もしかして⇒特効
概要
敵陣に対し、爆弾等を満載した戦闘機や軍艦をぶつけたり、戦闘員自ら爆薬を抱えて突入し、敵を道連れにするという一種の自爆攻撃のこと。
第二次世界大戦における日本の陸・海軍が行ったものがよく知られているが、体当たりによる自爆攻撃自体はドイツの「エルベ特別攻撃隊」やソ連の「タラーン」作戦等、他国軍でも行われていた(この場合、体当たり直前・直後の脱出を期している為、危険性は極めて高いが必ずしも特攻=死ではない)。
また、被弾により生還の見込みがなくなった米軍機が日本の艦船に体当たり攻撃を敢行するような事もあった。
しかし、第二次世界大戦で初めから生還を期さない自爆攻撃を組織ぐるみで行ったのは日本軍のみであり、太平洋戦争が長引くにつれ悪化していった戦況や戦果を一転させるべく、苦肉の策として講じられた。
尋常な戦法では連合軍に対抗できなくなっていたことは、前線で戦う将兵は痛感させられており、体当たりでなければ対抗不可という意見が多く大本営などに寄せられていた。なかには、「甲標的」の搭乗員黒木博司大尉と仁科関夫中尉らが発案した特攻兵器人間魚雷「回天」や大田正一特務少尉が発案した人間爆弾「桜花」など、自らが先陣を切って搭乗して特攻するといった熱心な申し出も多かった。
しかし「特攻の父」などと呼ばれ、今日あたかも特攻の発案者のように思われている大西瀧冶郎中将が軍需省航空兵器総局総務局長在任時に、城英一郎・岡村基春両大佐より「航空機による体当たり攻撃隊を編成し、その指揮官に自分がなりたい」という申し出に対して「まだその時期ではない」と逆に上申を却下していたなど、自爆攻撃導入には慎重論が根強かった。
……が、マリアナ沖海戦での大敗にもはやなりふり構ってられないという積極論が慎重論を凌駕し、特攻開始が組織決定されることとなった。特攻には、攻撃有効性の向上という純軍事的視点のほかにも、敵国を畏怖させるという精神論的な効果も期待されていた。特攻の開始を聞いて前線では、かねてから上申していた体当たり攻撃が決定し、勇んで何度も特攻に志願しながらも許可されなかった菅野直や杉田庄一のような者もいたり、アメリカ軍による戦略爆撃で肉親を失った者が、せめて一矢報いたいなどとして大いに士気が向上したとする証言がある一方で、敢行する側は死亡する事を前提としている為、前線での士気は大いに下がったとする証言も見られる。
理由がどうあれ「死なば諸とも……!!」という兵士もいれば、「わざわざ死ににいくようなものだ…」と嘆く者もいるといった具合で、特攻に対する見方は各個人で温度差があったと見るのが妥当であろう。
その代表が神風特攻隊(神風)であり、現在において「特攻=死」を想起させる代名詞となっている。
既存の兵器を特攻に使うばかりか、人間魚雷・回天や人間爆弾・桜花等、多くの特攻兵器を考案しており、当時の日本陸海軍の無謀さと非人道性を示すものとして、今日に至るまで非難されている。
ただし、航空機による特攻では出撃しても「敵を発見できなかった」あるいは「(エンジン等の)機体が不調を起こした」などの理由で、やむを得ず引き返したというケースもあった。このため、内心で特攻に納得していなかった搭乗員は出撃してもこれらを口実に戻ってきたりしたという。
また、日本海軍は沖縄戦においてもはや活躍の場がなくなった戦艦大和を特攻させたが大和は沖縄に辿り着く前に多数の米軍機に襲われ、なす術もなく喪失したのであった。
日本軍が特攻を開始した頃は、マリアナ沖海戦や台湾航空戦のように、日本軍航空機による米軍艦隊への通常攻撃は殆ど損害を与えることができなくなっており、米軍からは「1944年夏までには日本軍は何処においてもアメリカ空軍に太刀打ちできないということが、日本空軍司令官らにも明らかになっていた。彼等の損失は壊滅的であったが、その成し遂げた成果は取るに足らないものであった。」などと酷評される有様だったが、大尉の関行雄(殉死後中佐に昇格)に率いられた零戦わずか5機が護衛空母1隻撃沈、3隻損傷という戦果を上げるや、アメリカ軍は日本軍に対する評価が一変し「日本軍に対する連合軍の海軍作戦の前途に横たわる危機の不吉な前兆を示していた」「日本航空部隊の実力に対して何の疑問もなかった。オルモック湾での特攻による戦果が日本航空部隊の実力に対する疑問を残らず拭い去った」「日本軍は自殺機という恐るべき兵器を開発した。日本航空部隊がその消耗に耐えられる限り、アメリカ海軍が日本に近づくにつれて大損害を予期せねばならない」などと恐れ、またその後も続く特攻からの甚大な被害を見たフィリピン戦の最高司令官ダグラス・マッカーサー将軍は「もし奴らが我々の兵員輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう」とも危惧したが、やがてフィリピンでの日本軍は航空機が尽きてしまった。
硫黄島の戦いでもわずか32機の特攻機が護衛空母1隻を沈め、正規空母1隻を大破するなど大戦果を上げたが、いよいよ連合軍は沖縄に進攻し、沖縄戦が開始された。連合軍は今までの特攻の損害に懲りて万全の特攻対策を講じてきたが、日本軍も全力特攻作戦となる「菊水作戦」を発令し、沖縄の海と空で太平洋戦争での最大の海空戦が繰り広げられることに。
連合軍の特攻対策の主なものは従来の充実した対空砲火に更に「空母搭載の艦載戦闘機を増やし迎撃力を強化する」「機動部隊本隊より先行したレーダーピケット艦による特攻機の早期発見で、味方戦闘機隊を余裕をもって有利な高度と位置で特攻機を迎撃させる体制」などであり、直衛機があるとはいえ爆弾を搭載して運動性の低下した特攻機に有利な体制で迎撃できる戦闘機の効果は高く、陸海軍が投入した1800機以上の特攻機の攻撃による命中・至近弾を255機に抑える事に成功している。
日本軍も、アメリカ軍の目となるレーダーピケット艦を攻撃して警戒網を寸断する、特攻機を高空と低空に分ける、多方向からの襲撃などで迎撃機の分散を図ったりするなどの対抗策を講じ、レーダー対策としてもチャフの散布や、レーダーに探知されにくい海面すれすれの超低空飛行などで対抗。また飛行経験の少ない特攻隊員が長時間の飛行に疲労し、目標と命じられてなくとも、まず目に入った軍艦となるレーダーピケット艦に特攻を行う傾向も強く(艦種誤認の可能性もあり)、その為に主にレーダーピケット艦として運用されていた駆逐艦が特攻機の主目標となり、沖縄戦を通じて特攻機対レーダーピケットの駆逐艦の激戦が繰り広げられた。
実際日本側も敵の哨戒を妨害する目的で狙わせる指揮官もいた他、ぎっしりと護衛艦に固められた空母などを狙うより命中できる可能性が高く、着実に確実に敵戦力を疲弊させるという意味ではこの方法は決して間違ってはいない。
そのため駆逐艦は「棺桶」とか「ブリキ缶」などと呼ばれて揶揄され、艦隊司令は「朝方に士気旺盛で出撃した新品の駆逐艦が夕方には艦も乗組員もボロボロになって帰ってくる」と嘆き、駆逐艦に乗り込んだ水兵は「自分たちは標的代わりに沖縄の近海に浮かべられている」「なんで(主力の空母や戦艦もいるのに主力でない)俺達が目標なんだよ」と自嘲・憤激し、ある駆逐艦では「Carriers This Way(空母はあっち)」という看板を掲げる有様だったが、結果的にレーダーピケット艦は特攻機の早期発見という当初の目論見と、特攻機の攻撃を引き付ける被害担当艦になるという予想外の効果を発揮。フィリピンよりも空母などの主力艦に対する損害の割合を減じることができた。
もっとも、アメリカ海軍は撃沈破されたレーダーピケット艦の穴埋めに機動部隊を護衛する駆逐艦を割く必要が生じ、その為に今度は肝心の機動部隊の警護が手薄になるというジレンマを味わう事となった。
大型艦なら沈まない程度の攻撃でも駆逐艦だと沈んでしまう場合もあり、レーダーピケット艦だけでなく、その周囲に乗員救助用の舟艇や、囮として籍済みの廃艦を置いたりもしたが、それでも被害が続き必要な数の駆逐艦が確保できないと懸念した第5艦隊司令レイモンド・スプルーアンス提督らは、大西洋から全駆逐艦を沖縄に回して欲しいと要請までしている。
結局、フィリピン戦で650機突入した特攻機は沖縄戦では3倍の1,900機になり、有効率は26.8%から沖縄戦14.7%と10%以上も減ったが、出撃の母数が増加したので、沖縄戦での特攻による連合軍の被害も甚大なものになり、沈没32隻、損傷218隻、アメリカ海軍兵士の死傷は10,000人に上った。損傷艦のなかには死傷者666人を出して沈没寸前まで追い込まれた正規空母バンカーヒルや、日本軍相手に散々無双してきた「エンタープライズ(CV-6)」なども含まれており、多くが終戦まで戦場に戻ることができなかった。
また沖縄戦で大きく減じたとは言え特攻の有効率平均18.6%というのは、大戦末期に日本軍と連合軍の戦力差がついた状況下では高い確率であり、米軍の公式資料では、統計のある1944年10月(フィリピン戦で特攻が開始された時期)から1945年4月(沖縄戦初期)の間に米艦隊の視界内に入った日本軍航空機(従って米艦隊到達前に撃墜された機は含まれない)による通常攻撃の攻撃有効率はわずか2.7%であったが、特攻の攻撃有効率は27.6%となっており差は10倍以上であった。(米軍公式資料 Anti-Suicide Action Summary August 1945参照)
特攻の意外な効果として次のようなエピソードもある。
九州各地から沖縄に向けて大量の特攻機が出撃し、米艦隊に襲い掛かって大損害を被っている状況に業を煮やした太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は、B-29で本土空襲をしていた米陸軍航空隊戦略爆撃隊の第21爆撃機集団司令カーチス・ルメイ少将に、B-29を日本本土の大都市無差別爆撃任務から九州の特攻機基地への戦術爆撃任務に回すよう要請。1945年3月10日の東京大空襲の大成功から、日本の大都市への焼夷弾による低空からの無差別爆撃を強化しようとしていた矢先であり、ルメイはニミッツの要請に難色を示したが、陸海軍の連携を重視する米陸軍中央からの指示もあり、渋々ながらB-29による特攻基地への戦術爆撃を開始した。このB-29による九州特攻基地への戦術爆撃任務は1945年4月初めから5月下旬の約1か月半行われ、延べ2,000機のB-29が出撃したが、その間は都市に対する無差別爆撃が休止されており、都市の被害の軽減に寄与しているのである。
なおB-29は元々そのような任務が不得手なことや、日本軍の巧みな偽装や航空機の隠匿もあって、特攻機に大きな損害を与えることはできず、結局爆撃任務は失敗に終わった。
何だかんだで特攻は成果を挙げ、連合軍に物理的、精神的な大ダメージを与えた。しかし戦局を挽回するまでには至らず、日本はついに降伏を決断。10か月に及ぶ特攻で日本軍は2,550機の特攻機と約4,000人の特攻隊員を失ったが、54隻の連合軍軍艦を沈め、350隻以上に大小の損傷を被らせ、17,000人~33,000人(諸説あり)の連合軍兵士を殺傷した。
特攻の戦果をdisる場合に「特攻では巡洋艦以上の大型艦は撃沈できなかった」「特攻で撃沈した護衛空母は脆弱で撃沈しやすい」などといわれるが、そもそも米軍が本格的反抗を開始した1944年以降で、航空機の通常攻撃で撃沈された「巡洋艦以上の大型艦」は軽空母「プリンストン」のたった1隻、これも消火活動の失敗などによる誘爆が原因であり、他には脆弱なはずの護衛空母すら撃沈できなかった。
「脆弱」などとされる護衛空母も、米軍が大戦中に失った護衛空母はたった6隻(太平洋戦域5隻そのうち特攻で「セント・ロー」「オマニー・ベイ」「ビスマルク・シー」3隻)。サマール島沖海戦では「カリニン・ベイ」が20発以上の戦艦や重巡の巨弾を被弾したが致命的な損傷には至らず(これは薄い装甲であった為に徹甲弾が船体を貫通して外で爆発するだけで船体内部被害が少なかった事も原因)、その後も任務を継続し、ホワイト・プレーンズは鳥海(重巡洋艦)と撃ち合って、逆に鳥海を大破させるなど非常な難敵で(正規空母と比較すれば脆弱だったが)、他の米軍艦艇と同様に鬼ダメコンで撃沈困難な難敵であったことに変わりはない。
駆逐艦にしても、駆逐艦「ニューコム」や「ラフェイ」など特攻機が3~4機が命中しても沈まなかった事例を持ち出して「特攻はショボい」との主張に使われることがあるが、「アブナ・リード」「ワード」「ロング」「オバーレンダー」「キャラハン」などは1機で沈没しているし、「ウィリアム.D.ポーター」のように「命中こそしなかったが」結果的には撃沈したものもある。
※至近距離の海中で機体が爆発した結果、その衝撃波で海面から持ち上がる→再び海面に叩きつけられるという打撃により機関室に浸水を生じさせ最終的に転覆させたという。本来上部構造物を破壊しがちな特攻機が水線下に打撃を与えて沈めた例は珍しい
特攻機の機体がクッションのようになって衝撃力を緩和するとか、爆弾単体に比べたら特攻機の機体の空気抵抗により、加速度が落ちるため衝撃力が弱いなどとする意見もあるが、運動エネルギーは「質量に比例し速さの2乗に比例する」という法則からすれば、爆弾単体より、その数倍は質量のある機体も同時にぶつけた方が、単純には運動エネルギーが大きくなる。
つまり角度や速度が同じであれば、爆弾単体より爆弾+特攻機の方が運動エネルギーは大きいことになる。
これは米戦略爆撃調査団報告書でも日本軍の意見を引用する形で「特攻は通常攻撃より効果が大きい、その理由は爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、また航空燃料による爆発で火災が起こる、さらに適切な角度で行えば通常の爆撃より速度が速く、命中率が高くなる」と分析されている。
しかし、的確な角度で投下しなければ敵艦に命中すらしない爆弾と異なり、最後まで操縦できる特攻機はさまざまな角度や速度で敵艦に命中できるた。平均すると命中時の爆弾単体よりも速度が劣り、命中した角度も浅かったと言える。
速度についても、爆弾単体よりは特攻機の機体の空気抵抗によって命中時の速度が落ちるケースがあるというのは事実だが、それは高空から投下した場合の話。
日本軍による研究で、250㎏爆弾を投下した場合、高度2,000mからでは、命中時の時速は1,027km/h、1,000mからでは時速860km/h、500mからでは時速713km/h、特攻機が的確な角度で急降下した場合の命中時の速度が720km/hとなっている。
通常急降下爆撃は700m~400mの高度で投弾されるため、特攻機の機体の速度は急降下爆撃で投下した爆弾単体の速度とほぼ等しい計算となり、貫通力の観点では水平爆撃に比べ不充分な面もあった。
高度2,000m以上というのは水平爆撃の投弾高度だが命中率は著しく低く、加速度と命中時の衝撃力は期待できてもほとんど命中しないというのが実情。また急降下爆撃にしても水平爆撃よりは遥かに正確で高い命中率を誇るが、上記の通り、通常攻撃の命中率は特攻より低く、また戦闘機のスクリーンを突破してもVT信管などの激しい対空砲火で敵艦を攻撃することすらほとんどできないという状況にあった。
そして航空機によるもっとも強力な対艦攻撃手段となる魚雷攻撃(雷撃)も、戦闘機にとっては格好の的であった。ただでさえ重量の大きい魚雷を抱え、運動性も低いのだから。
なお米艦艇のVT信管(海面反射で自爆しやすい)
には雷撃の低空での攻撃も有効であったが、それでも中距離でボフォース機関砲、近距離でエリコン機関砲を駆使した激しい対空砲火弾幕により非常に困難だった。事実特攻が開始される前のマリアナ沖海戦などではマリアナの七面鳥撃ちと揶揄されたように、魚雷を投下する間もなく殆どの雷撃機が戦闘機により撃墜されてしまっていた。
そもそも、米軍の本格的反抗が開始された1944年以降で日本軍が撃沈したのは特攻兵器「回天」が撃沈したタンカー「ミシシネワ」(排水量25,425トン)が最大で(排水量を見れば)、次いで航空特攻で撃沈した特務艦「ポーキュパイン」(排水量14,245トン)、その次が急降下爆撃とその後の誘爆により自沈処分となった「プリンストン」(排水量13,000トン)である。
装甲で固められた戦艦・巡洋艦、イギリスの装甲空母などの大型艦には効果は今一つだったのも事実だが、単純な「巡洋艦以上の大型艦は~」などとする線引きは間違い。
1.敵艦撃沈に最も有効な雷撃を封じられる
2.被害は水線下ではなく上部構造物のみになりやすく、突入角度も浅くなりがちで戦艦・巡洋艦などのバイタルパートを装甲で纏った軍艦相手では貫通力に劣る(要するに敵を沈めづらい)
3.使い捨て同然なのでパイロットと機体を帰還させての反復攻撃は出来ない
こんな具合で不利な状況だらけだったが、それでも従来の攻撃法より命中率が高いゆえに「重装甲艦でなくても高度な防空技術・ダメージコントロールでほとんど沈まなくなってしまった米軍艦艇を沈めることができる数少ない手段」だったのである。
また、沈みこそしなかったものの深刻な損傷を被って修理のために長期離脱する艦艇も大量となり、米海軍の戦力を一時的にせよ低下させることに成功している。大破して修理不能と確定したような艦でも、そのまま沈めてしまうよりはスクラップにして転売した方が多少は元が取れると判断されて屑鉄同然で本土に曳航される事も多かった。
そして何より米海軍にとってもっとも痛かったのは人的損失。特攻機は機体自体が航空燃料を満載した焼夷弾そのものだったので、特攻機が命中すると「爆弾とナパーム弾が同時に命中したようなもの」と言われていた。そのため特攻を受けた艦艇の多くが炎上し、大量の水兵が重篤な火傷を負い、運よく生き残ってもダメージの大きさや後遺症から再起不能となるケースが多々あり、特に米軍や他の連合軍が被った人的喪失は大きく、統計では1機の特攻機が連合軍艦船に命中する度に40名の連合軍将兵が死傷したとのことであり、特攻による連合軍将兵の犠牲は特攻隊員の数倍に上ったという。
海軍の特攻には、空母機動部隊が壊滅した為に本来の艦上戦闘機としての活躍機会を失った零戦が多数投入された。
残存零戦の多くに爆弾搭載能力を強化する改造が施されて使われた事から特攻のイメージが付いているようなもので、戦闘機に爆弾を装着する事自体は通常の攻撃でも行われる(「爆戦」などと呼ばれたりする)。
特攻に使われた戦闘機は零戦だけではなく、隼、疾風、紫電(紫電二一型=紫電改や、雷電は特攻に投入されていない)など陸海軍の主力戦闘機の多くが動員され、更には戦闘機以外にも攻撃機や偵察機、練習機までもが動員された。
練習機まで特攻に投入したことは大戦末期の日本軍の戦力枯渇の典型的な事象としてよく取り上げられ、特攻を拒否し沖縄戦で通常作戦のみで戦ったとされている(実際は違うが)夜間戦闘機隊「芙蓉部隊」の指揮官美濃部正少佐が「2,000機の練習機を特攻に狩り出す前に赤とんぼまで出して成算があるというなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦一機で全部、撃ち落として見せます」と並みいる海軍高官に啖呵をきったとされるエピソードが美談として語られ、美濃部の後世の評価を上げる要因にもなっている。
しかし美濃部の主張とは異なり、機体に多くの木材を用いたり、米軍のレーダーピケット艦が、あまりの飛行速度の遅さに敵機となかなか認識できなかったり、「特攻機から追われている」という無線を聞いたある日本軍参謀が「特攻機を米軍艦艇が追い回してるんだろ」と聞き違えた程に劣速というローテクがかえって米海軍の探知や迎撃を困難にした。
また技術が劣っているはずの練習機搭乗の特攻隊員も、普段乗りなれた操縦性の優れた練習機で沖縄近海に至るまで夜間を海面をなめるような低高度で飛行できたことから、沖縄戦で特攻戦を指揮した宇垣纒中将が「数あれど之に大なる期待はかけ難し」とあまり期待をしていなかったにも拘わらず敵艦隊への突入に成功し戦果を挙げている。
実際、大西洋方面でも複葉機で布張りの旧態依然としたイギリスのフェアリーソードフィッシュ雷撃機の低速さはドイツ空軍の戦闘機がエンジンを絞り、フラップを下げ、更に脚まで出して速度を落とさなければならない程であり、対空砲火も速度を見誤り手前で爆散する有様で、また主翼・機体に銃弾を命中させても布製で貫通するだけなので、パイロットかエンジンに命中させないと確実に撃墜できないとされるタフさでドイツ軍を梃子摺らせている。
海軍練習機(「赤とんぼこと93式中間練習機」「白菊」)は63機を失い、115名の特攻隊員が戦死したが、一方で挙げた戦果はなかなかのもの。
- 撃沈
1.駆逐艦ドレクスラー
2.駆逐艦キャラハン
3.輸送駆逐艦(高速輸送艦)バリー
4.中型揚陸艦 LSM-59
- 大破
駆逐艦シュブリック
駆逐艦カシンヤング
- 撃破
駆逐艦ホラス・A・バス他
この7隻で米軍は273名の戦死者と280名の負傷者(死傷者合計553名)を生じている。(他にも撃破艦がある可能性もあるが詳細は不明)
逆に「零戦1機で2,000機の練習機の特攻機を全滅させる」と豪語した美濃部の率いる芙蓉部隊が、艦船に対する戦果として「潜水艦撃沈1、戦艦1、巡洋艦1、大型輸送艦1を大破」などと報告しながら、実際には米軍の損害報告で確認できる戦果が全くなかったことと比べてかなり大きな戦果と思われ、実際に米海軍も本来なら戦力なんかになるはずもない旧式の練習機に痛撃を被ったことを重く見て
- 木製や布製でありレーダーで探知できる距離が短い
- 近接信管が作動しにくい(通常の機体なら半径30mで作動するが、練習機では9m)
- 対空機関砲の弾丸が木や布の期待を貫通してしまうため効果が薄い
- 非常に機動性が高く、巧みに操縦されていた
と詳細にその要因を分析したうえで、「高速の新型機以上の警戒」を全軍に呼びかけている。
米海軍史の大家サミュエル・モリソン少将も「特攻は、複葉機やヴァル(九九艦爆)のような固定脚の時代遅れの航空機でも作戦に使用できるという付随的な利点があった」と特攻という戦術ではどのような航空機でも戦力となると指摘している。
しかし、それと同時に結果はどうあれそのような練習機まで投入する事は本土決戦にかなりの機体を温存している事を差し引いても日本軍の戦力の枯渇的状況を示している事に変わりはなかった。
ちなみに…この練習機による特攻にさらにオチを付けるような話が朝鮮戦争で発生している。
北朝鮮側が木造の練習機で夜間にゲリラ的空襲を行って米軍基地への爆撃に成功した。
この時爆音を消す為に、爆装練習機は爆撃の少し前に一旦エンジンを停止させ滑空、そのままレーダーにもひっかからず爆撃してのけるという思わぬ離れ業を演じ、米軍は慌ててサーチライトを手配する事態になっている。
評価
当初、この戦法に対して批判や否定する軍人もいたが、大戦末期に米艦隊にほぼ歯がたたなくなっていた日本軍において、確実に戦果が挙げられる(かなり過大な認識であったが)戦術として、嫌がおうにも推進せざるを得なくなっていった。戦後に米国戦略爆撃調査団の事情聴取でも、陸軍参謀本部次長河辺虎四郎が「技術上の理由により、我々には他に戦闘する方法がなかった」と述べている。
しかし、人間爆弾「桜花」を輸送した陸上攻撃機隊隊長・*野中五郎少佐(よく誤解されているが野中自身は特攻隊員ではない)のように「俺は必殺攻撃を恐れるものではない。しかし、桜花を吊った陸攻が敵まで到達できると思うか。援護戦闘機がわれわれを守りきると思うか。そんな糞の役にも立たない自殺行為に多数の部下を道づれにすることなど真っ平だ」と話すなど特攻に否定的な軍人もいた。実際「桜花」の初陣は予定していた数の護衛戦闘機を準備できず、野中の懸念通りに敵艦隊遥か手前で米軍艦載戦闘機の迎撃により全滅、野中も戦死した。
ほかにも歴戦の飛行隊長岡嶋清熊大尉のように「戦闘機乗りというものは最後の最後まで敵と戦い、これを撃ち落として帰ってくるのが本来の使命、敵と戦うのが戦闘機乗りの本望なのであって、爆弾抱いて突っ込むなどという戦法は邪道だ」と特攻を拒否し、終戦直前まで自ら零戦に搭乗して戦い続けた指揮官もいた。さらに「不死身の特攻兵」こと佐々木友次伍長は、日本陸軍初の航空特攻隊「万朶隊」の一員として選抜されながら、特攻を強行する陸軍上層部への抗議の意思を込めて、9回出撃しながら、敵と接触しても突入することなく通常爆撃を行って帰還を繰り返したと自称している(出撃回数については諸説あり)。出撃を命じた第4航空軍の参謀からは「次こそは特攻せよ」との叱責を受けながらも、逆に軍司令の富永恭次中将からは「何度でも帰ってこい」と激励され、食事に誘われたり、贈り物をもらったりしながら、最後まで特攻することなく終戦を迎えた。
一方で、前述の芙蓉部隊隊長の美濃部正少佐(戦後、自衛隊空将)のように特攻命令に対して猛反対して、出撃を強要する上層部に対して「我々は特攻を怖れるものではないが、今の特攻は無駄死だ!特攻特攻と空念仏を唱える前にもっと有効な戦術を考えろ!!」などと反論したと自称しながら、実際には部下に「機動部隊を見つけたら、そのままぶち当たれ」や「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」などと別れの盃を交わしながら特攻を命じた指揮官もいた模様。
昭和天皇は、特攻開始直後に戦果を奏上されると「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ」と戸惑いも見せていたが、悪化する一方の戦局のなかで、ほぼ唯一戦果を挙げている特攻に期待を寄せるようになり、硫黄島の戦いで特攻が大戦果を上げたと奏上されると、特攻での反復攻撃を命じ、沖縄戦では毎日もたらされる特攻の戦果報告の奏上を心待ちにしていたという。しかし、それは昭和天皇が軍の最高指揮官たる大元帥としての一面であり、ある日、侍従武官が地図を広げて陛下に戦況を説明していた際に、昭和天皇が特攻隊が突入した地点に深々と最敬礼をしているのを見て、侍従武官は昭和天皇が複雑な心境を耐えている様子を察している。
昭和天皇は戦後に特攻のことを「特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある、敢て之をせざるを得ざる処に無理があった。」と回想している。奥日光に疎開していた明仁皇太子(後の125代天皇、現上皇)は、特攻の講義を受けて「それでは人的戦力を消耗するだけでは?」と疑問を呈し、その質問に誰もが返答に窮したという。
戦後の日本では、人道重視への価値観の大きな変化もあって、前途有為な若者を死地に追いやったとして否定的な評価が大勢を占めるが、主に保守的な政治思想を持っている層からは、気高き犠牲的手段だったと賞賛する声も多い。前述の美濃部も戦後の特攻批判に対して、「戦後のヒューマニズムと敗戦という結果だけで考察し、当時の状況を全く考慮していない的外れな特攻批判が多い」という趣旨の苦言を語っているが、これは美濃部が部下を特攻で使い捨てにするより通常の出撃の方が戦果が出るという理由で反対していただけで、特攻することで戦果が上げられる状況下では特攻を許可する命令を下したからである(でも戦果は無かった)。
また、米軍が日本本土に侵攻してきた場合に備えて、自分が直卒する特攻隊で敵空母に体当たりし、残った地上要員には航空爆弾で敵戦車に自爆攻撃をするなどの必死戦法を立案している。そのなかには地元住民も道連れに大爆発というはた迷惑な計画も含まれていた。
この特攻作戦は美濃部単独で考案し、特攻出撃させられる予定の搭乗員や自爆させられる整備兵、巻き添えで自爆に巻き込まれる地元住民には(当然ながら)知らされていなかったという。
また特攻で死んでいった者たちの精神そのものは敬意に値するとするとの声もある。それと同時に特攻隊を批判する事はそれに殉じた隊員達を貶める事として批判できない空気を作り、それをバックに作戦を指導した責任者達の責任を曖昧にしているという批判や、遅かれ早かれ戦争に敗北するという結果を迎えるなら、このような世界でもあまり類を見ない組織的な非人道的攻撃方法で多数の若者を死なせる前にうまく戦争を終わらせる事が出来なかった指導層を批判するものもある。
人道的観点から酷評されることも多い特攻だが、大きな損害を被ったアメリカの軍公式や軍高官は、純粋に軍事的観点のみに限れば肯定的な評価をすることが多い。
特攻を受けた現場の兵士は兎も角、特に特攻と相対した戦争当時の米軍高官らや、軍事評論家や研究家の間では、有効な戦術であったとの評価が一般的である。あるアメリカの軍事評論家は「日本人には受け入れにくい意見ではあるが」と前置きをしたうえで「もっと早くから特攻を始めるべきであった」と指摘している。これはある意味、合理的なアメリカらしい思考ともいえる。
戦後に日本に進駐した連合軍は特攻について徹底的に調査し
「44ヵ月続いた戦争のわずか10ヵ月の間にアメリカ軍全損傷艦船の48.1% 全沈没艦船の21.3%が特攻機(自殺航空機)による成果であった」
「アメリカが(特攻により)被った実際の被害は深刻であり、極めて憂慮すべき事態となった」
「日本が(特攻で)より大きな打撃力で集中的な攻撃を持続し得たなら、我々の戦略計画を撤回若しくは変更させ得たかもしれない」
「日本人によって開発された唯一の、最も効果的な航空兵器は特攻機(自殺航空機)であり、戦争末期数か月に日本全軍航空隊によって、連合軍艦船に対し広範囲に渡って使用された」
「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された」
「この死に物狂いの兵器は、太平洋戦争で最も恐ろしい、最も危険な兵器になろうとしていた。フィリピンから沖縄までの血に染まった10ヶ月のあいだ、それは、我々にとって疫病のようなものだった」
などという報告書を作成している。また、米軍の高官らも
「神風特別攻撃隊という攻撃兵力はいまや連合軍の侵攻を粉砕し撃退するために、長い間考え抜いた方法を実際に発見したかのように見え始めた」
「沖縄戦は攻撃側にもまことに高価なものであった・・・艦隊における死傷者の大部分は日本機、主として特攻により生じたものである」
(太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ元帥)
「神風特別攻撃隊が沖縄の沖合で、アメリカ艦隊にあたえた恐るべき人命と艦艇の損害について非常に憂慮している。日本本土に向かって進攻することになったならば、さらに大きな打撃をうける事になるであろう」
「沖縄に対する作戦計画を作成していたとき、日本軍の特攻機がこのような大きな脅威になろうとは誰も考えていなかった」
(第5艦隊司令レイモンド・スプルーアンス提督)
「切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」
(第3艦隊司令ウィリアム・ハルゼー提督)
「大部分が特攻機から成る日本軍の攻撃で、アメリカ側は艦船の沈没36隻、破壊368隻、飛行機の喪失800機の損害を出した。これらの数字は、南太平洋艦隊がメルボルンから東京までの間に出したアメリカ側の損害の総計を超えている」
(連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥)
「沖縄戦で艦船90隻が撃沈され、または甚大な損害を受けた。この作戦は、大戦の全期間を通じ、もっとも高価についた海軍作戦となった」
(アメリカの著名な歴史研究家サミュエル・モリソン少将)
などと、個々の思いこそあれその脅威が大きかった事は一様に評している。
また、1999年5月にまとめられたアメリカ空軍の「精密誘導兵器」に関する論文では、特攻機を「現代の対艦ミサイルに匹敵する兵器」と位置付けて、「対艦空中兵器として最大の脅威」「特攻機は比較的少数であったが、連合軍の作戦行動に大きな影響を与えており、実際の兵力以上に敵に多大な影響を及ぼす現代の対艦ミサイルのような存在であった」と結論づけている。
作戦とも呼べないような「統率の外道」であったが、加速度的に戦力差が広がった大戦末期において、まともな戦術では連合軍に対抗できなくなっていた日本軍がほぼ唯一連合軍を苦しめたのが特攻であって、連合軍も皮肉を込めて日本軍が特攻を開始したことについて「冷静で合理的な軍事決定」と評している。
特攻に痛撃を被った米軍は、その対策として対空打撃力強化のために艦対空ミサイルの開発を開始、またレーダーピケット艦が多大な損害を被ったので、早期警戒網を艦船ではなく航空機に担わせることにして、強力なレーダーを搭載した早期警戒機が開発された。これらは現代においても米海軍の防空戦術の要となっており、特攻が米海軍の防空戦術の近代化を促したと言っても過言ではないだろう。
とは言え
その合理的な判断を尊ぶ米軍の首脳陣が、特攻による自軍への損害と兵士の消耗を避けるべく、何を決断したか……。
そう、核兵器である。
特攻隊員
航空特攻で、海軍2,531名 陸軍1,417名 合計3,948名
海中特攻で、回天隊員106名
海上特攻で、海軍1,081名 陸軍263名 合計1,344名
が戦死しているが、全員が特攻で戦死したのではなく、地上戦(主に海上特攻隊員)や事故等で死亡した隊員も含まれている。
航空特攻で戦死した海軍の特攻隊員の階級別内訳は現役士官(職業軍人)121人、予備士官(主に学徒出陣の予備学生)648人、特務士官・准士官・下士官兵1,762人、合計2,531人となる。
この構成比率を見て「特攻は兵卒や下士官や下士官上がりの特務士官ばかりが出撃させられて士官は少なかった」「現役士官(職業軍人)は温存されて予備士官ばかりが特攻に行かされた」と単純に数字だけを比較して「日本軍の体質」などと日本軍バッシングの材料にされることも多いが(著名な歴史研究家などでもこの手の主張をする人が多い)、特攻が開始されるまでに多くの現役士官が戦死しており、その穴埋めを予備学生で補填している最中であった。
まして日本軍の士官は職業軍人よりは学生上がりの予備士官の方が多くなっていたことや、当然ながら、士官よりは実際に戦う兵卒や下士官の方が圧倒的に多く、沖縄戦が開始されたときの日本海軍の航空機搭乗員の人数と構成比率は、現役士官1,269人(5.3%)、予備士官5,944人(25.0%)、特務士官・下士官・兵卒16,616人(69.7%)となっており、ほぼ特攻戦死者数の構成比率と一致する。従って、「兵卒か下士官ばかり」とか「予備士官ばかり」などという意見は母数を見ていない暴論に過ぎす、特攻戦死者の階級別構成率は、単純にその時点の日本軍航空機搭乗員の階級別構成率と同じに過ぎない。そもそも特攻に限らず現役士官の戦没率は予備士官や兵卒らの戦没率とは比較にならないほど高率であり、温存なんてしたくてもできない状態であった。
特攻隊員は、第一航空艦隊司令長官に内定した大西瀧冶郎が航空特攻開始を軍令部総長及川古志郎に上申したさいに、及川から「決して命令はしないように。戦死者の処遇に関しては考慮します」と釘を刺されたように、原則は志願制とされており、大西が航空特攻を開始する前から準備が進められてきた、人間魚雷「回天」や人間爆弾「桜花」に搭乗する特攻隊員については志願にて集められている。特に「回天」の志願については、秘密兵器扱いにて詳細は伏せられながらも、「生還は期し難い」と決死兵器であることを説明の上で志願者を募ったところ100人の予定に対して2,000人の応募が殺到している。
選抜については、志願者から妻帯者、一人っ子、長男などを除いて厳選することとしていたが、大西が航空特攻を上申した海軍とほぼ同時期に航空特攻隊の編成準備を開始した陸軍においても、航空特攻については純粋な志願ではなく「強要」だった。海軍の関行男、陸軍岩本益臣(どちらも大尉)の両名とも新婚であった。従って、航空特攻については、初めから「原則志願制」と隊員の選抜基準は崩れていたことになる。
それでも当初は熱烈な志願者も多く、職業軍人である士官学校卒の現役士官は「戦争が危急の際は率先して士官学校出の将校が危険な任務に就くべきと叩きこまれており、それが現役士官の取る道と考え、全員が志願した」など責任感により志願した隊員も多かった模様。
学徒出陣の予備士官においても、「自分の命を引き換えに日本が壊滅的な状況になる前に、有利な講和交渉に持ち込めたら」「我々の時代は大学に進学するのはエリートであり、いままで世間の人たちから大事にしてもらってきた厚意に報いたい」と考えて志願したと回想する隊員もいたり、戦後の米戦略爆撃調査団からの事情聴取で「学徒出陣の我々は軍人精神を体得した者とは言えないが、一般人として戦況を痛感し、特攻が最も有効な攻撃法と信じた」「我々が身を捧げる事により、日本の必勝を信じ、後輩がよりよい学問を成し得るようにと考えて志願した」と答えた隊員もいるなど、理由は様々にせよ、多数の志願者がいたことから原則志願制を遵守するような努力も行われていた。
しかし、特攻が拡大し通常の作戦の一部となって状態化すると、多数の特攻隊員の確保が必要となり「志願の強制」や「同調圧力による志願」が横行し、最後には指名での特攻出撃が命令されることもあった。高知海軍航空隊では練習機「白菊」による特攻が行われたが、特攻隊員の志願については、航空隊全員を並ばせて加藤秀吉司令から「特別攻撃隊を編成するから、志願する者は分隊長に申し出るように」と志願者を募ったため、積極的に志願する他の隊員の手前、自分も志願をせざるを得ない状況になってしまった隊員もいたという。筑波海軍航空隊の訓練生の間では特攻隊員に志願しない者は航空機に乗せてもらえず、防空壕掘りや代用燃料の松根油の原料となる松の根っこ掘りに回されるという噂が広がり、自尊心から全員が特攻隊員を志願した。
前述の美濃部少佐率いる「芙蓉部隊」においては、1945年2月に日本本土に接近した米海軍機動部隊に対して、美濃部が考案した「黎明に銃爆撃特攻隊を準備し、最後は人機諸共に空母の飛行甲板上に滑り込み発進準備中の甲板上の飛行機を掃き落とす」という特攻作戦を敢行するため、美濃部は隊員らに別れの盃を前にして「機動部隊を見つけたら、そのままぶち当たれ」などと特攻を命令し、ひとりひとりと握手をして送り出したが、命令された隊員らは特攻を志願したこともなく、また出撃もこの日に知らされたものであり、純粋な「特攻命令」であった。
その後も「芙蓉部隊」においては、敵機動部隊への攻撃任務では、搭乗員が出撃しようと本部前に行くと、机の前に別れの盃と末期のスイーツと言わんばかりのぼたもちが並んでおり、美濃部から「命令通りにやれ」と特攻を命じられることが続いている。
生還の望みの無い死を前提とした出撃を行った神風特攻隊の搭乗員の心理的負担は当然ながら大変なものであったと推察される。
本心から特攻を志願して出撃前に朗らかな笑顔さえ見せて出撃していた者もいれば、失禁したり、腰を抜かした状態の者を整備兵が座席に乗り込ませて出撃させた例もあるという。また出撃時や送別会では笑顔を見せた者でも出撃前夜は目を瞑るのが恐くてじっと起きていた者や、沈痛な空気を漂わせていた者もあり、恐怖を紛らわせる為か酒に溺れるなどの素行不良な者、出撃時に指揮所に超低空から機銃弾を撃ち込んで出撃した者も居たと言う。
また特攻時に「お母さん」と叫んで突入したり、直衛の戦闘機から顔を涙でくしゃくしゃにして突入して行った姿を見られた者もあったという。
その為か特攻隊員に恐怖を振り払わせるため覚醒剤を支給したとの主張もあるが、覚醒剤にそのような幻覚効果があると一般的に知れ渡ったのは戦後の乱用期に多くの中毒者が発生してからであり、戦前、戦中は主に疲労回復や夜間視力の向上(実際にはないが)程度の効果しか知れ渡っていなかった。
というわけでその中毒性も知られていなかったため、第二次世界大戦参戦各国で普通に使用されていたが、特に力を入れていたのはドイツ軍。「パイロットの塩」と呼ばれて、パイロットにとっては塩なみに重要なものと位置づけられていた。手軽に摂取できるようチョコレートに覚醒剤を混ぜたものも支給されたと言われ、総統のアドルフ・ヒトラーも持病の治療のため担当医から毎日覚醒剤を注射されていたと主張する研究者も。もっとも熱心に覚醒剤を使用した結果、その毒性に最も早く気が付いたのもドイツ軍であり、中毒者の蔓延に慌てて使用を制限しようとしたが、有効な手立ても打てないまま敗戦を迎えた。
英米軍も主にドイツ本土爆撃を行った戦略爆撃機のパイロットに疲労回復目的で支給していた。
日本においては、薬品の生産力も乏しかったことから、その使用頻度は他の参戦国ほどではなく、主に昼夜を問わずに働かされている工場労働者に支給された。ヒロポンという商標で市販されていたのは有名な話だが、商標は「疲労をポンと取る」効果に因んで付けられたという俗説が信じられるくらいに(実際はギリシア語の「仕事を好む」という意味の「philopons」が語源)、「疲労回復薬」として出回った薬であり、感覚的には現代の栄養ドリンクに近かったものと思われる。
その摂取方法は、イメージとして強い注射による接種ではなく、錠剤にして飲む「経口接種」が一般的であった。注射に比べると経口は効果も少ない代わりに中毒性も低かった。
日本軍においては、意外にも他の参戦国と違って航空機搭乗員で使用したとする証言はあまりなく、夜間戦闘機「月光」で「B-29」の迎撃任務についていた黒鳥四朗中尉が「夜間視力が向上」すると言われてドイツから輸入した「暗視ホルモン」と称する覚醒剤を注射されて戦後に中毒に苦しんだとする話や(しかし戦後に米軍に押収された「暗視ホルモン」のレシピでは、覚せい剤は配合されておらず主要成分は動物性のホルモン液であった)、「大空のサムライ」こと坂井三郎中尉が、ラバウルで連日の迎撃任務についていたとき、軍医から「疲労回復薬」と言われて注射された話などが伝わっている。
特攻指揮官たちの戦後
特攻を計画し、将兵にそれを強いた指揮官や参謀は、戦後に道義的なバッシングをうけることはあったが、責任を追及されることはなかった。
自分も後に続くと言って特攻隊を送り出した者、海軍では後述する大西中将に責任を擦り付けたと思われる人物も居る事から生き残ったものたちは卑怯者と謗られることも多い。一方で、宇垣纏中将や大西など一部の有名な特攻関係者以外は殆ど責任も取らなかったとする意見も多く見られるが、階級を問わずに多数の特攻に関係した軍人が死を選んでいるのも事実である。
戦中・戦後に自ら特攻したり自決した指揮官ら
阿南惟幾:
終戦時の陸軍大臣。
小説やその映画化である「日本のいちばん長い日」で俳優の三船敏郎や役所広司の熱演もあり一躍有名になった。鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任する前は陸軍航空総監部兼航空本部長という陸軍航空の責任者の任にあり、沖縄戦の特攻作戦を指揮していた。
阿南自身は「特別攻撃は決死隊であっても、生還の道は講じるべきである。敵艦への航空特攻のように、死によってのみ任務遂行できる出撃を命じるのは、上官としてあまりに武士の情にかける」と前から特攻には反対であったが、連合軍に一撃を加えて有利な講和に持ち込むという軍の方針から、最も有効的な作戦としての特攻を推進せざるを得なかった。
しかし、常々「俺も最後には特攻隊員として敵艦に突入する覚悟だ」と言っており、特攻隊員を後を追うことを決めていた様子。だが戦局悪化で他に陸軍大臣の適任者がいないことから、周囲から「航空機に乗って特攻するよりも、重大局面で身を挺して陸軍大臣を務めるのが真の忠義」と説得され「自分は特攻で討ち死にする覚悟であり、絶対に大臣などはやらない」と抵抗したが、最後は昭和天皇からの信頼も厚い鈴木貫太郎首相直々の説得により陸軍大臣に就任した。結果はどうあれ、最後は自決する覚悟だったとか。
陸軍大臣としては、国体護持と昭和天皇の安全の保障を目的として、引き続き一撃講和を主張し続けたが、昭和天皇のご聖断によりポツダム宣言受諾による無条件降伏を受け入れた。
降伏を受け入れず決起を迫る青年将校に「不服のものはこの阿南の屍を越えていけ」と一喝したが、このシーンは映画「日本のいちばん長い日」でのハイライトシーンのひとつ。
最後の聖断が下った夜、当初からの覚悟に従い「一死以て大罪を謝し奉る」という遺書を遺して、陸軍のすべての罪を一身に背負って自決した。
宇垣纏:
昭和20年2月10日付で第五航空艦隊司令長官に着任し、終戦まで沖縄方面の特攻作戦を指揮した人物。
8月15日の玉音放送を聞き届けた後、独断で彗星11機を引きつれ沖縄に出撃、若い将兵16名を道連れに死亡した。
なおポツダム宣言受諾後に正式な命令もなく特攻を行ったため正式な特攻とは認められていない。連合艦隊司令長官小沢冶三郎も命令違反行為として語気鋭く批判している。
宇垣は第五航空艦隊司令長官に就任した直後から最後は自ら特攻出撃すると決心しており、命令違反となっても、当初からの決心による出撃となった。なお僚機については宇垣は5機準備するように命令したが、そんな少ない機数で司令官を出撃させるわけにいかないと、部下たちが出撃志願して合計11機となった。
宇垣は隊長の中津留達雄大尉が操縦する隊長機に搭乗したが、偵察員の遠藤秋章飛曹長が宇垣との交代を拒否したため、宇垣は遠藤と同じ席に座って出撃することとなった。
また宇垣が自決に拘ったのは特攻作戦の他に自身が開戦時の聯合艦隊参謀長であったこと、ブーゲンビル上空で襲撃された時に山本五十六が死んだのに自身はおめおめと生きて帰ったことなど、様々な自責の念に囚われていたともいわれる。
厳密には命令違反の出撃での死亡であって戦死にはあたらないが、靖国神社には合祀されており、遊就館にも遺品が展示されている。
寺本熊市:
「陸軍航空の父」と呼ばれたほど、日本陸軍航空隊の育成に尽力。太平洋戦争開戦時には「よくもよくも米国を相手にしたものだ。あちらは種を自動車でバラ撒いただけで、ほっておいても穀物の出来る国だ。その上、石油はある、資源はある、第一次大戦以来、連合国数カ国の台所を賄ってきた国だ。国力を侮ったらいかん。しかし決まってしまった以上は天子様にお仕えするだけだ。」と戦争の先行きに警鐘を鳴らしていたが、寺本の予言通りアメリカの圧倒的物量に対し日本軍は圧倒されて、本土付近まで連合軍が迫る事態に。
沖縄戦が開始された1945年4月には陸軍航空本部長として陸軍の特攻を指揮することとなったが敗戦を迎え、終戦直後に「天皇陛下と多くの戦死者にお詫びし割腹自決す」という遺書を残して、古式通りの作法に則って割腹自決した。
大西瀧冶郎:
昭和19年10月17日に第一航空艦隊司令長官としてフィリピンに赴任。レイテ海戦の際に爆装した零戦隊を特攻出撃させる。
特攻の考案者ということであたかも「冷酷非情な人でなし」のような印象を抱かれやすい男だが、本人は特攻について"統率の外道"と否定的に考えていた。その後軍令部次長となり、終戦まで海軍特攻の総指揮を執る。
終戦前には、このまま中途半端に無条件降伏を受け入れては、今まで出撃させてきた特攻隊員に申し訳が立たないと、徹底抗戦を説いて回った。その際に「あと2,000万人、成年男子の半分を特攻に出せば、日本は必ず勝てる」と主張していたというが、最後は昭和天皇の聖断により終戦が決まった。
最初の神風特攻隊となった関行男大尉らを見送ったときから、最後には自ら出撃するという強い意志であったが、終戦でそれもかなわなかったため翌日攻隊員たちに対する感謝と謝罪の旨を記した遺書を残し、官舎にて割腹自決した。自身への罰ということなのか介錯も治療も拒否し、なるべく長い時間苦しむようにしたのだという。
終戦直後に自決したことから、彼が関与していない事柄まで責任を押し付けられている可能性が指摘されている。
最後まで徹底抗戦を主張していたが、遺書には若者たちに向けて「隠忍するとも日本人たるの衿持を失ふ勿れ」「日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を盡せよ」と軽挙妄動を謹んで全世界の平和のために尽くせと書いてあった。
戦後は遺志を継いだ妻の淑恵が特攻隊の慰霊行脚を行った。ある慰霊法要に招かれた淑恵は「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」と遺族や生き残った特攻隊員に土下座して詫びたが、その真摯な姿を見た遺族らからは逆に「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」と大西を擁護することばが上がったという。淑恵は多くの慰霊会や戦友会に呼ばれたが、そのたびに真摯な態度で謝罪を続けたので、いつしか、遺族や特攻隊員から大西を非難する声は聞かれなくなったという。
大西はのちに政府から勲一等旭日大綬章を追叙されたが「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」と述べている。淑恵の元には常に旧海軍軍人やその遺族が集っていたが、体調を崩して入院したときも、旧知の海軍軍人だけでなく、特攻隊員の遺族や生き残った特攻隊員のお見舞いが引きも切らず、大西の副官であった門司親徳(日本興業銀行役員、丸三証券社長)に看取られて亡くなった。誰ともなく、「特攻の父」と呼ばれた大西に対して、淑恵は「特攻の母」と呼ばれるようになったという。
伊藤整一:
各種特攻兵器開発開始を日本海軍が組織決定したときの軍令部次長、その後、第二艦隊の司令官を拝命し、沖縄戦で戦艦大和を主力とする第一遊撃部隊を率いて沖縄に海上特攻した。伊藤は連合艦隊からの、「一億総特攻の魁となっていただきたい」という命令を受け入れたが、予備士官69人を出撃前に大和から降ろし、また大和が米軍艦載機の集中攻撃で沈没寸前の状況に陥ると作戦中止を命令し、自らは長官室に入って大和と運命をともにした。
伊藤の作戦中止の命令により、第一遊撃部隊は全滅を逃れ、雪風など4隻の駆逐艦が生還し3,000人の命が救われた。伊藤の息子伊藤叡(あきら)中尉も沖縄戦の特攻で戦死している。
有馬正文:
第二十六航空戦隊司令官、「日本海軍航空隊の攻撃精神がいかに強烈であっても、もはや通常の手段で勝利を収めるのは不可能である。特攻を採用するのはパイロットたちの士気が高い今である」と航空特攻を早くから提唱、台湾沖航空戦の際にも「司令官以下全員が体当たりでいかねば駄目である」「戦争は老人から死ぬべきだ」と述べて、参謀や副官が止めるのも聞かず司令自ら一式陸上攻撃機に搭乗して初の航空特攻を行うため出撃し戦死した。
他の軍高官が占領地で美食にふけるなかで、有馬は兵士らと同じ粗食を食するなど高潔な人柄で部下将兵に慕われたという。
城英一郎:
1943年6月に特攻隊の構想をまとめ、上申するも一旦は「意見は了とするがまだその時ではない」と却下される。そのあとも熱心に航空特攻の開始を上申したが受け入れられず、結局、航空特攻は城の上申を却下した大西によって開始されることとなった。その後にレイテ沖海戦では空母千代田の艦長として囮作戦に参加、任務を完遂したのちに米海軍艦隊に捕捉され、千代田と運命をともにした。
隈部正美:
フィリピンで陸軍航空隊の特攻を指揮した第4航空軍参謀長であったが、フィリピンで同軍が壊滅したため、その後は閑職に更迭されていた。
第4航空軍参謀在籍時に司令官の富永恭次の敵前逃亡に等しい戦場脱出を止められなかったのを悔いており(富永は隈部に「台湾への撤退命令が出た」と騙されて撤退したとも主張)、終戦直後に母親、妻、2人の娘と心中した。娘が小さいころから習ってきたバイオリンを奏でる中で、隈部が家族をひとりひとり拳銃で射殺し、最後に自ら撃ち込み自決したという。
親泊朝省:
大本営報道部部長、内閣情報局情報官。主に国民や報道機関に戦況を知らせる責任者として、悪名高い大本営発表で過大な戦果を広報して国民を煽り続けた。特に沖縄戦における特攻では4月16日までに「特攻により393隻を沈没もしくは大損害を与えたが、そのなかには21隻の空母、19隻の戦艦、16隻の戦艦または大型巡洋艦、26隻の大型軍艦、55隻の巡洋艦、53隻の駆逐艦が含まれ、巡洋艦以上の大型艦85隻を含む217隻は撃沈確実である」「沖縄海域の敵艦船の60%はすでに沈没したか傷ついた」などと過大な戦果発表を行って、特攻隊員ら将兵や国民を煽り判断を狂わせた。
親泊は陸軍士官学校を主席で卒業した秀才ながら、前線で戦うことを好み、嘘の過大戦果報告をしなければいけないこの任務で「軍の機密保持のため、実際の戦況を国民に報道することが出来ないのは残念だ。心の中では申し訳ないと詫びつづけている。ほんとうに辛い職務だ」と悩み続けていたという。
終戦後に後処理を律儀に終わらせたのち、8月20日に自宅で妻子と自決。親泊と妻女は拳銃で自決、10歳の長女と5歳の長男は青酸カリで自殺したが、家族4人が枕を並べてきちんと姿勢を正した状態で発見されたという。親泊はフィリピン決戦前に国民を煽るために作曲された「比島決戦の歌」で西条八十の作詞に、曲のサビとして「いざ来いニミッツ、マッカーサー出てくりゃ地獄に逆落とし」というパワーワードを加えたことでも知られている。
小林巌:
航空総軍兵器本部で陸軍特攻兵器の開発を担当した責任者。戦後に手榴弾で自爆した。
水谷栄三郎:
陸軍技研爆弾関係部長兼審査部員、主に陸軍特攻機の搭載爆弾やその爆装についての研究開発を行った責任者。
大本営の命令とはいえ特攻機の開発を行ってきたことの責任を果たすために8月15日の深夜に研究・開発に従事してきた福生飛行場(今の横田基地)で拳銃自決、水谷の遺書により遺体は飛行場に葬られた。
加藤秀吉:
練習機「白菊」で特攻した海軍高知航空隊司令官。戦後に責任を感じて自決しようとする加藤を、そうはさせまいと部下が拳銃や軍刀を取り上げたが、部下の隙をついて井戸に身投げして自決したという。
岡村基春:
日本軍における戦闘機搭乗員の第一人者の1名、その卓越した操縦技術は「岡村サーカス」などと呼ばれた。
早くから航空特攻開始を提唱し、自分をその指揮官にしてほしいと懇願し、人間爆弾「桜花」を運用する「神雷部隊」の指揮官を拝命。桜花の初陣の日に桜花隊の護衛戦闘機を希望の機数準備してもらえなかったので、飛行隊長の野中五郎少佐に「自分が代わりに出撃する」と命じるも、野中から「そんなに自分が信頼できませんか、ごめん被ります」と拒否されている。野中隊は敵艦隊に接触できすに全滅、岡村はその報を聞くと大声で嗚咽したという。
その後も桜花や通常の特攻機を送り出したが敗戦。戦後は進駐軍から皇族を護持する「皇統護持作戦」にも関わったが、皇室は存続したので、その後は復員省で部下の復員と故郷への帰郷を支援しながら、休みには自費で特攻隊員の慰霊巡りを行った。戦後処理の目途もついた1948年に最初に特攻を上申した千葉で線路に飛び込み鉄道自殺を遂げた。
藤井権吉:
陸軍飛行第66戦隊戦闘隊長。
第66戦隊は沖縄戦で主に鹿児島の万世基地より、「99式双発軽爆撃機軽爆撃機」を主戦力として、特攻及び艦船攻撃や沖縄飛行場爆撃などの特攻支援任務につき69人の戦死者を出した。終戦後に戦闘隊長の藤井は妻子が疎開していた黒部市に向かい、ダグラス・マッカーサーが厚木基地に進駐してきた8月26日に黒部で妻子とともに拳銃で自決した。義父に充てた遺書には特攻を推進した陸軍第6航空軍司令部への批判と、勝機を逃して余力を残したまま降伏した政府に対しての不満が記してあった。
林野民三郎:
下志津陸軍飛行学校教官およびテストパイロットとして陸軍特攻隊員の育成と航空機開発に携わり、終戦直後に多数の教え子を特攻で死なせた責任をとって割腹自決した。
大石小学校(2001年閉校)通学時に作詞した故郷の岩手県の唐丹湾大石浜を詠った「大石賛歌」という唱歌が伝わっている。
橘健康:
陸軍航空隊第29戦隊戦闘班長。
同隊は1945年から台湾を基地として「四式戦闘機(疾風)」で特攻機の直掩を行っていたが、途中からは戦隊自ら特攻を行った。
橘は当初は直掩任務につき多くの特攻機を見送ったが、最終的には自ら特攻に志願し隊長として出撃する予定であった。しかし出撃前に終戦となったため、多くの特攻機を見送ったことと、自ら出撃できなかった悔恨により、愛機「疾風」のコックピット内で拳銃自決した。
黒木博司・仁科関夫:
人間魚雷「回天」の提唱者。
「必死の戦法さえ採用せられ、これを継ぎゆくものさえあれば、たとえ明日殉職するとも更に遺憾なし」と自ら「回天」に搭乗して特攻することを志願。志願通りに回天隊員となったが、黒木は訓練中に事故に遭遇。海底に着底し酸素が薄れ行く回天の中で取り乱すことなく、意識を失うまで事故の原因や遺書を艇内に書き残し殉職したという。
仁科は黒木の遺骨を抱いて初の回天作戦に出撃し大型タンカーに特攻。これを撃沈して戦死した。
中原一雄・長島良次:
徳島海軍航空隊、練習機「白菊」特攻隊士官。
両名とも学徒出陣の予備士官であったが、戦友や部下らの多くが特攻で散華したにも拘わらず自身は出撃することなく終戦を迎えたことに責任を感じ、徳島空の部下らの復員を見届けたのちにお互いに航空機銃を相手に向けて撃ち合うという壮絶な自決を行った。
海上自衛隊徳島教育航空群の徳島基地には両名の慰霊碑が建立され、今日でも生徒らにより定期的に清掃が行われている。
橋口寛:
人間魚雷「回天」の教官で、「回天」特別攻撃隊神州隊長でもあった。
先に出撃した戦友や教官として育成した回天隊員の後に続こうと「回天」での出撃を志願し、志願かなって終戦直前に「回天」特別攻撃隊神州隊長として出撃するも母艦の「伊-36潜水艦」が損傷したため、出撃することなく帰還。
その後再出撃の機会をうかがっていたが終戦となり、死に遅れたと感じた橋口は終戦後の8月18日に出撃を強行するも、司令部からの命令により帰還させられた。「1億相率いて吾人の努め足らざりしが故に、吾人の代において神州の国体を擁護し得ず終焉せしむるに到し罪を、聖上陛下の御前に、皇祖皇宗の御前に謝し、責を執らざるべからず(要約:わたしの働きが足りなかったがために、わたしの代で神州=日本の在り方を守りきれず終わってしまった罪を、天皇陛下やその祖先の方々の前に深くお詫びし、その責任を取ります)。」とする遺書を遺して「国体を護持」できなかった責任をとるために自決した。
奥山道郎:
日本本土を空襲するB-29を地上で撃破するためにサイパン島へ突入すべく編成された空挺特攻隊「義烈空挺隊」の指揮官。
空隊部隊から柔道・剣道有段者などの精鋭が集められたが、奥山はその指揮官を志願した。のちに「義烈空挺隊」には陸軍中野学校のスパイも参加し、敵地に潜入し情報収集や破壊活動を行う計画もされたが、やもすればエリート意識も高い中野学校のスパイたちも奥山の豪放磊落な人柄に触れて心酔している。「義烈空挺隊」は紆余曲折を経て、最終的に沖縄戦で日本軍の最大の障害となっていた沖縄本島の米軍飛行場に突入することとなったが、奥山は一番機に搭乗して真っ先に突入。残念ながら奥山の機は突入直前に撃墜され、奥山以下全員が戦死したが、原田宣章少尉率いる4番機が米軍の読谷飛行場に突入成功し、輸送機や大型爆撃機など9機を爆破炎上させ、29機を撃破、ドラム缶600本70,000ガロンの航空燃料を焼き払い、20人の米兵を殺傷して全滅した。
国定謙男:
第12連合航空隊参謀、三重海軍航空隊教官、練習連合航空隊参謀など搭乗員の育成関連の軍務を歴任し、多くの特攻隊員を育成。
終戦前には軍令部参謀となり、特攻推進派の軍令部次長大西の下で主に沖縄戦や本土決戦の戦備関係の軍務に就いた。国定が育てた搭乗員の多くが特攻隊員として戦死しその責任を痛感していたとのことで、終戦後に妻子と共に自決した。
小野寺謙介:
陸軍航空士官学校で、多くの陸軍航空士官を育成、育成された航空士官の多くが特攻隊として散華した。
終戦後にとある寺で「自分達将校は作戦を誤ったばかりに、こんな惨めな敗戦となり、上は天皇陛下の宸襟を悩まし奉り、国民には惨めな敗戦の苦痛を味あわせ、今は死をもって御詫びする以外にないと立ち至りました。どうか自決の場所に境内の一角をお貸し頂きたい」と訪れた。その寺の住職は思いとどまるよう説得するも小野寺の意志は固く、自決を応諾せざるを得なかったという。小野寺は墓地の一角でパラシュートを下に敷いて割腹自決を遂げた。
藤井一:
熊谷陸軍飛行学校の少年飛行兵の教官として特攻隊員を育成したが、自分も教え子たちと一緒に特攻出撃したいと考え特攻志願。
しかし陸軍は藤井が教官であることや、新妻と幼子がいることから志願を却下。それでも諦めずに何度も志願する夫を見て、妻が「私たちがいたのでは後顧の憂いとなり、十分な活躍ができないと思いますので、一足先に逝って待ってます」と遺書を遺して子供と心中。悲嘆に暮れる藤井は志願書を血書で提出し、事情を知った陸軍はようやく藤井の志願を受理。藤井は教え子たちと沖縄に突入して戦死した。
生き残った指揮官ら
菅原道大:
沖縄戦で陸軍の航空特攻を推進した第6航空軍の司令官。
特攻隊員を「決しておまえたちだけを死なせない。最後の一機で必ず私はおまえたちの後を追う」と送り出し、実際に自分が乗り込む特攻機を用意する命令まで出していたが、玉音放送で天皇からの停戦命令あるや、命令通り出撃は断念。
それでも、海軍の特攻司令官宇垣の出撃を知った参謀や特攻隊員らから、「一緒に出撃しましょう」と懇願されるも、天皇からの停戦命令があった以上、無駄な犠牲を避けるべく「命令通り、出撃は不可」と参謀らを説き伏せた。
しかし、戦後に部下を一緒に死なせて非難された宇垣に対して、しっかりと停戦命令を守って部下の無駄死にを防いだのにも拘わらず、このとき菅原が怯えたあげくにグチャグチャと泣き言を言って出撃を拒否したなどと非難する者もいた模様。
終戦直後は天皇からの命令通り特攻出撃は断念したものの、責任をとって自決するつもりで、そのタイミングを「九州を去る時」「軍司令官罷免の時」「敵の捕手、身辺に来る直前」などと考えていたが、軍司令官として終戦処理に追われている間にタイミングを逸していた。
そんなある日、部下の参謀から「海軍の特攻指揮官は自決したので、もっとも特攻を知る指揮官として隊員の供養をしたらどうか?」と進言され、「正に然り、特攻精神の継承、顕彰は余を以って最適任者たること、予之を知る」「海軍側については宇垣纏中将、大西瀧治郎中将既に無く、福留繁中将あるも極めて限定的なり」と思い立ち、もっとも特攻を知る者として特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことに。
特攻隊員との約束を破りおめおめ生き延びたなどとバッシングされることも多い一方で、除隊後にはじめた農業の稼ぎの多くを特攻隊員遺族巡りに費やし、畳もないゴザ敷きのあばら家に居住するなど質素を通り越して貧相な生活を送りながら、戦後に自衛隊に入って出世した元部下や政治家などの人脈を最大限に活用、特攻隊員慰霊のための特攻平和観音像を知覧に建立するために募金活動などで尽力した。特攻平和観音像は「特攻の母」として名高い鳥濱トメも特攻隊員を慰霊するために建立を切望しており、その後に特攻平和観音近くには知覧特攻平和会館も併設されて、多くの観光客が知覧を訪れるきっかけともなっている。
これらの慰霊活動についても「自己正当化だ」ともバッシングを受けたが、「申し訳ない。私は鬼畜生と思われてもいい。だが彼ら(特攻隊員)のことは悪く書かないでくれ。」と土下座して詫びたという。
次男からも「父は自決すべきだったが、前途ある若者を道連れにしなかったことがせめてもの救い」などと厳しい言葉を投げかけられながらも、晩年に認知症となるまで活動を続けて特攻平和観音奉賛会を設立、特攻戦死者の慰霊顕彰に尽力した。そして菅原が特攻を命じて戦死した特攻隊員の遺族からの信頼を得て、菅原の三男が特攻平和観音奉賛会から発展した特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会の理事長を務めることに。
戦史作家の大家高木俊朗とは当初こそ仲が良かったが、のちに高木の著書の記述内容で対立、その高木に徹底的に罵倒されて、それを真に受けた他の作家などからもボロボロに書かれてしまいながらも、自分に対する悪評には一切反論しなかった。
そのため徹底的にこき下ろされ、陸軍航空隊の育ての親的な存在で、大戦初期から中期はマレー、シンガポール、蘭印(今のインドネシア)、ビルマ(今のミャンマー)で航空部隊を指揮して多大な戦果を挙げたにも拘わらず、その功績は一切無視されることも多かった。
富永恭次:
第4航空軍の司令官としてフィリピンにおける陸軍航空隊の特攻を指揮。
前任の陸軍次官時代は、総理大臣兼陸軍大臣の東條英機大将と懇意なことを笠に着て威張り散らし、「東條の腰巾着」などと呼ばれて大変に評判が悪かったという。
しかし第4航空軍にきてからは、最高司令官にもかかわらず、空襲になると高射砲陣地に陣取って敵機の銃爆撃のなかで対空射撃の陣頭指揮を執るなど勇ましいところを見せたり、将兵らと一緒に飲み会したり、功績を自分の目で確認すると大盤振る舞いで昇進させたり、プレゼントを送ったり、出撃する隊員には一人一人泣きながら握手したり、地上で苦戦する地上軍のために周囲の反対を押し切って、
作戦機で補給物資の空輸を行うなど、多少オーバーアクション的な対応が好評を博し、特攻隊員らパイロットたちの評判はむしろ高かった。新聞記者が特攻隊員と飲み会すると特攻隊員は口々に「参謀は信用できんが富永司令官は俺たちのことをわかってくれる」と話していたという。
何度も特攻出撃させられた「不死身の特攻兵」として有名な佐々木友次伍長も大変に富永を慕っていた様子。
逆に参謀や高級士官には厳しく当たったり、独断専行することが多かったりしたので煙たがられていたが、参謀や高級士官の言うことはあまり聞かなくても、優秀な若手士官の意見を参考にすることもあって、陸軍次官時代には「陸海軍統一運用」や「松代大本営」といった重要な施策を部下からの上申を受けて実現化にむけ尽力し、大変に頼りにされていたという。
フィリピンの戦いで第4航空軍は特攻でアメリカ軍に大損害を与えるも、航空機を使い果たしてしまった。富永は、後から続くと言って出撃させた特攻隊員に申し訳ない、マニラを死守して討ち死にすると主張していたが、アメリカ軍がルソン島に上陸すると最前線のフィリピンから敵前逃亡に等しい無断撤退をしてしまった。
この無断撤退、
1.後方のフィリピンで戦力を立て直した方がいいとする助言が南方軍や第14方面軍などから富永に寄せられた
2.富永自身、航空戦力もない第4航空軍が慣れない地上戦を戦って玉砕するよりも、戦力を立て直したいと考えが変わってきていた
3.特攻隊を毎日見送ってかなり精神が参っていたらしく、「鳥の鳴き声がうるさいから全部打ち落とせ」などと無茶振り。その頃、同じく台湾への後退を希望していた参謀長からの「大本営から台湾への後退の命令が来た」という虚偽報告を信じたふりをして撤退した
……というのが真相である。
が、簡単に追認されるという目論見が外れて大問題となり「敵前逃亡」扱いされてしまう。
第4航空軍の台湾への撤退を内心仕方ないと考えていた直属の司令官の山下奉文大将は、正式な許可も取らずに独断専行した富永に激怒し、フィリピンに残された将兵からも密かに替え歌を歌われるほどバカにされてしまう。
逃亡時の飛行機には部下をわざわざ下ろし芸者を一緒に乗せたとか、ウイスキーを大量に積んだとか、無能ぶりを際立たせる目的で濡れ衣を着せられることもあるが、富永が逃亡時に搭乗したのは復座の99式襲撃機であり、芸者を何人も詰め込むことはできないし、実際にはデング熱で弱っていた富永を、参謀たちがどうにか後部座席に押し込んで出発させている。
また、富永としばらく寝起きを共にしていた読売新聞の従軍記者によれば、富永は下戸であり、わざわざ飲めないウイスキーを持っていくとは考えられないし、芸者に至っては、マニラの日本陸軍ご用達の料亭『廣松』の芸者たちは、ルソン島に残った第14方面軍の管理下にあって、富永らが逃亡後もルソン島に残り、第14方面軍とルソン島山中を終戦まで彷徨っており、一緒に逃げたという事実はない。
このような濡れ衣を着せられたのは、富永の看護をしていた日本赤十字社の従軍看護婦を慰安婦と勘違いした兵士がデマを広げたり、また、料亭『廣松』が富永ら第4航空軍専属の料亭で、富永らが愛人を囲っていたとか事実ではないことを、戦後の「暴露」ブームのなかで面白おかしく雑誌や戦記に書かれたからであった。どうにか日本に生還した料亭『廣松』の女将が戦後に語ったことによれば、料亭『廣松』は第14方面軍の管理下であり、女将を始め芸者たちは、自分ら同世代で若くして死んでいく特攻隊員たちに同情し、富永ら司令部の年寄たちが特攻すればいいと非難していたなど、第4航空軍司令部には批判的であったとのことで、特別に親密な関係ではなかったとしている。
結局、今さら富永をフィリピンに戻しても仕方がないという陸軍中央の判断もあって、敵前逃亡に等しい独断での撤退は追認されたが、さすがに現役にはとどまれず、予備役行きとなった。
しかし本土決戦準備による根こそぎ動員の師団濫造で師団長ができる階級の将官が不足したために急遽現役復帰させられ、根こそぎ動員師団の師団長に(軍司令官から根こそぎ動員師団師団長であり明確な降格)。富永の師団は満州に送られたが、ソ連軍と戦闘前に終戦となったのでそのままソ連軍の捕虜となった。
戦後はモスクワに連れて行かれて6年間も尋問されたのち、軍事裁判で強制労働75年の判決が出て、強制労働させられていた最中に身体を壊して釈放となった。
シベリア抑留は長期に及び、日本に帰還したときには満足に歩行できないほど衰弱していた。帰国後は当然、敵前逃亡に等しい無断撤退などでバッシングを受けたが、陸軍兵学校の同期や可愛がっていた特攻隊員の生き残りや遺族などは擁護する声も多く論争を巻き起こした。
本人はそんな論争をよそに、シベリアに残された抑留者の開放を各方面に呼びかける運動をしたのちは「敗軍の将は兵を語らず」として積極的に反論することもなく、5年後に心臓衰弱のため死去した。
長男は父親の汚名を返上しようと特攻に志願し、そのあまりに堂々とした態度に「あれは誰か」と参謀が尋ねると「富永閣下の息子さんです」という答えが返ってきたとされる。その手には富永から贈られた日章旗を握りしめていたとか。
菅原道大と同様、作家高木俊朗の著書で徹底的に罵倒された影響で実像以上に悪者にされている気の毒な人である。
黒島亀人:
山本五十六の懐刀として数々の奇策を発案し、「変人参謀」と言われた男。軍令部第2部長時代に海軍特攻の採用に決定的な役割を果たし、自らも甲標的丙型、震洋など多くの特攻兵器を立案した。
黒木大尉と仁科中尉が発案した人間魚雷「回天」、大田特務少尉が発案した人間爆弾「桜花」の開発が決定されたのも黒島の意向がはたらいたためと言われる。
戦後に多くの陸海軍将官が自決したなかでも黒島は生き残り、軍令部の重要書類を勝手に焼却したり、宇垣纒の手記(後に「戦藻録」として出版)を遺族から借り出して自分に都合の悪い部分を「電車に置き忘れた」として紛失したり。ほかにも軍関係の資料を借りて「紛失」しており、自分に都合の悪い資料を破棄した可能性も指摘されている。
戦中に資産家の木村家が戦災で苦労しているのを援助した縁で、戦後に木村家が開業した顕微鏡販売業の会社に迎えられるが、軍神とも評された山本の妻女が国の援護もなく住居にも事欠く困窮生活を送っていたのを知るや自分は常務に退き、山本礼子を副社長に据えることで経済的に支援を行った。
住居は厚意で木村家の豪邸に寄宿させてもらっており、木村は非常勤役員として豪邸の庭で果物や野菜などを栽培していたが、木村家からは頼りにされて会社経営の助言をよくしていたという。木村家の子供たちも黒島によく懐いて「黒島のおじちゃま」と呼んでいた。
黒島は農作業と会社業務の傍らで一心不乱に何かをノートにまとめていたといい、木村家の者に「戦死した若い部下が出てきた。霊魂はあると思う」と語っていたこともあって、そのノートには特攻を含む戦史がまとめてあることも期待された。
享年72歳で天寿を全う、遺言は「南の島に飛行機が行く」であったが、黒島の死後に遺されたノートを木村家の者どもが確認したところ、宗教か哲学のような理解困難な記述ばかりで軍関連の記述は一切なかったという。
神重徳:
連合艦隊主席参謀在任時に戦艦大和の海上特攻を発案。若い頃からヒトラーに心酔しており、特徴のちょび髭はヒトラーを真似たもの。
神は「第一次ソロモン海戦」や「レイテ沖海戦」など、戦艦・巡洋艦の主力艦の突入作戦を好み、大和特攻についても昭和天皇の「なぜ陸海軍は反撃にでぬのか?逆上陸作戦などやってはどうか」という提案を利用して作戦を立案し、特攻作戦には批判的であった上官となる連合艦隊参謀長草鹿龍之介中将が不在の時を狙い、連合艦隊豊田司令長官の決裁をとってしまった。
しかし、海上特攻を第二艦隊司令の伊藤中将に伝える役目は上官草鹿に押し付け、厄介な役目を背負わされた草鹿は「決まってから参謀長の意見はどうですかもないもんだ」と立腹している。
終戦時には第10航空艦隊参謀長に異動し、出撃も自決もすることなく終戦を迎えたが、終戦後1か月経った9月15日に練習機「白菊」で他の高官らと移動中に白菊が海上に不時着水。そのまま行方不明となった。
息子は父の性格からして自決はあり得ないと述べているが、神は水泳が非常に達者であったことや、他の高官らは全員救助されたこと、また、神が手を振って海に没していったとする目撃証言もあって救助を拒否して自決したとの推測もある。
また神は何らかの埋蔵金(一説には北京原人の化石)を隠すために北海道に飛んでその帰りに遭難したという主張もある。
美濃部正:
「軍上層部に反抗し命を賭して特攻を拒否した指揮官」などと高く評価されている、夜間戦闘機部隊「芙蓉部隊」の指揮官。
実際は硫黄島の戦いのときに特攻を命じており、特攻自体は失敗したが、出撃機が敵機に追跡されて帰還後に攻撃を受けて3人の“特攻戦死者”を出した。
その後も沖縄戦で別れの盃を交わした特攻出撃をたびたび命じるも、幸か不幸か全部失敗で美濃部が命じた特攻出撃での戦死者は硫黄島の戦いのときの3人に止まっている(しかし自発的特攻で6人以上が戦死、うち4人が連合艦隊司令長官の感状を受けている)。
芙蓉部隊は夜間戦闘機隊扱いであった事から特攻編成から外されていたようだが、美濃部は特攻隊員の食事が通常の搭乗員よりも御馳走であることを聞きつけると、自分たちにも同じものを食わせろと難癖つけて認めさせている。
また、なぜか
- 日本軍が常套戦術として行っていた敵艦隊への夜襲攻撃が美濃部の独創となっている
- 美濃部が「猫日課」などと名づけて行っていた昼夜逆転の訓練スケジュールは当時の日本軍が普遍的にやっていたものであったが、これもなぜか美濃部の独創ということになっている
- 最高速度や加速度や上昇能力が空冷型より優れていたため、芙蓉部隊へ優先的に配備された新品の夜間戦闘機型水冷型彗星を、美濃部が各航空隊で見捨てられて放置されていたガラクタをかき集めたことに
- 元々美濃部は対艦への夜襲攻撃を主任務と考えていたが、全く戦果が挙がらないので沖縄の敵飛行場攻撃に回されただけ。しかし敵基地夜間攻撃のスペシャリスト扱いになっていたりする。
ちなみに沖縄のアメリカ軍飛行場が最大の打撃を被った1945年5月24日~25日については、陸軍が「義烈空挺隊」と重爆隊、海軍が陸上攻撃機部隊を多数投入して激戦が繰り広げられたが、敵基地攻撃のスペシャリスト(?)であるはずの芙蓉部隊に出撃の声はかからず、隊員たちは美濃部の発案で大宴会。蛍観賞を酒の肴に、みんな芋焼酎で酔い痴れていたらしい。
- 本来、地上爆撃が任務の陸軍の重爆撃機や海軍の陸上攻撃機も芙蓉部隊と同様に沖縄の敵飛行場攻撃を行い、この部隊とは段違いの打撃を与えていたのに、なぜか沖縄の飛行場を芙蓉部隊がほぼ独力で苦しめていたような扱いに
- 大本営の本土決戦準備の一環として特攻用の「秘匿基地」として前々から整備が決定していた「岩川基地」に移動を命じられた美濃部であったが、なぜか大本営の方針によって工事が進んでいた「岩川基地」の秘匿化が、そもそも海軍の「空地分離」方針で飛行場整備には大した権限もない美濃部の独創扱いに(ちなみに「岩川基地」の秘匿化を褒めたたえる際によく持ち出される、滑走路上に草を敷いてカモフラージュするのは、「岩川基地」の半年以上前に、無能扱いされている富永恭次中将が率いた、日本陸軍の第4航空軍がフィリピンでやってたり、カモフラージュ目的で移動式小屋や植え込みなんかを置いたりするのもマニュアル化されており、ほかの「秘匿基地」でも使われたりしている)。
こんな具合に、後年の自身の回想やそれを膨らませた作家などによる脚色によって事実を曲げたうえで、数少ない独創的で有能な軍人扱いになっている。他はことごとくこき下ろされているというのに……
「芙蓉部隊」は目ぼしい戦果も挙げることなく、大量の彗星や最新型の零戦を失って終戦の日を迎えたが、美濃部は他の生き延びた多くの特攻隊指揮官と同様に「後から続くから待っててくれ」と部下100人以上を死なせ、常々「指揮官先頭の日本海軍の伝統を守らない特攻隊指揮官はつまらん奴らだ」と言いながらも、自分も出撃も自決することもなく生き延びた。戦後は旧軍の伝手を頼って自衛隊に入隊、仕事中に職場でゴルフの打ちっ放しに興じたり、定時に仕事は終わるが、毎日のように部下を誘って深夜まで麻雀したりと好き放題やっていたのにも拘わらず空将(かなりの地位)まで栄達、定年を迎えると天下りでいい職につき人生を謳歌、引退後には自讃に満ちた自伝を書き「自分は命を賭して特攻に反対した」などと主張しているが、硫黄島の戦いのときなどに特攻を命じたことは当然ながら自伝には書いていない。そして特攻隊員に対しては、「女を抱かせてもらって士気を維持したらしい(根拠なし)」と真偽も怪しいデマの類で中傷し、特攻の責任を取って自決した宇垣纒や大西瀧冶郎や岡村基春など特攻指揮官らに対しては、「自己正当化のための自決」「戦後の生活苦のための自決」などと逆に自伝で批判する始末。
海軍から自衛隊まで長年の間美濃部の下で働いた部下からは「芙蓉部隊が特攻を除外されたなんて誰が言ったの?聞いてないよ」「俺たちは特攻隊員だったぜ」とツッコミを受けているが、なぜか世間では無かったことにされている人気者。晩年には「グルメに浮かれる平成時代の日本人に世界平和を唱える資格はない!!今の日本の若者たちは生活を50%切り下げて飢餓民族を救え!!」などと、自分が若い頃は戦時中で、前線の兵士や銃後の国民らが飢餓に苦しんでいたのにも拘わらず、ビフテキだのコンビーフだの高級食材を食べ、デザートに汁粉や果物缶詰だのも用意させながら、汁粉が甘くないと主計課の兵士を罵倒し男泣きさせたなどと海原雄山のような食通的なエピソードを残すなど、美食を尽くしていたことは棚に上げてのお前が言うな的な主張をしながら、孫に囲まれて幸せに81歳で天寿を全う。ちなみにアカギばりに麻雀が激強だったらしい。
客観的に見てもダメダメな印象が強いが、こういう図太い奴こそ生き延びるという証明なのかもしれない。
玉井浅一:
第201航空隊副長のときに、大西が提案した神風特別攻撃隊の編成に携わった男。特攻第一号と称されている「敷島隊」の関行男大尉(死後中佐に昇格)を隊長として人選したのも玉井であった。その後201空の司令官に昇進してフィリピンでの特攻を指揮。
元々は温和な人物であったが、特攻の指揮では人が変わったかのように厳しく、ある日特攻出撃しながら体当たりをせず、敵艦に爆弾を投下して帰還してきた特攻隊員がいたが、玉井はその特攻隊員を数時間にも渡って叱責、同じ日に再度特攻出撃させたりしている。
一方で、出撃したものの接敵できず帰還した特攻機が「故障で爆弾が投棄できなかったので危険を冒してそのまま着陸を強行、無事に着陸」できたのを見た玉井はその特攻隊員を泣きながら抱きかかえて無事を喜んだという。また、特攻に志願したエースパイロットを思いとどまるように説得したこともあった。
従軍記者などに裏から手を回して、特攻隊員を飲みに連れて行ったりして、気持ちを和ませるように手配しているなど、きめ細やかな気配りもしている。
フィリピンが米軍の手に落ちると、台湾に撤退して、新しく編成された第205航空隊指揮官として、終戦まで沖縄に特攻機を送り続けた。ある意味、航空特攻の開始から終戦までもっとも特攻に携わった指揮官とも言える。
戦後は、先に自決した元上官の大西の遺書にあった「日本民族の福祉と世界人類の和平の為、最善を盡せ」ということばに影響されて、生き延びることを選択したが、周囲からは若者を特攻で死なせながら生き永らえる玉井に批判もあり、就職もままならず、悪徳商法にひっかかったりと、極貧のなかで生活も荒れて娘にDVすることもあった模様。
老境に差し掛かった頃に知人の薦めもあって、自分が送り出した特攻隊員の霊を慰めるために仏門に入り、一から修行して住職となった。仏門に入ってからは、どんなに寒くとも毎日水垢離の苦行を欠かさず、また自分が出撃を命じ戦死した特攻隊員の名前を全員記憶しており、お経と一緒に唱えながら冥福を祈っていたという。
高齢になって身体が弱っており、家族から水垢離の苦行を止めるように言われていたが、まるで自分の身体を虐めるかのように止めることはなく、厳冬のある朝、水垢離の苦行中に心臓発作で急死した。
倉澤清忠:
元々はパイロットで、鉾田教導飛行師団で自ら航空機を操縦しスキップボミングの研究をしていたが、乗機が故障で墜落してしまった。
倉澤は頭蓋骨を骨折して意識不明の重体となり、助からないと軍医に言われていたが、どうにか一命を取り留めた。しかし負傷の後遺症で極端な視力低下と慢性的な頭痛に襲われるようになり、軍を除隊したいとも考えたが、戦争激化で航空士官の数が足らず、後遺症に苦しむなかで軍に復帰させられた。復帰後は航空機の操縦は無理となったので参謀となり、引き続きスキップボミングの研究を行ったが、全陸軍から精鋭が集められたはずの、そして後に陸軍初の特攻隊「万朶隊」の隊員ともなる研究パイロットらのあまりの技量の低さに、陸軍航空隊パイロットにはスキップボミングは無理と諦めて、体当りしか方法がないという結論に至っている。
その後に沖縄戦で陸軍特攻を指揮した第6航空軍参謀に異動、特攻隊の編制に関わるとともに、機体故障や特攻すべき敵艦が発見できずに帰還したパイロットが寝泊まりする施設「振武寮」の運営に携わった。
慢性的な頭痛に悩まされていた倉澤は、痛み止め代わりに酒をいつも飲んでおり、泥酔した状態で一部の反抗的な特攻隊員に「そんなに命が惜しいのか」となじったり、竹刀で殴ったり、軍人勅諭を筆写させるとかの罰ゲームをさせて、一部の特攻隊員に大変嫌われていたとか。
しかし地元の女子高生の慰問の学芸会や日本舞踊(今日でいう創作ダンス的なもの)や合唱会などをかなりの頻度で開催し、そのうち仲良くなった特攻隊員とJKが付き合うのを黙認し、近所の警固公園でデートするのを容認したり、電力会社OLとのお茶会(今でいう合コン)を企画し、翌日特攻隊員がOLと親交を深めるため外出するのを許可したり、かなりの頻度で歯医者に治療に行くと申し出る特攻隊員を(当然嘘)疑いも調べもせずに休暇と外出を許可したり、朝鮮人特攻隊員の賛美記事を自ら書いて新聞に寄稿したりと特攻隊員の福利厚生(?)に気を配っている一面も見せている。また、帰還したのちに再出撃を申し出た特攻隊員を「お前ら臆病者に機体はやれん」と再出撃の申し出を却下したため、倉澤に虐められたとされる特攻隊員は再出撃を逃れて"結果的に"全員生還している。こんな気遣い(?)も見せた倉澤であったが、大戦末期には階級が下の特攻隊員から反抗されて、逆に殴り倒されることもあった。
しかし第6航空軍の高官は逆に殴った特攻隊員の肩を持って倉澤を叱責するなど理不尽な扱いを受けており、中間管理職の悲哀を味わっている。なお「振武寮」の運営には数人の参謀が携わっており、倉澤はその中でもっとも若く、一番の下っ端であった。
戦後は印刷会社を経営し、経済的に成功したので、陸軍航空隊の戦友会の幹事などを努めて元陸軍軍人たちには人望があった一方で、虐めた特攻隊員から報復で殺害されることを恐れていたのか(合コン企画したり、殴り倒されたりしたのに)、軍刀やピストルを携帯していたという。なお亡くなる数年前に、倉澤が自ら警察署に父親の遺品として届けて罪にはならなかったとのこと。
晩年に認知症の症状も出るなかで取材を受けた際、「軍人は命を落とすことが前提なのだから、命を惜しんで戻ってくる方が悪い」などと嘯いてしまったり、「振武寮」を舞台とした毛利恒之の小説(とその映画化)「月光の夏」で、倉澤をモチーフにした登場人物が俳優高橋長英の熱演もあって悪い意味で印象に残ったり、「月光の夏」のスマッシュヒットにより、「振武寮」にスポットライトが当たって、戦争当時に倉澤に後遺症の八つ当たりで虐められた一部の特攻隊員の回想本の出版やテレビ出演が続いたりして、突然に悪い意味で有名となってしまった不運な男。ちなみに取材をうけた数ヶ月後に天寿を全うしている。
大田正一:
米軍コードネーム"BAKA"こと人間爆弾「桜花」の発案者。
海軍航空隊の陸上攻撃機に搭乗し、日中戦争に従軍して数えきれないほどの実戦をくぐり抜けた歴戦の偵察士で、実戦の功績で4等兵(末端)から特務士官少尉まで昇進した叩き上げ。
太平洋戦争でも最前線ラバウルで輸送機の機長として任務につき、戦局の悪化を目のあたりにして、かつてからアイデアマンであった大田は挽回の妙策を色々と考案していた。
大田は日本軍が無線誘導の対艦ミサイルを開発中であるという情報を聞きつけると、開発困難な誘導装置を諦めて人間が操縦する「人間爆弾」にした方が実用化は早いと思い立ち、東京大学航空研究所や海軍航空技術廠の協力を取り付けて図面なども作成し海軍軍令部に提案した。
軍令部も悪化する戦局を一発逆転できるような兵器を兵器を望んでおり、本来なら採用されるはずもない、技術将校ですらない特務士官の案が採用されて「桜花」の開発が決定した。
大田の「自ら搭乗する」という熱心な説得が多くの技術者たちの心を揺り動かしたが、偵察士であった大田が操縦士の訓練を受けたものの「操縦適性なし」と判定されて自ら桜花で出撃することはなかった。
その後、大田は桜花を運用する「神雷部隊」に配属されて隊員たちの世話役に。
ある日予備士官と下士官で揉め事があり、下士官が軍刀で予備士官に斬りかかろうとしたときは、自ら身を挺して「俺を斬ってからいけ」などと制止、両者の仲裁をおこなったことも。下士官たちは兵卒から叩き上げで特務士官となった大田だから自分たちの気持ちが解ると頼りにしていたという。
しかし、何の権限もない大田にできることはこのぐらいで、桜花は本土決戦用決戦兵器としてジェットエンジン化されるなど改良が進められたが、技術者ですらない大田は全く関与していなかった。
終戦直前には精神的に病んでおり、自殺も心配されたので仕事も与えられず監視下に置かれたが、終戦が決まると練習機に乗って飛び出してそのまま行方不明となり死亡と認定された。
だが練習機は海上に不時着水しており、大田は漁師に救助された。助かった大田は無戸籍のまま生きることとし、「横山道雄」という偽名で履歴書がなくても働ける職を転々とし、妻子がいながら新しい恋人もつくって事実婚し、子供にも恵まれた。
大田は軍人のときから桜花などの新兵器や新戦術を数多く考え出したように発想豊かで、また手先も器用だったことから、自宅も自分で建築して、地下には工作所まで誘致している。
口もうまく、無戸籍であったので職を転々とせざるを得なかったが、職が途切れることはなく75歳まで働いたという。
事実婚の妻と子供は「横山道雄」が偽名で、本名は大田であることを知っており、大田も酒に酔うと大田姓での戦争体験の話をよくしたが、桜花の話をすることはなかった。
前立腺がんを患い、自分の寿命が長くないことを知ると、高野山を訪ねて僧侶に自分が大田正一で桜花の発案者であることをカミングアウトし、その足で和歌山の三段壁から飛び降り自殺を図るも警察に発見されて未遂に終わった。
家族に保護された大田はがんの進行で衰弱しており、余命いくばくもなかったが、うわごとで戦争のときのことを話し、「すまなかった」と詫びたりしているのを見て、家族は太田が「桜花」戦没者へ贖罪して生涯を終えたかったと痛感させられた。
自殺未遂の半年後に大田はこの世を去ったが、家族は死亡届を「大田正一」で提出して受理されたという。
「桜花」を代表する人物みたいに言われ、戸籍を捨ててまで生き永らえたということもあって、戦後まもなくから現代に至るまで激しいバッシングを受けている人物ではあるが、「桜花」の概念を発案しただけで、将校といっても、学歴絶対主義の日本海軍の中では将校扱いされない特務士官に過ぎず、桜花作戦に対しては何の権限もなかったのにスケープゴートとして実像以上に大物扱いされてバッシング。
ちなみに桜花作戦指揮官の岡村基春大佐は戦後に自殺している。
ハヨ・ヘルマン
カミカゼにインスパイアされ、ドイツ版特攻隊エルベ特別攻撃隊を編成。
一回目の出撃で大失敗してヒトラーの怒りを買い解隊となり、終戦時にソ連軍捕虜となったが、無事生き延びて捕虜から解放されたあとは弁護士となって幸せな余生を送り、ナチス擁護とホロコースト否定を主張し続け97歳で大往生した。
ハンナ・ライチュ
ドイツ初の女性テストパイロット。
ヒトラーに気に入られ、兵器開発に口を挟めるようになったので、Fi103ことV1飛行爆弾の有人特攻兵器化を主張し採用された。これはFi103R ライヒェンベルクと呼ばれ、一応は脱出可としていたが、操縦席が狭い上にすぐ後方にはエンジンの吸気口があり、脱出してもエンジンに吸い込まれることは確実でまさに特攻兵器であった。
結局ライチュがこの特攻兵器に乗ることはなく、また実戦に投入されることもなかったものの、その後も特攻隊レオニダス隊の編成を進言し採用。だが終戦直前に36名のパイロットがソ連赤軍の足止めをするためとして軍艦でも航空機でもない橋に特攻させられ全員が戦死、ソ連軍の足止めに失敗と最悪の事態に。
レオニダス隊が特攻しているころ、ライチュはベルリンの総統防空壕のなかにいたが、ヒトラー自決前にベルリンの総統防空壕を逃亡して生き延び、戦後はグライダーパイロットとして人
余生を送り、独身のまま67歳で他界した。
比喩としての「特攻」
「特攻」は「神風」(Kamikaze)と共に無謀な自己犠牲の比喩としても知られている。
2001年にニューヨークで起こった9.11テロの旅客機追突や2015年11月13日に起こったパリ同時多発テロの自爆攻撃を「Kamikaze」と呼ぶ報道も多々あった。
なお、暴走族でもケンカなどの切り込み役として腕の立つ人間を特攻隊長と呼ぶ。
現代では
現在も世界各地で起こる自爆テロを「特攻」と見なす報道や考え方があるが、特攻は国家間の戦闘員同士における戦闘で用いられるのに対し、自爆テロは非戦闘員である民間人も対象にした無差別攻撃である為、同一の戦闘手段ではないという主張がされている。
だが現代それを目の当たりにした者が一般的に抱く恐怖とその行為を理解しがたい心情は、当時、戦争とはいえここまでするのかと特攻隊の攻撃を前にしてアメリカ軍将兵が抱いたであろう諸々の感情に近いのかも知れない。
イランはイラン・イラク戦争において組織的な自爆攻撃を指揮・運用・実行した。イランはイラン革命の混乱と粛清等から国内がガタガタになっていて、優勢に進撃するイラクに対し対抗手段の一つとして自爆攻撃を採用した。
宗教指導者達は死後の天国行きと祖国の勝利を確約すると、「天国への鍵」と言われる金属製乃至プラスチック製の「鍵」をシンボルとして渡した。
主に革命防衛隊の中から志願者を募っていたらしく、構成員の殆どは10代の若者だったという。なお徒歩やバイク・自動車によって実行された。
これらの自爆歩兵と人海戦術により戦況を一時好転させるが、イラク軍がやがてソ連流の火力による突撃破砕戦術を身につけると効果を失っていく。
戦況の悪化により軍の上層部が作戦として認可し実行した(現場レベルで勝手に実行した「死なば敵に一矢報いたい」という攻撃ではない)・最初は効果があったものの、次第に対抗手段を編み出され効果を失っていく等日本の特攻隊とかなり類似している。
ちなみに標的を見つけるや否や本体ごと突っ込んで自爆する無人機もあるが、これらは徘徊型兵器という。
フィクション作品における特攻
当然と言うべきか、使われる例は上記のような暴走族を題材とした作品を除けば、戦争を扱った作品での描写が多い。
定義が曖昧なので、何をもって特攻とするかは議論が分かれる所だが、第二次大戦ものを除くフィクション作品内で明確に「特攻」を実行した人物としては『機動戦士ガンダム』でのリュウ・ホセイやドズル・ザビにスレッガー・ロウ、『機動戦士Zガンダム』のベン・ウッダー、『機動戦士Vガンダム』のリーンホースJrの老人達(これらの特攻を日本軍のそれと同義と見なすかは別として)が挙げられる(当然ながら、彼らはその直後に戦死している)。
また、成功こそしなかったがガルマ・ザビの決死の体当たり攻撃を目の当たりにしたブライト・ノアが「特攻か」という表現を口に出して状況に答えている。
どうやらフィクション作品においては、体当たり攻撃以外にも「そもそも帰還を想定せず敵もろとも道連れにする」内容の作戦行動をひっくるめて「特攻」と呼ぶ傾向があるようで、媒体によっても解釈や呼称が分かれている部分が多い。
ブラウザゲーム『艦隊これくしょん』では、史実で特攻兵器を載せていた艦娘(北上、伊58)は「アレは積みたくない」と吐露しており、運営鎮守府も同様の兵器の実装を否定している。⇒玉砕これくしょん
また、同作品では艦載機を航空母艦に搭載して敵艦載機の迎撃や雷撃等を行う事が出来るが、特攻仕様ではなくあくまで本来の用途として活用される。
だが、ブラック鎮守府の生み出した「捨て艦戦法」は、まさに特攻に他ならない。
合理性を重視した戦法ではあるものの、「悲しく沈んでいった艦艇を紹介したくてゲームを作った」「プレイヤーに喪失感、痛みを感じさせるため、轟沈した艦娘は永久に復活しない仕様にした」「特攻兵器は絶対に実装しない」という作り手の田中プロデューサーの発言からすると、運営からは推奨されていないプレイ手法と考えられる。
そもそも、艦娘を捨て駒として扱う事から不快感を感じるプレイヤーも決して少なくはなく、不特定多数のプレイヤーが集まるような場所で捨て艦の話題を出すのは慎むべきであろう。
シューティングゲームやアクションゲームなどでは、体当たり攻撃してくる敵を『特攻してくる』と言う事もある。
また、プレイヤー側がわざと敵に当たって(その後の無敵時間を利用して)強行突破する場合も『特攻』ということもある。
ゲームにおける最も有名な特攻戦術
クッパ:無敵状態で体当たりして、即座に終わらせる(または巨大マリオで踏む)
ただし、NEWスーパーマリオブラザーズ2では強行突破はできない(無敵このはで倒せても、それでは終わらない)
フィクション作品において特攻したキャラクター
漫画
ハーデス編にて「嘆きの壁」に全員で攻撃を加え消滅。
- ショーホー(エリア88) 対空砲に特攻。
アニメ
乗機が大破したため2人でバンドックに特攻。
- 秋津マサト/氷室美久( OVA版冥王計画ゼオライマー)
敵の要塞に乗り込み乗機ごと自爆。ただし、実質は敵が自分達とともに滅びることを望んでいたことを察した上で無言の合意に基づいた心中と言える。
ゴーストX-9に特攻。
- 有紀渉(銀河鉄道物語)
ホワイトホールより出現した謎の巨大戦艦にビッグワン諸共特攻。
「デススパイラルマシーン」に特攻し仲間を守る。
VIRMの母星に爆弾を仕掛け特攻。
映画
- ラッセル・ケイス(インデペンデンス・デイ)
宇宙人との戦いにおいて、乗機のミサイル発射装置が故障したため敵機に特攻し自爆。
- アーヴェル・クライニッド(STARWARS)
反乱同盟軍のパイロット、エンドアの戦いにおいて被弾したAウィングで帝国軍艦隊の旗艦スーパー・スター・デストロイヤー「エグゼキューター」の艦橋に特攻、操縦不能となった同艦は「デス・スター」に落下して轟沈した。