ドイツは騎士の国、イギリスが紳士の国なら、
日本は 伝統と 誇り高きサムライのくn……
あ、あと雑食と 無駄にこだわった精密さと
それから理解出来ない思考回路と……
ここには、日本面の鉄道に関するもののうち、国鉄・JRグループに関するものを記載しています。
私鉄・地方公営鉄道に関しては「日本面(鉄道、私鉄・地方公営鉄道編)」を、
日本面についての概要と、軍事に関するものについては「日本面」を、
自動車(二輪車等も含む)・船舶・航空など、鉄道以外の乗り物に関するものは「日本面(乗り物)」を、
企業や文化など、その他は「日本面(その他)」をご覧ください。
鉄道院・鉄道省・日本国有鉄道部門
機関車部門
蒸気機関車編
- 8620形と9600形:約束されし勝利と変態の機関車。日本初の純国産蒸気機関車である。で、その内容はというと、イギリスとアメリカとドイツからそれぞれ輸入した機関車のいいところを取り出してごった煮、ついでに日本で独自に考案した機構や他国ではまだ試験段階の機構も突っ込んでみましたというシロモノ。鉄道に関してはもはや英国紳士が裸足で逃げ出すのが日本だが、そうなることはこの2形式が産声を上げた時点で決まっていたようなもんである。すすが多い低質の国産石炭を理由とする黒一色塗装も両形式から始まったが、質実剛健の中に芸術性を見出す国民性に見事に合致、動態保存車以外の蒸気機関車が撤退した後の世代にすら「蒸気機関車≒黒」のイメージを刷り込んでしまった(海外では蒸気機関車でもここまで単色塗装をしている国はない。日本型蒸気を使っていた台湾やタイでも晩年は色を差している)。一方でつぎはぎで造った機関車の割りには日本での運用条件も充分に考えて無難に設計したため信頼性は高く……その上で出力・規模も手ごろなテンダー式機関車であった。後継機が鉄道輸送の需要増大で大型化してしまったため、規模の小さい線区では転車台に入りきらない、線路に与える影響が増えたなどの理由で蒸気機関車全廃直前まで運用され、9600形に至ってはそのグランドフィナーレを自らの手で飾ることになった。
- 附番ルール:著名な両形式であるが、かなりおかしな附番ルールになっている。古い時代の蒸気機関車は、製造順に型式番号に1を加えた物を車両番号としていた。9600形は9600から始まるが、9700形が存在するために9699の次は1万の位に繰り上がって19600となる。8620は更にややこしく、8550形と8700形が存在するため、8620からスタートして8699の次は18620に飛ぶ。昭和3年に称号規定が改正され、蒸気機関車は動輪の数を表すアルファベット、数字2桁、製造番号の順に表すようになったのだが、この2形式には適用されず、最後まで分かりずらい番号のままであった(まだ9600のは速算できるが、8620ってなんで80進法なんだ?→8550形が従来ルールのまま66両登録されて8615まで存在するため、0~19を使用することが出来ない)。
- ちなみに8620の置き換え用としてC58の改良型であるC63形が計画されたが、無煙化・動力近代化に逆行すると言う政治的理由でボツに。
- 8620形蒸気機関車58654号機:英国面で紹介したダージリン・ヒマラヤ鉄道は、現在保存鉄道として、鉄道線路そのものも含めて保存されているが、それとどっこいの歴史を持ちつつ、現代の電車・気動車と同じ線路上を営業運転する資格を持っているおそらく世界最古の機関車(1922年製、全ての空母の母の同級生である)。2005年に台枠の変形により一度静態保存となるが、JR九州は将来の復活の可能性を信じて除籍を行わなかった。その後の調査により奇跡的にも日立製作所になんと製造時の図面があることが判明し、静態化から約2年後の2007年、台枠の新製とボイラー修繕を施された58654号機は復活を遂げた・因みに日本も復活蒸気で台枠を再度新製したのは58654号機と次項のC57形1号機だけである。なお、JR化後の初回復活時にテンダーとボイラーを新造し、2度目の復活時に台枠を新造しているので元の部品のほうが少ない。テセウスの船かな??
- C56形蒸気機関車44号機:C56形は線路規格の低い路線用に開発されたテンダー型機関車であり、バック運転の際に見通しが利くように炭水車の両脇を切り取っている。小型ながら長距離走行が出来るため、戦時中には90両が戦地に供出された。その中で44号機だけが日本に帰還し、大井川鐡道で動態保存されている。他の形式も含めると700~800両と言われている「出征機関車」のうち、文字通りただ1両の「生還機関車」である(同時に帰還した31号機は帰国後力尽きた)。戦時中の酷使による不具合とC11形190号機入線により、2003年に休車となるも、部品取りとしていたC12形208号機とボイラー交換により、2007年、日本とタイの修好120周年を記念してタイ国鉄仕様に復元され再復活。この状態で2010年まで運行された。(2011年からは国鉄仕様に戻されている。)さらに、2015年にはきかんしゃトーマスに登場するジェームスの姿に改装された。全く形が違う(きかんしゃトーマスに登場する機関車は全員モデルとなった機関車がイギリスに存在する)にも係らず、その再現度はかなりのもの。
- C57形蒸気機関車1号機:日本鉄道界の異能生存体にして雪風と並ぶ日本最強の異能生存体。落成こそ1937年と上記の58654号機より15年若いが、「1945年、宇都宮機関区在籍時に空襲に遭遇し機銃掃射を受け損傷」「1961年、羽越本線で急行『日本海』を牽引中に土砂崩壊現場に突入して脱線転覆大破。しかも現場に2か月以上放置されたにもかかわらず、長野工場(現在のJR東日本長野総合車両センター)で5か月にも及ぶ修復を受けて奇跡の復活」「1976年、梅小路蒸気機関車館で保存されている蒸気機関車の定期検査を担当していた長野工場の検査打ち切りや、京都駅-大阪駅間で発生した京阪100年号事故で、国鉄における蒸気機関車の動態保存自体が危機に陥るものの、当時の高木文雄国鉄総裁の英断で継続が決まる」「1995年、検査のためJR西日本鷹取工場に入場中阪神・淡路大震災に遭遇。ジャッキ上にあったため転落、ボイラーをはじめ、いたる所が大きく損傷したが、同工場の努力によりすべて修復」と、いつ廃車になってもおかしくない事態に遭遇しながらも切り抜け、お召し列車の牽引やSLやまぐち号などで活躍を続ける。21世紀に入ってからは、2005年末から2006年4月まで改修工事で寿命を25年伸ばす修繕工事、2009年に炭水車の車体新製、2009年末から2010年4月までボイラーその物の改修(煙室管板と火室管板そのものの新製交換)、2013年9月から2014年6月まで台枠の一部やシリンダーなど走行の要となる足回りでもいくつかの部品の新製が実施された。この事により新製から現在まで見て、一部のファンからはC57 202号機(C57は201号機まで製造)と呼ばれている。ちなみに製造元は川崎車輛。カワサキか…。
- D51形蒸気機関車:蒸気機関車の代名詞的存在。貨物用として1115両が製造され、単一形式としては日本最多を誇る機関車。初期型はドームが長いことからナメクジと呼ばれる。但し、知名度に反し、基本設計はお世辞にも良いとはいえない。丙線でも使用出来るように設計されたため全長が短く、車体重量の分配が適切でなかったため空転が起きやすくなり、勾配区間での重量貨物の牽引には適さなかった。軍需輸送の増大に伴い、当時の標準形であったため大量に製造されただけである、と言われている一方で、戦時中と戦後混乱の時期に稼働率9割越えをたたき出した、万能ディーゼル機関車DD51が登場するまで余剰車が全くと言っていいほど存在しなかった、最も過酷な勾配区間の一つとして挙げられる旧狩勝線や矢岳超えに使われ続けたなど最終的に運転に関わる立場からも絶大な信頼を得ている。
- D52形蒸気機関車:D51の改良型であり、国鉄史上最大の貨物用蒸気機関車……なのだが、深刻な材料不足に見舞われた第二次大戦中の新製だったため、同時期に大増産中であったD51第三期型と共に炭水車側板その他の木製化やボイラーの簡易化、果ては軸重確保のためにコンクリート塊を積む等され、案の定爆発事故等を続発させてしまった。戦後はこれらの問題点も改良され、一部は足回りを履き替え旅客用のC62形に生まれ変わることになる。
- C62形蒸気機関車:先述の通り、D52を旅客用に改造して生まれた、日本最大の蒸気機関車。GHQが蒸気機関車の新造を認めなかったため、余剰となった貨物機関車を改造して登場。ボイラーが大きく、機関助士の負担が大きいため、自動給炭機を備えている。そして東海道本線で特急「つばめ」・「はと」の牽引機として活躍を始めたが……。電化に伴って一部が北海道に転出することに。その際に軸重軽減が行われたものの、これのせいで車重の割に列車を押さえつける力が弱い、厄介者の機関車として扱われることに。
- C53形蒸気機関車:日本生まれなら国鉄唯一(輸入ならC52が存在)の三気筒機関車。先述のC52形を日本向けの設計に改良した物であるが、それが齎した結果は、中央シリンダクランク(通称中ビク)のメタル焼けの頻発、中央シリンダウェブ・台枠前部の亀裂、停車時に前にも後ろにも起動できなくなる通称"金縛り"等の惨憺たる結果の数々であった。原因は6.65mmの長いリード長、そして位相を7°ずらされた奇妙な弁設定で、また、これは国鉄技術陣の弁装置に対する理解が杜撰だった事に起因する。本機の弁装置の調整は極めて難しい作業であり、ワルツとも揶揄された排気音を聞きながら機関区の中を何度も走らせたという話が残っている。なお、この問題はC53の廃車により解決をみており、これについて後々国会で問題視された。国会で此れについて追及されたときの言い訳として国鉄は、C59が登場したこととC53の全長が大きく転用が難しいことを述べたものの、C62が常磐線で使われていることを突っ込まれてしまっている。また、ボイラーの転用が可能という的を得た意見の他、C52についても言われており、これについて国鉄はC52の弁装置は底が浅く、C53は非常に良いなどと酷い事を言っている。この後議題はラッシュアワーに移ったため事なきを得たものの、質問する鈴木議員はどさくさ紛れ、機関車大量廃車事件と表現しており破願を誘う。なおC52とC53の弁装置が開発されたイギリス本国では軸焼け、金縛り回避のため、誇りと忠誠心を持った機関士と機関助手のチームを1人1人選別した上に、1両の機関車に専属で乗務させるという方法で問題解決としていた。このため、同じ形式でも個体差が大きく、専用機以外は運転が難しかったという。日本では大正時代末から昭和にかけて1両に乗員を専属させない方法に移行したため、本国以上に問題が顕著化した。
電気機関車編
- EF13形電気機関車:上記D52の電機版。徹底的な簡素化と鋼材の節約のため、凸型の車体になったのが最大の特徴。もちろんこちらも死重としてコンクリートを積んだことから「木とセメントで作った機関車」と呼ばれた。それまで製造されていたEF12並の性能をもつと言われたが、実際は粗悪な構造のためにそれ以前のEF10と同じ程度だったそう。しかも戦中のゴタゴタで完成したのは7両だけ。しかし戦後も製造は続き、安全化改良と並行しつつ最終的には31両が作られた。後に数や寸法が一致していたEF58の旧車体を(機器ごと)御下がりを貰って箱型ボディになり、貨物・旅客双方での運用はもちろん、0系新幹線電車の甲種輸送でも活躍し、1979年まで使われた。
- EF55形電気機関車:1936年に日立製作所、日本車輌製造・東洋電機、川崎造船所・川崎車輛で1両ずつ、計3両が製造された。当時、世界的な流線型ブーム中で生まれた機関車の為、この機関車も流線型の車体形状を採用し、ギア比も高速寄りに設定された。ただし、流線型先頭部は第1エンド側のみであり、第2エンド側は構内運転程度の運転台設備しかなく、当初は前照灯すら無かった。しかも、C53型43号機やC55型流線型グループと同じく流線型カバーが邪魔で整備し難いという問題が発生し、わずか3両で製造を打ち切られた。その後、第2エンド側も本線運用が可能する改良がされて、東海道線でつばめや富士と言った特急列車の牽引などをEF58と共に活躍し、1955年にはEH10形とともに東海道本線で120km/h運転の試験に供されたほか、碓氷峠の空転試験列車やED71形の性能試験時に死重として連結されたこともある。1960年代以降、3号機は1962年に試作交直流両用電気機関車のED30形(ED30-1)に機器流用される形で廃車となり、残る2両も1964年に廃車され、2号機はそのまま解体、1号機は中央鉄道学園の教習用となった。その後、1号機は1978年に準鉄道記念物に指定、1986年には大宮工場で動態復元され、数々のイベント列車や団体臨時列車をけん引する等活躍したが、保守部品の確保が難しくなった為に2008年にさよなら運転を行い静態保存に移行した(静態保存に移行した後も車籍は残った)。2015年4月12日から鉄道博物館で公開展示されている。
- EF58形電気機関車:EF52に始まる戦前型国鉄電機の決定版。当初は戦後すぐの無い無い尽くしの状況で作られたEF57の廉価版といったところで、D52や63系、EF13同様評判は悪かったが、初のローラベアリングの採用、貨物用EF15との設計共通化などの優れた点もあった。それでも資源と熟練工の不足は厳しく、初期型は品質が極めて粗悪だったために一時は製造中止措置や使用中止命令が出された時期があったりする。その後製造は一旦凍結になるが、この時東京芝浦電気(今の東芝)の工場では既に4両が完成状態であったため、国鉄は他メーカーで未着工であった3両分を東芝に肩代わりさせ、31号機のみ増備車として引き取っている。またこのとき半完成品状態だった5両は後にEF18の32~34号機とEF58の35~36号機に転用された。そして1952年、ロングラン可能な高速電気機関車が求められ、軸受けにベアリングを採用した本機に白羽の矢が立った。初期型で省略された機器や暖房設備を追加し、そのためのスペースは半流線型の大型車体を新設計し捻出するなど相当な手間が加えられ、どう考えても別の形式だろコレと言わんばかりの姿となり141両が製造され、日本電気機関車史に燦然と輝く存在にまで上り詰めた。なお1号機から31号機までは通常のデッキ付き機関車として登場したが、後に改設計後の姿に魔改造されている。しかし英国紳士も裸足で逃げ出す日本鉄道史においてこの程度はそんなに"変"というわけでもないのだが、問題は技術的にはこの後革新的な発展を遂げたにもかかわらず、性能面では1958年の製造終了から1985年まで、特急旅客列車用の後継機が実質出現しなかったことである。
- EF66形電気機関車:国鉄最強の出力を誇った電気機関車。他国では重量級の貨物列車を牽引する際に重連(機関車2両以上)とすることは珍しくないのだが、日本の国鉄はEF65形重連で始まった特急貨物列車が「出力、消費電力が大き過ぎる」と気にいらなかったようで、単機で同等の重量の列車を同等の速度で牽引できる当時の狂気……もとい狭軌最大にして標準軌の海外ですらそんな怪物はいないというモンスター電機として開発が始まった。それ以前にもEH10形のような2車体永久連結の貨物用大型機関車はあったのだが、貨車一両分の長さが無駄、保守が面倒と、現場ではイマイチ不評だったという側面もあったらしく、「何が何でもF級(動軸数6)1両に収めるんだぁい」ってなことで、当時国鉄がファンから酷評されてまで固執し続けていた"標準化思想"を一切ぶん投げて実用化された。その二つ名だが、「マンモス」はEH10に使われたもので、その後を継いだED60・EF60は「1車体でEH10並の出力」という意味で「アトム」(『鉄腕アトム』に由来)と呼ばれたが、そのEF60の2両分の働きができるEF66にふさわしいのはやはり「モンスター」だろう。ここまで述べた通り、当初は高速貨物用として開発され、1968年の量産開始以降、長年それに専従していたが……。
- ブルトレ牽引機への抜擢:1985年、東海道ブルトレ「はやぶさ」にロビーカーが連結されたのを機に、その馬力を認められ下関運転所受け持ちのEF66が「あさかぜ」(2往復)「さくら」「はやぶさ」「みずほ」「富士」に充当開始。JR発足後には併結列車となった「さくら・はやぶさ」「彗星・あかつき」「富士・はやぶさ」「なは・あかつき」も牽引。東海道ブルトレのグランドフィナーレを「富士・はやぶさ」と共に締めくくった。ようやくEF58先輩の肩の荷が下りました。
- 100番代:また、EF200形量産化前のJR貨物で東海道特急貨物用機関車が不足したため、急遽、旧式化を承知で新製した(ただし、この時点ではまだ日本最強の機関車であった)。やっぱり車体の設計が大胆に変えられているのだが、さすがにこの点ではEF58先輩には及ばない模様。
- EF67形電気機関車:勾配区間が連続する山陽本線瀬野-八本松間の補機専用として、EF60形、EF65形から改造された電気機関車。電気機関車では一般的ではない電気子チョッパ制御を採用。EF60改造の車両は新性能電気機関車なのに旧型電機張りのデッキがついている。EF65改造の車両はパンタグラフをシングルアーム式に変えられるも不具合で戻される。
- ED45形電気機関車:かつて電気鉄道は直流400V~3000V程度の直流高圧給電が常識だったのだが、戦前のドイツが長距離を低イニシャルコストで電化する方法として10kV(10,000V)以上の交流特高圧給電による電化方式を開発し、戦後そのノウハウを得たフランスが鉄道交流電化のデファクトスタンダードを握ろうとしていた。その流れに遅れてはならぬと、日本も東北地方などを電化する目的で交流特高圧給電の研究・開発を開始した。ところが、この為にフランスからサンプルの電気機関車を輸入しようとしたところ、フランス側から「お前らに実物与えたらサル真似して自分で造っちまうだろ! 前科だってあるし! 買うなら量産輸入じゃないと許さん!」と言われてしまった。ところがそれに対する日本の答えは「自分達だってうちの元同盟国からの火事場泥棒だろうが! だったらいいよ自分で作るから!」。アメリカほど日本の扱いに慣れていなかったフランスは見事に敗北フラグを盛大に立ててしまい、日本の静止型整流式交流電気機関車ED45形は大成功を収めて量産車へとつながっていく。結局ドイツの模倣でしかなかったフランスの回転変換器式は急速に静止型整流式に置き換えられこのジャンルで日本にイニシアチブを許すことに。そして新幹線の大成功を目に慌ててTGVの開発に乗り出すのである。
- EF81形電気機関車:直流1500V,交流50Hz20000V,交流60Hz20000Vの三電源に対応する万能型電気機関車。こんなの様々な規格に対応するユーティリティー機関車でしょ...、と思いきや、日本海縦貫線の高速貨物や特急の定期運用をこなす本務機。この区間は途中にデッドセクションが3回もある(例として、大阪発青森行日本海だと、直流→交流60Hz→直流→交流50Hz)ため、その性能を遺憾なく発揮している。JRになり、他の電気機関車が老朽化を理由に次々に廃車される中、一般的な架線高さのある幹線の電化区間なら大抵どこでも走れる万能性から、しぶとく生き残っている。
ディーゼル機関車編
- DD51形ディーゼル機関車:初の国産本線用ディーゼル機関車。それまでのディーゼル機関車は国産、輸入を問わず出力が低かったり安定性に欠けているものばかりだったが、安定した性能と、乙線にも入線出来る万能性から、蒸気機関車を次々に駆逐した。その為、鉄道ファンからは嫌われていたのだが...。平成も終わり近くになって、後継車種の登場、老朽化に伴い廃車が進むと一転して追い掛け回される事態に。
- DD53形ディーゼル機関車(ロータリー除雪機関車):幹線用ディーゼル機関車の全出力(2200ps)をロータリーヘッドに回せるというキ○ガイ除雪車。沿線の雨戸をぶち破ったり植木をなぎ倒したりは日常茶飯事、中には家の中のピアノを壊したという都市伝説まである。そして生産は3両にとどまった。まぁ、そうなるな……とはいえ、実はロータリーヘッド用の動力分岐機構以外は量産車DD51形と同一の機器なので特別お高いというわけでも保守に難があったというわけでもなかったり。ただ、箱型車体のDD53にどうやってセンターキャブ型のDD51の機器を収めているのか、外観からだけでは不条理しか感じない。
- DD17形ディーゼル機関車:3両だけで懲りたと思ったか? あれは嘘だ。DD14形の数不足から既存のDD51形からの改造で製作されたロータリー除雪機関車。流石に1両だけの孤独な存在だったが、その後山形新幹線開業(奥羽本線改軌)に際して同区間用に標準軌化改造を受けDD19形として2008年まで運用された。
- DD54形ディーゼル機関車:西ドイツ・マイバッハ社設計の純正品エンジン・変速機を載せた試作機は好調だったが、量産化カスタマイズで(国鉄技術陣とライセンスを受けた三菱重工業が)やらかしたために落っことした推進軸が線路に刺さって棒高跳びよろしく脱線してしまう等の事故・故障を繰り返し超短命(最短で新製から廃車まで4年10ヶ月)に終わった。保存車は一台残っているが、これは証拠保全の為に確保されたという(異説あり)。
- DE10形ディーゼル機関車:線路等級が低く、DD51が入線出来ない丙線にも入線出来るディーゼル機関車。日本の鉄道の無煙化に大きく貢献した。丙線入線のため軸重を13tにし、一方で操車場での入れ替えで粘着力を上げるという2つの理由から5軸としており、前後非対称となったためセミセンターキャブの外見が特徴。だが、この5軸が曲者である。2軸の方を2軸台車としているのはごく普通であるが、3軸の方は3軸台車とすると丙線など線路の弱い箇所での横圧が問題となるため、1軸1軸が独立している(軸配置もC-BではなくAAA-Bと表記される)。機関車で1軸台車を採用するのは、日本ではこのDE10とその発展形くらいしか例がない。
- ジェット除雪車:国鉄苗穂工場…ではなく大宮工場の生んだ秘密兵器の一つ。日本版Progvev-T。F-86戦闘機のジェットエンジンの噴射で雪を吹き飛ばすという素敵マスィン。DD53を越える雪と一緒にバラストなども豪快に吹き飛ばしてしまうためにお蔵入り。
電車部門
直流特急電車編
- 381系電車:後述する591系を量産したのが本系列。591系は東北本線の高速化のため交直流であったが、新幹線の建設が決定したため直流専用となった。そして中央西線のしなのに投入されたのだが...。曲線区間に入ると遠心力で車体を傾ける自然振り子方式のため、どうしても反応が遅れてしまい、余りの酷さに乗り物酔いをする客が続出した。その為、後に充当されたくろしおややくもでは、名前をもじって『ゲロしお』『はくも』『ぐったりはくも』などという余り有り難くない綽名を頂戴することに...。尚、「しなの」への投入時にもその揺れが話題となり、新聞記事が揺れについて聞いたところ、当時の担当者が「ワルツを踊っているようなもの」と答えたことから、翌日の新聞にデカデカと「ワルツ電車」と書かれたとか...。とはいえ、後述するクモヤ93を抜いて狭軌での日本最速記録179km/h(湖西線で記録。実は現場判断でこれ以上の速度を出していたが大人の事情で封印)の所持車であるため、車両性能そのものは高い。
- 185系:後述する117系が評価される一方で割を食ったのがこの185系である。元々老朽化した153系を置き換えるため(117系も153系の置換のために新造されたものである)に登場し、普通列車にも運用するため車内は転換クロスシートであるが、急行だったのを特急に格上げしたため、117系と設備面では差がないのに特別料金を取ることから『ぼったくり特急』、『有料新快速』などとファンに酷評されることに。ま、リクライニング機能がないんじゃしょうがないが(なお、JR化後に座席はリクライニングシートに改造されたが)。しかも、よりにもよってお隣もほぼ同水準の快速特急を特別料金なしで運行しているし……
直流近郊型電車編
- クモハ42:国鉄旧性能電車(釣り掛け駆動)の最後の生き残り。元は関西地区の急行電車(現在の新快速に該当する)用として投入されたが、新車の導入に伴い転属を繰り返し、ここに落ち着いた。周りの車両が新性能電車(カルダン駆動)に置き換えられる中、単行運転ができる貴重な存在(新性能電車は長大編成を組む都市部への投入を前提としたため電動車が2両1ユニットであり、こんな短編成は考慮していなかった)として、小野田線の本山支線で2003年までしぶとく生き残った。因みに後継車両は123系。ちなみに引退の原因は老朽化と言うよりだいたい京福電鉄のせいである。
- 80系:日本の電車王国化の礎を作った大功労者。因みに設計者は新幹線計画にも関わることになる、あの島秀雄である。最初に担当された区間から、湘南型の通称を持つ。80系が登場した当時、電車はモーターから発生する騒音と振動が酷く、長距離運転には適さないとされていたが、安定した走りと客車を凌駕する加減速性能(電車の普通列車が客車の急行列車と同等の所要時間で運転できる)が受け入られ(当初は初期故障が頻発し、遭難型と揶揄されたりもしたが)、日本が電車王国化するきっかけを作った。80系そのものは早々に151系、153系、113系といった後継車種が登場し、第一線で華々しく活躍した期間は短かったが、そのDNAは最新型の新幹線にまで受け継がれている。
- 117系電車:関西大手私鉄に圧倒されていた国鉄大阪鉄道管理局が東京本社を説き伏せて新快速用に投入した起死回生の一手。一応近郊型に分類される車両であるが、2扉転換クロスシート、空気バネ台車など急行形どころか特急形に迫る豪華装備で登場(同時期に登場した185系との差は、デッキがない両開きドアだったことぐらい。詳細は先述)。当初は車内に吊り輪を設けなかったため、製造メーカーが「本当にいらないのか」と聞き返したというエピソードが残っているほど。この一手は一定の成果を上げJR西日本発足後の大攻勢の布石となった。
直流通勤型電車編
- クモハユニ44/クモハユニ64:制御電動郵便荷物普通車という合造車の最終形態。国鉄・JRの全車種の中で最長の形式記号を誇る(名前の長さだけならマイロネフ37も同率一位)。20mの車体の中に運転台、普通車、郵便室、荷物室が詰め込まれている。晩年はクモハユニ44は800番台車が身延線、クモハユニ64は主に飯田線で活躍した。なお、最長となったのは1959年の称号改正からであり、それまではモハユニ44であった。又、クモハユニ64は1958~1961年までクモハユニ(モハユニ)44100番台だったが、1961年に両運転台に改造されて形式が分離した(それまで電車は電動車には運転台もあるのが常識のため、電動車を表すモは制御車を表すクを内蔵していた。だが、後述の80系以降その原則が崩れたため、モとクは分離された)。
- 63系/72系電車:国鉄の開発した通勤形電車。63系はD52やEF13同様戦時中または終戦直後の新製で、窓ガラス節約のため3段窓採用、電装品は粗悪な代用品、車内を見れば天井は骨組み丸出しで照明は白熱電球だけ、座席は戸袋部分以外省略というもはやバラックもしくは有蓋車レベルに。桜木町事故をきっかけに72系へ更新され、101系/103系導入後も80年代まで活躍。さらに荷物電車となっていたものがJR化後に再旅客化され(後述のクモハ84)1996年まで活躍したほか、魔改造で車体を103系並にした後、電装品も交換して完全に103系化した車両が2005年まで活躍。しかもJR東日本保有の103系としては比較的後年まで残ったグループだった。
- 101系電車:国鉄の新性能通勤形電車のはしりとなった車種で、先述の72系では輸送力の限界に達していた中央線快速に投入する目的で開発。従来の電車は構造が簡単な釣掛駆動が主流であったが、性能の向上の障害となるため、カルダン駆動を採用した。しかし、全電動車方式で高加速性能を得るはずが、消費電流が大きすぎ(元祖変電所殺し)加速力を抑えて運転、結果72系と変わらない状態になった末附随車を挿入してグレードダウンするハメに(このため、当初高性能電車と呼称するはずが、使えなくなったため、やむなく新性能電車と呼ぶことに)。しかも本来予定されていなかった山手線にも投入され、こっちではオーバースペックとなってしまった。
- 103系電車:国鉄の新性能通勤形電車。101系の反省を元にして作られた。駅間距離が短い区間向けに高減速性能を重視する一方、変電所にも優しいスペックとなった。技術的には登場時すでに時流遅れになりつつあったものの(※大手私鉄では1970年代以降普通鋼車体・抵抗制御の電車は減っていく)、国鉄の経営難や標準化の過剰な推進による技術の停滞などさまざまなしがらみを理由として1980年代まで製造。国鉄の硬直体質の象徴とされた。しかし駅間距離の長短を問わないこと(京阪神緩行線、常磐線)、快速運転にも耐えられること(阪和線)なども大量生産の理由であった(ただし、これらいずれの線区も定格速度の高い101系への“逆置き換え”が検討されている、また京阪神緩行線に関しては103系の車体に113系の足回りを組み合わせた車両を国鉄大阪鉄道管理局は要望していたという話がある)。いずれにせよ、63系から103系に至る「20m4扉ロングシート車」の系譜は、国鉄のみならず民鉄を含む太平洋戦争後の日本製通勤電車の雛形となった。
- 105系電車:旧型国電置き換えのため製造された、新性能電車初の1M仕様車。経費節減のため、完全な新車と103系の車体を流用したものが混在するのはいいのだが、見た目が完全に別形式(新車は3扉のパンダ顔、改造車は4扉でパンダ顔と103系そのままの顔が混在。しかも103系の基本の顔以外に、捻出元の関係で、貫通扉付きのタイプもある)。そこは仕様を統一するべきだと思うが。主にJR西日本で運用され、そのほとんどが末期色に。
- 123系電車(クモハ123形):国鉄分割民営化直前に本州各地のローカル線にばらまかれた荷物電車改造の通勤電車。ちなみにこの形式が誕生した理由としては、国鉄時代は「地方路線の車両は大都市圏のお下がり」というのが通例であり、新製車両など予算が下りなかったので「荷物電車からの改造車だから文句ないだろ」と「JRに負担を押し付けないための車両だ」と言いはって、ある意味での「抜け穴」を使って新型車をローカル線に送り込むためである。とどのつまりが電車版リライアント・ロビン。
- クモヤ93:当時の狂気…いや狭軌最速の175km/hを叩きだした旧型国電。原型は何の変哲もないモハ40平妻車体だったのが、流転の末超アグレッシブな外観と性能を持つモンスターマシンと化した。ちなみに本職は架線試験車です。
交直流特急電車編
- 583系電車:「特急列車を増発したいけれど、基地が足りないし、車両の新製にも費用が嵩む」→「じゃあ昼も夜も走れるようにすれば良い。座席と寝台の両方が使えればもっと良いよね!」というわけで本当に作られた、日本初(世界初としばしばいわれるが、実はアメリカで実用化されていた)にして、(多分今後も)唯一の昼夜兼用(にして交直両用)の寝台特急電車。1967年10月、60Hz区間用の581系が、寝台特急「月光」/特急「みどり」でデビュー。翌1968年10月(いわゆる「ヨン・サン・トウ」時刻改正)で、60Hz/50Hz共用の583系がデビュー。以降1972年3月までに400両以上が増備されて、一時は国鉄特急電車の主役の座にあった。
- 王座からの転落:しかし新幹線の延伸によって、本来の活躍の舞台~関西ー九州間、東京(上野)ー北東北間~が狭められたこと、登場当時はデラックスともてはやされた昼夜兼用の設備が、1970年代後半になると中途半端とみなされるようになった(居住性の面で、昼行特急としては485系などに、寝台特急としては客車の2段式B寝台に劣るとされた)こと、そして昼夜兼用による酷使からくる老朽化等で、比較的短期間で急行運用への格下げ、そしてまさかの転用劇(この詳細は後述)が…。
- その後:だがJR東日本・JR西日本に承継された583系は、国鉄時代のような華やかさこそなくなったものの、20年以上に亘って活躍を続けた。JR東日本所属車は寝台特急「はくつる」「ゆうづる」特急「はつかり」で、JR西日本所属車は、定期運用こそ国鉄末期から始まった急行「きたぐに」1往復だけだったが、特急「雷鳥」やスキー列車「シュプール」などの臨時運用もこなした。一応583系の系譜は断絶に至らなかったものの……(後述)
- 485系電車:大都市(直流1500V電化区間)と地方(交流20000V電化区間・60Hz;西日本/同50Hz;東日本)とを直通運転出来る交直両用特急電車。1964年12月、60Hz区間用の481系が「雷鳥」「しらさぎ」でデビュー(ただし当初予定の2か月遅れ)。翌1965年10月、50Hz区間用の483系が「ひばり」「やまびこ」でデビュー。1968年10月(いわゆる「ヨン・サン・トウ」時刻改正)で60Hz/50Hz共用の485系がデビュー(もっともこのときの注目は上述の583系だったが)。その後も先頭車の形態、冷房装置、座席、耐寒耐雪装備、横軽対応(489系)など、変化と改良を加えられて、1979年まで増備に次ぐ増備が重ねられ、国鉄特急電車の代名詞と云える系列になった。デビュー列車にして、この系列の総帥格ともいえる「雷鳥」では、実に46年2か月余り(1964年12月25日~2011年3月11日)に亘って活躍した。ちなみに受け持ちの車両基地も変わらなかった(向日町運転所ーJR西日本発足後の1996年3月に京都総合運転所と改組)。
- 485系1500番台車:その「電化路線であればどこでも走れる」485系が味わった唯一の挫折が北海道である。札幌~旭川間が電化され、当初は電車急行が運転されていたが、同区間にも電車特急を!ということで、485系の耐雪耐寒装備を強化した1500番台車を新造し「いしかり」として1975年7月華々しくデビューした。ここに至るまでにも、青森運転所に仮配置されて「白鳥」で本州で先に営業運転したり、動力近代化を巡る国鉄労組のストライキで「いしかり」の運転開始が半月以上も遅れたりと、あれやこれやとエピソードがあったりする。だが、北海道の厳冬期は本州(内地)の想像以上のものであり、特有の粉雪のせいで故障が続出しついには計画運休に追い込まれてしまった。なんとか乗り切って夏の間に考えつくあらゆる対策を施して2度めの冬に望んだものの、ほとんど改善の兆しが見られずについにギブアップ。781系の開発に伴い、わずか6年で北海道から去ることになった。ただこれは、当時の国鉄が新型特急電車の開発をケチった…というものでなく、当初は北海道電化に伴って投入され、北海道の厳冬期にも対応できた711系ベースの特急用車両にするつもりだったのだが、その711系の主要機器である主変圧器に使用されている絶縁油が使用禁止になってしまい。代替品の開発が間に合わなかったための苦肉の策でもある。
- クハ481-253:485系一族(の先頭車)の中でも、とびっきりの履歴と運用範囲を誇った車両の1両。1973年8月24日川崎重工にて落成。国鉄~JR西日本、昭和~平成、20世紀~21世紀という3つの時代の節目を乗り越えて、2004年2月2日廃車。新製配置から廃車まで、所属がずっと向日町運転所(JR西日本発足後に京都総合運転所と改組)だった。クハ481-200番代は63両製造されたが、新製配置から廃車まで、転属の履歴が全くないのは、このクハ481-253だけである。運用された特急列車も、「雷鳥」「しらさぎ」「北越」「はくたか」「白鳥」「加越」「つばめ」「はと」「しおじ」「みどり」「にちりん」「なは」「日向」と、錚々たる面々が並ぶ。これらの列車の運転区間からもお察しいただけようが、北は青森、東は上野・名古屋、西は下関、そして南は西鹿児島(現・鹿児島中央)・宮崎までその姿を見せていた。
- 591系電車:国鉄が試作した高速試験用の交流直流両用電車.曲線区間の高速化を目指し、自然振り子式車体傾斜車両の試験車として製作された。当初は3車体4台車1両扱いの連接車両の591型として登場したが、連接台車の不具合で連接車からボギー車2両連結に改造された(この改造時に形式も591系に改められ2車体4台車2両扱いとなった)…のだが、その改造方法が何と鋼鉄車体にアルミ車体をボルトで繋ぐと言う魔改造。
交直流近郊型電車編
- 401系/421系電車:記念すべき日本初の交直両用電車にしていわゆる「近郊型電車」の原点。車体は153系をベースに、北九州地区の通勤需要に合わせて70系の3扉配置を101系以降の両開き構造で備える。その後出力向上型の403系/423系、50Hz/60Hz共用の415系、直流専用の111系/113系/115系と大増殖を続ける、とにもかくにも無難な構造の車両……だと思ったら大間違いだ! 誰だ、直流と交流、しかも電圧に10倍以上の差がある電源を同一の集電装置で集電しようなんて考えたのは!(直流1500V、交流20,000V/50Hzまたは60Hz) 実はこれ以前の複数電源対応車は、ここまで異種の電源となれば別々の回路と集電装置を設けるのが世界的には多数派だったのだが、本形式以降見事に日本式がデファクトスタンダードに。
- 419系/715系電車:一時は国鉄特急電車の頂点の座にありながら、その評価が一変、中途半端な存在となってしまった583系に与えられた用途は、まさかの近郊形への転身だった。1980年代半ば、交流電化の地方幹線の普通列車(旧型客車やディーゼルカーが主力だった)の体質改善が要望されていたが、累積赤字が嵩む一方の国鉄が、こうした地方幹線向け交流(交直流)近郊形電車の新車を製造することなどほとんど不可能だった。そんな中、苦肉の策として生まれた案が、この583系を近郊形に改造して充当しようというものだった。かくして1983年~1985年にかけて、交流専用の715系(九州地区用0番代×48両、東北地区用1000番代×60両)と交直両用の419系(北陸地区用×45両)が本州・九州地区の国鉄工場で改造されて生まれた。
- 食パン電車:改造費用を極力抑えることが至上命題だったため、先頭車の大半はブロック式の運転室をくっつけた切妻形(ゆえに「食パン電車」の異名が)、ドアが増設されたがなぜか増設側も元のものと同じ折戸(ゆえにラッシュ時の乗降には酷く手間取った)、車内にはデッドスペースが多い(ゆえに詰め込みが効かない)など、問題点は多々あった。しかし一方で、寝台電車由来のピッチが広く座り心地の良いクロスシート、天井の高い開放的な車内という、好評(?)な面もあったりする。
- 繋ぎの筈が……:赤字国鉄が生んだ産物ではあったが、JR発足後も長く使われ、特にJR西日本に承継された419系は、両端に交直切り替え区間がある北陸本線の特殊な事情もあって、2011年3月まで、26年に亘って活躍した。その結果、民営化までの繋ぎとして10年持てばよい、として設計されながら、元の583系としてよりも、改造後の419系として活躍した期間のほうが長かった、という珍現象が。一方で583系として活躍を続けたグループよりは先に引退したが。
機器編
- MT46型主電動機:上記の101系電車をはじめ、初期の新性能電車に採用された走行用モーターである。当時の国鉄らしい考え方で、通勤型電車から特急型電車まで、ギア比を変えるなど小手先の手段でオールマイティーに使える「標準型」のモーターして開発された。実際にこのモーターを使った151系電車による高速試験では、当時の狭軌鉄道世界記録の時速163Km/hを叩き出すなど、当時としては先端を行く優秀な性能を持っていた。しかしながら、「熱容量に余裕が無い=過負荷に弱い」という致命的な欠陥を抱えており、通勤電車用としては帯に長し襷に短しの中途半端な性能、急行・特急用電車では連続勾配でモーターが過熱してしまうため、止む無く補助機関車を要する区間も生じるなど、これを装備した電車のほとんどが付随車の連結両数の制限や運用区間の限定など、運用上何らかの制限がかかる羽目になった。こうした問題を抱えながら、出力を増強した後継のMT54型が開発されるまで約5年に亘り量産された。さらに1970年代末以降、廃車発生品のMT46が事業用車に転用されたり、また中古品が第三セクターの新車に搭載されるなど、その活躍は近年まで続いた。
気動車部門
- DMH17系エンジン:1951年から量産化され、1960年代末まで派生系を含めて国鉄というより国産気動車の標準エンジンとして制作が続けられたディーゼルエンジン。基本設計が太平洋戦争開戦前のガソリンエンジンという非常に古いものであり、サイズの割に低出力で、燃費、整備性、低温環境下での起動性もよろしくないという問題だらけのエンジンだったにもかかわらず、「標準化」の名のもとに長期に渡って採用され続けた。国鉄時代のディーゼルカーの性能がおしなべて低かったのはだいたいこいつとそれに組み合わされた変速機のせいだったりする。
- 一方、量産開始から15年ほどで5000両を超える気動車に搭載され、気動車保有数も底辺から世界一へと近代化に大きく貢献したことも事実である。同じエンジンがこれだけ使用されている例はなく、国外からは非常に安定したエンジンとされ、後発のため輸出の実績も知名度もない国内メーカーのセールスポイントにもなった。
特急・急行型気動車編
- キハ58系気動車:急行型気動車の標準型車両。北海道用のキハ56・キハ27・キロ26、横軽のラックレール通過用のキハ57・キロ27、本州用のキハ58・キハ28・キロ28・キロ58等が含まれる。1818両が製造され、一時期は国鉄の気動車の3割を占めたほどの大所帯であり、初期型、長大編成対応車、パノラミックウィンドウ採用車、修学旅行用の800番台など、バラエティに富んでいる。しかし、急行列車の削減に伴い快速・普通列車への転用や廃車が進み、営業用としては2022年現在いすみ鉄道で僅か1両が残るのみとなっている。
- キハ65形気動車:出力不足気味なキハ58の能力を補うべく登場した第二世代型急行型気動車。500psのDML30を積んでいて、2エンジン・冷房なしか、1エンジン・冷房ありの二者択一だった状況を打開したが...。急行列車の削減に伴い、需要が頭打ちとなり、製造が打ち切られてしまった。一般型として開発されたキハ40(後述)も出力不足であり、結局気動車の出力不足の改善はJR化まで待たなければならなくなる。
- キハ81系気動車:日本初の特急用気動車。ブルドッグのような前面形状が特徴的(この中にはサービス電源用のエンジンが入っている)。サン・ロク・トオのダイヤ改正で東北発の特急「はつかり」に投入された。運転開始当初は初期故障が多発し、『はつかり・がっかり・事故ばっかり』などと揶揄されたりもしたが、次第に安定した走りを見せ、日本での気動車の地位を確たるものとした。
- キハ181系気動車:キハ81系の後継車で、単線・非電化・山岳区間を走る特急列車のために作られた気動車。「東北本線を120Km/hでぶっ飛ばした後、奥羽本線の板谷峠を無補機で登坂する」という、電車を超える性能を目指している時点ですでにおかしい。その為に、500馬力の大出力エンジンを1基積んでいる(キハ81系は180馬力のエンジンを2基搭載)。結論から言うとスペックとしてはおおむね達成できた(「しなの」は電車化の際183系では運転時分の短縮がほぼできない(=電化の意味がない)という理由から、新規に381系が開発された)が、エンジンの信頼性に問題があり(問題のほとんどはセットで開発された変速機が原因だが)一時期は失敗作扱い(ちなみに板谷峠も結局補機の応援を仰いでいる)され、製造数も国鉄形式としては少数派だった。しかしなんやかんやでJR化後もかなりの間生き残り、最後は己の性能を最大限発揮できる「はまかぜ」の運用を最後に2011年にその歴史に幕を閉じた。
- キハ391系気動車:国鉄が試作したガスタービン動力の高速試験気動車。運転台部分のみが持ち上げられ、先頭車と中間車との連結面側が宙に浮いているように見える独特な形状の車体。また国鉄の営業車では前例のない動力集中型でもあった。ガスタービン車の例に漏れず騒音と高燃費を克服できず試作車止まり。と、言うか日本の場合はレシプロディーゼルエンジン車(≒キハ181系)でガスタービンの領域に踏み込んじまったのが主因としか思えないが。
- キハ185系特急気動車:上記123系の特急気動車版として国鉄が製造した。軽量ステンレスを採用し、短編成も組めるよう、地域ニーズにマッチした仕様となった。そしてJR四国に引き継がれたのだが……。JR四国が高速バスに対抗するために後述する2000系を作ってしまったせいで、四国で本格的に活躍する前に追い出され、九州に移ることになった本末転倒な車両。だが、「A列車で行こう」に改造されるなどして第一線で走り続けているので、他の同様の車両よりは遥かにマシである。電車の185系ですらされなかった「国鉄特急型として唯一」の一般型格下げ改造されたのはともかくとして。
一般型気動車編
- キハ07 901:ガスタービン気動車の実証用の車両…なのだが、その実態は旧型気動車のキハ07に1000馬力超のガスタービンエンジンをぶち込み、キハ181の台車を履いたため車体高が妙に高くなったという○チガイ車両。立案したやつ絶対抹茶に紅茶ブチ込んで飲んでただろ! ちなみにキハ07は茶筒型の前面が特徴だが、この車体はどう見てもDD54です。本当にありがとうございました。
- キハ08系(初代キハ40系)気動車:『気動車は扱いやすいけど、数が足りないよね』→『だったら客車を気動車にすればいいじゃん。ちょうど余っている客車があるし』という発想で後述の60系客車にエンジンを取り付け、客車を気動車にでっちあげるいう前代未聞の魔改造を施された気動車。だが、車体重量と当時のエンジンの出力が釣り合わず(60系客車は物凄く重く、それに対しDMH17はたった180psしかなかった)、単行運転が出来ないため完全な失敗作扱いされてしまう。だが、JR化後、この発想は再び試みられ……(詳細はキハ141系の項を参照)。因みに最初はキハ40系を名乗っていたが、汎用気動車が使用することになったため、特殊なタイプであることを表すキハ08系に改番された。そのため、2代目キハ40は0番台が存在しない。
- キハ40系気動車:キハ10系、キハ20系といった初期型気動車置き換えのために登場した汎用気動車。全部で888両製造された(これ絶対狙っただろ)。
- 要求性能との乖離:だが、車両重量とエンジン出力のミスマッチという基本設計の欠陥により、置き換え対象のはずの車両と基本性能が同等以下(220psのDMF15では180psのDMH17系エンジンを1基搭載したキハ20系より名目上は20%出力向上しているが、車両重量も増加しているためほぼ差がない。DMH17を2基搭載したキハ52とは比較するまでもない)である。さらに通勤、近郊型車両にも進んでいた冷房についても「ローカル線に冷房は不要」ということで準備工事すらされていない有様であり、なんとか冷房化しようとした地方の鉄道管理局の関係者を絶望させたという話が伝わっている。1970年代後半になると事実上競合する形となる地方の路線バスでは路線用新車は冷房付きが当たり前の時代に入っており、実際最終増備車が落成した1982年夏には西日本では全車冷房化を達成したバス会社がぼつぼつ出現しているという状況にも係わらずである。これも国鉄の硬直的な体質の弊害の一つである。軽量ステンレスならこんな出力でも十分に問題ないのに。
- JR化後:だが、JR発足後は車齢が若かったことと、その頑丈な車体が逆に様々な改造にも耐えられるということもあって、高性能エンジンに交換して重量と出力のミスマッチを解消するのに合わせて冷房化も行い、使い勝手の良さが向上した結果、何のかんので多数が残っており、急行型や特急型、観光型への改造も多数存在する。
- ただし:こいつを欲しがる私鉄がいない時点で経済性はお察し。非電化私鉄の多くが経営難の中小私鉄であるため、独自開発に踏み切れたのは(つくばエクスプレス開業以前の)関東鉄道ぐらいで、あとはキハ10系・キハ20系を自社でも新製したり、中古車の譲渡を受けたりしていたが、キハ40系の譲渡例は現在に至るも会津鉄道の1両(AT-400形)と道南いさりび鉄道の6両のみ。
- などと思っていたら、ここに来てキハ40系の導入を決める事業者が出てきた。保有車の老朽化に伴う置き換えが焦眉の急だったり、輸送力増強のためにてっとり早く、安価で導入でき、保守などもノウハウが蓄積されているのが理由。
- キハ66系:国鉄が作った近郊用気動車。標準性を重視した国鉄には珍しく、2ドア転換クロスシート、冷房完備、440馬力の大出力エンジン搭載という急行型顔負けの破格の装備(実際、急行運用もこなしたことがある)。これだけ聞くと完全に名車なのだが、そのエンジンから爆音が奏でられるため(特に補助電源用は3000rpmとディーゼルエンジンとしては異様に高回転)、余りの五月蠅さに折角の車内設備が台無しになるほど。更に軸重が重いため、線路等級の低い路線には入線できない(重い機関車ではよくあることだが、気動車では珍しい)。とはいえ、その車内設備は前述の117系等に受け継がれている。
- キワ90:それまでは蒸気機関車で客車と貨車を牽引していたローカル線が無煙化で旅客列車がディーゼルカーになった際に問題になったのが貨物列車の扱い。貨物列車のためだけに機関車を用意するのがもったいないと思ったようで、「貨車が自走できればいいんじゃね。ついでに貨車も何両か引っ張って」という発想で試作された気動貨車。8mの二軸車にディーゼルエンジンを取り付ける形で2両が試作され、妻線で試験に供されたが、180psのエンジンでは二軸貨車2両を牽引するのが精一杯で、勾配区間ではノロノロになってしまいほとんど役立たずに終わってしまった。(代わりに製造されたDE10は出力1250psである)
客車部門
- 60系客車:木造車の安全上の問題が取り沙汰されたのは世界中同じで、第二次大戦後木造車の鋼製車への置き換え・木造車の淘汰がなされたのだが、実は日本が相当早い部類に入る。ドイツなどでは、それまで二軸・三軸の単車の客車(明治時代のアレ)がまだ残っており、それの台枠をそのまま三軸で鋼体化したり2台継いで鋼製ボギー車1台を作る、というものであった。しかも西ドイツが始めた頃、日本は翌年には終える見通しであった。
- 日本の場合、狭軌(本来不利)だったこともありマッチ箱客車どころかヨーロッパ式の客室構造の客車も1940年頃までには支線まで含め淘汰されており、木造と言えど幹線最高速度である95km/h運転の出来る機器を揃えた17~20m級のボギー車に全てなっていた(明治末年以降のそれは、ほぼアメリカ型である)。これをそのまま鋼製にするという手もあったが、標準化の観点から敢えて切り継ぎ、全て20m級に統一した。それでいて殆ど乗車定員が変動しない(17m級5両(座席定員計400名)の素材から20m級4両を作り座席定員計384名、長さは逆に5m詰まる)。
- 10系客車:1955年から製造を開始した、セミ・モノコック構造と鋼板プレス構造台車の採用でそれまでのス・マ級から一気にナ級まで軽量化された客車。特に勾配線区では従来型の客車3両分牽引定数で4両牽引が可能となるなど輸送力増強に貢献し、客車だけでなく以後の鉄道車両の設計に大きな影響を残した。が、あまりにも軽量化したことが仇になって老朽化も早く、代替車が少なかった寝台車以外は早期に淘汰されてしまった。この軽量化の度が過ぎて早期廃車というやらかしはJR発足後にも209系初期車などで繰り返されている。
- 50系客車:定期運用に持つことを前提に製造された最後の客車(JR化以降に製造された客車は全て臨時・観光用であり、本系列のような定期運用に充当することは念頭に置いていない)。1970年代後半という蒸気機関車も消えた時期に新造された。動力近代化・分散化を推し進めていたご時世に何で今更客車を新造しているのかと思う人もいるだろうが、国鉄の財政の悪化、労組の反対、貨物輸送の縮小に伴う機関車の余剰、通勤輸送での長大編成を組む必要性(気動車は製造コストが高いため、日中の運用に必要な分しか製造されていなかった)等が相まって、800両以上が製造された。実際、この車両が投入された地域は、ローカル運用は旧型客車ばかりであり、自動ドアがついていない、車齢が40年を超えているなど、設備の陳腐化、危険性などの理由で本形式の投入が必要だったのである。しかし、JRになると電車・気動車の大量導入に伴い余剰車が大量発生した。元々電車・気動車を投入するまでの繋ぎであったため、車齢が若いうちに大量に廃車された(一部は気動車に改造された。後述のキハ141系参照)。今なら海外譲渡されるところであるが、当時はそのような経路はなく、ほとんどの車両は解体されている。800両もあったのだから、海外に譲渡すれば海外の車両レベルも相当改善されたと思うのだが。
技術部門
- 車両規格:1,435mm標準軌よりも狭い1,067mm狭軌を採用しているために日本の車両規格は小さい……と、殆どの日本人が勘違いしている。その酷さたるや、学◯だとか小◯館の学習マンガにまで嘘八百が書いてある始末。全線拡大規格である新幹線の存在がそれを助長していたり……実は日本の所謂国鉄20m級規格は世界的に見てもデカい方。問答無用で日本よりデカいのは北米大陸ぐらい。後発の分鉄道網が発達する途上で大型化してしまえたのが理由。日本に慣れていると諸外国の車両がガニ股に見えるのはこの為。
- 特に車体幅については、国鉄はかなり広く取られており。583系の車体幅は2,950 mmであるが、標準軌を採用している私鉄にもこれだけの広幅車は存在しなかったりする。
- と思いきや、国際鉄道連合で決められた最も小さい車両限界すら幅3.15 m×高さ4.32 mと日本の幅3.00 m×高さ4.10 mを上回っている。と言いたいところだが、この国際鉄道連合、日本も発足時からの加盟国。実のところこれを意識して守っている国がないに等しく、有名無実化。増してやCOMECOM時代のソ連様式の車両が未だに闊歩している東欧をや……
- 確かに海外では車体幅は日本並みでも、全長は短くて22m級、長ければ26m級の車両がゴロゴロしてはいる。だが、日本は大幹線から末端ローカル線、挙句の果てには地下鉄まで同じ基準で建設されているところがおかしいのである。入り組んだ支線区は車両限界が小さいところなんぞ世界的には珍しくないし、地下鉄と地上の郊外路線の直通をやっていて、なおかつ地上線側に地下鉄側を合わせているのは世界的に見ても東京と、その東京のコピーであるソウルぐらい。
- 特に車体幅については、国鉄はかなり広く取られており。583系の車体幅は2,950 mmであるが、標準軌を採用している私鉄にもこれだけの広幅車は存在しなかったりする。
- 変態的な腕を誇る運転士達:戦前から日本の鉄道の運転士の運転技術は群を抜いていた。21世紀の現在においてもその腕は健在で、定刻より1分遅れたら遅延とカウントされる程(1分遅れを遅延とカウントされたら、大半の国の鉄道は遅延なしで運転できる運転士がいなくなる)。平均遅延時分はJR東日本の新幹線で、年平均で0.1分という驚異の数字を叩き出している(しかもこの遅れの大半は「冬季の在来線特急が降雪により遅延→特急同士の接続のため新幹線も遅延」という構図のためであり、新幹線そのものが原因で遅れるのはほぼ0。)……蒸気機関車時代の初期より現在の地下鉄まで、一定時間当たりに刻むジョイント音(10mレールなら36秒間、25mレールなら90秒間に刻む数が時速を表す)や距離標、風景などから速度を割り出す方法の訓練は一貫して在来線では行われている。戦時中、速度計の調達が工場の能力の限界から製造・整備とも追いつかず、内地外地問わず速度計にたよらない運転方法に切り替えたらむしろ定時運行できるようになったというほど彼らの速度感の精度は徹底している。
- 旧狩勝線:25‰の勾配に加え最小半径179mの曲線を含むヘアピンカーブと約1キロに及ぶ魔のトンネル(湧水で滑りやすく寒気には凍るオマケ付き)が存在するため国内路線の中でも自然条件と運転条件が厳しい難所。当初は9600形が用いられていたが事故や死者が出ており、初の労働争議が起きた。後に貨物量の増大でD51形が使われたが過酷な条件は変わらず、新狩勝トンネル開通に伴うルート変更で1966年で廃止になった。狩勝を経験した人は、どこの線区に行っても通用すると言われたし、事実、その通りだったとのエピソードが存在する。旧線は「狩勝実験線」として様々な鉄道技術の向上に活用された。
- 碓氷峠:日本の鉄道の登山技術の結晶。横川から軽井沢までは11.2kmあるが、この間の標高差は553mもあり、66.7‰もの急勾配がほぼ全区間に渡って連続する交通の難所である(‰は勾配の単位で、1000m進む間に1m登るのが1‰。66.7‰は1000m進む間に66.7‰登ることを表す。日本の幹線では10‰以下が基本で、20‰を超えたら急勾配)。明治になり、ここに鉄道を通すことが決まったが、余りの急勾配に当時の機関車では出力が足りず、ドイツのハルツ山で使っていたラックレールを使い、ようやく開通した。
- 窒息事故:開通後の問題点として、短い区間に18の橋梁と26のトンネルが連続するため、毎日のように起こった窒息事故がある。登り勾配で速度が出ず、煙が列車にまとわりつくのである。対策として、機関車煙突の延長、煙幕のトンネル出口への設置等なされたものの、抜本的対策ではなかった。抜本的対策として国鉄幹線で初の電化となったが、地理的制約から今日的な架空電車線電化ではなく、第三軌条方式と架空電車線方式の併用となった。非電化区間のトンネル同様断面は小さいまま(通常は架線のためにトンネルを削り断面を拡張する)、本線(中間の熊ノ平駅構内含む)では第三軌条方式、入れ替え作業があり第三軌条の設置が好ましくない横川・軽井沢両駅構内に限って架線方式となった。当然、電気機関車も集電靴とパンタグラフの両方を搭載している。(後に登場したユーロスターもフランスで架線集電、イギリス在来線で第三軌条集電していたが、国が違うこと、英領内高速新線開通までのつなぎ手段であったため存置された。)
- 慢性的な輸送量不足:急勾配区間のため、本務機(列車を牽引する機関車)の他に補機(勾配区間において列車の後部から列車を押し上げ、本務機を補助する)、更には専用の歯車付き緩急車が必要であるため、その分貨車や客車の連結両数は制限され、横川と軽井沢の両駅は常に滞貨が発生していた。石油は液体且つ上り貨物(降坂)のみの片荷であるため、この区間のみパイプラインで別送し貨車に再度積み込んで滞貨を減らした。
- 熊ノ平駅でのスイッチバック:後の粘着運転化まで単線だったため、列車交換のために熊ノ平駅ほか数箇所信号場も設けられていたが、狭い平坦部に押し込んだ駅のため、列車が長くなると、有効長が不足した。有効長を補うため駅前後に突込み線を作り、熊ノ平に進入した列車は前方の突っ込み線に前部を入れて停車。駅から発車するときも、後部突込み線を使って後退したのち発車と、運行自体が煩雑なものであった。スイッチバックを行う駅は数多くあるが、突込み線を幹線の駅構内の前後に設けて停車・発車とも全列車がスイッチバックで列車交換というのは、世界的に見ても珍しい(観光鉄道としては、黒部峡谷鉄道に類例がある)。
- 粘着運転への切り替え:その後、昭和6年(1931年)、長大トンネルである清水トンネルを擁する上越線が開通。東京~北陸輸送のかなりの部分が上越線に移行した。だがしかし、戦後、さらに輸送量が増加。元来小規模な観光鉄道で使われる前提のラックレール運転ではこれ以上の増強策もなく、開通後半世紀経ち施設が著しく老朽化もしていた。施設更新と輸送力増強のため粘着運転化・複線化工事が同時に進められた。手法・経路は3案あったが工事費用が最小となる、旧線横付けで66.7‰新線を敷く粘着運転が選択された。1963年粘着運転切り替え、次いで複線化された。この粘着新線の専用機関車として配備されたのが、EF63である。全重量108t、軸重18tと国鉄の中でも最も軸重の重い機関車となった。また信越本線全線の本務機は、同時に開発されたEF62である。EF63は全列車の坂下側に重連で付くため機関車列車の降坂時は、三重連となった。
- 横軽対応車:電車や客車側もこの区間を通過するために対策が取られた。あまり両数が長いと押し上げ時に脱線してしまうため連結両数は依然制約が課され、さらに車両構造についても、台枠・連結器の強化、空気ばねのパンク機能等が付加された。対策してもなお電車列車の両数制約があったためEF63との協調運転可能車両が開発された。これにより、電車12両編成が通過可能となった。協調運転車両は169系、189系、489系である。
- 新幹線の開通:時は流れ、貨物列車、客車列車の廃止に伴い、電車列車のみが通過するようになる。更に長野でオリンピックが行われることになり、北陸新幹線を着工することが決定。碓氷峠は通過旅客数は多いものの、ローカル利用が少ないことから廃止された。しかし、新幹線電車でも碓氷峠は難所である。需要の関係で軽井沢を迂回できないが、このルート故、30‰の急勾配が存在し、速度が落ちる(それまでの新幹線は基本15‰以下)。通過車両は基本的にE2系に限定された(現在E7系に移行)。後にE4系の対策車両が臨時で軽井沢に乗り入れたことがあるが、営業列車では立ち往生の恐れがあり、軽井沢への送り込みは回送(重量軽減のため)だった。今なお難所である。
- 板谷峠:碓氷峠の在来線廃止後、JR最難所となった33.3‰の急勾配区間。箱根登山鉄道や神戸電鉄に比べたら緩いが、急勾配特化車両ではなく、長距離・高速運転用車両の運行が必要で、赤岩~大沢の4駅連続でスイッチバックが連続した上、狭隘な板谷峠各駅のスイッチバックは独特の構造だった。大正機の4110の代替として戦後もE10形が製造されたが、間もなく碓氷峠同様窒息等の災害防止策として電化された。その後約20年間直流1500Vで飛び地電化区間であったが、東北各幹線が交流電化されだすと、接続が再度問題となり交流20kV/50Hzに電気方式を変更した。直流時代、交流時代も専用の強力機関車を必要とした(直流時代がEF16、EF64、交流時代がED78、EF71。電車も、25‰程度の勾配線でMT比1:1を目指したMT54主電動機搭載車でもギア比1:3.5の特急電車ではMT比2:1でないと入線できなかった。同等以上の性能を液体式気動車に要求したため故障が多発し、再度補機連結に戻るなどした(前述のキハ181系)。後にミニ新幹線化されるが(この時スイッチバックは廃止、駅は本線の急勾配上に移設)、後発の、比較的平坦な田沢湖線経由(秋田新幹線)の列車よりも高い電動車比を要求されている。
- 矢岳越え:九州の肥薩線の人吉駅から吉松駅の間にある。日本三大鉄道名所のひとつ(他は姨捨【篠ノ井線】と狩勝峠【根室本線旧線】)肥薩線が鹿児島本線の一部だった頃は輸送の隘路であり、この峠を越える為にループ線を作り、その途中の大畑駅にはスイッチバックを設けたほどの難所。ループ線やスイッチバックは山がちな日本各地に存在したが、ループ線の途中にスイッチバックが存在するのはここだけ。のち、海側の平坦な路線が新たな鹿児島本線として開通し、この区間は肥薩線と改称、ローカル線と化した。現在はいさぶろう・しんぺいが走る。
- 浜松工場:今でこそ新幹線電車専門になってしまったが、かつては国鉄時代の名古屋鉄道管理局の蒸気機関車の修繕を受け持ち、かつそのレベルは他工場から抜きん出ていた。通常、工場出場後の試運転後所属区へ帰るが、その後しばらくは軽負荷(普通列車やトン数の少ない貨物など)に充てるのが常道。ところが浜松持ちの機体は、次の日から特急や1200t貨物など全力運転する運用に充てて何ら問題がなかった。ロッド軸受を所定寸法で仕上げ、すり減るのを待っているのが他工場の習慣である(要するに慣らし運転)が、それを製造・整備の時点で予め人為的に作ってしまうのが浜松流だった。但しこれには当時の純アナログ式の旋盤・フライス盤を0.05mm(仕上がりで。当然、途中の操作は数段細かい)のテーパー仕上げ(主連棒のビッグエンドの内側と外側が0.05mm径が違う)に使うとか常人離れした技量が要り、他工場では参考にしようとするもあえなく退散している。(今でもCNC旋盤とか、高度な機械を使う必要があることをなんでここの人らは手作業の調整だけでやってたんだ)また受け持っている先の機関区は名古屋・稲沢・中津川など、極端な運転条件を抱えた部署が多くあった。
- C62蒸気機関車17号機:その浜松工場の技術力の結果のひとつが、C62 17号機が1954年に記録した、狭軌における蒸気機関車の世界最高速度記録129km/hである(現在も破られていない)。 ただ、この速度試験は名目上明治時代に架設された当時の東海道本線木曽川橋梁が電化に伴う速度向上に橋梁が耐えられるかどうかを調べるためというものである。そのせいかなのかどうなのかは知らないが、この速度試験の4年後に新しい橋に掛けかえられている
- ただ、話によると「C62はもっと出せる。俺はいつも140km/hまで出していた」とか言ってた機関士がいるとか……ちなみに本来の制限速度は95km/h。実際、まだまだC62に余力はあり、橋を超えてそのまま走らせていたら140kmを超え150㎞は出た
- さらに戦時中、特に昭和19年ころの機関士は最後にどれだけスピードが出せるかをやっており、その程度で騒ぐな、客車を引っ張ってもそれくらい出せるとの反応も少なくなかった
- 鉄道関係者の他に報道記者もC62に同乗していた。運転室が立ち乗りで満員になるとテンダに乗った。さすがに100kmを超えると振動と騒音で降りたらしい。
- 但し、狭軌蒸気機関車世界最高記録の候補はC62以外にもゴロゴロ居たのも事実であり、狭軌最大の1829mm動輪と2019mmの大径ボイラーを備えた南アフリカ16E形は350tの列車を牽いて136.8km/hを発揮したといわれ、また、試験走行では156.1km/hに達したともされている。
- なお、16E形の記録は出所が怪しく同じ南アフリカの26型が狭軌最速とされる主張も存在し、この説によると、92マイル(約148km/h)から82マイル(約132km/h)に達したとされているが、正確な記録は「26型は、1991年に21両の総重量約870トンの客車を牽いて下り坂で時速125キロ(時速77.5マイル)を記録し、南アフリカ史上最速の速度を記録した」と書かれている。
- C62蒸気機関車17号機:その浜松工場の技術力の結果のひとつが、C62 17号機が1954年に記録した、狭軌における蒸気機関車の世界最高速度記録129km/hである(現在も破られていない)。 ただ、この速度試験は名目上明治時代に架設された当時の東海道本線木曽川橋梁が電化に伴う速度向上に橋梁が耐えられるかどうかを調べるためというものである。そのせいかなのかどうなのかは知らないが、この速度試験の4年後に新しい橋に掛けかえられている
- 粘着率が低すぎる蒸気機関車:単式二気筒の蒸気機関車は世界的に、粘着率(動輪上重量を牽引力で割った数値)を4~5以上にするのが一般的であったが、地盤が弱い割に輸送量が多い日本では粘着重量の割にシリンダ牽引力が高く設定されており、平均的な粘着率は3.5程度しか無かった。このため名機と評されるD51形においても3.4という粘着率が災いし空転が頻発しており、空転が少ないとされた前代機のD50形も3.6程度である。軸重13tの軽2-6-2機C58では12,870tという高い牽引力を設定したために粘着率は3.2しかなく、加減弁を開けば空転することが当たり前であったと運転士が語っている。但し、大正生まれの名機8620は粘着率が日本機では異常に高く4.5に設定されている。この設計により空転のしにくさが人気となり、運転士からは「絶対に空転しない機関車」と厚い信頼を得ていた。が、粘着率が低すぎる蒸気機関車は、8620を始めとする先輩機が勾配区間で残した命の教訓でもあったりする。と言うのも勾配線では粘着力が高くともシリンダ牽引力が低いと空転せずに自然停車する様な状態だった。C58やD51の世代は、粘着率が低いがそれだけシリンダ力が強く設計され、自然に止まらないようになっている。そのため、「絶対に空転しないものの勾配で止まる」8620よりも「空転しやすいが勾配で止まらない」C58が現場の人員や利用者に喜ばれたりもした。
- 連結器総取り換え:明治から大正にかけて、日本の鉄道の連結器はヨーロッパ大陸で使われているねじ式であった。これは連結器にオスとメス(ねじとバックアップとしてのリンク)がある(日本独自の時短マニュアルで強度引き上げが出来なかったせいでもあるが、ヨーロッパなどでは片方の1本の連結器ネジを使うだけでもう片方は引っ掛けない。後述のマニュアルの差異から持ち上げるのに多少重くても頑丈なネジを使えることから、連結器にオスメスの区別がないため)ため、向きによっては連結することが出来ず、方向転換もしくは連結器の前後交換をする必要があった。加えて、あたかも既に自動連結器を使っているかのように短時間で連結しようとする日本流の連結作業は危険であり(車両同士が接近して緩衝器同士がぶつかった瞬間、屈んで待ち構えていた連結手がねじを反対側に掛けて締める:コレ自体が実は埒外で、諸外国では突放をすべて終えて入換機と車輪止めで車両が動かぬよう押さえてから連結手(作業員)が中に入って中間を繋いでいく)、特に狭軌の日本では連結手の死傷事故が絶えなかった(連結手として在職する1800人から、年間500人超の死傷者が発生、しかも殆どが死亡。当然ながらヨーロッパでは上述の「最後に纏めて締めていく」マニュアルが厳守されているため、このような死傷事故はなく、問題になるのは山岳地帯などでの連結器の牽引強度のみで、軽い客車列車の機回しでは機関士自身が連結手を兼務することも普通である)。
- 離れ業:そこで、アメリカで使われている自動連結器(ぶつかっただけで連結出来る)に取り換えることになったのだが、機関車客車貨車併せて5万両10万個分の連結器を僅か1日で交換してしまった(しかも、貨車の運用が複雑であるために貨物業務は24時間運休しての一斉取り換え(機関車と客車(特に中間連結部)は数が少なく運用が決まっているため、検査等で車庫に入場した際に合わせて取り換え)という離れ業である。通常はオーストラリア・ロシア・タイなど自連に取り替えた他の国のように、こういったプロジェクトは実行段階自体に数年のスパンをかけて行い、決行が実質1日ということはない(ただし、タイは結構日本と同じことをやらかしたようではある)。なお、基本的に所属駅のない貨車の連結器取替は車両基地などに交換用連結器を用意するのではなく、数年前からその貨車の床下に交換用連結器をぶら下げておく形で、その貨車がどこにいても交換可能な形にしていた。
- 鉄道連絡船:日本の鉄道のダイヤは厳格で遅れが少ないことで有名だが、鉄道は海を渡れないので代わりに連絡船を運航していた。そこまではいいのだが、なぜか連絡船にまで定時運航と高運航率を求めたため、いろいろとぶっ飛んだ船たちが生まれたのである。また、戦時中は無灯火高頻度夜間航行なんて危なっかしいこともしでかしていた。
- 金剛丸型関釜連絡船:満州事変後の関釜連絡船の需要増加対策として1936年に三菱長崎造船所で建造された7000トン級の貨客船。金剛丸と興安丸の2隻が存在。当時の日本の商船で最速を誇る23.19ノットを記録し、また経済速力20ノットは戦前の日本の艦船の中で最速である。(世界全体で見るとクイーン・メリーなど金剛丸型より速い船は存在する。)一般的には豪華客船とされるが、その正体は一人でも多くの乗客を乗せる為、客室スペースを限りなく広げた詰め込み型の船である。そのため、発電機も仕方なく小さい交流用のものにし、世界で初めての船内電源が交流の商船となった。ところが、交流化が功をなし、航行速度が上がったのに燃料の使用量が従来の半分になったため、航続距離を計算したところ、なんと8500海里もあることが発覚。また、より多くの客を詰め込むためため本来は暑すぎて客室にならないようなところまで3等客室にする必要が出てきたため、船内に日本の船舶初のエアコンを装備した。その結果、利用者からは「従来船の1等より金剛の2等、従来の2等より金剛の3等」と、等級を下げてでも金剛丸型の方が快適であるという声が多数出るようになった。また、数々の新機軸を詰め込んで成功した優秀船であるため、同業の日本郵船どころか海軍までもが羨む船となった。実際に、海軍の中にはこの2隻を改造して鳳翔型航空母艦にする計画もあったが、関釜連絡船の重要性から陸軍に全力で阻止された。ちなみにこの船(と同等の船)が欲しいがために海軍が優秀船舶建造助成施設を制定したという学説まである。こんな高性能な船ではあるが、燃料は石炭である。燃料は石炭である。これは、石炭は北九州や朝鮮半島でも取れるが石油はそうではない、という、本業でなかろうと確実に鉄道省は英国の直弟子である、ということがよくわかる理由に起因している。前述のとおり、徴用には陸軍が猛反対したため、2隻揃って太平洋戦争を生き延びた幸運船でもあり、戦後は引き揚げ船としても活躍。興安丸の方は引き揚げ船としての方が著名である。また朝鮮戦争時にはその性能の高さから徴用され、国連軍の輸送艦として活躍。その後、海上自衛隊により再度航空母艦への改造計画が出るも、結局うやむやになった。姉の金剛丸は1953年に座礁、その場で解体され、鐘と船銘板が鉄道博物館に残っている。妹の興安丸は引き揚げ終了後、インドネシアでイスラム巡礼船として活躍、1970年に極めて強い保存活動があったものの解体された。なお余談ではあるが、金剛丸型の増強としてさらに大型化された天山丸型2隻(天山丸・崑崙丸)が1942~43年にかけて就航したが、崑崙丸は就航後約半年の1943年10月5日、米国潜水艦(ワフー)による雷撃で撃沈され、天山丸も航路休止後の1945年7月28日に、米軍艦載機によるロケット弾攻撃で大破・炎上、2日後の30日に曳航中に浸水・沈没してしまい、2隻とも生きて終戦を迎えることは出来なかった。
- W型戦時標準船:運輸通信省が海軍省を半ば脅して建造許可をぶんどった戦時標準船。タービン2機、速力15ノットと、内航向け戦時標準船の割にはかなりのハイスペックで、戦後対ソ用に米軍が青函航路にLSTを配備した際、その積載力・速力・安定性全てにおいてW型戦時標準船の方が高かったためW型を新造してLSTを置き換えたという逸話を持つ。その後もボイラーと煙突を増やしたり、甲板上に旅客設備を増築して旅客営業をしてみたり、日本の商船としてはじめてレーダーをつけてみたり、戦時標準船特有の単底を二重底に張りなおしたり、洞爺丸台風後は船尾に水密扉をつけてみたりと大小さまざまな改造を受け続け、例えば竣工時2850総トンだった二番船・第六青函丸は最終的に5700総トンになった。また、国鉄にお金がなかったため洞爺丸台風で沈んだW型船を船体を新造して運用復帰なんてこともしつつ、1970年まで運航されていた。なお、強引に話を通した腹いせか、一番船・第五青函丸は海軍が勝手に設計を変更し、軽すぎて貨車を積み込むと転覆する状態になってしまったため、国鉄は受け取りを一度拒否する事態になっていた。(最終的に相模川で採取した砂利を、大量に積載して重心を下げたと言われる)
- 青函連絡船の二階式貨車航送船計画:1970年、青函トンネルを新幹線用で建設することになり、「じゃあ貨物どうすんの?」というまともな疑問、そして増え続ける需要から生まれた、いろいろぶっ飛んだ新造船計画。まず、貨車の搭載数を増やすため、車両甲板は二階立て。積み込みどうすんだよ。また、青森・函館・有川の各岸壁の構造上、全長150メートル・幅20メートル以上の大型船は物理的に着岸できなかったのだが、全ての岸壁が左舷接岸だった。そこで、「岸壁と平行に着岸する必要無くね?」という意味不明な発想から、岸壁に対して10度傾けて大型船を接岸させることに。その結果単胴船のくせに「船体が」左右非対称に。空母とかも左右非対称なものもいるが、流石に喫水の辺りは左右対称である。だがこいつは喫水の下も左右非対称。お前絶対紅茶をルーがわりに煮詰めて作ったカレー食ってたついでにビールもしこたま入れただろ。この計画はオイルショックで無くなったが、オイルショック無かったら本気で作ろうとしていたんだから恐ろしい……。そしてオイルショックで新幹線計画を凍結、青函トンネルを貨客両用とし、連絡船を廃航した結果、北海道新幹線開業時に大きな時限爆弾を残すことになった。
- 新幹線:日本の鉄道の集大成にして鉄道斜陽論を吹っ飛ばした鉄道中興の祖。新幹線の成功は海外での高速鉄道の建設を呼び起こすことになる。だが、そこは日本、他の国とは色々違う。
- 動力分散方式:他の国とは違い、最初から電車方式に拘っている。これは島秀雄が電車に拘ったからであるが、輸送の逼迫していた東海道本線の線増計画の側面があったためでもある。結果開業当初残っていた並行区間の急行などが事故で新幹線振替になると、むしろ客は早着したという理解しがたい事象が起きた。
- 全線専用軌道で踏切ゼロ:高速走行を安全に行う為、踏切は存在しない(車庫への出入りやミニ新幹線を除く)。更に、軌道に進入しただけで即罰せられる。この線路規格のお陰で、踏切事故の心配をする必要がない。
- 通勤電車並みの過密ダイヤ:特に東海道新幹線及び東北新幹線東京~大宮間は凄まじく、1時間に15本の列車が最短3分で走り抜ける。他所の国の高速鉄道は大体1時間に1~2本程度であるため、その本数の凄さが分かるであろう。しかも東海道新幹線のN700系は起動加速度自体が在来線の通勤電車とほとんど同じ。
運用部門
- 超特急燕:日本屈指の名列車。昭和9年に運行を開始した。東京大阪間を8時間20分、東京神戸間を9時間で結ぶために異常なまでの労力が注ぎ込まれた。
- 水槽車の連結:国府津から名古屋まで300km無停車運転を行うことになったが、こんなに長い距離を走り続けるためには、炭水車だけでは水が不足してしまう。そこで、炭水車の次位に水槽車を連結することで、水不足を解消しようとした。のだが、この水槽車と機関車本隊の炭水車は「サイホン管によって接続され重力によって自然に給水される」という仕組みなのだが、結果として前後方向に長大な1つの水タンクという構造になった結果、ゆるい上り勾配でも水が水槽車に移動して給水不可能になるという欠点が営業運転を開始してから明るみに出た。結果、静岡駅に停車して30秒で2トンの給水を行う事となり、水槽車連結は早々に中止され、水利の悪い機関区の輸送・貯水車として転用された。
- 因みに、線路の横に溝を掘ってそこに水を流し、走りながら給水する方法(ウォータースクープ式という)も考えられた。実現しなかったが、イギリスでは普通に使われていた。但し、これも水を思いきりまき散らすため、どのみちネタにされたことは確定である。
- 走行中の乗務員交代:前述のとおり国府津~名古屋間300km無停車運転を行うのだが、これだけの距離を乗務するのは無理がある。その為機関士、機関助士ともに途中で交代するのだが、国府津で交代しても大して意味がなく、中間の静岡付近(安倍川橋梁付近;後年の電車特急「こだま」まで踏襲された)で交代する必要がある。だが、その為に駅に停車させては9時間で走れない。そこで、走行中に交代するが、後年の「こだま」や近鉄特急等電車とは異なり待機場所が客車しか無いため、走行中の水槽車と炭水車を伝って機関車運転台に入るという無茶をやっていた。フロントデッキやテンダーに乗せてもらって移動することも珍しくない、安全に対する意識の低い当時ならではのことで、現代ではとても許されないであろう。イギリスだって幌までついた貫通路付きテンダを使ったというのに。
- 補機30秒連結:燕が走り始めた時、国府津から先の沼津までは現在の御殿場線経由であり、25‰の急勾配が連続していた。その為、補機をどうしても連結する必要があったのだが、燕はなんと30秒で行っていた(普通は補機連結の際には数分停車する)。これがどれだけ凄いかというと、通勤電車の通常の停車時間で他の列車を連結するということだと言えば、そのぶっ飛び具合がお分かりいただけるだろうか。ちなみに、繋ぐのは連結器本体だけで、ブレーキ管その他は一切繋いでいない。
- 走行解放:『燕』に限ったことではないが、旧東海道本線(御殿場線)の優等列車は補機解結に最適な主要駅が付近にないという理由で、御殿場駅の構内で停車せず行っていた。ネジ式連結器の時代は、車掌が客車側の最後尾でリンクを外すという危なっかしい方法が取られていた(この瞬間は、補助機関車は列車よりわずかに加速してリンクにかかる荷重を抜かなければならない。つまり一歩間違えば客車に突っ込む)。しかし自動連結器の時代になると、機関車側の解放テコに空気圧で動作する自動解錠装置が取り付けられ、それまでよりは安全に解放ができるようになった……と、ここまで書けばピンときた人は多いだろうが『燕』の運転以前から箱根越えをする優等列車はブレーキ管など繋いでいなかったのである。やがて丹那トンネルが開通、こんな無茶な箱根越えの日常はなくなった……
- と思ったか?:実は走行解放がJR線上から消したのは平成の世の2002年!! どういうことかと言うと、「西の箱根」こと山陽本線瀬野-八本松間(通称瀬野八)でもやっていたためである。そしてなんと、名前を受け継いだ新大阪-博多間の151系特急「つばめ」もMT46形式では出力不足ということで上りは補機付きとなり、走行解放をやっていた。後に旅客列車はEF60形500番台が愉快なことになった後EF65の登場でほぼ解消されるが、貨物はEF66の時代になっても続いた。しかしご安心あれ、キハ181系で開発された電気連結器付密着自動連結器の登場により、空気ブレーキの代わりに電気指令式の保安ブレーキが装備された。それでも安全性の観点から問題となりEF200の限流値設定を解消する工事が行われたが完成とほぼ同時にEF200は廃車されるというわけのわからん話になった。EF66、EF210牽引の貨物列車は現在も補機を連結しているが、現在は八本松駅に停車して解放している。
- 電化区間なのに蒸気機関車がけん引:戦前の日本の鉄道は電化区間はごく少数であったが、東海道本線はその極少ない電化区間であった。ところが、燕は機関車付け替えの時間さえも惜しんだため、蒸気機関車が東京駅から牽引した。東京から国府津までは約80㎞あり、これほど長い電化区間を蒸気機関車がけん引するというのは物凄く珍しい。後の「架線下ディーゼル」それも末端のほんの数十キロのために運転区間の過半、数百キロ単位で電化区間を延々走り続ける気動車列車の布石だったのかもしれない。
- C51形とC53形:その東京発車時の本務牽引機はC51形が努めた。この当時3シリンダの強力機C53形がすでに登場しており、同じ特急でも「富士」や「櫻」の牽引はこちらが担当していた。しかし、C53形は設計上の欠陥により起動不可能になったり潤滑不足による同軸焼付が多発していたため、「燕」の牽引にあたっては8620形のスケールアップ版として無難なC51形が本務機を務めることになった。一方、箱根越えの補機にC53形を採用した。箱根越えはかつては専用のマレー式機関車、その後純国産時代に入ると速度は出ないが牽引力の強い貨物用機関車が担当することになり、この当時はD50形が担当していたが、「燕」では箱根越えも高速が出せるC53形に担当させたのである。
- 水槽車の連結:国府津から名古屋まで300km無停車運転を行うことになったが、こんなに長い距離を走り続けるためには、炭水車だけでは水が不足してしまう。そこで、炭水車の次位に水槽車を連結することで、水不足を解消しようとした。のだが、この水槽車と機関車本隊の炭水車は「サイホン管によって接続され重力によって自然に給水される」という仕組みなのだが、結果として前後方向に長大な1つの水タンクという構造になった結果、ゆるい上り勾配でも水が水槽車に移動して給水不可能になるという欠点が営業運転を開始してから明るみに出た。結果、静岡駅に停車して30秒で2トンの給水を行う事となり、水槽車連結は早々に中止され、水利の悪い機関区の輸送・貯水車として転用された。
- 異種車両連結:上記の碓氷峠や板谷峠に限らず、日本には機関車が電車や気動車を牽引する運用が数多く見られた。但しこれらは急勾配での補機を除き大半が電化の進展や本格的な改善が施されるまでの特殊な運用であり、大半が数年で解消している。
- 長野原線(現・吾妻線)での蒸気機関車牽引の80系準急。しかも電化区間内では新性能電車の153系と併結していたというおまけ付き。
- 房総西線(現・内房線)でのディーゼル機関車(DD13)牽引の153系準急。
- 機関車+客車+気動車:機関車が客車を牽引するのはごく普通のことであるが、その後ろに気動車をも連結するという珍編成。盛岡発の東北本線・花輪線の539列車で一時期見られた。何故こんな珍編成が生まれたのかというと、線路容量の関係で、一つの列車に纏める必要があった為。
- 電蒸運転:導入当初の電気機関車は信頼性に問題があったため、後ろに蒸気機関車を連結して運転した。…………というのは真っ赤なデマ。実際には国鉄の財政赤字がひどく、旧型客車に暖房用蒸気を送る暖房車の調達が間に合わないため、電気機関車の導入で余剰になった蒸気機関車を暖房車代用として連結して走った。しかしこれをやった交流電気機関車は実際整流回路の安定性が悪くよく起動不能になったため、そのまま暖房車代用の蒸気機関車が本務機に転じて難を乗り切るというようなことが度々発生。先の都市伝説の原因となった。
- 151系の九州乗り入れ:九州は交流電化であるが、交直流電車481系の製造が、運用開始に間に合わず、それまでの繋ぎとして、151系を交流電気機関車で牽引し、サヤ420をサービス電源供給車(151系のMGへ直流1500Vを給電)として機関車の次位に連結するという運転が行われた。電化されているにも拘らず、供給方式に対応出来ないため、電車が自力走行出来ず、電気機関車に牽引されたという稀有な例である。481系の登場に伴い、この珍運用は1年で解消された。なお、サヤ420は421系の電動車に改造されているが、この改造は当初から予定されていたものである。
- 多層建て列車:複数の行き先の列車を連結し、途中で切り離す運用のこと。本線は輸送量が多く、短編成の列車が走ると、運用上邪魔となるので、そのような列車を集め、長編成化することで、輸送力を確保する。ところが、国鉄の多層建て列車は複雑怪奇であり、利用者からすれば分かりにくいことこの上なかった(あまりにネタが多過ぎて、それを殺人事件小説シリーズの犯人のトリックにする作家がいる程)。そのようなことが出来たのは、急行型気動車キハ58が、分割併合が容易な設計であったためであるのだが...。
- 急行さんべ:通称再婚列車。長門市で分割されて美祢線経由、山陰本線経由の二つに分かれて走り、下関で再び併結する。
- 急行みちのく・陸中:四階建て列車。一つの列車が四つの行き先に分離するという、日本の多層建て列車の頂点。みちのくが鳴子・青森行き、陸中が盛・宮古行きである。
- 複雑怪奇な運用:上野駅を出発した両列車は、常磐線を経由して仙台を経由した後、東北本線に入る。そして小牛田から陸羽東線を通って鳴子へ、一ノ関から気仙沼線を通って盛へ、花巻から釜石線、釜石から山田線を通って宮古へ至り、残った車両は青森へ向かう。しかも、青森へ向かう車両もその後盛岡で久慈行きと大鰐行きを併結する、と、最早客がプロであることを前提にした運用である。
- その後:流石に複雑過ぎると国鉄も反省したのか、三階建て列車に格下げ(?)となったが……。三階建てでも十分複雑である。
- 急行かむい、ましけ、るもい:深川駅で複雑な運用を行っていた急行列車。まず深川駅に札幌方面から来たかむいとましけが到着し、後側に連結された留萌本線に直通するましけを切り離す。その上で、留萌から留萌本線を走ってきたるもいを、かむいの前に連結する。そして、るもいを連結したかむいが旭川に、後ろに切り離されたましけが増毛へ向かう。
- 貫通幌・ジャンパ連結器の運用:こうした多層建て列車の場合、列車(車両)間を繋ぐ貫通幌やジャンパ連結器(電気ケーブル)の運用も重要である。国鉄の一般形・急行型気動車を連結する場合、例えば貫通幌があるもの同士では接続が出来ない制約があり、当然無ければ当該箇所の行き来は出来ない。ジャンパ連結器も同様であり、不足すれば列車の運転自体に支障する。また、運行経路によっては列車の向き自体が逆転することも少なくない。そのため、どこかの駅で列車を分割する際に、どちらの車に幌やジャンパを残すか、また連結する際に不足するジャンパを、どこの運転室に予め積んでおくかなど、運行に際しての運用や手順が、細かく決められているのである。
- つうかそもそも貫通幌の規格:鉄道院末期に制定された片持ち式幌が延々と使われることになった。実は国鉄は何度か新企画化を試みており、初代ブルートレイン20系や、80系電車、キハ80系初期車では全く新しい貫通幌を試みているがうまく行かなかった理由はだいたい桜木町事故と北陸トンネル列車火災事故のせいで説明がつく。というのも、戦前期の“電車”には車両間の貫通幌がないのが普通で、例外的に関西私鉄とそれに対抗する大阪鉄道管理局の国電のみ貫通幌をつけていた(JR西日本が非貫通編成での運用を由としないのはこのあたりが源流)。80系電車で初めて形式として新設計の貫通幌を採用したものの、その直後の当該事故により電車に貫通路がないことが問題となり、大急ぎで整備するため80系のものではなく、一般型客車用のストック品を使い回すことになり、結局101系以降の新性能電車群、旧型車との併結がある程度念頭に入った12系・14系・50系客車、更にその14系の集中電源化バージョンである24系客車へと使い倒すことに。もっとも無駄ではなかったようで、583系の前面貫通幌はJR西日本になってから初めて使ったり、583系臨時列車の普通座席居住性改善のために485系の電動車ユニットをブチ込んでみたりできた。ただ、まったく一般車・急行形と隔絶されていた特急形気動車群ではなぜ標準型幌を採用し続けたか謎。まぁ、これもJR四国がやらかしちゃいるんだが……そして当然、この幌はまだ現役で使われている(2019年9月現在)。
- 貫通幌・ジャンパ連結器の運用:こうした多層建て列車の場合、列車(車両)間を繋ぐ貫通幌やジャンパ連結器(電気ケーブル)の運用も重要である。国鉄の一般形・急行型気動車を連結する場合、例えば貫通幌があるもの同士では接続が出来ない制約があり、当然無ければ当該箇所の行き来は出来ない。ジャンパ連結器も同様であり、不足すれば列車の運転自体に支障する。また、運行経路によっては列車の向き自体が逆転することも少なくない。そのため、どこかの駅で列車を分割する際に、どちらの車に幌やジャンパを残すか、また連結する際に不足するジャンパを、どこの運転室に予め積んでおくかなど、運行に際しての運用や手順が、細かく決められているのである。
- 捻じれ追い抜き:同種または下位種別の列車が上位種別の列車を追い抜くことは、日本の鉄道では良く見られた。現在はほとんど解消されているが、後述する新快速のように、未だに続けているものも存在する。
- 急行くりこま:急行を追い抜く急行列車。くりこまのうち、上り6号は、先述の急行陸中を、速度の違う電車(455系)と気動車(キハ58系)という違いもあって、途中で追い抜いていた。急行列車は速達性を売りにするが故に特別料金を取るというのが建前であり、特急列車に抜かれることはあっても、同じ急行列車に抜かれるというのは前代未聞の事であった。なお、この急行くりこまは、評定速度が国鉄の全急行列車の中で、札幌~旭川間のノンストップ急行「さちかぜ」に次ぐ2位であり、さちかぜが特急に格上げされた後はトップの座に君臨した。
JRグループ部門
機関車部門
- EF200形電気機関車(JR貨物):変電所殺し再び。 それまでの1300t列車(コンテナ車26両)を1600t(32両)に増強するために制作した機関車であったが、線路や変電所を有する旅客鉄道会社との調整も頓挫し、出力カットで運用する羽目になってしまい、2019年3月に運用終了。ちなみにローレル賞受賞車。
- EF500形電気機関車(JR貨物):EF200とは兄弟機(新製時期がEF200とほぼ同時期)にあたるが、コチラも変電所殺しぶりを発揮した上に、インバータから発せられる高調波対策に手こずった結果、なんだかんだ量産されたEF200とは違ってこちらは量産されずに2年ほど試験運用の後、保留車となり2002年に廃車された。現在はJR貨物広島車両所にて保管されており、同運転所開催されるイベント等で展示されている。
- ED500形電気機関車(日立製作所):1992年にJR貨物向けとして日立製作所が設計・提案したとされる交直流電気機関車。顔形状はEF200と同じであるが車体の長さは形式が示す通り、台車が2(車輪数4=D)で外部塗色はブラック系メタリック、運転室側扉は赤色、床下機器は黒色となっている。1994年末頃まで主に試験運用に使われたが、結局量産されずに一部機器を取り外した上で日立製作所水戸工場に保管されたのち解体された。因みにこれ以後、日立製作所は電気機関車自体を製造していない。
- EH500形電気機関車:EH10以来、JR貨物が久し振りに製造した8軸機関車。その理由が、ED75の重連より、EH500単機の方が線路使用料をケチれるという分割民営化の負の側面を皮肉るもの。
- DF200形ディーゼル機関車:JR貨物が久々に新製した貨物用ディーゼル機関車。駆動方式にはなんと日本の従来の主流方式である液体式ではなく、長らく敬遠されてきた電気式を用いている。電気式は出力特性は液体式より上であるが、機構が複雑で重量もかさむため、軸重の問題から長らく日本では採用がなかった。しかし、技術の進歩に伴い電車・電気機関車と部品を共通化できること、ハイブリッドタイプの導入がしやすいことから、近年は日本の気動車、ディーゼル機関車でも採用が広がりつつある。
- EF510形電気機関車(JR貨物):試行錯誤の末に、EF210をベースに量産された交直両用機関車。置き換え対象となったEF81同様基本的に標準的な電化路線ではどこでも走れるようになっている。
- 500番台車(JR東日本):「北斗星」「カシオペア」などの東北・北海道方面のブルトレ牽引に使用されていたEF81の置き換え用として製造されたもので、カラーリングを変えた上で客車列車牽引や上野駅での推進運転対応の機器を追加する形で製造された。ここまではいいのだが、そのブルトレが廃止された後に、その段階で工臨列車などの牽引用としてJR東日本に残存していたEF81すべてを置き換えることができるにもかかわらず、全車JR貨物に売却されている。JR東日本としては車齢の若いうちにJR貨物に高く売ることができ、JR貨物としてもすでに保有している機関車と同一のものを新造するより安く手に入れることができるという双方の思惑が一致した結果である。まあ、元からこうなること前提だったそうではあるが。
電車部門
特急電車編
- 253系電車(JR東日本):成田空港に向かうN'EX専用車両。広いドアや荷物置き場と空港客を意識するのはよいのだが、座席がなんとボックスシート。あの、日本の特急で最後にボックスシートが採用されたのっていつでしたっけ?しかもA特急料金というぼったくり価格。(戦後ではボックスシートの特急は583系の昼行運用を別にすれば、急行型の153系による代走こだま(通称かえだま)やキハ56系による代用北斗(キハ82系の製造が間に合わず、落成まで代走した)等を除き例がなく、これら代走でさえサービスダウンということで特急料金は割り引かれた)散々酷評された185系でさえ転換クロスシートだったのに……。
- E351系電車(JR東日本):制御付き振り子式台車により曲線通過速度本則+40km/h、高速回転型モーターにより最高速度160km/hという"全部入り"を狙ったが、(最高速度に関してはどちらかと言えば中央東線という環境的な要因が大きいものの)尽く失敗してしまったある意味JR東日本版APTと言えるかもしれない車両。
- スーパー雷鳥:北陸本線の新型特急サンダーバード用681系が出揃うまでの繋ぎとして、既存の485系をJR西日本が改造し、誕生した特急列車。白地に2本の帯を巻いて装いを新たにしている上、パノラマグリーン車を組み込んでいるため、見た目は完全に別形式である。しかも、最高速度130km/hのおまけつき。が、その内実はというと、そのパノラマグリーン車は中間グリーン車から、2両目のグリーン車は食堂車から改造した(車両の前後で高さが違う窓配置に種車の面影が残っている)継ぎ接ぎ編成。サンダーバードの増加に伴い、余剰が生じて順次廃車された。
- 783系特急電車:JR九州が初めて開発した車両。ドアが真ん中に1箇所という、これまでの日本の鉄道車両の常識を真正面からぶち破った車両。特急型車両は静粛性第一という観点から端に設けるのがこれまでの常識だったのだが、新生JRが国鉄から決別したというインパクトを強く出すこと、車内を2つに仕切って細かいニーズに応えられるという、話題性実用性の両面からこのような車両が登場した……
- だと思ったか?:実はこの発想、国鉄時代の焼き直し。オロハネ10形というA・B寝台合造車がとったレイアウトである。ちなみにこのあとの20系客車が登場するまでは特急形という概念は存在していない(「富士」や「さくら」など“名門特急”には専用の客車が用意されたが、それ以外はそれなりの状態の客車をそのまま特急にも使っていた)。
- さらなる焼き直し:783系の多方面進出に伴いまず分割併合用の制御車が必要ということで流線型のスピード感あふれるハイパーサルーンのイメージを根底からぶち壊す切妻貫通構造のビックリドッキリ魔改造が執行される。しかも中間車からの改造だけならまだしも、非貫通型制御車をわざわざ貫通型に改造してみたり。
- 非電化路線への直通:当時非電化だった豊肥本線の水前寺まで乗り入れる際には、DE10形ディーゼル機関車に牽引された。この時、車掌車のヨ8000と共に専用塗装が施された。非電化区間に直通する電車をディーゼル機関車が牽引することは珍しくないが、専用塗装を纏うのは異例であり、JR九州のこの車両にかける期待の高さが伝わってくる(実際、ハイパーサルーンばかりか、既存の485系「有明」の乗車数までもが向上した)。その後、乗り入れは一度中止されたが、豊肥本線の電化に伴い復活した(九州新幹線熊本ルート開業に伴い終了)。
- 285系:583系の系譜を受け継ぐ寝台電車。こちらは時代のニーズに合わせて個室メインの構成となり、昼間運用は想定していない設計。だが「昼間運用しないとは言ってない」とばかりに、全区間昼間行程の季節臨「サンライズ出雲91号」に登板。ようやく583系先輩の肩の荷がおりました。
- 400系新幹線電車:新在直通用新幹線車両第1号。東北新幹線を240km/hの高速で走り、自力で奥羽峠を登坂するという、先述のキハ181系の果たせなかった夢を実現した新幹線電車。在来線の寸法に合わせて設計されているため、東北新幹線ではステップが出てホームとの隙間を埋める。1992年のデビュー後、山形新幹線を走り続けてきたが、2008年に後継のE3系に道を譲って引退した。
- 500系新幹線電車(JR西日本):その独創的すぎるデザインもさることながら、最短で数分おき間隔のダイヤを維持したまま300km/h運転を実現させたまでは良かったが、空気抵抗を考えた形状のせいで先頭車の座席数が減ってしまった。それでもしぶとくこだま運用で生き残ってる辺り、ダイヤの観点から見ると性能は魅力的なんであろう。最近はEVA初号機になったりキティちゃんになったり。
- N700系新幹線電車:上述の通り、最高速度が300km/hに達する高速鉄道車両であるが、起動加速度が2.6km/h/sと在来線の近郊型電車並に高い上、それが高速域まで持続する。そのため、かつては同時刻発の在来線電車が一見競争を挑んでいるかのように飛ばして走るシーンもあったが、現在は全く勝負にならない(在来線の上限110~130km/hまで出足に差がないのではまあそうなろう)ため往時ほど在来線が飛ばすことはなくなった。
通勤・近郊・一般型電車編
- 209系/E231系/E233系電車(JR東日本):JRグループの中でも特に国鉄通勤型の系譜を強く受け継ぐJR東日本の通勤型電車シリーズ。故についたあだ名が「走ルンです」。209系が京浜東北線で故障したときに固定窓のせいで救急搬送者まで出したのはご愛嬌。
- E331系電車(JR東日本):京葉線に投入された、自社所有の営業車両としてはJR初(国鉄時代も前例無し)の連接車体採用車両である。しかし、その慣れない特性故に故障が多発し、極めて異例なメーカー送り返しによる修理を受けた。だが、それでも完全復活とはならず、長い車庫の肥やし状態を経て重機のエサとなってしまった。
- 207系電車量産車(JR西日本):ほぼJR西日本初の新規設計通勤車……この「ほぼ」というのが極めて厄介。というのも、207系と言う形式は国鉄末期にVVVFインバータ制御の量産型通勤電車のプロトタイプとして900番台1編成のみが製造された形式だったのだが、207系量産車との間に共通点は全くと言っていいほどない。にもかかわらずJR西日本が207系に押し込んだのは、この当時まだJR各社が国鉄の形式基準を引き継ぐのか、その場合割り当てをどうするのかが未策定だった為。なお900番台は新製時に高速走行試験の為、現在量産車が走っている東海道・山陽本線を走行したものの、その後は一生を松戸電車区で過ごし、JR化時はJR東日本に継承、「自身の量産型」とは一度も顔を合わせることなく2010年1月にその生涯を終えた。
- 221系/227系/521系/207系量産車/321系電車(JR西日本):103系以来の設計思想をズルズル引きずりながらも基本設計では通勤型と近郊型を統一したJR東日本に対し、JR西日本は「4扉通勤型と3扉近郊型は別物」という面で国鉄型の系譜を継承した(323系のみ例外で3扉通勤型、これに関しては後述)。4扉通勤車に関してはJR西日本もまた103系の如き運用性を求める一方、特急形の185系並のアコモデーションを要求される近郊型はデラックス化が進むことに。
- 323系電車(JR西日本):性能的にマッチングしていたこともあって長らく103系、その後京阪神緩行線から流れてきた201系も使われてきた大阪環状線に投入された新型車両だが、3扉ロングシートという時計の針を80年近く戻したような車両となった。もちろん正当な理由があって、他線区から乗り入れる車両が3扉転換クロスシートであり、本数的にもこちらの方が多数派だったことから、設置予定のホームドアにも対応させるために、実証実験を行った(朝ラッシュ時をすべて3扉車で運用)上で3扉をあえて採用している。性能的にも大阪環状線に特化されている。
- 223系/225系:関西私鉄王国の「圧政」に耐えかねたJR西日本が作った、近郊型の顔をしたバケモノ電車。アコモだけでなく走行性能も特急並みで、新快速では最高130km/hでJR神戸線やJR京都線をブッ飛ばす。それも、先述のキハ181系特急「はまかぜ」を抜き去りつつ走っていたから、本当に特急より速いし(過去には大阪~京都間で特急「雷鳥」も追い抜いており、国鉄本社が特急の恥さらしということで雷鳥の時間をずらした)、深夜時間帯になると「大阪を新幹線よりあとに出発して西明石に新幹線より先に着く」という運用もされることから、表定だけなら新幹線よりも速い。実はこの車両、「140km/h走行計画」があったものの、福知山線脱線事故でお流れになったとかなんとか。なお、瀬戸大橋で走っているJR四国5000系はこれ(というか瀬戸大橋対応岡山配備車の5000番台)のJR四国版。
- 113系電車3800番台(JR西日本):福知山線・山陰本線にかつて存在した秘密兵器、もとい改造車両。113系の中間車を無理やり先頭車に(超低コストで)改造したため非常に独特な前面となった。その独特の形状から、迷列車動画というジャンルが誕生することに(後述)。ちなみに似たような例としてキハ41-2000(JR西日本)、783系改造先頭車(JR九州)などもある。なお783系以外は国鉄形式だが、すべてJR化後の改造。
- 183系800番台と415系800番台:一見何の関係もなさそうな二つの車種であるが、なんとお互いの主要機器をそっくり交換するという模型のようなことをしている。JRに入り、七尾線を電化したため交直流の近郊電車が必要となったが、交直流の機器が高価であったため、車両を新造したくなかった。一方、北近畿地区の特急は増発が必要であり、こちらも車両を投入する必要性があった。そこで、余っていた485系と113系の主要機器を交換することで、415系と183系をでっちあげ、需要を満たしたのである。
- クモハ84形電車:前代未聞のJR時代に生まれた旧型国電。何を言ってるのかわからねーとおもうが(ry一言で言えば上記123系の旧性能版。詳細は個別記事で。
気動車部門
特急気動車編
- 2000系気動車(JR四国):HSTで非電化高速列車に先鞭をつけられ、キハ181系先輩の顔に泥を塗った日本鉄道技術陣の逆襲。APTの失敗をよそに振り子式を採用し成功。世界初の振り子式気動車となった。しかも、この振り子方式、前述の381系で問題になった反応の遅れを、コンピュータ制御で予め曲線お手前から徐々に車体を傾けることで解決している。のだが...、その名称が『制御付き自然振り子装置』という矛盾有有りなシロモノ。いっそ強制式に名称変更...とはいかなかった(強制振り子方式はジャイロを用いた車体傾斜方式であり、自然振り子方式とは全くの別物)。
- キハ285系気動車(JR北海道):幻の次世代特急型気動車。車体傾斜装置と制御振り子装置を合体させた複合車体傾斜システムを搭載した台車や、キハ160系で試験したMA式ハイブリッド駆動システムを搭載した気動車だったが、この車両が開発されて製造されている段階でJR北海道は石北線の車両火災事故を切っ掛けに、同様のエンジン火災や保守の慢性的に疎かになってた事による線路歪み、そしてそれによる貨物列車の脱線事故が発生し、結果としてスピード重視から安全性重視に方針転換せざるを得なくなった為、この試作車の開発中止を決定した。しかしこの開発発表がなされた時点で既に試作車3両が完成した状態で納車待ちの段階だった。その後JR北海道に甲種輸送され、今後のこの車両を総合試験車に改造してマヤ34を置き換えることも検討されていたが、この計画も中止。その後も運用方法の検討がなされていたが、最終的に廃車が確定し苗穂工場で解体されてしまった。合掌。
- 2600系気動車(JR四国):上述の2000系の置き換え用として制作された特急用気動車、振り子式に代わって他社でも採用されている空気ばね式車体傾斜式を採用して、製作コストを下げて2000系と同等の曲線通過性能を確保。ところが、試運転して見るとカーブがあまりにも多い土讃線では圧搾空気の容量が不足する可能性が高いことが判明したため、試作4両で量産は中止。結局量産は振り子式に戻した2700系となった。
一般型気動車編
- キハ130系気動車:日高本線のキハ40系を置き換えるために登場したのだが、海沿い+酷寒地という悪条件に軽量車体が耐え切れず、踏切事故も相まって登場から僅か10数年で全車廃車となってしまった。しかも代替車両は本来置き換えるはずのキハ40系。
- キハ141系気動車(JR北海道):利用客が伸び続けている札沼線に新車を投入するだけの予算がなかったJR北海道苗穂工場が、国鉄時代のキハ08系・キハ09系(初代キハ40系・キハ45系)以来27年ぶりに作り出した「客車改造の気動車(Passenger Diesel Car、略してPDC)」。余剰となっていた客車に旧型気動車の廃車発生品を組み合わせて気動車にでっち上げるという超低コスト設計は1950年代にも試みられた(前述のキハ40系/キハ08系)が、種車の重量とエンジンパワーのミスマッチもあって失敗作ばかりだった。しかし本形式は「軽量客車+新世代軽量高回転エンジン」の組み合わせが功を奏し大成功。実に44両が改造された(種車のオハフ51のおよそ2/3)。中には440psの大出力エンジンと新型台車を貰ったキハ143や、その出力だと札沼線には過剰ということでセーブさせるための重りとして作られた、エンジンのないキサハ144なんてのも存在する。客車改造なのにエンジンがついてないとは、一体どこを改造したのであろうか(気動車は原則としてどの車両もエンジンを搭載する)。札沼線の電化と共に引退するかと思ったら電化路線(室蘭本線室蘭-苫小牧間)の普通列車として電車を追い出したり、本州に渡り蒸気機関車に客車兼補助機関車として連結されるなど、第一線を退いてからも話題に事欠かない。しかも上野駅までやって来やがった。
- キハ201系気動車(JR北海道):電車と協調運転を行うことを前提に製造された気動車。電車と気動車の協調運転は国鉄時代にも研究されたことがあるが、当時のディーゼルエンジンは出力が低く、電車の足を引っ張るため実現しなかった。しかし、キハ201系は大出力エンジンを積むことでこの問題を解決している。
- キヤ143形気動車(JR西日本):除雪兼事業車。冬場は車両前面につけた単線/複線に対応した除雪装置を使った除雪運用、冬期以外には除雪装置を外してクモヤ145の様な運用を可能とした車両である。型式名でも分かる通り機関車ではなく、気動車として作られた車両で今後も続々と増備予定。このあたりも、できれば機関車を作りたくないJR旅客鉄道各社の考えが出ている。
- キヤ97系/キヤE195系気動車(JR東海・JR東日本):できれば機関車を作りたくないJR旅客鉄道各社の考えその2~3。他の鉄道会社では機関車+専用貨車で行っていたレール輸送を行っていたが、使用車両の老朽化に加えてJR東海では2009年までにあのEF58を含む全ての電気機関車が全廃され、ディーゼル機関車も除雪用の機関車が僅かに残っている程度だった(その後ディーゼル機関車も2011年度に廃車となり、これでJR7社で唯一機関車を保有しない会社となった)。そこでJR東海はだったら気動車でレール輸送するかっとなり、キヤ97系が2008年に登場した。因みに運用の都合上、DE10(JR貨物)がキヤ97を牽引する事がある他、保存車輌や事故で損傷した車輌を別の場所に回送する際には配給車の牽引車としても活用される。形式としては0・100・200番台の3種類あり、0・100番台は25mの定尺レール運搬用の2両編成、200番台は200mのロングレール運搬用の13両編成。車両デザインはコキ車の車体を上下逆さまにして0・100番台ではキヤ95系検測車の頭部をポン付けしたかのような奇抜なデザインとなった。200番台はロングレールを前後から出す為に200番台では頭部の形状が新設計なっている。この200番台は13両中8両が動力車でその内キヤ96-1~6はぱっと見完全に長物車だが、れっきとした気動車でちゃんと排気塔がある。更に9年後にはJR東日本がキヤE195系を発表、キヤ97のベースに耐雪・耐寒機能を強化させた車輌で帯色が青から緑に変更&JRマーク添付の他、レール輸送関係の設備がベース車両とは違って白に塗装化、ヘッドライト&作業用ライトのLED化、先頭の凸ライトの左右に保安装置用無線アンテナ装備等と言った変更点がある。今後量産先行車として150mのロングレール運搬用の11両と25mの定尺レール運搬用の2両編成を投入して将来的に仙台地区のレール輸送列車を更新する予定である。
- キハ75系気動車:近鉄に対するJR東海の反撃。最高速度120km/hを生かして、快速みえの近鉄に対する競争力を引き上げ、並走区間では近鉄特急を追い抜くこともあるという、まさに特急顔負けの近郊型気動車。因みにそんな高性能車でありながら高山本線や武豊線(現在は電化)でのローカル運用もこなす。
その他部門
- 相模線:神奈川県を縦断する鉄道路線で茅ヶ崎-橋本間を結ぶあらゆる意味で不条理な路線。横浜線・京王相模原線・小田急小田原線・東海道本線という幹線路線を結ぶ路線にもかかわらず単線のローカル線である。事実上の相模線専用仕様車として運行している205系500番台(現在はE131系500番台に移行)は首都圏、そして寒冷地でないにもかかわらず乗客がボタンを押して乗降扉を開閉するという奇っ怪な仕様でその筋ではとても有名。首都圏・大阪圏でも近郊型や近郊型と共通運用する通勤型ではJR化以前から存在したが(非電化時代の通勤気動車(初期)はボタン操作ではなく直接手で引いて開閉した)、そう言った前提のない通勤型では空前絶後。
- JR九州:だいたい水戸岡鋭治のせいで説明がつく。というのも、JR化後の車両は初期の一部を除いた殆どの車両、それも特急から通勤電車までが水戸岡がデザインした車両なのだ。また、特急の殆どは特に急がない列車である(サービスの対価で特急としている列車が多い)。
- キハ183系1000番台:JR九州のジャーニーマン。4両1編成しかない希少性もさることながら、オランダ村特急→ゆふいんの森Ⅱ世→シーボルト→ゆふDX→あそぼーい!と、30年間で5種類の運用についている。しかも、オランダ村特急時代には電車との協調運転をしていた。
- つばめ:前述の超特急燕は新幹線開業により消えたが、その名称を復活させたのがJR九州。だが、由緒ある名前というわけでぞんざいに扱うわけにはいかず、JR各社に事前に許可を取った。それだけでも凄いのだが、ビュッフェ車を復活させた。かつては優等列車には必ず食事をとるための車両を連結していたが、合理化、速達化の影響によりどんどん廃止され、特に在来線の昼間の特急は全滅したため、嬉しい復活となった。その後、九州新幹線の開業に伴い、つばめの名前は新幹線に引き継がれている。これだけならめでたしめでたしなのだが……。
- みずほ:九州新幹線の列車愛称はつばめ、さくら、みずほである。つばめ、さくらは戦前からの名門であり、ファンも喜んだが、最上位のみずほが発表されるや、一部ファンは猛抗議した。みずほはかつては東京と九州を結ぶブルートレインの名称であったが、一番影が薄く、格が低かったため、それが最上位種別というのは我慢ならなかったためである。こうなった原因として、当初各停タイプのつばめ、速達タイプのさくらだけで行くつもりが、飛行機に対抗するために最速達の列車名を新たに設定する必要が生じたためである。しかし、みずほ(瑞穂)という言葉は本来ならみずみずしい稲穂を意味する、日本の美名の一つであり、逆に言えばブルトレ時代が冷遇されていたとも言える。
- 赤いみどり:赤いのに緑?一体何を言っているんだ?と思う人も多いと思うが、これで正確に表している。車体は真っ赤だが、列車名はみどりなのである。JR九州の車両は赤い塗装が多く、みどりに充当される485系も真っ赤なため、赤いみどりという訳の分からない状態になった。鉄道好きな男の子がいるお母さんは説明するのにさぞ苦労したであろう。しかも、更に困るのは、きりしまには専用の緑塗装の485系が使われていたことである。そこはきりしま用の車両をみどりに使うべきだと思うのだが。なお、現在は783系に置き換えられ、こちらはきちんと緑色基調の塗装になっている。
- 浪漫鉄道:JR九州社歌、ハイ・ファイ・セットが歌唱している。その程度(著名人が歌唱)なら他の社歌でもままある話だが、車内放送のBGMにも使っていたりする。
- JR各社のクルーズトレイン
ななつ星in九州・トワイライトエクスプレス瑞風・トランスイート四季島に代表される周回型超豪華寝台列車で、其々趣向を凝らした豪華な車両と沿線の観光地を巡る。なおこの3列車全てに川崎重工製の車両が組み込まれている。
- ななつ星in九州:JR九州が作り出した観光列車。このためだけに専用の機関車と客車を新造し、あらゆる面でかつて活躍した寝台特急たちが裸足で逃げ出すデラックスぶりを見せつけている。なんたって“イ”ですよ“イ”! 動態保存車を除けば制度として53年ぶり、新製は実に65年ぶりと言う正式な三等制復活である(それまでも寝台個室ロイヤルやグラン・クラスなど実質的に二等車→グリーン車/A寝台車の上位サービスは存在したが、正式に一等車形式が配備されたのは先に書いたとおりである)。なお、ななつ星に使用されてる客車には77系となっているが、かつて存在した戦災復旧客車70系とは全くの無関係である。
- トワイライトエクスプレス瑞風:JR西日本がトワイライトエクスプレスの後継として運行を開始した豪華クルーズトレインで、先頭車の展望車にはマイテ49の様なオープン式展望デッキを備えている。コレまでも前述のマイテ49や50系や12系客車の改造したジョイフルトレイン等では採用例が合ったが、気動車では初搭載である。更に7号車には一両一室と言うコレまでの寝台車では例のない車両を備え、その車両にはバスルームも付く。ななつ星と同様、寝台車や展望車の形式にイが入っており、使用編成である87系はハイブリッド気動車である。
- トランスイート四季島:JR東日本が2017年5月1日からデビューする予定の豪華クルーズトレインで、先の2列車と同様、途轍もなく豪華な内装を誇る。そしてこの車両の特徴はなんといってもその動力方式で、電化区間では集電装置から取った電気を、非電化区間では先頭車に搭載されたディーゼルエンジンから電気を発電してその電気を使って走る。この方式は海外ではバイモード式車両と呼ばれる。更に北海道にも乗り入れ、つまり北海道新幹線の新在共用区間を通るのである。
- 鉄道コンテナ輸送とローカル規格のコンテナ:「うーん、貨車にいちいち荷物を詰め込んで行先ごとにつなげるの不効率だな」→「いっそ貨車も“指定席”にしちまえばよくね!?」という完全に鉄道本位の発想だが、いい加減物流の高速化を求められていた時代でもあり各業界に合意され、かくて自動車・鉄道一貫輸送の代表選手として日本の国鉄-JR貨物形コンテナという完全にローカル規格のコンテナが国内に溢れかえることに。なんせ、国際規格コンテナとは全く互換性がないのに一切困らないレベル(むしろISOコンテナの方が「てめぇ、なんで日本の既存のコンテナ車に乗るように設計しなかったんだよ!」とばかりに厄介者扱いされてる始末)。その後も石油・石炭・車輪・生ゴミに対応した専用コンテナ、新型機関車&貨車の本線での性能確認用コンテナ(ZX45A 等)や電源装置に特化したコンテナ(ZGZ形等)が生まれ、果てはトラとチキで実施されていた自衛隊の機材輸送用列車もコンテナ輸送化された。ここまで来るとあのマクリーンですら「HAHAHA、そりゃいくらなんでも無理ってもんだぜ」と言うだろう。いやホントもうどうしてこうなった……
- スーパーライナー:東海道・山陽線を突っ走る最長で全長504mのコンテナの塊。その程度ならアメリカのマイルトレインにはさすがに及ばな「だから電車で過密の線路を一緒に走らせるなそのための機関車造ってまでやるな挙句の果てに電車にコンテナ載せるとかバカだろお前ら」
- JR貨物M250系:上記にあるように世界唯一の貨物電車。16両編成で前後2両ずつが動力車という準動力集中式に類するタイプではあるが、固定編成なので日本国内では動力分散式に分類される。
- 因みに貨物電車自体は国鉄時代にも既存車両を改造したクモヤ22が存在した。但しこれは貨物新幹線計画の試金石のためであり、その計画の中止に伴って廃車された。これの気動車版にキワ90(上述)が存在する。
- なお貨物電車そのものはヨーロッパのトラム(路面電車)には存在するが、一般鉄道では存在しない模様。
- では「クモニ」などの荷物電車は貨物電車とは違うのかというツッコミがきそうだが、国鉄では貨物と荷物は別であり、荷物輸送は旅客営業部門の管轄である。もともと旅客の携行手荷物を別の車両で運ぶ(チッキ)というのが元というせいもあるが、要はお役所の縦割り仕事の結果とも言える。
- 国鉄後期になると、どう見ても貨車にしか見えない荷物車(マニ44など)なども登場しているが、あくまでも客車として扱われた。
- JR貨物M250系:上記にあるように世界唯一の貨物電車。16両編成で前後2両ずつが動力車という準動力集中式に類するタイプではあるが、固定編成なので日本国内では動力分散式に分類される。
- 動力分散式……と言うか電車への異常なまでのこだわり:地盤が軟弱、カーブと勾配が多い、駅などの折返し設備が貧弱などという日本ならではの事情が背景にあるとはいえ、ここまで動力分散式……いや、“電車”に固執しているところは日本以外には見当たらない。ついに、貨物列車やレール輸送車まで電車にしてしまっている。そんなに機関車がいやか?
- 嫌いじゃありませんが何か:英仏独「やめてくださいしんでしまいます」 米(うちは飛行機あるからいいや……)
- ちなみにここでいう“電車”とは、英訳“Electric Car”のこと。どういうことかと言うと、“Electric Car”とは本来、日本で言うところの路面電車のような軽軌道用の車両を指すのだが……中央本線(厳密にいうと所謂“中央東線”)の前身甲武鉄道が日本で初めて長大路線の電化を完成させた(飯田町~中野)とき、「技術開発してる余裕ないからあるものをそのまま使っちゃえばいいじゃん」と、輸入物の路面電車をそのまま郊外運転にブチ込んだのがその始まりだからである。ちなみにこの頃、重量物を牽引する電気機関車は英米独で試行錯誤していた時期であり、日本がそれを保有することは見果てぬ夢でしかなかったのである。ところがこの甲武鉄道の試みがうまく行ってしまった為、日本では機関車とは別に“Electric Car”が大量輸送用の通勤電車からさらに中長距離用旅客車としてガラパゴス進化を遂げ大増殖することに。諸外国でもTGVなど日本に影響されて中長距離輸送用電気旅客車が当時要し始めるが、これらは“Electric Multiple Unit”として“Electric Car”と区別されている(使われる技術も機関車由来のものが多い)のに対し、日本ではあらゆる電気旅客車が“Electric Car”の独自進化形の為、特急形から通勤形まですべて“Electric Car”とされる。ちなみに、新幹線も例外ではなかったり……(新幹線用電車は“Trunk line Electric Car”と訳される)
- 蓄電池電車:『気動車と電車を作り分けるのめんどくさいよね。』→『だったら統一しちゃえばよくね?乗り換えが減って利用者の利便性も向上するし。』という発想で生まれた、電化・非電化区間を問わず走れる車両。電化区間では普通の電車として走行しつつ蓄電池に電気を貯め、非電化区間では蓄電池に貯めた電気で走行する。現在JR東日本のEV-E301系、EV-E801系、JR九州のBEC819系が営業運転についている。現在は蓄電池の容量の関係上、電化区間もある程度走る非電化路線(EV-E301系の走る烏山線の起点は宝積寺であるが、東北本線を通って宇都宮まで、EV-E801系の走る男鹿線の起点は追分であるが、奥羽本線を通って秋田まで、BEC819系の走る若松線は一部区間が電化)に集中的に投入されているが、技術革新が進んで容量の問題が解決すれば、電化区間のほとんどない北海道や山陰地区でも走れるであろう。前述のようにディーゼル機関車を気動車で置き換える計画は着々と進行しているし、気動車は電車で置き換えることが出来る。そうなれば、貨物列車にも電車が投入されているし、近い将来、日本からは電車以外の鉄道車両は無くなって……いや、無理だな。日本人の内燃機関に対する情熱は異常だし。
- 35系客車(JR西日本):老朽化したSLやまぐち号用の客車の更新の為に2015年にD51200動態復活の報と共に発表された。マイテ49・オハ35・オハ31旧型客車を復刻すると言うもので、2年後の2017年に新潟トランシスから出場した。現代の水準に合わせながらも非常に再現度が高く、ベンチレーターやウィンド・シル/ヘッダー、5号車ではダブルルーフ屋根も再現されている。またキヤ143との連結運転も可能で形式は35系4000番台となっているが、国鉄が製作した35系客車の増備扱いというわけではない。あくまで新車として製造されている。
- WEST EXPRESS 銀河(JR西日本):JR西日本が前述のトワイライトエクスプレス瑞風の運行開始と同時に発表した次期格安長距離列車。2020年夏に京阪神~山陰・山陽方面で運行を開始。そしてこの次期格安長距離列車に使用される車両はなんとあの117系。JR西ではこの117系6両をグリーン車(1+2シート・個室)、普通車(コンパートメント・フルフラットシート・2+2シート)、フリースペース車にとJR西お得意の大魔改造。因みにこの改造で両先頭車はグリーン車になる為、117系初のクロ117とクロ116が誕生。さらに営業運転では、臨時運転の「特急」として、通常の運賃と特急料金だけで、きっぷは駅の窓口で普通に買えるという、トワイライトエクスプレス瑞風とは打って変わってリーズナブルなサービスとなる。
- 末期色:JR西日本がやらかした単一塗装。単一塗装でも上品な物は秀逸であるが、どぎつい原色を車体全体に塗ったものだからファンからの評判は散々……かと思いきや、実車が出現し始めると意外にも、「…………、これはこれで」とハマる人達が続出。中には怖いもの見たさかはるばる遠征してくる鉄道系YouTuberまでいる始末。