ここには、日本面の鉄道に関するもののうち、私鉄・地方公営鉄道に関するものを記載しています。
国鉄・JRグループに関しては「日本面(鉄道、国鉄・JR編)」を、
日本面についての概要と、軍事に関するものについては「日本面」を、
自動車(二輪車等も含む)・船舶・航空など、鉄道以外の乗り物に関するものは「日本面(乗り物)」を、
企業や文化など、その他は「日本面(その他)」を、
企業のうち、任天堂に関するものは「任天面」をご覧ください
民鉄部門
大手私鉄部門
関東大手私鉄
東京メトロ
- 首都圏の地下鉄会社。様々な大手私鉄と乗り入れを行っているため、その運用はとんでもないことになっている。
- 日比谷線:東武スカイツリーラインと直通運転している。かつては東急東横線とも直通運転していたのだが...。
- 変な車両規格:日比谷線を開通させる際に問題となったのが車両規格であった。東武は先述の国鉄63系を払い下げてもらっていたことから20m車に統一されており、20mを主張。一方の東急は18m車が主体であったことから18mを主張した。営団地下鉄は掘削量の関係から18m車を採用し、東武は異端の18m車を製造することになった。ところが、その後東急も本線格の路線は20m車に統一し、営団も20m車ばかり作るようになったため、18m車はどの会社でも完全に異端となった。そればかりか、春日部駅では0~6扉車まで、日本に存在する全ての扉数の車両が停車する番線が発生することに(0~2扉が特急、急行、3,5扉が18m車(但し5扉は一部編成の前後2両ずつのみ)、4,6扉車が20m車(但し6扉車は東急車両の一部中間車のみ))。これほどホームドア泣かせな運用は存在しないだろう。しかも、その後20m車に置き換えられている上、東急との直通が終了したため、東武は割を食わされている(メトロ車両も検車は東武の竹ノ塚検車区で行う)。一体何のために18m車にしたんだか……(18m車8両は20m車に換算すると7両のため、日比谷線直通車両は7両編成という半端な両数)。
- 日比谷線:東武スカイツリーラインと直通運転している。かつては東急東横線とも直通運転していたのだが...。
京浜急行電鉄
- 乗り入れ各社の車両(しかも地下鉄対応)に対し変態的な加速度と最高速度を要求したり、ダイヤが乱れた際の「逝っとけダイヤ」発動など乗り入れ各社を巻き込んで色々やらかす。そしてなんと乗務中の列車に置いてけぼりにされた車掌が次の駅までダッシュして追いついたという珍事までやらかした。これらはすべて「お客様本位のサービス」というスローガンの元行われている。実に日本らしい。
- その利用者:そのお客様だが、ぶっちゃけ言えば客もプロ。「逝っとけダイヤ」発動時にうろたえないのが基本である。また、ホームの隙間から乗客が転落したら、乗客が総出でホームから電車の車体を押し、またホームとは反対側に集まって車体を傾かせて救出するというエピソードも。つまり「鉄道会社本位の利用者」が京急ユーザー。実に日本らしい。
小田急電鉄
- 独特な仕様の特急型車両に代表される大手私鉄。
東京急行電鉄
- 東京急行電鉄デハ200形:「お前のような路面電車がいるか!」シリーズ。1955年に東急玉川線に投入された二車体連接の路面電車。前年に鉄道線に投入された5000系の技術を車体などに導入したが、最大の特徴だったのが床面高さ59㎝という超低床。現在のLRVと遜色ないほどの床の低さで、車輪径はなんと51センチまでに縮小した。また、連接面は一軸台車を採用する変態ぶり。5000系譲りのモノコック構造の車体は、「青ガエル」よりさらに丸みが強く、下ぶくれの愛嬌ある顔つきからついたあだ名が「ペコちゃん」・「イモムシ」。また、同じく一軸の連接台車を持つスペインの鉄道車両にちなんで「タルゴ」とも呼ばれた。しかし、運転や保守取り扱いに難があり、1969年の玉川線廃止とともに廃車となり、世田谷線に引き継がれることはなかった。時代を先取りし過ぎた悲運の車両であった。 ただし、東急「電車とバスの博物館」に現在も1両が保存されており、同館には、デハ200をイメージしたキャラクター「たまちゃん」も展示、世田谷線の新型デハ300形の一部に200形のリバイバルカラーが採用されるなど、今なおその“レジェンド”は受け継がれている。いや、時代こそがようやく「イモムシ」に追いついたと言うべきか……
西武鉄道
- 1999年まで長らく、保有車両の大半を自社工場で制作していたという、大手私鉄では非常に珍しい状態だった。
- 車両を自社工場で制作ということ自体は、特に戦前では珍しいことではなかったが、戦後はメーカーの体制が整っていたことや、技術の進歩に対応させるためにメーカーに外注したり、別会社として独立させていたのだが、西武鉄道はずっと自社工場製造を続けていたわけである。
- 新造車の書類上の製造所が自社の車両工場という事例は他の大手私鉄などでもあったのだが、これらの車両は実質的には車体流用の改造車であり、イチから制作していた西武はやはり特異な存在だった。
- また、自社製造であったことを活用して、新造車に廃車した車両からの部品流用はごく普通に行われていた。
- 5000系:西武が最初に保有した、特急専用車であるが、保守の手間を省くために機器類は101系と全く同一とされた。なお、設計などのノウハウがなかったために、最初の数編成は日立製作所で制作されている。
- 10000系:その5000系の後継特急車であるが、足回り類は多くが5000系からの廃車流用品だったりする。
- 車両を自社工場で制作ということ自体は、特に戦前では珍しいことではなかったが、戦後はメーカーの体制が整っていたことや、技術の進歩に対応させるためにメーカーに外注したり、別会社として独立させていたのだが、西武鉄道はずっと自社工場製造を続けていたわけである。
東武鉄道
- 大手私鉄で唯一(というか日本の全鉄道会社でも他に1社しかいない)120年以上も同じ名前を掲げ続けている生きた化石。
中京・関西・九州大手私鉄
名古屋鉄道
- 名古屋を中心としたエリアに展開する大手私鉄。某企業などのせいもあって、戦後早いうちから車社会になってしまい、それに対応するために、関東・関西の大手私鉄とは一風変わったところが少なくない。大幹線が平面交差でラッシュもそのまま走る(枇杷島分岐点)とか、乗り場に線路が2本しかない社内最大ターミナルとか。
- 犬山橋:かつて名鉄犬山線に存在した併用橋梁。併用橋梁自体は珍しくないが、特筆すべきは、道路の上に線路を敷いており、電車と車が並走することである。普通鉄道が道路の上を走るのは物凄く珍しい(江ノ電の神戸橋やかつての東急大井町線二子橋のような類例はあるが、これらはどちらも最初から鉄道路線として建設された犬山橋とは異なり元は路面電車の併用軌道区間である)。……てか、単に橋架けた時代、別々に架けるだけの経済的余裕がなかったから無理やり併用していただけだったのだが、それが平成になってからも10年続いてしまった。
- っていうか、名鉄が「金持ち」だったことなんてあったか?:ない。基本的に名古屋本線が東海道本線と並行しているため、常に国鉄→JRとの競争にさらされ厳しい経営なのが実情。日本三大私鉄の1つにも数え上げられるが、あくまで路線長の話で、経営規模では近鉄・東武にとても及ばない。1970年代以降の一時期は国鉄のグッダグダのおかげで一息つけたが、平成初期と言えばJR東海の猛反撃がはじまり、赤字の岐阜の軌道線廃止の打診をしていた頃のこと。経済的余裕なんかあるわけなかった。
- 犬山橋:かつて名鉄犬山線に存在した併用橋梁。併用橋梁自体は珍しくないが、特筆すべきは、道路の上に線路を敷いており、電車と車が並走することである。普通鉄道が道路の上を走るのは物凄く珍しい(江ノ電の神戸橋やかつての東急大井町線二子橋のような類例はあるが、これらはどちらも最初から鉄道路線として建設された犬山橋とは異なり元は路面電車の併用軌道区間である)。……てか、単に橋架けた時代、別々に架けるだけの経済的余裕がなかったから無理やり併用していただけだったのだが、それが平成になってからも10年続いてしまった。
- 名古屋鉄道3880系:オイルショックによる利用客急増に伴う車両不足を補うために、東急3700系の譲渡を受けたもの。3800系と同じ運輸省規格型A'形であり、3800系が2扉クロスシート、東急3700系は3扉ロングシートという違いはあるが、車体の規格は同一(地方鉄道車両定規)。そこで、保安装置の取替と車体色をスカーレットに塗り替えただけで投入するという間に合わせそのもの対応で入線してしまった。東急線では既に高速運転の機会はないとしてモーターから弱め界磁用のタップを除去してしまっており、元からの名鉄車のような高速運転は不可能になっていた。大手私鉄相互の車両移籍そのものがレアケースであるが、3扉車の投入効果は絶大であり、6000系の設計に大きな影響を与えたと言われている。
近畿日本鉄道
- 近鉄特急のためには手段を選ばない会社。名古屋線と大阪線の軌間の違いで名阪特急は乗り換えが必要だったのを解消するために、名古屋線を改軌、工事中に伊勢湾台風で大きな被害を受けた時は、「復旧工事と改軌工事を同時にすれば手間が減る」という理由で改軌を前倒しさせ、「伊勢中川でのスイッチバックが手間」となれば短絡線を作り。京都から伊勢へ直通させたいとなれば、専用特急車(複電圧式の18200系他)を作ってこちらも連絡線を新設。更に志摩半島へ延伸したいと路線新設(鳥羽線)と既存路線改軌(志摩線)をやっている。ついには762mmの軽便規格路線(湯の山線)を、1435mmに改軌させて特急を直通させていた。そしてここに来て、橿原神宮前駅での乗換を解消するため、フリーゲージトレインの研究開発を行うことと、2025年に大阪ベイエリアで開催される万国博覧会へのアクセス(近鉄けいはんな線→OsakaMetro中央線を延伸)として、架線集電と第三軌条集電両方に対応した特急用車両を制作することを公表している。
- ビスタカー:日本初の2階建て電車。検証モデルのビスタI世10000系の後、近鉄名古屋線の改軌とともにその看板列車となった名阪ノンストップ用のビスタII世10100系で一躍全国区の有名列車となった。1990年以前、近鉄といえばビスタカーであり、その存在感は今のアーバンライナーとは比べ物にならないほど。しかしその栄光は決して長いものではなく、東海道新幹線の開業により一時期名阪ノンストップは壊滅状態となりビスタII世は流転の道を歩むことに。その東海道新幹線からの乗り継ぎ客を期待してよりそちらに向けたビスタIII世30000系が登場する、がビスタIII世が登場すると今度は東海道新幹線の方が度重なる値上げと行き過ぎた労働争議による国鉄不振により凋落、1985年、III世の名阪ノンストップ充当が始まり、II世の同僚だったエースカーとともに、無念のうちに1979年に引退したII世の敵討ちが始まる……なお、10100系は3車体連接構造で、2両分の走行関係機器でボギー車3両分の座席数を確保という経済性も併せ持った車両でもあったりする。
- 通勤型車両:華やかな特急型に比べると通勤型は地味である...。が、物凄くややこしい。やたらと増解結が多く(主に西大寺、高安、名張)、ほぼ全ての先頭車が他の編成と併結するための貫通扉を備え(例外は京都市営地下鉄乗り入れ用の3200系及び3220系のみ)、増結用の2両編成が他社と比べるとあり得ないほど多く在籍する(近鉄は営業運転用に全線で特急型も併せて約1800両在籍するが、そのうち約200編成400両が2両編成)。そればかりか、検査等の都合により、6両編成や4両編成の運用が2両編成を複数繋げた運用になることも多く、ブツ6、ブツ8、ブツ10が度々発生する。というか、他社と違い「小は大を兼ねる」的な発想で元から2連車の数が多い。うーん、これ輸送力増強になってるの(運転台がある分輸送量が減ってしまう)?しかも番台区分という概念が存在せず、形式を機器の違い等で細かく分けるため、またシリーズ21以降、近鉄が通勤車両をあまり作ってくれない為に置き換えが進まないこともあって50以上の形式が現役である。オマケに前面形状が例外(前述の3200系、3220系及び5200系)を除くと3パターンしかないため、重度の近鉄ファン以外は車号を隠されるとどれが何系か判別不能である。
- 鮮魚列車:日本最後の行商人専用列車。かつて、行商人が数多くいたころは、新鮮な魚や野菜を得意先に売りに行くため、列車に乗っていた。しかし、荷物が多く、物によっては匂いがするため、一般の乗客と同乗すると迷惑となるため、専用の列車や車両を用意していた。これが行商人列車である。戦後、モータリゼーションの発展に伴い行商人列車は次々に廃止され、近鉄の鮮魚列車が最後の行商人列車となっている。
- 2680系:初代ビスタカー10000系の主要機器を流用し、車体を新造した車両。初代ビスタカーが1958年登場なので、主要機器だけとはいえ今年で製造から60年になる。そんな古い車両が大手私鉄の本線で現役で走り続けるのが日本の鉄道クオリティである(部品取りのため1編成を廃車してはいるが)。現在は鮮魚列車に使用される。
- 鮮魚列車:日本最後の行商人専用列車。かつて、行商人が数多くいたころは、新鮮な魚や野菜を得意先に売りに行くため、列車に乗っていた。しかし、荷物が多く、物によっては匂いがするため、一般の乗客と同乗すると迷惑となるため、専用の列車や車両を用意していた。これが行商人列車である。戦後、モータリゼーションの発展に伴い行商人列車は次々に廃止され、近鉄の鮮魚列車が最後の行商人列車となっている。
京阪電気鉄道
- 街道沿いに敷設したことが災いしてカーブだらけの路線になり、所要時間ではJRと阪急の後塵を拝しているが、その分サービスなどで対抗。また技術の京阪の異名を持つように新技術の採用には非常に積極的で、京阪が日本初採用、関西初採用というのが非常に多い。
- 京阪電気鉄道5000系:国鉄63系に始まる「20m4扉通勤車」が達した一つの極点。何と18mで1編成全車片側5扉。後にJRや東急が、さらにイった6扉車(ただし20m)を投入するが、さすがに1編成の一部車両に組み込むに留めており、ホームドア設置の障害となることから次々と廃止が進められている。ちなみにラッシュ時以外には2番目と4番目の扉を締切り、天井に収納されているシートを降ろし3扉車として運用する。しかも3扉時の座席数は既存車よりも多いという見事なまでにラッシュ時と日中時の用途を両立した車両でもある。そして何よりも、登場から45年を過ぎた現在でも、この座席昇降機構などを使用し、朝ラッシュ時には5扉車の特性を活かした運用についていることである。
- 京阪電気鉄道60形:愛称「びわこ」。日本初の連接車なのだが、性格の異なる二つの路線(高速鉄道である京阪線と路面電車である京津線)を直通運転するため高床ステップと低床ステップの乗降口両方を備える。また集電装置はパンタグラフ(京阪線用)とトロリーポール(京津線用)を両方装備するが実は世界的にはこちらが常識的な構造であるにも関わらず、国鉄のせいで後々異端視されてしまった。残念ながら当初の目的であった大阪天満橋~浜大津間の直通運転に使われた期間は短かったが、末期は京津線や石山坂本線で運用されていた。現在1両のみ京阪電鉄寝屋川車両工場に保存。
阪急電鉄
- いろんな人に止められたにもかかわらず、「沿線に自社経営の施設を作ればもっと儲かるはずだ。とりあえずターミナル駅の中にデパートを作ってみよう」という恐るべきアイデアを実行。昨日まで運転士をやってた奴にデパートの店員をやらせたせいで大騒ぎとなったこともあったにせよ、おおむね大成功を収めてしまう。気をよくして不動産業・劇団経営・野球チーム経営・劇団経営から発展して映画会社経営など多角化を推し進め、結果的に大手私鉄たるもの多角経営をやって当たり前というまず間違いなく日本独自の風潮を築いた。ちなみに転売やらなんやらを繰り返した野球部門以外はほとんどが現在でも阪急傘下のまま存続している上に、追随した他社も現在まで維持している例は数え切れない。映画経営筋の子孫から考えると、「やることはやったんや!後は気合と根性でなんとかなる!やったれ!」という思考回路だった可能性がある。
- 中吊り広告:意外にも、車内の“中吊り広告”を始めたのも阪急電車。これも創業者・小林一三のアイデアだが、「役所に許可をもらいましょう」という部下に対して、「アホ!そんな真似したら反対されるに決まってる。黙ってやってもうたらこっちの勝ちや!(要約)」と堂々と既成事実化するという見下げ果て……もとい、見上げたエピソードがある(実際、中吊り広告は「風致を害する」といういちゃも……理由で、大正13年にいったん廃止されている)。ただし、当の阪急電車は「公共の場(車内)にふさわしくない内容が含まれる場合がある」として週刊誌の広告は一切吊らせないという、これまた見上げた方針を貫いてたりする。
- また火遊び仲間に西武鉄道がいるが、確かあそこも登場時狭軌最強の怪力電車を導入したことで有名だったような……
- 2000系:世界で初めて定速運転制御装置を搭載した車両。細かいマスコン操作をしなくても一定の速度で走り続けられるため、運転士の負担を軽減できる。もっとも、昇圧化の際に普通の車両になってしまったが。
- 西宮北口駅:世界的にも珍しい高速鉄道同士の平面交差が存在した。但し、輸送上のネックとなるため、現在は解消されている。
- 新幹線の線路を先に走る:新幹線が水無瀬付近を建設する際、用地が狭いため阪急と併設することになり、高架化も併せて行うことになったため、その軌道が完成するまで新幹線の軌道を仮設線路として使用していた。
- 庄内事件:1956年当時の宝塚線の輸送力や車両の質が他路線に劣っていたのが原因となった別名電車通せんぼ事件。大都市近郊における鉄道のキャパオーバー、日常的に起こる遅延、宝塚線利用者の神戸線に対するコンプレックス(当時の宝塚線では車両限界の違いから、大型規格の神戸線の車両を小型化したものが導入されていて、十三~梅田間では規格の異なる車両が併走していた)、当時の現場における連絡の不備がそもそもの原因。最終的には1000人を超える群衆を沈静化すべく、大阪府警から機動隊一個中隊が派遣されたり、当時の専務が立ち往生した電車の貫通幌の桟板に立って説得を行ったり、また空車回送された先の梅田駅では事務所に詰めかけた乗客200人に対して昼食・夕食代の名目で1000円(当時の国鉄運賃に換算すると二等車で東京~岡山に相当!)を支払うこととなった。これだけなら単なる列車妨害事件で終わりなのだが、実はこの事件、たった3時間弱で決着がついているのである。後の70年代に起きた上尾事件や首都圏国電暴動が事態の収束までにそれぞれ11時間以上、約1日半を要したと言えば、この時の阪急がいかに迅速な対応をとっていたのかお分かりいただけるだろう。
阪神電気鉄道
- 日本初の都市間電気鉄道。開業当時、軌道条例により路面電車の扱いであったが、並走する官営鉄道に対抗するため一部区間を専用軌道にしたり速度制限(軌道条例での速度制限は時速8マイル【時速12.8㎞/h】。後に25マイル【時速約40㎞/h】に変更)無視の常習犯であった。今では軌間は同じでも車体規格が全く異なる近鉄線に乗り入れている。しかも車体規格が大きい近鉄の車両も規格の小さい阪神線に乗り入れる相互乗り入れである。さらに、変態的な加減速度を持つ各駅停車専用車両を有する。
- 速度違反:前述の速度違反であるが、普通なら罰則が下る筈である。しかし、そうはならなかった。というのも、阪神は軌道法に基づいて建設されており、軌道の管理は内務省。一方国鉄は鉄道法に基づいて建設されており、鉄道法の管理は鉄道省。鉄道省と内務省の仲が悪かったため、国鉄と阪神の争いは代理戦争のような状態であり、事実上の黙認状態であった。もっとも、阪神もかなり手の込んだことをしている。鉄道省にダイヤを提出しろと言われれば暗号だらけの物を出して混乱させたり、速度計を付けずに証拠を掴ませなかったり、『軌道は一部を除いて道路上を走れ』→『ちょっとでも走ったら問題ないよね』と規則の文面を逆手にとって、最初からほとんどの区間を専用軌道で建設したり(しかも線路改良と称して全区間専用軌道化)…。そもそも(阪神に限らず)関西大手私鉄がこんなルール破りの常習犯になったのは、鉄道省がライバル出現を嫌って高規格の平行路線を認めなかったからである。つまり、大体国のお偉方の身から出たさb……
- ジェットカー:前述のとおり、各停専用車両(青胴車)として制作した高加減速車両。初代5001形の起動加速度4.5km/h/sは営業運転に供されたものとして日本最高である。(ただこれでも欧米に比べると低水準だったりする) 平成以降の車両は起動加速度が4.0km/h/sと一見するとスペックダウンしたように見えるが、定加速領域が広がったことから在来の青胴車と同等以上の運転性能が確保されている。
- 実は初代ジェットカーが登場した1960年台は高度経済成長に伴う通勤需要の増加と技術の発展もあって、阪神ほどではないもの加速度を向上し、各停などの運用に限定することを前提にした車両を製造する事例が散見されている(京阪2000系スーパーカー、近鉄6000系ラビットカーなど)。ただ、各種コストや運用上の制約の問題もあったことから、阪神以外は経済性を重視した汎用性能に収斂する方向になっており、阪神のように現在も各停用(青胴車)と優等用(赤胴車)で運転性能に明確な差異をつけて、完全に使い分けている事例は大手私鉄には存在しない。逆に「特急用も各停用も高加減速度と高速性能を一級の水準で揃える」とか言う変態会社なら上の方にいるが。
- ジェットカー:前述のとおり、各停専用車両(青胴車)として制作した高加減速車両。初代5001形の起動加速度4.5km/h/sは営業運転に供されたものとして日本最高である。(ただこれでも欧米に比べると低水準だったりする) 平成以降の車両は起動加速度が4.0km/h/sと一見するとスペックダウンしたように見えるが、定加速領域が広がったことから在来の青胴車と同等以上の運転性能が確保されている。
南海電気鉄道
- 現存する私鉄では日本最古の歴史を持つ大手私鉄。(1884年創業) 当初は現在の南海本線を蒸気機関車で開業し、明治期の鉄道国有化から何故か外れて現在に至っている。(会社としては戦時統合で近鉄と合併していた時期がある) また1936年に日本初の冷房車を登場させている。
- 南海電気鉄道6000系:1962年に高野線向けに製造された日本初のオールステンレス車両のひとつだが、製造開始から50年以上経った2016年現在、途中冷房化改造や台車交換はされながらも72両全てが1両も廃車されることなく現役バリバリである。まさに大手私鉄通勤電車版異能生存体ともいえる。また、某新聞の記事では「錆びない鉄人」とまで書かれた。さらに、泉北高速鉄道の開業や高野線の複線化と線形改良が進展した結果、導入時より活躍の場が広がっているという……。逆とちゃうの、普通は? 一方、双子ともいえる南海線向けの7000系(こちらは鋼製車体)は長年にわたり沿線の海風にさらされた結果、車体がボロボロになり全車廃車となってしまった……(逆の方が良かったんじゃね? とも思えるが、当時はステンレス車体の補修に不安があったため、踏切(事故)の少ない高野線に限定導入された次第)。今ではその7000系の部品も利用してさらに寿命を延ばそうとしている……
- 西日本鉄道:九州唯一の大手私鉄であるが、地元では鉄道会社というよりバス会社のイメージが強い。更に1番の稼ぎ頭は鉄道でもバスでもなく国際物流事業(主に航空貨物。なお、国際物流事業本部は本社のある福岡市ではなく東京都に所在)だったりする。鉄道では天神大牟田線が現在のメインであるが、会社としてのルーツは現在は事実上消滅している北九州線の運営会社(九州電気軌道)だったりする。
- 西日本鉄道500形:1942年に製造した日本初の高速鉄道向け連接車である。大牟田線向け。前身の九州鉄道(二代目)が設計したが、福岡県内の主要私鉄の統合により落成は西鉄になってからになった。戦時中の落成にもかかわらず、全車オール転換クロスシートであった。これは大牟田線の熊本延伸を前提に設計をしていたが、熊本延伸計画は戦況悪化により中止になった。戦後は車体増設で3車体連接車となりオールロングシートになった。他形式車と連結できないことがたたり、1974年に廃車。日本初の高速鉄道向け連接車ということもあり、新型ロマンスカーを開発していた小田急電鉄の技術者がわざわざ九州まで視察するほど影響があった。こうして出来上がったのが小田急3000形SE車であった。しかし、500形を連接車にした理由は高速性能を考慮してのことだったのだが、時期が時期故に高速化技術なんて今研究するんじゃねぇと言われかねなかったため、鉄道省に対しては「台車の数を減らして鋼材を節約する」と言ってスッとぼけた。その後西鉄は鉄道線では連接車は当形式のみの珍車となったが、軌道線(北九州線・福岡市内線)で連接車を大量増備していくことに。その余波は子会社にも。
- 西日本鉄道1000形(軌道線)連接車シリーズ:その西鉄が、北九州および福岡の軌道線輸送力増強のために大量増備した連接車。主流であった木造車両を一気に置き換えた。特に福岡市内線に投入した1000形と1100形は当時としては珍しいカルダン駆動の高性能車で、京阪80形とは方向性が違う「お前のような路面電車がいるか!」な車両であった。なお、北九州線に投入された車両は全て吊り掛け駆動であった。しかも北九州では三車体連接車に改造された編成も(ちなみに福岡でも三車体連接車を走らせる計画だったが、警察から許可が下りず実現できなかった)。大量に投入されたものの、北九州は鉄鋼不況とモータリゼーションにより、福岡は地下鉄建設により大量に廃車されるハメに。再就職先は子会社・広島電鉄・熊本市電だが、広島に移籍した編成の一部はミャンマーに転出し、同国初の電車となってしまった。熊本市電在籍車(先述のカルダン駆動車)は唯一の原形をとどめた車両で、電気機器故障のため長期間休車していたが、ラッシュ時輸送力確保のため、古巣の車両工場で大規模修繕を施して運転を再開した。ブランクがあったとはいえ還暦(車齢60年)を迎えてのカムバックであり、こちらもある意味、異能生存体(路面電車版)である。なお、福岡市内線のカルダン駆動車の一部【熊本市電に現存する5014号も該当】は、短期間ながらこっそりと北九州線で活躍していた(その際、ナンバーを2000番台に改番)。逆に北九州線の連接車が1本だけ福岡市内線で1年間活躍したことも。路線内で勾配区間の多い北九州線の連接車では電動機の出力を45kwに統一していたが、それよりも非力(37.3kw)な福岡市内線のカルダン車が北九州線で運用出来るとは………。また、福岡市内線用に製造されたはずの車両が北九州線に新製配置されるというややこしい事態もやらかしてる。
地方私鉄部門
- 軽便鉄道:規格を低くして、低コストで建設された簡易な鉄道。日本では一般に軌間が国鉄在来線(1067mm)よりも狭い鉄道を指し、広義には森林鉄道や鉱山鉄道も含まれる。モータリゼーションに押されて廃線が相次ぎ、今では数えるほどしか残っていないが、かつては小規模、あるいは零細な事業主が多かったため、より個性的な路線(きれいな言い方)も少なくなかった。
- 根室拓殖鉄道:かつて北海道に存在した軽便鉄道にして、日本史上最も東を走っていた鉄道会社。出所不明で車籍もない機関車を使っていたり、導入した車両を国の許可が下りる前から使っていたり、4両の貨車を真っ二つにして8両にしたり、乗客が増えた時は貨車に乗客を乗せたりと、先述の朝倉軌道に負けず劣らずのフリーダムな逸話がある。
- 銀龍号:上記の根室拓殖鉄道で使用されていたガソリンカー。走るバラック建築。ありのまま当時起こった事を話すと、元々はキャブオーバーのトラック型をした貨物用ガソリンカー(と言っても、当初はガソリンではなく木炭ガスで走っていた)だったところ、前後のバランスが悪く頻繁に脱線したため、とってつけたような、というかとってつけた不細工なボンネットにエンジンを突き出して無理矢理バランス調整。さらに貨物輸送の需要が無くなったために旅客用に改造。荷台のあった部分に、近所の大工に作らせた、運転室と全然サイズの合わない客室をポン付けするというアバウト極まりない改造をしたために、ボンネット、運転室、客室の3ボックスが全く釣り合っていないという、非常に独創的な外見(きれいな言い方)となった。さらに恐ろしいことに、1959年の同線廃線まで現役だった……orz。
- 根室拓殖鉄道:かつて北海道に存在した軽便鉄道にして、日本史上最も東を走っていた鉄道会社。出所不明で車籍もない機関車を使っていたり、導入した車両を国の許可が下りる前から使っていたり、4両の貨車を真っ二つにして8両にしたり、乗客が増えた時は貨車に乗客を乗せたりと、先述の朝倉軌道に負けず劣らずのフリーダムな逸話がある。
- 筑波鉄道(初代)ナハフ100形・ナロハ200形:会社自体は極普通の地方私鉄…と思ったら、将来的には電化を見越しており車両(客車)も電車に改造することが可能な設計をされていた。この電化は近くに地磁気観測所が存在する事により実現しなかったが、後に三河鉄道(現名鉄三河線)・阪和電鉄(現JR阪和線)に移籍した車両が実際に電車に改造された。
- 定山渓鉄道2300形:かつて札幌市に存在した私鉄で用いられていた電車。1964年に親会社のグループ企業である東急車両で2両が製造された。車体は普通鋼製であるが、何とその構造・工法は、当時量産が進んでいたオールステンレス車である東急7000系の流用であり、単一曲線の屋根やベンチレーター、コルゲート処理された腰板などに共通点が見られる(ステンレス車の構造流用は、東急「玉川線→世田谷線」の150形、東急車両の入換車101号に実例がある)。電気部品や台車は中古品の流用であり、この時代に多かった車体更新車の一種ともいえるだろう。ここまでなら「ちょっと変わった電車」で終わってしまうのだが、この電車の一番の特徴は何と「空調が無いにもかかわらず、客室窓は全部嵌め殺し」という、あまりにもぶっ飛んだ仕様である。当然のことながら夏季は車内が灼熱の地獄と化し、あまりの暑さに嘔吐する乗客が続出。飛行機や貸切バスでもないのに車内にエチケット袋ならぬビニール袋が常備される有様であり、利用客からは「ゲロ電」という蔑称で呼ばれた。この車両が導入されてから5年後の1969年に定鉄線は廃線になったが、こんな欠陥車両を欲しがる他の会社など存在するはずもなく、2両とも程なく解体処分されている。当時は遠地であったとは言え、現地札幌の気候を甘く見た関東メーカーの認識の甘さが、せっかくの新車を事実上「台無し」にしてしまった実例と言えよう。
大井川鉄道
- 蒸気機関車動態保存のスペシャリスト。これ自体は普通に称賛されて然るべきものだが……電車についても他車からバラバラ集めた車両が多く、走る博物館と化している。この車両集めは他の地方中小私鉄に見られる“経済的な理由”もあるにはあるが、一方で大手の名車を狙って集めているのも事実だったり。それでいて決して保存鉄道ではないという世界的に例を見ない鉄道会社。
- 蒸気機関車による救援:普通、動態保存や展示走行用の蒸気機関車はそれを目的に保有しているが、それ以外の目的では手間がかかるし状態の維持にも関わるため使用されないことが多い。……のだが、ここは駅構内で立ち往生した電車を待機中の蒸気機関車で転線させるようなことをする。また流石に電気機関車が使われることが多いが、途中駅や線路上での救援もここは未だに機関車で行うことが多く、「機関車を嫌う」日本の鉄道業界の流れに逆行している。一応付け加えると、ブレーキさえ作動させられるのなら重く粘着力・牽引力に優れた機関車での救援自体には非合理性はない。
近江鉄道
- 鉄道界のブリストル自動車。「魔改造と車籍流用が特技」と言われるとおり、旧型車を原型を留めないほどにビックリドッキリ魔改造をすることで定評がある。
高松琴平電気鉄道
- 中小私鉄の多くは戦後の車両調達を大手私鉄や国鉄からの中古車購入で賄うケースが多いが、そのさい問題になるのが制御器の統一。通常は600V時代の豊橋鉄道のように同一仕様あるいは互換性のあるものに揃えるか、諦めて別運用で使うかである。しかし琴電では「みなしHL」とでも呼ぶべき方法を編み出し、マスコンのみ統一し主制御器はそのままで手動進段・自動進段の両車を併結することに成功。さらにベテラン運転士の中には、加速の殆どを自動進段車に負担させるため敢えて直列段ではHLマスコンの2ノッチを、並列段で6ノッチを入れ続けて問題なく走らせるという者もいる。
- 長崎電気軌道160形168号車:国鉄の8620形蒸気機関車58654号機(詳細は国鉄・JR編の記事を参照)よりも11年前(1911年製)に誕生した日本国内では車籍を保有する鉄軌道車両では最古参。もともと北九州の路面電車用の車輌として制作され、1958年に長崎へ移籍。本線運転が可能な鉄軌道車両では唯一の木造車であり、1915年に開業した長崎電気軌道よりも歴史が長かったりする。流石に事実上の動態保存状態ではあるが、それでも年数日は本線上で営業運転されている。
- 長崎電気軌道700形:元は東京都電2000形、1067mmの杉並線用として制作され、杉並線廃止後は都電の他の路線(1372mm)に転用、そして1969年に長崎電気軌道(1435mm)に6両が譲渡。三種類の軌間の路線を渡り歩いた車両である事自体珍しいが、それに加えてすべて台車の改造で対応させている。(通常は台車そのものを交換することが普通)
- 伊予鉄道坊っちゃん列車:夏目漱石の小説「坊っちゃん」にも登場した、マッチ箱のような汽車を復活させたもの。流石に蒸気機関車ではないもの、当時の蒸気機関車を模したディーゼル機関車で客車を牽引する形になり。後述の札幌市電以来の路面ディーゼル動車となった。客車列車なので当然終点での機回しが必要になるのだが、折り返し駅にターンテーブルを設けるのではなく、機関車にジャッキを取り付けて自らジャッキアッブする形で方向転換する。 なお札幌でも問題になったポイントの切替は、客車にダミービューケルを取り付けて、車掌がポイント手前でそれを上げることでクリアしている。
箱根登山鉄道
- 温泉で有名な箱根を走る観光鉄道。最急勾配80‰、最少半径30mの山岳路線を、1919年の開業時から粘着運転で走破するというきちがいじみたことをしている。更に、日本初の三線軌条採用路線であったりする。現在標準軌の線路を剥がし小田急車のみ営業走行する箱根湯本より下の区間も最急勾配40‰という急坂なのだが、箱根登山線の運転士は「平坦線」と呼んでいる。
江ノ島電鉄
- 観光地として有名な鎌倉と藤沢を走る路線。その路線スタイルから勘違いされやすいが、免許上はれっきとした鉄道である。
- とさでん交通200形210号車:従来の屋根上冷房装置取り付けでは車体の強度が持たない、床下や床置はスペースがない、けど冷房は付けたいということで試験改造した冷房車だが、なんと家庭用エアコンをそのまま取り付けるという斜め上の改造。屋根の上に室外機が乗る姿はシュールそのもの。
- 阪堺電気軌道モ161形:1928年に南海鉄道大阪軌道線(当時)に投入された車両。以来90年に渡り現役を続ける日本の路面電車車両で最古の定期運用を有する車両。非冷房のためさすがに夏場の運用は無いのだが。この車両で施された雲のデザイン(通称「雲電車」)は秀逸なデザインとして有名。ちなみに雲電車のスポンサーは立石電機(現・OMRON)であったが、人気が高く後年復刻された。
東京モノレール
- モノレール最速の95km/h。あのさぁ…… まぁ、ライバルがライバルだから一見、目立たないように見えるのだが、近年のアニメ作品におけるモノレールに対する勘違い(本来は低速・中規模輸送手段であるにもかかわらず、普通鉄道と同じ高速・大規模輸送手段のように描かれる)はだいたいここのせい。
地方公営鉄道部門
公営交通
札幌市交通局
- 札幌市交通局D1000形・D1010形・D1020形・D1030形・D1040形気動車:「お前のような路面電車がいるか!」シリーズ。というか、もはや電車ですらない。札幌市電の延伸に際して、工事費用を抑える方法としてなんと非電化での路線敷設を選択して、札幌市交通局が制作した世界的にも前代未聞の路面ディーゼルカー。5形式合わせて16両製造された。当時としては画期的な車両であり、国鉄を出し抜いて自動進段方式・空気バネ台車を気動車として初めて実用化した。ちなみに、当時の走行区間は非整備の路面も多く、未舗装の田舎道を、架線もパンタグラフもない路面電車(?)が、土煙を上げながら爆走するという、どシュール極まりない光景が繰り広げられたという。……ところが、ここで札幌市交通局がポカをやらかす。この当時路面電車のワンマン化が推し進められ、その一環としてそれまで分岐点に設置されていた手動操作のポイント操作室の廃止・ポイント自動化が行われた。札幌市交もそれに倣ったのだが、やはり他社と合わせてポイント用の電車検出装置を架線上に設置する方式を採用してしまったのだ。この為これらの気動車は気動車なのにポイント操作の為だけにビューゲルを設置するという鉄分の薄い漫画家がテキトーに書いた電車をリアルに再現したような事態となり、最終的に非電化路線を電化して解決することになり、これらの気動車は早期に廃車され車体のみ700形電車に転用された他、台車が一部のトレーラー・連節車に流れて行った。栄光と奇行に彩られているかのような日本鉄軌道史だがやらかすときは斜め上に全力で踏み外すという一例である。 なお、「架線のいらない路面電車」は初期コストの抑制だけでなく、災害対策(停電や架線切断に強い)、景観保護などの面でもメリットが多く、近年では「蓄電池電車」として新たな発展を見せつつある。D1000形もまた、「時代が早すぎた」のかもしれない。
東京都交通局
- 東京都交通局10-000形電車:急行運転を行う新宿線のために製造された、主電動機出力165kW、最高時速120km/h・起動加速度3.3km/h/sの性能を持つ怪力地下鉄用電車。しかも誘導障害を懸念して1997年の時点で尚チョッパ制御で最終編成がロールアウトしたというおまけ付き(ちなみに京都市交通局10系と共に、日本で最後のチョッパ制御方式を採用した新製電車でもある)。
- 東京都交通局5300形電車:こちらも主電動機出力165kW、最高速110km/h・起動加速度3.3km/h/sの地下鉄用電車。デザインが優れている一方で、共鳴音が非常に五月蠅く、ついたあだ名が「交通局の白い悪魔」。新宿線と異なりそれを要求するどころか許容する線区など1mたりとも存在しない浅草線用に製造された理由は「京急のせい」ですべて説明がつく。
帝都高速度交通営団
- 帝都高速度交通営団6000系電車:日本初の量産電機子チョッパ制御車。その先進性は制御方式やアルミ合金製軽量車体などの機構面にとどまらず、非常に野心的かつ先鋭的なデザインの採用が衆目を集めた。「電車の前面は左右対称デザインが基本」という従来の固定観念を徹底的にぶち壊した。兄弟車7000系、8000系とともに営団のイメージリーダーとなったが、あまりに先鋭的過ぎて批判も少なくなかった。そしてあれから30余年……後継車16000系に道を譲りつつあるが、デザインだけは今でも充分先鋭的なのが恐ろしい。
Osaka Metro
- 前身は日本初の公営地下鉄であった大阪市交通局(大阪市営地下鉄)。道路の下を走るのだからという理由で、鉄道ではなく軌道として敷設されている。また、御堂筋線というドル箱路線を抱えているお陰で、公営時代の時点で既に新技術の投入に積極的である。更に、多くの路線の基本規格を揃えることで車両の基本規格を共通化しており、線区間の転籍も珍しい話ではなかったりする。
- 市営モンロー主義:私鉄なぞ認めんという大阪市の意地。詳細は個別記事で。
- Osaka Metro中央線:免許上はれっきとした軌道...なのだが、直通先の近鉄けいはんな線で時速95kmを叩き出す。しかも、本来高速運転に向かない第三軌条というおまけつき。えーと、軌道ってことは路面電車の仲間だよね?そんな速度出せないよね?
- 京阪阪神阪急近鉄京急『呼んだ?』(軌道扱いでありながら高速運転を行った私鉄達)
- 国鉄「止めてください死んでしまいます」
- なお第三軌条方式での高速運転は、大阪市交通局時代に計画したことがあってそのための車両(初代20系、後に10系に改番)も作ったのはいいのだが、保線関係現場の反対で試運転すらできずに頓挫した過去があったりするので、直通先の他社線ではあるものの30年越しの夢がかなった形である。
- また、この高速運転に際しては車両側の高速運転対応改造も実施されたのだが、この改造費用は近鉄持ちだったのと、他線区と規格が共通化していたのを利用して、谷町線にいた古い20系と、中央線にいた新しい新20系(24系)を入れ替えして、20系の機器更新と合わせて高速化対応という、ちゃっかりしたことをしている。
- いやいや、第三軌条でも160km/hくらいまでなら余裕だぞ、何もおかしくはない:あんたらの基準d(米帝様「お前ら加担してんじゃねーか!!」
- Osaka Metro中央線:免許上はれっきとした軌道...なのだが、直通先の近鉄けいはんな線で時速95kmを叩き出す。しかも、本来高速運転に向かない第三軌条というおまけつき。えーと、軌道ってことは路面電車の仲間だよね?そんな速度出せないよね?
- Osaka Metro御堂筋線:日本屈指の輸送密度を誇る路線。それだけならここに載せるほどのことはないのだが、特筆すべきはその先見性。
- 『絶対に輸送量が増えるから17m車12両分のホームを作れ』→開業当初こそ単行運転だったが、ドンドン増結されて最終的に18m車10両運転を全区間で行うようになったため、その投資をフル活用している。日本の他の都市の最初に開業した地下鉄路線は大体輸送量不足になってバイパス路線を作っている。(東京メトロ銀座線と半蔵門線、名古屋市営地下鉄東山線と桜通線など。)それでも輸送力がパンクしたために作られたのが四つ橋線だったりする。
- 『日本初の電気指令式ブレーキ採用車を投入』→増え続ける旅客及び大阪万博での輸送に対応するため、18mながら4扉、更に日本で初めて電気指令式ブレーキを採用した30系を投入した。それまでのブレーキは空気ブレーキであったが、応答性や正確性は電気の方が優れている。この車両が成功したため、信頼性も保証され、これ以降、日本では新型車は電気指令式ブレーキを採用するようになった。
- 実はこの大阪万博開催時の輸送対応では、御堂筋線の車両を総入替するという大胆なことを行っているが、それで御堂筋線ではお役御免になった車両はすべて廃車……ではなく車齢の若い車両は他線区に移籍しており、ここで前述の他線区でも基本規格が統一されているメリットが生かされている。
- ただ、結果として割りを食ったのは1969年に開業した千日前線で、開業時から他線の中古ばかり回されて、完全新車が入ったのは1991年の25系が最初だったりする。
- 『パンタグラフがある車両が入って来るだろうからその分のスペースを確保』→これは実現しなかったものの、冷房車を投入する際に有効活用(冷房改造は大体変な格好になって迷列車動画の餌になるのがお約束。)
- Osaka Metro御堂筋線:日本屈指の輸送密度を誇る路線。それだけならここに載せるほどのことはないのだが、特筆すべきはその先見性。
福岡市交通局
- 福岡市交通局1000系電車:九州初の地下鉄電車。車両設計はなんと国鉄の車両設計事務所が協力。ATO装備・ステンレス車体・空気ばね台車・電機子チョッパ制御とATOと車体構造以外は当時の国鉄の最新鋭通勤電車201系そのものであった。まさに、国鉄が設計した「ぼくのかんがえたさいきょうのつうきんでんしゃ」であった。財政難や労働争議の影響で作りたくても作れなかった理想の通勤電車を福岡市交に託した。現在はVVVF制御に更新されたが、デビューから30年以上経った現在でも現役である。一方、直通運転先でもあった国鉄が乗り入れ用に用意した車両は四半世紀遅れのスペックである103系であった。直接の原因は国鉄の財政難だったのだが……(当時の筑肥線は列車密度が低く、201/203系の省エネ効果が得られない=初期投資を回収できないという理屈もあった)
北九州市交通局(旧:若松市交通局)
- 「お前のような路面電車がいるか!」シリーズ。こちらも路面電車と言っていいのかという存在だった軌道で、旅客営業を行わない貨物専業路線だった。
第三セクター
富山ライトレール
- 「お前のような路面電車がいるか!」シリーズ。旧JR富山港線を引き継いだ路線。更にその前身は富山地方鉄道という私鉄である。その為、戦前から600Vで直流電化されており、首都圏で役目を終えた車両が余生を過ごす場となっていた。周りが交流電化されても、国鉄がJRになっても、架線電圧を600Vから国鉄標準の1500Vに昇圧するぐらいで比較的大きな変化はなかったが、北陸新幹線の工事開始に伴い、富山駅が高架化される際、利用者が少ないことから廃止も検討された。しかし、バス転換が難しく、富山県が第三セクター化して引き継ぐことになった。地方路線が廃止されなくて良かった良かった…で済まないのが、日本の鉄道。なんと、引き継ぎと同時に普通鉄道だったのを路面電車化してしまった。しかも、1967年に一旦600Vから1500Vに昇圧したのを、将来の富山地方鉄道軌道線との直通を見込んで600Vに再降圧するというおまけ付き。元軌道路線でありながら鉄道路線に免許を変更する例は前述の大手私鉄の例が多数あるが、鉄道路線が軌道路線になるのは、おそらくここだけではないだろうか。なお、第三セクター化に伴い、駅の新設、本数増発等を行い、利便性が向上している模様。
いすみ鉄道
- 千葉県いすみ市を中心に走る第三セクター。国鉄時代は木原線を名乗っていた。鳥塚亮社長の元、ローカル線の再生の手本として日夜奮闘中。国鉄型気動車キハ52、キハ28を導入したり、何もないのを前面に押し出したりと、金が無いなら知恵を振り絞れ!を地でいく。
北越急行
- 元は国鉄の北越北線として着工されたが、財政難により凍結。その後東京と北陸の所要時間短縮のためのルートとして工事が再開され、第三セクターとして1997年に開業した。全線単線ながら特急はくたかの160km/h走行が可能な高規格路線であり、ノーズ可動クロッシングや高速進行を現示出来る六灯式信号機が備わっている。また、普通列車用のHK100形も、高速走行するはくたかから逃げ切るため、最高速度が110km/hで、加減速能力が高い高性能車両となっている。その後、北陸新幹線の金沢開業に伴いはくたかは新幹線に役目を譲り廃止、名前を引き継いだ。同時にはくたかで稼いできた北越急行の動向も注目されたのだが...。
- 超快速「スノーラビット」:なんと、北越急行が選んだのは新幹線との真っ向勝負であった。ダイヤ改正と同時に超快速「スノーラビット」の運転を開始。表定速度80km/hオーバー、ほくほく線内に限れば平均速度99km/hという特急顔負けの快速ぶりである(後1分所要時間が短ければ平均速度100km/hだったのに...。)。特急列車でも表定速度100km/h越えは数えるほどしかなく(前述のはくたかの他、はくたかの前に走っていたかがやき、サンダーバード、スーパー北斗くらい)、これだけでも超快速「スノーラビット」がどれだけ速いかが分かる...。が、よく考えてほしい。これらの特急は最高速度130km/h、対してHK100形は110km/h...。これだけの速度を出すには、駅への停車とその前後の加減速を除き、常に最高速度で走り続けるということである。なお、ほくほく線は長大トンネルが多く、しかも単線であるため、気密対策をしていない普通車両ではかなり耳ツンが酷い。しかも最高速度を出し続けるため、物凄く煩い。
- 美佐島駅:赤倉トンネルはほくほく線内にある全長10kmを超すトンネル。JR以外の鉄道としては日本最長のトンネルで、途中に信号場が一つ、駅が一つある。信号場の方は別に特筆することはないのだが、駅の方は凄いものがある。それが美佐島駅で、外見は平凡な無人駅なのだが、特筆すべきはその構造。なんと二重扉になっていて、どちらかが必ず閉められている。トンネルの途中にあるため空気の逃げ場がなく、列車が通過すると物凄い圧力がかかり、ケガをする恐れがあるためである。その為、美佐島駅は普段はホームに出ることが出来ず、普通列車が到着した時だけ運転士がスイッチで駅の扉を開閉する。
- 鍋立山トンネル:鉄オタの間では前述の赤倉トンネルの方が有名であるが、土木関係者にとってはこちらの方が有名である。というのも、このトンネルのせいでほくほく線の開業が遅れたからである。着工から完成まで、途中中断はあったにせよ、22年もの歳月を要した。20世紀初頭の土木技術が未熟な時代なら難工事になるのも分かるが、着工したのは土木技術が進歩した1970年代である。その原因は、この付近の地層が複雑に入り組んでいるうえに軟弱で、穴を掘った側から地面が隆起して塞いでしまう程の土圧がかかるためである。あまりの悪条件に、手掘りはおろか最新鋭のボーリングマシンまでもが押し負けてしまうが、高速運転を行うため迂回は許されず(それをすると中山トンネルのように減速せざるを得なくなる)、薬液を注入するなどして何とか掘削することが出来た。
松浦鉄道
- 長崎県を走る第三セクター。大赤字で国から見放された形の国鉄路線を地元が引き受けたのが第三セクターであるが、様々な経営努力で黒字化に成功し、第三セクターの優等生と呼ばれる。普通鉄道最西端の駅、たびら平戸口駅や、普通鉄道での駅間最短距離の日本記録(佐世保中央~中佐世保で、僅か200m。通勤電車10両分)など、いろいろ記録を保有する鉄道でもある。