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プリキュアタブー

ぷりきゅあたぶー

プリキュアタブーとは、長い歴史を誇る「プリキュアシリーズ」の暗黙の了解である。
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概要

プリキュアシリーズは一作ごとにテーマも世界観もストーリーも異なる。
だが、プリキュアシリーズでは、作品ごとに何をやるのかはバラバラでも、こういう場面を描いてはいけないという点は作品を超えて共通している。
プリキュアシリーズは「やること」ではなく「やらないこと」でシリーズの統一性が図られているという、少し珍しいアニメシリーズなのである。

もともとは第1作『ふたりはプリキュア』から第5作『Yes!プリキュア5GoGo!』までプロデューサーを務めた鷲尾天が、プリキュアシリーズでは「やってはいけないこと」の制約を現場に通達していたことが始まりとされるが、鷲尾がプロデューサーを引退した後のプリキュアシリーズでも幾つかが「お約束」として伝統化していったようだ。
鷲尾Pは自分が作ると男が見たがるようなアニメになってしまうという自覚があった。そこで逆に、少女向けとしてはふさわしくないだろう要素を明文化して、あとは好き勝手やらせてもらおうという点があったようだ。

その伝統は現在でも続いており、まず「やってはいけないこと」を決めてから、それ以外の部分で既成概念に挑戦するような描写をやるというのが、プリキュアシリーズの各作品の製作方針である。
また、受け継がれてきた「やってはいけないこと」が既に守旧的で時代に合わないと判断されていれば、それを壊して行ってもいる。逆に、鷲尾Pの最初のルールにはなかった新しい決まり事も生まれて行っている。10年を超えて続いた本シリーズであるので、「プリキュアらしさ」も少しずつ変化している。

本当にそんなタブーはあるのか?

初代作の時にタブーが明文化されていたことは各種スタッフの発言で事実と確定しているが、それが現在でも教則のように受け継がれているのかは、実際のところ不明瞭である。
ここでは作品を超えて受け継がれるプリキュアタブーと呼ばれるものが現在でもあるという前提で、様々な「決まりごと」について書かれているが、その多くはシリーズ全体を俯瞰した時に見える共通性から推測した仮説に過ぎない。

なお、4代目プロデューサーである神木優は2018年のプリキュア15周年記念のインタビューで、プリキュアシリーズには暗黙に受け継がれているお約束のようなものは確かにあるとは発言している。ただやはり「暗黙」ではあるようなので、少なくとも現在では禁則事項というほど強制力があるようなものではないようである。事実、神木は長らく続いていたプリキュア水着禁止の伝統を破棄した人物でもある(後述)

プリキュアの立ち位置について

さまざまなメディアでプリキュアシリーズが紹介されるとき、プリキュアは人々を守る正義のスーパーヒロインと扱われていることが多い。しかし、初期のプリキュアシリーズでは「プリキュアを正義の味方として描いてはいけない」という考え方があった。数多いプリキュアタブーの中でも作風に強い影響を与えたものである。

初期のプリキュアの基本は「たまたま友達になった異世界の妖精を守ってあげること」が戦う目的であり、自分たちが住む世界を守る意識はほぼ皆無であった。敵は妖精が持つ秘密を狙って妖精たちを襲おうとするので、妖精を匿うプリキュアたちが敵を返り討ちにしていく、というのが毎回の話の基本構造だったのである。敵側陣営はプリキュアと妖精以外の一般人には興味を全くと言っていいほど持っておらず、一般人を悪意を持って傷つけようとすることはごく稀にしか起こらなかった。
これはプリキュアに「みんな」を守らなくてはいけないような大きな使命感を持たせないようにするためであり、戦いを離れた軽い日常を過ごすシーンを違和感なく描きやすくするためでもある。初代ED曲の名フレーズ、「地球のため、みんなのため、それもいいけど忘れちゃいけないことあるんじゃないの」がそれを象徴している。
つまり初期のプリキュアはあくまで「身近な友達を助けるため」に戦っていて、そのついでに世界も救う物語だったのである。

この流れが大きく変わったのは6作目『フレッシュプリキュア!』である。そこで描かれた敵である管理国家ラビリンスは「プリキュアなどは無視して、人間の不幸の感情を集めるために一般人を狙って悪事を働く悪党」であった。そしてこの作品のプリキュアは敵が襲ってくるまで待ち構えるのではなく、悪事を行う敵をこらしめるためこちらから戦いを挑む存在となった。
『フレッシュ』以降のシリーズでも多くの敵は大なり小なり「一般人に迷惑をかける存在」として描かれるようになる。そしてプリキュアも「街の一般人たちを敵から守る」ことを目的に戦うわかりやすい正義のヒーロー像が強化されることになる。つまり「みんなのため」に戦うプリキュアへのシフトである。

第11作目の『ハピネスチャージプリキュア!』以降は方針に更に変化が生じ、プリキュアは「一般人のために戦う」要素よりも「自分のため」に戦う要素が強調されるようになった。
正義のヒーロー像は踏襲されつつ、「一般人に迷惑をかける存在」が自分にとって大切なものも奪おうとするため、自分達も戦いに挑むという流れになっている。
これは製作スタッフ達の間で「女子や子供に自己犠牲を強いることを肯定・推奨するようなコンテンツになってはいけない」という考えが自然に強まっていったためでもある。このあたりは女子や子供に関する権利意識の社会的変化の流れとも通じている(このことに関する詳細は後述の「日常シーンの扱い」の節に詳しい)。

つまりプリキュアの戦う主要な理由は「友達のため」→「みんなのため」→「自分のため」と変化していったことになる。
もっとも、これらの要素は相互排他的ではないため、初代の頃からプリキュアは友達のために戦うと同時に他人が戦いに巻き込まれたら必ず助けようとしていたし、現在のプリキュアも当然ながら自分のためだけでなくみんなを守るために戦っているし、見知らぬ人よりも身近な友人を助けるときの方がより感情的になる。

プリキュアシリーズ15周年記念の時に使われたキャッチフレーズの1つに「わたしたちはわたしたちの大切なものを守りたいだけ。」というものがある。おそらくこれが歴代全てのプリキュアに共通する戦う理由なのだろう。

チームワークの重視

プリキュア達は基本的にプリキュア2名以上と妖精2名以上の「チーム」で戦う。
相棒及びチームとの絆はプリキュアシリーズのどの作品でも最重視される。
しかしながら、チームワークを最重視することの反動として、仲間と協力せずに一人で戦うことは非常に否定的に描かれる。
プリキュアが一人だけで戦うシーンが全くないわけではないが、それは基本的に負けフラグであり、ピンチに追い詰められた後に仲間たちが駆けつけて逆転する展開がお約束である。
つまり、「1人で活躍してはいけない」というプリキュアタブーがあるのである。
(仲間たちが変身できない及び戦闘不能な状況だったため、キュアフラワーキュアムーンライトキュアテンダーキュアエースキュアフォーチュンのように戦闘をやむなく単独敢行して完遂させたケースはごく稀にある)。

1人の短所を仲間全員の長所で補いながら支え合うことで、プリキュア全員で成長していこうとするのがプリキュアとしてのライフスタイル、及びそれと並行している日常生活の要としてどの作品でも描かれている。
言うなれば、プリキュアの基本スタイルは昭和時代の某伝説な熱血ラグビードラマ同様、ラグビーの基本精神とも言うべき「ワンフォーオール、オールフォーワン(ひとりはみんなのために、みんなはひとつ《目標・勝利・希望・平和・夢》のために、そしてノーサイド)」というチームワークを構築させる旗印から構成されており、その旗印の下に「プリキュアに一人だけの特別なヒーローは要らない!プリキュアに仲間たちを出し抜いたり、蹴倒してまでスーパーヒーローチートキャラへと伸し上がる一人だけのヒーローは要らない!プリキュアは脱落者を一人も出さない!プリキュアは何事もみんなで解決する!プリキュアはみんなが心を一つにして、力を合わせれば不可能を可能にする!」という考え方が強い。
HUGっと!プリキュア』の第37話では、プリキュア15周年記念とその秋映画の番宣としてプリキュアオールスターズが特別出演した際は、それが最も顕著に現れたエピソードとなっていた(TV版プリキュアオールスターズの項目を参照)

もっとも、チームワークが重視されるのはそういう教育的な思想以上に、バトル演出上の見栄えゆえである。飛んだり跳ねたりの激しいアクションを基本とするプリキュアシリーズでは一人一人がバラバラに攻撃するよりも、複数人がコンボで攻撃する方がテンポが良くなるのである。初代作の監督の西尾大介が形にした演出方針がずっと受け継がれていると言える。

ただし、等身大で人型敵構成員と戦う場合、プリキュアとその敵構成員はタイマンという構図をとることがある。これは人間と同じ見た目とサイズの敵を、プリキュア側が複数人で殴る蹴るというのはリンチと捉えかねないからである。
タイマン構図になる場合は、「仲間達への思い」をモノローグとして独白するなどの形で、一人で戦っているように見えても心は常に繋がっているという演出がその都度挿入されている。

なお、日常シーンにおける仲間同士の友情の描き方は作品によって差異があり、例えば上記の『スマイル』は日常シーンでも「いかなることでも仲良く一緒に助け合う」を美徳として扱っていたが、「夢」をテーマにした『Go!プリンセスプリキュア』では「自分の夢は自分だけのものであり、その領域にはプリキュア仲間同士でも干渉できない」ということを個人の尊重という考え方で肯定的に描いていた。

また、過去にはマンネリ打破のために一人で戦うプリキュアが企画されたこともある。
単独バトルヒロインものはキューティーハニーシリーズやカードキャプターさくらなど珍しいものでないが、プリキュアとしては大きなチャレンジとなるはずであった。
しかし、企画が動き出すのとほぼ同時に東日本大震災が発生。今このタイミングで単独ヒロインものを作ることは「一人で頑張らないといけない」というイメージがついて回るとして急遽中止となる。そして練り直された企画が「一人ではなく、みんなで頑張るというメッセージ」を込めた『スマイルプリキュア!』であった。
単独プリキュア企画が今後も復活するのかどうかは不明瞭ではあるが、テーマ以上に玩具的な都合から非常に難しいのかもしれない。
桃キュアが好きな子供もいれば、紫キュアが好きな子供もいる。なので一年の間に活躍するプリキュアはある程度人数がいる方が、玩具販促的には普通に望ましい。
例として、2013年の『ドキドキ!プリキュア』は初期3人+追加戦士1人という構成の予定が、大人の事情で急遽初期4人+追加戦士1人と人数が増やされたという裏話もある。
また、2016年の『魔法つかいプリキュア!』はプリキュアの人数こそ初期2人+追加戦士1人という構成だが、初期2人が4種類の異なる変身をするため「プリキュアの姿」としては実質的に3倍となり、バリエーションを増やしたいという玩具側の要請に応えている。

プリキュアの条件

初期の頃はタイトルに『ふたりは』や『5』などのプリキュア人数を表す数字が必ずついていた。
それに矛盾しないようにするためか、初期シリーズの追加キュアであるシャイニールミナス(『ふたりはプリキュアMaxHeart』)やミルキィローズ(『Yes!プリキュア5GoGo!』)などは、プリキュアではない別の戦士とされて「キュア」の名を冠する事ができなかった。
そしてこの2人はどちらも純粋な人間ではなく、ローズに至っては元が異世界出身の妖精だったため、「プリキュアになれるのは普通の人間の少女でないといけない」というルールが決まっているのではということがファンの間では昔一般的だった。
上述したように、初期作ではプリキュアとなる少女たちに「大きな使命感」を持たせないようにすることに気が払われていたこともこの定説を作り出した一因である。異世界人というような設定があれば、そのキャラクターはストーリー上でシリアスな設定がどうしても課せられてしまうためだ。

特別な存在ではない、どこにでもいるような「普通の女の子」が、なんでもない日常を守るためだけに、世界の命運を賭けた戦いを受け入れる… この構図は初期のプリキュアシリーズでは明確に意識されていたことは、スタッフインタビューなどでも明らかにはなっている。そのためこれもシリーズ初期には実在したプリキュアタブーである。

しかし、この「普通の女の子」を重視する考え方はシリーズが進むにつれて崩れていくようになった。これは「普通」にこだわりすぎることは多様性の排除につながるのではという懸念が、スタッフと視聴者の間に少しずつ積み重なっていったためである。
代わって登場したのが女の子は誰でもプリキュアになれるという考え方である。これは映画プリキュアオールスターズNewStageで使われたキャッチコピーだが、それ以降のプリキュアシリーズにも作品を超えて脈々と受け継がれている。
普通・普通じゃないの線引きはせず、それぞれの個性を肯定し受け入れる作風へとシリーズ全体がシフトしていった。

たとえば現在の『プリキュアオールスターズ』ではルミナスとローズもプリキュアとしてカウントされ「復権」している。
また、異世界人や人外という特殊な出生経緯を有するプリキュアも現れている。(異世界キュア妖精キュア亜人プリキュアなどを参照)
そしてこれらの特別な出自を持つプリキュアたちは殆どが、ストーリー上でシリアスな設定が課せられて「大きな使命感」をもってプリキュアとして戦っていく。

ただし、プリキュア各作品におけるメイン主人公については放映当時の社会性における「身近なイメージ」のキャラクター造形が意識されているため、神秘的な宿命を背負っていたり人間ではない種族であったりする例はまだない。そして全員が「両親が存命中の日本人女子中学生」であるが、これも放映される時代の社会性によってはそのうち変わるのかもしれない。
事実、主人公を取り巻く家庭環境(特に主人公の母親の立ち位置)はシリーズが進むにつれて少しずつ変化しており、近年では専業主婦がほぼ見られなくなっている他、母親が海外で活躍する仕事をしているためにほとんど家に帰れず、父親に育てられている主人公も珍しくなくなっている(いちか)。
ただ、主人公を取り巻く家庭環境がどんなに変化しても、プリキュア主人公の母親と父親の人間性は非常に高く、仲も良いが過保護で甘やかしすぎることもなく、躾もきっちりしている理想な家庭像が描かれている。

なお、メイン主人公でないプリキュアなら家庭環境については様々なバリエーションがある。
片親もしくは両親がいないプリキュアは意外に多いし、その原因が離婚ということも普通にある(美希ほまれ)。家族と良好な関係が築けていないプリキュアも非主人公ならば意外と見られる。

ジェンダーとの向き合い方

「女の子だって暴れたい」というキャッチコピーから始まったプリキュアシリーズは、その最初の時点から伝統的なジェンダー(社会活動における性差の壁)に対して懐疑的な立場をとっている。
鷲尾Pは初代作を立ち上げる時に西尾大介監督とある約束をしている。それは「『男子らしさ』『女子らしさ』という言葉を使わない」ということ。あえて乱暴に言えば俗世間的なイメージにおけるジェンダーフリーに近しい考えである。
プリキュアシリーズにおいて「男性キャラクターの扱い」「恋愛要素の扱い」にある種の共通思想があることは後述に詳しいが、それらは全てこのジェンダーへの意識が背景にある。
この部分は鷲尾がTVシリーズの現場を離れてからも受け継がれ続けており、それどころか年々強まっている。これは日本社会でジェンダーに関する意識改革が始まった時期とプリキュアシリーズの立ち上げが被っているからである。
特に育児をテーマにした15作目の『HUGっと!プリキュア』ではジェンダーに関するメッセージが従来よりも表面化しており、作中で主人公のはな若宮アンリに発した名セリフ「男の子だってお姫様になれる」は「女の子だって暴れたい」や「女の子だってヒーローになれる」や「女の子は誰でもプリキュアになれる」への15年越しのアンサーとして話題ともなった。

ログまとめ1
アンはなとお姫様だっこ+α



しかし実際のところ、プリキュアシリーズは女の子が好みそうなキラキラ可愛いビジュアルがスポンサーの意向で導入されているコンテンツであるため、「女の子はキラキラ可愛いものが好き」という現実を後進的だと否定したいわけでもない。
ただ、プリキュアシリーズはどの作品であっても、女の子の可能性を「キラキラ可愛い」だけに狭めてしまわないように意識されている。
4代目プロデューサーにあたる神木優は「プリキュアはキラキラしているけど、作り手はキラキラしているとは思っていない」「可愛いものを提供するだけではシリーズは終わってしまう」と言い切っている(参考)。

実際、プリキュアシリーズでは「可愛い」という表現に対して極めて慎重に扱っている。「可愛い」という褒め言葉が使われる場合は「乙女らしさ」につながるような感じにはならないようにしている。
あまり気づきにくいが、プリキュアシリーズはどの作品でも女の子に「可愛い」と軽々しく言わないことが意識されている。作中で「可愛い」と明言されるのは妖精:動物:赤ちゃんのような性別を感じさせない存在が主流である。
プリキュアに変身後のコスチュームはキュートな可愛さを凝縮したものとしてデザインされているが、それさえも「可愛い」と単純に言われることも決してない。どの作品であってもプリキュアが「可愛い」という意味合いで褒められる場合は「格好かわいい」という意味合いとなる。つまり、格好良さがまず前提にあって、そこに可愛さもスパイスとして加わっているというニュアンスとなる。
これはプリキュアが「凛々しい」「格好いい」を体現する存在であり、それへの憧れは男女を問わないはずという作り手の思いと密接に繋がっている。「凛々しい」「格好いい」が男の子特有なものでなく女の子だって持てるなら、「可愛い」だって女子特有なものではない。だから、女の子は可愛くてもいいし格好良くてもいいのである。「可愛い」も「格好いい」も女の子だからとか男の子だからとかの区別はないということである。
そしてこれらのことはプリキュアシリーズが「可愛い」という属性を玩具商売として扱っているからこその責任感とも言えるのだろう。

言葉遣いのルール

鷲尾時代に存在していたことがわかっているルールの1つに「プリキュアは汚い言葉や、人を傷つける言葉は使わない」という言葉遣いのタブーがある。
激しいアクションで敵に対して殴る蹴るをするとしても、敵に対して罵声を浴びせるようなことはしない。プリキュアは大切なものを守るために戦っているのであって、憎悪を抱いて戦っているのではないからである。敵キャラクターに対する言葉遣いに関するその方針は現在でも引き継がれている。

もっとも、プリキュアといえども中学生な女の子なので、ついカッとなってひどいことを言ってしまうこともたまにはある。(参考→プリキュア三大失言
ただしこのような失言がなされた場合は、後になってちゃんと和解するような流れは意識されている。

また、上記のジェンダーにも深く関与することだが、「男言葉攻撃的な印象を与え、女性語優しく知的で聡明な印象を与える」というような役割語でのキャラづけをプリキュアシリーズでは避けられがちである。
これはプリキュアだけでなくサブキャラ、モブキャラも含め男子にも女子にも中性口調が全体的に設定されている。
ただこれは「傾向」なだけであり、女性語を使うベタなプリキュアや女子キャラクターも勿論いる(特に紫キュア母親オネエが圧倒的に多く、その次に青キュア白キュアの順に多い)。だが、各作品で主人公となる桃キュアについては、女性語をほとんど使わない(中性口調が徹底されている)ということが初代から現在まで続いている。
もっとも、2000年代以降は児童向けアニメでも男子も女子も中性口調を標準として、特別な個性を有するキャラクターのみ女性語や男言葉を使わせるということが定番化しているため、「主人公」に中性口調が徹底されること自体はそう特殊なことではない。ただ、これもまた本シリーズの暗黙なルールとして言葉遣いにこだわりが強いファンから認識されている。
※口調と言葉遣いに女子的要素が含んでいないという点では、中性口調と敬語に大きな差異は全くないことと同様、口調と言葉遣いに女子的要素が含んでいるという点では、女性語とお嬢様言葉も大きな差異は全くないことも留意して貰いたい。
ただ、「親世代な大人が勝手にイメージする女の子らしさ」がコスチュームの色によって押し付けられるのは良いことではないという認識が近年では制作側に生まれてきているようで、最近の作品では黄キュアだから紫キュアだからといって、そこに「女子らしい」「女子らしくない」という差異は込めないようにされている。ただそれでも、上述したように「ピンク主人公は中性口調」という伝統はこれまでもこれからも引き継がれていき、この伝統が覆されることはシリーズが続く限り絶対にないだろう。

なお、言葉遣いに関するトリビアとして、初代作の主人公である美墨なぎさ2年に渡る作中で「ぶっちゃけ」という言葉を一回しか喋っていないというものがある。理由はそんな言葉遣いをなぎさがするわけないというスタッフのこだわりから。(有名なフレーズ「ぶっちゃけありえない」はなぎさの口癖でなくOPの歌詞。なぎさの口癖は「ありえな〜い!」である)

日常シーンの扱い

初代から現在まで共通しているプリキュアタブーとして、プリキュアとして戦うことを、主人公達の生活の中心にしてはならないという点がある。
彼女達は戦いとは関わりが一切ない「普通の女の子の日常」の中で生活しており、その日常の中ではプリキュアとしての使命感や緊張感を引きずらせないことが意識されている。
むしろ聖闘士星矢シリーズのように「戦いと無関係なユルい日常」を過ごせないようなプロフェッショナルすぎるキャラクターはプリキュアとしては相応しくないとされる。
番組中盤から加入する追加キュアが、最初は日常に溶け込めない孤高な戦士として登場するも、主人公達との触れあいの中で戦いと無関係なユルい日常を楽しめるようにほだされていく、という展開がなされることも多い。

「プリキュアとして強くなるために特訓する」ようなシーンもあるにはあるが、それは飽くまでも学校の同好会程度の和気藹々としたアマチュア的なノリが基本におかれており、先述の聖闘士星矢やドラゴンボールに代表されるバトルフィクションのように、本格的且つ人生や生命そのものを懸けるような実戦さながらな激しい修業は絶対に行われないが、パワーアップのための様々なイベントはある。

プリキュアの日常の立ち位置については、11作目『ハピネスチャージプリキュア!』を境に大きな変化も生じている。
それより前のプリキュア作品では、プリキュアとしての戦いを日常と切り離すために「主人公達はプリキュアを仕方なくやっている」というニュアンスが多少なりとも必ず盛り込まれていた。
ところが『ハピネスチャージ』ではプリキュアは「みんなのために戦うヒーロー」であると同時に、主人公達全員がプリキュアをやることにごく個人的な動機が存在している。いわば自分にとってメリットがあるからプリキュアをやっているわけである。
主人公達がプリキュアとして戦うモチベーションを強めることは長年避けられてはいたので、これはかなり大きな転換である。この決断がなされた理由は、主人公達がプリキュアを仕方なくやっているというスタンスを長年続けた結果「プリキュアが他人を守るために自己犠牲的な戦いを強いられる悲劇的な存在になってしまっているのではないのか」と問題提起された為である。
『ハピネスチャージ』以降も「主人公達が望んでプリキュアになりたがっている」というスタンス自体は継続されることになり、プリキュアという役割が押し付けられた義務ではなく、本人が望んだ権利という形へと再構築されることになった。
ただ、戦いと日常を切り離すという点は最重要要素として守られているため、主人公たちがプリキュアをやりたがっていると言っても「戦うことが大好き」という設定にはせず、プリキュアに選ばれることでやりたいことや日常の楽しみが獲得できたという形になっている。日常を守るプリキュアから、新たな日常を獲得するプリキュアになったともいえるだろう。
近年ではそれをよりわかりやすく描くために、プリキュアには戦う神秘的な力はあっても、戦い自体を目的にした存在ではないという設定の作品も出てきている。そのような作品の場合、「伝説の戦士」というプリキュアシリーズの伝統的な称号では呼ばれず「伝説の○○」というその作品に即した称号で呼ばれるが多い(例:『魔法つかいプリキュア!』→「伝説の魔法つかい」)。『キラキラ☆プリキュアアラモード』では遂にプリキュアが戦いと無関係の使命を持っていることがルミエルの台詞から間接的に明かされた。

戦闘シーン

戦闘シーンは女児向けアニメの中では過激と言われるプリキュアシリーズだが、実際は数多くの自主規制がある。
有名な点は以下。

  • あからさまに武器っぽいデザインのアイテムを持たせず、アイテムで敵を攻撃するときはアイテムで直接殴るような攻撃方法にしない。
  • 主人公側のプリキュア同士の戦いはNG(MH映画版2作目以降)。
  • 流血描写はしない。
  • 顔面や腹部に打撃が加えられる瞬間を直接描かない。

武器の所持・使用の制限については、格闘主体という作風を実現するならば武器を持たせるわけにいかないという単純な理由が一番大きい。
ただ、シリーズが進むにつれて単純な格闘だけでは演出がマンネリ化するということもあってなのか、飛び道具的な遠距離攻撃ができるアイテムを持つことも増えてきた。ただし、あからさまに現代的な銃の形をしたものは採用されず、クラシカルな弓やステッキのような形状になることが定番である。
近接武器については格闘の存在価値を減らすので扱いは現在でも慎重であるが、エネルギー状の武具を錬成する「技」として剣やハンマーを使うプリキュアもいる。特に『キラキラ☆プリキュアアラモード』ではプリキュア全員が武具錬成能力を持ち、それが徒手格闘よりも上位に置かれるという、プリキュアシリーズでも例外的な作風となっている。
近接武器はエネルギー状ならOKでアイテムならNGという理由は、玩具販促アニメならではの事情がある。プリキュアごっこをする子供達が玩具を使って誰かに怪我をさせてしまうリスクを避けるためである。
『キラキラ☆プリキュアアラモード』でのレインボーリボンは長めのリボンを振り回すという若干危険性を伴う仕様の玩具だが、ダンス遊びをメイン用途に据えている。またアニメ本編でもリボンで叩く描写は避けられ、手足を縛る、足場にする、輪っか状のエネルギーを発射するなど仮に真似しても危険性が少ない(もしくは真似できない)アクションが中心とされた。

主人公サイドでのプリキュア同士の戦いを行わないことには、MH映画版2作目で視聴者の子供達が怖がったことが影響している。ただし、子供達が怖がったのはあくまで「仲間割れ」の描写であるため、悪のプリキュアとの戦いや、主人公チームに属していないプリキュアと敵対することに制約はない。
毎年リリースされるプリキュアゲームで公式におけるアクションゲームや対戦型格闘ゲームがないのもこの影響があるようである(バンナムから発売されているプリキュアゲームはトランプお絵かきパズルアドベンチャーゲームダンスアクションが主なコンテンツである)。

流血描写の禁止については、プリキュアに限らず今の時代に子供向け作品を地上波で放映するならば基本的についてくる制約であろう。ダメージについては汚れ描写で代替している。
しかし、ただ過激にしたいだけでなく、子供達にも意図が伝わるような意味ある演出ならば流血描写もアリなようで、『ドキドキ!プリキュア』の劇場版で魔獣化したマシューの噛み付き攻撃を受け止めたキュアハートが流血したシーン(演出上やむを得ないことだったとスタッフが明かしている)が2018年現在唯一の流血描写として存在している。

腹への打撃描写の禁止はやはり「プリキュアは戦士と言っても女の子」だからという配慮である。ただ、劇場版など過激な演出がある程度許される機会では挿入されることが何度かある。
詳細は、腹パン(プリキュア)を参照。

腹への打撃描写や流血描写は緩和されていったのに対して、「顔への打撃描写禁止」は徹底して守られ続けている。
戦闘シーン以外で顔を殴打すべきシーンについても、ビンタの場面を効果音だけで済ませたりと一定の配慮がある。
ただし『ドキドキ!プリキュア』第8話のように眠気を払うために顔を挟み込んだり、お互いに相手の頬をつねったりデコピンしたりする程度の描写はOKのようである。また、顔に何かがぶつかる、転んだ拍子に顔を壁や地面にぶつけるといったギャグ描写であれば別段制限はない。
プリキュアではないキャラが顔面を殴られるのは全く問題ないようで、『Go!プリンセスプリキュア』第48話ではシャットクローズがお互いに相手の顔を殴りつけるシーンが登場している。

その他のダメージシーンとして、洗脳、石化、凍結、結晶化、封印などの状態異常の描写が見られる。

また基本的に敵側は巨大な怪物を召喚して戦うかプリキュアとほぼ同人数でまとめて直接襲いかかるが、これはいわゆる『リンチ』描写を極力減らすため。
例外的に『ハートキャッチプリキュア』のダークプリキュアなど桁違いな戦闘能力を持つとされるキャラクターは、単身で乗り込んでも問題ない様子(プリキュアから見て互角か優勢になる場合は基本タイマンだが)。
若干異質な例として『キラプリ』は敵味方ともに遠距離攻撃(敵は精神攻撃も)を中心とするためなのか、等身大サイズの敵幹部が普通に単身でプリキュアチーム相手に戦うことも多い。

変身シーン

プリキュアシリーズ以前の変身ヒロインものの変身シーンでは変身時に光に包まれるヒロインのシルエットが裸のように見える描写が多かったが、プリキュアシリーズでは『ふたりはプリキュア』と『スイートプリキュア』以外は体のラインを見せないように、光の集合体や衣装を纏うなどして工夫されている(『ふたりはプリキュア』と『スイートプリキュア』のような体のラインを見せる場合でも敢えて肌色にしていない)。

主人公たちがプリキュアに変身するためには、『ふたりはプリキュアSplash☆Star』までは二人一組で一緒に変身しなければならなかった。2人変身の場合、変身シーンは最後のキメポーズシーンを除き単独変身バンクが存在せず、一画面に二人が同時に映りこむ形で一緒に変身する。
「1人で活躍してはいけない」というタブーがある以上、単独変身もタブーにした方が話しづくりとしては自然なのだが(そうすればそもそも1人で活躍することができないから)、『Yes!プリキュア5』以降は単独での変身が可能になり、その後のほとんどの作品でも単独変身している。
その理由はもちろん1人でも戦えるようにするためではない。玩具販促アニメとしてはキャラクター1人1人をアピールできる単独変身バンクがスポンサーからの需要で盛り込まれたためだ。
その後も『スイートプリキュア』や『魔法つかいプリキュア!』など2人変身タイプの作品も出ているが、シリーズ全体を見ると単独変身の方が主流となっている。

変身後の呼び合い

プリキュアに変身した後は、昔のスーパー戦隊シリーズセーラームーンシリーズと同じくプリキュアの名前で呼び合う。例えば美墨なぎさは相棒の雪城ほのかから変身前は「なぎさ」と呼ばれているが、変身後はプリキュア名の「ブラック」と呼ばれる。これは初代から貫かれており、例え普段敬語で接していても年齢差があろうと変身後はプリキュア名で呼び捨てする(但し呼び名以外は敬語のまま)。例として、Go!プリンセスプリキュア春野はるかは先輩である海藤みなみにさん付けかつ敬語で接しているが、変身後はマーメイドと呼び捨てにして敬語を使っている。
なお、サポート役である妖精たちも、変身前は本名で呼んでいたのを変身後はプリキュア名で呼ぶ。

プリキュアは一般人に正体を秘匿するのが通例なのだが、一般人が周りにいないような場所でもモノローグでも変身後に仲間を本名で呼ばないので、正体秘匿のためというより、プリキュアになった時点で一個人ではなくプリキュアの戦士であるという演出の意味合いが強いのだと考えられる。
玩具販促の視点からすると「子供達にプリキュアの名前を早く覚えて欲しい」という大人の事情もあるだろう(ほとんどの玩具は変身前の名前でなくプリキュア名をパッケージにするため)。

但し、ごく稀に相手のことを変身前の本名で呼ぶ事もある。それは意図的な演出であり、「プリキュアの仲間同士」という繋がりを超えたところにある個人的な友情を強く示す必要がある時のみ使われる。
これはとっておきの演出として扱われており、プリキュアシリーズ全体を通じても数えるほどしかない。覚醒直後に変身前の名前を呼んだり、正体確認として呼ぶエピソードを除けば、現時点では『ふたりはプリキュア』第42話、『スイートプリキュア♪』劇場版、『ドキドキ!プリキュア』最終回、『キラキラ☆プリキュアアラモード』第29・35話などで「本名呼び」するシーンが確認できる。

敵キャラがプリキュアの名前を呼ぶときは規定がもう少し緩くなり、「プリキュアの正体を知っていて、変身前の姿の時から個人的な因縁がある」場合は相手を変身前の本名で呼ぶ。特に敵組織から寝返ってプリキュア側についた光堕ちキュアは、かつての同僚と相対したとき、組織で名乗っていた名前で呼ばれることが多々ある。

大変面白い例としては『フレッシュプリキュア』の妖精・タルトがいる。彼はプリキュアに変身していない状態でも相手をプリキュア名で呼んでおり、変身前の本名を呼んだことがオールスターズ版を含み全くといっていいほどない(プリキュアの正体を知らないカオルちゃんに対してキュアピーチを「ラブはん」と呼んだことが例外的に一度だけあった)。ただし、プリキュア以外の一般人キャラクターの場合は本名で呼んでいる(実例:ミユキはん大輔はんカオルはんなど…)。

男性キャラクターの扱い

プリキュアシリーズでは、「人間の見た目をした男性キャラクターは、バトルシーンでプリキュアを助けてはいけない」ということがかつては強く意識されていた。
重要なのは、これは人間の女子キャラクターや妖精の見た目をしたキャラクターであれば、バトルシーンで主人公たちをサポートする助っ人として登場できていたということである。

なぜ「人間の見た目をした男性キャラクター」だけがNGなのかというと、もともとは美少女戦士セーラームーンとの差別化という意識が強くあったかららしい。アニメ版のセーラームーンはタキシード仮面を活躍させるためにセーラー戦士のピンチを毎回作らなくてはならないという脚本上の制約があったことで有名で、なおかつ後発の多くのバトルヒロイン作品がそのフォーマットを継承したため、「不自然なヒロインピンチはバトルヒロイン物のお約束」としてかつてよくネタにされていた。
プリキュアの初代プロデューサーである鷲尾は主人公たちを「格好いいヒーロー」と位置付けていたため、この不自然なヒロインピンチ展開を撤廃しようと考えていた。しかし、初代プリキュアが放映された当時はイケメンキャラクターが助っ人として登場するのは当たり前と誰もが無意識に刷り込まれていたので、「人間の見た目をした男性キャラクターを活躍させてはいけない」と具体的に指示するくらいでないとその空気を打ち消せなかったのである。

プリキュアシリーズも10年を超えた現在ではヒロインピンチのお約束認識もすっかり薄れ、男性キャラクター活躍禁止と別段声高に言う必要もなくなったようで、プリキュアをサポートする形で戦場にとどまれる程度の強さを有する男性キャラクターもそれなりに登場してきている。
ただ、このようなキャラクターはあくまでプリキュアのサポートが基本で、敵と直接戦うことはあってもザコキャラクターを薙ぎ払ったり敵キャラクターの足止めをしたりするくらいであり、怪物を浄化し、敵幹部を直接倒すといったプリキュアと同じ形で勝利を収めることは絶対にない。そのためなのか男性が中心となりやすい警察軍隊(あるいは自衛隊)が登場することは少ない。(「お巡りさん」程度であれば登場することはある)

もっとも、プリキュアシリーズの味方側の男性キャラクターに求められる基本的な役割はプリキュアの日常の支えとなる理解者・サポーターである。戦場でのサポーターになれるキャラであっても、それ以前にプリキュアたちにとっての「守るべき大切な日常の象徴」となっていることが求められる。
これはプリキュアが従来のような男性に守られるヒロインではなく、あくまで男性を含む弱者を守るヒーローであるという初代から続く伝統が受け継がれているが故である。

正体バレカミングアウト

プリキュアシリーズでは「自分の正体を周囲に隠す」ということが伝統的に受け継がれている。
正体がバレたら動物に変えられる…………といったペナルティがあるわけではない。プリキュア変身者たちが自分の正体を隠そうとしている理由は人それぞれであるが、中核にあるのは「周囲の大人たちに説明ができないから」というごく日常的な感覚が基本である。親や先生に知られれば怪物と戦うなんて危険なことを許してくれるわけがないからである。

鷲尾Pが担当していた頃の初期シリーズでは、プリキュアの正体が第三者にバレるのかもしれないということが話のネタに使われることが多かった反面、最終的には本当にバレることはなかった。
しかし鷲尾が現場を離れてからは身近な知人に正体がバレてしまう展開も増えてきた。また、止むを得ず正体を自分からカミングアウトしたケースもいくつかある。

敵キャラクターの扱い

プリキュアシリーズの敵キャラクターの演出方針は、プリキュア以上に制約がある。
もっとも有名なのは「プリキュアの変身前に干渉してはいけない」である。まあこれは子供むけヒーロー番組ではプリキュアに限らずよくツッコまれる矛盾だが、その違和感をどのようにして目につかないようにするのかは各作品の脚本家、演出家の腕の見せ所となる。

プリキュアシリーズの敵キャラは、その最終目的が世界の破滅というような壮大なものであったとしても、プリキュア視点からすると「自分たちの日常を乱す存在」という身近なものとして扱われるのが基本である。
上述したように6作目『フレッシュプリキュア!』以降のプリキュアは「街の一般人たちを敵から守る」ことを目的に戦うわかりやすい正義のヒーロー像が強化されたが、これはあくまで自分たちが住む日常の生活空間である「自分の町」を守るために戦っているという意味でもある。どこか遠くの街でのことまで気にかける責任は持たされていない(ただし、遠くの国にすむ誰かが助けてほしいと自分から頼んできたのなら見過ごすことはない)。
なので、プリキュアシリーズの敵キャラのほとんどは「プリキュアを倒すこと」自体が使命として与えられており、プリキュアのいる街で悪事をわざわざ行うことに理由づけが一応されている。

プリキュアは敵を倒したときに、命を奪っているという扱いにしない演出が全シリーズを通じて徹底されている。
まず基本的に毎回戦う怪物たちは、敵キャラクターが目についた適当な道具や動植物、街の人々などに「邪悪なエナジー」のようなものを注ぎ込むことで生み出すというのが基本である。怪物のデザインや行動もコミカルさをある程度出すようにされていることが多く、メイン視聴者である年少の少女層を怖がらせすぎないようおどろおどろしさは仮面ライダーシリーズ等に比べるとかなり控えられている(但し『魔法つかいプリキュア!』のデウスマストは、今までの敵キャラと比べて、かなりおぞましい外見となっている)。怪物を倒すとその邪悪なエナジーのようなものが霧散し、怪物の触媒にされていたものは本来な姿を取り戻す。
ハートキャッチプリキュア!』からは、そのあたりをより強調するために、怪物を倒す瞬間の演出を痛々しいものではなく、優しく癒して元の姿に戻すような演出にするようになった。
このころからプリキュアシリーズは怪物を倒すことを「浄化する」という表現に言い変えることが多くなった。同時に、いわゆる「必殺技」という呼び方も公式サイドでは使われなくなり、代わりに「キメ技」と呼称されるようになった。

怪物を生み出す敵キャラクターたち(「幹部」と呼ばれることが多い)は知性と人格を持ち、プリキュアたちと交流もする。外観も人間とほぼ変わらない場合が多い。そのため、彼らが倒される場面の演出はよりデリケートである。
プリキュアシリーズでの首領格やその配下たちの定番設定として、彼らは自然な形で生まれた「生物」ではなく、「闇」「欲望」「絶望」「憎悪」「嫉妬」「不幸」など何らかのマイナス要素を有する概念や感情が、凝り固まることで意思を有した「邪悪な化身」とされることが多い。
そのような敵キャラたちは、基本的にプリキュアたちに倒されると「あとかたもなく消滅」し、死体を残さないことで「死」のイメージを薄めている。
第一作『ふたりはプリキュア』では、一番最初の敵キャラであるピーサードを消滅させたときに、キュアホワイトが自分たちはとんでもないことをしてしまった(=相手を殺してしまった)のではないかと一瞬パニックになるが、妖精のメップルがすかさず「闇に帰っただけ」とフォローするシーンがある。これはホワイトに対してよりも視聴者に向けたメッセージの意味合いの方が強いだろう。

シリーズが進むにつれて、敵キャラが「闇の化身」ばかりでは物語のマンネリ化を避けられないため、『フレッシュプリキュア』からは主人公たちと同じような「血が通った、命ある人間」が敵キャラとして立ちふさがるケースも出てきている。
命ある人間の敵キャラたちはプリキュアによって「消滅」させられたことがいまだない。上述で述べた浄化のプロセスによって元の姿を取り戻したり、浄化とは無関係に改心したりもする。

プリキュアと同年代な少女キャラクターがライバル的ポジションとして登場することもあり、その場合プリキュアと和解したりプリキュアに覚醒したりする展開が多い。

プリキュアたちの身近な者の死を描くこと自体はある(例:『ハートキャッチプリキュア』の月影博士コロン)。あくまで主人公側のプリキュアたちが命ある人間を殺すことはしないというだけであり、『フレッシュプリキュア』のイースもプリキュアになる前に一度死亡している。
会話内でも「殺す」「死ぬ」というストレートな表現は自粛されており、言い回しを工夫して「消す」「失う」「いなくなる」など別の単語に言い換えられている。(これは上述した言葉遣いのルールとも被るところである)

敵幹部は全体的に現場へほぼ毎週単独で赴き、怪物を現場にけしかけ、怪物にプリキュアを倒すよう命令したり、苦戦するプリキュアを嘲笑ったり罵倒するだけで、生み出された怪物及び他の幹部と共闘することは、余程特殊な事情でもない限り全くといっていいほどない(仮にあったとしてもストーリー終盤であり、そのキャラクターたち自身もコンビで常に行動するタイプだったりもする)。
敵幹部が同僚同士で協力や共闘することがないのは、やはり利用し利用される及び騙し騙される非常に醜悪な関係性が日常茶飯事な悪者らしい演出ゆえであり、チームワークを最重視するプリキュアとの対比ゆえでもある。どのシリーズでも組織内部での出世欲に目が眩み、己の手柄を挙げることに非常に躍起になるため、お互いに罵り合ったり、足を引っ張り合ったり、意地を張り合ったり、出し抜き合ったりと、幹部同士の仲はお世辞にも決して良くない(お互いを全く快く思わない『Yes!プリキュア5』のカワリーノブラッディの末路はその最たる実例である)。

また、プリキュアシリーズの敵キャラクターはどんなに悪辣で卑劣且つ不快なキャラであっても戦いを通じてプリキュアたちの成長を結果的に促す存在となるのが基本である。
敵キャラクターの悪行や蛮行がプリキュアたちに自分たちが現在置かれている現状や欠陥を客観的に見つめ直させるきっかけになったり、それを契機に自分たちが成長する上で、仲間たちや周囲の人々との触れ合いや切磋琢磨がいかに大切なのかを改めて気づかせ、プリキュアたちの成長に一役も二役も買っていることにもつながっていく。勿論、敵キャラクター自身にそんなつもりは全くないのだが、結果的にはプリキュアたちだけでは全くどうにもならない袋小路を打破してくれる、皮肉ではあるものの大変貴重な存在にもなっているのが実態である。
エリシオ役の平川大輔氏はアニメージュ増刊号のインタビュー内で自身が演じるこのポジションをエースをねらえ!宗方仁に例えた。

プリキュア側も敵キャラを「追い払いたい」と考えているだけで、何人かの紫キュアのように敵に対して「憎悪」や「殺意」の感情を持つ者は少ない。登場してからしばらくは敵に憎悪や殺意を抱いて戦っていたというプリキュアもいるが、他のプリキュア仲間や周囲の人々とのふれあいで憎しみや殺意が次第に薄れ、最終的には敵キャラを許すことにもなるのである。
これらのことから、プリキュア側はその町内で非道を働く敵キャラクターと彼らがけしかける怪物を毎回毎回追い払うだけで追い討ちはしないという受け身スタイルを一貫することになる。逆に、敵組織のアジトを手っ取り早く真っ先に打倒するという積極的な奇襲を全く敢行しないのも本シリーズの特徴でもある。敵組織の黒幕と敵アジトで直接対決するのは、翌年1月の最終決戦というのがもはや本シリーズの風物詩となっている。
この点は子供向けヒーローアニメでの恒例行事といえるが、作品によっては奇襲をかけたくても場所が単純にわからない、プリキュアが行き来する手段が全くないなどそれなりの理由づけもされている。

敵キャラクターの末路は、殉職、改心しないまま撤退、プリキュアとの戦いを通じて改心する、プリキュアに浄化されて新たな人生を歩み始める、以上の4つに大別される。
このようにして、プリキュア敵組織の基本的スタイルは2代目以降も一貫して踏襲されることとなる。余程なことでも起こらない限り、このスタイルが変更されることは絶対にないだろう。

水着回の扱い

プリキュアシリーズは性的な描写は不必要ならば避けるということが意識されている。
それ自体は理解できる方針だが、性的な描写の基準として初代作で鷲尾Pが例示したのが「水着回の有無」であり、プリキュアシリーズではキャラクターたちが水着を着ることが長い間避けられ続けていた。

…とはいえ、正直なところ水着より際どい格好になることは普通にあったりする。なので、性的な描写の自粛がいつの間にか水着NGという形骸化したルールに置き換わっているのではないか?という疑問が言われることもしばしばある。
水着NGのせいで、海やプールを舞台とするシーンのシナリオ展開が極端に制限されていると指摘するファンの声もよくあった。
特に「別に性的じゃないように水着を描けばいいだけじゃないのか、何故それができないのか」というもどかしさはシリーズを長く視聴しているファンほどよく感じることであった。

しかし、これにはある理由が存在する。実は鷲尾Pから2代目の梅澤Pに交代した最初の作品である『フレッシュプリキュア』では「中学生の女の子らしい日常をちゃんと描く」ことを目的にあえてタブーを破って美希の水着姿を描いたことがある。この時はそんなに性的なシーンにはならないようにしていたのだが、この時に周りの男の子たちが美希に見とれるシーンに対して視聴者の親御さんたちから苦情が寄せられてしまった。水着NGをあえて破るように主導したのは梅澤P本人であったためこれは強いトラウマとして残り、彼がプロデューサーを担当する4年間にプリキュアシリーズでは鷲尾P時代以上に水着に対する忌避感が強く現れるようになり、梅澤Pが退いた後もその空気がずっと引き継がれていったのだ。

水着NGが子供のためじゃなくて単に作品の幅を無意味に狭めているという思いは現場スタッフの間でも問題意識として共有されていたようで、2015年の『Go!プリンセスプリキュア』で「今年は海のプリキュアがいるので、海での遊びの楽しさをちゃんと描きたい」という現場の思いを優先して、当時のプロデューサーであった神木優が慣例を破って水着回の許可を出す。変に媚びたような演出にならないように注意したことが功を奏し、特に問題にもならなかったようで、それ以降も水着回は夏の定番としてプリキュアでも見られるようになっている。
プリキュア水着解禁の項目を参照のこと)

下着の扱い

プリキュアシリーズは「ドレスのような華美なコスチュームで激しいアクション」というのが重要視されているため、ほとんどのプリキュアがふんわりしたスカートを履く。
そのため、ジャンプしたりキックしたりするとスカートの中身が見えないとおかしいアングルになることが多々ある。
だが、プリキュアシリーズでは何があってもパンツそのものが見えることはないという大前提がある。

まず、基本的に鉄壁スカートの演出が基本であり、そうそう中は見えない。
カットアングルの都合上で鉄壁スカートができないような場合は、かつては「スパッツなりレオタードなりで誤魔化す」というアドリブで対処していた。どう誤魔化すのかは完全に現場判断だったので、ある話でレオタードがチラ見えしていたキャラが別の話ではスパッツがチラ見えしていたりと統一性はなかった。

しかし『ハピネスチャージプリキュア!』からは、コスチュームデザインのレベルでスカートの中がどうなっているかが色や形まで厳密に設定されるようになったため、以降のプリキュアは見せパンとして肌の密着度が薄いオーバーパンツが履かれている。多くはドロワーズを履いており、さらにスカートの中がパニエ構造(多重フリル)になっているというのが基本。スカートが細めだったり短めだったりする場合はスパッツを履いていることが多い。

なぜスカートの中までちゃんと設定するようになったのかというと、プリキュアシリーズが3DCGによるコンテンツを制作するようになったことと関係している。CGでは鉄壁スカートという非現実的な演出がしにくく、スカートの下が実際に映像に映ることが多々ある。なので「見えても大丈夫なように見せパンを履かせる」という現実的な対応が必要になってしまったのである。

ドロワーズ時代になってからはTV本編中でも割とそれが見えることも増えたが、これはドロワーズは体積が大きいので鉄壁スカートでも誤魔化しきれないケースが増えたため。
プリキュアシリーズは初期の頃は鉄壁スカートができない時にはいてないを想起させるカットもよく合ったが、現在はどうしようもなければ素直にドロチラさせる傾向である。見せパンとしてデザインしているのだから、そちらの方がまだ性的にならないというのは確かではある。

近年ではコスチュームデザインも多様化してきており、スカートがキュロットもしくはバルーンパンツに近い形状になっていて中が見えにくいような工夫をされているものもいる(キュアフェリーチェキュアジェラートなど)。
その逆の発想として、ドロワーズやスパッツを下着という扱いで隠すのでなく、レッグウェアとして扱い常時見えるようにしているものも出てきている(キュアフローラキュアショコラなど。なお、初期のキュアブラックもスパッツは下着扱いではなくレッグウェアとして隠していなかった)。

恋愛描写の扱い

恋愛要素は作中では薄めに扱うことが意識されている。
これは、プリキュア初代作が作られた頃の少女向けアニメが「イケメンを出してキュン死描写させとけばそれなりに受ける」という思考停止で作られているものばかりだったことへのアンチテーゼであり、イケメンで釣るやり方は避けようとこだわったためである。
(例外的に第4作『Yes!プリキュア5』が恋愛要素が強く意識された作風になっているが、これは上述したようにプリキュアシリーズの不振からのテコ入れのためであり、後の製作スタッフへのインタビューでは「少しやりすぎた」と述懐されている)

ただ、これは恋愛要素を作品の中心テーマに据えないというだけの話だけであり、作品のスパイスとして淡い恋愛描写を演出することは別に問題はなかった。
実際、鷲尾がプロデューサーを担当していた初期の5作品では「メイン主人公がある異性に想いを寄せており、尚且つ自覚している」という少女漫画的かつ古典的な描写が常に存在していた。
しかし梅澤淳稔が2代目プロデューサーとして担当についてからは、恋愛に憧れる感情を描くこと自体がタブーのように扱われ、スパイスとしての恋愛要素も敬遠されるようになってしまった。
これは梅澤Pがプリキュアを初めて担当することになった第6作『フレッシュプリキュア』で主人公の淡い恋愛描写に苦情が来たことが原因である。「リアルな中学生なら普通のこと」を描くのは梅澤Pがこだわりを持っていた部分であったため、それが否定されたことで色々と考えることもあったようだ。とにもかくにも、苦情が来てからの梅澤Pはプリキュアとなる少女達が恋愛に憧れるような描写を極力排除する制作態度を取り続けるようになった(完全に排除されていたわけではないが……)。
この結果、一部の大きなお友達からはプリキュアは百合アニメと揶揄する声が出たくらいである。
大きなお友達によるプリキュアの二次創作作品で百合キュアが主流になってしまったのはこの4年間がきっかけである(それ以前は百合キュアは二次創作でも傍流扱いだった)。

梅澤Pがプリキュアシリーズ担当から身を引いて以降は、男性キャラとの淡い恋愛描写も少しずつ復活してくるようになり、男性キャラの存在感も増した。
特に第11作目の『ハピネスチャージプリキュア!』では「プリキュアシリーズがいつの間にか積み重ねていた恋愛タブーの空気を和らげるきっかけとしたい」と強く意識していた作品であり、主人公の愛乃めぐみが地球の神ブルーに恋心を抱くようになる一方で自分は幼馴染の相楽誠司に昔から好意を寄せられているというプリキュア史上初の明確な多角関係が描かれている。

食事描写の扱い

意外に見過ごされがちな点として、プリキュアシリーズでは「食べ物の好き嫌いを極力描かない」と言うことが意識されている。
これは「プリキュアみたいになりたければ好き嫌いはなくそう」という食育的な側面が意識されているため。

「プリキュアに好き嫌いはない」ことをわかりやすく描くために、プリキュアには小食を特徴とするキャラは一切いない(食事の摂り方に気を使うことはある)。逆に大食漢は多い。この点についてはプリキュア大食い仲間の項目も参照。
初期シリーズの頃はアニメ的な過剰演出ゆえに普通の人間には不可能なレベルの暴飲暴食をするプリキュアも割といた。今の時代の映像倫理ではこれでは逆に健康的とは言い難いということで、近年のプリキュアたちの摂食量はさすがに常識的なものとなっている。

ただし、食べ物の好き嫌いがあるプリキュアも少なからずおり(玉ねぎが苦手ななぎさ、ニンジンが嫌いなラブ亜久里、ピーマンが苦手なせつななど)、近年ではプリキュアたちにも嫌いな食べ物はあると描いた上で、それを克服するエピソードを作ることで食育的な内容を実現している。

親キャラクターの扱い

これまた見過ごされがちだが、親の立場にいるキャラクターは悪者になりすぎないよう配慮されている。
実際、プリキュア達の親の多くは子供の夢や自立に対する良き理解者として描かれる。
親子仲がギクシャクしているプリキュアもいるが、誤解やコミュニケーションの行き違いが原因であることが多く、最終的には相互理解に落ち着くのがお約束。

また、敵キャラであっても「子」を持つ父や母ならば基本的には和解可能として描かれる。
その場合は親子どちらかが他人に洗脳されていたなど致し方がない理由が据えられるのが基本。ただしサラマンダー男爵のような血の繋がらない保護者役ならば悪事を働いても問題ない模様。(彼は後に和解している)
幼児が視聴するアニメは親がチェックするため、親が不快にならないようにという意味合いが大きいのだと思われる。

なので同じニチアサ枠の30分違いの世界に出てきた自分の娘を蘇らせるために何人もの人間を犠牲にした父親や、自分の子供を実験材料としか見ていない科学者のようなキャラクターをプリキュアに出す事は大変困難といえる。

なお親の過剰な愛ゆえに騒ぎを起こしたマァムについては、愛情自体を決して否定しないよう考慮された。

成長したプリキュアの描写

プリキュアシリーズでは主人公を含めた多くのキャラクターは将来の夢などを持っているものの、「キャラクター達の未来像」を明確に描くことがかつては避けられていた。
最終回後にエピローグを描く事はあっても数ヶ月後までであり、「舞台となる学園を卒業した後」を絵で見せることはなかった。

小説スマイルプリキュア!を執筆した小林雄次によると、「プリキュア達の10年後を描いていいか」と東映側に確認をとったところ、映画「プリキュアオールスターズ」との兼ね合いがあるのでキャラクター達が成長した姿を書いてはならないと忠告された事をトークショーで話しており、これがタブーとされていたことが明らかになっている。詳細についてはこちらを参照。

プリキュア全員が揃うという意味でのオールスターズ映画が一旦休止状態に入った2015年以降、このあたりの制限は緩くなったようで、2015年放映作『Go!プリンセスプリキュア』の最終回では主人公が大人になった姿がエピローグで描かれ、古くからの視聴者を驚かせた。
それ以降もいくつもの作品でプリキュアたちの数年後の姿が描かれるようになっている。(どの作品で描かれているのかについてはヤングプリキュアの項目を参照)

成長した姿を避けてきた理由は上述のプリキュアオールスターズ関連も原因だが、変身要素がそもそもある女児向けのアニメでは、キャラクターの成長による変化を描くのはメインターゲットである女児からは好き嫌いが分かれやすい。
プリキュアへの「変身」でキャラクターの変化があるのだから、プリキュアになる前の素の姿が成長により変化してしまうのは「変身」の憧れを現実的なものに落としてしまうからだ。この点はプリキュアシリーズに限らず魔法少女アニメなどで昔から指摘されていた傾向である。
そのため、大人になった主人公達が大人姿のプリキュアに変身する描き方は現在でも避けられている。
(『魔法つかいプリキュア』で主人公達が大人になった未来を描いた時は、彼女達が中学生の姿に戻ってしまうというトラブルを描いた上でプリキュアに変身させ、『HUGっと』で大人になった過去作のキャラクターが客演した際も同様の手段で若返るようにされている)

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