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日本史の編集履歴2019/05/03 19:01:40 版
編集者:サイキックス
編集内容:平成追記。

概要

日本国および日本列島および関連地域の歴史に関するタグ。

 日本島国であり、古代国家成立後は近代まで大規模な異民族の侵入がなかったこと、東アジアにありながらヨーロッパと同様の歴史的発展経緯をたどっていること(具体的には中世が存在する)、中央権力の変遷にもかかわらず古代王朝(皇室)の権威がその後ろ盾として残っていることなどの特徴がある。

 なお、この項目の時代区分について詳しくは時代タグで。

概略

先史

 日本にが住み出してから、まとまった文字資料がある時代(概ね飛鳥時代)以前を「先史時代」と呼ぶ。詳細は縄文時代弥生時代古墳時代を参照。

 人類が列島に住むようになったのは8~9万年前からと推定され、遺物が増えるのは3万年くらい前。この頃はもっぱら狩猟採集をするいわゆる旧石器時代であった。

 1万5000年前に氷河期が終わる頃には日本列島の人々は定住生活に移り、東日本を中心に約1万2000年の長きにわたり縄文文化が栄える。縄文時代の人々は、狩猟採集の傍らや粟、稗、イモなどの栽培を営み、列島各地の交易も盛んとなった。縄文土器が発達して食料事情も改善。豊かな精神文化も育まれ、縄文土偶も種類を増した。

 紀元前10世紀頃には水田作や金属技術が大陸より本格的に伝播し、本州以南の各地で稲作が行われた。村々を束ねる勢力が生まれ、によってへと成長していく。

 一方東北地方では早い時期から水田稲作が行われていたものの、後の寒冷化等の影響により崩壊、それに伴い人口が激減したらしく、東北中部以北は続縄文文化に逆戻りしたと思われる。

 紀元1~3世紀の西日本には中国後漢から三国志時代)と関係を結ぶ国が現れた。中でも有名なのが卑弥呼邪馬台国であり、『魏志倭人伝』によれば、景初2年(西暦238年)に倭国からの使者が朝貢に訪れ皇帝から「倭王」に任命されたなどの記述がある。また当時の日本には数多の小国同士による倭国大乱が終結したばかりで、邪馬台国もヒミコの呪術によって諸国を束ねる連合国家の体であったとされる。

 ただし歴史書の記述を見る限り倭国の位置が九州からさらに南方に連なり会稽のちょうど東で、そこはどう見ても日本ではなく東シナ海の海中であり、事実、中国に残されている地図にもそのあたりに倭国が描かれているなど、記述史実をどの程度反映しているかは不明である。

 3世紀後半頃から有力者達の巨大な古墳が作られ、各地の勢力が争う中で近畿地方を拠点とするヤマト王権の優位が固まっていく。ヤマトの王が大王(おおきみ、後の天皇といわれる存在となる)で、その内の一人である第10代崇神天皇は実在が確実とされる最初の天皇ともいわれ、少なくともこの頃に皇室は存在していたと考えられている。

 初代天皇とされる神武天皇の即位は『古事記』、『日本書紀』の記述どおりであれば「紀元前660年」となるが、前述の通り2~3世紀には小国が割拠しているうえ、年数の係数法の差異やその実在や実年代には確証がなく不明である。

古代

 推古朝元年~永暦元年(西暦593年~1160年)の飛鳥時代から平安時代武家政権成立までを古代と言う。詳細は飛鳥時代奈良時代平安時代を参照。なお国語学・日本文学史や神道史などの分野では、奈良時代以前の時代を「上代」、平安時代を「中古」と言い区別する。

 6世紀に朝鮮百済から仏教が伝来。飛鳥聖徳太子や蘇我氏による国作りが進み、遣隋使小野妹子を派遣。645年、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)により蘇我氏が倒され、中大兄皇子主導で大化の改新によるを模範とした国家建設がなされたが、663年に白村江の戦い新羅と唐の連合軍と倭国と百済遺臣による戦い)に敗れ、日本は朝鮮から手を引いた。

 天智帝の後継争いの壬申の乱(天智天皇の子の近江の大友皇子と天智帝の弟大海人皇子の戦い)に勝った天武天皇は天智帝の事業を引き継いで律令制(成文法をもって統治するシステム、特徴的なのは土地国家のものとし、戸籍を作り人民に土地を貸与する代わり兵役および年貢の義務を課す制度)の導入を始めた。この頃に、日本の独自性への自覚もおこり、『古事記』『日本書紀』が編纂され、天皇」と「日本の名が生まれたとされる。

 8世紀初には桓武天皇により平城京遷都、盛んに遣唐使を派遣して唐から様々な技術文化、制度を導入。仏教を中心として天平文化が花開き、東大寺大仏が作られた。しかし、仏教の興隆により僧侶の政治介入も多くなった。

 8世紀末、平安京に遷都。律令制が崩れ出し、荘園制寺院などの権力者が土地を私有し、管理は有力者が指定したものが行うシステム)が起こり、藤原氏摂関政治(天皇を補佐する役割である摂政および関白独占することにより、権力を維持するシステム)が成立。貴族達の政治とともに、国風文化が成長。地方では平将門といった地方豪族から発展した武士達が出現し、中世への動きが始まる。

中世

 永暦元年~永禄11年(1160年~1568年)平氏政権成立から戦国時代末期までを「中世」と言う。詳細は平安時代鎌倉時代南北朝時代室町時代戦国時代)を参照。

 平安末期の11世紀頃、上皇による院政が始まり、時を同じくして中央政治に武家が台頭。治天の君白河法皇の院政下で平氏が力をつけ、1160年代に平清盛が院政を停止して初の武家政権を興すも、源平合戦を経て源頼朝率いる源氏が勝利した。

 これにより鎌倉幕府が始まり、承久の乱後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権である北条義時成敗しようとして返り討ちにあったもの)で朝廷に勝利し、武家制度を固め、全国に支配を及ぼした。二度も襲来したモンゴル軍(実際にはモンゴル=元を中核とした、高麗や南宋の連合軍)を食い止めたが(元寇)、幕府は弱体化。

 14世紀、後醍醐天皇武将達と共に幕府を倒し建武の親政(天皇親政で過去の朝廷政治を復権させようとしたもの、当然武士に対し冷遇した)を始めたが、離反した足利尊氏室町幕府を開いた。から逃れた後醍醐帝は吉野に朝廷を作り、南北朝分裂となり対立が続いた。

 足利義満が南北朝統一を主導し、日明貿易でとの公式外交を再開し、「日本国王」の称号を受ける。この頃、義満の代に北山文化、足利義政の代に東山文化が生まれた。

室町時代後期には各地の「守護大名」(単位で設置された軍事指揮官・行政官である守護室町時代に司法権の追加など権限を強化され、世襲となり有力豪族となったもの)が力を増し、関東では28年にわたる享徳の乱が勃発、戦国時代に突入する。つづいて畿内で起こった応仁の乱で幕府の権威は衰微し、わずかに京都周辺に影響力を及ぼすのみとなった。

16世紀から各地では武田信玄上杉謙信といった多くの戦国武将が出現し、天下統一を目指して下克上の戦乱が続いた。ヨーロッパとの南蛮貿易が始まり、火縄銃キリスト教が伝来した。

近世

 永禄11年~嘉永7年(1568年~1854年)織田信長の上洛から日米和親条約による開国までを「近世」と言う。詳細は安土桃山時代江戸時代を参照。

 信長中部近畿を中心に勢力を増して室町幕府の将軍足利義昭を奉じて上洛したが、ほどなくして義昭を京都から追放、一般的にはこれが室町幕府の滅亡とされる。しかしその信長も明智光秀によって本能寺の変で倒れ、光秀を倒した豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた。

 秀吉刀狩(農民から鉄砲などの武具を奪う政策、一揆の防止策とも)と検地(いわゆる太閤検地、土地を改め権利をわかりやすくし、単位を統一した)を行い、近世武家政権の礎を築いた。を目指して朝鮮出兵を二度おこなうも、目的を果たせず秀吉が死亡したことで失敗。

 その跡目争いが発生したが関ヶ原の戦い石田三成を倒した徳川家康は、慶長8年(1603年)に江戸幕府を開いた。豊臣家も大阪の陣で倒し、徳川家にとって脅威となる勢力を完全に消した。全国を諸侯を通じて統治する封建制を基本としつつも、室町幕府や鎌倉幕府と異なり諸藩・朝廷に直接強力な支配力を及ぼす幕藩体制を布いた。

 またこの時代にはアイヌは15世紀ごろより蠣崎氏に支配され、その流れをくむ松前藩に支配された。また琉球琉球王国が存在したが17世紀初めに薩摩藩および幕府との外交の失敗により侵略を受け、王国は維持されるが薩摩藩の付属物扱いされることとなった。

 幕府の徳川家光の代に島原の乱をきっかけに鎖国を完成し幕藩体制は一応の完成を遂げる。いくつかの例外を除き基本的に天下泰平の社会が続き、安定した経済と産業が発展し、江戸大坂京都を中心に庶民文化が花開いた。

近代

 嘉永7年~昭和20年(1854年~1945年)の開国から第二次世界大戦終結までを「近代」と呼ぶ。詳細は日本近代史および幕末明治大正昭和史を参照。

 19世紀半ば、相次ぐ天災や財政難で幕府は疲弊し、その権力は揺らぎ、勤皇の風潮のなか朝廷の権威が再び上がっていく。黒船来航と開国によって時代は幕末を迎え志士達が活躍。徳川慶喜によって日本の統治権を朝廷に返還する大政奉還がなされる。にもかかわらず、薩長の思惑で戊辰戦争が起こり、幕府は完全に滅亡し、同時にの時代の終わりも決定的となり、明治維新を迎えた。

 主導の政府は「復古」と「近代化」の二面性があったが、後者を重視する勢力が優位に立ち急速に西洋化へと舵を切る。

新政府は欧米からの新しい文化を強力に摂取し、これを文明開化と称した。急速な近代化に抵抗する西南戦争などの士族反乱を鎮圧し、自由民権運動に対する懐柔として大日本帝国憲法を作り、富国強兵政策を進めて日清戦争日露戦争に勝利し、幕府が列強と結んだ不平等条約を改正して欧米と対等な国家となった。日清戦争で台湾を、日露戦争で朝鮮を統治下に置き、帝国主義国家への一歩を踏み出した。

20世紀前半、大正デモクラシーと大衆運動が国内で高まり、国際社会では第一次世界大戦に参戦し列強の一員となり、ロシア革命ソ連建国ではシベリア出兵を行った。大正12年(1923年)、東京関東大震災が襲い、昭和の不景気の遠因となった。

昭和に入ると日本は世界恐慌に巻き込まれ、政治に軍部が台頭。関東軍満州事変から満州国を建て、国際的に孤立し支那事変に発展。日本はと対立し、枢軸国として組み、大東亜共栄圏の建設を目指して第二次世界大戦太平洋戦争/大東亜戦争)へ突入。

現代(平成まで)

 昭和20年1945年)の終戦以降を「現代」と区分。詳細は昭和史平成を参照。

 敗戦により日本はアメリカ合衆国を中心とした連合国軍に占領された。アメリカ主導のGHQ統治の下で改革が進められ、昭和21年に日本国憲法を公布。戦後の冷戦下、昭和27年(1952年)にサンフランシスコ講和会議で独立した後も西側諸国の一員としてアメリカの影響下に置かれた。敗戦の痛手から急速に復興を遂げ、高度経済成長期を経て日本人の生活スタイルは激変し、日本は世界第二位の経済大国となった。

昭和64年(1989年)昭和天皇崩御により「平成」へ変わり、冷戦は西側の勝利で終結するが、日本経済はバブル経済崩壊し長い不況に突入する。

同年には、消費税が導入された。平成7年(1995年)には、オウム真理教による地下鉄サリン事件、阪神淡路大震災が発生した。

21世紀になってアメリカの覇権は弱まり、中国などの台頭により国際社会は多極化し、日本の国際的地位も後退。 平成13年(2001年)には、アメリカで同時多発テロが、起きて、日本人も巻き込まれた。平成17年(2005年)には、多くの場所で市町村合併が行われた(いわゆる平成の大合併)。平成23年(2011年)には東日本大震災が襲い、平成28年(2016年)には、熊本地震も発生。また、同年には、消費税が8%に上がった。

現在(令和)

詳細は、令和を参照。

2019年4月30日に125代目天皇明仁の生前退位により、5月1日より、徳仁が126代目天皇に即位し、令和にかわり現在へ至る。

別の日本史

日本列島には異民族ないし本土とは別の統治政権下に入った地域集団が存在し、彼らもまた、日本に影響を与えている。この項目ではそれらに関し記述する。

蝦夷と隼人

 蝦夷(エミシ)は古代の東北地方にいた人々。平安期頃までアテルイをはじめ朝廷に反抗し続けたが、徐々に帰属していった。後に蝦夷(エゾ)と呼ばれるアイヌとの関係は不明だが、一応区別されて考えられている。

 熊襲(クマソ)や隼人( ハヤト )は九州にいた海洋民と思われる人々で、神話では朝廷に反抗し続けた勇猛な部族として伝えられている。多くは朝廷に服属して、軍事官職を意味する名になったり、鹿児島男子の呼び名にもなった。

 蝦夷の末裔の多くは百姓になったが、一部は東国武士に連なっていった。また、後世には山々を漂泊する人々が蝦夷や熊襲の末裔に結びつけられたりもしている。

アイヌと北海道

本州が弥生期・古墳期に移行したあとも、気候の関係上続縄文時代と呼ばれる縄文文化が続いた、7世紀から本州の影響を受けて、擦文式土器と畑作農耕を行う擦文文化に移行する。石狩平野などでは古墳(後期古墳)も作られた。同時代のオホーツク海沿岸には、樺太から移住した民族によると思われるオホーツク文化が存在した。

アイヌ文化ができたのは鎌倉期頃と思われる。本州の和人や北方民族との交易が盛んとなり、鉄器や農作物が簡単に手に入るようになったため、北海道の住民は農業土器作りから撤退し、擦文文化から交易のための狩猟採集生活に特化したアイヌ文化に変化した。

室町時代には「道南十二館」と呼ばれる和人豪族たちが道南に定着しアイヌと交易を行っていたが、コシャマインの戦いと呼ばれるアイヌ蜂起を機にその中の蠣崎氏が覇権を確立し、江戸期に松前藩による蝦夷地支配に変化。アイヌはシャクシャインの戦いをはじめ何度も反乱を起こしたが鎮圧され、アイヌは和人の影響下で暮らすこととなる。一方で、松前藩はアイヌとの交易の利益を独占するため、蝦夷地への和人の入植を阻止した。

江戸時代後期にはロシアの艦船が近海に出没。幕府は国防への危機感から松前藩から支配権を取り上げて直轄地とし、道南以外の沿岸部にも和人の進出が進んだ。幕末から明治にかけ、松浦武四郎アイヌ語をもとに北海道の地名を付け、その足跡は樺太を含む蝦夷地の隅々まで及んだ。

明治以降、北海道内陸部の和人による開拓が急速に進み、それまでアイヌが営んでいた狩猟採集生活は困難となり、アイヌ文化は廃れていく。戦後はアイヌ語を話す人は稀になったが、独自文化を持つ先住民族として保存運動が高まった。

樺太

 樺太南部には樺太アイヌ、中北部にはウィルタ、ニヴフが居住した。大戦後、ソ連軍が千島や樺太を占領し、日本人と共存していたアイヌ人やウィルタを追い出した。現在、樺太アイヌ・千島アイヌやウィルタの末裔の多くは北海道や首都圏に居住している。

琉球と沖縄

琉球諸島(沖縄県と奄美群島)の住民の祖先は古墳期~平安期に九州から南下した人々が主体となっているとされるが、彼らがいわゆる大和民族に属するかは微妙な問題である。琉球諸島の住民と本土住民は民族的に明らかに同系であるが、異なる政権下にあった時代が長いからである(沖縄の近代史は「日本人」としての日本帰属を強く求めてきた歴史であり、編集者は本土住民と同一民族とみなすべきと考えるが、異論は認める)。

琉球諸島の住民は長らく縄文文化の段階(貝塚文化)にあったが、12世紀から按司( あじ )という豪族達がいくつもグスクを築いた。14世紀には北中南の三山王国が成立。15世紀前半に中山の尚氏(第一)が統一し、尚氏による2つの王朝(15世紀半ばに王族クーデターにより第二尚氏王朝が成立)による琉球王国ができる。

 琉球王国は現在鹿児島県に属する奄美群島も支配下に置き、大陸や東南アジアとの中継交易で栄えたが、16世紀後半には諸外国の直接貿易が主流となったために衰退の道をたどった。17世紀には薩摩藩の出兵を受け薩摩の支配下に入る。この時期は薩摩との間の中継貿易と、黒砂糖生産などの農業が発展し、今ある沖縄文化はこの頃に形成された。

 幕末には黒船が琉球にも来航。近代日本は明治7年(1874年)の台湾出兵(琉球民が台湾民に殺害されたがその責任をに求めようとしたが責任を取らなかったため日本は台湾に出兵)を機に、琉球を「沖縄県」として内地の府県に編入。その後も琉球文化は独自の色を濃厚に残し、空手などが本土にも伝播し、また日本統治下に入った台湾との交流も盛んになり、沖縄そばなどの新しい食文化も生まれた。戦争において沖縄戦で壊滅的な破壊を被り、多くの県民が犠牲になった。

戦後は米軍が沖縄を奄美群島と一緒に日本から切り離して統治し、沖縄本島には軍事基地が多く作られた。米軍支配に住民の不満は高まり、日本復帰運動が燃え上がった。奄美は昭和28年( 1953年 )に日本に復帰し、沖縄も昭和47年(1972年)に日本へ復帰。産業が少ない沖縄は観光を中心に発展したが、基地問題は未だ続いている。

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