親記事「リアルチート」の項目が多岐に渡り過ぎてページが重くなってしまったため、アスリートの項目をこちらに移動するものとする。
リアルチート級スポーツ選手を追記したい場合はこちらにまとめてどうぞ。往年の名選手から最近の若手選手まで並べて記述しているが、現役選手に関してはある程度割り引いて読むことをお勧めする。競走馬などについては「リアルチート(人外)」に記述している。
サッカー
サッカー草創期の選手で、黒人系で初めてブラジル代表に選ばれた。
1919年のコパ・アメリカで彼のゴールで優勝したことでサッカー王国ブラジルが誕生したキッカケになった。通算1329ゴールは、サッカーにおける生涯通算最多得点第1位である。
サッカーの母国・イングランド史上に残る名選手。
「ドリブルの魔術師」と呼ばれたテクニシャン。彼が得意としたフェイントはその名を冠した「マシューズフェイント」として今日までサッカー界のテクニックとして受継がれている。
1956年から始まった「バロンドール」最初の受賞者であり、1965年にはサッカー選手としては初めて英国王室からナイトの称号「サー」を授かった。
アルゼンチン出身のサッカー選手。
1950年代後半にスペインの名門レアル・マドリードのエースとして、UEFAチャンピオンズカップ(現・UEFAチャンピオンズリーグ)5連覇を達成し、レアルを世界的強豪クラブへ押し上げた。
2度のバロンドール受賞の他、後述のペレやマラドーナといった多くの名選手から歴代最高選手と称賛されている。
スペインとコロンビアの国籍も持っており、3つの代表で出場経験がある(現在ではFIFA規定で複数の代表を選択出来ない)。
当時のGKとして珍しく積極的にペナルティエリアから飛び出すプレースタイルで、オリンピックや欧州選手権を制覇するなどソ連の黄金時代を支え、1963年にGKとして史上唯一のバロンドールを受賞している。その功績からGKのバロンドールに当たる賞「ヤシン・トロフィー」が2019年に創設された。
サッカー王国ブラジルの国民的英雄であり、「サッカーの王様」「キング・ペレ」と称される伝説の名選手で、「20世紀最高のサッカー選手」の呼び声も高い。
ペレが背番号を「10」にしていたため、「サッカーにおけるエースナンバーは10番」として世界中に認知されたほど。
FIFAワールドカップでは3度の優勝を果たしており、1958年のスウェーデン大会で決めたワールドカップ史上最年少得点記録(17歳239日)は、いまだに破られていない。
ペレと並ぶブラジルサッカーの天才。
小さい頃にポリオにかかった影響で、左右の足の長さが違うなどといった障害を負ったが、それ故にドリブルの天才となった。足の長さが異なることによって生み出された不規則な動きのドリブルを止められるDFはいなかったといわれている。
1962年のチリワールドカップでは、怪我で戦線離脱したペレに代わりブラジルを牽引し、大会2連覇に大きく貢献した。
しかし、最盛期は短く、引退後は酒癖の悪さが祟って零落していき49歳の若さで世を去った。
ブラジル国外での知名度は低いが、国内ではペレと比較される存在である。
ドイツサッカー界とバイエルン・ミュンヘンにその名前を刻むレジェンド。
センターバックが自由自在にポジションを取る「スイーパー」がさらに積極的に攻撃参加するリベロ戦術を確立させた選手としても有名。
地元開催で優勝した1974年西ドイツワールドカップではキャプテンを務め、ピンチを迎えても動じずに最後列から味方選手を鼓舞し、抜群のキャプテンシーで君臨するその姿はオーストリア皇帝フランツ1世になぞらえ皇帝(カイザー)ベッケンバウアーと呼ばれた。
ゴールキーパーも含め守備的ポジション選手受賞が歴代5人しかいないバロンドールを2度に渡り獲得(1972・76年)している。
監督としてもバイエルンに数々のタイトルをもたらし、代表監督として1990年イタリアワールドカップでドイツを3度目の世界王者に導くなど指導者になってからも飛び抜けていた。
キャプテン翼のカール・ハインツ・シュナイダーの「サッカーは強い奴が勝つんじゃない。勝った者が強い奴なんだ」は元々ベッケンバウアーの言葉である。
元オランダ代表で世界を代表する名選手。
選手としては「クライフターン」を始めとする華麗なテクニックで観客を魅了、個人技と組織戦術を融合させたオランダ代表の****「トータルフットボール」の体現者として活躍。そのプレースタイルから「フライング・ダッチマン(空飛ぶオランダ人)」と呼ばれた。
指導者としてもスペインの名門FCバルセロナの育成システムの基盤を作るなど、サッカー界に多大な影響をもたらした。
攻撃的サッカーを掲げた選手として知られ「0 - 0で引分けるくらいなら3 - 4で美しく負けた方がマシ」はクライフのサッカー観を表す言葉として有名。
アルゼンチンサッカー界(とナポリ)の英雄にして神。
アルゼンチンが2度目のワールドカップ優勝を果たした1986年のメキシコワールドカップ準々決勝対イングランド戦で、ハンドの反則を犯して得点するもののそれを「神の手」という無茶苦茶な理屈で誤魔化し、その直後の「5人抜きゴール」で全てを正当化してしまった。この大会でマラドーナはアルゼンチンの英雄となり、さらにマラドーナ教という自身を神とする宗教(半ば冗談ではあるが)まで作られる有様。
没後、所属していたSSCナポリを初のセリエA制覇に導いたことを含め、数々の業績を称え本拠地のスタジアム名を彼の名前に替えられたことから、偉大なる伝説の1つとして刻まれた。
アフリカの小国・リベリアのサッカー選手。
GKを含めたほとんどのポジションをこなす器用さ、驚異的な身体能力に得点力を併せ持った名選手。1990年代にパリサンジェルマンやACミランなどで活躍し、「リベリアの怪人」と呼ばれた。1995年にアフリカ人選手として初のバロンドールを受賞した。現在でもヨーロッパと南米出身以外では唯一の受賞者である。
現役引退後、政治家に転身し2018年に祖国の大統領となった。
1998年、母国開催であったワールドカップ・フランス大会において、フランスに初優勝をもたらした偉大なるレジェンド。
主にトップ下などの攻撃的MFとして活躍し、ファンタジックなパス、「マルセイユ・ルーレット」と呼ばれた華麗なドリブル技術に加え、強靭なフィジカルと「フィールド全てをチェス盤を見るように真上から見ているようである」とすらいわれる広大な視野を持つ「現代版ファンタジスタ」の典型であった。今も「サッカー史上最高の攻撃的MF」の呼び声も高い。
指導者としても優れ、古巣のレアル・マドリードでチャンピオンズリーグ3連覇を達成している。
1990 - 2000年代にかけて活躍したブラジル出身のストライカー。愛称は怪物や超常現象を意味する「フェノーメノ」。
全盛期はスピードを始めテクニック・フィジカル・決定力とあらゆる能力に長けた万能型フォワードで、「戦術はロナウド」と称される程のインパクトを残した。インテル・ミラノ時代の1999年に負った膝の大怪我で持ち味のスピードを失ってしまうが、ずば抜けた得点能力は健在であり、2002年の日韓ワールドカップでは大会得点王に輝く活躍で、ブラジルを5度目のワールドカップ優勝に導いた。
後述のクリスティアーノ・ロナウドと区別するため、元祖(怪物)ロナウドと呼ばれることが多い。
世界を代表するゴールキーパーの一人で、イタリアサッカー史上最高の守護神。
1997年に18歳11ヶ月での代表デビューを果たすと、以後約20年に渡りイタリア代表の正GKを務め、イタリア伝統の守備戦術「カテナチオ」の象徴として君臨した。クラブではセリエAの強豪ユベントスに長年在籍し、10度のリーグ優勝に貢献している。
2006年のドイツワールドカップでは、スーパーセーブを連発し7試合で僅か2失点(オウンゴールとPKのみで流れからの失点は許さなかった)に抑える鉄壁の守りで、イタリアを4度目のワールドカップ優勝に導き、大会最優秀GKに選出された。
2000年代以降のスペイン代表とFCバルセロナの黄金時代を支えた名選手。
共にバルサの下部組織(カンテラ)出身で、卓越したテクニック、広い視野に状況判断力を兼ね備え、バルサ伝統のパスサッカー中心のプレイスタイル「ティキ・タカ」を体現した司令塔として中盤を支配した。
バルサでは4度のCL制覇、スペイン代表では2度のEURO優勝、さらに2010年南アフリカワールドカップではスペインに初のワールドカップ優勝をもたらした。
ポルトガルのサッカー選手。愛称は「クリロナ」「CR7」など。
ドリブル・ヘディング・フリーキックとあらゆる形で得点を量産するサッカー史上屈指の点取り屋。バロンドール受賞5回、イングランド・スペイン・イタリアで得点王を獲得するなど、メッシと共に現代のサッカー界では抜きん出た存在。
UEFAチャンピオンズリーグでは5度の優勝(マンチェスター・ユナイテッドで1回、レアル・マドリードで4回)を経験し、6大会連続含む7度の得点王というズバ抜けた記録を持つ。
しかも5回目は決勝で2得点し、ライバルのメッシを追い抜くと言うドラマ性まで付いてきた。
アルゼンチンの英雄ディエゴ・マラドーナの後継者と名高いサッカー選手。愛称は「エル・ニーニョ(神の子)」。
サッカー選手としては小柄ながら卓越したテクニックでゴールを量産し、過去の大選手でさえ通算で3回が限度だったバロンドール(世界最優秀選手賞)を8度受賞している。
クラブでは数々の栄光を手にしながら長年代表でのタイトルには手が届かなかった。2022年カタールワールドカップでは代表引退も考える中、決勝戦で次世代ストライカーエムバペと激しい点取り合戦を繰り広げた挙句PK戦まで引っ張り、最終的に勝利してマラドーナ以来36年振りに自国へ優勝トロフィーを持ち帰るというリアルで漫画の様なサクセスストーリーを仕上げてしまった。
1970年代後半 - 80年代、ブンデスリーガで活躍した日本人選手のパイオニア。
1.FCケルン在籍時は1977 - 78シーズンのリーグ優勝とドイツカップ優勝の二冠に貢献し、ヴェルダー・ブレーメン在籍時はサイドバック、守備的MF、攻撃的MF、左ウィング、FWなど左のポジションを全てこなし、その運動量と的確な守備、戦術眼、正確なキックとシュートはブレーメンサポーターから「東洋のコンピューター」と呼ばれ親しまれた。当時のレーハーゲル監督は「オク1人で他の選手の3人分の働きをしてくれる」といわしめた程。
帰国を決断した際もブレーメンから契約延長の申し出があった事からも、奥寺がブレーメン首脳陣からいかに評価されていたかが理解出来る。
日本のプロサッカー選手。通称「キング・カズ」。
長年Jリーグで精力的にプレイを続け、56歳という年長者ながらも現在も現役を続けており、Jリーグ連続得点記録18年という大記録を樹立。また、50歳14日というプロリーグ最年長得点記録(2024年11月現在)の持ち主で、この記録はギネス世界記録に認定された。
また、2011年の東日本大震災のチャリティーマッチでは試合前に「試合でゴールを決めてカズダンスを踊る」と宣言。結果、後半37分に宣言通り見事ゴールを決め、カズダンスを披露して観客を熱狂させるという奇跡を起こした。
日本女子サッカー選手。
15歳で代表デビューを果たし、20年以上に渡り女子サッカーの最前線で活躍し続けた。国際Aマッチ出場数とゴール数は共に男女通じて日本人最多であり、2011年の女子ワールドカップでは得点王とMVPに輝く活躍を見せ、なでしこジャパンのワールドカップ初優勝に貢献。翌2012年には女子のバロンドールに当たるFIFA最優秀選手賞を受賞するなど女子サッカー界におけるレジェンドと呼べる存在。
2015年シーズン一杯をもって現役引退を発表。現役最後となった皇后杯決勝では今シーズン初得点がこの試合唯一のゴール(決勝点)となる、千両役者の大活躍を見せた。
女子選手としてはあらゆる能力に優れたオールラウンドプレイヤーであると同時に、男気あふれたリーダーシップでチームメイトを鼓舞することから一部ファンからは尊敬をこめて「澤兄貴」と呼ばれている。
野球・ソフトボール
MLB
端的にいうならば「メジャーリーグで1番多く投げた投手」
先発登板数815試合に始まり749完投数・511勝・316敗・対戦打者数29,565・通算投球7,356イニング・7,092被安打・自責点2147と「投げ続けることで増える名投手の証」のメジャーリーグ最多記録を総なめしている。
そして、これだけ投げているにもかかわらず肩や肘に痛みを感じたことさえないという、昨今の投手の故障事情からは考えられない特異体質であったという。
彼の偉業はその年最も優れた投手を選出する「サイ・ヤング賞」として称えられている。
「野球」というスポーツにおいて、最強クラスのリアルチート。「野球の神様」と呼ぶ人も多い。
投手としてデビューし、後に外野手に転向。投手成績は通算94勝46敗、20勝以上を2回記録している。投手以上に野手としての成績が驚異的で、通算本塁打714本、通算2,213打点、本塁打王12回、打点王6回など輝かしい実績を残した。現在では多くの記録が更新されたが、MLBの歴史上最も偉大な選手という評価は変わっていない。
1900年代初頭に活躍した名選手で、9年連続含む首位打者12回、メジャー歴代最高記録となる通算打率.366を持つメジャーを代表するヒットメーカー。
同年代に活躍したベーブ・ルースとは容姿やプレースタイルが対照的で、色々と破天荒であったことから何かと比較される存在であった。
1950年代から70年代にかけて活躍したメジャーリーグを代表するホームランバッター。
通算本塁打755本はベーブ・ルースの記録を超え当時の世界最多記録だった。通算2297打点は現在も更新されていないメジャー最多記録である。
その功績から最も活躍した打者を選出する「ハンク・アーロン賞」が1999年に創設された。
自身の本塁打記録を更新した王貞治に対し、メジャーとプロ野球のレベルの違いを指摘して認めようとしない多くのメディアと異なり、王へのリスペクトを払い長年親交が深かった。
メジャーリーグのシーズン最多奪三振記録(383)・通算最多奪三振記録(5,714)保持者。
現役時代は最速100.9マイル(約162km/h)の剛速球を武器に三振を積み重ねた。制球難でも知られ、暴投数277と与四球数2,795も歴代最多である。ただし、これは当時としては画期的であった独自のトレーニング法で40代半ばまで現役を続けられた賜物である。引退した46歳でも97マイル(約157km/h)をマークし、当時評論家として取材に来た鈴木啓二を驚嘆させたことも。
また、歴代最多となる7度のノーヒットノーランを達成している。
指導者としても優秀で、後述のランディ・ジョンソンを遅咲きのエースとして開花させたという功績もある。
世界最多となる通算1,406盗塁を記録した世界の盗塁王。
1982年にはメジャー記録となるシーズン130盗塁を達成している。長いメジャーリーグの歴史でも1,000盗塁以上記録した選手は他におらず、出塁率も高かったことから「メジャーリーグ史上最高のリードオフマン」の1人とされている。
連続試合出場の世界記録を持つ野球界の鉄人。
1981年にメジャーデビューすると、その翌年の1982年5月30日 - 1998年9月20日までの17年にわたり、世界最長の2632試合連続出場の大記録を成し遂げた。この期間内に連続フルイニング出場記録のメジャー記録も作っている。しかも、リプケンのポジションは内野でも特に守備負担が多い遊撃手であった上、守備指標も歴代でトップクラスであった。
通算3184安打、431本塁打と打撃も優秀で、2度のシーズンMVPを獲得している。
1990年代から2000年代にかけて活躍した剛腕サウスポー。
メジャーでも珍しい208cmの長身に、サイドスローに近いフォームから繰出す最速164km/hのストレートと高速スライダーを武器に三振を量産した。
若い頃は制球難で伸び悩むも、ライアンの指導を受けたことで30代になってから覚醒し、サウスポーでは歴代最多となる5度のサイ・ヤング賞受賞、歴代2位の通算4875奪三振を記録した。
2004年には史上最年長となる40歳で完全試合達成を成し遂げている等、晩成型でもある。
メジャーリーグ最多記録となる通算762本塁打、2001年にシーズン最多の73本塁打を放ったメジャーを代表する強打者。
パワーだけでなく若い頃は盗塁も多く決め、史上唯一の500本塁打500盗塁を達成している。
全盛期はあまりにも手が付けられず、四球数と敬遠数はいずれも歴代最多で、満塁でありながら敬遠されたこともある。2004年には出塁率60%超えという驚異の記録を残している。
薬物使用疑惑により記録を無効とすべきという声もあるが、薬物を使用してもこれほどの成績は残せないと擁護する声も多い。
精密機械と称された抜群のコントロールを武器に活躍した名投手。
手元で微妙に変化するツーシーム系ボールで相手を効率良く打たせて取る頭脳派的なピッチングスタイルから「プロフェッサー(教授)」と称された。
通算355勝、サイ・ヤング賞を4度受賞している。守備名手としても知られ、守備のベストナインに当たるゴールドグラブ賞を全ポジション通じて最多の18度受賞している。
また、現在100球未満の完封勝利は「マダックス」と呼ばれ、自身は通算35完封のうち最多の13度達成している。
パナマ出身の元メジャーリーガー。
歴代最多通算652セーブを記録したメジャーを代表するクローザー。名門ニューヨーク・ヤンキース一筋でプレーし、5度のワールドシリーズ制覇に貢献した。
投げる球種はほぼカットボールのみという、メジャーでも稀な「1球種で成功したピッチャー」であり、史上初の得票率100%で米国野球殿堂入りを果たした。
ドミニカ共和国出身のメジャーリーガー。
2001年にセントルイス・カージナルスでデビューすると、新人離れの成績でナ・リーグ新人王を満票で受賞(ちなみにこの年のア・リーグ新人王は後述のイチロー)。以降、10年連続で打率3割・30本塁打・100打点を達成し、この期間内で3度のシーズンMVPを獲得した。
通算安打と通算本塁打は共に米国外出身選手としては歴代最多であり、通算2218打点は歴代2位である。その実績から2000年以降ではMLB最高の打者の1人とされている。
名門ニューヨーク・ヤンキースに所属している200cmという非常に大柄な体格を誇る強打者。
2017年に新人最多記録となるシーズン本塁打52本を放ったのみならず、2022年にア・リーグシーズン最多本塁打記録を更新する62本を放った。故障による不調時を除いて、通年本塁打を量産していることから、2020年代では大谷翔平と双璧をなす強打者として評価されている(それにも関わらず、本人は、二刀流を断念したことから、大谷には及ばないと恐縮している模様)。
このうち、2022年のシーズン最多本塁打記録更新は、先述のバリー・ボンズをはじめとした歴代ホームランバッターとは異なりドーピング疑惑と無縁な潔白な状態での記録であることから、特筆に値する記録とされている。
これほどの大選手でありながらも、ライバルの大谷翔平を讃える等、穏和かつ謙虚な性格の持ち主として知られており、メジャーリーガーでも人気はトップクラスに高く、日本の野球ファンからの評価も高い。
プロ野球
プロ野球史上唯一の400勝投手。
他にも通算奪三振(4490)、通算完投数(365)、通算イニング数(5526回2/3)などのプロ野球記録を保持している。分業化が進んだ現在ではほとんどの記録が更新不可能とされている。
球種はストレートと数種類のカーブのみだったが、いずれも超一級品だった。特にストレートの評価が高く、金田の現役当時はまだスピードガンがなかったため正確な球速は不明だが、実際に対戦した打者からは「160km/hは出ていた」と証言する声は多い。
現役時代のほとんどを当時弱小球団だった国鉄スワローズでプレーし、現役晩年は巨人に在籍した。監督としては1974年にロッテを日本一に導いている。
1950年代から60年代にかけて活躍した「鉄腕」と称された伝説の名投手。
1961年にはプロ野球最多タイ記録となるシーズン42勝を記録。1957年に打ち立てたシーズン20連勝は2013年に田中将大が更新するまで56年間破られなかった。
特に1958年の巨人との日本シリーズでは、ほぼ一人で投げぬき西鉄ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)の優勝に貢献し、かの有名な「神様、仏様、稲尾様」というフレーズが生まれた。
また、監督時代には後述の落合博満を開花させたという功績を残している。
日本プロ野球が誇る「世界のホームラン王」。
通算本塁打868本はいまだ破られていない世界最多記録。代名詞の「一本足打法」でホームランを積み重ね、三冠王2回、本塁打王15回、シーズンMVP9回など数々のタイトルを手にし、長嶋茂雄と共に巨人のV9に貢献。また、スポーツ選手としては初の国民栄誉賞の受賞者である。
…つーか、王選手を称える賞がなかったから国民栄誉賞が作られたというのが本当のところ。
現役引退後は巨人、ダイエー→ソフトバンクの監督を務め、ホークスを2度の日本一に導き、後の黄金時代の礎を築いた。2006年の第1回WBCでは、侍ジャパンを初優勝に導いた。
関西方面の諸兄には「解説がおもろいオッサン」という印象が強いが、現役時代は快足で鳴らし阪急の黄金時代を牽引した野球選手。
シーズン106盗塁、通算1065盗塁、13年連続盗塁王は今なお破られていないプロ野球記録。また、盗塁を阻止しやすくする投法「クイックモーション」は、韋駄天っぷりを遺憾なく発揮していた頃に別球団で活躍していた野村克也氏が対福本用戦術として編み出したモノ。
ちなみに後述するイチローよりも先に国民栄誉賞を蹴った男。その理由については当該記事を参照されたし。
1960年代から80年代にかけて先発・リリーフ双方で活躍した名投手。
阪神の絶対的エースで、プロ2年目の1968年に現在も更新されていないシーズン最多の401奪三振を記録し、1971年のオールスター戦では「9者連続奪三振」という快挙を成し遂げた。
トレードで南海に移籍後、長年の蓄積疲労で故障が増え長いイニングを投げられなくなったことでリリーフに転向。5年連続セーブ王、2度のシーズンMVPを獲得するなど、リリーフでも確かな実績を残した。移籍した広島と日本ハムの両方で優勝したことから「優勝請負人」と呼ばれた。
特に1979年の日本シリーズ第7戦9回裏ノーアウト満塁のピンチを抑え、広島に初の日本一をもたらした伝説的ピッチングは、「江夏の21球」と呼ばれている。
プロ野球史上最強の助っ人外国人選手の呼び声高い強打者。
1983年に阪神に入団すると、1985年と1986年に外国人選手では唯一となる2年連続で三冠王を獲得。1986年に記録した打率.389は現在でもプロ野球のシーズン記録である。
1985年の阪神初の日本一の立役者となったことから、現在でも阪神ファンからは絶大な人気を得ている。バース退団以降、阪神に入団する新外国人選手に対し「バースの再来」とマスコミが騒ぎ立てるも、ことごとく空振りに終わることがネタにされることが多い。
昭和後期から平成初期を代表する、プロ野球史上最高の右打者の一人とされる稀代の天才打者。
高い長打力に加え、バットをゆっくりと構えた「神主打法」で広角に打ち分ける卓越したバッティング技術の持ち主。
プロ4年目の1982年に当時史上最年少となる28歳で三冠王を獲得。その後1985、1986年にも三冠王を獲得しており、3度の三冠王はプロ野球唯一であり、メジャーでも達成者がいない大記録である。
また、プロ野球史上初の1億円プレイヤーでもある。
監督としても優れた手腕を持ち、中日の監督を務めた8年間全てでAクラス、4度のリーグ優勝と1度の日本一を達成している。
中日一筋で活躍した技巧派左腕投手。本名「山本昌広」。
「生きた化石」「シーラカンス」と称され、投手の持つ「○○最年長記録」を度々更新。
現役晩年は「投げるだけで記録が成立する」という状況にすらなっており、それでいてチームの戦力として一軍で投げ続けるという離れ業をやってのけていた。
2015年にはプロ野球史上初の50歳登板を果たし、32年の現役生活に幕を下ろした。
なお、田中将大は、彼がプロ入り3年目の時に生誕しており、さらにそれより若い世代の大谷翔平、藤浪晋太郎らの台頭もあって「父と子」と言われることも多く、実際彼には娘がいるが、その娘は彼らと近い世代である。
ノーヒットノーラン最年長記録・沢村賞・名球会入りと数々の功績を持つ。
誰が言ったか、「プロ野球の歴史80年、山本昌の歴史30年」。
日本人2人目のメジャーリーガーで、多くの業績によりMLBが日本人選手を気軽に受け入れるきっかけを作った先駆者(パイオニア)。愛称は「ドクターK」。
現在も最多である8球団からの1位指名の末近鉄に入団し、独特の「トルネード投法」から繰り出される速球と落差の激しいフォークボールで三振を量産し、1年目で投手四冠、沢村賞、新人王、ベストナイン、シーズンMVPという個人タイトルを総なめにした。その後も4年目まで200奪三振以上で4年連続奪三振王を獲得し、入団から5年間の奪三振は1204にものぼる。
その後首脳陣との対立により紆余曲折を経てロサンゼルス・ドジャースへと移籍すると、MLB1年目ながらオールスターゲームの先発投手という大役を務める等活躍を見せ、奪三振王、防御率2位等の好成績で新人王を獲得した。その後の現役生活でも、史上4人目となる両リーグでのノーヒットノーランを達成する等の業績を残し、引退後の2014年には、日本在籍わずか5年ながらNPBの殿堂入りを果たしている。
今や誰もが知る野球界随一の安打製造機。
バットの根本から先端まで使ってヒットを打つバットコントロール、神速の盗塁と内野安打を生み出す脚力及び走塁技術、「エリア51」と称される広大な守備範囲に高精度高速遠距離送球「レーザービーム」と、走攻守全てにおいて世界最高峰の武器を持っている。器用万能の言葉がこの上なく似合う。さらには、故障歴もほとんどなかった。
オリックス時代に7年連続首位打者、メジャー10年連続200安打、単一シーズン最多262安打というアンタッチャブルレコードの持ち主。
2016年には日米通算ながらピート・ローズが保持するメジャー通算4256安打を超え、日本人選手初メジャー通算3000安打を達成した。27歳でメジャーデビューしてこれだけの記録を積み重ね、42歳にして3000安打目を三塁打で決める野球界の仙人。
WBCには2006年大会と2009年大会の2度出場し、大会2連覇に大きく貢献。特に2009年大会決勝の韓国戦で放った勝ち越しタイムリーは、プロ野球史に残る伝説の一打と呼ばれている。
ちなみに国民栄誉賞の授与を三度にわたり辞退しており、本人曰く「人生の幕を下ろしたときにいただけるよう励みます」とのこと。
平成時代を代表する屈指の強打者。愛称は「ゴジラ」。
星稜高校時代から既に強打者として世間から注目され、その恐怖の余り対戦相手校が未だに語り種となっている5打席連続敬遠を仕掛けた程。
プロ入り後、稀代のホームランバッターとして名を馳せて行き、読売ジャイアンツ在籍の10年間で3度のシーズンMVP、3度の本塁打・打点の二冠王、1度の首位打者に輝き、ベストナインも1995年から8年連続受賞している。大舞台にも強く、2000年に日本シリーズMVPを獲得している。
MLBでは中距離打者にシフトした関係でホームランは大きく減少した(とはいえコンスタントに20本前後は打つことが多かった)が、100打点超えを4度記録するなどチャンスに強い打撃でチームを支え、重量ヤンキース打線のクリーンナップを任された。中でも2009年にはここ1番での勝負強さが光り、日本人選手初のワールドシリーズMVPを獲得。
シーズンホームラン数はNPBにおいて50本、MLBにおいて31本が最多。MLBでの記録そのものやインパクトこそイチローや大谷翔平らの前では埋もれがちだが、野手での数少ないMLB成功者には違いなく、イチロー共々野手としてのMLB挑戦者のパイオニアとして十二分すぎる役割を果たした。
2000年代以降のプロ野球を代表する名投手。
身長195cmの長身から繰り出す155km/h超えのストレートに、変化球マニアと称されるほどの多彩な変化球を投げ分ける。新球習得に余念がなく、時代に合わせ年々投球スタイルを変化させるなど対応力も高い。特に奪三振能力はメジャー全体でもトップクラスで、1,000奪三振と1,500奪三振はいずれもメジャー最速の登板数とイニング数で達成している。
プロ入り当初は素行面に問題あったが、やがて日本を代表する投手に成長し、日本ハム時代は5年連続防御率1点台を記録するなど抜群の安定感を誇った。
MLB移籍後は、2013年に野茂以来となる最多奪三振、2020年に日本人初の最多勝のタイトルを獲得。2022年に日米通算3,000奪三振、2024年には日米通算200勝を達成している。
WBCでは出場した2大会共に優勝を経験し、2009年WBCでは胴上げ投手となり、2023年WBCではチーム最年長投手として投手陣を裏から支えた。
長いプロ野球の歴史の中でも非常に珍しい二刀流選手(two-way player)。
高校時代は「みちのくのダルビッシュ」と呼ばれ速球豪打で鳴らしていたが、(多少のトラブルがあったにせよ)プロ入り後は投打共にさらに磨きが掛かった。
日本ハムでは「投打二刀流」として調整を重ね、投手としては日本人最速の165km/hを記録し、打者としても2桁ホームランを放つ。「2桁勝利・2桁ホームラン・3桁安打を1人が1年で同時に達成する」という怪物級の記録を叩き出した。
2018年からはMLBのロサンゼルス・エンゼルスに移籍し、ここでも日本人4人目となる新人王、日本人初のサイクル安打達成、満票MVPの獲得、ベーブ・ルース以来104年振り2人目となるメジャーでの2桁勝利・2桁本塁打の達成、MLB初の同一シーズン規定投球回数・規定打席数同時到達、日本人初のホームラン王獲得、50-50達成など、今なお信じられないような活躍を残す「生きる伝説」。
2023年WBCでも投打で活躍し、侍ジャパンを3大会振りの優勝に導き、決勝の米国戦では胴上げ投手となり大会MVPを獲得した。
その群を抜いた活躍振りから「リアル茂野吾郎」「現代のベーブ・ルース」などと様々な場所で騒がれている。
ソフトボール
米国のソフトボール選手。
ソフトボール選手としては規格外のパワーヒッターで、国際試合でホームランを量産し、アメリカ代表で2度のオリンピック金メダルを獲得している。北京オリンピックでは9試合で打率5割6本塁打10打点と打ちまくり、日本代表最大の壁として立ち塞がった。
日本のソフトボール選手。
体感速度160 - 170km/hに匹敵するとされる豪腕投手で、驚異的なスタミナ・メンタルも併せ持つ。
20代前半の頃から日本代表のエースとして活躍し、2008年の北京オリンピックでは準決勝から決勝までの3試合全てに完投し、2日間3試合413球を投げ抜きソフトボール初の金メダルの立役者となった。この活躍は「上野の413球」と呼ばれている。
北京オリンピックを最後にソフトボールは正式競技から外れてしまうも復活を信じ現役を続行。13年ぶりの復活となった2021年東京オリンピックでは、39歳のベテラン投手とは思えない圧巻のピッチングで、13年越しのオリンピック連覇を成し遂げた。
バスケットボール
1960年代のバスケ選手。得点・リバウンド・出場時間において下記の選手でさえ更新不可能な記録を次々と叩き出した。
1962年には史上唯一の1試合100得点を達成している(しかも、当時は3Pルールが適用されていなかった)。
チェンバレンと同世代のバスケ選手にしてライバル。
オフェンスに長けたチェンバレンに対し、こちらはディフェンスに長けており、ボストン・セルティックスが8連覇を含む11度の優勝を達成する原動力になった。彼が付けていた背番号「6」は全チームで永久欠番となった。
前者はノールックパスをはじめとする変幻自在のパスでファンを魅了した、「史上最高のポイントガード」に挙げられることが多い名選手。
後者はスカイフックを軸にした得点力を武器に歴代最多となる6度のシーズンMVPを獲得した長身センター。
当時ジョンソンとジャバーが所属していた1980年代のロサンゼルス・レイカーズのバスケスタイルは「ショータイム」と呼ばれ、2人はその中心的存在で5度の優勝を成し遂げている。
米国が誇るバスケットボールの神様。
得点王10回、ファイナルMVP6回はいずれも最多記録。1990年代にシカゴ・ブルズを6度の優勝に導き、全盛期には他の選手が決して真似出来ない様な空中プレイで世界中を魅了した。その脅威の跳躍力から「エアジョーダン」と呼ばれ、この名はナイキが発売するバスケットシューズのブランド名としても有名である。
1992年バルセロナ五輪でバスケットボールが正式種目として採用された際、NBAのスター選手を集めた「ドリームチーム(夢の軍団)」と称された代表のエースとして、見事アメリカに金メダルをもたらしている。
NBA史上最強のセンターと言われるプレイヤー。愛称は「シャック」。
身長216cm、体重147kgの巨体から圧倒的なパワーで繰り出されるプレイでゴールを2度破壊。耐久性の高いゴールの導入を余儀なくさせる、ルール自体を改正させる等、大きな影響を残した。これほどの巨体でありながら動きも俊敏で、ゴール下では唯一無二の存在感を放った。
ジョーダン以降のNBAを牽引したスーパースター。
名門レイカーズ一筋で5度のファイナル優勝に貢献、特にシャックとのデュオはNBA史上最強デュオの1つに挙げられている。正確無比なシュートで相手を確実に仕留めることから「ブラックマンバ」と呼ばれ、バスケに人生を捧げたコービーの生き様「マンバメンタリティ」は、バスケだけでなく他競技のアスリートにも多くの影響を与えている。
現在のNBAを代表する名プレーヤー。
NBA通算得点歴代1位を始め数々の偉業を成し遂げおり、バスケット選手として必要な能力を全て兼ね備えていることから「キング」と呼ばれる。
オリンピックでは若手時代の2008年北京オリンピックと2012年ロンドンオリンピックでコービーと共に金メダルを獲得。39歳の大ベテランとなった2024年パリオリンピックでも、チーム主力として活躍し、全勝のまま金メダルを獲得し大会MVPを受賞した。
NBAの歴史上最高とも称されるシューター。
彼が放つ3PシュートはNBAのオフェンスに革命をもたらしたと言われており、3Pシュートのシーズン記録と通算記録を更新している。
2024年のパリオリンピックでは、幾度もファイナルで対決したレブロンと共にチームの主力として活躍し、準決勝・決勝では、3Pシュートを決めまくった。
アメリカンフットボール
黎明期のNFLで活躍した20世紀を代表するアメフト選手。ポジションはランニングバック。
身長188cm・体重102kgと当時の選手としては大柄な体型で、ランに関する様々なNFL記録を樹立したことで「史上最高のランニングバック」と称されている。
30歳で突如現役を引退し、俳優に転職。多くの映画に出演し、公民権運動にも積極的に関与するなど、黒人の社会的地位向上のための活動に取り組んだ。
前者は名門ノートルダム大学出身で、「モンタナマジック」と称された数々の逆転勝利を演出し、4度のスーパーボウル制覇を達成した名クォーターバック。
後者はモンタナとのホットラインで様々なレシーブ記録を樹立した「史上最高のワイドレシーバー」と称される名選手。
1980年代のサンフランシスコ・49ersの黄金期を牽引し、特に1989年の第23回スーパーボウルでの逆転勝利は「ザ・ドライブ」と呼ばれている。
1977生のアメリカのアメフト選手。ポジションはクォーターバック。
アメフトの名門ミシガン大学に在籍はしていたものの、絶対的なエースでなかったことや体格が貧弱であったことから2000年のドラフトでは6巡目全体199位という下位でニューイングランド・ペイトリオッツに拾われる。ところが、そこで実力を発揮。入団2年目でチームに初のスーパーボウル優勝という栄誉をもたらすと、チームに計6回に及びスーパーボウルをもたらした。
さらに2020年にタンパベイ・バッカニアーズに移籍すると移籍初年でスーパーボウル制覇を果たした。個人で計7回のスーパーボウル制覇を果たすという化物で、「GOAT(Greatest of All timeの略)」や「史上最強の掘り出し物」といった声も高い。
ちなみに、他チームにはペイトン・マニングやドリュー・ブリーズ、アーロン・ロジャースといった殿堂クラスの人材がおり、その中で打立てた記録である。そんな彼らでも1回でも全米制覇出来れば良い方なので、どれだけチートということが分かる。
ラグビー
ニュージーランドのラグビー選手。ポジションはウィング。
身長196cm、体重120kgという体格ながら100mを10秒台半ばで走る驚異的な身体能力を誇る。数人がかりのタックルをものともせずトライを量産したことから「暴走機関車」「空飛ぶ巨象」と呼ばれた。
1994年に史上最年少の19歳でニュージーランド代表(オールブラックス)に選出される。ラグビーワールドカップでは、2大会連続でトライ王に輝き、通算トライ数は歴代最多タイである。しかし、若い頃から重度の腎臓疾患に悩まされ、腎臓移植を受けるも早期の現役引退を余儀なくされ、40歳の若さで亡くなった。
ニュージーランドのラグビー選手。ポジションはフランカー。
高いディフェンス力、運動量、状況判断力、キャプテンシーを兼ね備えた万能選手。
2006年にオールブラックスの主将に任命され、2011年と2015年のワールドカップ連覇に貢献し、ワールドラグビー年間最優秀選手賞を3度受賞した。現役引退後、35歳の誕生日にニュージーランドで最高の勲章であるニュージーランド勲章を史上最年少で受章した。
ニュージーランドのラグビー選手。ポジションはフライハーフ。
世界的なキックの名手で、巧みなパスセンスで試合をコントロールする司令塔。国際試合では世界歴代1位の1598得点を記録している。
ワールドカップ連覇、3度の年間最優秀選手賞などマコウと共にオールブラックスの中心選手として活躍した。2018年に日本の神戸製鋼に入団するとチームを15シーズンぶりのリーグ優勝、18シーズンぶりの日本選手権優勝に導いた。
南アフリカのラグビー選手。ポジションはスクラムハーフ。
身長172cmとラガーマンとしては小柄ながら、190cm超の大型選手をも止めるタックル、少しでもスペースがあれば積極的に仕掛けるラン、キックのアシストも得意とするラグビー界の小さな巨人。
2016年に南アフリカ代表に選出されると、2019年と2023年のワールドカップ連覇に貢献。特に2019年大会準々決勝の日本戦では、得意のタックルで日本のチャンスを潰し自らトライを決めるなど攻守に活躍し、マン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。
バレーボール
米国のバレーボール選手。
1984・88年にオリンピック連覇を果たした米国代表中心選手で、「ミスターバレーボール」と呼ばれた。ビーチバレーに転向後の1996年アトランタオリンピックでも金メダルを獲得。インドアとビーチ双方での金メダル獲得は史上唯一であり、国際バレーボール連盟から「20世紀最優秀選手」に選出された。
現役引退後、米国女子代表監督に就任。2014年の世界選手権優勝、2021年東京オリンピック金メダルと指導者としても抜群の実績を残している。
ブラジルのバレーボール選手。愛称は「ジバ」。
身長192cmと高さは世界のアタッカーとしてはやや低めながら、天性のバネと柔軟な体から放たれる高速バックアタックと抜群の守備力が特徴。
1995年に18歳でブラジル代表に選出されると、2000年代のバレー界を席巻したブラジルバレー黄金期を牽引し、「ブラジルの至宝」と呼ばれた。 2004年のアテネオリンピックでは金メダルを獲得し、最優秀選手賞を受賞した。
キューバ出身で現ポーランド代表のバレーボール選手。
身長201cm、最高到達点385cmという圧倒的な高さから繰り出す強烈なスパイクに、世界最速138km/hの弾丸サーブを武器とするバレーボール史上最も驚異的なアタッカーの一人。
2008年に14歳でキューバ代表に選出され、10代で主将に選ばれるなど、若くして多くの世界大会で活躍した。しかし、キューバ代表の待遇に不満を抱き、2015年にバレー人気が高いポーランドの市民権を得た。
日本のバレーボール選手。
1960年代から70年代にかけて4大会連続でオリンピックに出場し、金・銀・銅の3個のメダルを獲得した名セッター。トスの正確さから「世界一のセッター」「日本のコンピュータ」と称された。
1964年の東京オリンピックでは代表最年少の20歳で出場。その後も不動のセッターとして活躍し、1972年のミュンヘンオリンピックで男子バレー初の金メダル獲得に貢献した。引退後もバレーに人生を捧げたが、胃癌により39歳の若さで亡くなった。没後、その功績をたたえ、故郷の広島市に「猫田記念体育館」が1989年に建設された。
テニス
スイスのプロテニス選手。
数々の歴代最多記録を持ち「史上最高のテニスプレーヤー」と称されている。本国スイスでは「フェデラーの悪口を言えば罰金」とジョークが作られるほどである。
世界最高と呼ばれたフォアハンドを中心に、サーブやドロップショットなど多彩なショットで相手を圧倒する攻撃的なプレースタイル。特に芝コートのウィンブルドンに滅法強く、「芝の王者」と呼ばれる。現役晩年はスタミナ不足を補うため、ボレーやライジングに磨きをかけより攻撃的なスタイルとなり、多くの若手選手と対等以上に渡り合った。
引退試合では長年のライバルだったナダルとダブルスを組み、現役生活を締めくくった。
スペインのプロテニス選手。
強烈なトップスピンで相手を揺さぶるストロークが特徴のサウスポー。高いフットワークで普通の選手では届かないボールも拾える守備力を併せ持つ。
そのプレースタイルから全仏オープンなどのクレーコートでは圧倒的な勝率を誇り、「クレーキング」「赤土の王者」と呼ばれる。
テニス史上屈指のライバル対決と言われたフェデラーとの対戦成績は通算24勝16敗(クレーコートに限れば14勝2敗)と勝ち越している。
セルビアのプロテニス選手。
長身と高い柔軟性でコート広範囲をカバーできる鉄壁の守備力が特徴だが、攻撃面でも多彩なショットでポイントをとれるオールラウンダー。怪我にも強く30代後半となった現在でも世界ランク上位をキープしている。
長年フェデラーとナダルの壁に阻まれていたが、徐々に頭角を現し四大大会(グランドスラム)最多優勝記録を更新した。同時代を牽引した他のBIG4(フェデラー・ナダル・マレー)全員に通算成績で勝ち越していることから歴代最強に挙げる声も多い。
ドイツの女子プロテニス選手。
強力なフォアハンドとバックハンドのスライスショットが武器で、フットワークも優れていた。1980 - 90年代にかけて、女子では最長となる世界ランク1位の在位記録を作った。
1988年に年間グランドスラムを達成。さらに、この年のソウルオリンピックでも金メダルを獲得したことで、男子も含め史上唯一となる「年間ゴールデン・スラム」を達成した。
現役引退後、アメリカのテニス選手アンドレ・アガシと結婚した。
米国の女子プロテニス選手。
歴代の女子選手では並外れたパワープレイヤーであり、サーブは男子並みと言われている。その強さから長きにわたり女子テニス界の女王として君臨した。
シングルスだけでなく姉のヴィーナスと組んだダブルスでも無類の強さを誇り、四大大会やオリンピックを幾つも制している。獲得賞金は9,000万ドルを超えており、全女子プロスポーツ選手で歴代1位である。
米国のテニスペア。「ブライアン兄弟」として知られる。
抜群のコンビネーションを誇る双子の兄弟であり、体型もほぼ同じ。利き腕は異なり、ボブが左利き、ラルフが右利きである。
四大大会優勝数歴代1位、世界ランキング1位最長記録などダブルスの歴代記録をいくつも更新したことから、史上最強のダブルスチームと名高い。
日本の車いすテニス選手。
四大大会通算50回(シングルス28回・ダブルス22回)の優勝を記録、パラリンピックでも4つの金メダルを獲得するなど、車椅子テニスにおける数々の記録を打立てている。
世界ランク1位のまま現役を引退、パラスポーツ選手としては初の国民栄誉賞を受賞した。
卓球
北欧の卓球王国・スウェーデンの国民的英雄。
史上最高の卓球選手との呼び声も高く、「KoTT」と呼ばれる。オールラウンドスタイルで長きに渡り王座に君臨した。世界選手権2回優勝、バルセロナ五輪金。1980年代後半 - 90年代スウェーデン黄金時代を築く。無敵のストレートサーブで数多の選手を沈める様は圧巻。
中国の卓球選手。
オリンピックでは個人・団体合わせ卓球選手としては世界最多、中国人としても全競技を通じて最多となる6つの金メダルを獲得、世界選手権個人3連覇など数々の世界大会を制しており、卓球界史上最高の選手と称されている。
若い頃から中国代表に選出されるも、当時は精神面にムラがあり、代表争いが激しい中国国内のトップには中々立てなかった。キャリアを重ねるとその弱点も克服し、完全無欠の選手になった。
バドミントン
中国のバドミントン選手。
10代の頃から台頭し、オリンピック連覇、5度の世界選手権優勝など多くの国際大会を制したことで、「キング・オブ・バドミントン」と呼ばれた。
全盛期は高い強打のスマッシュで圧倒する攻撃的なプレースタイルで、晩年はディフェンスを強化しラリーで粘りながらポイントを取るスタイルに変化し、長く世界のトップで活躍した。
日本のバドミントン選手。
高校時代に日本人初のジュニア世界大会で優勝。2014年に国別の団体世界選手権であるトマス杯で日本の初優勝に貢献。2016年に違法カジノでの賭博行為で約1年間出場停止処分を受けるも、復帰後に世界選手権を連覇するなどの活躍で日本人初の世界ランク1位になった。
ゴルフ
米国のプロゴルファー。メジャー選手権最多優勝記録を持つゴルフ界の帝王。その強さと風貌から「ゴールデン・ベア」と呼ばれた。
米国のプロゴルファー。
プロデビューから瞬く間にゴルフ界の頂点に上り詰めたスーパースター。生涯獲得賞金は1億ドルを超えている。スポンサー収入も破格で、2000年代にはスポーツ長者番付で全スポーツ通じて10年連続1位を獲得している。
格闘技
ボクシング
米国出身の元世界ヘビー級王者。
全階級を通じて世界最多となる世界王座連続防衛記録(25回)を持つボクサー。王座在位期間は約12年とこちらも歴代最長の記録である。
米国出身の元世界ミドル級・ウェルター級王者。
階級に関係なく最強の選手を決める用語「パウンド・フォー・パウンド」が生まれるキッカケとなった偉大なボクサー。
米国出身の元WBA・WBC統一世界ヘビー級王者。
当時単純な殴り合いであったヘビー級に華麗なフットワークを取入れたスタイルで数々の名勝負を演じた伝説のチャンピオン。
「蝶の様に舞い、蜂の様に刺す」という世界的に有名なフレーズで知られる。
アメリカではボクシングの枠を超えた歴史的偉人であり、1996年のアトランタオリンピックでは、最終聖火ランナーを務めた。
アメリカ出身の元世界3団体(WBA・WBC・IBF)統一ヘビー級王者。
ヘビー級としてはやや小柄ながら、圧倒的なパンチ力とヘビー級最速とも言われるフットワークで瞬く間に世界の頂点に上り詰めた。全盛期は短かったが、その圧倒的な強さから「史上最強のボクサー」として名前が挙げられることが多い。
素行の悪さを問題視されることが多いが、そのインパクトの強さから数々のゲームや漫画にタイソンをモデルにしたキャラクターが登場している。
アメリカ出身の元世界ミドル級・ライトヘビー級王者。
ミドル級初の4団体統一王者であり、世界王座最年長獲得記録保持者(49歳3か月)。プロデビュー時は23歳で、30歳で初の世界タイトルであるIBF世界ミドル級王座を獲得すると、約10年間ミドル級では最長となる20度の防衛に成功。ミドル級4つの王座を失いライトヘビー級に転向後も世界タイトルに挑戦し続け、51歳まで約30年にわたり現役を続けた。
メキシコ出身の元ミニマム級・ライトフライ級王者。
ミニマム級最長となる22度の防衛記録を持ち、プロ通算52試合51勝(37KO)1分という世界的にもまれである生涯無敗を誇ったことから、軽量級最強との呼び声が高い。
ボクシング漫画「はじめの一歩」に登場するフェザー級の絶対王者リカルド・マルチネスのモデルとして知られる。
アメリカ出身の元プロボクサー。
卓越したスピードとディフェンス技術を駆使したスタイルで、史上初の無敗で世界5階級制覇を成し遂げ、プロ通算50戦50勝の無敗のまま引退した。
KOを重視しないスタイルや破天荒な私生活から批判は多いが、ボクサーとしての評価は高い。
フィリピン出身の世界6階級制覇王者。
デビュー当時は軽量級のライトフライ級(下から2番目)だったが、キャリアを重ねるごとにどんどん階級を上げていき、10階級上のスーパーウェルター級までを渡り歩き、史上2人目となる世界6階級制覇を成し遂げた。
フィリピンの国民的英雄であり、タレントや政治家としても活動している。
ウクライナ出身の世界クルーザー級・ヘビー級王者。
アマチュア時代にロンドンオリンピックヘビー級で金メダルを獲得。その翌年、クルーザー級でプロデビューすると、2016年に初の世界タイトルであるWBO世界クルーザー級王座を獲得し、2018年にクルーザー級初の4団体統一を果たす。
ヘビー級転向後も、自身より体格が上回る相手にも無敗で勝利を重ね、2024年にはヘビー級史上初の4団体統一王者となり、同時に史上3人目となる2階級4団体統一王者となった。
現役時代は「カンムリワシ」の異名をとった、日本ボクシング界のレジェンド。
高校でボクシングを始め、1974年に上京してプロボクサーとしてデビューし、76年にWBA世界ライトフライ級王者となった。
80年までに当時の世界最多記録となる13度目の防衛に成功し、81年に14度目の防衛戦で敗れ世界王座陥落(この試合を最後に現役を引退)まで通算5年王座を死守。
生涯戦績は24戦23勝(15KO)1敗。世界王座防衛13度は日本人男子世界王者として、世界王座6連続KO防衛は日本人世界王者として現在も最多記録である。
日本ボクシング史上最高傑作と名高いボクサー。異名は「Monster」。
アマチュア時代から圧倒的な成績で注目を浴びると、プロ転向後も6戦目でWBC世界ライトフライ級王者、8戦目でWBO世界スーパーフライ級王者を獲得。2018年にWBA世界バンタム級王者となり3階級制覇を達成すると、2022年には日本人史上初となる4団体統一王者となった。翌2023年にはWBC・WBO世界スーパーバンタム級王者を獲得し日本人2人目となる4階級制覇を達成、さらに同年に2階級4団体統一王者という史上2人目となる快挙を成し遂げた。
総合格闘技
ブラジルの柔術家、総合格闘家。
ブラジリアン柔術の創始者であるグレイシー一族の中でも最強と呼ばれた男。1990年代にヒクソンをはじめとしたグレイシー一族が世界の格闘技界を席巻した。
「400戦無敗の男」というキャッチフレーズで知られているが、これはプロモーターによって誇張されたものでヒクソン本人も負けたことがあることは認めている。ただし、総合格闘技の試合では無敗のまま引退した。
ロシアの総合格闘家。
「氷の拳」と呼ばれた強烈な打撃に加え、柔道・サンボをベースとする寝技・組技も得意とし、いかなる状況でも冷静さを失わないなど格闘家としては全てにおいて隙がなかった。
当時格闘技の世界最高峰だったPRIDEでは、ヘビー級の絶対王者として君臨。PRIDE消滅後は海外の団体に身を置き、PRIDE時代から約10年に渡り無敗を誇ったことから「ロシアン・ラストエンペラー」「氷の皇帝」と呼ばれ、「総合格闘技界最強」との呼び声が高い。
カナダ出身の総合格闘家。元UFC世界ウェルター級・ミドル級王者。愛称は「GSP」。
総合格闘技の打・投・極全てにおいて隙がないコンプリートファイター。その完成度の高さから「総合格闘技の歴史を10年早めた」と評される。特にテイクダウンに関しては、UFCトップファイターの中でも際立った成功率を誇る。
極真空手出身で、左胸に漢字で「柔術」のタトゥーを彫り、試合入場時には日の丸のハチマキを巻いて入場するなど親日家として知られる。
ロシアの総合格闘家。元UFC世界ライト級王者。
総合格闘技史上最長である29戦29勝の無敗記録を持つ。幼少期にレスリング、柔道、サンボを学んだ経験からグラウンド技術が高く、29戦通して一度もダウンを奪われなかったなど打たれ強さとスタミナは群を抜いていた。
無敗街道を突き進みキャリア絶頂を迎えていたが、2020年のコロナ禍でコーチであった父親が病死したことにショックを受け、現役引退を表明した。
キックボクシング
イタリアのキックボクサー。
K-1、GLORY、ONE Championshipなどいくつものキックボクシング団体の世界王者を獲得し、中量級の王者として長きにわたり君臨した。
ずば抜けた動体視力と相手の攻撃を完璧に見切る防御技術の高さ、頭脳的な試合運びで相手を手玉に取る闘いぶりから「ザ・ドクター」の異名を持つ。
『キックボクシング史上最高の天才』と称される、日本が誇る格闘技の天才にして神童。
知名度は格闘技を知らない層にも名前を轟かせるほど。その戦績も凄まじく、学生時代から、武尊との直接対決までは通算41戦41勝無敗であり、総合格闘技の試合でも4戦4勝している。
武尊との直接対決で勝利を収め、ついに42戦42勝無敗と無敗のままキックボクシング界を去り、ボクシング界に殴り込むに至った。
アグレッシブに攻め続ける攻撃的なファイトスタイルが持ち味の『ナチュラル・ボーン・クラッシャー』の異名を持つK-1の至宝。
戦績も那須川天心との直接対決までは41戦40勝1敗であるが、その1敗北もアクシデントによる負傷で不運のTKOであり、事実上負け知らずであった。
その那須川天心との直接対決では、既に全盛期を過ぎていたこともあってか、那須川天心に敗れたもののそれでも双璧をなす存在に変わりはなかったのは事実である。
プロレス
「20世紀最高のレスラー」「鉄人」の異名を持つアメリカのプロレスラー。バックドロップ、パワーボムの原型となったテーズ式パイルドライバー、STFなどの技を世に広めた。
レスリング
ロシア出身のレスリング選手。
13年間無敗で五輪3連覇など数々の偉業を成し遂げた「霊長類最強の男」。まるで「マットにゴリラを放った」と評されるような格闘家としての能力を備えるだけでなく、態度は紳士的、さらにロシアの国会議員を務めた経験もあるなどの知的な面すら持ち合わせる。いわばリアルザンギエフ。
キューバ出身のレスリング選手。階級はカレリンと同じくグレコローマンの最重量級。
2008年の北京オリンピックで金メダルを獲得すると、続くロンドン、リオデジャネイロ、東京とカレリンですら成し遂げられなかった五輪4連覇を達成。さらに、41歳で挑んだパリオリンピックでは、オリンピック史上初となる個人種目5連覇の大偉業を成し遂げた。
2015年9月のレスリング世界選手権女子53kg級で優勝し、五輪3連覇と世界選手権13連覇の世界大会計16連覇を成し遂げた選手。
2012年には世界選手権と五輪の計13連覇でギネス世界記録に認定され、女性アスリートとしては2人目となる国民栄誉賞を受賞。さらに、霊長類最強の男と呼ばれた上記のカレリンにちなみ霊長類最強女子という称号まで手に入れた。
2001年全日本女子選手権56kg級準決勝で山本聖子に敗れて以来、2008年W杯団体戦で敗れるまで公式戦119連勝を記録。また個人戦に限れば以降負け知らずで、上記の'15年世界選手権優勝で個人戦200連勝に到達した。
リオ五輪では4連覇を逃し連勝はストップしてしまったが、その連勝記録である206という数字は記録より記憶に残る記録だろう。
なお、『女に生まれて良かった。もし男に生まれていたら、試合で相手を殺していただろうから』という迷言を残しているが、彼女がどれだけ強いかがすぐにわかる事であろう。
フリースタイル女子58㎏級の日本代表。
上記の吉田沙保里の陰に隠れがちだが、彼女も相当な実力者であり、アテネ、北京、ロンドン、リオデジャネイロの4大会連続で金メダルに輝き、前人未踏の女子個人種目四連覇を成し遂げるという快挙を達成している(日本選手のみならず、全競技通じ女子では世界初の快挙。さらに、五輪四連覇は、あのカレリンですらとうとう成し遂げることができなかった大記録でもある)。この偉業で、吉田に次ぐレスリング選手2人目の国民栄誉賞受賞者となった。
また、2015年の全日本選抜選手権の58kg級では、伊調との対戦を避けるために階級変更をする選手が続出し、エントリー選手が伊調を含めて3人しかいないという異常事態となった。
柔道
昭和を代表する伝説の柔道家。
常人では考えられない過酷な修行で得た超人的な身体能力と精神力で、全日本選手権13年間保持や15年間無敗を誇った。「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられるなど、史上最強の柔道家と称されることが多い。
1970年代から80年代にかけて活躍した柔道家。
全日本柔道選手権歴代最長となる9連覇、引退から逆算して203連勝、外国人相手に生涯無敗(116勝無敗3引き分け)という大記録を打ち立てた伝説の柔道家で、国民栄誉賞を受賞した。
平成初期に活躍した柔道家。
常に一本勝ちを狙い小柄な体型ながら豪快な一本背負いを得意としたことから「平成の三四郎」と呼ばれた。バルセロナオリンピック71kg級金メダリスト。
1990年に体重無差別の大会である全日本柔道選手権に出場。100kg超えの重量級選手を次々と下し、決勝に進出。決勝では前回大会覇者で同級生の小川直也に敗れるも、体格差をものともせず果敢に勝負を仕掛けた姿勢は称賛された。
オリンピックの柔道史上初の3連覇を成し遂げた柔道家。
技のキレやスピードは天才的と称されていたが、オリンピック初出場時はまだ無名の選手だった。その後、度重なる怪我を乗り越え日本人初のオリンピック3連覇を達成した。
野村が出場した男子60kg級は女子48級と同日開催であり、当時国民的人気選手だった谷亮子のほうがメディアの扱いが大きく、3大会とも翌日の新聞の一面は谷であった。野村本人はこのエピソードについて、逆に世間の関心が谷に集中したため同じ日に試合ができて良かったと語っている。
- 谷亮子(旧姓田村)
1990年代から2000年代前半にかけて柔道界を席巻し、その圧倒的な強さから、柔道漫画の主人公猪熊柔にちなんで「ヤワラちゃん」という愛称で呼ばれていた。
女子柔道最軽量級の48kg級で高校時代から国内外の選手を圧倒し、対日本人選手98連勝、国内大会121連勝(それぞれ11連覇した二つの国内大会を含む)、世界選手権7連覇、対外国人選手61連勝、対外国人選手通算127勝5敗(一本勝ち82)、バルセロナオリンピック決勝後からアトランタオリンピック準決勝まで公式戦84連勝という前人未到の記録を打ち立てている。また、オリンピックにも高校2年生だったバルセロナオリンピックから5大会連続で出場し、金メダル2、銀メダル2、銅メダル1と抜群の安定感を誇った。
また、怪我にも強く、2001年の世界選手権では、大会2週間前に右膝内側側副靭帯断裂という重傷を負いながらも強行出場し、苦戦しながらも世界選手権5連覇を達成した。また、アテネオリンピックでは、大会1か月前に左足首を負傷し周囲が怪我の影響を不安視する中、オリンピック2連覇という偉業を達成した。
フランスの柔道家。階級は100kg超級。
身長204cm、体重150kgという歴代の柔道家の中でも際立った体格を持つ。2007年に男子最年少で世界選手権を優勝すると、世界最長となる10大会連続優勝を果たし、オリンピックでも5大会で3つの金メダルを獲得するなど、実績に関しては世界全体でもトップクラス。
フランスでは英雄的な人気を得ているが、体格に任せて指導勝ちを狙うなど、勝つためなら手段を選ばない姿勢なため、柔道の礼法を重んじる日本からの印象はよくない。
相撲
角界史上最強とされる江戸時代の伝説の力士。「鉄砲」「張り手」「閂」「鯖折り」の四つの技を禁じられながらも、254勝10敗2分14預5無41休という記録を打ち立てた。
第35代横綱。
右目の半失明、右手小指に障がいを抱えながら前人未到の69連勝を打ち立てる。これは未だに破られていない連勝記録である。白鵬でさえも超えることができなかった。
第48代横綱。
優勝32回・45連勝などを記録したことから「昭和の大横綱」と称され、「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語が生まれるなど戦後の日本を象徴する存在であった。
第58代横綱。
端正な顔立ちと筋肉質な体格から「ウルフ」の愛称で呼ばれた名力士。「昭和最後の大横綱」と称され、歴代最強と評価する声も多い。
第69代横綱。
モンゴル出身の大力士。幕内最高優勝回数は歴代最多、史上初の通算1000勝達成など数々の記録を打ち立てている。
陸上競技
短距離走・ハードル
1980年代から90年代におけるアメリカ陸上界のスーパースター。
100m、200m、リレー、走り幅跳びの4種目において圧倒的な強さを誇り、出場したオリンピックで通算10個のメダル(内金メダル9、走り幅跳びは4連覇)、世界陸上で通算10個のメダル(内金メダル8)という空前絶後の記録を残している。
1990年代に短距離走で活躍したアメリカの陸上選手。
短距離走の選手としては珍しく200mと400mを専門とした選手で、200mで21連勝、400mで56連勝を成し遂げており、当時の世界新記録を樹立した。世界陸上で8個、オリンピックで4個の金メダルを獲得している。背筋を伸ばした独特のピッチ走法が特徴だった。
中国の陸上選手。2004年アテネオリンピック男子110mハードル金メダリスト。
アジア人初のオリンピック陸上トラック短距離種目における金メダリストであり、110mハードルの選手として初めて、世界陸上優勝、オリンピック金メダル、世界記録樹立の全てを達成している。その功績から中国では「黄金の昇り龍」「13億人の象徴」と称賛されている。
ジャマイカ出身で短距離走の現・世界記録保持者である「人類最速の男」。
2009年の世界陸上ベルリン大会で記録した100m9秒58は、今後人類が更新するのは不可能な記録ではないかと言われている。
2016年リオデジャネイロオリンピックで五輪からの引退を表明するも、最大の見せ場である男子100m決勝で、流しながらのフィニッシュで9秒81で優勝し、同種目史上初の三連覇を果たした。
昭和初期に活躍し、「暁の超特急」と称された伝説のスプリンター。
1932年のロサンゼルスオリンピックの男子100mで6位に入賞したが、2024年現在でも日本人がオリンピックの男子100mで入賞したのは彼が史上唯一である。
自己記録の10秒3はなんと当時の世界タイ記録。武器としていたスタートダッシュに関しては文句無しで世界最高峰だった。
中長距離走・マラソン
20世紀初頭に中長距離で活躍したフィンランドの陸上選手。
中長距離の世界記録を幾つも樹立し、オリンピックでは9つの金メダルを獲得した。その偉業から「フライング・フィン(空飛ぶフィンランド人)」と呼ばれた。
常にストップウォッチを持ちながら一定のペースで走るトレーニング法は、後の陸上競技に大きな影響を与えた。現役引退後、母国開催となった1952年ヘルシンキオリンピックでは最終聖火ランナーを務めた。
チェコスロバギアの陸上選手。種目は長距離走。
1952年ヘルシンキオリンピックにて、5000m・10000m・マラソンで金メダルを獲得する長距離三冠を達成。この長距離三冠は史上唯一で、しかもマラソンは初挑戦にもかかわらず当時の五輪新記録を樹立した鉄人であった。
苦悶の表情で走るスタイルから「人間機関車」と称され、日本では阪神タイガースのエースとして活躍した村山実の投球フォーム「ザトペック投法」の由来として知られている。
イギリスの陸上選手。種目は中長距離走。
世界的に治安が悪いことで知られるソマリア出身で、9歳の時に人身売買でイギリスに渡り帰化したという異色の経歴の持ち主。
2000年代はやや伸び悩んでいたが、2010年代に入ると一気に覚醒。5000m・10000mの2種目で無類の強さを発揮し、オリンピックと世界陸上合わせて10個の金メダルを獲得している。あまりの強さに他国の選手(特に長距離種目が強いケニアやエチオピア)から数人がかりでマークされるも、驚異的なラストスパートで包囲網を振り切り勝利を重ねた。
ケニアの陸上選手。種目は長距離走・マラソン。
10代後半から20代前半の頃は、トラックの長距離種目に出場し、オリンピックでは5000mで2大会連続でメダルを獲得し、2003年の世界陸上では金メダルを獲得。
20代後半でマラソンに転向すると初マラソンでいきなり優勝し、2018年のベルリンマラソンで当時の世界新記録を樹立し、史上3人目となるオリンピック連覇を成し遂げる。2019年には非公認記録ではあるが、人類史上初めてフルマラソン2時間切りを達成している。
跳躍
旧ソビエト出身(現ウクライナ国籍)の棒高跳び選手。
1980年代から90年代にかけて世界陸上6連覇を成し遂げ、世界中から尊敬を集めた。保持していた記録は2014年2月15日に破られはしたものの、実に21年に渡り保持し続けた人の姿を借りた鳥類。
噂程度だが、練習(非公式記録)で6m50(現世界記録は6m25)を飛んだとさえ言われている。
日本人初のオリンピック金メダリスト。
1928年アムステルダムオリンピック三段跳びで金メダルを獲得。戦後は陸上競技の普及と指導に尽力したことから「陸上の神様」「日本陸上界の父」と呼ばれた。
投擲
アメリカの陸上選手。種目は円盤投げ。
1950年代から60年代に陸上競技において史上初の五輪4連覇を達成した。この期間内で4度の世界記録も打ち立てた。
日本が誇るハンマー投げの世界的選手。
オリンピック・世界陸上の両方で金メダルを獲得するなど日本を代表するトップアスリート。
日本人離れした筋力に目がいきがちだが、実は持久力勝負以外はほぼ何でもこなせる万能選手。
「スポーツマンNo.1決定戦」では他競技のアスリート相手に圧倒的な強さを見せつけた。
スタッフも「あれは実質的にNo.2決定戦。No.1はどうやっても室伏なんです」と語ったほど。
引退後は、陸上に限らず様々な分野のアスリートの指導に当たっており、現在は日本のスポーツ全体を総括するスポーツ庁の長官を務めている。
日本の女子やり投げ選手。
高校時代にやり投げを始めると、高校2年時にインターハイ優勝。その後も着実に記録を伸ばし2019年に日本記録を更新すると同年の日本選手権では初優勝を果たす。2022年の世界陸上では銅メダルを獲得。2023年の世界陸上と2024年のパリオリンピックでは、日本の陸上女子フィールド種目で史上初となる金メダルを獲得。また、世界陸上とオリンピックの二冠は上記の室伏以来日本人2人目の快挙となった。
競泳
アメリカの競泳選手。
1972年のミュンヘンオリンピックで当時史上最多となる1大会で7個の金メダルを獲得した。しかも、全ての種目で当時の世界新記録を樹立した。通算金メダル獲得数は9個で、いずれもフェルプスに更新されるまで史上最多だった。
オーストラリアの競泳選手。
主に自由形で活躍した名選手。首から下のほぼ全身を覆った水着が特徴で、魚雷を意味するトーピード(Torpedo)をもじった「ソーピード(Thorpedo)」と呼ばれた。
オリンピックには2度出場し、金メダル5個を含む9個のメダルを獲得し、4種目で当時の世界記録を保持していた。
アメリカの競泳選手。通称「水の怪物」。
バタフライ、自由形、個人メドレー、各種リレーと多種目に渡って通算39回の世界新記録を樹立した。一人で多種目をこなせて、しかも5大会連続でオリンピックに出場していたため、気が付けばメダル獲得数(28)、金メダル獲得数(23)はオリンピックアスリート史上一位に。このうち200m個人メドレーは五輪4連覇を成し遂げている。
特に北京五輪での活躍はめざましく、1大会で8個の金メダルという空前絶後の大記録を樹立。そのうち7個が世界新記録というバランスブレイカーっぷりを披露した。
一番得意としていた200mバタフライでは「2001年に15歳で世界記録を破ってから、自分で打ち立てた世界記録を何度も自分で破り続ける」という、短命がデフォの競泳選手とは思えないような事をやってのけている。
フランスの競泳選手。
両親共に元競泳選手というサラブレッド。19歳で出場した東京オリンピックでは4種目に出場するも、6位入賞が最高とこの時点ではまだ未完の大器だった。
東京オリンピック後、かつてフェルプスを指導したコーチに師事したことで一気に才能が開花。2023年の世界水泳400m個人メドレーでフェルプスが持っていた最後の世界記録を塗り替えた。翌年のパリオリンピックでは1大会で4個の金メダルを獲得し、「新怪物」「フェルプスの後継者」と呼ばれた。
アメリカの女子競泳選手。
自由形の長距離種目で無類の強さを発揮している選手で、15歳で初出場したロンドンオリンピックの800m自由形で金メダルを獲得すると、以降世界新記録を更新し続け競泳女子初の五輪4連覇を達成。これまでオリンピックでは9個の金メダルを含む14個のメダルを獲得しており、金メダル獲得数は全競技通じて女子では最多タイである。
2000年代に日本競泳陣を引っ張った平泳ぎの名選手。
オリンピックではアテネ・北京で2大会連続2種目制覇を達成。これは全競技通じて日本人として史上初、平泳ぎの選手としても世界初の快挙となった。ロンドンオリンピックでは100mは5位、200mは4位と平泳ぎの3大会連続メダル獲得を逃すも、メドレーリレーでは銀メダルを獲得した。
アテネ大会での金メダル獲得後のインタビューで北島が発した「チョー気持ちいい」は、この年の流行語大賞年間大賞に選ばれた。
体操
ルーマニアの女子体操選手。
14歳で出場した1976年のモントリオールオリンピックでは3つの金メダルを獲得し、女子では史上初の10点満点を叩き出し、その可憐な姿から「白い妖精」と称えられた。
アメリカの女子体操選手。
体操史上屈指の身体能力の持ち主で、自身の名を冠した技を5つも有し、世界選手権では男女通じて史上最多の金メダルを獲得している。
2021年の東京オリンピックでは、大会期間中にメンタル面の改善を優先し複数の種目を棄権した。この行動に関し、アスリートのメンタルヘルスについて世界中で議論を呼んだ。
1960年代から70年台の日本体操の黄金期を牽引した名選手。
オリンピックには3大会に出場し、団体3連覇、個人総合2連覇など全競技通じて日本人最多となる8個の金メダルを獲得。「6種目やってこその体操」を信条とし、美しさを追求した演技は「体操の教科書」と称された。
日本が生んだ体操界の至宝。
体操の6種目全てにおいて安定した演技を見せるオールラウンダーであり、高難易度の技を連続で成功させる技術に加え、見る者を魅了する美しい芸術性を兼ね備えている。
世界選手権の個人総合では史上最多となる6連覇、オリンピックでも2連覇を達成するなど、体操界の絶対王者として君臨する存在であり、海外からも「キング・コウヘイ」と賞賛されている。
自転車競技
ベルギー出身の自転車ロードレース選手。
世界最大の自転車ロードレース「ツール・ド・フランス」では歴代最多タイ記録となる5度の優勝をはじめ、数々の最多勝記録を保持している。全盛期は攻撃的な走りでどのレースでも勝利に貪欲な姿から「ザ・カニバル(人食い)」と呼ばれ恐れられた。
スペインが誇る自転車ロードレース界の「鉄人」 。
1985年にプロになりレイノルズチームと契約を交わし、当初はエースのデガルドに次ぐNo.2扱いだった。しかし1991年の「ツール・ド・フランス」において、レース途中から不調のデガルドに代わりエースに指名されると、その年から1995年まで前人未到の5連覇を果たした。
また、1992・93年にはツール・ド・フランスとジル・デ・イタリアの両レース優勝を2年連続で達成。この記録は未だに破られていない。
ヨーロッパでは「インドゥラインに憧れて自転車レースを始めた」という人も多い。
イギリスの自転車トラックレース、ロードレース選手。
キャリア初期はトラックレースで活躍し、世界選手権やオリンピックで複数の金メダルを獲得。北京オリンピック後にロードレースに転向し、2012年にツール・ド・フランスを制覇し、オリンピックのトラック金メダリストでは初の総合優勝を果たす。同年のロンドンオリンピックでは、個人タイムトライアルで金メダルを獲得した。
その後再びトラックレースに復帰し、自転車競技引退後はボート競技に挑戦した。オリンピックでは通算5個の金メダル(トラック4、ロード1)を獲得している。
日本の競輪、自転車トラックレース選手。
世界選手権個人スプリント10連覇、賞金王6回など数々の伝説を打ち立てた名選手。1980年には日本のプロスポーツ選手初の年間獲得賞金1億円を達成し、通算獲得賞金は13億円を超えている。自転車競技が盛んなヨーロッパでは日本以上の人気と評価を得ている。
番外
アメリカの元ロードレース選手。
21歳にして自転車競技の世界選手権で優勝するも、精巣癌に侵され癌が脳や自転車競技者の命ともいえる肺にまで転移し生存率50%を宣告されたが過酷な治療とリハビリを乗り越え、競技に復帰後、ツール・ド・フランスを前人未到の7連覇したという日本で英語の教科書にも掲載されたというドラマチックなエピソードを持っていた。
後にネットスラングの使い方とは違う本来の意味でのチート行為をしていた事が発覚。7連覇記録も抹消されさらに自転車競技から永久追放処分の憂き目に遭った。美談からの不正や、まだ問題が公になっていない頃、身内の告発者やドーピングを非難する関係者に対し執拗な圧力をかけていたというランス本人の悪質さもあって社会的信用を大きく失墜させた。
ウィンタースポーツ
スキー
「20世紀最高のアルペンスキー選手」と呼ばれたスウェーデンの英雄。
ワールドカップ通算最多勝記録を持ち、大会では「彼に次いで2位になれば優勝に等しい」と言われたほど圧倒的な強さを見せた。1980年レークプラシッド五輪金メダリスト。
オーストリアのアルペンスキー選手。
高速系種目で名をあげ、特にスーパー大回転は長年無敵であった。煉瓦作りの仕事で肉体改造に成功した逸話がある。
長野オリンピックの滑降競技中風によって転倒し、防護ネットを越えて50m転落したが、3日後には復帰しスーパー大回転・大回転で金メダルを獲得。2001年にはバイク事故で選手生命を危惧されるほどの大けがを負ったが回復し、2006年のトリノオリンピックでスーパー大回転銀メダルを獲得。その不死身っぷりから「ハーミネーター」というニックネームで知られた。
オーストリアのアルペンスキー選手。
回転や大回転といった技術系種目を得意とする選手で、2000年以降を代表するアルペンスキー王者。ワールドカップでは歴代最長となる総合8連覇、世界選手権では7個、オリンピックでは2個の金メダルを獲得している。
アルペンスキーにおける数々の栄光を手にしたが、2019年シーズン終了後、「勝っている間に辞めたかった」と王者のまま30歳で現役を引退した。
カナダのフリースタイルスキー・モーグル選手。
圧倒的なターンの速さと高難度のエアを兼ね備えた名スキーヤー。デビューからわずか数年で世界のトップに立つと、ワールドカップ総合9連覇、世界選手権通算最多金メダル獲得、オリンピック3大会連続メダル獲得(金1、銀2)など、モーグル界の絶対王者として君臨している。
日本のノルディック複合選手。
1992年アルベールビルオリンピックと1994年リレハンメルオリンピックで団体2連覇、ノルディック複合・ワールドカップでは個人総合3連覇を果たすなど、数々の功績を残したことから「キング・オブ・スキー」と呼ばれた。
日本のスキージャンプ選手。通称「レジェンド葛西」。
40歳を超えた現在でもスキージャンプの第一線で活躍し続けており、2018年までにワールドカップで17勝、冬季オリンピックにも日本人最多の8大会連続出場するという大記録の持ち主。長い間オリンピックでの成績には恵まれていなかったが、7大会目の出場となるソチオリンピックにて41歳8ヶ月にして遂に初の個人メダル(銀メダル)を獲得し、冬季オリンピックの日本人最年長メダリストとなった。
日本が誇るスキージャンプ女子史上最高の選手。
若干15歳でW杯に参戦すると、優勝1回(男女通じて史上最年少優勝)、2位6回という驚愕の成績を残し、以降男女通じての史上最多記録が通算勝利数(63)、連勝(10)、通算表彰台回数(110)、女子史上最多記録が総合優勝回数(4)、年間勝利数(15)、後に同じ記録を達成した選手が現れたものの、男女通じて史上初の全戦表彰台という数々の偉大な記録を打ち立てている。
スノーボード
アメリカのプロスノーボーダー。
スノーボード界を代表するスーパースターで年収は10億円以上とされている。若い頃は赤毛のロングヘアだったことから「The Flying Tomato(空飛ぶトマト)」と呼ばれた。ハーフパイプ種目の第一人者であり、Xgamesやオリンピックなど数々の世界大会で圧倒的パフォーマンスで幾度も優勝を果たしている。
夏にはスケートボートの大会にも出場しこちらでも優勝経験がある。
チェコのスノーボード兼アルペンスキー選手。
2018年の平昌オリンピックにてスノーボードパラレル大回転とアルペンスキースーパー大回転の両方に出場。元々はスノーボードの方が得意なため、アルペンスキーは借り物の板という突貫工事も同然の調整で滑ったが、リスキーな速度を維持しつつノーミスで滑りきって金メダルを獲得。その後に行われたスノーボードでも金メダルを獲得し、全く異なる競技で二冠を達成した。その異例さから日本のメディアからは「二刀流」と称された。
日本のスノーボード選手。
15歳で初出場したソチオリンピックで日本人史上初のスノーボード競技でのメダル獲得と同時に冬季オリンピック日本人最年少のメダリストとなる。平昌オリンピックではショーン・ホワイトとの熾烈な金メダル争いとなり、わずかに及ばなかったが2大会連続の銀メダルを獲得。
2022年の北京オリンピックで人類史上最高難易度の大技トリプルコーク1440をオリンピックで初めて成功させる等の圧巻のパフォーマンスを見せ、見事金メダルを獲得。海外メディアからは、ショーン・ホワイトの後継者と称賛された。
スケート
アメリカのスピードスケート選手。
1980年レークプラシッドオリンピックにて、500m、1000m、1500m、5000m、10000mの5種目すべてで金メダルを獲得する完全制覇を成し遂げた。スケート全種目制覇は史上唯一で、専門化が進んだ現在では2度と達成できないであろう大記録と言われている。
ドイツの女子スピードスケート選手。
主に長距離種目を得意とする選手で、オリンピックでは5000m3連覇をはじめ5つの金メダルを獲得している。オリンピック初出場は1992年のアルベールビル大会で、血液の異常値で出場できなかったバンクーバーを除く8大会に出場。冬季五輪の8大会出場は日本の葛西紀明と並び史上最多。2022年北京オリンピックでは、49歳で出場し冬季五輪の女子最年長出場記録を更新した。
日本のスピードスケート選手。
スピードスケート選手としてはかなり遅咲きとなる30歳近くから覚醒した選手であり、
500mで2016/17年シーズンから公式戦(W杯や世界選手権含む)負け無しと言うとてつもない記録を打ち立て続け、比較的苦手(安定して優勝出来ないと言う意味で)な1000mで世界新記録を叩き出す事までやってのけた。
平昌オリンピックでは1000mで銀メダル、500mでは五輪最高かつ低地リンク(スピードスケートではスケート場の標高で大きくタイムが違い、500mで0.5秒は軽くタイムが違う)史上初となる36秒台を叩き出して金メダルを獲得した。
日本のスピードスケート選手。
平昌で金銀銅、北京で金銀を獲得。一番得意としているのは1500mだが、500m、1000m、果ては団体競技であるパシュートでもメダルを獲得する等、ありとあらゆる種目で活躍できる高スペック・適応力の持ち主である。このうち、北京での1000mの金はオリンピックレコードを叩き出しての堂々の優勝。オリンピックの通算獲得メダル数は夏も含め日本人女子最多である。
姉の高木菜那もスピードスケート選手であり、こちらも団体パシュートやマススタートで金メダルを獲得している。
日本のフィギュアスケート選手。
幼少期の頃から天才少女として名を馳せ、全日本選手権では8連覇、1989年の世界選手権でアジア人初の優勝を果たす。ジャンプの技術は当時の現役選手では群を抜いており、女子初のトリプルアクセルや3回転-3回転のコンビネーションジャンプなど、数々の高難度ジャンプを成功させた。
当時の女子フィギュアは芸術性が重視されていたが、伊藤の活躍でジャンプが評価されたことで多くの選手が高難度ジャンプに挑戦するようになり、日本のフィギュア人気の向上にもつながった。2004年には日本人初の世界フィギュアスケート殿堂入りを果たした。
日本のフィギュアスケート選手。
東日本大震災後に17歳で世界選手権メダリストとなり、初出場となったソチオリンピックで史上初となるショートプログラム100点超えを達成し、19歳で金メダリストに。
続く世界選手権も制覇し、史上2人目の三冠王者となった。
同年末の中国の大会では、流血事故により頭を7針縫う怪我を負いながらも、頭に包帯を巻いたまま滑りきるという少年ジャンプっぷりを見せつけた挙句、満身創痍のまま年末のGPファイナルを連覇するという主人公属性ぶりで「宇宙人か」と世界を戦かせた。2015年には史上初のフリー200点超え、トータルスコア300点超えを成し遂げ、元祖宇宙人プルシェンコに「違う惑星から来た人間だからね」と仲間認定を受けた。また、2017年の世界選手権ではショート、フリー、トータルあわせて11度目の世界記録更新(2017年4月現在)を達成。国際スケート連盟(ISU)の公式カウントが「Mr Record Breaker」とツイート(外部リンク)した。なお、その後も記録は更新されている。
2018年の平昌オリンピックでは男子シングル史上4人目66年ぶりとなる五輪連覇を達成した。なお、日本人の冬季個人種目での五輪連覇はこれが初となる。この偉業で史上最年少で国民栄誉賞を受賞した。
アイスホッケー
ソビエト連邦のアイスホッケー選手。
アイスホッケー史上最も偉大なゴールキーパーの一人で、長年ソビエト代表の守護神を務めた。世界選手権は史上最多の10度制覇し、オリンピックでも3個の金メダルを獲得している。
カナダのアイスホッケー選手。
通算ゴール数など数々のNHL最多記録を持っており、「アイスホッケーの神様」「史上最も優れたホッケー選手」と称されている。その偉業から彼が現役時代につけていた背番号99がNHL全球団の永久欠番となっている。
カナダのアイスホッケー選手。
グレツキーの後継者と名高い名選手で、グレツキーの愛称「The Great One(偉大なる男)」にちなみ、「The Next One(次なる男)」と呼ばれている。NHLではスタンレーカップを3度制覇し、カナダ代表ではオリンピックと世界選手権の両方で優勝を果たしている。
モータースポーツ
F1
1930年代から50年代までの長きにわたり活躍したアルゼンチンのレーシングドライバー。
F1には1950年の初戦から参戦し、1958年に引退するまで5度のドライバーズチャンピオン、通算24勝の成績を上げ、1968年にジム・クラークが更新するまで個人最多勝記録であった。勝率47.1%、46歳での最年長チャンピオンという記録は未だ破られていない。紳士的な人柄で知られ、F1の歴代ベストドライバーという評価もなされている。
危機回避能力が極めて高いことで知られ、多くのドライバーを巻き添えにした複合事故に8回も遭遇しているが、そのたびに一人だけ事態を見抜いて危機を回避している。彼の現役時代はモータースポーツに危険はつきものと考えられ、レーシングドライバーの死亡率は極めて高かった。彼が長く活躍できた要因として、事故死を逃れてきたことも見逃せない。引退後も最後まで事故に遭うことなく1995年に85歳の天寿を全うし、国葬で送られた。
1960年代から70年代に活躍したイギリス出身のレーシングドライバー。
F1では2度のドライバーズチャンピオンを獲得し、史上唯一の世界三大レース制覇(モナコGP、インディ500、ル・マン24時間)を成し遂げている。
しかし、1975年に自らが運転する飛行機事故で亡くなった。息子のデイモン・ヒルは父の死後、父と同じ道を志すようになり、父の死から20年過ぎた1996年にチャンピオンとなり、F1史上初の親子2代でのチャンピオンとなった。
ブラジル出身のF1ドライバー。通称「音速の貴公子」。
1980年代から90年代を代表する名ドライバーの一人で、3度のドライバーズチャンピオンに輝き、その卓越したドライビングテクニックは世界中のF1ファンを魅了した。
「難易度ウルトラCどころかウルトラD」「1勝が他レースの3勝に値する」と言われるモナコGPは「元祖モナコマイスター」グラハム・ヒルや後述のシューマッハの5度を上回る6度の優勝記録を持ち、これは同GPにおける歴代最多である。
しかし、1994年のサンマリノGPで事故死。英雄の悲劇は世界中に衝撃が走り、母国ブラジルではセナの死は国葬として扱われた。
ドイツ出身で主にフェラーリに搭乗した、ファンジオ以来最高のF1ドライバー。
チャンピオン獲得回数7度、通算優勝91回、通算PP獲得68回、通算FL獲得76回という成績を持ち、通算優勝回数と通算PP回数はルイス・ハミルトンに更新されるまで長い間F1記録だった。
その速さは「湾岸戦争の原因はミハエル・シューマッハ」、「クルマが3台に見える」、「クラッシュしても1位を取れる」などという伝説が作られるほど。また、名門でありながら長らく低迷していたフェラーリを復活させ、同チームの21年ぶりのドライバーズタイトル獲得に貢献した上、そこから5年連続でチャンピオンを獲得した手腕も高く評価されている。
正確無比にして冷徹なドライビングから「F1サイボーグ」「F1ターミネーター」などと呼ばれ、フェラーリ時代は「赤い皇帝」と呼ばれた。
ラリー
スペインのラリードライバー。
1990年代に世界ラリー選手権(WRC)を2度優勝した名ドライバー。WRC引退後はダカールラリーに参戦しており、4度の総合優勝を果たしている。60歳を過ぎても現役を続けており、4度目の優勝は史上最年長となる61歳で達成している。
息子のカルロス・サインツJr.はF1ドライバーとして活躍している。
フランスのWRCドライバーで、シトロエンのドライバー。
巧みなグリップ走行を使い、世界ラリー選手権において前人未到の9連覇、通算勝数78勝、を成し遂げた。バイクスピークでも新記録を打ち立てて総合優勝を成し遂げたことがある。常に冷静な表情を見せていたことから「アイスクール・セブ」と呼ばれた。
「モンスター田嶋」という愛称で知られている、ダートトライアル中心に活躍するレーサー。
アジアパシフィックラリー選手権で2輪駆動部門で1996年~1999年度、2001年、2002年度でシリーズチャンピオンを獲得し、パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムで2006年度から2011年度まで6年連続で優勝を獲得している。
レーサーだけでなく、「モンスター・スポーツ」の社長として実業家としても成功している。
四輪レース
「日本一速い男」という異名を持つレーシングドライバー。
その異名に恥じない活躍っぷりを見せ、悪天候でライバルたちがためらう中優勝、デイトナ24時間レースでは2位を9周引き離して優勝、R32型スカイラインGT-Rのデビューイヤーである1989年度の全日本ツーリングカーレース(JTC)では全6戦中4戦でポールポジション獲得を成し遂げている。
ちなみに1987年にホンダからF1のシートを譲られたものの、それを辞退したが、F3000時代に優勝を争い、のちにF1で4勝を挙げているエディ・アーバインは優勝時の会見で「日本にはホシノさんというメチャクチャ速い人がいてなかなか勝てなかった」と評している。アーバイン以外もF3000時代に星野と争っていたドライバーは「星野は速い」に同調する一方、欧州のジャーナリストは星野のことを知らず、日本のジャーナリストに聞きまわったという逸話がある。
あのドリキン・土屋圭市も憧れる日本を代表するレーサーの1人。
'72年の富士GCシリーズNo1富士300キロスピードレーススーパーツーリングレースにおいて、豪雨の中全車を周回遅れにして1位を獲得している。
レーサーとしては高齢となった後も活躍し、全日本耐久選手権においては1985年から1987年まで3連覇を果たし、1989年には49歳で4度目の制覇を遂げ、'94年のル・マン24時間レースでは55歳でクラス優勝を果たし、富士スプリントカップの「レジェンドカップ」においては70代の年齢を感じさせないドライビングを見せた日本最強の高齢者ドライバー。
ドリフト
日本のD1ドライバー。
史上最強のD1ドライバーであり、1000馬力超えのエンジンを搭載したマークIIをはじめとする重量級マシンを下手な軽量級マシンより速いコーナーの新入速度を武器としており、上位の常連である。2008年と2016年にはシリーズチャンピオンを決め、2012年には海外版D1であるフォーミュラ・ドリフトとフォーミュラ・ドリフト・アジアのシリーズチャンピオンを決め、特に2016年シーズンは開幕戦から3連勝を果たしてシーズン6戦中4戦優勝という圧倒的な成績を残して最終戦前にシリーズチャンピオンとなった。
オートバイ
モータースポーツ王国・イタリアの誇るオートバイレーサー。
世界最高峰のバイクレースMotoGPにて史上最多となる9度のチャンピオンに輝いており、今も「史上最強のライダー」と称されている。
四輪競技への興味も深く、フェラーリのF1テストに参加したり、WRCへの参戦経験もある。
アメリカのモータースポーツ選手。
モトクロスやラリーなどレースでの実績もあるが、ジャンプアクションの完成度を競うフリースタイルモトクロスでの活躍が有名。Xgamesでは複数の優勝経験があり、世界で初めてダブル・バックフリップ(後方2回転宙返り)を成功させるなど超人的なパフォーマンスを披露している。
その他モータースポーツ
日本を代表する自動車チューニングの雑誌・OPTIONの創設者で、それだけでなく日本を代表する自動車イベントである東京オートサロン、熱走!! Exciting Car Showdown、D1グランプリ、ドリフトマッスルを創設した人物。
それらを創設した実績だけでなく「不死身の男」と呼ばれるほど死んでもおかしくないエピソードが多く、「300km/hでガードレールに接触した後も走行」、「300km/hで走行中ぶ鳥が正面グリルへ突き刺さってもそのまま走行」「乗っていたマシンが出火しても走行」の他、中でも2003年にストリームZでシルバーステイツにて最高速チャレンジを行った際、時速344km/hでの大事故で左リアタイヤが破裂し、240km/hまで減速するものの、スピンしながら10回転も横転したにもかかわらず生還したというエピソードはテレビで紹介されたほどの伝説となっている。
ローラースポーツ
アメリカのスケートボーダー。
14歳でプロスケートボーダーになり、人間離れしたパフォーマンスをたびたび披露し「スケートボード界の神」と呼ばれている。自らがプロデュースしたブランドを立ち上げ、彼を題材にしたテレビゲームも発売されるなど、スケートボートを世界に広めた人物である。
日本のスケートボーダー。
10代前半の頃から国内トップ選手として活躍。スケートの本場であるアメリカ・ロサンゼルスに拠点を移すと、2019年にXgames初優勝を果たす。スケートボードが初めて採用された東京オリンピックでは金メダルを獲得し、オリンピック初代王者となった。
東京オリンピック以降、採点ルールが変更されたことでその対応に苦戦し、大会1か月前のぎりぎりでパリオリンピックへの出場権を獲得。パリオリンピック本番では最終滑走で最高得点を出すパフォーマンスを見せ大逆転でオリンピック連覇を達成した。
マインドスポーツ
稀代の天才棋士。1996年に将棋界初の7タイトル(竜王・名人・棋聖・王位・王座・棋王・王将)を総ナメにするという前人未到のあり得ないような偉業を成し遂げ、果ては永世7冠まで達成。過去10年間における延べ70人のタイトルホルダーのうち半分の35人が彼であるという、将棋界のレジェンドというかもう神である。
2022年には遂に公式戦通算1000勝を達成。
ちなみに趣味のチェスでも日本ランキング1位という鬼スペックぶり。
2018年に国民栄誉賞を受賞。
21世紀生まれ初の、史上最年少でプロデビューした将棋棋士。史上5人目の中学生棋士。2017年4月、王将戦1次予選で小林裕士に勝ち、プロデビューからの連勝記録を更新した(11連勝)。その後も連勝は続き、同年6月に行われた竜王戦本戦1回戦で5組優勝の増田康宏に勝ち、神谷広志が30年近く保持していた28連勝の記録を抜き、デビューから無敗のまま歴代最多連勝記録を更新した。
また2020年には棋聖のタイトル挑戦権を獲得したことにより史上最年少タイトル挑戦の記録を更新、同年には当時の棋聖渡辺明に3勝1敗で勝利したことにより史上最年少タイトル獲得の記録も更新した。2021年には棋聖・王位・叡王に加えて竜王を獲得したことにより、19歳の若さで棋界の序列一位となった。
2023年10月には王座のタイトルも獲得し、史上初の将棋タイトル八冠を達成した。
現囲碁界の頂点に立つ若き棋士。中1でプロ入りし史上最年少の20歳で名人のタイトルを獲得。その後も七大タイトルを総なめにし史上初の2度の七冠と年間グランドスラムを達成している。現在でも令和三羽烏(芝野虎丸、一力遼、許家元)とよばれるトップの若手に対して互角以上に渡り合っている。
2018年に国民栄誉賞を受賞。
「最強最速」「麻雀星人」の異名をとる雀士。数え切れないほどのタイトルを獲得し、現代麻雀の最強選手。
トーク力も高く、麻雀界の顔として様々な場で発信をしている。
70〜80年代の冷戦期アメリカのチェスプレイヤー。奇行で知られるも、チェスでは圧倒的な強さを誇り、アメリカの代表としてソ連の世界王者に挑戦、米ソの代理戦争とも取れる激戦を制した。現代でも史上最強のチェスプレイヤーの一人とされる。
公営競技
日本競馬界の生ける伝説。
JRA(日本中央競馬会)に所属する騎手で通算勝利数は2位の岡部幸雄の2943勝を大きく引き離し4200勝を超え、今もなお勝利を積み重ね続けている。
年間最多勝利18回、G1レースは地方・海外を含め100勝以上と、もはや更新は不可能と思えるレベルの記録を複数持っている。海外でもその名は知られており、国際的に活躍した競馬関係者を表彰するロンジンIFHA国際功労賞を日本人として初めて受賞した。
イタリア出身の天才騎手。
イギリスで騎手としてのキャリアをスタートさせ、主にUAEとイギリスを主戦場とし、凱旋門賞では歴代最多の6勝、世界各国のG1レース勝利数は200勝以上である。
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