でドイツ海軍駆逐艦戦隊の襲撃を受ける。旗艦であるドイツ駆逐艦Z26を砲撃で大破させ、その止めに魚雷を発射したが、あまりの海水の寒さの為に魚雷の舵が異常をきたし、反転してトリニダートに命中するという余りに不運なアクシデントの為に損傷し、ムルマンスクで応急処置を受ける羽目となる。
5月13日にムルマンスクを駆逐艦四隻の護衛の元に出港し、イギリスに向うも翌日にはドイツ空軍に発見され、爆弾一発が命中して航行不能となり、15日、駆逐艦マッチレスによって雷撃処分された。
(中央が同じ21型フリゲートの
1982年のフォークランド紛争において5月23日、アルゼンチン軍のA-4の攻撃を受け、1000ポンド爆弾2発を命中される。
不発だったものの24日、除去作業に失敗し沈没。
第二次世界大戦勃発時には本国艦隊に属し、1939年9月10日の夜にノルウェー沖にて潜水艦トライトンに敵と誤認されて魚雷を二本受け撃沈された。
トライトン側は当初標的を担当エリアからはぐれたオクスレイではないかと考えたが、味方識別の発光信号にも応じない為に敵艦と判断して攻撃したものであり、悲劇の原因はオクスレイの当直の過失とされた。オクスレイの生存者は二名に過ぎなかった。
彼女は味方に撃沈されたばかりでなく、第二次世界大戦でのイギリス海軍で初めての犠牲となってしまった不幸な艦でもあった。
プリンス・アルバート、ロイヤル・ソヴリンに続いて建造された囲砲塔艦であり、航洋性を持った大口径砲搭載艦として建造された。
1870年9月7日、三度目の航海を海峡艦隊に属して従事している折、暴風雨のおさまった02時15分頃までには行方不明である事が認められた。
辛うじて脱出した17名の生存者の証言から転覆して沈没した事が判明し、復元力の不足が原因とされている。
死者の中には設計者のカウアー・コールズも含まれていた。
アメリカ合衆国海軍
ペンシルバニア級戦艦二番艦。
オクラホマ共々1941年12月8日の真珠湾攻撃で撃沈され、唯一浮揚されなかった戦艦。(オクラホマは浮揚されたものの損傷が激しかったため修理を断念)
第一戦艦戦隊司令官アイザック・C・キッド少将をはじめ1300名余りの戦死者をだした。
現在、沈没時点(浅いためアリゾナの姿がうっすらと見える)にアリゾナ記念館が建っている。
メイン級戦艦。姉妹艦は無い。
1898年2月15日、暴動に対して居留民保護の為に派遣されていたハバナにて原因不明の爆発事故を起こして沈没した。
証拠は無いにも関わらず、この事件は強行派・マスコミからスペインの仕業とされ「リメンバー・メイン」の合言葉の元、米西戦争開戦の口実とされた。
いずれもクレムソン級駆逐艦。
十四隻からなる第11駆逐艦隊に属し、演習中の1923年9月8日、カリフォルニア沿岸の難所ホンダポイントで座礁。近代以降の平時における軍艦の損失としては最悪の記録。
- トレントン(機帆走フリゲート)
- ヴァンダリア(スワタラ級機帆走スループ)
- ニプシック(砲艦)
1899年、海軍拠点に格好の地であるサモアに影響力を持とうとアメリカ・ドイツが鎬を削るなか、アピア泊地に英国軍艦一隻、独軍艦三隻と共に上記の米海軍の三隻も停泊していた3月15日に台風が来襲。
他国より先に暴風を避けるために湾を出れば自国の影響力が衰えるという面子が絡みどの艦も湾より脱出しないチキンレースの末に、結局、湾より外洋への退避を決断した英コルベット艦カライアピを除いて湾内にいた全ての軍艦が16日までには座礁した。
この人災とも言うべき災難で生き残ったカライアピだけは名声を馳せ、この時に襲来した台風はカライアピ台風とも呼ばれる。
上記のアメリカ軍艦のうちニプシックのみが復帰できた。
1943年8月28日に竣工し、公試運転を終え、10月6日にニューロンドンを出港しパナマ運河方面に向かうもそれ以後消息不明に。
マリナー飛行艇による誤爆、Uボートによる攻撃もしくは敷設した機雷と触雷、火災事故などが原因にあげられているがその残骸も未だに発見されていない。
工事の遅れにより起工から進水まで11ヶ月、その後就役まで18ヶ月かかり、就役後約1ヶ月1945年3月15日、乗組員が誤って魚雷発射管の外部ハッチを開けた状態で内部ハッチを開け沈没。引き揚げ後14年間放置された末にスクラップとして処分される。
1963年4月10日にバラストタンクの弁の氷結により浮上できず圧壊・沈没。
スキップジャック級原子力潜水艦三番艦。
1968年行方不明に、その後残骸が見つかる。
魚雷の爆発事故が原因?
ドイツ海軍
画像はアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦。
アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦二番艦。完成間もなく訓練も未熟な状態でノルウェー侵攻作戦ヴェーゼル演習に駆り出され、1940年4月9日、オスロ攻略でドレーバク水道を航行中にオスカシボルグ要塞の砲撃により航行の自由を失い、流された先にカホルム島要塞の魚雷発射管があり、その魚雷で航行不能となった後に転覆するという初陣での最期を遂げた。
第一次世界大戦後、最初の駆逐艦として就役したZ1型駆逐艦の3番艦。1939年8月、バルト海で水雷艇ティーガーに衝突し、ティーガーを沈没させてしまう。同年10月、悪天候により浸水しタービンが爆発し一時的に操艦不能となったが、どうにか17ノット発揮可能になり、帰投後キールで修理を行った。1940年2月22日ヴィーキンガー作戦中に駆逐艦隊の出撃を知らされていなかったドイツ空軍の誤爆により沈没。生存者はいなかった。
- オルガ(カローラ級機帆走コルベット)
- アドラー(砲艦)
- イーベル(砲艦)
前述の1899年3月15~16日にサモアのアピア泊地を襲った台風にて全て座礁。
オルガのみ再復帰。
スウェーデン海軍
北方の獅子王の異名をとるスウェーデン国王グスタフ・アドルフ二世により建造された64門の大砲を装備した強力な戦列艦であったが、本来は一段だった砲甲板を二段にしたためにトップヘビー気味となり1628年、ストックホルム沖で処女航海の最中に帆に受けた風によりバランスを崩して転覆し沈没する最期を遂げた.
ソビエト海軍・ロシア海軍
L型潜水艦。1942年10月11日に独ソ戦に参加すべくウラジオストックからパナマ運河経由でムルマンスクに移動中に日ソ中立条約を結んでいた日本の伊号第二十五潜水艦に米海軍の潜水艦と誤認され、攻撃され撃沈。
液体酸素でディーゼルエンジンを動かす615型(ケベック型)潜水艦。
1957年9月26日にエンジンが爆発し沈没。
658型(ホテル型)潜水艦の一番艦。
伊号第三三潜水艦と同じく、呪われた潜水艦。
原子炉事故、衝突事故、火災事故を引き起こし、ついたあだ名は“ヒロシマ”・“未亡人製造機”
627型潜水艦(ノヴェンバー型)潜水艦。
1960年10月13日に冷却剤損失による放射能漏れを起こし、1970年4月11日にオケアン70演習からの帰還途中に火災事故により沈没。
原子炉の一次冷却剤に水のかわりに鉛を使った645型潜水艦(改ノヴェンバー型)潜水艦。
1968年5月24日に原子炉が暴走する事故を起こし、その後船体ごと1981年9月6日に海洋投棄される。
629型(ゴルフ型)。
1968年に謎の失跡。後に残骸が発見される。
艦内で反乱・クーデターが起きた?
ヤンキー型原子力潜水艦。
1986年10月6日にミサイルが爆発し沈没。
設計深度1250mを誇るソ連の新型潜水艦(NATOコードネーム:マイク級)だったが1989年4月7日に火災事故により沈没。
949A型(オスカーII型)潜水艦。
2000年8月12日にバレンツ海で爆発・沈没。
バルト艦隊用として建造された前弩級戦艦であり、ドイツ帝国海軍よりも強力な火力を持つ高速で航洋性のある軍艦を目指したが、完成した本艦は航洋性に欠け、速度は目標に達せず、更に予定以上の重量増加で主要装甲帯は水没しているなどの欠陥を抱えていた。
1896年9月に演習よりクロンシュタットに帰港中、ビヨルケ=ズント海峡で暗礁で艦底を損傷するも、この時は復旧処置が効を奏してクロンシュタットに自力で帰港できたが、1897年6月12日、トイトルフ中将の旗艦としてヴィボルグ湾での演習中に海図に無い暗礁で再び艦底を損傷し、必死の復旧作業も及ばず、曳航も試みられたものの浸水が激しく傾斜は増すばかりで破棄が決定され遂に事故発生より六時間あまり後の21時49分頃に転覆した。
沈没までに時間があったために死者は一人も出なかったことは不幸中の幸いであった。
フランス海軍
- 第二次世界大戦中のフランス海軍艦艇ほぼ全て
海軍は特に戦果もないまま陸軍の敗北によりフランスは降伏。
その後ドイツにフランス軍艦艇が接収されることを恐れたイギリスに攻撃される。
以後ドイツの傀儡政権であるヴィシー政権の海軍とアメリカやイギリスの支援を受けた自由フランス海軍に別れて戦うことになる。
ヴィシー政権側の艦艇は1942年にドイツ軍に接収されそうになり、ツーロン港にて一斉自沈した(ツーロンの悲劇)。
フランス降伏後は自由フランスに所属していたが1942年2月18日に味方のアメリカの貨物船「トムソン・ライクス」に衝突されて沈没。そのまま敵国ドイツの潜水艦と間違われ停船及び救助はなされなかった。
1932年7月7日、シェルブール沖での公試運転でのエンジン試運転中にバラストタンクに原因不明の注水がされ、圧縮空気タンクも未だ取り付けられていなかった為に沈没。ルドゥタブル級潜水艦で唯一の未完成艦となった。
イタリア海軍
ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦の四番艦。
連合国へのイタリア降伏後の1943年9月9日、艦隊司令長官カルロ・ベルガミーニ大将の旗艦として連合国へ引き渡す為に艦隊を率いてマルタ島に向う途中、それを阻止せんとするドイツ空軍の攻撃を受け、誘導爆弾フリッツXを三発被弾し航行不能となり、更にダメージコントロールの失敗で火災が火薬庫に引火し爆沈を遂げた。
姉妹艦であるリットリオ(イタリア)やヴィットリオ・ヴェネトと違い敵艦と砲火を交える機会を遂に与えられず、かっての味方であるドイツに攻撃されたばかりか、実戦に投入された誘導爆弾に撃沈された最初で最後の戦艦となってしまった不運な艦であった。
コンテ・ディ・カブール級戦艦の三番艦。
1916年8月2日にタラントでの原因不明の爆発事故で沈没。
スペイン海軍
(画像はハイメ1世)
いずれもエスパーニャ級戦艦。
ネームシップのエスパーニャはリーフ戦争での支援活動中の1923年8月26日に二度目の座礁。浮揚作業に入るも翌年11月の暴風で更に破損し放棄される。
二番艦のアルフォンソ13世はスペイン第二共和政時代にエスパーニャと改名される。その後のスペイン内戦ではエスパーニャはフランコ側、三番艦のハイメ1世は人民戦線側として敵味方に別れ、エスパーニャはビルバオ封鎖中の1937年4月30日に自軍の機雷によって沈み、ハイメ1世はフランコ側の爆撃による損傷を修理中の6月17日に原因不明の爆発を起こし後に解体。人為的な妨害との説もあり。
韓国海軍
浦項級コルベットの14番艦。2010年3月26日に爆発で船体が真っ二つとなり沈没。
タイ海軍
(下は姉妹艦のトンブリ)
トンブリ級海防戦艦二番艦。
1951年6月の海軍クーデター事件で陸軍部隊の砲撃により沈没。
インド海軍
2010年に火災事故を起こし搭載機材を取り替えるも2013年8月13日にムンバイの工廠で爆発し沈没。
インドネシア海軍
船体に強化プラスチックを使ったステルスミサイル艇。進水後一カ月経った2012年9月28日に火災事故を起こし沈没。
中国人民解放軍
035型潜水艦(明型)。
2003年4月16日にエンジンが艦内の酸素を吸う事故を起こし乗組員が全滅。
後に艦本体は回収される。
不運艦二軍
(不幸な最期や、多くの不幸に見舞われた一方で武勲艦としての面があるもの、最期は非常な不運に見舞われたが全体的に見れば特別に不運な艦ではないなど)
日本海軍
日本海海戦時の旗艦の栄誉を占めたことで知られる『三笠』であるが、その後の艦歴は不幸続きで、隠れた不運艦と言える。
日本海海戦から帰還の直後、『三笠』は佐世保港で火薬庫の爆発事故を起こして沈没し、1番艦の『敷島』に旗艦を譲ったため、祝賀艦観式には参加できなくなった。1920年の尼港事件の際には砕氷艦『見島』と救援に向かったが堅氷に阻まれ入港できず、多くの在留日本人がみすみす虐殺される結果となった。 1921年、ウラジオストック沖で座礁し、再度着底する羽目になる。その後警備艦として活動を再開するも、ワシントン海軍軍縮条約に基づいて廃艦、現役に復帰できない状態にした上で記念館とすることになったため、下甲板以下が土砂で埋められて岸壁に固定され、三笠の船としての生涯はこの時点で終わった。
記念館となっていた三笠は第二次世界大戦後、アメリカ軍のダンスホールとなり、艤装が剥がされ荒廃。取り外せそうな金属類はガス切断によって全て盗まれ、マストや艦橋も失われて、ほぼ原型をとどめない状態となった。現在も船体は横須賀市の「三笠公園」に保存されてはいるものの、現在の記念艦『三笠』は、「戦艦の形をした資料館」となっており、内装には艦船としての現役時代の名残はほとんど残っていない。
松島型海防艦のネームシップ。
日清戦争では連合艦隊旗艦を務め黄海海戦では大破しながらも奮戦した。もっとも清国海軍の定遠、鎮遠に対抗すべく小さな船体に無理して積んだ32㎝単装砲は反動などが大きく役に立たなかった。
日露戦争にも参加した歴戦の武勲艦であったが1908年4月30日、練習艦隊の一艦として東南アジア、インド方面の航海の途中に寄港した台湾の馬公にて後部火薬庫の爆発により沈没した。
前述の三笠・陸奥同様に連合艦隊旗艦の栄誉を担った艦に起きた悲劇であり、また扶桑沈没の際は松島の船首のラムが扶桑の致命傷となってしまった事でも不運な艦であった。
(左が敷島型戦艦初瀬、右は富士型戦艦八島)
初瀬は第一戦隊司令官梨羽時起少将の旗艦として戦艦敷島、八島、巡洋艦笠置、通報艦龍田を率いて1904年5月15日に旅情港封鎖作戦に従事中、10時50分にロシア軍の敷設した機雷に触雷。次に11時10分に今度は八島がニ回触雷した。共に航行不能となった両艦に対し、初瀬は笠置が、八島には救援に駆けつけた巡洋艦高砂がそれぞれ曳航を始めるも、12時33分に再度触雷した初瀬は前部弾薬庫の誘爆を引き起こし二分後に沈没。
八島は浸水が激しく擱座も試みたが傾斜は酷くなるばかりであり、16時31分に横転して沈没した。
一戦も交えることなく六隻しか居ない戦艦の二隻を一日で失った事は日本海軍にとって甚大な打撃であった。だが連合艦隊司令長官東郷平八郎は動揺した素振りを微塵も見せなかったと言われる。
吉野型防護巡洋艦。日清戦争で活躍するが、日露戦争中の1904年5月15日に衝角を装備した僚艦の装甲巡洋艦春日に衝突され、沈没。
新高級防護巡洋艦のネームシップ。
日露戦争では仁川海戦、黄海海戦、日本海海戦に参加し巡洋艦スヴェトローナを撃沈し、第一次世界大戦では青島攻略に参加した武勲艦。
ニ等海防艦となりカムチャッカ半島の警備任務に従事中の1922年8月25日、オゼルナヤ沖で暴風により擱座、転覆し生存者は16名に過ぎなかった。
(※イラストは擬人化キャラクター)
(画像は同型艦の吹雪型駆逐艦)
吹雪型駆逐艦十八番艦。
数々の海戦や輸送作戦に従事した艦であるが、護衛対象の友軍艦をことごとく守りきれず、軍上層部からの非難の矛先が向けられ、また前述の最上などが航行不能になった際の雷撃処分も余儀なくされた。
さらに、どうにか生き延びマニラ湾で擱座した状態で、修理を待ったがかなわなかった・・・など、不運のオンパレードである(それでも太平洋戦争自体は生き延びている)。
4代目となる海自の「あけぼの」も建造先が竣工直後に閉鎖されたという点では不運艦ともいえる。
(画像は白露型駆逐艦)
白露型駆逐艦のネームシップ。
太平洋戦争開戦以来珊瑚海海戦、ブーゲンヴィル島沖海戦、ビアク沖海戦に参加し、輸送、船団護衛などに従事。
その間、ガダルカナルでは僚艦と共に哨戒艇、曳船各一隻を撃沈、駆逐艦一隻を撃破し、ブナではB-17の直撃弾を受け前部を大破、ブーゲンヴィル島沖海戦では舵故障の為に姉妹艦五月雨に衝突され中破、ビアク島沖海戦では僚艦と共に有力な敵水上部隊からの追撃を受け駆逐艦ハッチンスの砲弾を被弾し小破するも生還してきた歴戦の艦であった。
1944年6月15日未明、第一輸送隊の給油艦三隻を僚艦と共に護衛中に米潜水艦の魚雷を回避中に給油艦清洋丸と衝突。爆雷の誘爆を引き起こして僅か3分あまりで沈没を遂げ、104名の死者を出した惨劇だった。
(※下のイラストは
高雄型重巡洋艦3番艦(一説に4番艦)であり、第一次ソロモン海戦で第八艦隊司令長官三川軍一中将の旗艦を務めた姉妹艦の中でも屈指の戦績を誇る武勲艦。
最後の戦いとなるレイテ沖海戦でも当初は第四戦隊の他の姉妹たちが潜水艦の攻撃で撃沈破されて脱落するなか唯一隻残り、シブヤン海での空襲も潜り抜けていた。
その最期は1944年10月25日のサマール島沖海戦で航行不能になり駆逐艦藤波に乗組員を救助された後に雷撃処分されたとされ、その損傷理由として、
・米駆逐艦の砲撃で機関を損傷した
・米軍機の攻撃により戦闘不能に陥った
・追撃していたカサブランカ級航空母艦ホワイト・プレインズの38口径5インチ砲一門の反撃で砲弾が搭載していた魚雷に命中し爆発・大破(事実なら航空母艦が砲撃戦で重巡洋艦クラスの水上戦闘艦に勝利した希有な例)
などといわれてきたが、最近では
・戦艦金剛の誤射により戦闘不能に陥った
と言われる(ただ、金剛の誤射で果てた理由としては、鳥海最後の艦長が、旗艦の命令が出る前に行動してしまい、不注意で金剛の砲火を浴びたためであるとする説もあり、この場合金剛に責任はない)。
その償いのためであろうか、海自のイージス艦「こんごう」型の最終4番艦は「ちょうかい」と命名された。
前述の「あけぼの」(4代目)は「ちょうかい」の同郷の後輩。
文月他多数
海軍丁事件、いわゆる1944年2月17~18日のアメリカ機動部隊によるトラック空襲により撃沈・沈没。これで第一の真珠湾の仇を討ったアメリカ軍だが、以降も日本海軍停泊地への空襲は続き、最終的には呉・横須賀といった本国の根拠地も空襲を受け、その犠牲はトラックの犠牲の比ではなくなっていく。
上記の艦はレイテ沖海戦での第二艦隊のうち第一遊撃部隊第三部隊を構成した艦であり、指揮官である第二戦隊司令官西村祥治中将の名前から艦隊は西村艦隊と呼ばれる。
艦隊の主力であり、新たに第二艦隊に加わった第二戦隊を構成する旗艦山城と扶桑は二線級の旧式艦であり、また一度も共同演習を行った事の無い艦隊であった。
捷一号作戦においてシブヤン海から東進する戦艦4隻、重巡洋艦6隻を中心とする第一遊撃部隊第一、第二部隊、通称栗田艦隊とともにレイテ湾の戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦29隻、魚雷艇39隻からなるアメリカ艦隊を南北から挟み撃ちにする予定だったが途中で激しい空襲により栗田艦隊が独断で一旦反転したため、当初の作戦プランは崩れた。が、1944年10月25日未明に一足先にスリガオ海峡からレイテ湾へ突入する。
西村提督の意図は後からやって来る栗田艦隊のためにアメリカ軍の気を引くことであったが、単縦陣でT字態勢の優位な敵軍に突撃した事からアメリカ側では低く評価され、日本側の小沢治三郎提督の「レイテで真剣に戦ったのは西村だけだ」という後の発言に代表される好意的なものとは対照的である。
アメリカ側の計画はシンプルで、駆逐艦・魚雷艇の攻撃で突入してくる敵戦力を削った上で、湾の奥に控える戦艦・巡洋艦で止めを刺すというものであり、まず魚雷艇隊の襲撃から海戦は開始されたが、西村艦隊は無傷でこれを撃退し第一の関門を潜り抜けた。
しかし、次の駆逐艦隊の襲撃は先と同じにはいかず、扶桑、山雲、満潮が撃沈され、朝雲が脱落。旗艦山城も被雷するという甚大な損害を受ける事となった。
それでも尚も前進する艦隊に戦艦・巡洋艦の砲撃が始まり、山城は大爆発を起こし艦橋が崩壊しても戦闘を続ける奮戦の後に沈み、最上は艦橋に被弾して首脳陣が壊滅するなどの損害で大破して撤退。時雨も撤退した。
敵艦隊の追撃で朝雲が失われ、撤退中に第五艦隊旗艦の重巡洋艦那智と衝突した最上が後の空襲で航行不能となり雷撃処分され、結果艦艇は時雨を残して全滅した。
扶桑・満潮・山雲の乗員は生存者がおらず、生き残った他の艦艇の乗組員も現地の陸上部隊に組み込まれて米軍との地上戦で全滅した。
西村艦隊全滅の報は栗田艦隊にも後に伝わったが、百戦錬磨の西村提督が戦艦を率いて得意の夜戦を挑んだのだから、とその報を俄かに信じれない者が多かったという。
一方アメリカ軍側は主力であるウィリアム・ハルゼー大将の第三艦隊は主力と判断した囮である小沢提督率いる第三艦隊に引っかかり北上中であり、レイテ上陸部隊支援の第七艦隊司令長官トーマス・キンケイド中将の方はハルゼーから栗田艦隊は大損害を受けて退却したと知らされ、それでジェシー・オルデンドルフ少将の第77任務部隊第2群に全力での西村艦隊の迎撃を命じたのだが、その戦闘で弾薬を使いすぎた上に、西村艦隊に気を取られているうちにサンベルナルジノ海峡をがら空きにして栗田艦隊の突破を許すという失態を結果的に演じ、このまま予定通り栗田艦隊がレイテ湾へ突入すればオルデンドルフ艦隊は陸軍部隊ともども危うい立場に追い込まれたが、結局栗田艦隊は来なかった。
もっともオルデンドルフ艦隊はまだ一回の海戦を行うだけの砲弾・魚雷を残しており、北から急行するハルゼーの機動部隊も一部は間に合ったとも言われ、そうなるともし栗田艦隊が突入すれば全滅もあり得、どちらにせよ西村艦隊の悲劇は揺らが無かったかも知れない。
作戦立案者曰く「戦わずに沈められるより、戦って沈んだ方が良い」というやけくそな理由(この他に、軍令部総長の口約束が原因との証言あり)、天皇陛下への沖縄での作戦上奏の折に陛下から「海軍に船はないのか」という寂寥的な何気ない言葉に過剰反応した等で短期間で作戦は決定され、その急な準備の為に平電も打たれたと言う状態で沖縄に特攻し、沈没。作戦内容そのものは成功は低いと見られており、海軍内部にも反対意見が多かった。
なお作戦では戦艦大和は沖縄到着後は座礁させた上で乗員は現地の陸上部隊に組み込む予定であった。
また朝霜は途中で艦隊から落伍した上に唯一生存者がおらず、最期の詳しい様子もわかっていない。
雲龍型空母二番艦。
1944年8月10日竣工し、再編された第一航空戦隊の旗艦となるものの飛行機・燃料の不足で出撃する事無く第一航空戦隊解体後は呉鎮守府部隊配属で浮砲台となる。既に予備艦となり最低限の乗組員しかおらずダメージコントロールも満足に出来ない状態で1945年7月24日、28日の呉へのアメリカ艦載機とB-24の空襲では総計三発の直撃弾と五発の至近弾を受けつつもその日は沈まず乗り切ったが、29日朝、浸水を止める事は出来ず転覆着底した。
構造上の欠陥により、1934年3月12日の友鶴事件 で沈没。
後に引き揚げられ太平洋戦争では開戦初頭より上陸支援、船団護衛に活躍。1945年3月24日、カナ304船団を護衛中に空襲を受け沈没。生存者はいなかった。
河内型戦艦の一番艦。
第一艦隊旗艦、第二戦艦戦隊旗艦などを務め、第一次世界大戦では膠州湾封鎖作戦に参加。1918年7月12日徳山にて爆発事故を起こし沈没。
筑波型巡洋戦艦のネームシップ。
第一次世界大戦ではドイツ領南洋諸島の攻略作戦に参加。1917年1月14日、横須賀にて弾薬庫の爆発で沈没。一説には上官を怨んだ水兵の放火説あり。
日清・日露戦争に参加した歴戦の艦であるが、その戦争間の1897年10月29日、伊予灘に投錨中に荒天で錨鎖が切断され、漂流の末に松島のラムに衝突し、更に厳島にも衝突して沈没。日本で唯一のラム攻撃の成功例とも言われる。
1923年8月21日、淡路島仮屋沖にて公試運転中、潜行テストよりの浮上後に誤作動により沈没。乗組員、川崎造船所職員など88名の死者を出す惨事となる。
その後、浮揚され呂号第31潜水艦として1927年5月10日に竣工され、主に訓練用に使用され1945年5月25日に除籍され、翌年に処分された。
1924年3月19日に佐世保港外で訓練中に龍田と衝突し沈没。
一週間後に引き揚げられるも既に酸欠で乗組員はこと切れていた。
なお救難用のブイに備え付けられた電話線で乗組員と最期まで会話がなされた。
引き揚げ後は呂号第二五潜水艦として再就役。
第四艦隊第7潜水戦隊第27潜水隊の旗艦として深谷惣吉大佐の座乗のもとウェーク島方面の哨戒の任に就いていたが、1941日12月12日、ウェーク島攻略失敗を受け、第26潜水隊との交代が命令されたが無線機故障で知らずに哨戒を続け、17日の20時30分、交代に到着していた第26潜水隊の呂号第六十二潜水艦と衝突し沈没した。
生存者は衝突の衝撃で海に投げ出された当直の三名のみであった。
太平洋戦争勃発時は第7潜水戦隊第26潜水隊に所属し、ウェーク島攻略戦に参加し哨戒の任務にあたった。
1941年12月29日、クェゼリン北のルネット島にて座礁。潜水母艦迅鯨で救出を図るも失敗し、全乗組員を救助後に放棄。
31日に全損とみなされ船体を両断された上で海没処分された。
開戦時はウェーク島、それ以後は南方方面で活動し、1942年9月よりは北方方面に派遣される。
10月25日に第26潜水隊の旗艦となるも11月4日、キスカ島湾内にて空襲を避けるために潜行した折にベント弁を艦橋ハッチの閉鎖前に開いた為に沈没。
艦長を含む45名が救出されたが19名の犠牲者を出した。
(画像は同じ巡潜乙型の伊号第十九潜水艦 )
初の遣独潜水艦作戦に参加。1942年4月22日にペナン港を出発し、機関の故障や浸水、波浪にイギリス軍の攻撃を乗り切って同8月6日にドイツ占領下のフランスに到着、その後貴重なレーダー装置などを積んで10月8日にペナン港へ。そのまま本土へ出港しようとしたが海軍設備局の命でシンガポールに寄港する事になる。安全が確保された航路の変更を遣独作戦中に変更された暗号で伝えてあったため機雷の存在を知らず、13日にシンガポール港に入港した折は満潮時の為に喫水の浅い潜水艦である事から触雷しなかったものの、出港時は干潮の為に触雷し沈没。
1943年6月18日に竣工した新鋭潜水艦であったが、7月14日の夜に伊予灘で訓練中に消息を絶った。沈没の原因は浮上後にアクシデントで前部開放弁が開き、その為にメインタンクの空気の開放とそれへの注水が行われ船体が沈下し、ハッチから浸水がおこり結果として沈没したものであった。
生存者はいなかった。
伊六十八型潜水艦である伊号第六十九潜水艦が1942年5月20日に伊百六十八型潜水艦、伊号第百六十九潜水艦と改名したもの。
オーストラリア方面での作戦任務、キスカ、ブカ、ブインへの輸送任務などに従事。開戦初頭にはミッドウェー島を砲撃もしている。
1944年4月4日、トラックの夏島にて停泊中にアメリカ陸軍第13航空軍のB-2436機の爆撃を受け、僚艦の潜水艦と共に潜行して攻撃を回避するも、空襲後に僚艦が浮上する中、伊号第百六十九潜水艦が浮上することは無かった。
後の調査で荒天通風筒頭部弁が開かれているのが確認され、閉め忘れか、なんらかのアクシデントで開かれたためによる浸水で沈没したと判明した。
給油艦。
1919年8月15日に種子島沖で台風により座礁。乗組員の多くが行方不明になる。
種子島の伝承ではその後舟幽霊になったという。
戦後、残骸が違法サルベージの被害に遭う。
天津風についてはその後当局が残骸を回収し、現地の博物館に保管された。
幕府海軍
1634年に完成した江戸幕府の軍船
全長約55mの史上最大の和船にして日本史上最大のガレー船。
もっとも建造したはいいもののその巨体のせいでろくに使われず、試航で一回沖に出てからはほとんど隅田川の河口に留め置かれたまま放置されたという。
大雨の際に沖に流れ、慌てて回収されたこともあった。
1682年に解体される。
数々の怪談が伝わる。
イギリス海軍
海軍を増強したヘンリー8世が建造した大型キャラック船である軍艦であり改装の結果最終的には91門に及ぶ大砲を搭載していた。
1545年7月19日、ポーツマスに来襲したガレー船からなるフランス艦隊との交戦であるソレントの海戦にジョージ・カリュー提督の旗艦として参加。
海戦の最中、フランス艦隊の砲撃で炎上し、回頭したおりに転覆して沈没。白兵戦阻止の為に張られたネットにより犠牲者は増大したといわれ、700名以上の死者を出し、その中にはカリュー提督も含まれていた。僅か1マイル沖の惨劇の犠牲者の悲鳴は陸上の人間にも聞こえ、海戦を眺めていたヘンリー8世は「私の船が沈む」と嘆いたといわれる。
下部大砲発射口扉の閉め忘れによる浸水、改装による武装強化の為のトップヘビーなどが言われるが沈没原因は不明である。
90門二等戦列艦。
70門三等戦列艦。
50門四等戦列艦。
火船。
上記の四隻はスペイン継承戦争の最中である1707年にオーストリアのプリンツ・オイゲン率いるイギリス・オーストリア・オランダ連合軍のフランスのツーロン攻囲戦の支援の為に派遣されたアソシエーションを旗艦とするクラウズリー・シャヴェル提督率いる英艦隊に属していた。
ツーロン攻囲が失敗に終わり、英本国への帰国を命じられた21隻からなるシャヴェル提督の艦隊は9月29日にジブラルタルを発ちポーツマスへと向かったが、天候が悪化した為に艦隊は計画した航路より北に流され、シャヴェル提督は悪天候で艦隊の位置を正確に把握出来ず、フランスのブルターニュ半島の沖のアシャント島の西を航行中と思われた艦隊は10月22日の夜にイギリスのコーンウォールの沖のシリー諸島に突っ込む結果となった。
その結果、上記の四隻が座礁して失われ、旗艦アソシエーションは座礁後、ものの二、三分で沈没しシャヴェル提督を含む乗組員全員が死亡。イーグルも同様で、ロムニーは生存者1名、ファイアーブランドは40名中28名が死亡。また96門一等戦列艦セントジョージも座礁したが後に離礁することが出来た。
この惨事での死者は2000名を超えるとも言われ、英海軍が経験した最悪の海難事故の一つとなった。
二等戦列艦。
最初の名称はロイヤル・キャサリンであったがスペイン継承戦争でのジョン・チャーチルのラミイの戦いでの勝利を記念して1706年からラミリーズと改名した。
英蘭戦争、スペイン継承戦争で多くの海戦に参加し、ジョージ・ルーク提督、敗戦責任を問われて銃殺された不幸なジョン・ピング提督の旗艦も務めた武勲艦であり、二度にわたる改装を受け、一回り大きくなり大砲も84門から90門へと強化された艦であったが、1706年2月15日、強風のなか位置を誤り、プリマス付近のホープコーブ村のボルトテール岬に座礁して沈没した。850名余りの乗組員のうち、生き残ったのは士官候補生一人を含む30名に満たない者に過ぎなかったという。
戦列艦。キプロン湾海戦では艦隊司令長官エドワード・ホーク提督の旗艦を務め、セント・ヴィンセント岬海戦にも参加した輝かしい戦歴を誇る武勲艦であったが1782年8月29日にポーツマスで艦底整備中に乗組員家族・業者などが入った為に傾けていた船体がバランスを崩し転覆した。
死者の中にはリチャード・ケンペンフェルト少将もその中に含まれ、また300名の女性、60名の子供も犠牲者のなかにあったといわれる。
32門五等フリゲート艦。
1969年9月22日、プリマスで翌日出港を控え、乗組員家族などの訪問を受けて賑わうなか16時頃に爆発を起して沈没。死者は300名を超え、生存者は10名にも満たなかったという。
砲手が誤って弾薬庫付近に火薬を零し、それに何らかの原因で引火したとも言われるが、真相は不明である。
100門一等戦列艦。
1744年10月4日、ジョン・バルチェン提督の旗艦としてイベリアのチャールズ・ハーディー提督を支援後、イギリスに帰投中にチャネル諸島付近で嵐の為に15時30分頃に僚艦の視界から消え、消息不明となった。長らく難所として有名なLes Casquetsで座礁して沈没したと思われていたが2008年の発見で、それより110㎞以上離れた場所が彼女の最期の場所と確認された。
100門一等戦列艦。
リチャード・ハウ提督の旗艦として栄光の6月1日海戦に参加するなどの輝かしい戦歴を持つ。
1800年3月17日、ジョージ・エルフィンストーン中将の旗艦として地中海のフランス領カブレラ島攻撃準備の為にティレニア海で調査中だったクイーン・シャーロットは06時頃、号砲の為に干し草を準備した時に出火した。誰かが放り投げた干し草が偶然にも火縄桶に落ちたのが原因とも言われる。
乗組員は五時間にわたり消化活動に奮闘するも、可燃物の塊ともいうべき木造帆船である彼女に燃え広がった炎は最終的には船内の弾薬に引火し11時頃に大爆発を起こす事となった。
900人近くの乗組員のうち彼女と運命を共にして亡くなったのは673名であった。
エルフィンストーン提督は事故の折にはリボルノに上陸しており、陸上から己が旗艦の最期を見る事となった。
トラファルガー海戦など多数の海戦に参加した歴戦の武勲艦であり、後に続く英海軍でのアガメムノンの名を冠した軍艦の初代にあたる。英国屈指の名将ホレーショ・ネルソンが艦長を務めた事でも有名。
1809年6月16日、嵐を避けるために寄った南米のラプラタ河口のマクドナルド湾にて海図に無い暗礁に乗り上げ、更に投錨した錨により船体に穴を開けたアガメムノンは右舷に大きく傾き、懸命な離礁活動も無駄であった。
17日には乗組員が、18日にはジョナス・ローズ艦長と士官が船を去り、アガメムノンは失われた。
アブキール湾海戦、トラファルガー海戦に参加、第二次コペンハーゲン海戦ではウィリアム・エシングストン少将の旗艦を務めた歴戦の武勲艦。
1810年12月22日、フランス第一帝政圏であるオランダのテキセル沖で荒天下で位置を誤り座礁し沈没した。一説には死者は570名に及んだとも言われる。130名程の生存者は全てフランスの捕虜となった。
1870年に竣工したオーダシャス級中央砲郭艦の三番艦。
1875年8月27日にタールトン提督に率いられて三隻とともにキングスタウンを出港しクィーンズタウンに向かう途中のアイルランドのキシュバンク沖のキシュ灯台付近で、9月1日12時50分頃に濃霧のなか姉妹艦のアイアン・デュークと衝突し59分ほど後に沈没した。
霧で航路より外れていたアイアン・デュークは蒸気プラントの不調により霧笛が使用できなかったと言われる。
デヴァステーション級航用砲塔艦二番艦。
1877年に竣工した英海軍初の全汽走装甲艦の一隻で、以後の軍艦のプロトタイプとも言うべき当時のハイテク軍艦であり1909年に退役したが、1876年7月14日、ポーツマス港からストークス湾へ航行中での機関試験中にボイラーの爆発で艦長を含む45名の死者を出し、1879年1月にはマルマラ海での演習中に11名の犠牲者を出す前部砲塔爆発と二度も爆発事故を起こしている。
ダンカン級戦艦五番艦。
1903年3月10日に竣工したが1906年5月30日に濃霧によりランディー島沖で座礁し沈没した。
1902年3月11日に竣工した前弩級戦艦であるフォーミダブル級戦艦の五番艦。
地中海艦隊、本国艦隊、本国艦隊第五戦艦戦隊と配属され第一次世界大戦勃発時には海峡艦隊として哨戒任務を行っていたが、1914年11月26日07時50分に停泊していたメドネイ川河口のシーネアス沖にて爆発を起こして沈没した。
736名が死亡し、生存者14名のうち2名も病院で亡くなるという惨事であり、原因は白色火薬の高温による自然発火といわれる。
余談ではあるが南極探検の悲劇で名高いロバート・ファルコン・スコット大佐は1908年に当時英海軍最年少の戦艦艦長として本艦の艦長を務めている。
英本国艦隊第一戦艦戦隊、第四戦艦戦隊へと配属され、ジュトランド沖海戦にも参加したが1917年7月9日22時00分頃、停泊していたスカバ・フローにて爆沈を遂げた。
夜間でという事もあり843名もの死者を出し、生存者は2名に過ぎなかったという。
(画像は同型艦のセンチュリオン)
キング・ジョージ五世級戦艦四番艦。1913年8月に竣工した超弩級戦艦であったが、1914年10月27日、トーリー島沖で砲撃演習準備中にドイツ機雷敷設艦ベルリンの敷設した機雷を左舷機関部付近に触雷。客船オリンピックなどによる曳航も荒天下の為に失敗し、触雷より約12時間後の20時45分頃には浸水の為に転覆し、15分後に爆沈を遂げた。
乗組員に死者は無かったが、最後の爆発の破片で付近にいた巡洋艦リヴァプールの下士官が一人死亡している。
第一次世界大戦初頭での本艦の沈没は極秘とされ、大戦が終わるまで除籍されなかった。
フッド級巡洋戦艦。同型艦は無い。だが計画ではサミュエル・フッド提督の名を冠した彼女の他にアンソン、ハウ、ロドニーと英国海軍史に名を残す提督達の名を冠する姉妹艦を建造予定だったためにアドミラル級巡洋戦艦とも呼ばれる。愛称はマイティフッド。
ジュトランド沖海戦の戦訓から設計変更がなされ防御範囲は限定はされてたものの当時の戦艦並みの装甲を備えた高速戦艦として予定より大幅に遅れながら第一次世界大戦後の1920年3月5日に竣工した。その結果として四万トンを超える大戦艦となりワシントン海軍軍縮条約での制限排水量三万五千トンを優に超えていたが特例と認められ廃艦となる事は免れ、1940年に戦艦ビスマルクが竣工するまでは世界最大の戦艦であった。
彼女はその肩書きと優美な艦容から第一次世界大戦で衰えた大英帝国の国威を示すものとなり、特に1923年の世界巡航は大成功をおさめ、寄港したある市の市長はフッドのあまりの美しさに「我が市は貴艦に降伏致します」とスピーチし、また遅刻したボーイスカウトの少年をついでということで最寄の港まで送ったりした美談も残したという。
第二次世界大戦が始まると彼女は船団護衛・哨戒活動に従事し、そして1940年7月2日、H部隊の旗艦としてH部隊と共にメルス・エル・ケビールにあるフランス艦隊を壊滅させる活躍をした。だが、彼女は大規模な近代改装を行う事は無く、1941年5月24日、彼女を押しのけて世界最大の戦艦となった独戦艦ビスマルクとデンマーク海峡にて対峙する事となった。
巡洋戦艦戦隊司令官でありフッドに将旗を掲げるランスロット・ホランド中将は当初、麾下の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと護衛の駆逐艦六隻からなる艦隊で日没時の沈む夕陽に浮かび上がる敵艦隊を日の落ちた暗闇側から行う奇襲を考えていた。
しかし通商破壊の為に大西洋に進出しようとするビスマルクをレーダーで追尾中の重巡洋艦サフォークが一時的に接触を失った事からこの計画は水泡に帰し、更に護衛の駆逐艦をビスマルク索敵の為に分派する結果となった。また視界の悪さから独艦隊とニアミスで擦れ違うなど錯誤が重なり、ビスマルクとの再接触にサフォークが成功した事により敵艦隊の位置を把握したホランド提督がフッドとプリンス・オブ・ウェールズのみでようやく05時35分に会敵したビスマルク、重巡洋艦プリンツ・オイゲンからなる独艦隊との交戦を決意した時には両艦隊は並んで航行するに近い状態となっていた。
それでもホランド提督は砲術家として遠距離でビスマルクと交戦するにはフッドの水平装甲では力不足と判断しており、出来るだけ短時間で彼我の距離を縮めようと試みた。しかし、その試みは角度の関係から前部砲塔しか使用できない状況となり、更に独側が風上にあることから荒れる海の波は砲塔測距儀のレンズを盛大に濡らし砲撃に更に支障を生じる事となった。
一方、独側も既に英主力艦隊が出撃して展開している事を知らなかった事もあり、当初はホランド艦隊を巡洋艦か駆逐艦と判断していた。プリンツ・オイゲンでは正確に敵戦力をフッドと新鋭戦艦と判定した者もいたが相手にされず榴弾の装填が命じられていた。
また独艦隊司令長官ギュンター・リュッチェンス大将は格下(と思われた)相手の不必要な戦闘で時間を潰す事に躊躇していた。
53分、24000mあまりの距離で英艦隊は射撃を開始した。だが、シルエットが酷似していることや、本来は戦艦に太刀打ち出来ない巡洋艦は後方にあるべきとの判断もあってかフッドは先頭のプリンツ・オイゲンをビスマルクと誤認して射撃し、プリンス・オブ・ウェールズはビスマルクを砲撃して火力を分散する事となった。そしてその砲火の巨大さは独側に対峙している相手が戦艦である事を暴露する事となった。
事此処に至ってはリュッチェンス提督も交戦を決断せざるを得ず独艦隊も先頭のフッドを目標として反撃を開始。フッドは命中弾で高射砲傍に置いてあった四インチ弾薬が引火で火災を起し、その一方で新米艦ながらプリンス・オブ・ウェールズはビスマルクに近距離という事もあってか命中弾を与えていた。
06時に14000mまで距離を縮めたホランド提督は左舷への回頭を命じ、これで英艦隊は全砲塔の使用が可能となるはずだったが、その回頭中にフッドのメインマストとX砲塔間にビスマルクの砲弾が命中。船体は二つに折れ、後部を沈めながら前部は海上より持ち上がり沈んでいった。4インチ砲弾火薬庫が爆発を起し、続いて後部15インチ砲弾火薬庫の誘爆を引き起こしたとされる。
この折に前部砲塔からフッドの最後の砲弾が発射され、ビスマルク乗組員はそんな状況下で死力を尽くして砲撃した砲員に敬意を感じた者もいたが、そのような状況で射撃出来る筈は無くシステムの故障と見られている。
また世界最大の戦艦と知られた軍艦が真っ二つに折れて沈むというこの世のものとは思えない光景に茫然自失状態となったのか、この折のフッド爆沈時の轟音を聞いた記憶が無い者も独側では居たと言う。
敵に全く損害を与えられないままでの世界最大の戦艦として君臨した英国の誇りの余りにも呆気ない最期であった。
生き残ったフッドの乗組員の談ではこの事態でも艦橋の司令部は正常に活動しており「舵故障!」「人力操舵に切り替えろ!」などの会話がなされ、ホランド提督は席に座ったまま微動だにしていなかったという。
1400名を超える将兵を乗せていたフッドだが、生存者は随伴していた駆逐艦エレクトラに救助された3名のみであり、彼女の悲劇を更に強める事となった。
世界的に有名な軍艦であった彼女の沈没は英国民をはじめ多くの人々に大きな衝撃と悲しみを与えた。
元乗組員で当時は別の軍艦に乗っていたある兵は、そのニュースを「嘘だ」と信じず、やがて事実と認識してからは人目を憚らずに号泣したという。
余談ではあるがフッドの名称の元となったサミュエル・フッド提督の子孫でありジュトランド沖海戦で第三巡洋艦戦隊司令官であったホーレンス・フッド少将は旗艦の巡洋戦艦インヴィンシブルの爆沈で戦死している。
なお、フッド撃沈の一件は、イギリス海軍本部の逆鱗に触れ、「フッドの敵討ち」とばかりにイギリス本国周辺に所在していたイギリス海軍の全艦隊によってフッドを沈めたビスマルクをなぶり殺しにしても怒りはおさまらず、イギリス空軍の協力も得てドイツ海軍水上艦部隊を足腰立たなくなるまでフルボッコにしてしまった。
レナウン級巡洋戦艦の二番艦。
第一次・第二次両大戦に参加した。巡洋戦艦オーストラリアと衝突事件もあり。
1941年12月10日のマレー沖海戦において上述のプリンス・オブ・ウェールズともども撃沈さたが、魚雷一本の被雷で早々に過半の戦闘力を喪失したウェールズと違い、艦長のウィリアム・テナント大佐の操艦は見事で多数の魚雷を避け、また前述のような被害を受けたウェールズの状況を見て独断で無線封止を破り空軍の援護を要請するなどその指揮ぶりは元乗組員を中心に評価される。
しかし、それまでの戦闘航海に支障が無い状態から、陸攻の挟み撃ちによる回避不能な雷撃によって、一度に数本の魚雷を受け、総員退艦命令から比較的早く沈んだ為に、総員退艦命令から沈むまでに時間があったウェールズに比べ乗組員の戦死率は多かった。
戦後違法サルベージの被害に遭う。
ユトランド海戦に参加する一方で、衝突事故やスキャンダル事件を起こす。
第二次世界大戦開戦直後の1939年10月14日にイギリス本国艦隊の本拠地スカパ・フローにおいて軍港内に侵入してきたドイツ海軍の潜水艦U47により撃沈。
(画像は大型軽巡洋艦時代のもの)
前述のグローリアスと同じく大型軽巡洋艦から空母に改装された。
第二次世界大戦勃発から半月も経っていない1939年9月17日、Uボート狩り部隊として対潜哨戒中にドイツ軍潜水艦U-29により返り討ちに。
イギリス初の本格的な航空母艦。
1942年4月5日にセイロンのトリンコマリーで修理中に日本軍の空襲に遭い、艦載機を積まずに脱出したところを南雲機動部隊に捕捉され、9日に撃沈。
なお、このときの日本海軍の艦爆隊は、編隊の一斉急降下ではなく、単縦陣による順次投下を行ったこともあって、命中率が83%を記録したとされる。
アメリカが商船として設計されたリオデジャネイロ号をアヴェンジャー級護衛空母に設計変更し、イギリスに引き渡された折にダッシャーと改名。
航空機輸送、船団護衛などに従事したが、1943年3月27日にクライド湾にて艦内爆発を起こして沈没し379名の死亡者を出した。
国民の戦意低下、アメリカ造船技術への不信などを恐れた英政府によりこの事件は隠蔽され、死者は無縁仏として葬られるなどの行為により、政府は後日批判される事となった。
一説ではこの折の死亡者がミンスミート作戦において、連合軍のシチリア上陸から目を逸らすために連合軍の本命はギリシャに侵攻であるという偽装作戦計画書を持たされてドイツ勢力範囲に潜水艦より流されたウィリアム・マーチン少佐と名づけられた遺体に使用されたとも言う。
第一次世界大戦勃発時から変わることなく第一巡洋艦戦隊に属し、ドイツ巡洋戦艦ゲーベン追跡など行い、1916年5月31日~6月1日の第一次世界大戦で最大の海戦であるジュトランド沖海戦に参加。
僚艦と共に本国艦隊主力の前方で警戒幕を張っていたが、31日の17時42分頃には第一巡洋艦戦隊からはぐれ行方不明となった。
はぐれてより後に潜水艦を発見したとの彼女からの通信があった事から、潜水艦により撃沈されたとも言われたが、事実は23時35分頃に彼女はドイツ戦艦ラインラントと交戦し二発の命中弾を与えるなど奮戦しドイツ艦隊を追撃していたが、友軍から離れてドイツ戦艦戦隊の最も近い艦から750ヤード余りまで接近してしまい、直ぐに反転離脱を試みたが戦艦チューリンゲンのサーチライトに捕まり、チューリンゲン、戦艦ナッソウ、戦艦オストフリーラント、戦艦フリードリッヒ・デア・グロッセなどから至近距離で砲撃され、少なくとも12発の大口径砲弾を含む50~60発あまりの命中弾を受け、砲撃開始から僅か15分あまり後の6月1日00時12分頃に炎上の後に大爆発を起こして沈没する凄絶な最期を遂げたというものであった。
第一次世界大戦では本国艦隊として哨戒の任にあたるが、1915年12月30日、クロマーティ湾に停泊中、後部火薬庫が爆発。僅か五分で転覆して沈没を遂げる。原因は恐らく欠陥弾薬の自然爆発とされた。
士官の家族、病院船の看護婦などを招いての映画会が艦内で催されている中での悲劇であったという。
第一次世界大戦ではジュトランド沖海戦に参加している。
戦後の1918年11月14日、リヴァプールに向かう途中、濃霧の中でマージー川で座礁。離礁作業も及ばず全損と判定され、1919年6月、座礁場所で解体された。
1942年10月2日、アメリカ第29歩兵師団を乗せた客船クイーン・メリーを数隻の駆逐艦と護衛中、潜水艦を避ける為にジグザグ航行中だったクイーン・メリーがキュラソーの航路を充分な距離も無いにも関わらず横切った結果、キュラソーはクイーン・メリーに横から突っ込まれ真っ二つになり沈没した。
一説ではキュラソーは衝突寸前までクイーン・メリーと危険なまでに近づいていることに気付いていなかったとも言われる。
潜水艦の危険から停止する事を許されていなかったクイーン・メリーはそのまま航行を続け、駆逐艦により艦長を含む99名が救助されたが338名の死者を出した。
第一次世界大戦最中の1916年6月18日の夜、イギリス海峡にてフランスの客船フランスと衝突し沈没。43名の死者を出し、33名がフランスに救出された。
- オパール(アドミラルティーM級駆逐艦)
- ナーバロー(同上)
1918年1月12日、ドイツ海軍の機雷敷設を警戒してスコットランド沖で哨戒任務に当たる軽巡洋艦ボーデシアを両艦は護衛していたが、天候の悪化で吹雪により視界はゼロに近く沈没の危険もあるとして、17時30分頃にはボーデシアより両艦にスカパ・フローへの帰投が命じられた。
しかし21時27分頃に交信は途絶え、後にオークニー諸島のサウスロンドンルシーはウィンドウィック湾の北方にて両艦は航法を誤り座礁したことが判明した。唯一の生存者はオパールの一名のみで、彼は36時間崖にしがみついて救出されとされ、残りの犠牲者の大半は見つからなかったという。
1940年8月31日の敷設したばかりの味方機雷原に進入して英海軍が犠牲を出したテセルの惨事で沈没。この他にも軽巡洋艦、駆逐艦各一隻が損傷した。
1942年2月27日のスラバヤ沖海戦にて日本艦隊と交戦後、反撃のために迂回ルートを航行中に伝達ミスにより存在を知らなかった友軍の機雷原に突っ込み、触雷し沈没。ちなみにジュピターはテセルの惨事に居合わせ、生存者の救助を行っていた。
画像はトライバル級駆逐艦。
1942年5月1日、PQ-15船団の間接護衛の為に出撃中、濃霧の為に戦艦キング・ジョージⅤ世に衝突され真っ二つとなって沈没した。更に沈んだパンジャビの機雷が爆発した衝撃でキング・ジョージⅤ世は電気装置、タービン発電機等を損傷し7月1日まで修理に日々を費やす事となった。
重要な戦局で英海軍は一戦も交えていないにも関わらずこの一日で駆逐艦一隻を失い、主力戦艦が戦線から脱落する大損害を受ける事となった。
1943年12月2日の夜間にドイツ空軍の105機のJu88によって行われたイタリアのバーリへの空襲は17隻にも及ぶ連合軍貨物船などを沈め「リトル・パールハーバー」と言われるほどの打撃を与えた。
更に連合軍とバーリ市民にとって不幸なことにドイツ軍が化学戦を行った場合を想定してマスタードガス爆弾を搭載していたリバティ船ジョン・ハーヴェイ号も犠牲の一隻であり、バーリは爆撃による直接被害の他にもマスタードガスによる被害も被る事となった。
歴戦の艦ビスターも空襲で被害を受け、姉妹艦のゼットランドに曳航されて修理の為にタラントへと向かうこととなった。
ビスターが海面より救助した30名あまりのマスタードガス被爆者によりビスター乗組員に二次災害が生じた、タラントに入港する折には航海士官全員がマスタードガスにより視覚に障害を負ったために支援が必要だったなどとも言われる。
アメリカのウイックス級駆逐艦トーマスが英国に引き渡され改名した艦。
U-401を撃沈する功績をあげるも、ノルウェーに貸与されていた1941年5月2日にはスカパ・フロー沖でトローラーアルべリックと衝突しこれを沈め、英海軍に戻った1942年5月2日には掃海艇シーガルと共にポーランド潜水艦ヤストゥションブを撃沈した。
その後、ソ連に引き渡されドストイヌイとなり、再び英国に引き渡された後に解体され、各国にたらい回しにされ、味方艦艇を二隻も撃沈した波乱の生涯を終えた。
ノルウェー、インド洋、地中海と活動した歴戦の艦であったが、1943年8月4日、アルジェ港にて接舷中であった弾薬船フォート・ラ・モンティに生じた爆発事故に巻き込まれ大破。破棄と決まりタラントに曳航され1949年5月に解体された。
1939年12月12日、霧のなか戦艦バーラムを駆逐艦四隻と共に護衛中、バーラムと衝突して転覆の後に爆沈を遂げ122名の死者を出した。
彼女がバーラムの変針信号を誤認したとも言われる。
U-42、U-63を撃沈した武勲艦であったが、1940年7月16日、濃霧の為に演習を中止してスカパ・フローに帰投中の巡洋艦戦隊を六隻の駆逐艦と共に援護中、夜間、霧の中で軽巡洋艦グラスゴーと衝突し炎上、沈没を遂げた。
僚艦と共同でU-671、U-413を撃沈した武勲艦であったが1944年11月21日、テムズ河口で揚陸艦LST367と衝突し大破。全損とみなされ破棄が決定し、1946年2月15日に解体された。
主だった海戦でも第一次ナルビク海戦、スパダ岬沖海戦、マタパン岬沖海戦、第一次・第二次シルテ湾海戦に参加。
スパダ岬沖海戦では僚艦と共にイタリア軽巡洋艦バルトロメオ・コレオニ、マタパン岬沖海戦ではイタリア駆逐艦ヴィットリオ・アルフィエリ、エジプト沖では姉妹艦のヘイスティと共にイタリア潜水艦ベリロを撃沈。
また海戦、空襲などで数回損傷し、特に1942年3月22日の第二次シルテ湾海戦ではイタリア戦艦リットリオによる至近弾によりボイラー一缶が損傷する被害を受けるなどタフな歴戦の武勲艦であった。
マルタ島にて第二次シルテ湾海戦での損傷の修理に彼女はかかるも、ドッグ・艦船は枢軸空軍の激しい攻撃に晒されており、彼女も4月3日に損傷するに及んで安全の為に完全に修理を終える前にジブラルタルに向かうように命が下されるも、その途上の6日にチュニジアのケリビア沖にて座礁するという歴戦の武勲艦に相応しくない呆気ない最期を遂げた。
更に座礁した彼女の残骸を誤認したイタリア潜水艦アラダムによって死者を鞭打つような魚雷攻撃も受けている。
座礁の折に一名の死者が出し、残りの乗組員はヴィシー・フランス軍の捕虜となったが、英米連合軍の北アフリカ侵攻のトーチ作戦により無事解放された。
船団護衛、哨戒任務などに従事。
1940年10月30日、暴風のなかSC8船団を護衛中、スコットランドのタイリー島に座礁し沈没。五名の死者を出した。
二隻とも本来はノルウェー海軍がイギリスのアームストロング社に発注した海防戦艦ニダロス、ボルグヴィンであったが、第一次世界大戦の勃発でイギリス政府が接収、それぞれ“ゴーゴン”と“グラットン”としてイギリス海軍で就役させた。
ゴーゴンは1918年6月よりドイツ軍砲台への砲撃に従事。9月11日には姉妹艦グラットンとベルギーのドイツ軍砲台を砲撃。
16日、ドーバー港内でグラットンは中央副砲弾薬庫の出火が主砲弾薬庫に誘爆する事を防ぐために近くにいた駆逐艦二隻による三本の魚雷で撃沈された。
ゴーゴンは10月15日に最後の砲撃を終え、第一次世界大戦終戦後に改めてノルウェー政府に引き渡そうとしたがバルジを追加するなどの改修でノルウェーのドッグに入らない仕様にされていたため引き取りを断られ予備艦隊に編入され、1920年にアルゼンチン、ペルー、ルーマニアへ売り込むも成功せず、結局スクラップにされた。
1793年9月のコルシカ島攻撃に参加し、1794年4月11日、コルシカ島近海にて火災を起こし爆発したと推測される。500名あまりの乗組員全てが消息不明となった。
- カム(K264)
1944年7月18日、第六護衛艦群として航空機より報告のあったUボートを探索中、ソナーに反応があった海域で17時18分に爆雷を投下するも2分後に起こった大爆発により艦尾を大破し46名の負傷者を出し、カナダ海軍のフリゲートケープブレントンによってヤーマスに曳航され、19日にはポーツマスにタグボートアムステルダムに曳航されたが全損と判定され、1945年7月に処分された。
彼女の命取りになった爆発は1940年8月8日に沈んだ弾薬運搬船であるクレストフラワーかアジャックスに爆雷を投下した事から生じたと考えられている。
- エア(K262)
大西洋で船団護衛に活躍し、1946年には太平洋艦隊に所属し、香港に到着後、インド海軍に貸与され3月14日にタマーと改名。香港の海軍宿泊施設の完成までハルクとして利用される事となる。
11月に施設が完成しハルクの役目を終え、20日に名称をエアーに戻して12月にシンガポールに向かうも台風に遭遇してコースを外れ20日にシンガポール沖のボンベイ環礁に座礁。
エンジンで発生した火災は鎮火したものの無線を含む機器の多くがハルクとして使用されている期間中に適切に維持されていなかった為に使用不能で遭難を外部に伝える事は困難であったが、23日、これも台風に遭遇してコースを外れていた潜水母艦ボナベンチャーに偶然発見され、救助された乗組員全員がシンガポールに上陸する事が出来た。
- ゴデチア(K72)
(画像の奥はフラワー級コルヴェット)
1940年9月6日、アイルランド北方のオルタキャリー岬の沖にて商船マーサと衝突して沈没した。
- ガーデニア(K99)
1942年11月9日、北アフリカのアルジェリアはオランの沖にて英掃海トロール船フルーレンと衝突して沈没。
- ローズ(K102)
竣工の折にノルウェー海軍に貸与される。
1944年10月26日、北大西洋で英フリゲートマナーと衝突事故を起こし沈没した。
意味は“地獄”と“恐怖”。
頑丈な船体と室内スチーム暖房を付けた当時のハイテク艦であり極地探検に使用され、南極のロス島の火山であるエレバス、テラー山はジェイムズ・クラーク・ロスが南極探検の折に発見したそれらの山々に探検隊の乗る両艦の名称から採ったという探検方面では屈指の功績をたてた艦であった。
1845年にジョン・フランクリンの指揮のもと北極へ北西航路発見に出発。そのままカナダ北方で行方不明になる。
いくつかの間接的証拠や現地人の証言などから一年目はビーチー島にて冬を越したが、二年目は予想外の海氷に閉じ込められて身動きが出来なくなり二年目、三年目と越冬することとなり、その間、探検隊では壊血病予防のレモンジュースがその効果を無くした為による壊血病、粗悪な缶詰や真水蒸留器による鉛中毒などにより精神・肉体を蝕まれたのか1847年6月に死亡したフランクリンも含め24名が死亡し、遂には錯乱したか1848年の4月には船を放棄。探検隊副官フランシス・クロージャーに率いられて凍りついた海上を必要品と思われる物を積んだボートを引き、凍傷にかかり、食人などをしながら、40㎞北のフリービーチに23年前に座礁したフリー号のボート・缶詰が大量にあるにも関わらず何故かそれを無視して、西洋人との接触を求めてカナダのバック川を目指し彷徨い全滅したと考えられている。
放棄されたエレバス、テラーの消息は不明であったが、2014年9月7日にそのうちの一隻らしきものの残骸がビクトリア海峡の海底にて発見された。
1909年7月14日、ノーフォーク州クローマーの南で英潜水艦C17と衝突。
1917年4月16日、ハーウィッチの沖で今度は英駆逐艦メランパスと衝突し沈没。生存者は無かった。
第一次世界大戦最中の1917年9月16日の夜、荒天下のノルウェー沖でUボート活動海域との情報を得ていたG9は船団護衛中の英駆逐艦パスレイを敵と誤認し二本の魚雷を発射するも幸いにも一本は命中せず、一本は爆発することは無かった。これに対しパスレイは急遽右舷に回頭してG9にラム攻撃を敢行。衝突寸前に潜水艦が友軍と気付いた者もいたが既に遅く、船体中央部後方から真っ二つとなった彼女は一分も満たないうちに沈没し、生存者は一名に過ぎなかった。
蒸気タービンを搭載したK級潜水艦。潜航に五分かかった。
第一次世界大戦中の1918年1月31日から2月1日にかけてメイ島沖で演習中のイギリス艦隊が玉突き事故を起こす。K4とK17は沈没。
第一次世界大戦最後の年である1918年の3月12日、D3はディエップ北西でフランスの飛行船AT-0を発見し、友軍であることを知らせる為にロケット信号弾を発射したところ、英海軍と違い仏海軍は煙マーカーで友軍航空機と味方識別を行っていた事からAT-0は攻撃を受けたものと誤認し、二度にわたる爆撃を行ってD3を撃沈した。
撃沈後、海面には4名の生存者が認められ、低空で近づいたAT-0はその一人の言葉が英語であった事から誤爆に気付き救助活動に努め、その連絡で救助船が現場に辿り付いたが、時既に遅く、生存者の姿は見られなかった。
第11潜水艦隊に所属。第一次世界大戦終結間際の1918年10月15日、ノーサンバーランド州沿岸を哨戒中に出会ったQシップシムリックがJ6の司令塔の艦名の文字をJでなくUと誤認し、ドイツ潜水艦U-6と判断して、英国海軍旗を掲げて商船の偽装を解くや砲撃でJ6を撃沈した。驚いたJ6がシムリックから離れようとした行動も誤射に拍車をかけたという。
34名中、19名の死者を出した。
ジョン・アーバスノット・フィッシャー提督の妄執ともいうべきバルト海侵攻作戦での陸上砲撃だけの為に生まれ、設計を途中変更して砲撃で敵商船を攻撃するという少しはまともな目的の為に305mm単装砲一基を、更にはM2では水上機まで積んでしまったM級潜水艦という潜水艦に似た何か。
主砲弾の装填は浮上してないと出来ない秘匿性ゼロの艦。
英海軍は本級を持て余した感が強く、M2、M3は1922年には主砲を撤去され、それぞれ水上機搭載艦、機雷敷設艦に改装されている。
M1は1925年11月12日にタンカーと衝突し305mm単装砲の取り付け位置から浸水し沈没。
M2は1932年1月26日、演習中に水上機格納庫ハッチの閉め忘れで沈没した。(浮上からの水上機発艦時間記録を更新する為に格納庫ハッチを早く開け過ぎたとも)
公試運転中の1939年6月1日、潜水中ミスで第五魚雷発射管後方扉を開いた事による浸水で沈没。辛うじて脱出した乗組員4名を除く乗組員53名と造船所技師・海軍関係者46名が死亡する惨事となった。
10月23日に再浮揚され1940年4月にサンダーボルトと改名し10月26日に再就役した。
イタリア潜水艦カピターノ・タランティーニを撃沈するなど活躍するも1943年3月14日、メッシナ海峡にてイタリアのコルベット艦チコーニャの爆雷攻撃で撃沈された。生存者はいなかった。
地中海を主に活動の場とし、ドイツ潜水艦U-374、イタリア潜水艦グリエルモッティを撃沈した潜水艦キラーでもある武勲艦。
1942年、スペインのバイヨーナにエージェントを送り込み、ビスケー湾での哨戒を終えて英国に帰投中に消息を絶つ。
彼女は11月11日に英空軍沿岸コマンド第172飛行隊のウェリントン爆撃機により敵艦と誤認され撃沈されたとされている。
1940年4月29日、ノルウェー方面の哨戒に向かう途中、ノルウェー船アトレ・ヤールと衝突した。
当時の視界は100ヤード程と悪く、両者が互いに気付いた時の距離は僅か50ヤードで、ユニティに出来たことは隔壁扉を閉めることと後進を命じるだけで、衝突して沈没するまでに要した時間は僅か五分。
死者は浸水する操舵室に残って乗組員の脱出を助けた二人を含む四名であった。
1941年7月16日、北海での哨戒任務の後に地中海に向かう任務を与えられ、北向け船団に同行してメドウェイ河口を出撃。だがエンジン不調で船団の最後尾にいた。
19日の深夜、南向け船団と船団はワッシュ沖ですれ違ったが、敵襲を警戒しての灯火管制下のなかで南向け船団を護衛していた英武装トローラーピーター・ヘンドリックスとアンパイアは衝突して彼女は沈没した。犠牲者は22名であった。
1943年2月20日に竣工したが、それより僅か四日後の24日にアラン島沖で訓練中に消息を絶ち、1994年に沈没している姿が発見された。
深水度潜行訓練中での何らかのアクシデントが沈没原因といわれる。
米海軍のR1級潜水艦R19が1942年3月9日に英海軍に引き渡され改名したもの。
1942年6月21日にニューファウンドランド沖でカナダ海軍掃海艇ジョージアンと遭遇。其のエリアでの友軍潜水艦の存在を知らず、またこちらの呼びかけに応答してこないことからP519を敵艦と判断したジョージアンはラム攻撃を敢行。撃沈されたP519の生存者は居なかった。
アメリカ合衆国海軍
ネバダ級戦艦の二番艦。
第一次世界大戦では大西洋艦隊の一艦として輸送船団の護衛活動を行った。
1941年12月8日の真珠湾攻撃で撃沈され、浮遊されるが損傷が激しいためスクラップになることが決定し、アメリカ本土へ回航中に沈没。
フロリダ級戦艦の二番艦。
第一次世界大戦では大西洋艦隊の第六戦艦戦隊旗艦として輸送船団護衛に従事。
1928年にはハーバート・フーヴァー大統領を乗せリオデジャネイロを訪問する栄誉も得たが、ロンドン軍縮会議の結果、標的艦となる。
1941年12月8日の真珠湾攻撃では戦艦と誤認され、日本軍機の攻撃により撃沈。
レキシントン級航空母艦一番艦。
開戦初頭、ニューギニア方面の日本軍攻撃に活躍するも、姉妹艦であるサラトガが戦争を生き残ったのに対して、世界初の本格的な空母同士の海戦である1942年5月7〜8日の珊瑚海海戦にて僚艦である空母ヨークタウンと共に日本海軍の空母祥鳳を撃沈し、翔鶴を撃破するも、自らも爆弾・魚雷をそれぞれ二発受け、ダメージコントロールの宜しきを得て一旦は火災を鎮火、浸水を止める事に成功する。しかし後の空母大鳳と同様に被弾により漏れた航空ガソリンが気化して密封式の艦内構造の為に艦内に充満し、それに引火した事で大爆発を何度も起こし、8日に駆逐艦フェルプスにより雷撃処分される。
転覆をせずに沈んだ事からある乗組員は「最期まで腹を見せなかったな。レディ・レックスは淑女だったよな」と語ったと言う。
ヨークタウン級航空母艦の縮小版。
第二次世界大戦当初は地中海にてマルタ島への戦闘機輸送などに活躍。
太平洋戦線に異動して間もなくの1942年8月24日の第二次ソロモン海戦では前日に給油の為に南下した為に参加の機会を逃し、9月15日に伊19により撃沈される。本艦を狙って外れた魚雷が戦艦ノースカロライナを撃破、駆逐艦オブライエンを撃沈した事でも有名。とばっちりを受けた両艦は不運であった。
クリーブランド級軽巡洋艦タラハシーが設計変更されインディペンデンス級航空母艦の二番艦となったもの。
1943年に実戦に投入されてより数々の作戦に従事した歴戦の艦であったが、1944年10月24日所属する第38.8任務部隊への日本軍空襲を撃退したと思われた10時00分頃、雲より突如急降下してきた一機の彗星艦上爆撃機の爆弾を飛行甲板に受け、貫通した爆弾は格納庫で爆発。火災が発生し、一時鎮火したと思われたが弾薬庫に引火し大爆発を起こし放棄が決定され軽巡洋艦リノ、駆逐艦アーウィンにより雷撃処分された。さながらミッドウェーで日本空母を襲った悲劇のようにたった一発の爆弾で17時50分に沈む事となったのだった。
本艦は第二次世界大戦のアメリカで特攻で無い通常の航空攻撃で沈んだ最後の空母であり、また彼女を救おうと近接して消火活動にあたっていた軽巡洋艦バーミンガム、軽巡洋艦リノ、駆逐艦アーウィンとモリソンを爆発に巻き込み損傷させてしまった(しかも人的被害は当のプリンストンより上)不運な艦でもあった。
カサブランカ級護衛空母十九番艦。
サイパン、テニアン、ペリリュー、レイテの攻略戦支援などに活躍するも1944年10月25日に退却したと思われていた日本軍の主力である第二艦隊と不意の遭遇をし撃沈された。砲撃のみによって撃沈された世界で二隻だけの空母だった。
1906年に就役したテネシー級装甲巡洋艦のネームシップであったが、1916年5月25日にテネシーの名を翌年に起工される戦艦に譲りメンフィスと改名する。
7月、内政混乱の続くドミニカ共和国のサントドミンゴ港に派遣されるが、8月29日に海面にうねりを見て港を離れようとするも、機関部への浸水により蒸気圧を上げるのに手間取った彼女は最大のもので高さ21mに達したともいわれる3波からなる津波を受けて40名の死者を出し座礁、全損となった。
1917年1月13日、昨年にフンボルト湾にて霧の為に座礁した潜水艦H-3の救助活動支援中、自らもカリフォルニア北部のサモアビーチにて座礁するというミイラ取りがミイラになる結果となり、乗員に死傷者はなかったものの彼女の救助の試みは失敗に終わり、3月6日に退役となった。11月には彼女の船体は嵐の為に二つに折れたという。
彼女の喪失の原因となったH-3は後に復旧し、第7潜水戦隊の旗艦まで務めている。
画像はクリーブランド級軽巡洋艦。
クリーブランド軽巡洋艦六番艦。
ブーゲンビル、沖縄で損傷しているが有名なのは1944年10月24日に彗星艦上爆撃機の爆撃を受け炎上した空母プリンストンに近寄り消火作業に努めている折に、プリンストンの爆発に巻き込まれ上部構造物が大破し600名を超える死傷者を出した悲劇であると思われる。
ポートランド級重巡洋艦2番艦。
太平洋戦争開始時ではすでに旧式艦だったものの常に第一線で戦果を挙げ続け、また第五艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス提督の旗艦として愛用される。1945年7月30日に機密任務で原爆をグアム島に運んだあと、ひとまずグアムからレイテ島の停泊地へ向かう途中伊号第五八潜水艦に偶然発見され、撃沈される。機密任務を終えたばかりだったためアメリカ海軍はインディアナポリスの撃沈に数日間気付かなかった。その間乗組員がどうなったかというと映画ジョーズの劇中の説明よりも過酷だった。
画像は同じクレムソン級駆逐艦であるスチュアート。
開戦初頭のバリ島沖海戦に参加。
1942年3月2日、チラチャップからオーストラリアに脱出中に日本機に発見され、第二艦隊司令長官近藤信竹中将の旗艦重巡艦愛宕、高雄により撃沈された。
同艦は四本煙突であったことから付近に居るとみなされていた軽巡洋艦マーブルヘッド(実際は空襲で損傷を受け本国に帰還)と艦種のみならず名前まではっきりと誤認され、生存者もいなかった事からそれを否定する者も無く、アメリカ側もその為か彼女の最期を知ったのは戦後のことであった。
- ハル モナハン(ファラガット級駆逐艦)
- スペンス(フレッチャー級駆逐艦)
真珠湾攻撃時に特殊潜行艇を沈めたモナハンをはじめとしていずれもが歴戦の艦であった。
1944年12月17日のコブラ台風に遭遇し、スペンスは燃料タンクが空に近い状態で復元性を持つ為に海水を入れるも効果なく、ハルと燃料は充分にあったモナハンは元々復元性が悪いとされるファラガット級の為かそれぞれ転覆して沈没した。
1942年10月11日の夜のサボ島沖海戦で艦隊の進路変更の折に僚艦の駆逐艦ファーレンホルトと共に艦隊より脱落し、日本艦隊側寄りとなった両艦は敵だけでなく味方からも誤認射撃される事となった。
ダンカンは奮戦するものの、敵よりも味方からの方が多かったと言われる被弾で大破炎上し、翌日に沈没を遂げた。ファーレンホルトも味方から被弾し大破した。
アメリカ側の指揮官であるノーマン・スコット少将はレーダーで発見した日本艦隊を二隻の誤認ではないかと疑っており、アクシデント的に米側が発砲(軽巡洋艦ヘレナが砲撃要請を受理されたものと誤認)を始めてからもこの事を気にかけ続け、砲撃を一時中止させており、結果的に両艦は味方の戦果拡大を妨げてしまうという不運も付いてしまった。
シムズ級駆逐艦七番艦。
1942年1月19日、サンフランシスコで衝突事故を起こす。
9月15日、先述の空母ワスプが沈没した折に、彼女から外れた魚雷の一本が命中。沈没は免れ16日にエスピリトゥサントに入港し、応急修理やレーダー、魚雷発射管を外す等の重量削減を行い、10月10日に修理の為にサンフランシスコに向け出港するも不具合が見つかり13日にスバに寄港、更なる応急処理の後に16日に出港するも船体に新たな亀裂が生じ、19日に船体が切断され沈没した。
後に充分な調査と応急修理がされないまま外洋に出た事がその原因とされた。
ポーター級駆逐艦のネームシップ。
1942年10月26日の南太平洋海戦の最中、不時着した空母エンタープライズの雷撃機の救助中に当の雷撃機から何らかのトラブルで発射された魚雷を受け沈没。当初アメリカ海軍は日本軍の潜水艦によるものと考えていたが戦後日本側の記録を見ると当時その海域には日本軍の潜水艦はいなかった。
現在では前述のように味方の雷撃機による誤射だと考えられている。
ミッドウェー海戦、第二次ソロモン海戦に参加し、後方支援部隊の護衛などにも従事した。
1943年1月12日、アラスカのアムトチカ攻略部隊護衛に従事中に座礁。姉妹艦のデューイの曳航も失敗し、海岸岩場に流されたウォーデンの惨状に艦長のウィリアム・ポーグ中佐は総員退去を命じ、この折に14名の溺死者を出した。
彼女は全損と判定された。
1944年9月13日にフロリダ沖でハリケーンに遭遇し、トップへビーが災いし沈没。
1927年7月26日に予備役となるも1930年3月には復役し、1940年11月19日には掃海艇に分類され改装工事を行った。
太平洋戦争勃発後は船団護衛などに従事したが、1942年12月26日にアリューシャン方面で船団を護衛中に荒天により二発の爆雷が脱落して海に落ち爆発。その爆発でワスマスは艦尾を損傷して荒海のなか座礁し、給油艦ラマポにより乗組員が救助された後の29日、海の中に彼女はその姿を没した。
船団護衛に活躍するも1944年1月3日の早朝、ニューヨーク港内にて爆発を引き起こし転覆して沈没した。
この時の天候は吹雪のような悪天候で飛行機が使えない為に沿岸警備隊の実験ヘリコプター部隊に出動命令が下り、このヘリコプターによる初めての救命活動で40組あまりの輸血資材が運搬され負傷したターナー乗組員生存者の多くを救ったという。
船団護衛、哨戒などに活躍した艦であり1942年2月18日の04時10分、ニューファウンドランドにてカスター級補給艦ポラックスを護衛中に強風の為に座礁し沈没した。
トラクスタンは座礁してほぼ瞬時に船体は粉砕されたために地域住民の必死の救助活動にも関わらず110名の死者を出し、またこの折に彼女が護衛していたポルックスも座礁・沈没して93名の死者を出す大惨事となった。
リヴァモア級駆逐艦で、第二次世界大戦では大西洋での船団護衛に従事。
1942年8月22日、その日に起きたノヴァ・スコティアでの濃霧の中の駆逐艦バックとニュージーランド兵員輸送船アワティーとの衝突事故を調査中、夜に彼女自身も給油艦シェームングと濃霧の中で衝突事故を起こして瞬時に沈没。彼女の艦尾の爆雷も爆発した為に生存者は11名に過ぎなかった。
1944年からのアメリカ軍によるマリアナ・フィリピン・沖縄などの日本軍への数々の大反攻作戦に従軍した歴戦の艦であった。
沖縄戦では艦砲射撃による陸軍支援を行っていたが、その最期は姉妹艦たちのように神風特攻隊の攻撃によるものではなく、1945年5月18日、支援射撃を行っていた小碌沖で座礁。曳船アリカラの救助も間に合わず、日本軍沿岸砲台からの射撃により大破。その後、友軍により撃沈処分されるというものであり、艦長を含め84名の戦死者を出した。
第二次世界大戦において陸上砲台の攻撃で損失した唯一のアメリカ海軍駆逐艦とされる。
グリーブス級駆逐艦。1944年11月15日にエリソン級高速掃海艇に改装される。
トーチ作戦、オーバーロード作戦、ドラグーン作戦への参加や船団護衛、沖縄などでの掃海活動に従事した歴戦の軍艦であった。
1952年4月26日、第六艦隊との合流の為にジブラルタルに向かう空母ワスプと駆逐艦ロッドマンに同行するホブソンはアゾレス諸島西方の海域にあったが、夜間飛行訓練を実施して風上に進路変更したワスプが左舷に舵を切った彼女の船体中央に衝突。船体を両断され五分以内に沈没し、艦長W・J・ティレニー大尉をはじめとして176名が死亡する惨事となった。
商船だけでなく特設砲艦、哨戒艇を含む多大な戦果をあげた武勲艦。
だが、最期は1944年10月3日、駆逐艦シェルトンを攻撃した呂号第41潜水艦として現場からかなり離れていたにも関わらず誤認され、更に送った信号も味方のふりをしていると判断されて友軍の駆逐艦リチャード・M・ローウェルに撃沈されるというものであった。
24隻の日本軍艦船を撃沈し、米海軍の潜水艦で撃沈数二位を誇る武勲艦であり、1944年10月25日にミ23船団を襲撃した折も商船一隻を撃沈、一隻を航行不能にするという武勲艦の名に恥じない戦果をあげ、更に新たな目標を攻撃したが、発射した最後の魚雷が舵の異常により回頭し、艦尾を振ってそれを躱そうとしたものの叶わず暴走魚雷はタングに命中し沈没した。
辛うじて脱出出来たのは艦長のリチャード・オケーン少佐ら九名であり、日本軍の捕虜となった。
1939年5月23日にポーツマス沖にて公試運転での潜水において主導バルブ閉鎖の失敗による浸水により沈没。26名の死者を出すも救難艦ファルコンの適切な処置で残り33名の乗組員は救助される。
9月13日に再浮揚され、11月15日に予備役となるも1940年2月9日にセイルフィッシュと改名され5月15日に再就役し、空母冲鷹を撃沈するなどの戦果を挙げることとなる。
商船など三隻を撃沈した艦であったが、1944年3月26日に日本軍船団に対して放った二本の魚雷のうち一発がUターンしてタリビーに命中するというタングと同じ理由で沈没。
生存者はブリッジの見張り台にいて爆発で海に投げ出され日本軍の捕虜となった一名のみであった。
主にアリューシャン方面の哨戒活動に従事。
1944年1月4日、ハワイ諸島沖にて対潜水艦訓練中に消息不明となる。沈没原因は不明。
1940年10月16日に復役後、偵察、哨戒活動などに従事。
1943年6月12日にキー・ウエスト沖にて潜水訓練中に電池事故により沈没。
バラオ級潜水艦で太平洋戦争が終結して間もなくの1945年8月25日に竣工した。
1949年8月に潜水艦タスク、トロ、コーセアと共に対潜訓練、ソ連無線傍受の任務に北海で従事するも25日、悪天候の中、シュノーケルより海水が前部機関室に逆流してショートした蓄電池により塩素・水素ガスが発生。
緊急浮上後、ガス換気の為に主機を作動させるも水素ガスを吸い込み爆発、火災が発生した。
最悪の状況のなか乗組員は必死で14時間にわたる復旧作業にあたったが26日に今度は第二機関室が爆発して乗組員の努力は水泡に帰し、総員退去命令が出された彼女は01時45分頃に海中に姿を消した。
25日の11時21分頃に合流していたタスクにより民間技術者一名を除くコチーノ乗組員全員が救助されたが、悪天候の中での救援活動は困難でタスクは7名の溺死者を出したと言われる。
1800年8月8日にインサージェントはハンプトンロードを出港、ピカリングは20日にニューキャッスルを出港後、消息を絶つ。
9月20日に西インド諸島を襲った台風により両艦は沈没したと思われる。
バナー級環境調査艦2番艦。
1968年に北朝鮮に拿捕される。
現在に至るまで拘留状態。
ベルモント級技術調査艦2番艦。
第三次中東戦争でイスラエル軍の誤爆により大破。
いずれもプロテウス級給炭艦。三番艦のジュピターを残してサイクロプスは第一次世界大戦中、残り二隻は第二次世界大戦中に大西洋で行方不明になるという奇妙な一致を見せた。
残されたジュピターはアメリカ海軍初の航空母艦ラングレーに改造され、太平洋戦争勃発直後は水上機母艦としてオランダ領東インド周辺で活動中に日本海軍の陸攻部隊の攻撃により撃沈された。
砲艦。
嵐が生存者の救援に向かうもすでに艦内が他の連合国艦艇の捕虜でいっぱいだったため一人だけ拾い上げられ他は“退去”させられた。
その唯一の生存者も1945年3月に捕虜収容所で死亡したためアメリカ海軍の公式記録では生存者なしと記録された。
同じ時期に近くで撃沈されたエクセターやエンカウンターの乗員が日本海軍に救助された美談の影に隠れた悲劇であった。
ドルフィン級ブリッグ艦。
1854年9月に台湾沖で行方不明になる。
画像は同じロサンゼルス級潜水艦のバッファロー。
2012年にドッグで修理中に作業員の放火で損傷。
この損傷により退役。
アメリカ連合国海軍
人力駆動の潜水艦。
1864年2月17日に北軍の軍艦フーサトニックを攻撃し、潜水艦として初めて敵艦の撃沈に成功する。が、直後にH.L.ハンレーも沈没。
長らくフーサトニックを攻撃した際の爆発に巻き込まれたと思われていたが引き揚げ調査で人力駆動による乗組員の酸欠だと判明した。
ドイツ海軍
ビスマルク級戦艦のネームシップ。
近年は最新鋭旧式戦艦と揶揄される事が多い彼女だが、初陣でのライン演習作戦での巡洋戦艦フッド撃沈、ビスマルク撃沈に投入された英海軍の膨大な兵力と執念、二転三転する戦況、最期の浮遊する残骸と化しても強靭に沈む事を拒んだ事などから伝説となった武勲艦である。
だが、彼女の最初にして最後の出撃であるライン演習作戦にはケチが付き纏った。
本来ブレストにある巡洋戦艦グナイゼナウも参加する予定であったが英空軍の空襲で被雷して挟撃出来なくなった事。
ベルゲンに進出する途上でスウェーデンの航空巡洋艦ゴトランドに発見され、その協力者によって英国に通報され、ベルゲンを偵察した英軍機に鮮明な写真すら撮影された事。
ベルゲンで艦隊司令長官のギュンター・リュッチェンス大将は何故か給油時にビスマルクの燃料を満載にせずに出撃し、デンマーク海峡での戦闘において前部燃料タンクが浸水により使用不能と為った事から燃料不足をきたしビスマルクの作戦活動は打ち切られフランスへと向かう事となった事。
U-556がビスマルク攻撃隊を発艦させつつある空母アーク・ロイヤルを発見し、更に相手は駆逐艦の護衛も無い上にジグザグ航行もしておらず格好の目標であったが既に魚雷を撃ち尽くしていた為に攻撃出来なかった事。
アークロイヤルの第一次攻撃隊は誤ってビスマルクを追尾中の軽巡洋艦シェフィールドを攻撃してしまったがシェフィールドには幸いに損害は無かったばかりか、その折に使用した磁気魚雷が不発で終わった為に第二次攻撃隊は接触信管の通常魚雷を装備できた事。
そして極めつけは第二次攻撃隊が命中させた二本の魚雷のうちの一本が右舷後部に命中した事。
この爆発の衝撃で舵は12度に固定されて操作不能となり、必死のダメージコントロールも海が荒れている事もあり効を奏さず、スクリューのみでの操艦も試みられたが失敗に終わり、英主力艦隊を240㎞程引き離し、ドイツ空軍の活動範囲内に潜り込める寸前だったビスマルクは北へ7ノットあまりの速度で進み、逆に迫り来る英主力艦隊の方に近づく事となってしまった。
最初、ビスマルクの針路を聞いた英本国艦隊司令長官ジョン・トーべー大将は信じられぬ幸運に偵察機が標的の艦首と艦尾を間違えるという初歩的なミスを犯したと思ったといわれる。
一方、ビスマルクの舵機室が部署である一人の兵は演習で合法的にサボる為に舵室に直撃弾を受けたので全員戦死という事にしましょうと上司に進言したところ、その上司が笑いながら此処が直撃を受ける可能性がどれだけ確率の低い事か説明した時の事を痛烈に思い出したという。
またある士官は自分が爆薬を装備して固定された左舵との舵取機構の作動軸を自爆する事で破壊すると進言したが、必ずといっても良い程に推進軸を損傷させるために却下されたともいう。
かくしてビスマルクは戦史でも稀な虐殺的な戦闘の末に沈む事となる。
ビスマルク級戦艦二番艦。
戦艦なのにあまり目立った活動ができず、外洋へ出ての攻撃という本来の任務も果たせず、三回出撃したが殆どは数年間に亘って息を潜めていたような状態で、しかもビスマルク級ということで大きな脅威とみなし有力な兵力を対応の為に拘束され続けたイギリス軍から空軍、X艇、艦載機と執拗に攻撃され続ける。
とうとうパラヴェーン作戦による5トン爆弾による攻撃で外洋航海や本国回航が不可能となるほどの大損害を受け、仕方なくトロムソ西方のハーコイ島の南岸に着底して砲台運用しようとするも紳士の爆弾にぶっ飛ばされて大破横転し、そのまま沈没着底。1000人以上の乗組員が艦内に閉じこめられ、うち半数が犠牲となった。
画面、左の艦。
シャルンホルスト級巡洋戦艦の二番艦。
第二次世界大戦開戦当初からベルリン作戦までドイツ艦隊司令長官の旗艦を務め、姉妹艦であるシャルンホルストと共に第二次世界大戦でのドイツ水上軍艦で最も活躍した輝かしい戦歴を誇る武勲艦の一隻。
旗艦をシャルンホルストに譲り、その華々しい戦歴に更に一ページを添えた英仏海峡突破のツェルベロス作戦を成功させた後の1942年2月26日、作戦中での触雷、キールに向かう折の難破船との衝突での損傷修理の為にキールにて修理中にウェリントン爆撃機の空襲を受け、被弾による火災が前部燃料タンクに引火し第一砲塔を損失し艦首を大破するという大損害を受ける。
4月4日にゴーテンハーフェンに回航され、艦首と主砲塔を撤去し、38cm連装砲塔への換装工事を始めるも、1943年のバレンツ沖海戦での敗戦に激怒したヒトラーのドイツ水上艦隊解体命令の一環として7月1日に改役され、その年の末には工事は中止となった。
武装は撤去され、ドイツの要塞などに転用され、1945年3月28日、ゴーテンハーフェンにてソ連軍に対する閉塞船として自沈。
輝かしい戦歴に彩られた武勲艦であるが、その最期は姉妹艦のシャルンホルストが北岬海戦にて奮戦の後に軍艦としての最期を遂げたのに比べれば侘しいものであった。
マクデブルク級駅巡洋艦のネームシップ。
第一次世界大戦ではドイツ海軍バルト艦隊に所属して機雷敷設、陸上砲撃などに従事するも早くも1914年8月26日00時37分頃に濃霧の中でフィンランド湾のエストニア沖オーデンスホルム灯台北にて座礁。離礁の試みは全て失敗に終わり、更にロシア巡洋艦パラルーダ、ボガトィーリが接近し交戦するに及び駆逐艦V26は生存者を移乗させマクテブルクを自沈させた。だが、艦を完全に破壊する時間は無く、彼女はロシア側の調査を受ける事となり、艦に残っていた艦長のリヒャルト・ハーベニヒト少佐達は捕虜となり、艦内と海中から暗号コードをはじめ多数の有益な情報をロシア側は得た。
この事実をドイツ側は知ることは無く、ロシア側からの情報提供により暗号解読に成功したイギリス海軍によってドッガー・バンク沖海戦、ジュトランド沖海戦等でドイツ海軍は待ち伏せを受けるなど以後イニシアティブを取られ続ける事となり、マクデブルクは結果的に彼女の犠牲で友軍全体を危険に晒してしまう事となってしまった不運な艦であった。
1878年5月6日に就役したばかりの新鋭艦であったが、カール・フェルディナント・バッチ少将の指揮の下、姉妹艦プロイセン、中央砲郭艦ケーニヒ・ヴィルヘルムと共に演習航海の為にヴィルヘルムスハーフェンを出港するも、31日、グローサー・クルフェストはドーバー海峡にて前方を通過中の2隻の帆船を回避し右舷に回頭した後に進路を戻したところを、彼女の左舷前方に位置し、これも帆船を回避する為に右舷に舵をきったケーニヒ・ヴィルヘルムが艦間距離が充分でなかった為に回避できぬままグローサー・クルフェストの左舷に衝突し、そのラムは彼女に致命傷を与え8分余りで沈没するに至った。
こうしてグローサー・クルフェストは、その処女航海で乗員500名余りのうちの半数以上の犠牲者と共に喪われる事となった。
1905年に就役し、1913年に退役したものの1914年8月12日には第一次世界大戦勃発により現役に復帰する。後の高海艦隊司令長官フランツ・フォン・ヒッパー提督が艦長を、後のドイツ海軍総司令長官エーリヒ・レーダー提督が航海長を務めた事もある。また1913年3月4日には暴風雨の中で水雷艇S178と衝突してこれを沈めてしまう事故を起している。
1914年11月4日朝、英国のヤーマスを砲撃したヒッパー提督率いる第一偵察艦隊主力の護衛をした彼女は艦隊と共に前日は濃霧のために入港できなかったヴィルヘルムスハ―フェンに帰投中に誤って味方機雷原に入り2つの機雷に触雷し転覆して失われた。
この為にパイパー艦長は軍法会議で有罪の判決を受ける事となった。
カールスルーエ級軽巡洋艦のネームシップ。
第一次世界大戦では大西洋で18隻の商船を撃沈・捕獲する活躍を見せ英海軍を翻弄させるも、新たな狩り場としてカリブ海のバルバドスに向う途中、1914年11月4日18時30分、原因不明の爆発を起こして27分後に沈没した。
爆発は前部火薬庫の弾薬の爆発による連鎖反応と推測され、艦橋より前を損失する事となったが、更にその折に艦長のエーリヒ・ケーラー中佐と乗組員の多くは艦首で軍楽隊の演奏に聞き入っていた事が悲劇に輪をかけ、ケーラー艦長を含む263名が死亡する事となった。
146名の生存者は僚艦のリオネグロに救出され12月6日、キールに辿りついている。
ライプチヒ級軽巡洋艦のネームシップ。
第二次世界大戦が勃発して間もない1939年12月3日に機雷を敷設する駆逐艦部隊の護衛と言う主客転倒した任務で英潜水艦サーモンの魚雷を一本被雷。同じく損傷した軽巡洋艦ニュールンべルクが修理されたのに、本艦は損傷を完全修理する事無く練習艦となってあっさりと現役を引退し、ドイツ海軍軽巡洋艦にとって数少ない晴れ舞台ともいえるノルウェー侵攻に参加出来ず。
以前に練習艦ブレムゼとも衝突をしたが、1944年10月15日には今度は重巡洋艦プリンツ・オイゲンに中央部に衝突され、あわや両断されかける程の損傷を受ける。
第一次世界大戦後、最初の駆逐艦として就役したZ1型駆逐艦の1番艦。
ポーランド侵攻時に敵艦隊と砲火を交え、英沿岸に機雷敷設作業に従事するも1940年2月22日ヴィーキンガー作戦中に僚艦Z3と共に味方の誤爆により沈没。ただしZ1に関しては英軍の機雷に触れた可能性もあるという。
生存者60名。
1924型水雷艇。姉妹艇全てが猛獣の名を冠する事から猛獣級とも呼ばれる水雷艇の一隻。
1939年8月27日、ボルンホルム島南東で演習中に駆逐艦Z3マックス・シュルツと衝突して数分内に沈没し2名の死者を出した。
上記のティーガーと同じく1924型水雷艇。猛獣級とも呼ばれる水雷艇の一隻。
1929年10月29日に演習で死傷者は無かったものの戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインと衝突している。
スペイン内戦に参加。第二次世界大戦勃発時には第六水雷艇隊であり、機雷敷設、通商破壊に従事し、ヴィーゼル演習作戦ではオスロ攻略部隊に属した。
スカラゲラク海峡にて機雷敷設作戦遂行中の1940年4月30日の00時38分に敷設艦プロイセンに衝突され沈没した。
練習艦でありながらベルゲン攻略に活躍し、最期は船団を守って鬼神の如き奮戦の末に沈んだ武勲艦であるが、1939年11月7日に軽巡洋艦ライプチヒと衝突。それからおよそ一年後の1940年11月1日には今度は商船ドナウと衝突した。
また座礁癖もあり、1940年4月30日、12月2日とニ回も座礁していずれもスタヴァンゲルにて修理を受けている。
因みに1941年9月7日の彼女の最期の戦いでは英軽巡洋艦ナイジェリアと衝突したとも言われる。
ビスマルク級コルベット五番艦。
1900年12月16日、訪れていたスペインのマラガ港で嵐に遭い、11時頃に機関故障の為に漂流して桟橋に流され座礁し、25分頃に沈没した。艦長を含む41名が死亡した。
仮装巡洋艦。第二次世界大戦のドイツ仮装巡洋艦の中ではニ回出撃した事もあって最大の戦果をあげた。また英仮装巡洋艦一隻を撃沈、二隻を撃破した仮装巡洋艦キラーでもある屈指の武勲艦であったが、1942年11月30日、横浜港にて隣接していたドイツタンカーウッカーマルク号の爆発により沈没した。
第一次世界大戦において三回の哨戒活動に従事したが戦果は無かった。
1915年1月21日、荒天下のオランダ沖にて友軍であるU-22に敵と誤認され、信号に返答も無かったことから撃沈された。生存者は一名のみだった。
U-7艦長であるゲオルグ・ケーニヒ中尉とU-22艦長ブルーノ・ホッペ中尉は親友であったことも悲劇を上塗りしたと言われる。
第二次世界大戦では二回の哨戒任務に従事するが戦果なく、それ例外の任務は殆どは練習艦として使用される事であった。
1943年3月19日、練習艦として乗組員の訓練に従事中にバルト海にて潜水事故により沈没し、乗組員37名中、21名の死者を出した。
6回の哨戒任務に従事し商船二隻の戦果を上げ、練習艦としても活用されたが、1944年2月18日、バルト海で潜水事故により沈没し乗員29名全員が死亡した。
11隻の商船を撃沈した潜水艦で11回目の哨戒を終えてからはドイツ本国で練習艦として使用されるようになり、バルト海で1940年9月3日にノルウェー商船ロタと衝突し、六名の死者を出して沈没した。
その後浮揚され1941年1月には復帰する。
1945年5月3日、キールにて自沈を遂げた。
六回の哨戒任務を果たし、13隻を撃沈した歴戦の武勲艦。
1944年3月17日にノイシュタットのUボートの桟橋で標的に見立てたダミー貨物船の下を通過する訓練中に目標の位置を誤り司令塔が接触して捥ぎ取られる事態となり、操舵室に浸水。しかし他の区画は無傷であり乗組員も適切な処置で全員が脱出に成功した。
船体は3月中には浮揚されたが修理されることなく8月4日に除籍され破棄された。
その経歴において一人の重傷者を出した以外は乗組員に死傷者は出なかったと言われる。
(画像は同型艦のⅦC級潜水艦)
四回の哨戒任務に従事し、9隻を撃沈し、1隻を全損させる戦果をあげた。
1941年11月4日、グリーンランドのファーフェル岬沖にてSC-107船団の商船ホッベマ、エンパイアーリンクスを沈め、英国弾薬輸送船ハッチムラにも魚雷を命中させた。止めの一撃を加えようとしたたU-132であったが、その眼前でハッチムラは僚艦U-442の魚雷によって大爆発の末に撃沈された。
だが、その折に生じた破片はU-132を直撃し、彼女を沈めたという。
U-132に生存者は無かった。
U-659(ⅦC級潜水艦)
U-439は四回、U-659は五回の哨戒任務を行った艦であり、スペインはフィニステレ岬沖にて狼群ドロッセルを11隻のUボート共に形成して船団攻撃の為に出撃していたが1943年5月4日未明にU-659が左舷より追い抜こうとしている事に気付かなかったU-439が左に回頭したためにU-659の右舷発令所に衝突。
それによる浸水によりU-659は沈没。U-439も浮上不能となり後に英海軍トローラーカヴァーレイとの衝突で沈んだと推測される。
生存者はU-439が九名、U-659は三名であった。
1943年5月14日にキールにてアメリカ空軍の爆撃を受け大破着底。
その後浮揚され、主に訓練用として使用される。
1944年4月14日、U-1272と共にノルウェーに向かう途中、ドイツ小船団と遭遇。
面倒を避けるためにU-1272は深く潜行してこれを避けたが、逆にU-235は浮上して彼女を味方と識別してもらおうとしたと思われるが、途中でU-1272にならい潜行に移った。
この海域での味方艦の存在は知らされず、それどころか敵潜水艦の活動エリアとして警告を受けていた船団護衛中の水雷艇T-17はU-1272の危惧どおりにこれを敵艦と判断して爆雷攻撃を加えU-235を撃沈した。
彼女の乗組員に生存者はいなかった。
哨戒任務を一度も行うことないまま1944年2月14日、ゴーテンハーフェン沖にてドイツ汽船エルナと衝突して沈没し、乗組員46名中、22名の死亡者を出した。
1942年9月2日、バルト海にてU-626と衝突して沈没した。哨戒任務を行うこと無く、生存者は3名に過ぎない最期だった。
一回の哨戒活動を行うも戦果は無く、1945年2月15日、ノルウェーのベルゲン沖で深々度潜行試験中に事故により沈没。生存者は居なかった。
四回の哨戒任務を行い、最後の哨戒ではエジプト沖にて英軽巡洋艦ガラティアを撃沈する殊勲をたてた武勲艦であるが、その哨戒からの帰途である1941年12月16日の21時44分頃、彼女はクレタ島沖を哨戒中のイタリア水雷艇オリオーネに発見される。
U-557は同日の夕刻に自艦の位置を送信していたが、オリオーネの艦長は出撃時に付近に味方潜水艦がいるという情報は持たず、また新たにそれを覆す情報も受信していなかった事からこれを敵艦と判断してラム攻撃を敢行。その結果として瞬時にU-557は撃沈され、生存者はいなかった。
幸運と不運の同居した彼女の最後の哨戒任務であった。
1945年4月に初哨戒任務で出撃した時にはシュノーケル、そして従来よりも深い深度で使用可能な高圧トイレを装備した艦であった。
14日、スコットランド沖の200フィートの深度で潜行中に艦長のカール・アドルフ・シュリット大尉はトイレを使用する事としたが新式の高圧トイレは使用法が複雑であり、艦長から使用する事を聞かされていなかった専門家が助言の為にトイレの前に到着した折には、案の定、不慣れな艦長は操作を誤り、彼が開いたバルブは排出するどころか海水をトイレから噴き上げる結果となった。
更に事態はそれだけには留まらず、トイレ下の蓄電池にまで海水は浸水し塩素ガスを引き起こし、艦は換気の為に浮上を余儀なくされた。
しかし運悪く敵哨戒機に発見され攻撃により損傷するに及び、シュリット艦長は潜行もままならず位置も露呈し、更に損傷した状況を鑑みて、機密保持と部下の命を守る為に艦を自沈させた。
乗組員のうち46名が生存し、死者は4名であった。
本艦はトイレで沈んだ不名誉な最期を遂げた艦として有名であるが、最期の折の戦死者を除けば、短期間とはいえ建造時から彼女に関わった人々に死傷者を出さなかったとも言われており、見方を変えれば、出撃して敵に発見されては次々と撃沈されていた戦争末期のUボートの中で、4名の死者を出したがそれでも46名が生存する事が出来た彼女は乗組員にとっては幸運な艦であったかも知れない。
因みに番号が似ていることから間違われるが、上記の原因で沈んだのはU-120では無い。
1941年3月の最初の哨戒任務では商船一隻を撃沈するも、23日に貨物船を狙った甲板の105㎜砲は水密木栓を乗組員が外し忘れていた事から暴発して乗組員三名が負傷し、標的にも逃げられるケチがついたものとなった。
5月9日、グリーンランドのファーフェル岬沖の北大西洋東部でOB318船団を攻撃し商船二隻を沈めるも、潜望鏡を余りに長時間海面より出していた為にコルベット艦アウブレティアに発見され、潜行してこれを避けるも爆雷攻撃を受け、更にその攻撃には駆逐艦ブルドッグ、ブロードウェイも加わり、U-110はその攻撃により塩素ガスが発生し、圧縮空気配管も破裂して浮上せざるを得ない深刻な打撃を受けた。
艦長のフリッツ=ユリウス・レンプ大尉は艦の放棄を決意し、浮上後に乗組員を退艦させ自らも脱出したが、彼の予想に反して艦は沈まず、機密を守る為に泳いで彼女に戻ろうとするところを英軍に射殺されたとも言われる。
駆逐艦ブルドッグのデヴィット・バルム中尉を指揮官とする捜索隊によりU-110は調査され、重要書類・エニグマM3を手に入れる収穫をあげた。そしてその事実を秘匿するために彼女は自沈させられ、生き残って捕虜となった32名の乗組員はアイスランドの捕虜収容施設に送り込まれる事となった。
こうして艦長をはじめ15名の戦死者を出したU-110は潜水艦でエニグマを捕獲された第一号という不名誉な経歴を最後に加える事となった。
(画像は同型のXXIII級潜水艦)
一回の哨戒任務も行わないまま、1945年2月18日、ハイリゲンダム沖にて姉妹艦のU-2326と衝突して沈没した。生存者は三名であった。
- 第二次世界大戦後期のドイツ軍Uボート
デーニッツの息子が搭乗していたU-954など。
全体で死亡率60%以上を記録した。
もと補給艦アルトマルク。
支援していた装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーが撃沈した船の捕虜を受け取り(その後シュペーはイギリス海軍に発見され戦闘の後自沈)ドイツ本国へ輸送中の1940年2月16日に中立国ノルウェーの沖でイギリスの駆逐艦コサック(艦長は後の名将フィリップ・ヴァイアン)に襲撃され捕虜を奪還される。この事件によりノルウェー政府の英国に対する弱腰に不信を抱いたドイツ軍のノルウェー侵攻を招いた。
ウッカーマルクに改名後の1942年11月24日に輸送任務で日本に来航するが、1942年11月30日に横浜港で大爆発を起こし、ドイツの仮装巡洋艦トールと日本の商船第三雲海丸などを道連れにして沈没。
ハンブルグ海軍本部
54門の砲を持つ三等戦列艦であり、ハンザ同盟の船団を海賊より護衛するために建造された。
1683年10月10日の夜に失火原因不明の火災が生じ、必死の消火活動も及ばず火薬庫に引火して爆沈する事となった。
65名の死者を出し、その中には海賊との戦いに功績のあったべーレント・ヤコブセン・カルファンガー提督も含まれていた。
ソビエト海軍・ロシア海軍
- 日本海海戦に参加したロシア帝国海軍艦艇(アヴローラなど脱出に成功した艦を除く)
イギリスの妨害など苦しい航海の中、奇跡的に1隻も脱落しなかったがウラジオストクを目前に発生しやた日本海海戦で戦果をほとんど出せず、奇跡的に脱出に成功したアヴローラなどの一部を除き撃沈・鹵獲されるという大敗を喫する。
特に撃沈された最新鋭戦艦ボロジノ級3隻の生存者はクニャージ・スヴォーロフ沈没前に駆逐艦に移乗していたロジェストウェンスキーら司令部要員を除くとボロジノの砲手1人だけであった。
- ロシア革命後のロシア帝国海軍艦艇の多く
画像は戦艦インペラトリッツァ・マリーヤ。
戦艦ヴォーリャを例にすると所属が帝政海軍→臨時政府→赤軍→ウクライナ中央ラーダ→ウクライナ国→帝政ドイツ→イギリス→白軍→ロシア亡命政府→フランス→赤軍とひたすら流浪の日々。最後の持ち主のもとに落ち着くころには廃艦寸前になっていることが多かった。
亡命政府の所属としてそのままフランスの港で朽ち果てる艦も…。このような変転の中で、まがりなりにもメンテナンスを受けられた大型艦は(十月革命の火蓋を切った)アヴローラくらいのものである。
ペトロパヴロフスク級戦艦のネームシップ。
ロシア太平洋艦隊の旗艦であり、日露戦争でもロシア太平洋艦隊司令長官オスカル・スタルク中将、次の司令長官ステファン・マカロフ中将の旗艦を務めた。
1904年4月13日、旅順封鎖の為に機雷を敷設中の日本駆逐艦隊と接触した駆逐艦ストラーシヌイ救出の為に艦隊を率いて旅順を出撃した折に日本軍敷設の機雷に触雷しマカロフ提督と共に沈んだ。
名将マカロフを失った事はロシア太平洋艦隊にとって大きな打撃であった。
ある意味、巡洋戦艦の先駆けともいえるペレスヴェート級戦艦のネームシップ。
日露戦争ではロシア太平洋艦隊に配属され、1904年8月10日の黄海海戦では太平洋艦隊の次席指揮官であるパーヴェル・ウルムスキー少将の旗艦を務め、太平洋艦隊司令長官代理ヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将の戦死後は一時的に艦隊旗艦として旅順に退却する艦隊を率いた。
12月7日、占拠された二百三高地からの誘導による砲撃で既に損傷していた旅順港の彼女は自沈を遂げ、旅順降伏後は日本軍に捕獲されて修理の後、1905年8月22日に相模と改名され日本海軍軍艦となった。
第一次世界大戦が始まると日本は同盟国となったロシアに彼女と、丹後と改名されていたポルタワを返還する事となり、1916年4月4日に彼女は日本海軍軍艦から除籍され、名前も元に戻して5月4日にウラジオストックでロシア側に引き渡されるも、23日に座礁して、8月には舞鶴に修理の為にドッグ入りと再び日本に舞い戻る事となる。
修理を終え、白海に回航される事となるが、その途上でのエジプトのポートサイド北方で1917年1月4日、U-73の敷設した機雷に触雷し、もう一度故国を見ることなく沈没した。
インペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦のネームシップ。
ロシア黒海艦隊に初めて配属された弩級戦艦であり、第一次世界大戦では船団護衛、陸上砲撃に活躍したが1916年10月20日、セヴァストポリ停泊中に生じた火災が副砲弾薬庫に引火し大爆発を起こして転覆し沈没した。出火原因は不明で乗組員によるサボタージュも噂された。
1919年、ソ連海軍が浮揚させデモクラティーヤと命名するもそのまま放置され1926~1927年に解体された。
(画像は同型艦のコンテ・ディ・カブール)
元イタリア海軍コンテ・ディ・カブール級戦艦二番艦のジュリオ・チェザーレがソ連に賠償艦として引き渡され改名したもの。
1955年10月29日、セヴァストポリにて停泊中に機雷に触雷し、ダメージコントロールの手際の悪さ・ミスが重なり横転して沈んだ。更に総員退去の命が出されず、死者416名を出した。
沈没原因は外部での爆発による浸水で機雷とされ、独軍占領時の機雷が残っていたなど言われるが、今までもノヴォシロークが同じ場所に停泊していた事から同艦がソ連の物となった事に屈辱を感じた元イタリア海軍の者によるテロなどの憶測を呼んだ。
1993年にささいな事故で原子炉を停止するが当時のロシア太平洋艦隊は不祥事続きで頻繁に司令部要員が入れ替わっており、原子炉の再起動には艦隊司令官の許可が必要だったのだがそれができずに放置され現在に至る。
視察した西側の専門家が「現地に原子炉の再稼働の手順を知っている専門家がいないので稼働できない」と述べた事もあった。
キエフ級重航空巡洋艦。かつてはたびたび対馬海峡や宗谷海峡を航行する姿が日本で報道されたため、マスコミのソ連脅威論の象徴として扱われた。
ソ連崩壊後キエフは中国へ、ミンスクとノヴォロシースクは韓国へ文字通り身売りされる。
特にミンスクとノヴォロシースクの売却代金はダミー会社を通して海軍高官のポケットへ収まったとのこと。
キエフは売却後、中国でミラーボールなどを設置したホテルへ改装。ミンスクは中国へ転売後テーマパークになるが火事や経営会社の倒産などに見舞われ状態は良くない。ノヴォロシースクは韓国で解体。
…まあ戦没や同士討ちや事故による損失よりは…
1942年11月20日、QP15船団を護衛中にバレンツ海にて荒天により切断された艦尾を爆雷の誘爆にて喪失。22日には救助は断念され、座礁して放棄された。死者は35名だった。
S型潜水艦。
1945年1月末~2月初頭にバルト海で東プロイセンからの難民を輸送していた客船ヴィルヘルム・グストロフとシュトイベンを撃沈。ソ連の潜水艦としてはトン数あたりの戦果が最大の撃沈記録を引っ提げて帰還するが、戦果を信用してもらえず逆に艦長は冤罪でシベリア送りに。客船二隻の撃沈は公式記録に記載されなかった。
イタリア海軍
イタリアが初めて建造した準弩級戦艦であるレジーナ・マルゲリータ級戦艦の二番艦。
1905年9月1日に竣工し、1911年の伊土戦争に参加した。
第一次世界大戦の最中の1915年9月27日、ブリンディシ港にて停泊中に後部弾薬庫の爆発により沈没し、第二艦隊第三戦隊第二分隊司令官エメストロ・ルビン・デ・セルヴァン少将を含む421名の死者を出した。
イタリア側はこれをオーストリアの破壊工作として公表したが真実は定かではない。
コンテ・ディ・カブール級戦艦の一番艦。
第一次世界大戦に参加したが活躍の機会は無かった。
1922年に国王ヴィットリーオ・エマヌエーレ三世の御召艦となり、1925年にはベニート・ムッソリーニも使用した。
近代戦艦として大改装され第二次世界大戦に参加。
開戦時には実戦可能なイタリア艦隊の貴重な二隻の戦艦のうちの一隻であり、1940年7月9日のカラブリア沖海戦に参加するも11月11日のタラント空襲で魚雷一発を被雷して大破着底。その後引き揚げられて修理中の所を1943年にドイツ軍に鹵獲されるが復帰することなく1945年2月15日の連合軍の空爆により再び大破する。戦後はスクラップとして処分。
コンテ・ディ・カブールといいジュリオ・チェザーレといいレオナルド・ダ・ヴィンチといいコンテ・ディ・カブール級戦艦はみなろくな最期を遂げていない。
普墺戦争中の1866年のリッサ島攻略作戦でイタリア艦隊司令長官カルノ・ぺリサリーノ大将の旗艦として出撃した。が、敵艦隊の眼前で司令官が旗艦を装甲艦アフォンダトーレに変更、レ・ディタリアとその僚艦はおいてきぼりにされたところをヴィルヘルム・フォン・テゲトフ少将率いるオーストリア艦隊に突撃され、特に依然旗艦だとオーストリア側に誤認されたレ・ディタリアは集中攻撃を受けて操舵不能になったところを敵艦に体当たりされ沈没。
(画像はザラ)
高速軽防御の傾向のあったイタリア巡洋艦の中で比較的低速ながらも雷装を廃した重防御艦であり、出現当時は重巡洋艦としては最も装甲の厚い艦であった。
第二次世界大戦勃発時は、ポーラは第二艦隊の独立旗艦を務め、ザラ、フィーメ、姉妹艦ゴリツィアは第一戦隊を編成しザラがその旗艦を務めていた。(後に第二艦隊が廃され、ポーラも第一戦隊に組み込まれる)
1941年3月26日、戦艦ヴィットリオ・ヴェネトを旗艦とし第一戦隊も含まれたイタリア艦隊はドイツの要請もありギリシャ方面の船団を攻撃するために出撃した。
28日の早朝には英伊両艦隊の巡洋艦が小競り合いを始め、10時55分頃にはヴィットリオ・ヴェネトも交戦に加わったが、全面的支援を約束したドイツ空軍は僅かに二機のJU88を艦隊直衛に派遣しただけであり、それも英軍のフルマー戦闘機に撃墜・撃退され、更にヴィットリオ・ヴェネトが英空母フォーミダブルの艦載機アルバコア雷撃機の攻撃を受けるに至り、航空支援を望めないばかりか敵に陸上機のみならず空母もあることを理解したイタリア艦隊司令長官アンジェロ・イアキーノ中将は本格的な艦隊戦を始める前に撤退を決断した。
しかし、英軍の追撃は激しく、15時09分頃にはクレタ島からの爆撃機による水平爆撃に気をとられていたヴィットリオ・ヴェネトがアルバコア雷撃機により魚雷を一本被雷し速力が低下し、損傷した艦隊旗艦を守る為に五列の単縦陣となった伊艦隊に再び空襲が行われ19時50分頃にポーラが僚艦のフィーメと衝突の危険があったために満足な回避行動を取れずに魚雷を一本被雷し航行不能となった。
第一戦隊司令官カルロ・カッタネオ少将はイアキーノ提督に駆逐艦二隻によるポーラ救出を提案したが、回答は第一戦隊と第九駆逐隊の駆逐艦四隻による支援命令であった。
この時、英地中海艦隊司令長官アンドリュー・カニンガム中将率いる艦隊はイタリア艦隊より僅か55マイルの位置にあったが、イアキーノ提督は誤った情報でその位置をもっと離れたものと考えており、更に通信伝達の問題でカッタネオ提督が指揮下の艦隊をポーラ救出の為に反転させたのは21時05分頃となり、その速力も駆逐艦の燃料事情を考慮したのか16~22ノットと低く抑えられ、またその陣形は旧態依然としたイタリア海軍の夜間航行規則通りに重巡洋艦が駆逐艦を従えるという主客転倒した陣形で、それにより駆逐艦での前方警戒は出来ず、第一戦隊は破滅へと確実に歩を進めていた。
22時20分頃に現場に到着した艦隊はポーラ曳航に取り掛かるが、27分頃、突如として3500メートル余りの至近距離から英戦艦ウォースパイト、ヴァリアント、バーハムの砲撃を受けた。
既に20時50分頃には先行する巡洋艦がレーダーでポーラを捉えていた英艦隊のこの満を持しての攻撃は伊艦隊には完全な奇襲となり、ザラは機銃だけが応戦し、辛うじて駆逐艦ヴィットリオ・アルフィエリは雷撃を行うことが出来たものの命中を得ず、カッタネオ艦隊の大部分は五分以内のうちに無力化され、損傷した駆逐艦アルフレド・オリアーニと無傷の駆逐艦ヴィンチェンツォ・ジョベルティのみがこの地獄のような海域から脱出することが出来た。
破壊されたフィーメは23時15分頃に転覆して沈み、大破したザラでは手の施しようがないとして総員退去命令が出され、英駆逐艦ジャービスの雷撃を受けた後、29日の02時40分頃に沈没した。
姉妹達を悲劇に追い込んでしまったポーラでは救援艦隊の惨状を目の当たりにして総員退去の命が下された。彼女には敵による拿捕の可能性もあったが、夜明けが近いことから英側がそれを断念し、駆逐艦ヌビアンの雷撃によって29日の04時03分頃に沈んだ事は彼女には僅かな慰めとなったかも知れない。
かくしてイタリア第一戦隊はカッタネオ提督と共にマタパン岬沖海戦と後に名づけられたこの海戦で壊滅し、ザラ級は予備として出撃しなかったゴリツィア唯一隻のみが残される事となった。
アルベルト・ディ・ジュッサーノ級軽巡洋艦のネームシップと二番艦。
途絶しがちのアフリカへの燃料輸送が軽巡洋艦ルイジ・カドルナにより成功し、気を良くしたイタリア海軍は第四戦隊司令官アントニーオ・トスカーナ少将の旗艦ジュッサーノとバルビアーノにも燃料輸送を命じた。
両艦は水雷艇チーニョの護衛を受け1941年12月12日に出撃するが、前回同様の敵機の襲撃を察し反転したところ13日の03時頃迎撃に出ていた英駆逐艦三隻、オランダ駆逐艦一隻の奇襲を受ける。反撃はジュッサーノが辛うじて三斉射したぐらいであり、砲雷撃を受けた補給物資のガソリン満載の両艦は短時間の戦闘で沈没した。
トスカーナ提督をはじめ817名が戦死を遂げる輸送船として沈んだ軍艦の悲劇だった。
第一次世界大戦の最中の1917年12月28日に竣工したが、半年も経たない1918年4月10日、戦艦3隻を護衛中に姉妹艦ジャチント・カリーニに船体中央部を衝突され沈没した。1時間前にはフランス駆逐艦フォも駆逐艦マンガニと衝突して沈んでいる。
アウダーチェ級駆逐艦のネームシップ。
1916年8月30日に船団護衛の任務中、イタリア商船ブラジルと衝突し沈没した。
彼女の次にアウダーチェの名を冠するのは、建造中にイタリア海軍に譲渡され当初はイントピレードの名を冠する予定であり、第二次世界大戦のイタリア降伏後はドイツに接収され、英海軍に撃沈される波乱の生涯を送った元浦風型駆逐艦江風であった。
マルタへの補給の為のMW10船団の護衛艦隊に対してイタリア海軍が優勢に戦いを進めていた1942年3月22日の第二次シルテ湾海戦で艦隊は夜戦を避け戦闘を打ち切り帰投するが、その途中にランツェーレが荒天により沈没。23日、シロッコも荒れる海の為に座礁し沈没した。また軽巡洋艦ジョバンニ・デレ・バンデ・ネレも損傷した。
船団はマルタに到着したものも含めて空襲で全滅したものイタリア海軍には苦い損失であった。
1942年6月8日シシリー島沖で船団を護衛中にその存在を知らなかった友軍の潜水艦アラジの誤射により沈没。誤射で失われたイタリア海軍唯一の駆逐艦であった。
1943年9月10日、イタリア降伏のため連合軍へ投降する途中に触雷し沈没 。
1938年10月から水雷艇に級種変更される。第二次世界大戦では船団護衛などに従事。
1940年11月19日の21時19分頃に補助巡洋艦カピターノ・チェッチと衝突し、救出努力も及ばず20日の0時35分頃に沈没した。
1942年12月25日に姉妹艦アルディートと協力して英潜水艦P48を撃沈した武勲艦であったが、船団護衛の任務を終え、パレルモに向かっていた1943年1月12日、悪天候の中、シチリア沖にて兵員輸送中のイタリア駆逐艦グレカーレと衝突し沈没した。
アルキメーデ級潜水艦四番艦。
1940年6月16日にアデン沖でノルウェーのタンカージェームス・ストーブを撃沈する殊勲をたてるも護衛の駆逐艇の爆雷攻撃で蓄電池などを損傷し塩素ガスが発生。空調装置不調により浮上航行を余儀なくされる。
6月19日、敵機に発見され潜行してこれをやりすごしたが、浮上後まもなく英武装トローラームーンストーンを発見し再度の潜行を余儀なくされた。
しかし彼女はムーンストーンに発見され、爆雷攻撃を受ける事となる。
塩素ガスの為に潜行を続けるには限界があり、やむを得ず浮上し死中に活を求めて砲撃戦を挑むも長時間塩素ガスの漂う悪環境の中にいた最悪のコンディションでの乗組員では砲撃も振るわず、戦闘の結果、司令塔に被弾して艦長であるコラード・ナルディ少佐をはじめ士官も一人の士官候補生を除いて戦死した為に遂に降伏するに至った。
駆逐艦カンダハーにアデンに曳航された本艦は英潜水艦X2として再就役し、1946に除籍解体された。
1942年8月12日、英軍のペテスダル作戦において、一度の雷撃で英軽巡洋艦カイロを大破・魚雷処分に追い込んだばかりか、軽巡洋艦ナイジェリア、油槽船オハイオにも魚雷を命中させた戦績を持つ歴戦の艦。
1943年のイタリア降伏後は連合軍に降伏し、その後、連合軍側となったイタリア海軍として活動を行うも12月25日にギリシャ方面の偵察任務の命を受けタラントを出港し任務にあたるも27日にギリシャのモレア付近の沿岸で地図に詳細に記されていなかった浅瀬に座礁・着底し自沈処分された。
イタリア側の挑発行為の一環と見られるが、1940年8月15日の未だ開戦前のギリシャの軽巡洋艦エリを撃沈した悪名で有名。
第二次世界大戦中は哨戒任務、訓練艦、輸送任務などにあたり、作戦行動中に襲ってきたサンダーランド飛行艇を返り討ちにした事もあった。
1943年3月23日、タラント沖にて水先案内船と舵故障が原因と思われる衝突を起こし沈没した。
第二次世界大戦では41回もの哨戒任務をこなし、英国商船一隻を撃沈している。
1943年9月8日のイタリア降伏を受けて連合軍に対する戦闘活動を停止し、ボナに回航される事となるが、そこに到着する事は無く消息を絶った。
12日にサルジニア島のカルボナーラ岬の南西で英空軍にUボートとして撃沈された潜水艦があり、それがトパツィオと推測される。沈没は急速ではあったが、それでも撃沈後に海面で生存者が確認されたが救助はされず、彼女の乗員は皆が行方不明となった。
フランス海軍
サン・エスプリ級戦列艦のクーロンヌがフランス革命後に改名したもの。
1795年3月、コルシカ奪還の為にツーロンを出撃したピエール・マルタン提督率いる13隻の艦隊に属し、13日にジェノヴァ湾にてウィリアム・ホザム提督率いる英地中海艦隊15隻と遭遇した。
革命の影響で経験豊富な艦長を欠き、規律も乱れ、戦意あがらないフランス艦隊は戦うポーズだけを示して撤退を図るも、その折にサ・イラは操艦を誤りヴィクトワールと衝突。幸いヴィクトワールの損傷は軽微であったものの、サ・イラは前部とメインのマストを失う損傷を受けて艦隊より脱落する事となり、また英艦隊の風上に位置したために突出してきた英戦列艦アガメムノン(艦長はホレーショ・ネルソン)、フリゲート艦インコンスタントの攻撃を逃げ切れずに受ける事となった。
攻撃を行う英艦のうち特にアガメムノンは砲力に勝るサ・イラとの同航戦を避けて、巧みに彼女の艦尾に付いては片舷射撃を繰り返すほぼ一方的な攻撃を続け、友軍の戦列艦サンスール、フリゲート艦ヴェスタルの来援、そしてホザム提督の撤収命令もあり、なんとか敵を撃退した折にはサ・イラは110名余りの死傷者と甚大な損害を受けていた。
翌朝、サンスールに曳航されて撤退するサ・イラを拿捕しようとする英艦隊とその阻止を図る仏艦隊との間で戦闘が始まるも、逆風と拙劣な砲撃で仏艦隊の試みは失敗に終わり、戦闘に参加したデュケーヌも撃退され、仏艦隊はサ・イラとサンスールを見捨てて撤退した。
こうして戦場に残される事となった両艦は奮戦するも、再びサ・イラが操艦を誤りサンスールに衝突。サ・イラの帆装がサンスールに落ち両艦とも座礁。サ・イラはアガメムノンに捕獲され、サンスールも捕獲される結果となった。(ジェノヴァの海戦)
英海軍の艦となったサ・イラではあったが、損傷が激しいために軍艦として復帰する事は無く病院船として使用されることなるも、1796年4月11日、停泊していたコルシカ島のサンフローレンで失火により火災を起こし、収容されていた負傷者を運び出した後に、町・船舶への延焼を避けるため沖合いに出され、その姿を海に没した。
パラス級40門帆走フリゲート艦にして最も有名なフリゲートの一隻。
ナポレオン戦争中に就役し、戦争中はアジア、カリブ海、大西洋で活動。
王政復古後の1816年6月17日にイギリスより返還されたセネガルのサンルイ港を受け取る為の四隻の船団の旗艦としてロシュフォールを出港。
しかし貴族であるメデューズ艦長兼船団指揮官のユーグ・デュロワ・ド・ショマレーは元々フランス海軍軍人ではあったが、フランス革命時に亡命して20年あまり海軍から遠ざかって居た為に知識・経験は薄れ、セネガル総督で早くサンルイに辿り付く事を希望するジュリアン=デジレ・シュマルツの言うがままにとった最短コースは海岸に近く座礁の危険性が指摘される場所であった。
ショマレーの海軍軍人としての拙劣さは船団を四散させ、海が浅瀬特有の状態を示す中も航行を続け、その無能ぶりに反発心を抱き始めた乗組員には失敗するまでやらせろ的な雰囲気も生まれていたともいう。
7月2日、遂にメデューズはモーリタニア沖のアルガン岩礁に座礁。
5日には強風で彼女が危険な状況にある事から乗組員・乗客の大部分は彼女を放棄して脱出する事となり、そのうち149名は急造の筏に移され、艦長達の乗るボートに牽引される事となったが、牽引のロープは切れ、ボートは筏を見捨て数人の死者を出しながらも艦長をはじめとする乗組員はサンルイに陸海から辿り着いた。
残された筏には僅かなビスケットとワインが残されただけであり、生き残る為に死者の肉を食したとも言われる阿鼻叫喚の地獄の末に船団の一隻であったアルギュス号に17日に発見された折に生存者は僅か15名に過ぎなかった。またそのうち5名は救出後、数日中に死亡したという。
因みにメデューズは搭載した黄金回収に派遣された隊にほぼ無傷の状態で発見されたばかりか、残留した乗組員のうち3名が54日後も未だに生存しており、彼等はイギリス海軍に救出されたといわれる。
この事件は大きな社会問題になり、軍法会議でシュマレーは勲章剥奪・海軍追放・3年収監となり、シュマルツは強制的に総督辞任に追い込まれたという。
またグーヴィオン・サン=シール法で階級でなく功績に基づく昇進の明確化がされる事となった。
そして事件はテオドール・ジェリコーの「メデューズ号の筏」として美術史に残る事となる。
クリミア戦争の最中の1855年2月14日、オデッサに兵員輸送の為にツーロンを出港するも15日に嵐の為にコルシカ島とサルデーニャ島の間に位置するラベッジ諸島にて12時頃に座礁して沈没。生存者は無かった。
アルフォンス・ドーデの短編集である風車小屋日記の一編である「セミヤント号の最後」で有名。
マジェンタ級舷側砲門艦のネームシップ。
フランス地中海艦隊の旗艦を務めるが、1875年10月31日、ツーロンに停泊中に火災が発生し、乗組員の消火活動も及ばず炎は火薬庫の爆発を引き起こし沈没した。
カルタゴの古美術品を多数輸送中の最中での事故だった。
クールベ級戦艦四番艦。
第一次世界大戦では地中海にあり、戦後はロシア内戦に干渉して黒海に派遣され、セヴァストポリ砲撃などを行うも、乗組員が反乱を起こし戦線を離脱する事件を起こし、この事件で乗組員26名が実刑を受けている。
1922年8月26日にブルターニュの南のキベロン湾で海図に明記されていない未知の暗礁に座礁し四時間後に沈没。3名の死者を出した。
イエナ級戦艦。同型艦は無い。
フランスで初めて副砲に16cm砲を採用した前弩級戦艦。
1907年3月12日、ツーロンにて左舷の100mm砲弾火薬庫で爆発を起こす。更に悪いことに爆発を繰り返す彼女は乾ドッグに入渠中で注水して消化することが出来ず、停泊中の戦艦パトリエが強引にもドッグ入り口を砲撃で破壊して海水を注水しようとしたが、その試みは砲弾が跳ね返され失敗し、爆発により周辺に破片が撒き散らされる危険な状況のなかでルー少尉が水門扉を開きドッグに注水する事に成功して、最初の爆発より凡そ一時間後の14時45分頃までには爆発はおさまり、鎮火することが出来た。
しかし殊勲のルー少尉は爆発の破片により亡くなり、艦も120名あまりの死者を出し、周辺の被害も大きく、また隣のドッグにあった戦艦シュフランは爆風により転覆するところであった。
爆発の原因は歳月を経た白色火薬の自然爆発とされ、メインマストより後部煙突までの上層構造物が破壊され、舷側にも大穴が開く惨状で彼女の修理に多大な費用が掛かる事が分かると、彼女は武装解除され標的艦として使用されることなり1909年12月2日に標的となった結果として沈没。7年あまりの短いその生涯を閉じた。(除籍は彼女の残骸が売却された1912年)
フランス海軍が初めて建造した準弩級戦艦リベルテ級戦艦のネームシップ。
地中海艦隊に属し、1911年9月25日、ツーロンに係留中、劣化した白色火薬からなる推進装薬が恐らく自然爆発し、艦長は火災が主弾薬庫に移る前に注水を図るも、注水弁は火薬庫の下に位置するために火災と煙で送り込まれたダメージコントロール班は辿り着く事が出来ず、火が回った前部火薬庫の爆発により艦長を含む250名余りの将兵の犠牲と共に艦は破壊された。
彼女の残骸は1925年まで残っていたという。
1898年6月に就役した戦艦としては世界初の三軸推進艦であり、強力な火力を備えた艦であるが、奇抜な印象を与える極端なまでのタンブルホーム型船体と重量感あるミリタリーマストなどの上部構造物の為に著しく安定性に欠けていたといわれ、また計画よりの重量超過により水線装甲帯の大部分は水没していた。同型艦はない。
1913年1月6日、ツーロンからビゼルトに向かう折にボイラーが爆発して乗組員8名が死亡し8名が負傷するという事故を起こしたが、その修理とオーバーホールを行うだけの価値は本艦には無いとして全損と判定され、武装などを撤去されハルクとなった。
1915年11月、敗色濃いガリポリ戦で連合軍は撤退の為にセダルバールの西に港を築く必要があり、マッセナはその防波堤として沈められる事が決まり、ツーロンから曳航され、9日に自沈を遂げた。
(イラストの左下)
ブルターニュ級戦艦のネームシップ。
第一次世界大戦と第二次世界大戦当初とも活躍の機会はなく、ようやく与えられたその機会は、フランスの降伏後、仏艦隊がドイツに利用される事を恐れて敵対行動に出たかっての盟友の英艦隊と1940年7月3日にメルセルケビール港にて交戦する事であった。
港外で巡洋戦艦フッドを旗艦とし、戦艦二隻の他にも空母一隻を擁して攻撃態勢を整えている英H部隊に対して港内に投錨状態の仏艦隊では勝敗は目に見えており、交渉決裂後の戦闘開始から艦隊は港内より脱出を図るが、四隻あった仏戦艦勢の中で最後に動いた事もあってかブルターニュには命中弾が相次ぎ、戦闘開始から僅か13分後に爆発を起こし転覆した。
第二戦隊司令官ボーザン中将をはじめとして977名の戦死者をだしたフランス海軍最大の悲劇であった。
因みに彼女を撃沈した英艦隊の旗艦であったフッドは後に独戦艦ビスマルクと交戦して爆沈し、そのビスマルクは英軍の航空攻撃で舵が固定された不運の為に航行の自由を失い後に英艦隊との交戦で屠殺的な最期を遂げ、そのビスマルクを損傷させた英戦艦プリンス・オブ・ウェールズはマレー沖海戦で日本軍の航空攻撃でたった一発の魚雷で航行の自由・速度・戦闘力を大幅に喪失しする不運の結果、戦闘航行中に航空機のみによって沈められた初の戦艦となるという一連の不幸の連鎖の端を発したとも捉えられる戦艦でもあった。
フランス極東艦隊旗艦を務め、コーチャン島沖海戦では通報艦四隻を率いてタイ海軍に圧勝した武勲艦であったが、1942年の日本軍の南部仏印進駐時にサイゴンで武装解除され抑留され、1945年1月12日のサイゴンへのアメリカ機動部隊艦載機の日本船舶への攻撃で巻き添えを喰らい、最後は自衛の為に対空射撃も行ったとも言われるが撃沈された。
元敷設巡洋艦プルトン。後に練習艦になった折に改名。
第二次世界大戦勃発直後の1939年9月13日、カサブランカにて機雷を陸上に運搬中に機雷が爆発し沈没。1940年2月24日に破棄された。
第二次世界大戦における最初のフランス軍艦の損失となった不運な艦であった。
第一次世界大戦中の1918年4月18日、オトラント海峡にて同盟国のイタリア戦艦3隻を護衛中に舵故障を起したフランス駆逐艦マンガニに衝突され沈没した。この1時間あまり後にイタリア駆逐艦ベネディット・カイローリも駆逐艦ジャチント・カリーニと衝突して沈んでいる。
第二次世界大戦では地中海で活動。1940年3月24日、カサブランカ沖にて搭載魚雷の一本が爆発し沈没を遂げた。
1940年4月30日、スコットランドのグリーノックに停泊中の14時15分頃にメンテナンス中で内向きにした魚雷発射管の誤作動で放たれた二本の魚雷が甲板で爆発し燃料タンク・前部火薬庫に火災を生じさせ、更なる爆発の危険から15時15分頃には食堂に閉じ込められてしまった者以外の乗組員は退去した。19時30分頃には火災は鎮火に向かったものの、彼女は曳航される前に沈没を遂げた。
第二次世界大戦でのフランス降伏後は自由フランス海軍となり船団護衛に活躍。
1942年7月12日には英海軍コルベットのローストフトと衝突している。
1943年5月27日、ベンガジ北方にて座礁。離礁作業が行われるも失敗に終わり、7月1日に全損判定となった。
ディアーヌ級潜水艦のネームシップ。
第一次世界大戦中の1918年2月11日の夜、ビスケー湾のラ・パリス沖で船舶を護衛中に原因不明の爆発を起し、乗員全員と共に失われた。
竣工して二ヶ月も経たない1928年10月3日、ツーロンに帰港中にギリシャ商船アイカテリニ・ゴウロウドリスと衝突し沈没した。乗組員42名全員が死亡した。
フランス降伏後はビシー政権の艦となったが、後に自由フランス軍に参加し、連合軍艦船として行動する事となる。
1944年7月8日、グリーンランド南東の北大西洋でONM243船団の哨戒機に発見された彼女はUボートと誤認され、MAC船エンパイア・マッカラム、エンパイア・マッコールの搭載機であるソードフィッシュの爆雷攻撃を受け4分後に沈没。生存者は1名に過ぎなかった。
オーストラリア海軍
当初はフェートンであったが、オーストラリア政府に購入されて改名。
第二次世界大戦では地中海で活躍し、カラブリア沖海戦、スパダ岬沖海戦などに参加。イタリア軽巡艦バルトロメオ・コレオニ、駆逐艦エスぺロを沈めた豪海軍屈指の武勲艦であった。
1941年2月からは本国に戻り、11月19日、不審なオランダ船を発見する。これはドイツ仮装巡洋艦コルモランであったが接近したシドニーは誰何に手間取り、秘密の船舶コードを示す様に命じたのはかなり時間が経ってからといわれ、また総員の戦闘配置もされていなかったとされる。
これまでと悟ったコルモランはオランダ商船旗を降ろし、ドイツ海軍旗をあげ偽装を解き、その主砲の近接射撃でシドニー艦橋に命中弾を与え、その射撃式装置を破壊し、更に魚雷を命中させて一、二番砲塔を沈黙させるも、残った三、四番砲塔によるシドニーの反撃は激しくコルモランは撃沈された。しかしシドニーも損傷激しく波間に消えた。
格下の相手に不覚をとった武勲艦の最期は生存者無しと言う悲惨なものだった。
1964年2月10日に空母メルボルンと衝突し沈没。
カナダ海軍
イギリスのC級駆逐艦クレセントが1932年2月17日にカナダ海軍に譲渡され艦名を変更したもの。第二次世界大戦では船団護衛などに従事した。
1940年6月25日の深夜、フランスより4000名の避難者救出の為のエアリアル作戦に軽巡洋艦カルカッタ、駆逐艦レスティーゴシュと共に従事中であったフレーザーは、荒天と視界不良の為にカルカッタに舷側に衝突され船体を切断する損傷を受け45名の死者と共に失われた。
イギリスのD級駆逐艦ダイアナが1940年9月6日に上記のフレーザーの代艦としてカナダ海軍に譲渡され艦名を変更したもの。
その最期はフレーザーと同じく10月22日、OL船団を護衛中にそのうちの一隻である貨物船ポート・フェアリーに衝突され沈むと言うものであった。
犠牲者は142名であった。
オーストリア=ハンガリー帝国海軍
- 第一次世界大戦後のオーストリア=ハンガリー帝国海軍艦艇全て
イラストはテゲトフ級戦艦
終戦後、艦艇は新たに分離独立したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国に引き渡されるがイタリア王国と艦艇の所有を巡って争い、ほとんどが破壊もしくはイタリアに引き渡し後すぐに解体された。
テゲトフ級戦艦の四番艦。
オーストリア=ハンガリー帝国の政治的都合で他の姉妹艦と違って大型艦の建造経験がないメーカーや造船所で建造されたため、水密隔壁などに欠陥があった。
1918年6月10日、他の姉妹艦と共にオトラント海峡へ出撃したところをイタリアの魚雷艇二隻に攻撃され、よりにもよって魚雷一本が本艦に命中、沈没。
スペイン海軍
レイナ・レジェンテ級防護巡洋艦のネームシップ。
1895年3月9日、モロッコのタンジールに向かう為にカディスを出港するも嵐の為に危険を察したフランシスコ・サンス・デ・アンディーノ艦長は港に引き返すことを命じるが、その後、消息不明となり現在も沈没場所は不明。
420名に及ぶ犠牲者はスペイン海軍最悪の海難事故の一つとなった。
スウェーデン海軍
1675年から始まったスコーネ戦争でスウェーデン艦隊司令長官ローレンツ・クロイツの旗艦を務めた乗組員500名の大型戦列艦であったが、その戦争でのエーランドの戦いの最中である1676年6月1日にエーランド北方海域で荒天下の中を急回頭を行った為に転覆、更に火薬庫が原因不明の爆発を起し沈没した。
この事故でスウェーデン海軍は艦隊司令長官ローレンツ・クロイツをはじめ多数の海軍高級将校、海軍医療関係者、それに陸軍兵士を含む800名以上ともいわれる人命が失われたばかりか、その沈没で隊列の乱れた艦隊はオランダ艦隊の攻撃を受け敗北を喫する事となった。
ノルウェー海軍
両艦ともノルゲ級海防戦艦。
1940年4月9日のドイツ軍によるノルウェー侵攻時にはナルビクにあり、アイズヴォウルドは侵入してきたドイツ駆逐艦隊の旗艦であるヴィルヘルム・ハイドカンプに停船命令と警告射撃を行った。
停船したハイドカンプから使者が送られ降伏を要求してきたが交渉は決裂。
既に近距離で魚雷発射管を向けていたハイドカンプは使者がアイズヴォウルドから離れるや魚雷を発射しこれを04時37分に轟沈させた。生存者は8名に過ぎなかった。
ノルゲは吹雪の中で陸軍部隊を上陸させているドイツ駆逐艦ベルント・フォン・アルニムを発見し交戦を始めるも両艦の砲弾は命中せず、アルニムの放った魚雷がノルゲに命中し彼女も姉妹のあとを直ぐ追う事となった。こちらも乗組員の半数以上の死者を出した。
こうしてノルウェー海軍最強の艦艇は祖国防衛に何ら寄与する事無く全滅した。
オスロ級フリゲートのネームシップ。
1994年1月24日、ハーコンスヴァーン海軍基地を16時に出港して二時間程後に機関故障により荒天下のなかMarstein灯台にて座礁。この折に士官1名が死亡。
25日、タグボートラースにより曳航中にSteinneset外にて沈没。
オスロ級フリゲート三番艦。
2006年3月17日、ラインフィヨルドにて座礁。ハーコンスヴァーン海軍基地へ巡視船トロムソに曳航されるも本格的な修理を行う事無く廃艦となることが決定された。
デンマーク海軍
戦列艦。
建造時は94門の大砲を載せた乗組員600名からなるデンマーク・ノルウェー最大規模の戦列艦であった。
1710年10月4日、大北方戦争にてコペンハーゲンに同盟国ロシア軍を輸送中の船団護衛に従事中にスウェーデン海軍に艦隊は補足され、ダンネブロも戦闘に参加するも、彼女の大砲の火花によって恐らく発火、折からの強風で炎上の末に戦闘開始から一時間後の15時30分に爆沈を遂げた。(コジェ湾の戦い)
乗組員の生存者は3名に過ぎなかったという。
オランダ海軍
当初はデ・ロイテルという艦名であったが1934年10月1日にヴァン・ゲントと改名され、デ・ロイテルの名前は新型軽巡洋艦に付けられる事となった。
1942年2月15日、パレンバンに侵攻する日本軍船団攻撃の為にガスパル海峡を航行中に未知の暗礁であったバミジョ暗礁で座礁し、駆逐艦バンケルトによって処分された。
ポーランド海軍
アメリカのS1級潜水艦S25がイギリスに貸与されポーランドに引き渡され改名した艦。
1942年5月2日、ノルウェー海にて作戦行動中に誤って本来の位置より100マイル離れた場所にあった為に英駆逐艦セント・オールバンズ、掃海艇シーガルに敵と誤認され爆雷攻撃で撃沈された。
ブラジル海軍
蒸気推進コルベット艦。
1865年6月、パラグアイ戦争では同盟国アルゼンチンのコリエンテス奪還支援の為にブラジル海軍は全兵力をリアチェロに送り込んでいたが、その報を受けたパラグアイ海軍はペドロ・メザ提督率いる7隻の武装した艀を曳いた8隻の艦隊を出撃させ、11日、フランシスコ・バロッソ提督率いる9隻の軍艦からなるブラジル海軍に挑戦した。
しかし、質ではブラジル海軍に遥かに劣り、更にその状況を打破するために目指した奇襲も一艦の機関故障などで遅れたことから、当初は善戦したパラグアイ艦隊は4隻の汽船と艀7隻を失い、メザ提督も海戦の戦傷で後日亡くなると言う大損害を受けて敗退した。(リアチェロの戦い)
この決戦での勝利でバラガ川の制海権を得たブラジル海軍でベルモンテ、バルナンザが大破したものの唯一の損失艦はヘクィティオンハのみであり、その最期は回頭の後に河岸付近で座礁した為にパラグアイの陸軍砲兵の格好の的となって完全に破壊されるというものであった。
アキダバン級装甲艦。同型艦は無い。
イギリスで建造され、1886年1月29日にリオデジャネイロに到着した。
1893年のアメリカでの国際観艦式に参加するなどブラジル海軍を代表する軍艦であったが、1891年、1893年のクストア・ジョゼ・デ・メロ提督の起こした反乱にも参加。二回目のものでは反乱軍の旗艦となり、1984年4月16日、サンタ・カタリナ湾で政府軍の一等水雷艇グスタボ・サンパイオの攻撃を受け艦首に魚雷が一本命中し大破着底。世界で初めて魚雷で沈められた主力艦となる。
その後、浮揚されヴィンテ・エ・クァトロ・デ・マイオと改名するも1900年には再びアキダバンと改名された。
1906年1月21日、Jacuacanga湾に停泊中、弾薬庫の爆発で波乱に満ちた生涯を閉じた。沈没に要した時間は僅か三分であり、提督三名を含む212名が死亡するという惨事であった。
バイーア級軽巡洋艦のネームシップ。
1909年に竣工し、第一次・第二次世界大戦にも参加し船団護衛に従事した。また1910年に水兵の反乱が起きたり、1918年にはスペイン風邪で乗組員の多数が罹患し病死しするなどの経歴もある。
1945年7月4日、ブラジル北東のセント・ポールズ・ロック付近にて対空演習として曳航した凧を標的として20㎜対空機銃にて射撃し撃墜するも、その銃弾は船尾の爆雷にも命中し大爆発を起して三分以内に沈没したと言われる。
姉妹艦であるリオ・グランデが救助活動に向かうもバイーアの沈没位置がはっきりしない為に捜索は困難を極め、8日に36名の生存者を救出したものの、残りの339名のうち半数あまりは沈没時には生存していたといわれるが溺死するか鮫の餌食となったと考えられる。
彼女はブラジル海軍が第二次世界大戦で経験した最悪の死傷者を出した艦となった。
アルゼンチン海軍
ドゥルモン級コルベット2番艦。1982年のフォークランド紛争で4月3日の上陸作戦の支援中に陸地に近づきすぎた所をイギリス守備隊の歩兵のカールグスタフ84mm無反動砲が命中し戦闘不能に。
アメリカ海軍時代は真珠湾攻撃を無傷で生き延び、直後に派遣されたオランダ領インドネシアからの脱出にも成功。ニューギニア方面やレイテ沖海戦を戦い抜く。
アルゼンチン売却後の1982年にフォークランド紛争に参加。
イギリス海軍の空母機動部隊を北方から空母ベインティシンコ・デ・マヨ(元イギリス海軍コロッサス級航空母艦ヴェネラブル)の艦載機、西方からゲリコらドゥルモン級コルベットの対艦ミサイル、南方からヘネラル・ベルグラノの艦砲射撃で挟み撃ちにする手筈だったのだがベインティシンコ・デ・マヨが機関の故障のため出撃できず作戦は中止、ゲリコらドゥルモン級コルベットの部隊も撤退し、ヘネラル・ベルグラノは駆逐艦二隻とともにフォークランド沖に残されたところをイギリス海軍の原子力潜水艦コンカラーの雷撃により撃沈。
ペルー海軍
客船浅間丸などを撃沈し、太平洋戦争での戦功で四個の従軍星章を得たもとアメリカ海軍バラオ級潜水艦アトゥル。
1988年8月26日に日本のマグロ漁船に追突され沈没。故意では無かったとはいえ、結果的に江戸の仇が長崎で討たれる形で沈んだ。
- 太平洋戦争に参加したペルー海軍艦艇全て
太平洋戦争と言っても日米戦争の事ではなく、1879年から1884年まで南米のチリとペルー・ボリビアの間に行われた戦争の事である。
ペルー海軍は半年に渡ってチリ側の海上作戦を妨害したものの、アンガモスの海戦で「ワスカル」は鹵獲され艦長も戦死。
これにより、ただでさえ質・量ともにチリ海軍に劣っていたペルー海軍はその戦力の中核を失い、首都リマの陥落時に残存艦艇は自沈し海兵隊も全滅したため、ペルー海軍は完全に全滅した。
ギリシャ海軍
第一次世界大戦や希土戦争で活躍。
1940年8月15日、いきなり国籍不明の潜水艦に攻撃され沈没。
いくつかの痕跡からイタリア軍の潜水艦デルフィーノの仕業であることは判明していたが、政治的都合でうやむやに。
トルコ海軍
エルトゥールル級フリゲート。同型艦はない。
1854年に竣工したトルコ国産の艦であり、1865年には近代改造で蒸気機関を搭載した。
小松宮夫妻のトルコ訪問への返礼として1889年7月14日にイスタンブールを発ち、1890年6月7日に横浜に到着。13日に司令官オスマン・パシャは明治天皇に皇帝アブデュルハミト2世の親書を届け目的を達したものの、老朽化していたエルトゥールルの損耗、多数の乗組員のコレラ罹患、資金不足などから帰国の為に横浜を発ったのは9月15日となり、台風の季節であるとの日本側の忠告を受けたうえでの出港であった。
16日、暴風に流されたエルトゥールルは紀伊大島の樫野崎に21時頃に座礁し、22時30分頃に沈没し、オスマン・パシャをはじめとする587名が死亡する惨事となった。
生存者の一部は断崖を自力で登って樫野崎灯台の灯台守に遭難を伝え、そこから事件を知った大島村樫野の人々による救難活動が始まり69名が救出され、彼等は蓄えの食糧にも事欠く村人達から非常食の鶏までも供出された手厚い保護を受ける事となる。
この事件を知った明治天皇は政府に支援を指示し、新聞により事件を知った国民からも義捐金などが寄せられ、神戸の病院に収容された生存者は1891年1月2日にコルベット比叡、金剛に乗船してイスタンブールに帰国することが出来た。
この事件は、その後、1985年のイラン・イラク戦争においてイラクのサダム・フセイン大統領が出したイラン上空航空機無差別攻撃宣言で、期限までのイラン在住の日本人脱出にトルコがエルトゥールル事件の恩返しと自国民の為の救援機を二機に増やして協力した話共々、日本とトルコを繋ぐ美談として有名となった。
(画像はギアリング級駆逐艦)
元はアメリカ海軍のギアリング級駆逐艦ハーウッドで、1971年12月17日にトルコに引き渡され改名したもの。
1974年7月のキプロス紛争におけるトルコ軍のキプロス上陸作戦に参加。22日に空軍により発見された船団を迎撃するために駆逐艦アダテプ、マレシャル・フェヴジ・チャクマクと共に派遣されるが、同海域のギリシャ船攻撃命令を受けていた空軍にギリシャ海軍所属のギアリング級駆逐艦と誤認され、54名の戦死者を出しコジャテプは撃沈された。
元米海軍のロバート・H・スミス級機雷敷設駆逐艦グウィン。
1992年10月1日にエーゲ海でNATOの合同演習に参加中に近くを航行していた米軍の空母サラトガの対空ミサイルが暴発。そのままムアヴェネトの艦橋に命中し艦長以下5名が死亡。
この時の損傷がもとで除籍。
フィリピン海軍
1967年12月15日にフィリピン海軍に貸与され、1975年6月30日に護衛駆逐艦からフリゲートに級を改められ、1978年7月にフィリピン海軍に売却され、1980年7月にダトゥ・カランチャウと改名された。貸与されてから最期の年までフィリピン海軍の旗艦を務めたフィリピン海軍を代表する艦でもあった。
1981年9月21日、フィリピン北部のカラヤン島でクララ台風により喪われた。97名の乗組員中79名が犠牲となったこの災害はフィリピン海軍史上最悪の事故の一つであった。
イスラエル海軍
もとイギリス海軍T型潜水艦『トーテム』
艦橋にお守りとしてトーテムポールを飾っていた。
第二次世界大戦に従軍後、イスラエル海軍に売却。トーテムポールを外した後1968年1月にイスラエルへ回航されるが行方不明になる。
エチオピア海軍
- エチオピア(練習艦)など、全艦艇
エリトリア独立戦争とエチオピア革命により、沿岸部の領土を全て損失。
艦艇はイエメンやジブチに避難の後、売却。
一隻だけ本国に持ち帰られ、ナイル川で活動中。
不運艦三軍
(未完成艦など)
日本海軍
建造中に関東大震災で被災。未完成のまま大破し破棄される。
船体の一部が浮き桟橋に流用され、現在も横須賀で現役。
1921年12月に進水するも翌年にワシントン海軍軍縮条約が締結し建造中止。
標的艦として砲弾や魚雷のテストに使われた後、1925年に沈められる。
余談だが、日露戦争で鹵獲したロシア戦艦の艦名候補に四国の国名があったが採用されなかった。
また、土佐と同様に四国の地名を与えられた大淀型軽巡洋艦仁淀も開戦により建造中止となった。
結局、四国の地名のついた初の戦闘艦は戦後のちくご型護衛艦・よしのとによどまで待つことになる。
ドイツ海軍
ドイツ海軍初の航空母艦。
空軍(より正確には某モルヒネデブ)と海軍の対立により完成できなかった。
イタリア海軍
ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦の三番艦。
完成しないうちにイタリアが降伏し、その後ドイツ軍の手に渡る。
空襲で破損したり爆薬の試験に使われた挙句閉塞船として沈められる。
戦後いくらかしてから引き揚げられるも移動中何度も座礁したため一年以上放置される。
客船『ローマ』を改造した航空母艦
完成前にイタリアが連合国に降伏しドイツの手に渡る。
その後イタリア王政派の攻撃により破壊された。
客船『アウグストゥス』を改造した航空母艦
完成前にドイツ軍に閉塞船として沈められた。
ソビエト海軍・ロシア海軍
- ソビエツキー・ソユーズ
- ソビエツカヤ・ウクライナ
- ソビエツカヤ・ベロルーシヤ
- ソビエツカヤ・ロシア
いずれもソビエツキー・ソユーズ級戦艦。
建造中に赤軍大粛清が始まり、すったもんだの末に独ソ戦が開始。すべて解体されるか破壊される。
ウクライナ海軍
スラヴァ級ミサイル巡洋艦。
1984年の起工以来、未だに完成しない。
アメリカ海軍
当時のアメリカ海軍の主力空母がミッドウェイ級(基準排水量45,000トン)だった時代に計画された基準排水量65,000トンの巨大航空母艦。が、空軍との予算の奪い合いにより起工の五日後の1949年4月23日に建造中止。一連のごたごたにより当時の海軍長官は辞職、国防長官は過労による鬱で自殺している。
「アメリカ空軍が撃沈した唯一の空母」とも言われる。
ちなみに建造に反対していた空軍幹部の筆頭格はあのカーチス・ルメイ。
イギリス海軍
マジェスティック級航空母艦。
1945年6月7日に進水するも第二次世界大戦の終結により解体。
機関部のみアルゼンチン海軍の空母ベインティシンコ・デ・マヨに移植されたが故障続きで1982年のフォークランド戦争ではろくに出撃できなかった。
韓国海軍
救難艦。
艤装の偽装問題により納入時期が不明。
おまけ
イギリス海軍
ドレッドノート級戦艦。
登場によりそれまでの軍艦全てを陳腐化させる。そしてもちろんイギリス海軍のドレッドノート以外の全ての戦艦も陳腐化、特に遅れて竣工してきた前弩級戦艦の処理に困ることになる。
多数の戦艦を遺物と化した彼女だが、自身も技術の進歩は恐ろしく早くあっという間に旧式艦に。
周囲から偽エチオピア皇帝事件をいつまでもネタにされていじられる。ブンガブンガ。
(画像はキング・ジョージⅤ世)
第二次世界大戦では奮戦したのに、36㎝砲は充分戦艦の主砲なのに、以前は世界最強の戦艦とまで言っていたのに戦後ウィンストン・チャーチルから「我々は戦艦のようなもので今大戦を戦った」と言われる。
ネームシップのレナウンは「名高い」、レパルスは「撃退する」「反撃する」の意味だが修理や改装で長くドッグにある両艦に対しレナウンは「HMS Refit」、レパルスは「HMS Repair」(両方とも女王陛下の軍艦修理号の意味)と陰口を叩かれる事に。
二隻とも過酸化水素を使った非大気依存エンジンを採用したエクスプローラー級潜水艦。
第二次世界大戦後のイギリス海軍における新世代の主力潜水艦の先駆けとなる予定であった。
25ノットもの水中速力を記録した一方、エンジンがポンポンと小爆発を起こしながら艦内にすさまじい悪臭を充満させたためしばしば浮上して乗組員を甲板に避難させなければならなかった。
エクスプローラーは爆発物 (Exploder)、エクスカリバーは拷問 (Excruciator)とあだ名された。
イギリス海軍の潜水艦開発は見直しを迫られ、結局アメリカから原子力潜水艦の技術を導入することとなり用済みとなったエクスプローラー級潜水艦二隻は解体された。
アスチュート級原子力潜水艦の1番艦。
やたら事故が多い上に銃乱射事件まで起きる。
アメリカ海軍
衝突事件、衝突未遂、僚艦との遺恨などで艦隊の疫病神と。
風評被害。実艦は普通に護衛任務に従事し、普通に退役している。
ドイツ海軍
多数の砲弾を受けながらも沈まぬ強靭さを見せつけた最期から、強固な防御力を持つ当時最強の戦艦の一隻とされてきたが、今では旧態依然とした設計思想の艦であり、近距離砲撃戦を想定した艦であった為に最期に強靭さをみせたとされ、最新鋭旧式戦艦と揶揄される事も。
更に艦長からは野郎扱い。(良い意味で(?)
風評被害その1。
進水式で洗礼を行った少女云々の怪談は、全て戦後になってアメリカ人が子供向けのオカルト本用に考えた与太話。
実際のシャルンホルストはそのような事象などなく、むしろ幸運艦の部類である。
風評被害その2。
こちらも戦後になって怪談が作られた様子。
駆逐艦二隻、商船九隻を撃沈する戦果をあげ、トロンヘイム攻略など活躍したが、戦艦一隻、巡洋戦艦一隻、駆逐艦一隻、味方の軽巡洋艦一隻に損傷をあたえた戦果の妹がドイツ海軍で最も活躍したと評されるのに比べて地味。
ロシア海軍
アンドレイ・ポポフ海軍中将が考案した円形の河川砲艦。
くるくる回転したことと、予算と資材と労力を浪費したことと、周囲(約一名を除く)が落胆したこと以外は特筆することはない。
前述のアンドレイ・ポポフ海軍中将が懲りずに造ったノヴゴロドの二号艦。
ノヴゴロドと同じく、くるくる回転したことと、予算と資材と労力を浪費したことと、周囲が落胆したこと以外は特筆することはない。
スペイン海軍
カナリアス級重巡洋艦。
姉妹艦のカナリアスに運を吸い取られる。
とにかくツイてない艦。
トルコ海軍
オスマン帝国の市民からの募金により発注、英国ヴィッカース社のバーロー造船所で設計を流用した事実上の姉妹艦である戦艦金剛とともに建造され、レシャディエは1913年に就役するも第一次世界大戦の勃発でオスマン帝国の背信を恐れたイギリス政府に強制的に接収される。
その後イギリス海軍の戦艦エリンとして就役。ユトランド海戦に参加する。
戦後は用済みとなり1922年に解体。
金剛や代役としてオスマン帝国がドイツから編入したゲーベンが第二次世界大戦の頃まで使われたことを考えると短い生涯であった。
中華民国海軍
フランスの政治スキャンダルに巻き込まれ予定していた装備を調達できなかったため目玉のステルス性能を発揮できず、さらに購入を巡る収賄事件で殺害事件にまで発展。
オーストラリア海軍
マジェスティック級航空母艦。
二度も重大な衝突事故を起こし相手の船を大破もしくは沈没させる。
日本海軍・海上自衛隊
不死身の疫病神。
不屈の疫病神。
隠れ疫病神。
戦後は陸奥撃沈の嫌疑をかけられる
誤報により自沈した逸話は有名。
英国で「飢狼」「これこそ本当の軍艦だ。今まで見た軍艦は客船だった」と戦闘機能だけを追求した居住性が悪い無粋な艦と皮肉で評されたが、当の日本海軍は素直に受け止めて御満悦。
ミッドウェーでやらかした嫌疑をかけられる。
隠れ青葉被害者でもある。
かなりの幸運艦、だったが最期は雪風に運を吸い取られる。
戦後デマを流される。
訳あり艦。
出る。
戦艦では未曾有の数の命中爆弾・魚雷を受けてシブヤン海に散ったにも関わらず、大日本帝国海軍の梃入れした壮大な儀式と思われるまでの特攻作戦という終わりの花道を用意された姉が日本海軍の象徴的な存在となり、果ては後にSF作品で宇宙にまで進出するほど名が知れたのに対して余りにもマイナーに。