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編集者:ラミネス
編集内容:近鉄をちょっと更新

日本面(鉄道)

にほんめんのてつどうへん

日本独自の発想で生み出された様々なもの(日本面)のうち、鉄道に関するもの。

ここには、日本面のうち、鉄道に関するものを記載しています。

日本面についての概要と、軍事に関するものについては「日本面」を、

自動車(二輪車等も含む)・船舶・航空など、鉄道以外の乗り物に関するものは「日本面(乗り物)」を、

企業や文化など、その他は「日本面(その他)」を、

企業のうち、任天堂に関するものは「任天面」をご覧ください。

鉄道院・鉄道省・日本国有鉄道部門

機関車部門

蒸気機関車編

  • 8620形と9600約束されし勝利と変態の機関車。日本初の純国産蒸気機関車である。で、その内容はというと、イギリスとアメリカとドイツからそれぞれ輸入した機関車のいいところを取り出してごった煮、ついでに日本で独自に考案した機構や他国ではまだ試験段階の機構も突っ込んでみましたというシロモノ。鉄道に関してはもはや英国紳士が裸足で逃げ出すのが日本だが、そうなることはこの2形式が産声を上げた時点で決まっていたようなもんである。すすが多い低質の国産石炭を理由とする黒一色塗装も両形式から始まったが、質実剛健の中に芸術性を見出す国民性に見事に合致、動態保存車以外の蒸気機関車が撤退した後の世代にすら「蒸気機関車≒黒」のイメージを刷り込んでしまった(海外では蒸気機関車でもここまで単色塗装をしている国はない。日本型蒸気を使っていた台湾やタイでも晩年は色を指している)。一方でつぎはぎで造った機関車の割りには日本での運用条件も充分に考えて無難に設計したため信頼性は高く……その上で出力・規模も手ごろなテンダー式機関車ということで蒸気機関車全廃直前まで運用され9600形に至ってはそのグランドフィナーレを自らの手で飾ることになった
    • 附番ルール:著名な両形式であるが、かなりおかしな附番ルールになっている。古い時代の蒸気機関車は、製造順に型式番号に1を加えた物を車両番号としていた。9600形は9600から始まるが、9700形が存在するために9699の次は1万の位に繰り上がって19600となる。8620は更にややこしく、8550形と8700形が存在するため、8620からスタートして8699の次は18620に飛ぶ。昭和3年に称号規定が改正され、蒸気機関車は動輪の数を表すアルファベット、数字2桁、製造番号の順に表すようになったのだが、この2形式には適用されず、最後まで分かりずらい番号のままであった(まだ9600のは速算できるが、8620ってなんで80進法なんだ?→8550形が従来ルールのまま66両登録されて8615まで存在するため、0~19を使用することが出来ない)。
    • 8620形蒸気機関車58654号機英国面で紹介したダージリン・ヒマラヤ鉄道は、現在保存鉄道として、鉄道線路そのものも含めて保存されているが、それとどっこいの歴史を持ちつつ、現代の電車気動車と同じ線路上を営業運転する資格を持っているおそらく世界最古の機関車(1922年製、全ての空母の母の同級生である)。2005年に台枠の変形により一度静態保存となるが、JR九州は将来の復活の可能性を信じて除籍を行わなかった。その後の調査により奇跡的にも日立製作所になんと製造時の図面があることが判明し、静態化から約2年後の2007年、台枠の新製とボイラー修繕を施された58654号機は復活を遂げた・因みに日本も復活蒸気で台枠を再度新製したのは58654号機と次項のC57形1号機だけである。なお、JR化後の初回復活時にテンダーとボイラーを新造し、2度目の復活時に台枠を新造しているので元の部品のほうが少ない
  • C56形蒸気機関車44号機:C56形は線路規格の低い路線用に開発されたテンダー型機関車であり、バック運転の際に見通しが利くように炭水車の両脇を切り取っている。小型ながら長距離走行が出来るため、戦時中には90両が戦地に供出された。その中で44号機だけが日本に帰還し、大井川鐡道で動態保存されている。しかも、2015年にはきかんしゃトーマスに登場するジェームスの姿に改装された。全く形が違う(きかんしゃトーマスに登場する機関車は全員モデルとなった機関車がイギリスに存在する)にも拘らず、その再現度はかなりのもの。
  • C57形蒸気機関車1号機日本鉄道界の異能生存体にして雪風と並ぶ日本最強の異能生存体。落成こそ1937年と上記の58654号機より15年若いが、「1945年、宇都宮機関区在籍時に空襲に遭遇し機銃掃射を受け損傷」「1961年、羽越本線で急行『日本海』を牽引中に土砂崩壊現場に突入して脱線転覆大破。しかも現場に2か月以上放置されたにも関わらず、長野工場(現在のJR東日本長野総合車両センター)で5か月にも及ぶ修復を受けて奇跡の復活」「1976年、梅小路蒸気機関車館で保存されている蒸気機関車の定期検査を担当していた長野工場の検査打ち切リや、京都駅-大阪駅間で発生した京阪100年号事故で、国鉄における蒸気機関車の動態保存自体が危機に陥るものの、当時の高木文雄国鉄総裁の英断で継続が決まる」「1995年、検査のためJR西日本鷹取工場に入場中阪神・淡路大震災に遭遇。ジャッキ上にあったため転落、ボイラーをはじめ、いたる所が大きく損傷したが、同工場の努力によりすべて修復」と、いつ廃車になってもおかしくない事態に遭遇しながらも切り抜け、お召し列車の牽引やSLやまぐち号などで活躍を続ける。21世紀に入ってからは、2005年末から2006年4月まで改修工事で寿命を25年伸ばす修繕工事、2009年に炭水車の車体新製、2009年末から2010年4月までボイラーその物の改修(煙室管板と火室管板そのものの新製交換)、2013年9月から2014年6月まで台枠の一部やシリンダーなど走行の要となる足回りでもいくつかの部品の新製が実施された。この事により新製から現在まで見て、一部のファンからはC57 202号機(C57は201号機まで製造)と呼ばれている。ちなみに製造元は川崎車輛カワサキか…
  • D51蒸気機関車:蒸気機関車の代名詞的存在。貨物用として1115両が製造され、単一形式としては日本最多を誇る機関車。初期型はドームが長いことからナメクジと呼ばれる。但し、知名度に反し、基本設計はお世辞にも良いとはいえない。丙線でも使用出来るように設計されたため全長が短く、車体重量の分配が不適切でなかったため空転が多発し、勾配区間での重量貨物の牽引には適さなかった。軍需輸送の増大に伴い、当時の標準形であったため大量に製造されただけである。当形式に限らず、昭和に入ってから設計された日本の蒸気機関車は基本設計が良くないものが多く、当形式を始め多くの形式よりも旧型のはずの8620や9600が使い勝手の良さから中々置き換えられず、最終的に蒸気機関車の終焉まで生き残る原因となった。
  • D52蒸気機関車D51の改良型であり、国鉄史上最大の貨物用蒸気機関車……なのだが、深刻な材料不足に見舞われた第二次大戦中の新製だったため、同時期に大増産中であったD51第三期型と共に炭水車側板その他の木製化やボイラーの簡易化、果ては軸重確保のためにコンクリート塊を積む等され、案の定爆発事故等を続発させてしまった。戦後はこれらの問題点も改良され、一部は足回りを履き替え旅客用のC62形に生まれ変わることになる。
  • C62蒸気機関車:先述の通り、D52を旅客用に改造して生まれた、日本最大の蒸気機関車。GHQが蒸気機関車の新造を認めなかったため、余剰となった貨物機関車を改造して登場。ボイラーが大きく、機関助士の負担が大きいため、自動給炭機を備えている。そして東海道本線で燕・鳩の牽引機として活躍を始めたが...。電化に伴って一部が北海道に転出することに。その際に軸重軽減が行われたものの、これのせいで車重の割に列車を押さえつける力が弱い、厄介者の機関車として扱われることに

電気機関車編

  • EF13電気機関車:上記D52の電機版。徹底的な簡素化と鋼材の節約のため、凸型の車体になったのが最大の特徴。もちろんこちらも死重としてコンクリートを積んだことから「木とセメントで作った機関車」と呼ばれた。それまで製造されていたEF12並の性能をもつと言われたが、実際は粗悪な構造のためにそれ以前のEF10と同じ程度だったそう。しかも戦中のゴタゴタで完成したのは7両だけ。しかし戦後も製造は続き、安全化改良と並行しつつ最終的には31両が作られた。後に数や寸法が一致していたEF58の旧車体を(機器ごと)御下がりを貰って箱型ボディになり、貨物・旅客双方での運用はもちろん、0系新幹線電車の甲種輸送でも活躍し、1979年まで使われた。
  • EF55電気機関車:1936年に日立製作所、日本車輌製造・東洋電機、川崎造船所・川崎車輛で1両ずつ、計3両が製造された。当時、世界的な流線型ブーム中で生まれた機関車の為、この機関車も流線型の車体形状を採用し、ギア比も高速寄りに設定された。ただし、流線型先頭部は第1エンド側のみであり、第2エンド側は構内運転程度の運転台設備しかなく、当初は前照灯すら無かった。しかも、C53型43号機C55型流線型グループと同じく流線型カバーが邪魔で整備し難いという問題が発生し、わずか3両で製造を打ち切られた。その後、第2エンド側も本線運用が可能する改良がされて、東海道線でつばめや富士と言った特急列車の牽引などをEF58と共に活躍し、1955年にはEH10形とともに東海道本線で120km/h運転の試験に供されたほか、碓氷峠の空転試験列車やED71形の性能試験時に死重として連結されたこともある。1960年代以降、3号機は1962年に試作交直流両用電気機関車のED30形(ED30-1)機器流用される形で廃車となり、残る2両も1964年に廃車され、2号機はそのまま解体、1号機は中央鉄道学園の教習用となった。その後、1号機は1978年に準鉄道記念物に指定、1986年には大宮工場で動態復元され、数々のイベント列車や団体臨時列車をけん引する等活躍したが、保守部品の確保が難しくなった為に2008年にさよなら運転を行い静態保存に移行した(静態保存に移行した後も車籍は残った)。2015年4月12日から鉄道博物館で公開展示されている。
  • EF58電気機関車EF52に始まる戦前型国鉄電機の決定版。当初は戦後すぐの無い無い尽くしの状況で作られたEF57の廉価版といったところで、D52や63系、EF13同様評判は悪かったが、初のローラベアリングの採用、貨物用EF15との設計共通化などの優れた点もあった。それでも資源と熟練工の不足は厳しく、初期型は品質が極めて粗悪だったために一時は製造中止措置や使用中止命令が出された時期があったりする。その後製造は一旦凍結になるが、この時東京芝浦電気(今の東芝)の工場では既に4両が完成状態であったため、国鉄は他メーカーで未着工であった3両分を東芝に肩代わりさせ、31号機のみ増備車として引き取っている。またこのとき半完成品状態だった5両は後にEF18の32~34号機EF58の35~36号機に転用された。そして1952年、ロングラン可能な高速電気機関車が求められ、軸受けにベアリングを採用した本機に白羽の矢が立った。初期型で省略された機器や暖房設備を追加し、そのためのスペースは半流線型の大型車体を新設計し捻出するなど相当な手間が加えられ、どう考えても別の形式だろコレと言わんばかりの姿となり141両が製造され、日本電気機関車史に燦然と輝く存在にまで上り詰めた。なお1号機から31号機までは通常のデッキ付き機関車として登場したが、後に改設計後の姿に魔改造されている。しかし英国紳士も裸足で逃げ出す日本鉄道史においてこの程度はそんなに"変"というわけでもないのだが、問題は技術的にはこの後革新的な発展を遂げたにもかかわらず性能面では1958年の製造終了から1985年まで、特急旅客列車用の後継機が実質出現しなかったことである。
  • EF66電気機関車:国鉄最強の出力を誇った電気機関車。他国では重量級の貨物列車を牽引する際に重連(機関車2両以上)とすることは珍しくないのだが、日本の国鉄はEF65形重連で始まった特急貨物列車が「出力、消費電力が大き過ぎる」と気にいらなかったようで、単機で同等の重量の列車を同等の速度で牽引できる当時の狂気……もとい狭軌最大にして標準軌の海外ですらそんな怪物はいないというモンスター電機として開発が始まった。それ以前にもEH10形のような2車体永久連結の貨物用大型機関車はあったのだが、貨車一両分の長さが無駄、保守が面倒と、現場ではイマイチ不評だったという側面もあったらしく、「何が何でもF級(動軸数6)1両に収めるんだぁい」ってなことで、当時国鉄がファンから酷評されてまで固執し続けていた"標準化思想"を一切ぶん投げて実用化された…ここまで述べた通り、当初は高速貨物用として開発され、1968年の量産開始以降、長年それに専従していたが、1985年、東海道ブルトレ「はやぶさ」にロビーカーが連結されたのを機に、その馬力を認められ下関運転所受け持ちのEF66が「あさかぜ」(2往復)「さくら」「はやぶさ」「みずほ」「富士」に充当開始。JR発足後には併結列車となった「さくら・はやぶさ」「彗星・あかつき」「富士・はやぶさ」「なは・あかつき」も牽引。東海道ブルトレのグランドフィナーレを「富士・はやぶさ」と共に締めくくった。ようやくEF58先輩の肩の荷が下りました。また、EF200形量産化前のJR貨物で東海道特急貨物用機関車が不足したため、急遽100番台として旧式化を承知で新製した(ただし、この時点ではまだ日本最強の機関車であった)。やっぱり車体の設計が大胆に変えられているのだが、さすがにこの点ではEF58先輩には及ばない模様。なお二つ名だが、「マンモス」はEH10に使われたもので、その後を継いだED60・EF60は「1車体でEH10並の出力」という意味で「アトム」(『鉄腕アトム』に由来)と呼ばれたが、そのEF60の2両分の働きができるEF66にふさわしいのはやはりモンスターだろう。
  • EF67電気機関車:勾配区間が連続する山陽本線瀬野-八本松間の補機専用として、EF60形、EF65形から改造された電気機関車。電気機関車では一般的ではない電気子チョッパ制御を採用。EF60改造の車両は新性能電気機関車なのに旧型電機張りのデッキがついている。EF65改造の車両はパンタグラフをシングルアーム式に変えられるも不具合で戻される。
  • ED45形電気機関車:かつて電気鉄道は直流400V~3000V程度の直流高圧給電が常識だったのだが、戦前のドイツが長距離を低イニシャルコストで電化する方法として10kV(10,000V)以上の交流特高圧給電による電化方式を開発し、戦後そのノウハウを得たフランスが鉄道交流電化のデファクトスタンダードを握ろうとしていた。その流れに遅れてはならぬと、日本も東北地方などを電化する目的で交流特高圧給電の研究・開発を開始した。ところが、この為にフランスからサンプルの電気機関車を輸入しようとしたところ、フランス側から「お前らに実物与えたらサル真似して自分で造っちまうだろ! 前科だってあるし! 買うなら量産輸入じゃないと許さん!」と言われてしまった。ところがそれに対する日本の答えは「自分達だってうちの元同盟国からの火事場泥棒だろうが! だったらいいよ自分で作るから!」。アメリカほど日本の扱いに慣れていなかったフランスは見事に敗北フラグを盛大に立ててしまい、日本の静止型整流式交流電気機関車ED45形は大成功を収めて量産車へとつながっていく。結局ドイツの模倣でしかなかったフランスの回転変換器式は急速に静止型整流式に置き換えられこのジャンルで日本にイニシアチブを許すことに。そして新幹線の大成功を目に慌ててTGVの開発に乗り出すのである。
  • EF81電気機関車:直流1500V,交流50Hz20000V,交流60Hz20000Vの三電源に対応する万能型電気機関車。こんなの様々な規格に対応するユーティリティー機関車でしょ...、と思いきや、日本海縦貫線の高速貨物や特急の定期運用をこなす本務機。この区間は途中にデッドセクションが3回もある(例として、大阪発青森行日本海だと、直流→交流60Hz→直流→交流50Hz)ため、その性能を遺憾なく発揮している。JRになり、他の電気機関車が老朽化を理由に次々に廃車される中、一般的な架線高さのある幹線の電化区間なら大抵どこでも走れる万能性から、しぶとく生き残っている。

ディーゼル機関車編

  • DD51形ディーゼル機関車:初の国産本線用ディーゼル機関車。それまでのディーゼル機関車は国産、輸入を問わず出力が低かったり安定性に欠けているものばかりだったが、安定した性能と、乙線にも入線出来る万能性から、蒸気機関車を次々に駆逐した。その為、鉄道ファンからは嫌われていたのだが...。平成も終わり近くになって、後継車種の登場、老朽化に伴い廃車が進むと一転して追い掛け回される事態に
  • DD53形ディーゼル機関車(ロータリー除雪機関車):幹線用ディーゼル機関車の全出力(2200ps)をロータリーヘッドに回せるというキ○ガイ除雪車。沿線の雨戸をぶち破ったり植木をなぎ倒したりは日常茶飯事、中には家の中のピアノを壊したという都市伝説まである。そして生産は3両にとどまった。まぁ、そうなるな……とはいえ、実はロータリーヘッド用の動力分岐機構以外は量産車DD51形と同一の機器なので特別お高いというわけでも保守に難があったというわけでもなかったり。ただ、箱型車体のDD53にどうやってセンターキャブ型のDD51の機器を収めているのか、外観からだけでは不条理しか感じない
  • DD54ディーゼル機関車:西ドイツ・マイバッハ社設計の純正品エンジン・変速機を載せた試作機は好調だったが、量産化カスタマイズで(国鉄技術陣とライセンスを受けた三菱重工業が)やらかしたために落っことした推進軸が線路に刺さって棒高跳びよろしく脱線してしまう等の事故・故障を繰り返し超短命(最短で新製から廃車まで4年10ヶ月)に終わった。保存車は一台残っているが、これは証拠保全の為に確保されたという(異説あり)。
  • DE10形ディーゼル機関車:線路等級が低く、DD51が入線出来ない丙線にも入線出来るディーゼル機関車。日本の鉄道の無煙化に大きく貢献した。丙線入線のため軸重を13tにし、一方で操車場での入れ替えで粘着力を上げるという2つの理由から5軸としており、前後非対称となったためセミセンターキャブの外見が特徴。だが、この5軸が曲者である。2軸の方を2軸台車としているのはごく普通であるが、3軸の方は3軸台車とすると丙線など線路の弱い箇所での横圧が問題となるため、1軸1軸が独立している(軸配置もC-BではなくAAA-Bと表記される)。機関車で1軸台車を採用するのは、日本ではこのDE10とその発展形くらいしか例がない。
  • ジェット除雪車:国鉄苗穂工場の生んだ秘密兵器の一つ。日本版Progvev-T。F-86戦闘機のジェットエンジンの噴射で雪を吹き飛ばすという素敵マスィン。DD53を越える雪と一緒にバラストなども豪快に吹き飛ばしてしまうためにお蔵入り。

電車部門

直流電車編

  • クモハユニ44/クモハユニ64制御電動郵便荷物普通車という合造車の最終形態。国鉄・JRの全車種の中で最長の形式記号を誇る(名前の長さだけならマイロネフ37も同率一位)。20mの車体の中に運転台、普通車、郵便室、荷物室が詰め込まれている。晩年はクモハユニ44は800番台車が身延線、クモハユニ64は主に飯田線で活躍した。なお、最長となったのは1959年の称号改正からであり、それまではモハユニ44であった。又、クモハユニ64は1958~1961年までクモハユニ(モハユニ)44100番台だったが、1961年に両運転台に改造されて形式が分離した(それまで電車は電動車には運転台もあるのが常識のため、電動車を表すモは制御車を表すクを内蔵していた。だが、後述の80系以降その原則が崩れたため、モとクは分離された)。
  • クモハ42:国鉄旧性能電車(釣り掛け駆動)の最後の生き残り。元は関西地区の急行電車(現在の新快速に該当する)用として投入されたが、新車の導入に伴い転属を繰り返し、ここに落ち着いた。周りの車両が新性能電車(カルダン駆動)に置き換えられる中、単行運転ができる貴重な存在(新性能電車は長大編成を組む都市部への投入を前提としたため電動車が2両1ユニットであり、こんな短編成は考慮していなかった)として、小野田線の本山支線で2003年までしぶとく生き残った。因みに後継車両は123系。ちなみに引退の原因は老朽化と言うよりだいたい京福電鉄せいである。
  • 63系/72系電車:国鉄の開発した通勤形電車63系はD52やEF13同様戦時中または終戦直後の新製で、窓ガラス節約のため3段窓採用、電装品は粗悪な代用品、車内を見れば天井は骨組み丸出しで照明は白熱電球だけ、座席は戸袋部分以外省略というもはやバラックもしくは有蓋車レベルに。桜木町事故をきっかけに72系へ更新され、101系/103系導入後も80年代まで活躍。さらに荷物電車となっていたものがJR化後に再旅客化され(後述のクモハ84)1996年まで活躍したほか、魔改造で車体を103系並にした後、電装品も交換して完全に103系化した車両が2005年まで活躍。しかもJR東日本保有の103系としては比較的後年まで残ったグループだった。
  • 80系:日本の電車王国化の礎を作った大功労者。因みに設計者は新幹線計画にも関わることになる、あの島秀雄である。最初に担当された区間から、湘南型の通称を持つ。80系が登場した当時、電車はモーターから発生する騒音と振動が酷く、長距離運転には適さないとされていたが、安定した走りと客車を凌駕する加減速性能(電車の普通列車が客車の急行列車と同等の所要時間で運転できる)が受け入られ(当初は初期故障が頻発し、遭難型と揶揄されたりもしたが)、日本が電車王国化するきっかけを作った。80系そのものは早々に151系153系113系といった後継車種が登場し、第一線で華々しく活躍した期間は短かったが、そのDNAは最新型の新幹線にまで受け継がれている。
  • 101系電車:国鉄の新性能通勤形電車のはしりとなった車種で、先述の72系では輸送力の限界に達していた中央線快速に投入する目的で開発。従来の電車は構造が簡単な釣掛駆動が主流であったが、性能の向上の障害となるため、カルダン駆動を採用した。しかし、全電動車方式で高加速性能を得るはずが、消費電流が大きすぎ元祖変電所殺し)加速力を抑えて運転、結果72系と変わらない状態になった末附随車を挿入してグレードダウンするハメに(このため、当初高性能電車と呼称するはずが、使えなくなったため、やむなく新性能電車と呼ぶことに)。しかも本来予定されていなかった山手線にも投入され、こっちではオーバースペックとなってしまった
  • 103系電車:国鉄の新性能通勤形電車。101系の反省を元にして作られた。駅間距離が短い区間向けに高減速性能を重視する一方、変電所にも優しいスペックとなった。技術的には登場時すでに時流遅れになりつつあったものの(※大手私鉄では1970年代以降普通鋼車体・抵抗制御の電車は減っていく)、国鉄の経営難や標準化の過剰な推進による技術の停滞などさまざまなしがらみを理由として1980年代まで製造。国鉄の硬直体質の象徴とされた。しかし駅間距離の長短を問わないこと(京阪神緩行線、常磐線)、快速運転にも耐えられること(阪和線)なども大量生産の理由であった(ただし、これらいずれの線区も定格速度の高い101系への“逆置き換え”が検討されている、また京阪神緩行に関しては103系の車体に113系の足回りを組み合わせた車両を国鉄大阪は要望していたという話がある)。いずれにせよ、63系から103系に至る「20m4扉ロングシート車」の系譜は、国鉄のみならず民鉄を含む太平洋戦争後の日本製通勤電車の雛形となった。
  • 105系電車:旧型国電置き換えのため製造された、新性能電車初の1M仕様車。経費節減のため、完全な新車と103系の車体を流用したものが混在するのはいいのだが、見た目が完全に別形式(新車は3扉のパンダ顔、改造車は4扉でパンダ顔と103系そのままの顔が混在。しかも103系の基本の顔以外に、捻出元の関係で、貫通扉付きのタイプもある)。そこは仕様を統一するべきだと思うが。主にJR西日本で運用され、最近は末期色化が進行中である。
  • 123系電車(クモハ123形):国鉄分割民営化直前に本州各地のローカル線にばらまかれた荷物電車改造の通勤電車。ちなみにこの形式が誕生した理由としては、国鉄時代は「地方路線の車両は大都市圏のお下がり」というのが通例であり、新製車両など予算が下りなかったので「荷物電車からの改造車だから文句ないだろ」と「JRに負担を押し付けないための車両だ」と言いはって、ある意味での「抜け穴」を使って新型車をローカル線に送り込むためである。とどのつまりが電車版リライアント・ロビン
  • クモヤ93:当時の狂気…いや狭軌最速の175km/hを叩きだした旧型国電。原型は何の変哲もないモハ40平妻車体だったのが、流転の末超アグレッシブな外観と性能を持つモンスターマシンと化した。ちなみに本職は架線試験車です。
  • 381系電車:後述する591系を量産したのが本系列。591系は東北本線の高速化のため交直流であったが、新幹線の建設が決定したため直流専用となった。そして中央西線のしなのに投入されたのだが...。曲線区間に入ると遠心力で車体を傾ける自然振り子方式のため、どうしても反応が遅れてしまい、余りの酷さに乗り物酔いをする客が続出した。その為、後に充当されたくろしおややくもでは、名前をもじって『ゲロしお』『はくも』などという余り有り難くない綽名を頂戴することに...。とはいえ、上述のクモヤ93を抜いて狭軌での日本最速記録179km/h(湖西線で記録)の所持車であるため、車両性能そのものは高い。
  • 117系電車:関西大手私鉄に圧倒されていた国鉄大阪が東京を説き伏せて新快速用に投入した起死回生の一手。一応近郊型に分類される車両であるが、2扉転換クロスシート、空気バネ台車など急行形どころか特急形に迫る豪華装備で登場(同時期に登場した185系との差は、デッキがないことのみ。詳細は次項)。当初は車内に吊り輪を設けなかったため、製造メーカーが「本当にいらないのか」と聞き返したというエピソードが残っているほど。この一手は一定の成果を上げJR西日本発足後の大攻勢の布石となった。
  • 185系:前述の117系が評価される一方で割を食ったのがこの185系である。元々老朽化した153系を置き換えるため(117系も153系の置換のために新造されたものである)に登場し、普通列車にも運用するため車内は転換クロスシートであるが、それを特急に格上げしたため、117系と設備面では差がないのに特別料金を取ることから『ぼったくり特急』、『有料新快速』などとファンに酷評されることに。ま、リクライニング機能がないんじゃしょうがないが(なお、JR化後に座席はリクライニングシートに改造されたが)。

交直流電車編

  • 401系/421系電車:記念すべき日本初の交直両用電車にしていわゆる「近郊型電車」の原点。車体は153系をベースに、北九州地区の通勤需要に合わせて70系の3扉配置を101系以降の両開き構造で備える。その後出力向上型の403系/423系、50Hz/60Hz共用の415系、直流専用の111系/113系/115系と大増殖を続ける、とにもかくにも無難な構造の車両……だと思ったら大間違いだ! 誰だ、直流と交流、しかも電圧に10倍以上の差がある電源を同一の集電装置で集電しようなんて考えたのは!(直流1500V、交流20,000V/50Hzまたは60Hz) 実はこれ以前の複数電源対応車は、ここまで異種の電源となれば別々の回路と集電装置を設けるのが世界的には多数派だったのだが、本形式以降見事に日本式がデファクトスタンダードに
  • 583系電車「特急列車を増発したいけれど、基地が足りないし、車両の新製にも費用が嵩む」→「じゃあ昼も夜も走れるようにすれば良い。座席と寝台の両方が使えればもっと良いよね!」というわけで本当に作られた、日本初(世界初としばしばいわれるが、実はアメリカで実用化されていた)にして、(多分今後も)唯一の昼夜兼用(にして交直両用)の寝台特急電車。1967年10月、60Hz区間用の581系が、寝台特急「月光」/特急「みどり」でデビュー。翌1968年10月(いわゆる「ヨン・サン・トウ」時刻改正)で、60Hz/50Hz共用の583系がデビュー。以降1972年3月までに400両以上が増備されて、一時は国鉄特急電車の主役の座にあった。しかし新幹線の延伸によって、本来の活躍の舞台~関西ー九州間、東京(上野)ー北東北間~が狭められたこと、登場当時はデラックスともてはやされた昼夜兼用の設備が、1970年代後半になると中途半端とみなされるようになった(居住性の面で、昼行特急としては485系などに、寝台特急としては客車の2段式B寝台に劣るとされた)こと、そして昼夜兼用による酷使からくる老朽化等で、比較的短期間で急行運用への格下げ、そしてまさかの転用劇(この詳細は後述)が…。だがJR東日本・JR西日本に承継された583系は、国鉄時代のような華やかさこそなくなったものの、20年以上に亘って活躍を続けた。JR東日本所属車は寝台特急「はくつる」「ゆうづる」特急「はつかり」で、JR西日本所属車は、定期運用こそ国鉄末期から始まった急行「きたぐに」1往復だけだったが、特急「雷鳥」やスキー列車「シュプール」などの臨時運用もこなした。583系の後継者(車)として、一応285系が存在するが、こちらは夜行特化仕様で、昼行運用は考慮していない。
  • 419系/715系電車:一時は国鉄特急電車の頂点の座にありながら、その評価が一変、中途半端な存在となってしまった583系に与えられた用途は、まさかの近郊形への転身だった。1980年代半ば、交流電化の地方幹線の普通列車(旧型客車やディーゼルカーが主力だった)の体質改善が要望されていたが、累積赤字が嵩む一方の国鉄が、こうした地方幹線向け交流(交直流)近郊形電車の新車を製造することなどほとんど不可能だった。そんな中、苦肉の策として生まれた案が、この583系を近郊形に改造して充当しようというものだった。かくして1983年~1985年にかけて、交流専用の715系(九州地区用0番代×48両、東北地区用1000番代×60両)と交直両用の419系(北陸地区用×45両)が本州・九州地区の国鉄工場で改造されて生まれた。改造費用を極力抑えることが至上命題だったため、先頭車の大半はブロック式の運転室をくっつけた切妻形(ゆえに「食パン電車」の異名が)、扉が増設されたが、なぜか増設側も元のものと同じ折戸(ゆえにラッシュ時の乗降には酷く手間取った)、車内にはデッドスペースが多い(ゆえに詰め込みが効かない)など、問題点は多々あった。しかし一方で、寝台電車由来のピッチが広く座り心地の良いクロスシート、天井の高い開放的な車内という、好評(?)な面もあったりする。赤字国鉄が生んだ産物ではあったが、JR発足後も長く使われ、特にJR西日本に承継された419系は、両端に交直切り替え区間がある北陸本線の特殊な事情もあって、2011年3月まで、26年に亘って活躍した。その結果、元の583系としてよりも、改造後の419系として活躍した期間のほうが長かった、という珍現象が。
  • 485系電車:大都市(直流1500V電化区間)と地方(交流20000V電化区間・60Hz;西日本/同50Hz;東日本)とを直通運転出来る交直両用特急電車。1964年12月、60Hz区間用の481系が「雷鳥」「しらさぎ」でデビュー(ただし当初予定の2か月遅れ)。翌1965年10月、50Hz区間用の483系が「ひばり」「やまびこ」でデビュー。1968年10月(いわゆる「ヨン・サン・トウ」時刻改正)で60Hz/50Hz共用の485系がデビュー(もっともこのときの注目は上述の583系だったが)。その後も先頭車の形態、冷房装置、座席、耐寒耐雪装備、横軽対応(489系)など、変化と改良を加えられて、1979年まで増備に次ぐ増備が重ねられ、国鉄特急電車の代名詞と云える系列になった。デビュー列車にして、この系列の総帥格ともいえる「雷鳥」では、実に46年2か月余り(1964年12月25日~2011年3月11日)に亘って活躍した。ちなみに受け持ちの車両基地も変わらなかった(向日町運転所ーJR西日本発足後の1996年3月に京都総合運転所と改組)。
    • 485系1500番台車:その「電化路線であればどこでも走れる」485系が味わった唯一の挫折が北海道である。札幌~旭川間が電化され、当初は電車急行が運転されていたが、同区間にも電車特急をということで485系の耐雪耐寒装備を強化した1500番台車を新造し「いしかり」として1975年7月華々しくデビューした(ここに至るまでにも、「白鳥」で本州で先に営業運転したり、国鉄労組のストライキで「いしかり」の運転開始が半月以上も遅れたりと、あれやこれやとエピソードがあったりする)のだが、北海道の厳冬期は想像以上のものであり、故障が続出しついには計画運休に追い込まれてしまった。なんとか乗り切って夏の間に考えつくあらゆる対策を施して2度めの冬に望んだものの、ほとんど改善の兆しが見られずについにギブアップ781系の開発に伴い、わずか6年で北海道から去ることになった。ただこれは、当時の国鉄が新型特急電車の開発をケチったというものでなく、当初は北海道電化に伴って投入され、北海道の厳冬期にも対応できた711系ベースの特急用車両にするつもりだったのだが、その711系の主要機器である主変圧器に使用されている絶縁油が使用禁止になってしまい。代替品の開発が間に合わなかったための苦肉の策でもある。
    • クハ481-253:485系一族(の先頭車)の中でも、とびっきりの履歴と運用範囲を誇った車両の1両。1973年8月24日川崎重工にて落成。国鉄~JR西日本、昭和~平成、20世紀~21世紀という3つの時代の節目を乗り越えて、2004年2月2日廃車。新製配置から廃車まで、所属がずっと向日町運転所(JR西日本発足後に京都総合運転所と改組)だった。クハ481-200番代は63両製造されたが、新製配置から廃車まで、転属の履歴が全くないのは、このクハ481-253だけである。運用された特急列車も、「雷鳥」「しらさぎ」「北越」「はくたか」「白鳥」「加越」「つばめ」「はと」「しおじ」「みどり」「にちりん」「なは」「日向」と、錚々たる面々が並ぶ。これらの列車の運転区間からもお察しいただけようが、北は青森、東は上野・名古屋、西は下関、そして南は西鹿児島(現・鹿児島中央)・宮崎までその姿を見せていた。
  • 591系電車:国鉄が試作した高速試験用の交流直流両用電車.曲線区間の高速化を目指し、自然振り子式車体傾斜車両の試験車として製作された。当初は3車体4台車1両扱いの連接車両の591として登場したが、連接台車の不具合で連接車からボギー車2両連結に改造された(この改造時に形式も591に改められ2車体4台車2両扱いとなった)…のだが、その改造方法が何と鋼鉄車体にアルミ車体をボルトで繋ぐと言う魔改造

機器編

  • MT46型主電動機:上記の101系電車をはじめ、初期の新性能電車に採用された走行用モーターである。当時の国鉄らしい考え方で、通勤型電車から特急型電車まで、ギア比を変えるなど小手先の手段でオールマイティーに使える「標準型」のモーターして開発された。実際にこのモーターを使った151系電車による高速試験では、当時の狭軌鉄道世界記録の時速163Km/hを叩き出すなど、当時としては先端を行く優秀な性能を持っていた。しかしながら、「熱容量に余裕が無い=過負荷に弱い」致命的な欠陥を抱えており、通勤電車用としては帯に長し襷に短しの中途半端な性能、急行・特急用電車では連続勾配でモーターが過熱してしまうため、止む無く補助機関車を要する区間も生じるなど、これを装備した電車のほとんどが付随車の連結両数の制限や運用区間の限定など、運用上何らかの制限がかかる羽目になった。こうした問題を抱えながら、出力を増強した後継のMT54型が開発されるまで約5年に亘り量産された。さらに1970年代末以降、廃車発生品のMT46が事業用車に転用されたり、また中古品が第三セクターの新車に搭載されるなど、その活躍は近年まで続いた。

気動車部門

  • DMH17系エンジン:1951年から量産化され、1960年代末まで派生系を含めて国鉄というより国産気動車の標準エンジンとして制作が続けられたディーゼルエンジン。基本設計が太平洋戦争開戦前という非常に古いものであり、サイズの割に低出力、燃費、整備性もよろしくないという問題だらけのエンジンだったにもかかわらず、「標準化」の名のもとに長期に渡って採用され続けた。国鉄時代のディーゼルカーの性能がおしなべて低かったのはだいたいこいつのせいだったりする。

特急型気動車編

  • キハ81系気動車:日本初の特急用気動車。ブルドッグのような前面形状が特徴的(この中にはサービス電源用のエンジンが入っている)。サン・ロク・トオのダイヤ改正で東北発の特急「はつかり」に投入された。運転開始当初は初期故障が多発し、『はつかり・がっかり・事故ばっかり』などと揶揄されたりもしたが、次第に安定した走りを見せ、日本での気動車の地位を確たるものとした。
  • キハ181系気動車:キハ81系の後継車で、単線・非電化・山岳区間を走る特急列車のために作られた気動車。「東北本線を120Km/hでぶっ飛ばした後、奥羽本線の板谷峠を無補機で登坂する」という、電車を超える性能を目指している時点ですでにおかしい。その為に、500馬力の大出力エンジンを1基積んでいる(キハ81系は180馬力のエンジンを2基搭載)。結論から言うとスペックとしてはおおむね達成できた(「しなの」は電車化の際183系では運転時分の短縮がほぼできない(=電化の意味がない)という理由から、新規に381系が開発された)が、エンジンの信頼性に問題があり一時期は失敗作扱い(ちなみに板谷峠も結局補機の応援を仰いでいる)され、製造数も国鉄形式としては少数派だった。しかしなんのかんのとJR化後もかなりの間生き残り、最後は己の性能を最大限発揮できる「はまかぜ」の運用を最後に2011年にその歴史に幕を閉じた。
  • キハ391系気動車:国鉄が試作したガスタービン動力の高速試験気動車。運転台部分のみが持ち上げられ、先頭車と中間車との連結面側が宙に浮いているように見える独特な形状の車体。また国鉄の営業車では前例のない動力集中型でもあった。ガスタービン車の例に漏れず騒音と高燃費を克服できず試作車止まり。と、言うか日本の場合はレシプロディーゼルエンジン車(≒キハ181系)でガスタービンの領域に踏み込んじまったのが主因としか思えないが。
  • キハ185系特急気動車:上記123系の特急気動車版として国鉄が製造した。軽量ステンレスを採用し、短編成も組めるよう、地域ニーズにマッチした仕様となった。そしてJR四国に引き継がれたのだが...。JR四国が高速バスに対抗するために後述する2000系を作ってしまったせいで、四国で本格的に活躍する前に追い出され、九州に移ることになった本末転倒な車両。だが、「A列車で行こう」に改造されるなどして第一線で走り続けているので、他の同様の車両よりは遥かにマシである。

一般型気動車編

  • キハ07 901ガスタービン気動車の実証用の車両…なのだが、その実態は旧型気動車のキハ07に1000馬力超のガスタービンエンジンをぶち込み、キハ181の台車を履いたため車体高が妙に高くなったという○チガイ車両。立案したやつ絶対抹茶に紅茶ブチ込んで飲んでただろ! ちなみにキハ07は茶筒型の前面が特徴だが、この車体はどう見てもDD54です。本当にありがとうございました。
  • キハ08系(初代キハ40系)気動車:『気動車は扱いやすいけど、数が足りないよね』→『だったら客車を気動車にすればいいじゃん。ちょうど余っている客車があるし』という発想で後述の60系客車にエンジンを取り付け、客車を気動車にでっちあげるいう前代未聞の魔改造を施された気動車。だが、車体重量と当時のエンジンの出力が釣り合わず(60系客車は物凄く重く、それに対しDMH17はたった180psしかなかった)、単行運転が出来ないため完全な失敗作扱いされてしまう。だが、JR化後、この発想は再び試みられ...(詳細はキハ141系の項を参照)。因みに最初はキハ40系を名乗っていたが、汎用気動車が使用することになったため、特殊なタイプであることを表すキハ08系に改番された。そのため、2代目キハ40は0番台が存在しない。
  • キハ66系:国鉄が作った近郊用気動車。標準性を重視した国鉄には珍しく、2扉転換クロスシート、440馬力の大出力エンジン搭載という急行型顔負けの破格の装備(実際、急行運用もこなしたことがある)。これだけ聞くと完全に名車なのだが、そのエンジンから爆音が奏でられるため(特に補助電源用は3000rpmとディーゼルエンジンとしては異様に高回転)、余りの五月蠅さに折角の車内設備が台無しになるほど。更に軸重が重いため、線路等級の低い路線には入線できない(重い機関車ではよくあることだが、気動車では珍しい)。とはいえ、その車内設備は前述の117系等に受け継がれている。
  • キワ90:それまでは蒸気機関車客車貨車を牽引していたローカル線が無煙化で旅客列車がディーゼルカーになった際に問題になったのが貨物列車の扱い。貨物列車のためだけに機関車を用意するのがもったいないと思ったようで、「貨車が自走できればいいんじゃね。ついでに貨車も何両か引っ張って」という発想で試作された気動貨車8mの二軸車にディーゼルエンジンを取り付ける形で2両が試作され、妻線で試験に供されたが、180psのエンジンでは二軸貨車2両を牽引するのが精一杯で、勾配区間ではノロノロになってしまいほとんど役立たずに終わってしまった。(代わりに製造されたDE10は出力1250psである)
  • キハ40系気動車:キハ10系キハ20系といった初期型気動車置き換えのために登場した汎用気動車。全部で888両製造された(これ絶対狙っただろ)。だが、車両重量とエンジン出力のミスマッチという基本設計の欠陥により、置き換え対象のはずの車両と基本性能が同等以下(220psのDMF15では180psのDMH17系エンジンを1基搭載したキハ20系より名目上は20%出力向上しているが、車両重量も増加しているためほぼ差がない。DMH17を2基搭載したキハ52とは比較するまでもない)である。さらに通勤、近郊型車両にも進んでいた冷房についても「ローカル線に冷房は不要」ということで準備工事すらされていない有様であり、なんとか冷房化しようとした地方の鉄道管理局の関係者を絶望させたという話が伝わっている。1970年代後半になると事実上競合する形となる地方の路線バスでは路線用新車は冷房付きが当たり前の時代に入っており、実際最終増備車が落成した1982年夏には西日本では全車冷房化を達成したバス会社がぼつぼつ出現しているという状況にも係わらずである。これも国鉄の硬直的な体質の弊害の一つである。軽量ステンレスならこんな出力でも十分に問題ないのに。だが、JR発足後は車齢が若かったことと、その頑丈な車体が逆に様々な改造にも耐えられるということもあって、高性能エンジンに交換して重量と出力のミスマッチを解消するのに合わせて冷房化も行い、使い勝手の良さが向上した結果、何のかんので多数が残っており、急行型や特急型、観光型への改造も多数存在する。

客車部門

  • 60系客車:木造車の安全上の問題が取り沙汰されたのは世界中同じで、第二次大戦後木造車の鋼製車への置き換え・木造車の淘汰がなされたのだが、実は日本が相当早い部類に入る。ドイツなどでは、それまで二軸・三軸の単車の客車(明治時代のアレ)がまだ残っており、それの台枠をそのまま三軸で鋼体化したり2台継いで鋼製ボギー車1台を作る、というものであった。しかも西ドイツが始めた頃、日本は翌年には終える見通しであった。
    • 日本の場合、狭軌(本来不利)だったこともありマッチ箱客車どころかヨーロッパ式の客室構造の客車も1940年頃までには支線まで含め淘汰されており、木造と言えど幹線最高速度である95km/h運転の出来る機器を揃えた17~20m級のボギー車に全てなっていた(明治末年以降のそれは、ほぼアメリカ型である)。これをそのまま鋼製にするという手もあったが、標準化の観点から敢えて切り継ぎ、全て20m級に統一した。それでいて殆ど乗車定員が変動しない(17m級5両(座席定員計400名)の素材から20m級4両を作り座席定員計384名、長さは逆に5m詰まる)。
  • 10系客車:1955年から製造を開始した、セミ・モノコック構造と鋼板プレス構造台車の採用でそれまでのス・マ級から一気にナ級まで軽量化された客車。特に勾配線区では従来型の客車3両分牽引定数で4両牽引が可能となるなど輸送力増強に貢献し、客車だけでなく以後の鉄道車両の設計に大きな影響を残した。が、あまりにも軽量化したことが仇になって老朽化も早く、代替車が少なかった寝台車以外は早期に淘汰されてしまった。この軽量化の度が過ぎて早期廃車というやらかしはJR発足後にも209系初期車などで繰り返されている。
  • 50系客車:定期運用に持つことを前提に製造された最後の客車(JR化以降に製造された客車は全て臨時・観光用であり、本系列のような定期運用に充当することは念頭に置いていない)。1970年代後半という蒸気機関車も消えた時期に新造された。動力近代化・分散化を推し進めていたご時世に何で今更客車を新造しているのかと思う人もいるだろうが、国鉄の財政の悪化、労組の反対、貨物輸送の縮小に伴う機関車の余剰、通勤輸送での長大編成を組む必要性(気動車は製造コストが高いため、日中の運用に必要な分しか製造されていなかった)等が相まって、800両以上が製造された。実際、この車両が投入された地域は、ローカル運用は旧型客車ばかりであり、自動ドアがついていない、車齢が40年を超えているなど、設備の陳腐化、危険性などの理由で本形式の投入が必要だったのである。しかし、JRになると電車・気動車の大量導入に伴い余剰車が大量発生した。元々電車・気動車を投入するまでの繋ぎであったため、車齢が若いうちに大量に廃車された(一部は気動車に改造された。後述のキハ141系参照)。今なら海外譲渡されるところであるが、当時はそのような経路はなく、ほとんどの車両は解体されている。800両もあったのだから、海外に譲渡すれば海外の車両レベルも相当改善されたと思うのだが。

技術部門

  • 変態的な腕を誇る運転士達:戦前から日本の鉄道の運転士の運転技術は群を抜いていた。21世紀の現在においてもその腕は健在で、定刻より1分遅れたら遅延とカウントされる程(1分遅れを遅延とカウントされたら、大半の国の鉄道は遅延なしで運転できる運転士がいなくなる)。平均遅延時分はJR東日本の新幹線で、年平均で0.1分という驚異の数字を叩き出している(しかもこの遅れの大半は「冬季の在来線特急が降雪により遅延→特急同士の接続のため新幹線も遅延」という構図のためであり、新幹線そのものが原因で遅れるのはほぼ0。)・・蒸気機関車時代の初期より現在の地下鉄まで、一定時間当たりに刻むジョイント音(10mレールなら36秒間、25mレールなら90秒間に刻む数が時速を表す)や距離標、風景などから速度を割り出す方法の訓練は一貫して在来線では行われている。戦時中、速度計の調達が工場の能力の限界から製造・整備とも追いつかず、内地外地問わず速度計にたよらない運転方法に切り替えたらむしろ定時運行できるようになったというほど彼らの速度感の精度は徹底している。
  • 碓氷峠:日本の鉄道の登山技術の結晶。横川から軽井沢までは11.2kmあるが、この間の標高差は553mもあり66.7‰もの急勾配がほぼ全区間に渡って連続する交通の難所である(‰は勾配の単位で、1000m進む間に1m登るのが1‰。66.7‰は1000m進む間に66.7‰登ることを表す。日本の幹線では10‰以下が基本で、20‰を超えたら急勾配)。明治になり、ここに鉄道を通すことが決まったが、余りの急勾配に当時の機関車では出力が足りず、ドイツのハルツ山で使っていたラックレールを使い、ようやく開通した。
    • 窒息事故:開通後の問題点として、短い区間に18の橋梁と26のトンネルが連続するため、毎日のように起こった窒息事故がある。登り勾配で速度が出ず、煙が列車にまとわりつくのである。対策として、機関車煙突の延長、煙幕のトンネル出口への設置等なされたものの、抜本的対策ではなかった。抜本的対策として国鉄幹線で初の電化となったが、地理的制約から今日的な架空電車線電化ではなく、第三軌条方式と架空電車線方式の併用となった。非電化区間のトンネル同様断面は小さいまま(通常は架線のためにトンネルを削り断面を拡張する)、本線(中間の熊ノ平駅構内含む)では第三軌条方式、入れ替え作業があり第三軌条の設置が好ましくない横川・軽井沢両駅構内に限って架線方式となった。当然、電気機関車も集電靴とパンタグラフの両方を搭載している。(後に登場したユーロスターもフランスで架線集電、イギリス在来線で第三軌条集電していたが、国が違うこと、英領内高速新線開通までのつなぎ手段であったため存置された。)
    • 慢性的な輸送量不足:急勾配区間のため、本務機(列車を牽引する機関車)の他に補機(勾配区間において列車の後部から列車を押し上げ、本務機を補助する)、更には専用の歯車付き緩急車が必要であるため、その分貨車や客車の連結両数は制限され、横川と軽井沢の両駅は常に滞貨が発生していた。石油は液体且つ上り貨物(降坂)のみの片荷であるため、この区間のみパイプラインで別送し貨車に再度積み込んで滞貨を減らした。後の粘着運転化まで単線だったため、列車交換のために熊ノ平駅ほか数箇所信号場も設けられていたが、狭い平坦部に押し込んだ駅のため、列車が長くなると、有効長が不足した。有効長を補うため駅前後に突込み線を作り、熊ノ平に進入した列車は前方の突っ込み線に前部を入れて停車。駅から発車するときも、後部突込み線を使って後退したのち発車と、運行自体が煩雑なものであった。スイッチバックを行う駅は数多くあるが、突込み線を幹線の駅構内の前後に設けて停車・発車とも全列車がスイッチバックで列車交換というのは、世界的に見ても珍しい(観光鉄道としては、黒部峡谷鉄道に類例がある)。
  • その後、昭和6年(1931年)、長大トンネルである清水トンネルを擁する上越線が開通。東京~北陸輸送のかなりの部分が上越線に移行した。
    • 粘着運転への切り替え:戦後、さらに輸送量が増加。元来小規模な観光鉄道で使われる前提のラックレール運転ではこれ以上の増強策もなく、開通後半世紀経ち施設が著しく老朽化もしていた。施設更新と輸送力増強のため粘着運転化・複線化工事が同時に進められた。手法・経路は3案あったが工事費用が最小となる、旧線横付けで66.7‰新線を敷く粘着運転が選択された。1963年粘着運転切り替え、次いで複線化された。この粘着新線の専用機関車として配備されたのが、EF63である。全重量108t、軸重18tと国鉄の中でも最も軸重の重い機関車となった。また信越本線全線の本務機は、同時に開発されたEF62である。EF63は全列車の坂下側に重連で付くため機関車列車の降坂時は、三重連となった。
    • 横軽対応車:電車や客車側もこの区間を通過するために対策が取られた。あまり両数が長いと押し上げ時に脱線してしまうため連結両数は依然制約が課され、さらに車両構造についても、台枠・連結器の強化、空気ばねのパンク機能等が付加された。対策してもなお電車列車の両数制約があったためEF63との協調運転可能車両が開発された。これにより、電車12両編成が通過可能となった。協調運転車両は169系189系489系である。
    • 新幹線の開通:時は流れ、貨物列車、客車列車の廃止に伴い、電車列車のみが通過するようになる。更に長野でオリンピックが行われることになり、北陸新幹線を着工することが決定。碓氷峠は通過旅客数は多いものの、ローカル利用が少ないことから廃止された。しかし、新幹線電車でも碓氷峠は難所である。需要の関係で軽井沢を迂回できないが、このルート故、30‰の急勾配が存在し、速度が落ちる(それまでの新幹線は基本15‰以下)。通過車両は基本的にE2系に限定された(現在E7系に移行)。後にE4系の対策車両が臨時で軽井沢に乗り入れたことがあるが、営業列車では立ち往生の恐れがあり、軽井沢への送り込みは回送だった。今なお難所である。
  • 板谷峠:碓氷峠の在来線廃止後、JR最難所となった33.3‰の急勾配区間。箱根登山鉄道神戸電鉄に比べたら緩いが、急勾配特化車両ではなく、長距離・高速運転用車両の運行が必要で、赤岩~大沢の4駅連続でスイッチバックが連続した上、狭隘な板谷峠各駅のスイッチバックは独特の構造だった。大正機の4110の代替として戦後もE10形が製造されたが、間もなく碓氷峠同様窒息等の災害防止策として電化された。その後約20年間直流1500Vで飛び地電化区間であったが、東北各幹線が交流電化されだすと、接続が再度問題となり交流20kV/50Hzに電気方式を変更した。直流時代、交流時代も専用の強力機関車を必要とした(直流時代がEF16EF64、交流時代がED78EF71。電車も、25‰程度の勾配線でMT比1:1を目指したMT54主電動機搭載車でもギア比1:3.5の特急電車ではMT比2:1でないと入線できなかった。同等以上の性能を液体式気動車に要求したため故障が多発し、再度補機連結に戻るなどした(前述のキハ181系)。後にミニ新幹線化されるが(この時スイッチバックは廃止、駅は本線の急勾配上に移設)、後発の、比較的平坦な田沢湖線経由(秋田新幹線)の列車よりも高い電動車比を要求されている。
  • 矢岳越え:九州の肥薩線の人吉駅から吉松駅の間にある。日本三大鉄道名所のひとつ(他は姨捨【篠ノ井線】と狩勝峠【根室本線旧線】)肥薩線が鹿児島本線の一部だった頃は輸送の隘路であり、この峠を越える為にループ線を作り、その途中の大畑駅にはスイッチバックを設けたほどの難所。ループ線やスイッチバックは山がちな日本各地に存在したが、ループ線の途中にスイッチバックが存在するのはここだけ。のち、海側の平坦な路線が新たな鹿児島本線として開通し、この区間は肥薩線と改称、ローカル線と化した。現在はいさぶろう・しんぺいはやとの風が走る。
  • 浜松工場今でこそ新幹線電車専門になってしまったが、かつては国鉄時代の名古屋鉄道管理局の蒸気機関車の修繕を受け持ち、かつそのレベルは他工場から抜きん出ていた。通常、工場出場後の試運転後所属区へ帰るが、その後しばらくは軽負荷(普通列車やトン数の少ない貨物など)に充てるのが常道。ところが浜松持ちの機体は、次の日から特急や1200t貨物など全力運転する運用に充てて何ら問題がなかった。ロッド軸受を所定寸法で仕上げ、すり減るのを待っているのが他工場の習慣である(要するに慣らし運転)が、それを製造・整備の時点で予め人為的に作ってしまうのが浜松流だった。但しこれには当時の純アナログ式の旋盤・フライス盤を0.05mm(仕上がりで。当然、途中の操作は数段細かい)のテーパー仕上げ(主連棒のビッグエンドの内側と外側が0.05mm径が違う)に使うとか常人離れした技量が要り、他工場では参考にしようとするもあえなく退散している。(今でもCNC旋盤とか、高度な機械を使う必要があることをなんでここの人らは手作業の調整だけでやってたんだ)また受け持っている先の機関区は名古屋・稲沢・中津川など、極端な運転条件を抱えた部署が多くあった。
    • C62蒸気機関車17号機:その浜松工場の技術力の結果のひとつが、C62 17号機が1954年に記録した、狭軌における蒸気機関車の世界最高速度記録129km/hである(現在も破られていない)。 ただ、この速度試験は名目上明治時代に架設された当時の東海道本線木曽川橋梁が電化に伴う速度向上に橋梁が耐えられるかどうかを調べるためというものである。そのせいかなのかどうなのかは知らないが、この速度試験の4年後に新しい橋に掛けかえられている。
  • 連結器総取り換え:明治から大正にかけて、日本の鉄道の連結器はヨーロッパ大陸で使われているねじ式であった。これは連結器にオスとメス(ねじとバックアップとしてのリンク)がある(日本独自の時短マニュアルで強度引き上げが出来なかったせいでもあるが、ヨーロッパなどでは片方の1本の連結器ネジを使うだけでもう片方は引っ掛けない。後述のマニュアルの差異から持ち上げるのに多少重くても頑丈なネジを使えることから、連結器にオスメスの区別がないため)ため、向きによっては連結することが出来ず、方向転換もしくは連結器の前後交換をする必要があった。加えて、あたかも既に自動連結器を使っているかのように短時間で連結しようとする日本流の連結作業は危険であり(車両同士が接近して緩衝器同士がぶつかった瞬間、屈んで待ち構えていた連結手がねじを反対側に掛けて締める:コレ自体が実は埒外で、諸外国では突放をすべて終えて入換機と車輪止めで車両が動かぬよう押さえてから連結手(作業員)が中に入って中間を繋いでいく)、特に狭軌の日本では連結手の死傷事故が絶えなかった(連結手として在職する1800人から、年間500人超の死傷者が発生、しかも殆どが死亡。当然ながらヨーロッパでは上述の「最後に纏めて締めていく」マニュアルが厳守されているため、このような死傷事故はなく、問題になるのは山岳地帯などでの連結器の牽引強度のみで、軽い客車列車の機回しでは機関士自身が連結手を兼務することも普通である)。そこで、アメリカで使われている自動連結器(ぶつかっただけで連結出来る)に取り換えることになったのだが、機関車客車貨車併せて5万両10万個分の連結器を僅か1日で交換してしまった(しかも、貨車の運用が複雑であるために貨物業務は24時間運休しての一斉取り換え(機関車と客車(特に中間連結部)は数が少なく運用が決まっているため、検査等で車庫に入場した際に合わせて取り換え)という離れ業である。通常はオーストラリア・ロシア・タイなど自連に取り替えた他の国のように、こういったプロジェクトは実行段階自体に数年のスパンをかけて行い、決行が実質1日ということはない(ただし、タイは結構日本と同じことをやらかしたようではある)。なお、基本的に所属駅のない貨車の連結器取替は車両基地などに交換用連結器を用意するのではなく、数年前からその貨車の床下に交換用連結器をぶら下げて置く形で、その貨車がどこにいても交換可能な形にしていた。
  • :日本の鉄道のダイヤは厳格で遅れが少ないことで有名だが、鉄道は海を渡れないので代わりに連絡船を運航していた。そこまではいいのだが、なぜか連絡船にまで定時運航と高運航率を求めたため、いろいろとぶっ飛んだ船たちが生まれたのである。また、戦時中は無灯火高頻度夜間航行なんて危なっかしいこともしでかしていた。
    • 金剛丸型関釜連絡船:満州事変後の関釜連絡船の需要増加対策として1936年に三菱長崎造船所で建造された7000トン級の貨客船。金剛丸と興安丸の2隻が存在。当時の日本の商船で最速を誇る23.19ノットを記録し、また経済速力20ノットは戦前の日本の艦船の中で最速である。(世界全体で見るとクイーン・メリーなど金剛丸型より速い船は存在する。)一般的には豪華客船とされるが、その正体は一人でも多くの乗客を乗せる為、客室スペースを限りなく広げた詰め込み型の船である。そのため、発電機も仕方なく小さい交流用のものにし、世界で初めての船内電源が交流の商船となった。ところが、交流化が功をなし、航行速度が上がったのに燃料の使用量が従来の半分になったため、航続距離を計算したところ、なんと8500海里もあることが発覚。また、より多くの客を詰め込むためため本来は暑すぎて客室にならないようなところまで3等客室にする必要が出てきたため、船内に日本の船舶初のエアコンを装備した。その結果、利用者からは「従来船の1等より金剛の2等、従来の2等より金剛の3等」と、等級を下げてでも金剛丸型の方が快適であるという声が多数出るようになった。また、数々の新機軸を詰め込んで成功した優秀船であるため、同業の日本郵船どころか海軍までもが羨む船となった。実際に、海軍の中にはこの2隻を改造して鳳翔航空母艦にする計画もあったが、関釜連絡船の重要性から陸軍に全力で阻止された。ちなみにこの船(と同等の船)が欲しいがために海軍が優秀船舶建造助成施設を制定したという学説まである。こんな高性能な船ではあるが、燃料は石炭である。燃料は石炭である。これは、石炭は北九州朝鮮半島でも取れるが石油はそうではない、という、本業でなかろうと確実に鉄道省は英国の直弟子である、ということがよくわかる理由に起因している。前述のとおり、徴用には陸軍が猛反対したため、2隻揃って太平洋戦争を生き延びた幸運船でもあり、戦後は引き揚げ船としても活躍。興安丸の方は引き揚げ船としての方が著名である。また朝鮮戦争時にはその性能の高さから徴用され、国連軍輸送艦として活躍。その後、海上自衛隊により再度航空母艦への改造計画が出るも、結局うやむやになった。姉の金剛丸は1953年に座礁、その場で解体され、鐘と船銘板が鉄道博物館に残っている。妹の興安丸は引き揚げ終了後、インドネシアでイスラム巡礼船として活躍、1970年に極めて強い保存活動があったものの解体された。なお余談ではあるが、金剛丸型の増強としてさらに大型化された天山丸型2隻(天山丸・崑崙丸)が1942~43年にかけて就航したが、崑崙丸は就航後約半年の1943年10月5日、米国潜水艦(ワフー)による雷撃で撃沈され、天山丸も航路休止後の1945年7月28日に、米軍艦載機によるロケット弾攻撃で大破・炎上、2日後の30日に曳航中に浸水・沈没してしまい、2隻とも生きて終戦を迎えることは出来なかった。
    • W型戦時標準船:運輸通信省が海軍省を半ば脅して建造許可をぶんどった戦時標準船。タービン2機、速力15ノットと、内航向け戦時標準船の割にはかなりのハイスペックで、戦後対ソ用に米軍が青函航路LSTを配備した際、その積載力・速力・安定性全てにおいてW型戦時標準船の方が高かったためW型を新造してLSTを置き換えたという逸話を持つ。その後もボイラーと煙突を増やしたり、甲板上に旅客設備を増築して旅客営業をしてみたり、日本の商船としてはじめてレーダーをつけてみたり、戦時標準船特有の単底を二重底に張りなおしたり、洞爺丸台風後は船尾に水密扉をつけてみたりと大小さまざまな改造を受け続け、例えば竣工時2850総トンだった二番船・第六青函丸は最終的に5700総トンになった。また、国鉄にお金がなかったため洞爺丸台風で沈んだW型船を船体を新造して運用復帰なんてこともしつつ、1970年まで運航されていた。なお、強引に話を通した腹いせか、一番船・第五青函丸は海軍が勝手に設計を変更し、軽すぎて貨車を積み込むと転覆する状態になってしまったため、国鉄は受け取りを一度拒否する事態になっていた。(最終的に相模川で採取した砂利を、大量に積載して重心を下げたと言われる)
    • 青函連絡船の二階式貨車航送船計画:1970年、青函トンネルを新幹線用で建設することになり、「じゃあ貨物どうすんの?」というまともな疑問、そして増え続ける需要から生まれた、いろいろぶっ飛んだ新造船計画。まず、貨車の搭載数を増やすため、車両甲板は二階立て。積み込みどうすんだよ。また、青森・函館・有川の各岸壁の構造上、全長150メートル・幅20メートル以上の大型船は物理的に着岸できなかったのだが、全ての岸壁が左舷接岸だった。そこで、「岸壁と平行に着岸する必要無くね?」という意味不明な発想から、岸壁に対して10度傾けて大型船を接岸させることに。その結果単胴船のくせに「船体が」左右非対称に。空母とかも左右非対称なものもいるが、流石に喫水の辺りは左右対称である。だがこいつは喫水の下も左右非対称。お前絶対紅茶をルーがわりに煮詰めて作ったカレー食ってたついでにビールもしこたま入れただろ。この計画はオイルショックで無くなったが、オイルショック無かったら本気で作ろうとしていたんだから恐ろしい……。そしてオイルショックで新幹線計画を凍結、青函トンネルを貨客両用とし、連絡船を廃航した結果、北海道新幹線開業時に大きな時限爆弾を残すことになった
  • 新幹線:日本の鉄道の集大成にして鉄道斜陽論を吹っ飛ばした鉄道中興の祖。新幹線の成功は海外での高速鉄道の建設を呼び起こすことになる。だが、そこは日本、他の国とは色々違う。
    • 動力分散方式:他の国とは違い、最初から電車方式に拘っている。これは島秀雄が電車に拘ったからであるが、輸送の逼迫していた東海道本線の線増計画の側面があったためでもある。結果開業当初残っていた並行区間の急行などが事故で新幹線振替になると、むしろ客は早着したという理解しがたい事象が起きた。
    • 全線専用軌道で踏切ゼロ:高速走行を安全に行う為、踏切は存在しない(車庫への出入りやミニ新幹線を除く)。更に、軌道に進入しただけで即罰せられる。この線路規格のお陰で、踏切事故の心配をする必要がない。
    • 通勤電車並みの過密ダイヤ:特に東海道新幹線及び東北新幹線東京~大宮間は凄まじく、1時間に15本の列車が最短3分で走り抜ける。他所の国の高速鉄道は大体1時間に1~2本程度であるため、その本数の凄さが分かるであろう。しかも東海道新幹線のN700系は起動加速度自体が在来線の通勤電車とほとんど同じ。

運用部門

  • 超特急燕:日本屈指の名列車。昭和9年に運行を開始した。東京大阪間を8時間20分、東京神戸間を9時間で結ぶために異常なまでの労力が注ぎ込まれた。
    • 水槽車の連結:国府津から名古屋まで300km無停車運転を行うことになったが、こんなに長い距離を走り続けるためには、炭水車だけでは水が不足してしまう。そこで、炭水車の次位に水槽車を連結することで、水不足を解消しようとした。のだが、この水槽車と機関車本隊の炭水車は「サイホン管によって接続され重力によって自然に給水される」という仕組みなのだが、結果として前後方向に長大な1つの水タンクという構造になった結果、ゆるい上り勾配でも水が水槽車に移動して給水不可能になるという欠点が営業運転を開始してから明るみになった。結果、静岡駅に停車して30秒で2トンの給水を行う事となり、水槽車連結は早々に中止され、水利の悪い機関区の輸送・貯水車として転用された。
      • 因みに、線路の横に溝を掘ってそこに水を流し、走りながら給水する方法(ウォータースクープ式という)も考えられた。実現しなかったが、イギリスでは普通に使われていた。但し、これも水を思いきりまき散らすため、どのみちネタにされたことは確定である
    • 走行中の乗務員交代:前述のとおり国府津~名古屋間300km無停車運転を行うのだが、これだけの距離を乗務するのは無理がある。その為機関士、機関助士ともに途中で交代するのだが、国府津で交代しても大して意味がなく、中間の静岡付近(安倍川橋梁付近;後年の電車特急「こだま」まで踏襲された)で交代する必要がある。だが、その為に駅に停車させては9時間で走れない。そこで、走行中に交代するが、後年の「こだま」や近鉄特急等電車とは異なり待機場所が客車しか無いため、走行中の水槽車と炭水車を伝って機関車運転台に入るという無茶をやっていた。こんなこと、現代ではとても許されないであろう。イギリスだって幌までついた貫通路付きテンダを使ったというのに。
    • 補機30秒連結:燕が走り始めた時、国府津から先の沼津までは現在の御殿場線経由であり、25‰の急勾配が連続していた。その為、補機をどうしても連結する必要があったのだが、燕はなんと30秒で行っていた(普通は補機連結の際には数分停車する)。これがどれだけ凄いかというと、通勤電車の通常の停車時間で他の列車を連結するということだと言えば、そのぶっ飛び具合がお分かりいただけるだろうか。ちなみに、繋ぐのは連結器本体だけで、ブレーキ管その他は一切繋いでいない。
    • 電化区間なのに蒸気機関車がけん引:戦前の日本の鉄道は電化区間はごく少数であったが、東海道本線はその極少ない電化区間であった。ところが、燕は機関車付け替えの時間さえも惜しんだため、蒸気機関車が東京駅から牽引した。東京から国府津までは100km以上あり、これほど長い電化区間を蒸気機関車がけん引するというのは物凄く珍しい。後の「架線下ディーゼル」それも末端のほんの数十キロのために運転区間の過半、数百キロ単位で電化区間を延々走り続ける気動車列車の布石だったのかもしれない。
    • C51形とC53:その東京発車時の本務牽引機はC51形が努めた。この当時3シリンダの強力機C53形がすでに登場しており、同じ特急でも「富士」や「櫻」の牽引はこちらが担当していた。しかし、C53形は設計上の欠陥により起動不可能になったり潤滑不足による同軸焼付が多発していたため、「燕」の牽引にあたっては8620形のスケールアップ版として無難なC51形が本務機を務めることになった。一方、箱根越えの補機にC53形を採用した。箱根越えはかつては専用のマレー式機関車、その後純国産時代に入ると速度は出ないが牽引力の強い貨物用機関車が担当することになり、この当時はD50形が担当していたが、「燕」では箱根越えも高速が出せるC53形に担当させたのである。
  • 異種車両連結:上記の碓氷峠や板谷峠に限らず、日本には機関車が電車や気動車を牽引する運用が数多く見られた。但しこれらは急勾配での補機を除き大半が電化の進展や本格的な改善が施されるまでの特殊な運用であり、大半が数年で解消している。
    • 長野原線(現・吾妻線)での蒸気機関車牽引の80系準急。しかも電化区間内では新性能電車の153系と併結していたというおまけ付き。
    • 房総西線(現・内房線)でのディーゼル機関車(DD13)牽引の153系準急
    • 151系の九州乗り入れ:九州は交流電化であるが、交直流電車481系の製造が、運用開始に間に合わず、それまでの繋ぎとして、151系を交流電気機関車で牽引し、サヤ420をサービス電源供給車(151系のMGへ直流1500Vを給電)として機関車の次位に連結するという運転が行われた。電化されているにも拘らず、供給方式に対応出来ないため、電車が自力走行出来ず、電気機関車に牽引されたという稀有な例である。481系の登場に伴い、この珍運用は1年で解消された。なお、サヤ420は421系の電動車に改造されているが、この改造は当初から予定されていたものである
  • 多層建て列車:複数の行き先の列車を連結し、途中で切り離す運用のこと。本線は輸送量が多く、短編成の列車が走ると、運用上邪魔となるので、そのような列車を集め、長編成化することで、輸送力を確保する。ところが、国鉄の多層建て列車は複雑怪奇であり、利用者からすれば分かりにくいことこの上なかった(あまりにネタが多過ぎて、それを殺人事件小説シリーズの犯人のトリックにする作家がいる程)。そのようなことが出来たのは、急行型気動車キハ58が、分割併合が容易な設計であったためであるのだが...。
    • 急行さんべ:通称再婚列車。長門市で分割されて美祢線経由、山陰本線経由の二つに分かれて走り、下関で再び併結する。
    • 急行陸中他:四階建て列車の筆頭。一つの列車が四つの行き先に分離するという、日本の多層建て列車の頂点。流石に複雑過ぎると国鉄も反省したのか、三階建て列車に格下げ(?)となったが...。三階建てでも十分複雑である。
    • 急行かむい、ましけ、るもい:深川駅で複雑な運用を行っていた急行列車。まず深川駅に札幌方面から来たかむいとましけが到着し、後側に連結された留萌本線に直通するましけを切り離す。その上で、留萌から留萌本線を走ってきたるもいを、かむいの前に連結する。そして、るもいを連結したかむいが旭川に、後ろに切り離されたましけが増毛へ向かう。
    • 貫通ホロ・ジャンパ連結器の運用:こうした多層建て列車の場合、列車(車両)間を繋ぐ貫通ホロやジャンパ連結器(電気ケーブル)の運用も重要である。国鉄の一般形・急行型気動車を連結する場合、例えば貫通ホロがあるもの同士では接続が出来ない制約があり、当然無ければ当該箇所の行き来は出来ない。ジャンパ連結器も同様であり、不足すれば列車の運転自体に支障する。また、運行経路によっては列車の向き自体が逆転することも少なくない。そのため、どこかの駅で列車を分割する際に、どちらの車にホロやジャンパを残すか、また連結する際に不足するジャンパを、どこの運転室に予め積んでおくかなど、運行に際しての運用や手順が、細かく決められているのである。
  • 捻じれ追い抜き:同種または下位種別の列車が上位種別の列車を追い抜くことは、日本の鉄道では良く見られた。現在はほとんど解消されているが、後述する新快速のように、未だに続けているものも存在する。
    • 急行くりこま:急行を追い抜く急行列車。くりこまのうち、上り6号は、先述の急行陸中を、速度の違う電車(455系)と気動車(キハ58系)という違いもあって、途中で追い抜いていた。急行列車は速達性を売りにするが故に特別料金を取るというのが建前であり、特急列車に抜かれることはあっても、同じ急行列車に抜かれるというのは前代未聞の事であった。なお、この急行くりこまは、評定速度が国鉄の全急行列車の中で、札幌~旭川間のノンストップ急行「さちかぜ」に次ぐ2位であり、さちかぜが特急に格上げされた後はトップの座に君臨した。

JRグループ部門

機関車部門

  • EF200形電気機関車JR貨物):変電所殺し再び。 それまでの1300t列車(コンテナ車26両)を1600t(32両)に増強するために制作した機関車であったが、線路や変電所を有する旅客鉄道会社との調整も頓挫し、出力カットで運用する羽目になってしまい、2019年3月に運用終了。ちなみにローレル賞受賞車。
  • EF500形電気機関車(JR貨物):EF200とは兄弟機(新製時期がEF200とほぼ同時期)にあたるが、コチラも変電所殺しぶりを発揮した上に、インバータから発せられる高調波対策に手こずった結果、なんだかんだ量産されたEF200とは違ってこちらは量産されずに2年ほど試験運用の後、保留車となり2002年に廃車された。現在はJR貨物広島車両所にて保管されており、同運転所開催されるイベント等で展示されている。
  • ED500形電気機関車日立製作所):1992年にJR貨物向けとして日立製作所が設計・提案したとされる交直流電気機関車。顔形状はEF200と同じであるが車体の長さは形式が示す通り、台車が2(車輪数4=D)で外部塗色はブラック系メタリック、運転室側扉は赤色、床下機器は黒色となっている。1994年末頃まで主に試験運用に使われたが、結局量産されずに一部機器を取り外した上で日立製作所水戸工場に保管されたのち解体された。因みにこれ以後、日立製作所は電気機関車自体を製造していない。
  • EH500形電気機関車:EH10以来、JR貨物が久し振りに製造した8軸機関車。その理由が、ED75の重連より、EH500単機の方が線路使用料をケチれるという分割民営化の負の側面を皮肉るもの。
    • なお、この企みが一応うまく行ったことから、EF64重連の置き換え用としてEH200、更に青函トンネル専用機としてEH800も制作されている。
  • DF200形ディーゼル機関車:JR貨物が久々に新製した貨物用ディーゼル機関車。駆動方式にはなんと日本の従来の主流方式である液体式ではなく、長らく敬遠されてきた電気式を用いている。電気式は出力特性は液体式より上であるが、機構が複雑で重量もかさむため、軸重の問題から長らく日本では採用がなかった。しかし、技術の進歩に伴い電車・電気機関車と部品を共通化できること、ハイブリッドタイプの導入がしやすいことから、近年は日本の気動車、ディーゼル機関車でも採用が広がりつつある。

電車部門

特急電車編

  • 253系電車JR東日本):成田空港に向かうN'EX専用車両。広いドアや荷物置き場と空港客を意識するのはよいのだが、座席がなんとボックスシート。あの、日本の特急で最後にボックスシートが採用されたのっていつでしたっけ?しかもA特急料金というぼったくり(戦後ではボックスシートの特急は583系の昼行運用を別にすれば、急行型の153系による代走こだま(通称かえだま)やキハ56系による代用北斗(キハ82系の製造が間に合わず、落成まで代走した)等を除き例がなく、これら代走でさえサービスダウンということで特急料金は割り引かれた)散々酷評された185系でさえ転換クロスシートだったのに...。
    • ただ253系の名誉のために書き足しておくと、日本ではともかく欧米では座席方向を進行方向に転換する発想そのものがないといっていいため、国際線メインである成田空港を利用する外国人からは特に反応はなかったりする。つまり欧米の基準で作られた車両とも言える。
  • E351系電車JR東日本):制御付き振り子式台車により曲線通過速度本則+40km/h、高速回転型モーターにより最高速度160km/hという"全部入り"を狙ったが、(最高速度に関してはどちらかと言えば中央東線という環境的な要因が大きいものの)尽く失敗してしまったある意味JR東日本版APTと言えるかもしれない車両。
  • 500系新幹線電車(JR西日本):その独創的すぎるデザインもさることながら、最短で数分おき間隔のダイヤを維持したまま300km/h運転を実現させたまでは良かったが、空気抵抗を考えた形状のせいで先頭車の座席数が減ってしまった。それでもしぶとくこだま運用で生き残ってる辺り、ダイヤの観点から見ると性能は魅力的なんであろう。最近はエヴァ風になったりキティちゃんになったり。
  • 783系特急電車:JR九州が初めて開発した車両。ドアが真ん中に1箇所という、これまでの日本の鉄道車両の常識を真正面からぶち破った車両。特急型車両は静粛性第一という観点から端に設けるのがこれまでの常識だったのだが、新生JRが国鉄から決別したというインパクトを強く出すこと、車内を2つに仕切って細かいニーズに応えられるという、話題性実用性の両面からこのような車両が登場した……
    • だと思ったか?:実はこの発想、国鉄時代の焼き直しオロハネ10形というA・B寝台合造車がとったレイアウトである。ちなみにこのあとの20系客車が登場するまでは特急形という概念は存在していない(「富士」や「さくら」など“名門特急”には専用の客車が用意されたが、それ以外はそれなりの状態の客車をそのまま特急にも使っていた)。
    • さらなる焼き直し:783系の多方面進出に伴いまず分割併合用の制御車が必要ということで流線型のスピード感あふれるハイパーサルーンのイメージを根底からぶち壊す切妻貫通構造のビックリドッキリ魔改造が執行される。しかも中間車からの改造だけならまだしも、非貫通型制御車をわざわざ貫通型に改造してみたり。
  • N700系新幹線電車:上述の通り、最高速度が300km/hに達する高速鉄道車両であるが、起動加速度が2.6km/h/sと在来線の近郊型電車並に高い上、それが高速域まで持続する。そのため、かつては同時刻発の在来線電車が一見競争を挑んでいるかのように飛ばして走るシーンもあったが、現在は全く勝負にならない(在来線の上限110~130km/hまで出足に差がないのではまあそうなろう)ため往時ほど在来線が飛ばすことはなくなった。

通勤・近郊・一般型電車編

  • 209系/E231系/E233系電車(JR東日本):JRグループの中でも特に国鉄通勤型の系譜を強く受け継ぐJR東日本の通勤型電車シリーズ。故についたあだ名が「走ルンです」。京浜東北線で故障し救急搬送者まで出したのもご愛嬌。
  • E331系電車(JR東日本):京葉線に投入された、自社所有の営業車両としてはJR初(国鉄時代も前例無し)の連接車体採用車両である。しかし、その慣れない特性故に故障が多発し、極めて異例なメーカー送り返しによる修理を受けた。だが、それでも完全復活とはならず、長い車庫の肥やし状態を経て重機のエサとなってしまった。
  • 207系電車量産車JR西日本):ほぼJR西日本初の新規設計通勤車……この「ほぼ」というのが極めて厄介。というのも、207系と言う形式は国鉄末期にVVVFインバータ制御の量産型通勤電車のプロトタイプとして900番台1編成のみが製造された形式だったのだが、207系量産車との間に共通点は全くと言っていいほどない。にもかかわらずJR西日本が207系に押し込んだのは、この当時まだJR各社が国鉄の形式基準を引き継ぐのか、その場合割り当てをどうするのかが未策定だった為。なお900番台は新製時に高速走行試験の為、現在量産車が走っている東海道・山陽本線を走行したものの、その後は一生を松戸電車区で過ごし、JR化時はJR東日本に継承、「自身の量産型」とは一度も顔を合わせることなく2010年1月にその生涯を終えた。
  • 221系/227系/521系/207系量産車/321系電車(JR西日本):103系以来の設計思想をズルズル引きずりながらも基本設計では通勤型と近郊型を統一したJR東日本に対し、JR西日本は「4扉通勤型と3扉近郊型は別物」という面で国鉄型の系譜を継承した(323系のみ例外で3扉通勤型、これに関しては後述)。4扉通勤車に関してはJR西日本もまた103系の如き運用性を求める一方、特急形の185系並のアコモデーションを要求される近郊型はデラックス化が進むことに。
  • 323系電車(JR西日本):性能的にマッチングしていたこともあって長らく103系、その後京阪神緩行線から流れてきた201系も使われてきた大阪環状線に投入された新型車両だが、3扉ロングシートという時計の針を80年近く戻したような車両となった。もちろん正当な理由があって、線区から乗り入れる車両が3扉転換クロスシートであり、本数的にもこちらの方が多数派だったことから、設置予定のホームドアにも対応させるために、実証実験を行った(朝ラッシュ時をすべて3扉車で運用)上で3扉をあえて採用している。性能的にも大阪環状線に特化されている。
  • 223系/225系:関西私鉄王国の「圧政」に耐えかねたJR西日本が作った、近郊型の顔をしたバケモノ電車。アコモだけでなく走行性能も特急並みで、新快速では最高130km/hでJR神戸線JR京都線をブッ飛ばす。それも、先述のキハ181系特急「はまかぜ」を抜き去りつつ走っていたから、本当に特急より速いし(過去には大阪~京都間で特急「雷鳥」も追い抜いており、国鉄本社が特急の恥さらしということで雷鳥の時間をずらした)、深夜時間帯になると「大阪を新幹線よりあとに出発して西明石に新幹線より先に着く」という運用もされることから、表定だけなら新幹線よりも速い。実はこの車両、「140km/h走行計画」があったものの、福知山線脱線事故でお流れになったとかなんとか。なお、瀬戸大橋で走っているJR四国5000系はこれ(というか瀬戸大橋対応岡山配備車の5000番台)のJR四国版。
  • 113系電車3800番台(JR西日本):福知山線山陰本線にかつて存在した秘密兵器、もとい改造車両。113系の中間車を無理やり先頭車に(超低コストで)改造したため非常に独特な前面となった。その独特の形状から、迷列車動画というジャンルが誕生することに(後述)。ちなみに似たような例としてキハ41-2000(JR西日本)、783系改造先頭車(JR九州)などもある。なお783系以外は国鉄形式だが、すべてJR化後の改造。
  • 183系800番台415系800番台:一見何の関係もなさそうな二つの車種であるが、なんとお互いの主要機器をそっくり交換するという模型のようなことをしている。JRに入り、七尾線を電化したため交直流の近郊電車が必要となったが、交直流の機器が高価であったため、車両を新造したくなかった。一方、北近畿地区の特急は増発が必要であり、こちらも車両を投入する必要性があった。そこで、余っていた485系113系の主要機器を交換することで、415系183系をでっちあげ、需要を満たしたのである。
  • クモハ84形電車:前代未聞のJR時代に生まれた旧型国電何を言ってるのかわからねーとおもうが(ry一言で言えば上記123系の旧性能版。詳細は個別記事で。

気動車部門

特急気動車編

  • 2000系気動車JR四国):HSTで非電化高速列車に先鞭をつけられ、キハ181系先輩の顔に泥を塗った日本鉄道技術陣の逆襲。APTの失敗をよそに振り子式を採用し成功。世界初の振り子式気動車となった。しかも、この振り子方式、前述の381系で問題になった反応の遅れを、コンピュータ制御で予め曲線お手前から徐々に車体を傾けることで解決している。のだが...、その名称が『制御付き自然振り子装置』という矛盾有有りなシロモノ。いっそ強制式に名称変更...とはいかなかった(強制振り子方式はジャイロを用いた車体傾斜方式であり、自然振り子方式とは全くの別物)。
  • キハ285系気動車JR北海道):幻の次世代特急型気動車。車体傾斜装置と制御振り子装置を合体させた複合車体傾斜システムを搭載した台車や、キハ160系で試験したMA式ハイブリッド駆動システムを搭載した気動車だったが、この車両が開発されて製造されている段階でJR北海道は石北線の車両火災事故を切っ掛けに、同様のエンジン火災や保守の慢性的に疎かになってた事による線路歪み、そしてそれによる貨物列車の脱線事故が発生し、結果としてスピード重視から安全性重視に方針転換せざるを得なくなった為、この試作車の開発中止を決定した。しかしこの開発発表がなされた時点で既に試作車3両が完成した状態で納車待ちの段階だった。その後JR北海道に甲種輸送され、今後のこの車両を総合試験車に改造してマヤ34を置き換えることも検討されていたが、この計画も中止。その後も運用方法の検討がなされていたが、最終的に廃車が確定し苗穂工場で解体されてしまった。合掌。

一般型気動車編

  • キハ130系気動車:日高本線のキハ40系を置き換えるために登場したのだが、海沿い+酷寒地という悪条件に軽量車体が耐え切れず、踏切事故も相まって登場から僅か10数年で全車廃車となってしまった。しかも代替車両は本来置き換えるはずのキハ40系
  • キハ141系気動車JR北海道):利用客が伸び続けている札沼線に新車を投入するだけの予算がなかったJR北海道苗穂工場が、国鉄時代のキハ08系・キハ09系(初代キハ40系・キハ45系)以来27年ぶりに作り出した「客車改造の気動車(Passenger Diesel Car、略してPDC)」。余剰となっていた客車に旧型気動車の廃車発生品を組み合わせて気動車にでっち上げるという超低コスト設計は1950年代にも試みられた(前述のキハ40系/キハ08系)が、種車の重量とエンジンパワーのミスマッチもあって失敗作ばかりだった。しかし本形式は「軽量客車+新世代軽量高回転エンジン」の組み合わせが功を奏し大成功。実に44両が改造された(種車のオハフ51のおよそ2/3)。中には440psの大出力エンジンを貰った物や、その出力だと札沼線には過剰ということでセーブさせるための重りとして作られた、エンジンのないキサハ144なんてのも存在する。客車改造なのにエンジンがついてないとは、一体どこを改造したのであろうか(気動車は原則としてどの車両もエンジンを搭載する)。札沼線の電化と共に引退するかと思ったら電化路線室蘭本線室蘭苫小牧間)の普通列車として電車を追い出したり、本州に渡り蒸気機関車に客車兼補助機関車として連結されるなど、第一線を退いてからも話題に事欠かない。しかも上野駅までやって来やがった。
  • キハ201系気動車JR北海道):電車と協調運転を行うことを前提に製造された気動車。電車と気動車の協調運転は国鉄時代にも研究されたことがあるが、当時のディーゼルエンジンは出力が低く、電車の足を引っ張るため実現しなかった。しかし、キハ201系は大出力エンジンを積むことでこの問題を解決している。
    • キハ183系1000番代はどーした:あ…………え、えーと製造されたのはJRになってからだけど一応国鉄形式でも電車・気動車協調はやってた。型式名で分かる通りキハ183系に分類され基礎設計は同500番代から流用されているが、製造したのはJR九州。『長崎オランダ村』の開演に際して「オランダ村特急」とし、鹿児島本線内は485系「有明」と併結運転をしていた。その後『ハウステンボス』の開園により接続路線が変わり気動車である必要がなくなったことから、ジョイフルトレインとして再利用されることになった。
  • キヤ143形気動車JR西日本):除雪兼事業車。冬場は車両前面につけた単線/複線に対応した除雪装置を使った除雪運用、冬期以外には除雪装置を外してクモヤ145の様な運用を可能とした車両である。型式名でも分かる通り機関車ではなく、気動車として作られた車両で今後も続々と増備予定。このあたりも、できれば機関車を作りたくないJR旅客鉄道各社の考えが出ている。
  • キヤ97系/キヤE195系気動車JR東海JR東日本):できれば機関車を作りたくないJR旅客鉄道各社の考えその2~3。他の鉄道会社では機関車+専用貨車で行っていたレール輸送を行っていたが、使用車両の老朽化に加えてJR東海では2009年までにあのEF58を含む全ての電気機関車が全廃され、ディーゼル機関車も除雪用の機関車が僅かに残っている程度だった(その後ディーゼル機関車も2011年度に廃車となり、これでJR7社で唯一機関車を保有しない会社となった)。そこでJR東海はだったら気動車でレール輸送するかっとなり、キヤ97系が2008年に登場した。因みに運用の都合上、DE10(JR貨物)がキヤ97を牽引する事がある他、保存車輌や事故で損傷した車輌を別の場所に回送する際には配給車の牽引車としても活用される。形式としては0・100・200番台の3種類あり、0・100番台は25mの定尺レール運搬用の2両編成、200番台は200mのロングレール運搬用の13両編成。車両デザインはコキ車の車体を上下逆さまにして0・100番台ではキヤ95系検測車の頭部ポン付けしたかのような奇抜なデザインとなった。200番台はロングレールを前後から出す為に200番台では頭部の形状が新設計なっている。この200番台は13両中8両が動力車でその内キヤ96-1~6はぱっと見完全に長物車だが、れっきとした気動車でちゃんと排気塔がある。更に9年後にはJR東日本がキヤE195系を発表、キヤ97のベースに耐雪・耐寒機能を強化させた車輌で帯色が青から緑に変更&JRマーク添付の他、レール輸送関係の設備がベース車両とは違って白に塗装化、ヘッドライト&作業用ライトのLED化、先頭の凸ライトの左右に保安装置用無線アンテナ装備等と言った変更点がある。今後量産先行車として150mのロングレール運搬用の11両と25mの定尺レール運搬用の2両編成を投入して将来的に仙台地区のレール輸送列車を更新する予定である。
  • キハ75系気動車:近鉄に対するJR東海の反撃。最高速度120km/hを生かして、快速みえの近鉄に対する競争力を引き上げ、並走区間では近鉄特急を追い抜くこともあるという、まさに特急顔負けの近郊型気動車。因みにそんな高性能車でありながら高山本線や武豊線(現在は電化)でのローカル運用もこなす

その他部門

  • 相模線神奈川県を縦断する鉄道路線で茅ヶ崎-橋本間を結ぶあらゆる意味で不条理な路線。横浜線京王相模原線小田急小田原線東海道本線という幹線路線を結ぶ路線にもかかわらず単線のローカル線である。事実上の相模線専用仕様車として運行している205系500番台は首都圏、そして寒冷地でないにもかかわらず乗客がボタンを押して乗降扉を開閉するという奇っ怪な仕様でその筋ではとても有名。首都圏・大阪圏でも近郊型や近郊型と共通運用する通勤型ではJR化以前から存在したが(非電化時代の通勤気動車はボタン操作ではなく直接手で引いて開閉した)、そう言った前提のない通勤型では空前絶後
  • JR九州:だいたい水戸岡鋭治のせいで説明がつく。というのも、JR化後の車両は初期の一部を除いた殆どの車両、それも特急から通勤電車までが水戸岡がデザインした車両なのだ。また、特急の殆どは特に急がない列車である(サービスの対価で特急としている列車が多い)。
    • キハ183系1000番台:JR九州のジャーニーマン。4両1編成しかない希少性もさることながら、オランダ村特急→ゆふいんの森Ⅱ世→シーボルト→ゆふDX→あそBOYと、30年間で5種類の運用についている。しかも、オランダ村特急時代には電車との協調運転をしていた
    • つばめ:前述の超特急燕は新幹線開業により消えたが、その名称を復活させたのがJR九州。だが、由緒ある名前というわけでぞんざいに扱うわけにはいかず、JR各社に事前に許可を取った。それだけでも凄いのだが、ビュッフェ車を復活させた。かつては優等列車には必ず食事をとるための車両を連結していたが、合理化、速達化の影響によりどんどん廃止され、特に在来線の昼間の特急は全滅したため、嬉しい復活となった。その後、九州新幹線の開業に伴い、つばめの名前は新幹線に引き継がれている。これだけならめでたしめでたしなのだが...。
    • みずほ:九州新幹線の列車愛称はつばめ、さくら、みずほである。つばめ、さくらは戦前からの名門であり、ファンも喜んだが、最上位のみずほが発表されるや、一部ファンは猛抗議した。みずほはかつては東京と九州を結ぶブルートレインの名称であったが、一番影が薄く、格が低かったため、それが最上位種別というのは我慢ならなかったためである。こうなった原因として、当初各停タイプのつばめ、速達タイプのさくらだけで行くつもりが、飛行機に対抗するために最速達の列車名を新たに設定する必要が生じたためである。しかし、みずほ(瑞穂)という言葉は本来ならみずみずしい稲穂を意味する、日本の美名の一つであり、逆に言えばブルトレ時代が冷遇されていたとも言える。
    • というか、まぁJR東日本のやらかしぶりに比べれば可愛いもんである
      • はやて:「疾風」という名前は、戦前に東海道特急の名称を公募した際にも4位に入っていたのだが、“疾病”と字面が似ている為、伝染病を運んでしまうイメージを持たれてしまい縁起が悪いとされ、長らく忌避名とされていた。それをつけたもんだから当然のように炎上した
      • はやぶさそれでも懲りなかったのがJR東日本。長く、東海道ブルトレの最人気列車の愛称であり、「西へ行く列車」の愛称だった「はやぶさ」の名を東北新幹線の列車名につけたものだから今度こそ鉄オタ共のヘイトが全力全壊で大爆発。ちなみに公募結果は圧倒的第1位が「はつかり」であったのだから無尽蔵に燃料注いでるようなもんである。現在は沈静化しているが、あくまで表面上。この為、JR九州が「つばめ」の愛称を凋落した九州新幹線内の線内列車につけて確保しているのは、いずれ東京-鹿児島間直通列車が実現したときのために確保しているという噂も……
    • 赤いみどり:赤いのに緑?一体何を言っているんだ?と思う人も多いと思うが、これで正確に表している。車体は真っ赤だが、列車名はみどりなのである。JR九州の車両は赤い塗装が多く、みどりに充当される485系も真っ赤なため、赤いみどりという訳の分からない状態になった。鉄道好きな男の子がいるお母さんは説明するのにさぞ苦労したであろう。しかも、更に困るのは、きりしまには専用の緑塗装の485系が使われていたことである。そこはきりしま用の車両をみどりに使うべきだと思うのだが。なお、現在は783系に置き換えられ、こちらはきちんと緑色基調の塗装になっている。

  • JR各社のクルーズトレイン

ななつ星in九州トワイライトエクスプレス瑞風トランスイート四季島に代表される周回型超豪華寝台列車で、其々趣向を凝らした豪華な車両と沿線の観光地を巡る。なおこの3列車全てに川崎重工製の車両が組み込まれている。

    • ななつ星in九州:JR九州が作り出した観光列車。このためだけに専用の機関車と客車を新造し、あらゆる面でかつて活躍した寝台特急たちが裸足で逃げ出すデラックスぶりを見せつけている。なんたって“イ”ですよ“イ”! 動態保存車を除けば制度として53年ぶり、新製は実に65年ぶりと言う正式な三等制復活である(それまでも寝台個室ロイヤルやグラン・クラスなど実質的に二等車→グリーン車/A寝台車の上位サービスは存在したが、正式に一等車形式が配備されたのは先に書いたとおりである)。なお、ななつ星に使用されてる客車には77系となっているが、嘗て存在した戦災復旧客車70系とは全くの無関係である。
    • トワイライトエクスプレス瑞風:JR西日本がトワイライトエクスプレスの後継として運行を開始した豪華クルーズトレインで、先頭車の展望車にはマイテ49の様なオープン式展望デッキを備えている。コレまでも前述のマイテ49や50系や12系客車の改造したジョイフルトレイン等では採用例が合ったが、気動車では初搭載である。更に7号車には一両一室と言うコレまでの寝台車では例のない車両を備え、その車両にはバスルームも付く。ななつ星と同様、寝台車や展望車の形式にが入っており、使用編成である87系はハイブリット気動車である。
    • トランスイート四季島:JR東日本が2017年5月1日からデビューする予定の豪華クルーズトレインで、先の2列車と同様、途轍もなく豪華な内装を誇る。そしてこの車両の特徴はなんといってもその動力方式で、電化区間では集電装置から取った電気を、非電化区間では先頭車に搭載されたディーゼルエンジンから電気を発電してその電気を使って走る。この方式は海外ではバイモード式車両と呼ばれる。更に北海道にも乗り入れ予定、つまり北海道新幹線の新在共用区間を通るのである。
  • 鉄道コンテナ輸送ローカル規格のコンテナ:「うーん、貨車にいちいち荷物を詰め込んで行先ごとにつなげるの不効率だな」→「いっそ貨車も“指定席”にしちまえばよくね!?」という完全に鉄道本位の発想だが、いい加減物流の高速化を求められていた時代でもあり各業界に合意され、かくて自動車・鉄道一貫輸送の代表選手として日本の国鉄-JR貨物形コンテナという完全にローカル規格のコンテナが国内に溢れかえることに。なんせ、国際規格コンテナとは全く互換性がないのに一切困らないレベル(むしろISOコンテナの方が「てめぇ、なんで日本の既存のコンテナ車に乗るように設計しなかったんだよ!」とばかりに厄介者扱いされてる始末)。あのマクリーンですら「HAHAHA、そりゃいくらなんでも無理ってもんだぜ」と言うだろう。その後も石油・石炭・車輪・生ゴミに対応した専用コンテナ、新型機関車&貨車の本線での性能確認用コンテナ(ZX45A 等)や電源装置に特化したコンテナ(ZGZ形等)が生まれ、果てはトラとチキで実施されていた自衛隊の機材輸送用列車もコンテナ輸送化された。いやホントもうどうしてこうなった……
  • スーパーライナー:東海道・山陽線を突っ走る最長で全長504mのコンテナの塊。その程度ならアメリカのマイルトレインにはさすがに及ばな「だから電車で過密の線路を一緒に走らせるなそのための造ってまでやるな挙句の果てに電車にコンテナ載せるとかバカだろお前ら」
    • JR貨物M250系:上記にあるように世界唯一の貨物電車。16両編成で前後2両ずつが動力車という準動力集中式に類するタイプではあるが、固定編成なので日本国内では動力分散式に分類される。
      • 因みに貨物電車自体は国鉄時代にも既存車両を改造したクモヤ22が存在した。但しこれは貨物新幹線計画の試金石のためであり、その計画の中止に伴って廃車された。これの気動車版にキワ90(上述)が存在する。
    • なお貨物電車そのものはヨーロッパのトラム(路面電車)には存在するが、一般鉄道では存在しない模様。
    • では「クモニ」などの荷物電車は貨物電車とは違うのかというツッコミがきそうだが、国鉄では貨物と荷物は別であり、荷物輸送は旅客営業部門の管轄である。もともと旅客の携行手荷物を別の車両で運ぶ(チッキ)というのが元というせいもあるが、要はお役所の縦割り仕事の結果とも言える。
    • 国鉄後期になると、どう見ても貨車にしか見えない荷物車(マニ44など)なども登場しているが、あくまでも客車として扱われた。
  • 動力分散式……と言うか電車への異常なまでのこだわり:地盤が軟弱、カーブと勾配が多い、駅などの折返し設備が貧弱などという日本ならではの事情が背景にあるとはいえ、ここまで動力分散式……いや、“電車”に固執しているところは日本以外には見当たらない。ついに、貨物列車やレール輸送車まで電車にしてしまっている。そんなに機関車がいやか?
    • ちなみにここでいう“電車”とは、英訳“Electric Car”のこと。どういうことかと言うと、“Electric Car”とは本来、日本で言うところの路面電車のような軽軌道用の車両を指すのだが……中央本線(厳密にいうと所謂“中央東線”)の前身甲武鉄道が日本で初めて長大路線の電化を完成させた(飯田町~中野)とき、「技術開発してる余裕ないからあるものをそのまま使っちゃえばいいじゃん」と、輸入物の路面電車をそのまま郊外運転にブチ込んだのがその始まりだからである。ちなみにこの頃、重量物を牽引する電気機関車は英米独で試行錯誤していた時期であり、日本がそれを保有することは見果てぬ夢でしかなかったのである。ところがこの甲武鉄道の試みがうまく行ってしまった為、日本では機関車とは別に“Electric Car”が大量輸送用の通勤電車からさらに中長距離用旅客車としてガラパゴス進化を遂げ大増殖することに。諸外国でもTGVなど日本に影響されて中長距離輸送用電気旅客車が当時要し始めるが、これらは“Electric Multiple Unit”として“Electric Car”と区別されている(使われる技術も機関車由来のものが多い)のに対し、日本ではあらゆる電気旅客車が“Electric Car”の独自進化形の為、特急形から通勤形まですべて“Electric Car”とされる。ちなみに、新幹線も例外ではなかったり……(新幹線用電車は“Trunk line Electric Car”と訳される)
      • 実際、東海道新幹線が開業した当時、ヨーロッパの鉄道関係者からは、「1編成12両全ての台車に走行用モーターつけるなんて正気の沙汰ではない」という意味のことを言われている。
      • また、日本人は回転するモーターの様な連続的な音はさほど騒音として感じず、一方でドアが閉まる時の様な「バタン!」といった衝撃音には神経質らしい、鉄道ではないがボーイング777のトイレで日本の航空会社からだけトイレのふたの閉まる音を何とかできないか?」と苦情が入ったとか。
      • この辺りは、虫の鳴き声の捉え方同様、日本人独特の感性の影響とも言える。
    • 蓄電池電車:『気動車と電車を作り分けるのめんどくさいよね。』→『だったら統一しちゃえばよくね?乗り換えが減って利用者の利便性も向上するし。』という発想で生まれた、電化・非電化区間を問わず走れる車両。電化区間では普通の電車として走行しつつ蓄電池に電気を貯め、非電化区間では蓄電池に貯めた電気で走行する。現在JR東日本のEV-E301系EV-E801系、JR九州のBEC819系が営業運転についている。現在は蓄電池の容量の関係上、電化区間もある程度走る非電化路線(EV-E301系の走る烏山線の起点は宝積寺であるが、東北本線を通って宇都宮まで、EV-E801系の走る男鹿線の起点は追分であるが、奥羽本線を通って秋田まで、BEC819系の走る若松線は一部区間が電化)に集中的に投入されているが、技術革新が進んで容量の問題が解決すれば、電化区間のほとんどない北海道や山陰地区でも走れるであろう。前述のようにディーゼル機関車を気動車で置き換える計画は着々と進行しているし、気動車は電車で置き換えることが出来る。そうなれば、貨物列車にも電車が投入されているし、近い将来、日本からは電車以外の鉄道車両は無くなって……いや、無理だな。日本人の内燃機関に対する情熱は異常だし。
  • 35系客車JR西日本):老朽化したSLやまぐち号用の客車の更新の為に2015年にD51200動態復活の報と共に発表された。マイテ49・オハ35・オハ31旧型客車を復刻すると言うもので、2年後の2017年に新潟トランシスから出場した。現代の水準に合わせながらも非常に再現度が高く、ベンチレーターやウィンド・シル/ヘッダー、5号車ではダブルルーフ屋根も再現されている。またキヤ143との連結運転も可能で形式は35系4000番台となっているが、国鉄が製作した35系客車の増備扱いというわけではない。あくまで新車として製造されている。
  • 次期格安長距離列車JR西日本):JR西日本が前述のトワイライトエクスプレス瑞風の運行開始と同時に発表した次期格安長距離列車。2020年夏までに京阪神~山陰・山陽方面で運行予定。そしてこの次期格安長距離列車に使用される車両はなんとあの117系。JR西ではこの117系6両をグリーン車(1+2シート・個室)普通車(コンパートメント・フルフラットシート・2+2シート)フリースペース車にとJR西お得意の大魔改造予定。因みにこの改造で両先頭車はグリーン車になる為、117系初のクロ117(仮)が誕生する。
  • 末期色:JR西日本がやらかした単一塗装。単一塗装でも上品な物は秀逸であるが、どぎつい原色を車体全体に塗ったものだからファンからの評判は散々。詳細は個別記事で。

民鉄部門

大手私鉄部門

関東大手私鉄

  • 東武鉄道:大手私鉄で唯一(というか日本の全鉄道会社でも他に1社しかいない)120年以上も同じ名前を掲げ続けている生きた化石。
    • 東武鉄道8000系:私鉄版103系の異名を持つ東武の通勤型電車。103系同様長期間に渡り増備が続き、その結果5桁の番台区分の車両が登場するまでに至る。また設計や仕様も、鋼製車としては異常なまでの軽量化が進められた設計、それに伴い(車体強度を確保するため)戸袋窓を省略しまた空気バネ台車を採用する、一部の車両には旧性能電車に搭載されたような旧型コンプレッサーが装備されている、電気ブレーキを省略しているなどよく見るとどことなく紅茶の香りが漂う車両でもある。
    • 東武鉄道100系:「スペーシア」で知られる特急型電車。起動加速度や営業速度こそ並の特急と大差ないが、起動加速度を維持できる「定加速領域」が100km/h弱まである。これは営業速度160km/hの「スカイライナー」こと京成電鉄AE形(2代目)と同等の値である。ここまでやってしまうのは一重に「落ち葉や雪の降り積もる東武日光線の勾配区間を平坦線を走るかの如く爆走するため」と考えると納得ができるはず。
  • 東京急行電鉄デハ200形「お前のような路面電車がいるか!」シリーズ。1955年に東急玉川線に投入された二車体連接の路面電車。前年に鉄道線に投入された5000系の技術を車体などに導入したが、最大の特徴だったのが床面高さ59㎝という超低床。現在のLRVと遜色ないほどの床の低さで、車輪径はなんと51センチまでに縮小した。また、連接面は一軸台車を採用する変態ぶり。5000系譲りのモノコック構造の車体は、「青ガエル」よりさらに丸みが強く、下ぶくれの愛嬌ある顔つきからついたあだ名がペコちゃん」・「イモムシ。また、同じく一軸の連接台車を持つスペインの鉄道車両にちなんで「タルゴ」とも呼ばれた。しかし、運転や保守取り扱いに難があり、1969年の玉川線廃止とともに廃車となり、世田谷線に引き継がれることはなかった。時代を先取りし過ぎた悲運の車両であった。 ただし、東急「電車とバスの博物館」に現在も1両が保存されており、同館には、デハ200をイメージしたキャラクター「たまちゃん」も展示、世田谷線の新型デハ300形の一部に200形のリバイバルカラーが採用されるなど、今なおその“レジェンド”は受け継がれている。いや、時代こそがようやく「イモムシ」に追いついたと言うべきか……
  • 京浜急行電鉄:乗り入れ各社の車両(しかも地下鉄対応)に対し変態的な加速度と最高速度を要求したり、ダイヤが乱れた際の逝っとけダイヤ発動など乗り入れ各社を巻き込んで色々やらかす。そしてなんと乗務中の列車に置いてけぼりにされた車掌が次の駅までダッシュして追いついたという珍事までやらかした。これらはすべて「お客様本位のサービス」というスローガンの元行われている。実に日本らしい。
    • その利用者:そのお客様だが、ぶっちゃけ言えば客もプロ。「逝っとけダイヤ」発動時にうろたえないのが基本である。また、ホームの隙間から乗客が転落したら、乗客が総出でホームから電車の車体を押し、またホームとは反対側に集まって車体を傾かせて救出するというエピソードも。つまり「鉄道会社本位の利用者」が京急ユーザー。実に日本らしい
  • 小田急電鉄:独特な仕様の特急型車両に代表される大手私鉄。
    • 小田原線:小田急の本線。新宿-小田原間を部分開業無しで一気に全線開業させてしまった。
    • ロマンスカー:小田急の指定席特急。そもそも新幹線のデータ取りのための高速試験に初代3000形「SE」が抜擢されたという時点で色々とおかしい。
  • 東京メトロ:首都圏の地下鉄会社。様々な大手私鉄と乗り入れを行っているため、その運用はとんでもないことになっている。
    • 日比谷線:東武スカイツリーラインと直通運転している。かつては東急東横線とも直通運転していたのだが...。
      • 変な車両規格:日比谷線を開通させる際に問題となったのが車両規格であった。東武は先述の国鉄63系を払い下げてもらっていたことから20m車に統一されており、20mを主張。一方の東急は18m車が主体であったことから18mを主張した。営団地下鉄は掘削量の関係から18m車を採用し、東武は異端の18m車を製造することになった。ところが、その後東急も本線格の路線は20m車に統一し、営団も20m車ばかり作るようになったため、18m車はどの会社でも完全に異端となった。そればかりか、春日部駅では0~6扉車まで、日本に存在する全ての扉数の車両が停車する番線が発生することに(0~2扉が特急、急行、3,5扉が18m車(但し5扉は一部編成の前後2両ずつのみ)、4,6扉車が20m車(但し6扉車は東急車両の一部中間車のみ))。これほどホームドア泣かせな運用は存在しないだろう。しかも、その後20m車に置き換えられている上、東急との直通が終了したため、東武は割を食わされている(メトロ車両も検車は東武の竹ノ塚検車区で行う)。一体何のために18m車にしたんだか……(18m車8両は20m車に換算すると7両のため、日比谷線直通車両は7両編成という半端な両数)。

中京・関西・九州大手私鉄

  • 名古屋鉄道:名古屋を中心としたエリアに展開する大手私鉄某企業などのせいもあって、戦後早いうちから車社会になってしまい、それに対応するために、関東・関西の大手私鉄とは一風変わったところが少なくない。大幹線が平面交差でラッシュもそのまま走るとか、乗り場に線路が2本しかない社内最大ターミナルとか。
    • 名古屋鉄道1380系:元パノラマ1030・1230系1134F。踏切事故で1030系が大破し、使用不能となったが修理に合わせて豊橋側の中間車に運転台を取り付け、全車一般車の一般用車両として再生した車両。登場の経緯が特殊なため1編成しか存在せず、更に元の機器が古い事もあって2015年に引退した。
    • 名古屋鉄道7500系:かの有名なパノラマカー一族の車両。7000系に比べて高速性能を向上させ、設計最高速度は何と時速180km。1960年代の私鉄用車両としては規格外の速さである。ちなみに7000系の設計最高速度は時速150kmとこっちも十分速い。低床でバリアフリー対応が不可能、制御シークエンスが名鉄の他の車両と違うなどの特殊な構造が嫌われ、中部国際空港開港をきっかけに7000系より早く2005年に全廃された。
    • 犬山橋:かつて名鉄犬山線に存在した併用橋梁。併用橋梁自体は珍しくないが、特筆すべきは、道路の上に線路を敷いており、電車と車が並走することである。普通鉄道が道路の上を走るのは物凄く珍しい(江ノ電の神戸橋やかつての東急大井町線二子橋のような類例はあるが、これらはどちらも最初から鉄道路線として建設された犬山橋とは異なり元は路面電車の併用軌道区間である)。・・・てか、単に橋架けた時代、別々に架けるだけの経済的余裕がなかったから無理やり併用していただけだったのだが、それが平成になってからも10年続いてしまった。
    • 名古屋鉄道3880系オイルショックによる利用客急増に伴う車両不足を補うために、東急3700系の譲渡を受けたもの。3800系と同じ運輸省規格型A'形であり、3800系が2扉クロスシート、東急3700系は3扉ロングシートという違いはあるが、車体の規格は同一(地方鉄道車両定規)。そこで、保安装置の取替と車体色をスカーレットに塗り替えただけで投入するという間に合わせそのもの対応で入線してしまった。東急線では既に高速運転の機会はないとしてモーターから弱め界磁用のタップを除去してしまっており、元からの名鉄車のような高速運転は不可能になっていた。大手私鉄相互の車両移籍そのものがレアケースであるが、3扉車の投入効果は絶大であり、6000系の設計に大きな影響を与えたと言われている。
    • 名古屋鉄道3790系:上記の3880系と同時期に導入された車両であるが、こちらは廃止された東濃鉄道からの移籍で、なんと戦前生まれのHL制御(間接非自動制御)という、当時(1975年)としても既に骨董品扱いされるほどの車両(名鉄移籍時で車齢48年)ではあったが、そういう車両でも必要とするくらい当時の名鉄の輸送事情は逼迫していたわけである。
  • 近畿日本鉄道:近鉄特急のためには手段を選ばない会社名古屋線大阪線の軌間の違いで名阪特急は乗り換えが必要だったのを解消するために、名古屋線を改軌、工事中に伊勢湾台風で大きな被害を受けた時は、「復旧工事と改軌工事を同時にすれば手間が減る」という理由で改軌を前倒しさせ、「伊勢中川でのスイッチバックが手間」となれば短絡線を作り京都から伊勢へ直通させたいとなれば、専用特急車(複電圧式の18200系他)を作ってこちらも連絡線を新設。更に志摩半島へ延伸したいと路線新設(鳥羽線)と既存路線改軌(志摩線)をやっている。ついには762mmの軽便規格路線(湯の山線)を、1435mmに改軌させて特急を直通させていた。そしてここに来て、橿原神宮前駅での乗換を解消するため、フリーゲージトレインの研究開発を行うことを公表している。
    • 参宮急行2200系:現在の近鉄大阪線の前身となる参宮急行が開業に際して投入した車両。大阪~伊勢間片道100km以上、33パーミルの連続勾配をクリアすべく、運転最高速度110km/h、上り勾配での均衡速度65km/hという、当時(昭和初期)としては破格の高性能電車であり、戦後の近鉄特急のルーツともなった車両である。この車両と前述の新京阪P-6などはある意味、国鉄80系を始祖とする電車による長距離輸送の先駆けとも言える。
    • ビスタカー日本初の2階建て電車。検証モデルのビスタI世10000系の後、近鉄名古屋線の改軌とともにその看板列車となった名阪ノンストップ用のビスタII世10100系で一躍全国区の有名列車となった。1990年以前、近鉄といえばビスタカーであり、その存在感は今のアーバンライナーとは比べ物にならないほど。しかしその栄光は決して長いものではなく、東海道新幹線の開業により一時期名阪ノンストップは壊滅状態となりビスタII世は流転の道を歩むことに。その東海道新幹線からの乗り継ぎ客を期待してよりそちらに向けたビスタIII世30000系が登場する、がビスタIII世が登場すると今度は東海道新幹線の方が度重なる値上げと行き過ぎた労働争議による国鉄不振により凋落、1985年、III世の名阪ノンストップ充当が始まり、II世の同僚だったエースカーとともに、無念のうちに1979年に引退したII世の敵討ちが始まる……なお、10100系は3車体連接構造で、2両分の走行関係機器でボギー車3両分の座席数を確保という経済性も併せ持った車両でもあったりする。
    • 近畿日本鉄道12200系(スナックカー):軽食(スナック)が取れる車両ということでこの愛称が付けられた(現在は撤去)。近鉄の汎用特急車として大量に製造され、新幹線の開業で壊滅した名阪特急頼みの古い特急網から、各都市を緊密に結ぶ現在の近鉄特急網の立役者となる。後継車は後述するACE。
    • 近畿日本鉄道21000系(アーバンライナー):国鉄の相次ぐ値上げもあって、東海道新幹線に対する競争力を回復しつつあった名阪特急のさらなる競争力強化のために、近鉄が投入した勝負手汎用性を重視していた近鉄特急の伝統を破り、名阪特急に特化した車内設備もさることながら、性能的にも青山越えなどの33パーミルの連続上り勾配を110km/hで駆け上ることが可能な高出力車である。後に増備した21020系(アーバンライナーnext)は登坂性能が118Km/hにアップしている。
    • 近畿日本鉄道22000系(ACE):近鉄の新世代汎用特急車。VVVF制御、電気指令式ブレーキなど当時既に一般的になった技術を採用しているが、在来の汎用特急車との混結を可能にするため、ブレーキ読替装置を初めて搭載している。これは後に増備された一般車の新世代車シリーズ21にも採用されている。
    • 通勤型車両:華やかな特急型に比べると通勤型は地味である...。が、物凄くややこしい。やたらと増解結が多く(主に西大寺、高安、名張)、ほぼ全ての先頭車が他の編成と併結するための貫通扉を備え(例外は京都市営地下鉄乗り入れ用の3200系及び3220系のみ)、増結用の2両編成が他社と比べるとあり得ないほど多く在籍する(近鉄は営業運転用に全線で特急型も併せて約1800両在籍するが、そのうち約200編成400両が2両編成)。そればかりか、検査等の都合により、6両編成や4両編成の運用が2両編成を複数繋げた運用になることも多く、ブツ6、ブツ8、ブツ10が度々発生する。というか、他社と違い「小は大を兼ねる」的な発想で元から2連車の数が多い。うーん、これ輸送力増強になってるの(運転台がある分輸送量が減ってしまう)?しかも番台区分という概念が存在せず、形式を機器の違い等で細かく分けるため、またシリーズ21以降、近鉄が通勤車両をあまり作ってくれない為に置き換えが進まないこともあって50以上の形式が現役である。オマケに前面形状が例外(前述の3200系3220系及び5200系)を除くと3パターンしかないため、重度の近鉄ファン以外は車号を隠されるとどれが何系か判別不能である。
    • 近畿日本鉄道5800系:世界初のデュアルシート車両(ロングシートとクロスシートのどちらにも出来る)。アイデア自体は国鉄時代にもあり、72系で実験が行われたりもしたが、本格的に実現したのは近鉄が初。その後関東の大手私鉄座席指定のホームライナー用に導入するようになるが、本家は特別料金不要。
    • 鮮魚列車:日本最後の行商人専用列車。かつて、行商人が数多くいたころは、新鮮な魚や野菜を得意先に売りに行くため、列車に乗っていた。しかし、荷物が多く、物によっては匂いがするため、一般の乗客と同乗すると迷惑となるため、専用の列車や車両を用意していた。これが行商人列車である。戦後、モータリゼーションの発展に伴い行商人列車は次々に廃止され、近鉄の鮮魚列車が最後の行商人列車となっている。
      • 2680系:初代ビスタカー10000系の主要機器を流用し、車体を新造した車両。初代ビスタカーが1958年登場なので、主要機器だけとはいえ今年で製造から60年になる。そんな古い車両が大手私鉄の本線で現役で走り続けるのが日本の鉄道クオリティである(部品取りのため1編成を廃車してはいるが)。現在は鮮魚列車に使用される。
  • 京阪電気鉄道:街道沿いに敷設したことが災いしてカーブだらけの路線になり、所要時間ではJR阪急の後塵を拝しているが、その分サービスなどで対抗。また技術の京阪の異名を持つように新技術の採用には非常に積極的で、京阪が日本初採用、関西初採用というのが非常に多い
    • その京阪が日本初と言うもの列記すると、「色灯式自動信号機」「電車による急行運転」「全鋼製ロマンスカー」「電力回生ブレーキ」「連接車」「空気バネ台車」「常用回生ブレーキ」「土曜ダイヤ」などがある。なお一時期京阪特急の代名詞でもあったテレビカー京成のほうが先だったりする。
    • 京阪電気鉄道5000系:国鉄63系に始まる「20m4扉通勤車」が達した一つの極点。何と18mで1編成全車片側5扉。後にJRや東急が、さらにイった6扉車(ただし20m)を投入するが、さすがに1編成の一部車両に組み込むに留めており、ホームドア設置の障害となることから次々と廃止が進められている。ちなみにラッシュ時以外には2番目と4番目の扉を締切り、天井に収納されているシートを降ろし3扉車として運用する。しかも3扉時の座席数は既存車よりも多いという見事なまでにラッシュ時と日中時の用途を両立した車両でもある。そして何よりも、登場から45年を過ぎた現在でも、この座席昇降機構などを使用し、朝ラッシュ時には5扉車の特性を活かした運用についていることである。
    • 京阪電気鉄道60形:愛称「びわこ」。日本初の連接車なのだが、性格の異なる二つの路線(高速鉄道である京阪線と路面電車である京津線)を直通運転するため高床ステップと低床ステップの乗降口両方を備える。また集電装置はパンタグラフ(京阪線用)とトロリーポール(京津線用)を両方装備するが実は世界的にはこちらが常識的な構造であるにも関わらず、国鉄のせいで後々異端視されてしまった。残念ながら当初の目的であった大阪天満橋~浜大津間の直通運転に使われた期間は短かったが、末期は京津線や石山坂本線で運用されていた。現在1両のみ京阪電鉄寝屋川車両工場に保存。
    • 京阪電気鉄道80形:京津線各駅停車用として製造された路面電車なのだが、沿線の急勾配対策のため吊り掛け駆動ながら回生ブレーキや定速度制御機能を備え「吊り掛け駆動車=旧性能車」と言う概念をブチ破った稀有な車両。平たく言えば、「お前のような路面電車がいるか!」。1997年の京都市営地下鉄東西線乗り入れによる京津線の一部区間廃止と架線電圧昇圧により全車両引退となった。引退後も福井鉄道新潟交通名古屋鉄道などが譲渡の打診をしたという噂。
    • 京阪電気鉄道800系:その80形に代って京津線に導入された車両、地下鉄乗り入れのためのATOはもちろん装備し、部分廃止されたとはいえ急勾配と急カーブだけでなく併用軌道も残っているため、地下鉄、登山電車、路面電車という、全く性格の違う路線全てをクリアすべく作られた車両。そのため1両あたり、新幹線の6割程度の全長にもかかわらず、製造コストは新幹線並みという高コスト車となっている。
    • 京阪電気鉄道3000系:先代の京阪特急専用車であるが、転換クロスシートの座席転換の時間短縮のために圧縮空気を使用した自動転換装置を世界で初めて装備。
      • 3805号車:1995年登場のダブルデッカー車であるが、なんと既存車からの改造という鉄道模型のようなことを、実車でやらかしている
    • 京阪電気鉄道10000系:もともと交野線のワンマン運転用に新造された車両であるが、13000系の増備で余裕ができたため、編成組み換えで余っていた6000系7200系9000系の中間車を組み込んで7連化してしまった。
    • 京阪電気鉄道1000系600形700形:旧型車の台車を流量して車体を新造、その後今度は足回りを新型に交換・・・ここまでなら他の大手私鉄などでもやっていたことであるが、京阪は21世紀に入った現在でも主力車として第一線で活躍している。特に700形は車籍こそ平成生まれであるが、電気品や車体の流用歴をたどると京阪創業時(1910年)の1型まで辿れる車両まである。
  • 南海電気鉄道:現存する私鉄では日本最古の歴史を持つ大手私鉄。(1884年創業) 当初は現在の南海本線を蒸気機関車で開業し、明治期の鉄道国有化から何故か外れて現在に至っている。(会社としては戦時統合で近鉄と合併していた時期がある) また1936年に日本初の冷房車を登場させている。
    • 南海電気鉄道6000系:1962年に高野線向けに製造された日本初のオールステンレス車両のひとつだが、製造開始から50年以上経った2016年現在、途中冷房化改造や台車交換はされながらも72両全てが1両も廃車されることなく現役バリバリである。まさに大手私鉄通勤電車版異能生存体ともいえる。また、某新聞の記事では「錆びない鉄人」とまで書かれた。さらに、泉北高速鉄道の開業や高野線の複線化と線形改良が進展した結果、導入時より活躍の場が広がっているという……。逆とちゃうの、普通は? 一方、双子ともいえる南海線向けの7000系(こちらは鋼製車体)は長年にわたり沿線の海風にさらされた結果、車体がボロボロになり全車廃車となってしまった……(逆の方が良かったんじゃね? とも思えるが、当時はステンレス車体の補修に不安があったため、踏切(事故)の少ない高野線に限定導入された次第)。今ではその7000系の部品も利用してさらに寿命を延ばそうとしてる……
    • 南海電気鉄道C10001形蒸気機関車:電化された後も貨物輸送は蒸気機関車牽引のままというのは東武鉄道でも事例があったが、こちらは観光イベント用ではなく、純粋に旅客輸送のために蒸気機関車を投入したという稀有な例。戦後の1946年(当時は近鉄と合併状態)に、戦後の混乱と資材不足などで電車の稼働率が低下し、それを補うために購入し約3年間客車を牽引して旅客輸送をしていた。
  • 阪神電気鉄道:日本初の都市間電気鉄道。開業当時、軌道条例により路面電車の扱いであったが、並走する官営鉄道に対抗するため一部区間を専用軌道にしたり速度制限(軌道条例での速度制限は時速8マイル【時速12.8㎞/h】。後に25マイル【時速約40㎞/h】に変更)無視の常習犯であった。今では軌間は同じでも車体規格が全く異なる近鉄線に乗り入れている。しかも車体規格が大きい近鉄の車両も規格の小さい阪神線に乗り入れる相互乗り入れである。さらに、変態的な加減速度を持つ各駅停車専用車両を有する。
    • 速度違反:前述の速度違反であるが、普通なら罰則が下る筈である。しかし、そうはならなかった。というのも、阪神は軌道法に基づいて建設されており、軌道の管理は内務省。一方国鉄は鉄道法に基づいて建設されており、鉄道法の管理は鉄道省。鉄道省と内務省の仲が悪かったため、国鉄と阪神の争いは代理戦争のような状態であり、事実上の黙認状態であった。もっとも、阪神もかなり手の込んだことをしている。鉄道省にダイヤを提出しろと言われれば暗号だらけの物を出して混乱させたり、速度計を付けずに証拠を掴ませなかったり、『軌道は一部を除いて道路上を走れ』→『ちょっとでも走ったら問題ないよね』と規則の文面を逆手にとって、最初からほとんどの区間を専用軌道で建設したり(しかも線路改良と称して全区間専用軌道化)…。そもそも(阪神に限らず)関西大手私鉄がこんなルール破りの常習犯になったのは、鉄道省がライバル出現を嫌って高規格の平行路線を認めなかったからである。つまり、大体国のお偉方の身から出たさb……
      • かと思いきや国鉄の機関士も電気機関車で120km/hでぶっ飛ばしていた(法令上は95km/hが上限)というさらなるオチが付く
      • そんな事をするのが関西だけだと思っているのか?はいそうですね
    • ジェットカー:前述のとおり、各停専用車両(青胴車)として制作した高加減速車両。初代5001形の起動加速度4.5km/h/sは営業運転に供されたものとして日本最高である。(ただこれでも欧米に比べると低水準だったりする) 平成以降の車両は起動加速度が4.0km/h/sと一見するとスペックダウンしたように見えるが、定加速領域が広がったことから在来の青胴車と同等以上の運転性能が確保されている。
      • 実は初代ジェットカーが登場した1960年台は高度経済成長に伴う通勤需要の増加と技術の発展もあって、阪神ほどではないもの加速度を向上し、各停などの運用に限定することを前提にした車両を製造する事例が散見されている(京阪2000系スーパーカー近鉄6000系ラビットカーなど)。ただ、各種コストや運用上の制約の問題もあったことから、阪神以外は経済性を重視した汎用性能に収斂する方向になっており、阪神のように現在も各停用(青胴車)と優等用(赤胴車)で運転性能に明確な差異をつけて、完全に使い分けている事例は大手私鉄には存在しない。逆に「特急用も各停用も高加減速度と高速性能を一級の水準で揃える」とか言う変態会社なら上の方にいるが。
  • 阪急電鉄:いろんな人に止められたにもかかわらず、「沿線に自社経営の施設を作ればもっと儲かるはずだ。とりあえずターミナル駅の中にデパートを作ってみよう」という恐るべきアイデアを実行。昨日まで運転士をやってた奴にデパートの店員をやらせたせいで大騒ぎとなったこともあったにせよ、おおむね大成功を収めてしまう。気をよくして不動産業・劇団経営野球チーム経営・劇団経営から発展して映画会社経営など多角化を推し進め、結果的に大手私鉄たるもの多角経営をやって当たり前というまず間違いなく日本独自の風潮を築いた。ちなみに転売やらなんやらを繰り返した野球部門以外はほとんどが現在でも阪急傘下のまま存続している上に、追随した他社も現在まで維持している例は数え切れない。映画経営筋の子孫から考えると、「やることはやったんや!後は気合と根性でなんとかなる!やったれ!」という思考回路だった可能性がある。
    • 中吊り広告:意外にも、車内の“中吊り広告”を始めたのも阪急電車。これも創業者・小林一三のアイデアだが、「役所に許可をもらいましょう」という部下に対して、「アホ!そんな真似したら反対されるに決まってる。黙ってやってもうたらこっちの勝ちや!(要約)」と堂々と既成事実化するという見下げ果て……もとい、見上げたエピソードがある(実際、中吊り広告は「風致を害する」といういちゃも……理由で、大正13年にいったん廃止されている)。ただし、当の阪急電車は「公共の場(車内)にふさわしくない内容が含まれる場合がある」として週刊誌の広告は一切吊らせないという、これまた見上げた方針を貫いてたりする。
    • ただし阪急が本業において手を抜いているような会社なのかと言うと決してそのようなことはなく、むしろ変態関西私鉄筆頭のように扱われている。戦前のP-6にはじまって、『人工頭脳電車』2000系など先進性のある車両を投入する反面、バネ下重量の過度な軽減に対する反対派でもありその仲間が京急という時点でお察し。曰く西の阪急、東の京急。その手並の鮮やかさは庄内事件という伝説として残っていたり。
    • 2000系:世界で初めて定速運転制御装置を搭載した車両。細かいマスコン操作をしなくても一定の速度で走り続けられるため、運転士の負担を軽減できる。もっとも、昇圧化の際に普通の車両になってしまったが。
    • 西宮北口駅:世界的にも珍しい高速鉄道同士の平面交差が存在した。但し、輸送上のネックとなるため、現在は解消されている。
    • 新幹線の線路を先に走る:新幹線が水無瀬付近を建設する際、用地が狭いため阪急と併設することになり、高架化も併せて行うことになったため、その軌道が完成するまで新幹線の軌道を仮設線路として使用していた
    • 新京阪P-6(→阪急100系)阪急京都線の前身、新京阪が制作した戦前の伝説的名車。鈴鹿越えで大阪と名古屋を結ぶという構想のもとに作られた車両であり、運転最高速度120Km/hを想定したバケモノ電車。アメリカのインターアーバンの設計思想と親会社である京阪伝統のイギリス由来の技術を組み合わせた、ある意味日本らしい電車でもあったりする。官鉄並行区間で当時の最速列車「燕」を追い抜くというインパント大のシーンも演じ、現在に至るまで短命に終わった新京阪の存在を強烈に伝えていた存在。
    • 庄内事件:1956年当時の宝塚線の輸送力や車両の質が他路線に劣っていたのが原因となった別名電車通せんぼ事件。大都市近郊における鉄道のキャパオーバー、日常的に起こる遅延、宝塚線利用者の神戸線に対するコンプレックス(当時の宝塚線では車両限界の違いから、大型規格の神戸線の車両を小型化したものが導入されていて、十三~梅田間では規格の異なる車両が併走していた)、当時の現場における連絡の不備がそもそもの原因。最終的には1000人を超える群衆を沈静化すべく、大阪府警から機動隊一個中隊が派遣されたり、当時の専務が立ち往生した電車の貫通幌の桟板に立って説得を行ったり、また空車回送された先の梅田駅では事務所に詰めかけた乗客200人に対して昼食・夕食代の名目で1000円(当時の国鉄運賃に換算すると二等車で東京~岡山に相当!)を支払うこととなった。これだけなら単なる列車妨害事件で終わりなのだが、実はこの事件、たった3時間弱で決着がついているのである。後の70年代に起きた上尾事件や首都圏国電暴動が事態の収束までにそれぞれ11時間以上、約1日半を要したと言えば、この時の阪急がいかに迅速な対応をとっていたのかお分かりいただけるだろう。
  • 西日本鉄道:九州唯一の大手私鉄であるが、地元では鉄道会社というよりバス会社のイメージが強い。更に1番の稼ぎ頭は鉄道でもバスでもなく国際物流事業(主に航空貨物。なお、国際物流事業本部は本社のある福岡市ではなく東京都に所在)だったりする。鉄道では天神大牟田線が現在のメインであるが、会社としてのルーツは現在は事実上消滅している北九州線の運営会社(九州電気軌道)だったりする。
    • 西日本鉄道500形:1942年に製造した日本初の高速鉄道向け連接車である。大牟田線向け。前身の九州鉄道(二代目)が設計したが、福岡県内の主要私鉄の統合により落成は西鉄になってからになった。戦時中の落成にもかかわらず、全車オール転換クロスシートであった。これは大牟田線の熊本延伸を前提に設計をしていたが、熊本延伸計画は戦況悪化により中止になった。戦後は車体増設で3車体連接車となりオールロングシートになった。他形式車と連結できないことがたたり、1974年に廃車。日本初の高速鉄道向け連接車ということもあり、新型ロマンスカーを開発していた小田急電鉄の技術者がわざわざ九州まで視察するほど影響があった。こうして出来上がったのが小田急3000形SE車であった。しかし、500形を連接車にした理由は高速性能を考慮してのことだったのだが、時期が時期故に高速化技術なんて今研究するんじゃねぇと言われかねなかったため、鉄道省に対しては「台車の数を減らして鋼材を節約する」と言ってスッとぼけた。その後西鉄は鉄道線では連接車は当形式のみの珍車となったが、軌道線北九州線福岡市内線で連接車を大量増備していくことに。その余波は子会社にも
    • 西日本鉄道1000形(軌道線)連接車シリーズ:その西鉄が、北九州および福岡の軌道線輸送力増強のために大量増備した連接車。主流であった木造車両を一気に置き換えた。特に福岡市内線に投入した1000形と1100形は当時としては珍しいカルダン駆動の高性能車で、京阪80形とは方向性が違う「お前のような路面電車がいるか!」な車両であった。なお、北九州線に投入された車両は全て吊り掛け駆動であった。しかも北九州では三車体連接車に改造された編成も(ちなみに福岡でも三車体連接車を走らせる計画だったが、警察から許可が下りず実現できなかった)。大量に投入されたものの、北九州は鉄鋼不況とモータリゼーションにより、福岡は地下鉄建設により大量に廃車されるハメに。再就職先は子会社広島電鉄熊本市電だが、広島に移籍した編成の一部はミャンマーに転出し、同国初の電車となってしまった。熊本市電在籍車(先述のカルダン駆動車)は唯一の原形をとどめた車両で、電気機器故障のため長期間休車していたが、ラッシュ時輸送力確保のため、古巣の車両工場で大規模修繕を施して運転を再開した。ブランクがあったとはいえ還暦(車齢60年)を迎えてのカムバックであり、こちらもある意味、異能生存体(路面電車版)である。なお、福岡市内線のカルダン駆動車の一部【熊本市電に現存する5014号も該当】は、短期間ながらこっそりと北九州線で活躍していた(その際、ナンバーを2000番台に改番)。逆に北九州線の連接車が1本だけ福岡市内線で1年間活躍したことも。路線内で勾配区間の多い北九州線の連接車では電動機の出力を45kwに統一していたが、それよりも非力(37.3kw)な福岡市内線のカルダン車が北九州線で運用出来るとは………。また、福岡市内線用に製造されたはずの車両が北九州線に新製配置されるというややこしい事態もやらかしてる。
      • *福岡市内線1100形:福岡市内線1000形同様にカルダン駆動車であったが、製造元の汽車製造が車体デザインをアレンジしたがために、他の形式に比べて異様に窓がデカく角張ったデザインとなってしまった。しかも、汽車製造(東京支店)製となっているが、実際は下請けの大榮車輌が製造していたという曰く付き。また、福岡市内線から引退した後に広島電鉄に移籍して三車体連接車に改造されたが、魔改造により中間車体だけ窓が異様にデカい(つまり中間車体のみ元1100形)という珍編成が生み出された
    • 車両付番:西鉄は、戦時統合で成立した会社であるが、統合後も車両型式の付番に関しては路線ごとの独自路線を継続したため、多くの番号重複が発生した。他の私鉄では基本的に統合後に改番するなどして重複を解消させ、以後の新造車については重複しないようにしていたのだが、西鉄は北九州線福岡市内線大牟田線でそれぞれ独自の付番が貫かれた。一例を上げると、1001号車は1960年の時点で北九州線(1000形)、福岡市内線(1000形)、大牟田線(1000形)にそれぞれ存在している始末であり、しかも全て1950年代の新造車である。

地方私鉄部門

  • 軽便鉄道:規格を低くして、低コストで建設された簡易な鉄道。日本では一般に軌間が国鉄在来線(1067mm)よりも狭い鉄道を指し、広義には森林鉄道鉱山鉄道も含まれる。モータリゼーションに押されて廃線が相次ぎ、今では数えるほどしか残っていないが、かつては小規模、あるいは零細な事業主が多かったため、より個性的な路線(きれいな言い方)も少なくなかった。
    • 草軽電気鉄道今は無き日本版ダージリン・ヒマラヤ鉄道。ダージリン・ヒマラヤ鉄道と同じくコストを抑えるためにトンネルを一切掘らず、地形に沿ったりスイッチバックで山越えをしていた紳士の鉄道。
    • 朝倉軌道:かつて九州に実在した「届出なんぞ飾りです」な軽便鉄道。無届けで客車を両方向とも流線形のガソリンカーに改造する程度の能力。他にも鉄道のことをあまり知らない身から見ると杜撰もいいところの会社なのだが、現存する大手私鉄の戦前の悪行の数々を知るとただのやんちゃ坊主でしかないのが一番恐るべき点もうやだこの国
    • 根室拓殖鉄道:かつて北海道に存在した軽便鉄道にして、日本史上最も東を走っていた鉄道会社。出所不明で車籍もない機関車を使っていたり、導入した車両を国の許可が下りる前から使っていたり、4両の貨車を真っ二つにして8両にしたり、乗客が増えた時は貨車に乗客を乗せたりと、先述の朝倉軌道に負けず劣らずのフリーダムな逸話がある。
      • 銀龍号:上記の根室拓殖鉄道で使用されていたガソリンカー。走るバラック建築ありのまま当時起こった事を話すと、元々はキャブオーバーのトラック型をした貨物用ガソリンカー(と言っても、当初はガソリンではなく木炭ガスで走っていた)だったところ、前後のバランスが悪く頻繁に脱線したため、とってつけたような、というかとってつけた不細工なボンネットにエンジンを突き出して無理矢理バランス調整。さらに貨物輸送の需要が無くなったために旅客用に改造。荷台のあった部分に、近所の大工に作らせた、運転室と全然サイズの合わない客室をポン付けするというアバウト極まりない改造をしたために、ボンネット、運転室、客室の3ボックスが全く釣り合っていないという、非常に独創的な外見(きれいな言い方)となった。さらに恐ろしいことに、1959年の同線廃線まで現役だった……orz
  • 筑波鉄道(初代)ナハフ100形・ナロハ200形:会社自体は極普通の地方私鉄…と思ったら、将来的には電化を見越しており車両(客車)も電車に改造することが可能な設計をされていた。この電化は近くに地磁気観測所が存在する事により実現しなかったが、後に三河鉄道(現名鉄三河線)・阪和電鉄(現JR阪和線)に移籍した車両が実際に電車に改造された。
  • 定山渓鉄道2300形:かつて札幌市に存在した私鉄で用いられていた電車。「涼しい北国で使うんだから別にいいよね」という北国の夏を甘く見過ぎた考えの下、非冷房かつ固定窓という狂気の仕様になったため、夏は車内が温室と化し、あまりの暑さに嘔吐する乗客が続出。飛行機や貸切バスでもないのに車内にエチケット袋が常備される有様であり、「ゲロ電」という蔑称で呼ばれた。この車両が導入されてから5年後に定鉄は廃線になったが、こんな車両を欲しがる他の会社など存在するはずもなく、全ての車両が廃車となった。
  • 大井川鉄道蒸気機関車動態保存のスペシャリスト。これ自体は普通に称賛されて然るべきものだが……電車についても他車からバラバラ集めた車両が多く、走る博物館と化している。この車両集めは他の地方中小私鉄に見られる“経済的な理由”もあるにはあるが、一方で大手の名車を狙って集めているのも事実だったり。それでいて決して保存鉄道ではないという世界的に例を見ない鉄道会社。
    • 蒸気機関車による救援:普通、動態保存や展示走行用の蒸気機関車はそれを目的に保有しているが、それ以外の目的では手間がかかるし状態の維持にも関わるため使用されないことが多い。……のだが、ここは駅構内で立ち往生した電車を待機中の蒸気機関車で転線させるようなことをする。また流石に電気機関車が使われることが多いが、途中駅や線路上での救援もここは未だに機関車で行うことが多く、「機関車を嫌う」日本の鉄道業界の流れに逆行している。一応付け加えると、ブレーキさえ作動させられるのなら重く粘着力・牽引力に優れた機関車での救援自体には非合理性はない。
  • 近江鉄道鉄道界のブリストル自動車。「魔改造と車籍流用が特技」と言われるとおり、旧型車を原型を留めないほどにビックリドッキリ魔改造をすることで定評がある。
  • 高松琴平電気鉄道中小私鉄の多くは戦後の車両調達を大手私鉄や国鉄からの中古車購入で賄うケースが多いが、そのさい問題になるのが制御器の統一。通常は600V時代の豊橋鉄道のように同一仕様あるいは互換性のあるものに揃えるか、諦めて別運用で使うかである。しかし琴電では「みなしHL」とでも呼ぶべき方法を編み出し、マスコンのみ統一し主制御器はそのままで手動進段自動進段の両車を併結することに成功。さらにベテラン運転士の中には、加速の殆どを自動進段車に負担させるため敢えて直列段ではHLマスコンの2ノッチを、並列段で6ノッチを入れ続けて問題なく走らせるという者もいる。
  • 長崎電気軌道160形168号車:前述の58654号機よりも11年前(1911年製)に誕生した日本国内では車籍を保有する鉄軌道車両では最古参。もともと北九州の路面電車用の車輌として制作され、1958年に長崎へ移籍。本線運転が可能な鉄軌道車両では唯一の木造車であり、1915年に開業した長崎電気軌道よりも歴史が長かったりする。流石に事実上の動態保存状態ではあるが、それでも年数日は本線上で営業運転されている。
  • 長崎電気軌道700形:元は東京都電2000形1067mmの杉並線用として制作され、杉並線廃止後は都電の他の路線(1372mm)に転用、そして1969年長崎電気軌道(1435mm)に6両が譲渡。三種類の軌間の路線を渡り歩いた車両である事自体珍しいが、それに加えてすべて台車の改造で対応させている。(通常は台車そのものを交換することが普通)
  • 伊予鉄道坊っちゃん列車:夏目漱石の小説「坊っちゃん」にも登場した、マッチ箱のような汽車を復活させたもの。流石に蒸気機関車ではないもの、当時の蒸気機関車を模したディーゼル機関車で客車を牽引する形になり。後述の札幌市電以来の路面ディーゼル動車となった。客車列車なので当然終点での機回しが必要になるのだが、折り返し駅にターンテーブルを設けるのではなく、機関車にジャッキを取り付けて自らジャッキアッブする形で方向転換する。 なお札幌でも問題になったポイントの切替は、客車にダミービューケルを取り付けて、車掌がポイント手前でそれを上げることでクリアしている。
  • 箱根登山鉄道:温泉で有名な箱根を走る観光鉄道。最急勾配80‰、最少半径30mの山岳路線を、1919年の開業時から粘着運転で走破するというきちがいじみたことをしている。更に、日本初の三線軌条採用路線であったりする。現在標準軌の線路を剥がし小田急車のみ営業走行する箱根湯本より下の区間も最急勾配40‰という急坂なのだが、箱根登山線の運転士は「平坦線」と呼んでいる。
  • 江ノ島電鉄:観光地として有名な鎌倉と藤沢を走る路線。その路線スタイルから勘違いされやすいが、免許上はれっきとした鉄道である
  • とさでん交通200形210号車:従来の屋根上冷房装置取り付けでは車体の強度が持たない、床下や床置はスペースがない、けど冷房は付けたいということで試験改造した冷房車だが、なんと家庭用エアコンをそのまま取り付けるという斜め上の改造。屋根の上に室外機が乗る姿はシュールそのもの。
  • 阪堺電気軌道モ161形:1928年に南海鉄道大阪軌道線(当時)に投入された車両。以来90年に渡り現役を続ける日本の路面電車車両で最古の定期運用を有する車両。非冷房のためさすがに夏場の運用は無いのだが。この車両で施された雲のデザイン(通称「雲電車」)は秀逸なデザインとして有名。ちなみに雲電車のスポンサーは立石電機(現・OMRON)であったが、人気が高く後年復刻された。
  • 東京モノレール:モノレール最速の95km/h。あのさぁ…… まぁ、ライバルがライバルだから一見、目立たないように見えるのだが、近年のアニメ作品におけるモノレールに対する勘違い(本来は低速・中規模輸送手段であるにもかかわらず、普通鉄道と同じ高速・大規模輸送手段のように描かれる)はだいたいここのせい

地方公営鉄道部門

  • 東京都交通局10-000形電車:急行運転を行う新宿線のために製造された、主電動機出力165kW、最高時速120km/h・起動加速度3.3km/h/sの性能を持つ怪力地下鉄用電車。しかも誘導障害を懸念して1997年の時点で尚チョッパ制御で最終編成がロールアウトしたというおまけ付き(ちなみに京都市交通局10系と共に、日本で最後のチョッパ制御方式を採用した新製電車でもある)。
  • 東京都交通局5300形電車:こちらも主電動機出力165kW、最高速110km/h・起動加速度3.3km/h/sの地下鉄用電車。デザインが優れている一方で、共鳴音が非常に五月蠅く、ついたあだ名が交通局の白い悪魔。新宿線と異なりそれを要求するどころか許容する線区など1mたりとも存在しない浅草線用に製造された理由は「京急のせい」ですべて説明がつく
    • 東京都交通局5500形電車:その5300系の置換用に制作された車両、京急だけでなく京成側からも求められる性能が更に向上したため、運転最高速度は120km/hに向上させ、130km/hに対応できるようになっている。
  • 帝都高速度交通営団6000系電車:日本初の量産電機子チョッパ制御車。その先進性は制御方式やアルミ合金製軽量車体などの機構面にとどまらず、非常に野心的かつ先鋭的なデザインの採用が衆目を集めた。「電車の前面は左右対称デザインが基本」という従来の固定観念を徹底的にぶち壊した。兄弟車7000系8000系とともに営団のイメージリーダーとなったが、あまりに先鋭的過ぎて批判も少なくなかった。そしてあれから30余年……後継車16000系に道を譲りつつあるが、デザインだけは今でも充分先鋭的なのが恐ろしい。
  • 札幌市交通局D1000形D1010形D1020形D1030形D1040形気動車「お前のような路面電車がいるか!」シリーズ。というか、もはや電車ですらない札幌市電の延伸に際して、工事費用を抑える方法としてなんと非電化での路線敷設を選択して、札幌市交通局が制作した世界的にも前代未聞の路面ディーゼルカー。5形式合わせて16両製造された。当時としては画期的な車両であり、国鉄を出し抜いて自動進段方式・空気バネ台車を気動車として初めて実用化した。ちなみに、当時の走行区間は非整備の路面も多く、未舗装の田舎道を、架線もパンタグラフもない路面電車(?)が、土煙を上げながら爆走するという、どシュール極まりない光景が繰り広げられたという。……ところが、ここで札幌市交通局がポカをやらかす。この当時路面電車のワンマン化が推し進められ、その一環としてそれまで分岐点に設置されていた手動操作のポイント操作室の廃止・ポイント自動化が行われた。札幌市交もそれに倣ったのだが、やはり他社と合わせてポイント用の電車検出装置を架線上に設置する方式を採用してしまったのだ。この為これらの気動車は気動車なのにポイント操作の為だけにビューゲルを設置するという鉄分の薄い漫画家がテキトーに書いた電車をリアルに再現したような事態となり、最終的に非電化路線を電化して解決することになり、これらの気動車は早期に廃車され車体のみ700形電車に転用された他、台車が一部のトレーラー・連節車に流れて行った。栄光と奇行に彩られているかのような日本鉄軌道史だがやらかすときは斜め上に全力で踏み外すという一例である。 なお、「架線のいらない路面電車」は初期コストの抑制だけでなく、災害対策(停電や架線切断に強い)、景観保護などの面でもメリットが多く、近年では「蓄電池電車」として新たな発展を見せつつある。D1000形もまた、「時代が早すぎた」のかもしれない。
  • Osaka Metro:前身は日本初の公営地下鉄であった大阪市交通局(大阪市営地下鉄)。道路の下を走るのだからという理由で、鉄道ではなく軌道として敷設されている。また、御堂筋線というドル箱路線を抱えているお陰で、公営時代の時点で既に新技術の投入に積極的である。更に、多くの路線の基本規格を揃えることで車両の基本規格を共通化しており、線区間の転籍も珍しい話ではなかったりする。
    • Osaka Metro中央線:免許上はれっきとした軌道...なのだが、直通先の近鉄けいはんな線で時速95kmを叩き出す。しかも、本来高速運転に向かない第三軌条というおまけつき。えーと、軌道ってことは路面電車の仲間だよね?そんな速度出せないよね?
      • 京阪阪神阪急近鉄京急『呼んだ?』(軌道扱いでありながら高速運転を行った私鉄達)
      • 国鉄「止めてください死んでしまいます」
      • なお第三軌条方式での高速運転は、大阪市交通局時代に計画したことがあってそのための車両(初代20系、後に10系に改番)も作ったのはいいのだが、保線関係現場の反対で試運転すらできずに頓挫した過去があったりするので、直通先の他社線ではあるものの30年越しの夢がかなった形である。
      • また、この高速運転に際しては車両側の高速運転対応改造も実施されたのだが、この改造費用は近鉄持ちだったのと、他線区と規格が共通化していたのを利用して、谷町線にいた古い20系と、中央線にいた新しい新20系(24系)を入れ替えして、20系の機器更新と合わせて高速化対応という、ちゃっかりしたことをしている。
      • いやいや、第三軌条でも160km/hくらいまでなら余裕だぞ、何もおかしくはないあんたらの基準d(米帝様「お前ら加担してんじゃねーか!!
    • Osaka Metro御堂筋線:日本屈指の輸送密度を誇る路線。それだけならここに載せるほどのことはないのだが、特筆すべきはその先見性。
      • 『絶対に輸送量が増えるから17m車12両分のホームを作れ』→開業当初こそ単行運転だったが、ドンドン増結されて最終的に18m車10両運転を全区間で行うようになったため、その投資をフル活用している。日本の他の都市の最初に開業した地下鉄路線は大体輸送量不足になってバイパス路線を作っている。(東京メトロ銀座線半蔵門線、名古屋市営地下鉄東山線桜通線など。)それでも輸送力がパンクしたために作られたのが四つ橋線だったりする。
      • 『日本初の電気指令式ブレーキ採用車を投入』→増え続ける旅客及び大阪万博での輸送に対応するため、18mながら4扉、更に日本で初めて電気指令式ブレーキを採用した30系を投入した。それまでのブレーキは空気ブレーキであったが、応答性や正確性は電気の方が優れている。この車両が成功したため、信頼性も保証され、これ以降、日本では新型車は電気指令式ブレーキを採用するようになった。
      • 実はこの大阪万博開催時の輸送対応では、御堂筋線の車両を総入替するという大胆なことを行っているが、それで御堂筋線ではお役御免になった車両はすべて廃車……ではなく車齢の若い車両は他線区に移籍しており、ここで前述の他線区でも基本規格が統一されているメリットが生かされている。
      • ただ、結果として割りを食ったのは1969年に開業した千日前線で、開業時から他線の中古ばかり回されて、完全新車が入ったのは1991年25系が最初だったりする。
      • 『パンタグラフがある車両が入って来るだろうからその分のスペースを確保』→これは実現しなかったものの、冷房車を投入する際に有効活用(冷房改造は大体変な格好になって迷列車動画の餌になるのがお約束。)
  • 福岡市交通局1000系電車:九州初の地下鉄電車。車両設計はなんと国鉄の車両設計事務所が協力。ATO装備・ステンレス車体・空気ばね台車・電機子チョッパ制御とATOと車体構造以外は当時の国鉄の最新鋭通勤電車201系そのものであった。まさに、国鉄が設計した「ぼくのかんがえたさいきょうのつうきんでんしゃ」であった。財政難や労働争議の影響で作りたくても作れなかった理想の通勤電車を福岡市交に託した。現在はVVVF制御に更新されたが、デビューから30年以上経った現在でも現役である。一方、直通運転先でもあった国鉄が乗り入れ用に用意した車両は四半世紀遅れのスペックである103系であった。直接の原因は国鉄の財政難だったのだが……(当時の筑肥線は列車密度が低く、201/203系の省エネ効果が得られない=初期投資を回収できないという理屈もあった)
  • 北九州市交通局(旧:若松市交通局):「お前のような路面電車がいるか!」シリーズ。こちらも路面電車と言っていいのかという存在だった軌道で、旅客営業を行わない貨物専業路線だった。
  • 富山ライトレール:「お前のような路面電車がいるか!」シリーズ。旧JR富山港線を引き継いだ路線。更にその前身は富山地方鉄道という私鉄である。その為、戦前から600Vで直流電化されており、首都圏で役目を終えた車両が余生を過ごす場となっていた。周りが交流電化されても、国鉄がJRになっても、架線電圧を600Vから国鉄標準の1500Vに昇圧するぐらいで比較的大きな変化はなかったが、北陸新幹線の工事開始に伴い、富山駅が高架化される際、利用者が少ないことから廃止も検討された。しかし、バス転換が難しく、富山県が第三セクター化して引き継ぐことになった。地方路線が廃止されなくて良かった良かった…で済まないのが、日本の鉄道。なんと、引き継ぎと同時に普通鉄道だったのを路面電車化してしまった。しかも、1967年に一旦600Vから1500Vに昇圧したのを、将来の富山地方鉄道軌道線との直通を見込んで600Vに再降圧するというおまけ付き。元軌道路線でありながら鉄道路線に免許を変更する例は前述の大手私鉄の例が多数あるが、鉄道路線が軌道路線になるのは、おそらくここだけではないだろうか。なお、第三セクター化に伴い、利便性が向上している模様。
  • いすみ鉄道:千葉県いすみ市を中心に走る第三セクター。国鉄時代は木原線を名乗っていた。鳥塚亮社長の元、ローカル線の再生の手本として日夜奮闘中。国鉄型気動車を導入したり、何もないのを前面に押し出したりと、金が無いなら知恵を振り絞れ!を地でいく。
  • 北越急行:元は国鉄の北越北線として着工されたが、財政難により凍結。その後東京と北陸の所要時間短縮のためのルートとして工事が再開され、第三セクターとして1997年に開業した。全線単線ながら特急はくたかの160km/h走行が可能な高規格路線であり、ノーズ可動クロッシングや高速進行を現示出来る六灯式信号機が備わっている。また、普通列車用のHK100形も、高速走行するはくたかから逃げ切るため、最高速度が110km/hで、加減速能力が高い高性能車両となっている。その後、北陸新幹線の金沢開業に伴いはくたかは新幹線に役目を譲り廃止、名前を引き継いだ。同時にはくたかで稼いできた北越急行の動向も注目されたのだが...。
    • 超快速「スノーラビット」:なんと、北越急行が選んだのは新幹線との真っ向勝負であった。ダイヤ改正と同時に超快速「スノーラビット」の運転を開始。表定速度80km/hオーバー、ほくほく線内に限れば平均速度99km/hという特急顔負けの快速ぶりである(後1分所要時間が短ければ平均速度100km/hだったのに...。)。特急列車でも表定速度100km/h越えは数えるほどしかなく(前述のはくたかの他、はくたかの前に走っていたかがやき、サンダーバード、スーパー北斗くらい)、これだけでも超快速「スノーラビット」がどれだけ速いかが分かる...。が、よく考えてほしい。これらの特急は最高速度130km/h、対してHK100形は110km/h...。これだけの速度を出すには、駅への停車とその前後の加減速を除き、常に最高速度で走り続けるということである。なお、ほくほく線は長大トンネルが多く、しかも単線であるため、気密対策をしていない普通車両ではかなり耳ツンが酷い。しかも最高速度を出し続けるため、物凄く煩い。
    • 美佐島駅:赤倉トンネルはほくほく線内にある全長10kmを超すトンネル。JR以外の鉄道としては日本最長のトンネルで、途中に信号場が一つ、駅が一つある。信号場の方は別に特筆することはないのだが、駅の方は凄いものがある。それが美佐島駅で、外見は平凡な無人駅なのだが、特筆すべきはその構造。なんと二重扉になっていて、どちらかが必ず閉められている。トンネルの途中にあるため空気の逃げ場がなく、列車が通過すると物凄い圧力がかかり、ケガをする恐れがあるためである。その為、美佐島駅は普段はホームに出ることが出来ず、普通列車が到着した時だけ運転士がスイッチで駅の扉を開閉する
    • 鍋立山トンネル:鉄オタの間では前述の赤倉トンネルの方が有名であるが、土木関係者にとってはこちらの方が有名である。というのも、このトンネルのせいでほくほく線の開業が遅れたからである。着工から完成まで、途中中断はあったにせよ、22年もの歳月を要した。20世紀初頭なら難工事も分かるが、着工したのは土木技術が進歩した1970年代である。その原因は、この付近の地層が複雑に入り組んでいるうえに軟弱で、穴を掘った側から地面が隆起して塞いでしまう程の土圧がかかるためである。あまりの悪条件に、手掘りはおろか最新鋭のボーリングマシンまでもが押し負けてしまうが、高速運転を行うため迂回は許されず(それをすると中山トンネルのように減速せざるを得なくなる)、薬液を注入するなどして何とか掘削することが出来た。
  • 松浦鉄道:長崎県を走る第三セクター。大赤字で国から見放された形の国鉄路線を地元が引き受けたのが第三セクターであるが、様々な経営努力で黒字化に成功し、第三セクターの優等生と呼ばれる。普通鉄道最西端の駅、たびら平戸口駅や、普通鉄道での駅間最短距離の日本記録(佐世保中央~中佐世保で、僅か200m。通勤電車10両分)など、いろいろ記録を保有する鉄道でもある。
  • 以上からも分かる通り、JRグループ大手私鉄を筆頭に日本の鉄道事業者は濃淡はあれど、日本面に染まっていないところはないと言っていい。

鉄道カルチャー変(誤字に非ず)

  • 鉄道カルチャーの排他性:「本来簡易な規格であるはずの1067mm軌間を使って、本格幹線を大整備」「連絡船リレーも含めた国際鉄道便がない」「ガラパゴス進化の上、大増殖した愉快な車両(と鉄道コンテナ)たち」「日本人の大半が『コストと実用性度外視してでも、本気出したらフランスなんざ敵じゃねぇ!』と思ってる新幹線」などなど、あんまりに国内事情が国際的な基準から乖離しているせいで、鉄道カルチャーが排他的すぎると言われる。鉄道趣味誌など海外の鉄道の冠特集は絶対に組めないどころか、数ページの小特集を入れただけでクレームが来ると言われる。また技術者以前に官僚である国鉄幹部技師の「大本営発表」的記述を鵜呑みにしすぎる面もある。また鉄道会社や車両の好き嫌い、趣味のスタイルなど、他人の志向に許容力の無い偏向的なマニアも存在しており、そうした者同士によって掲示板で擁護や反論などのネットバトルを行ったり、Wikipediaピクシブ百科事典の編集合戦を行うなど、他の利用者を巻き込む迷惑行為に及ぶ者も存在する。
  • 創作物における蒸気機関車へのこだわり:これ自体はイギリスやアメリカにもあるノスタルジーなのだが、日本は宇宙を飛ばしてみるとか、さらにそれにリアリティまで追求してみるとか、わけのわからん方向に突き抜ける事がしょっちゅう。また、蒸気機関車が事実上撤収した現在の世代に至るまで汽笛と言えば蒸気機関車のものと刷り込まれてしまったが、これまた日本ローカル仕様だったり。
  • ディーゼル機関車への熱い手のひら返し:これも他国同様、蒸気機関車の衰退期から撤収後暫くの間までは、ディーゼル機関車は蒸気機関車を追いやるヒール役とされていて、創作物でも蒸気機関車の引き立て役として壊されたり盗まれたりはしょっちゅうだった。ところが、電化と動力分散化の時流、国鉄分割民営化などで国鉄型ディーゼル機関車の先が見え始めるや否や、コロッと過去のことは忘れてディーゼル機関車を主役に引き立てる。特にDD51形とか、今追っかけやってる人間の半数くらいはかつて「ダメデゴイチ」だの「赤ブタ」だの陰口を叩いていたはず
  • 迷列車で行こうシリーズ:元ネタは鉄道ゲーム「A列車で行こう!」日本各地の特色ある車両に着目し、その車両のネタを紹介する動画。前述のサンパチを皮切りに、様々な迷車両、迷運用、迷駅が動画として上げられている。しかも上級者はかなりのハイクオリティで、テレビ番組として放送できそうなレベルもう鉄道のことについては専門家よりオタクに紹介させたほうがいいんじゃないかな。日々の運用とかの把握能力についてはオタクのほうが上だし。

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編集者:ラミネス
編集内容:近鉄をちょっと更新