直面する問題・課題を技術によって解決しようとする点は元同盟国と共通するが、日本の場合はひたすら磨く方向に進む。革新的な技術や発想は生まれにくいが、既存の技術・技能を、いわゆる“職人芸”“匠の技”でもって、精緻を極めていくところが特色。寸法とか質量とかコストとかの諸々を削る(ダウンサイジング)のも得意分野。
ただし、あまりに緻密(生真面目)に過ぎるためか、一度ネジが外れると、とことんまで壊れていくという悪癖もある。
一方で、鉄道と海軍については英国の直弟子、あるいは血を分けた親子であるのでなるべくしてなったのかもしれない。
また日本自身がやらかしている例は下記のとおりうんざりするほどあるが、他にもその技術力の高さを買われて他の国のやらかしの共犯になっている例も多数。
軍事・防衛部門【大日本帝国陸海軍編】
- 三菱 A5M九六式艦上戦闘機:三菱を英国面に走らせた元凶とも言える、日本初の金属製単葉艦載機。艦載機の開発に難儀していた海軍がまさかの「とりあえず飛行機作ってから空母作るべ」に転換した結果、制約が緩くなって生まれたという逸話を持つ。極限までのスリム化、世界初の捻り下げ、リベット等の新機軸を諸々と詰め込んだ結果、当時の常識をぶっちぎる速度(要求性能190kntに対して240knt)と格闘性能を発揮。日華事変で初投入され、あっという間に中国の制空権を握った。試作品のテストパイロットを源田実が勤めている。
- 三菱 A6M零式艦上戦闘機:ご存知零戦もしくは「ミツビシ・ゼロ」。異常に長い航続距離、鬼のような重武装(20mm機銃)、軽業師のようなフットワークを兼ね備えた脅威の艦上戦闘機。ただし防御力は犠牲にされた。(陸上機を超えた艦上戦闘機はこれとF-8クルセイダーくらいだとも。)
- 中島 キ43一式戦闘機「隼」:上記零戦の異母兄弟とも言うべき陸軍の主力戦闘機。武装が零戦より貧弱な反面、防弾が充実している他、高速特性もより優れていた。改良する冗長性も武装以外は残されており、大戦末期にあっても一流であり続けた。
- 川西 H8K二式大型飛行艇(二式大艇):PBYの天敵にして川西航空機(後の新明和工業)飛行艇の傑作。索敵中の大型機が鉢合わせると襲ってくる場合もある脅威の大型高性能飛行艇。実際には運用面での問題点もあったようだが、接収後にテストした米軍も感嘆する程の当時世界最高水準の性能を持ちジェット飛行艇が現れるまでは世界最速であったレシプロ大型飛行艇。その血脈を受け継ぐ後継機達は現在でも日本の海難救助や対潜警戒において活躍を続けている。ちなみに川西・新明和の技術的系譜はイギリス・ショート社を祖とする。なるほどな。
- 中島 G5N深山:4発攻撃機開発に当たり民間の航空会社に偽装してアメリカから傑作旅客機「DC-4」を購入し参考にしようとしたが、偽装を見抜かれ「DC-4E」という似て非なる失敗作を売りつけられてしまう。当然、深山は重量過多、出力不足の失敗作に出来上がった。その後、輸送機として運用されることになったがパイロットからは「バカ鳥」と言われるなど散々だった。
- 海軍航空技術廠(空技廠) B4Y九六式艦上攻撃機:日本版ソードフィッシュ。太平洋戦争勃発時はまだ一線にあった。
- 三菱 F1M零式水上観測機:最強の複葉機と名高い三菱の飛ぶ不条理。通称「零観(れいかん)」。零戦よりも小回りが利いたとされる九六式艦上戦闘機と同等の旋回性能を誇り、ドッグファイトに持ち込むことさえできれば当時の米海軍主力艦上戦闘機F4Fワイルドキャット(単葉の近代的戦闘機)を退け、時には撃墜することもあったほど。それどころかF6Fヘルキャットを迎撃戦闘で(未確認)撃墜したとか、挙句の果てにはB-17を体当たりで撃墜して生還したという猛者まで現れる始末。米軍機を警戒して艦隊の護衛を要請したらなぜか戦闘機の「零戦」ではなく観測機の「零観」が駆けつけるなんてことも。なお、本来の任務は艦隊決戦時の艦砲射撃の着弾観測です(ただし、情報源を奪うことによって優位を得るという観点から敵の偵察機を撃墜できる程度の空戦性能は最初から要求されており、その条件を満たす運動能力を確保する為にあえて前時代的ではあるものの翼面積の多い複葉式が採用されている)。
- 中島 A6M2-N二式水上戦闘機&川西 N1K1「強風」:イギリスもアメリカもあきらめた事をやっちまったその一。しかもそこそこ結果を残した。ただ、技術的に優れていたというよりは地理的要因から需要があった為に実用化まで漕ぎ着けたとも言える。二式水上戦闘機は零戦を水上機に改造したもの。強風は最初から水上戦闘機として開発され正式化された。後に陸上用に改修されて欠陥だらけの局地戦闘機「紫電」(N1K1-J)に生まれ変わるも、最終的には全面的に再設計され局地戦闘機「紫電改」(N1K2-J)へと変身を遂げる。
- 三菱 キ109試作戦闘機:B-29迎撃用として75mm砲を搭載。アメリカ(B-25H)やドイツ(Hs129)にも似たような機体は一応あるが、こちらは飽くまで対地・対艦用である。重爆に向けてぶっ放すのは日本くらい。
- 日本国際航空工業(国際) キ105試作輸送機:燃料輸送機。輸送用グライダーにエンジンをつけて自力飛行を可能としたもの、すなわち和製ギガント。ちなみに開発の理由は制海権を敵に握られた状態で内地に燃料を輸送するため。この機体を数百機製造し、バケツリレー方式で燃料を空輸する計画だった。…あれ?確かフォークランド紛争でイギリス軍が空中給油で似たようなことをやったような…。
- 三菱 キ46一〇〇式司令部偵察機:零戦でおなじみの三菱が開発した、戦略偵察機第弐號(壱號は先任の九七式司令部偵察機)にして世界の航空史にその名を遺す傑作偵察機。設計思想・性能共に非常に画期的で、最高速度に至ってはヘルキャットですら不意討ちを使わないと食いつけなかったほど。それだけに留まらず、「大戦中に運用された物で最も美しい軍用機」「地獄の天使」「空の百合」とまで絶賛されたほどの絶対的に美麗なプロポーションも兼ね備えている。その一方で前線の連合軍将兵間では、飛来した場所は数日以内に必ず日本軍に襲撃されたため「写真屋のジョー」と恐れられ、ビルマ戦線配属機に至っては「ビルマの通り魔」と評され完全に恐怖の代名詞だった。
- 空技廠 R2Y一八試陸上偵察機「景雲」:上記の「マンチェスター」「He177グライフ」と同じ双子エンジンを搭載した。発動機の不調のためまともにテストができず、1号機はエンジンの換装中に空襲を受け破壊され、2号機が組み立て中に終戦となり、1号機の総飛行時間はわずか10分程度だった。
- 空技廠 D4Y艦上爆撃機「彗星」二十二型:下記の伊勢型航空戦艦で運用される為に改良された彗星艦上爆撃機。カタパルトで射出されるまでは良いが、甲板が短い為に当然ながら戻って着艦は出来ない。貴重な爆撃機をそこまで手間暇かけて改造してまで航空戦艦に載せようとする必要性があったのかは疑問。
- 川西 E15K水上偵察機「紫雲」:敵に制空権を取られていても強行偵察が出来る水上偵察機、という無茶苦茶な要求の下に作られた水上偵察機。日本機としては初めての二重反転プロペラ、引き込み式の補助フロート、緊急時には投棄できる主フロートなど、意欲的な構造を多数採り入れたが、それが仇になって信頼性がガタ落ちした上、戦闘機より優れた速度は結局出せず、少数生産されたのみに終わる。なお、主フロートを投棄するギミックは、実際にやってしまうと胴体着水するしかなくなり、試作機を失う危険があったために空中投下試験は行われていない。
- 特型駆逐艦:ワシントン軍縮条約で大型艦艇に制限を受けた結果考えた、「ぼくのかんがえたさいきょうのほじょかんてい」。当時主流の小型水雷艇に対応するため駆逐艦を大型化、かつ重武装させることで主力に勝るとも劣らない火力と小型艦艇の小回りを実現。それまでの世界中の駆逐艦を過去にした、いわば「駆逐艦のドレッドノート」(勿論次の軍縮会議で速攻制限枠に指定された)。当時第一次世界大戦で作り過ぎて大量の駆逐艦の在庫を抱えていたアメリカ曰く、「我が国の駆逐艦300隻と特型駆逐艦50隻を交換してほしい」。主な戦場となった太平洋戦争の時点では既に旧型化して次々戦没していったが、戦後を生き延びて賠償艦となり、1970年代まで残った艦も存在する。そしてこの特型駆逐艦の登場により、駆逐艦はただの補助艦艇から立派な戦力となり、戦後に至ってはそれ以上の巡洋艦そのものを駆逐して海軍力の主力となったという点ではドレッドノート以上のエポックメイキングである。だが、当の日本海軍はあくまでも艦隊決戦の為に造ったのであって、対艦能力向上に血道をあげて駆逐艦の価値とも言うべきオールマイティ性を次第に見失ったうえに飛行機の時代となってもそれはさして変わらず、戦争中は特型駆逐艦の血を受け継ぐ艦隊駆逐艦を艦隊決戦などでなく、物資輸送すら行うような駆逐艦のオールマイティ的な役割という不本意な使い方で、貧弱な対空能力しか与えずに喪失していく様には大いなる皮肉が感じられる。
- 伊四〇〇型潜水艦:潜水艦と水上機母艦を足して二で割ったような感じの潜水空母。空母と言うには搭載機が少ないが当時世界最大の潜水艦で水上機を三機も積んだのは或る意味充分脅威といえる。就役時期が遅すぎた為既に活躍の場は無かった。海大型などの水上機搭載型潜水艦がそれなりの成果を上げていたことから投入時期と使用方法を間違えなければ優良な戦略兵器に成得た。もっとも海軍が考えていたのはパナマ運河破壊であり、造船スタッフからも、役に立つのか、と建造中から疑問視されていたという。
- 扶桑型戦艦:下記の金剛型の成功を経て日本が自力で初めて作った超弩級戦艦。しかし英国の戦艦事情も詰め込んだ結果それなりに頑丈に作られた金剛型に対して、日本の火力偏重の結果速力と防御力が切ないことに。更に第一次世界大戦では大した海戦が起こらず、第二次世界大戦は最早戦艦の時代が終わっていたため、まともな活躍の舞台さえなかった。違法建築とすら言われる物理法則を放り投げたような艦橋はあまりにも有名。
- 伊勢型戦艦:上記扶桑型の姉妹艦。扶桑型の欠点を洗い出して改良したため、戦艦としてはそこそこまともに仕上がった・・・ただし、まともに直進できないという別の問題を抱えて。その後ミッドウェー海戦での空母大量喪失に伴い、航空戦艦へと改装されるが、結果として艦載機の運用はしなかった。ただし大幅に広くなった甲板をフレキシブルに利用してそこそこの活躍は残している(ex.飛行甲板に大量の機銃を設置したり、航空機格納庫を倉庫として利用したり。)。また乗員の操艦もあって爆撃機や雷撃機による爆撃や雷撃を回避する。(しかもその当時のの艦長は新米やブランク空け。)ちなみに航空戦艦の発想自体は世界中にあったが、本当にやらかしたのは世界でも伊勢型のみ・・・と思いきや、戦後ソ連が1143型重航空巡洋艦(いわゆるキエフ級空母)という限りなく近い何かを作っている。
- 大和型戦艦:「デカい、デカい」と有名な大和型だが、造船学的に言えば積んだ兵装の割にコンパクトな事で有名。寧ろアイオワ級と同じ主砲配置で同じ門数を積みながら口径は大型化しているのに船体のサイズがほとんど変わらないのはどう考えてもおかしい。因みに、これでも防御装甲の関係で必要以上にでかくなっているらしい。さらに最高速力27ノットまで出ると言うおまけ付き(実は、金剛型に次ぐ速さ。しかもこれでも安全の為に出力を抑えた機関を使っている)。因みにアイオワ級が速いのは船体形状と機関出力に支えられている面が大きい(アイオワ級は船体が細長く、大和型より6万馬力ほど強い。ただしアイオワもやはりこの方のような無茶はしていない)。それでいて設計に無理があるかと言うとそうでもない(機銃の増強や乗員の増加にも普通に耐えている)。因みに意外と燃費がいい。ある意味、チート戦艦である。そしてなにより、長門型まではそこそこ似通っていた船体形状が、コイツになった途端一気に近代化した。たしかに長門型と大和型の設計は20年以上差があるが…いったい何があったんだ? ……図面を見ればモロ解りです。実は、長門型までは全部ヴィッカースが原設計の金剛型を切り張りして、実際に建造して出た問題をその都度細部を改修して解決していただけなのだ(上記扶桑型のKonozama感はこれのせいである。英国面を輸入してさらに悪化させる日本さすが雑食と変態の国)。一方大和型のコンポーネントはよく見りゃなんてことない青葉型重巡洋艦。つまり大和の設計は「デカい重巡洋艦」なのだ(実際、当時の海軍内部にいた人間からもそう言う感想が出ている。そもそも船体の原設計は古鷹型だがこの2隻も金剛型張りの魔改造を受けているし、同じ船体に違法建築を乗せていた空母もいる)。余談ながら、1隻建造するだけで国家予算の3%が吹き飛ぶ(間違えても軍事費ではない)。現代的に言えば、あたご型イージス艦が一気に2隻作れる。しかもこれを4隻そろえるつもりだった。つまり合計12%…あれ?もう一個艦隊組めるんじゃね?(て言うか曲りなりも3隻目まではとりあえず(?)完成している)。
- 12cm28連装噴進砲:上記の伊勢型戦艦などに搭載されたロケラン。近距離に大量のロケット弾をぶちまける装備。日本版シング対空火炎放射器orグラスホッパーLCT-R。モロに英国面に毒された火器の一つ。
- 桜弾:和製トールボーイ/グランドスラム。「本家」同様あまりに重すぎて搭載機である飛龍に専用の改造が必要になった。ちなみに対艦用。そしてトールボーイ/グランドスラムと異なり、機体に固定されている。要するに特攻兵器。
- 戦争末期に開発された特攻兵器の数々
- 回天
- 桜花
- 震洋・マルレ:それぞれベニヤ板でできた船体に爆薬と自動車用のエンジンを載せたもの。
- 伏龍:潜水服を着せて刺突爆雷を持たせただけ。
- 梅花:松根油で飛ぶパルスジェット機
- キ-115 剣
- 神龍:木製グライダー
- タ号特殊攻撃機:木材の生産が滞ったため電柱を使用。
- タイヤ爆弾:関東軍が独自開発した兵器。タイヤの中に爆薬をしこたま詰め込み圧縮空気の噴射で自走して敵陣に突っ込む。要するに和製パンジャンドラム。どこの国でもこういうものは一度は考え付くってことなのかなあ…
- 阻塞弾発射機:隅田川で見るような花火の筒まんまの対空兵器。真上にパラシュート付きの爆弾を打ち上げるだけで敵機に狙いをつける事はできなかった。
- 竹槍:これ自体に問題があるというよりはこれを本気で本土決戦時の主力兵器(のひとつ)にするつもりだったことの方がアレだろう。親記事の通りイギリス軍も似たような発想はしているが、少なくとも向こうは金属製である。そして以下の様な珍バリエーションも・・・。
- 弩弓:木と竹でできたクロスボウ。ただし登場したのは1945年である。これを本気で本土決戦時の主力兵器(のひとつ)にするつもりだったシリーズその2。
- 擬砲:輸送船に載せる大砲が不足したため電信柱などを載せて見た目だけ誤魔化した。
- 平賀譲造船中将:軽巡洋艦に一クラス上の装備を搭載するという無理を力業で克服する手設計法を用い、重巡洋艦という艦種を生み出す立役者となった。大日本帝国版アドミラルフィッシャー。
- 軽くする病:主に戦車開発など。搭載するエンジンが非力だったり、輸送インフラが貧弱だったりするのが主な理由。艦艇や携行装備は適用外。自衛隊にも罹患しかけた。実は意外なところに伝染していた。
- 大日本帝国陸軍の狙撃に関するこだわり:狙撃へのこだわりで定評のある帝国陸軍であったが、それを物語るエピソードの一つとしてマシンガンの発射速度を意図的に落とした上で(弾道がぶれないようにするため)狙撃を行っていたというものがある。
- 大日本帝国海軍の夜戦に対するこだわり:もはやフェチや病気のレベル。レーダーが無かろうが、暗闇だろうが関係なくとことん楽しむのが日本流。初戦の大戦果には夜戦の戦果が結構ある。後半は優秀なレーダーをそろえた米軍に押され気味になるが、それでも勝ち戦があるのも日本流。
- 芙蓉部隊:戦争末期に実在した航空部隊。だがその運用システムが明らかに当時の日本ではない。最早空母も艦載機も払底直前で特攻も始まっていた中、「特攻でパイロットを犬死させるより夜間爆撃してやんよ」のコンセプトで、当時扱いにくく放置されていた上記「彗星」を中心に軍用機を寄せ集め、更にメーカーに直接整備のノウハウを学んで高い稼働率を実現、更には訓練で性能を遺憾なく発揮させることに成功。海軍もこれを後押しし、前線基地と補給基地を独占的に使用させて人員の訓練・休暇などのサポート体制を整え、兵站も優先的に供給した。更に驚くことには、名目上は「一少佐の私兵部隊」だったことである。ただし成果を上げるにつれ、書類上の指揮官は完全に「お前の好きにしろ」状態であった。そのため特攻に巻き込まれることもなく、部隊は終戦まで存続した。(補足;司令官・美濃部少佐は特攻を全否定していたわけでなく、「ここ一番」あるいは「万策尽きた時」には「特攻やむなし」と考えていたといわれる。ただし、その場合は司令官(つまり自分)が先頭に立つつもりだったらしい。幸いにして、その機会はついに訪れなかった)
- 大日本帝国海軍の雷撃に対するこだわり:上記と同じフェチ・病気レベル。前述の平賀譲が設計した妙高型への魚雷搭載に彼が反対していたので不在の内にその兵装を設計加えて実装させたり、旧式軽巡洋艦に雷装を四十門積ましたりの時点で重度だが、他にも一式陸攻などの双発陸上攻撃機は海軍では中型陸上攻撃機であり、四発の大型陸上攻撃機こそが海軍の夢であり、それにより生み出されたのが深山、連山であったが、そんな大型機に雷撃させるのはどんなものだろうか? ドイツの急降下爆撃機に対するこだわりと似たものがある。富嶽が実用化されていたら海軍は超大型陸上攻撃機ににも欲したかも知れない。
- 三菱 G4M一式陸上攻撃機:他国の水準では2発の大型機爆撃機。ただし800kg魚雷による雷撃が可能。マレー沖海戦では「まさか大型機が雷撃を仕掛けてくるとは思っていなかった」英東洋艦隊の不意を衝き主力艦PoWを撃沈した。航続距離に反比例して装甲が薄く被弾対策も不備だったため連合国に通称ワンショットライターされた(異論あり)
- 球磨型軽巡洋艦大井・北上(重雷装艦):下記の九三式魚雷・九五式魚雷を撃ちまくるために魚雷発射管40基を装備した雷撃特化型の極端な軍艦に改造された。しかし当時は既に空母による航空戦が海戦の主体となったため、その重雷装を実戦で使用する機会は無かった。
- 九三式魚雷/九五式魚雷:イギリスもアメリカもあきらめた事をやっちまったその二。酸素魚雷は隠密性に優れ、また速度や航続距離で通常魚雷に対して大きなアドバンテージを持っていたが、燃料との混合時に起きる爆発が大きな障害となっていた、しかし始動時のみ空気を使用することで実用化に至った。雷撃を重視する日本海軍ならではの一品。しかし速度が速すぎて信頼性の低い信管やジャイロスコープ不調に悩まされた。また目標手前での自爆も多かった
- 大日本帝国に於ける陸軍と海軍の確執:どこの国でも「陸軍と海軍で仲が悪い」という例は結構あるが、日本の場合は同じエンジンでも陸軍と海軍でライセンスを別に取り名称が違っただけでなく部品にも共用性がなかったりするわ、陸軍で独自に空母や輸送用潜水艦を作るわ、海軍で独自に戦車を作るわという始末であり、お陰で「陸軍と海軍で喧嘩して、その余力て敵国と戦う」とか「日本軍ならぬ二本軍」なんて揶揄されたほどである。
- 石原莞爾・辻政信・牟田口廉也:それぞれ異なったベクトルで破壊力を持つ。「これだから陸軍は」と言われてしまう原因は大体この人らにあるのだが、海軍は海軍で神重徳が「海の辻ーん」とか呼ばれていたり。
- 金剛型戦艦:そう、後日談があった(前日談はこちら)。(2代目の)「金剛」型はもともと戦艦ではなく、巡洋戦艦であり、その原典も、厳密には「ドレッドノート」ではなく、同じ技術を用いた巡洋戦艦「インビンシブル」である。この巡洋戦艦は、戦艦がまだ25ノットも出せなかった頃、重装甲の戦艦では追撃戦や通商破壊戦に向かなかったことから、装甲は巡洋艦並みで高速を発揮し、戦艦並みの主砲で相手を攻撃するという機動戦の為のフネで、戦艦とは似て非なるものである。ところが通商破壊戦にまったく興味がない上に、長門型以降の戦艦には25ノットを越える高速を求めた日本海軍(と言うよりどこでもそうだが)では、巡洋戦艦という艦種の保有は自己満足以外の何者でもなかったため、ワシントン軍縮条約で保有が制限されると金剛型以外の巡洋戦艦はすべて廃艦にしてしまい、巡洋戦艦という種別自体も廃止されてしまった。しかし金剛型は比較的新しくレイアウトも近代的なため、装甲を増して名実ともに戦艦に改装してしまったのである。戦艦に艦種変更された当時の金剛型は、速力は25ノット程度と、長門型より遅いくらいだった。その後ロンドン軍縮条約明けをにらんだ第二次改装で、機関出力を3倍に上げ、30ノットの高速戦艦に改造したのである。しかしこの時の金剛型はあくまで戦艦であって、巡洋戦艦ではない。まったく島国ってのは……。因みに、就役時と最終時の外見はもはや別物と言っていいぐらい変わっている。多分、何も知らなければ同じ戦艦だとは気付かない。
- 前線装備の強さにこだわるあまり、後方を軽視する姿勢:戦う分には強い日本軍の弁慶の泣き所。お陰で立派な兵器があっても、弾が無くて戦えなかったり、燃料が無くて動かせなかったり……ここを突かれて第2次世界大戦に負けたと言っても過言ではないかもしれない。「輜重輸卒が兵隊ならば 蝶々トンボも鳥のうち」というこの姿勢を如実に示した文句は有名。この後方支援部隊で地獄を見たある軍曹が生み出したのがかの名作、というのも大変な皮肉。
- 大日本帝国海軍の艦隊決戦に対する強いこだわり:ぶっちゃけ病気レベルで艦隊決戦バカといえるのが帝国海軍の特性。日露戦争でバルチック艦隊を撃破し、大艦巨砲主義が世界に広がれば、日本を含めた各国が追い付け追い越せと巨費を投じて軍用艦艇の建造に熱中した。そのおかげで日本の造船技術は変態レベルで向上している。特に日本は先の戦争を戦訓とした猛烈な海戦訓練を実施し、世界有数の海兵集団を教育することに成功している。
- だが戦線の拡大に伴い艦艇の数が足りなくなり、さらに後方軽視の態勢から敵の輸送物資を遮断する「通商破壊」に無頓着だったことから、連合国側に反撃の猶予を与える遠因を作ってしまう。軍費・資材の切迫もだいたいは軍艦建造に拘りすぎたことが原因。何よりまずかったのは、自ら航空戦力の有用性を真珠湾攻撃で証明しておきながら、空母機動部隊を艦隊決戦の前座ぐらいにしか考えなかった“水上戦力至上主義”への甘えで、最終的に機動力と制空権競争が重要となった戦場で自分たちが時代に取り残されるという笑うに笑えない事態を引き起こしている。
- 大和型戦艦はまさにこの思想の極致であり、「とにかく艦隊組んでゴツい戦艦でブン殴れば勝てる」という嗜好……もとい思考から脱することが出来ず、これに気付いて是正を図ったときにはミッドウェー海戦で主力空母四隻を喪失していた。それでも一発逆転のために「あ号作戦」での艦隊決戦を画策するも、その前段階である渾作戦や南方前線基地の損耗も手伝って水泡に帰している。
- 大日本帝国海軍航空隊:当時世界屈指の人外の巣窟。海上戦闘における航空機の有用性をまざまざと世界に見せつけた。太平洋戦争の前半期において文字通りバケモノ級の強さを見せ、特に急降下爆撃と水平雷撃については、共に実戦命中率80%超というトチ狂った精度を誇っていた。また坂井三郎・岩本徹三・西澤廣義・赤松貞明など、前線を支えた戦闘機乗りからも多数エースパイロットを輩出している。そのために地獄と名高い戦艦勤務で鍛えられた水兵がドン引きするレベルの訓練体制が布かれ、その陣頭に立っていたのが彼の人殺し多聞丸である。ただ荒くれどもの巣窟でもあったがゆえに風紀はかなり悪く、初期の空母加賀なんかは世紀末状態だったとか。
- しかし海軍上層部は致命的なまでに砲雷撃戦・艦隊決戦バカだったことで前述の「時代遅れの悲劇」を招く結果になった。また古参のエースを前述の「前線主義」で激戦区に突っ込ませ続けたせいで次々と喪い、後輩指導ができる人材が枯渇し、資材の枯渇と同期するように弱体化も進んだという身も蓋もない状態になり下がってしまう。その末期症状の一つこそ神風特攻隊である。
- なおドイツ軍航空隊とよくよく比肩されるが、陸と海では設定条件が大きく異なり、引き合いに出すのは少々お角が違っていることに注意。
軍事・防衛部門【自衛隊・防衛省編】
- 陸上自衛隊:世界有数の錬度を誇る陸軍(的組織)。多国籍の戦車部隊で演習した時、1発外しただけでお通夜状態になったり(よその国の命中率は大体9割くらい)、米軍との山岳訓練で吹雪に襲われ、米軍は死者まで出したのに自衛隊の方は予定合流地点で雪合戦してたりと結構な勢いで頭のネジが吹き飛んでいる。因みに第1空挺団はこれをはるかに超えるキチガイの集団。ちなみに狙撃職人振りも旧帝国陸軍から受け継いでいるとのもっぱらの噂。
- 60式自走無反動砲:試作車はもっと独特な外観。
- 61式戦車:変速機周りに問題があり、ギアチェンジに失敗するとシフトレバーが操縦手に襲いかかった。この戦車が下り坂に差し掛かったら近づかないようにと言われていた。日本版ヴァリアント。
- 74式戦車:陸上自衛隊の第二世代主力戦車。日本特有の山がちな地形に対応するため他国の戦車では採用例の少ない油気圧サスペンションを採用しており、前後左右に自在に車体を傾斜させられる。また、雲仙普賢岳の噴火では高い防御力や赤外線暗視装置を買われ戦車にもかかわらず災害派遣を経験している。
- 90式戦車:陸上自衛隊の第三世代主力戦車。セラミック複合装甲という日本得意のハイテクマジックで他国の第三世代主力戦車よりも10t近い軽量化を実現。因みに他国のセラミック装甲はセラミックが割れることで砲弾の威力を殺すが、90式の場合はガチガチに固めたセラミック装甲で砲弾そのものを殺す。これだけなら設計思想として常識の範疇だが、被弾するとその衝撃と熱で装甲の穴が埋まると言う戦車以前に兵器としておかしい能力を持つらしい。
- 10式戦車:74式の技術を取り入れて小型化・軽量化・多機能化した90式。ついでにお値段は更にお安くなっている。砲身の先にワインを注いだグラスを置いた状態で砲塔を旋回させてワインを一滴もこぼさなかったという規格外の安定性を誇る。豆腐の配達をさせる気か。詳しくはこちらを参照。
- 73式装甲車:浮上航行能力を持つ、陸上自衛隊の装甲車。ただし各部隊で行われた浮上航行実験では「沈没」という結果を数多く残してしまっており、実用性のない名ばかりの能力となってしまっている。
- 川崎 OH-1:陸上自衛隊の偵察ヘリコプター。日本版ブルーサンダーとも言える性能の機体。機首の角度が80度での急降下、宙返り、後ろ向き宙返り、バレルロールなどの変態飛行が可能。開発チームは優秀なヘリコプター開発者に送られる権威ある賞「ハワード・ヒューズ賞」をアメリカ以外で初めて受賞した。
- 62式機関銃:戦後初の国産機関銃。試行錯誤の結果通称「言うこと聞かん銃」「ない方がマシんガン」と呼ばれる駄っ作に。30口径の銃にしてはやたら細い銃身は、製造元の日特金属工業(現・住友重機械工業)が64式小銃を開発した豊和工業の助言を聞かなかったせいなんだとか。日本版L85、または和製ショーシャ。
- 9mm機関けん銃:歴史は繰り返す。
- 野外炊具1号:陸自の装備品の中でもっとも活躍した装備品の一つで、早い話が地震等の災害に被災者に暖かいご飯を提供する。被災者にとって、とても心強い存在であり、阪神・淡路大震災・中越地震・東日本大震災で大いに活躍した。近年さらに改良された1号改・2号では火力の調節が可能になり、煮る・焼く・蒸す・炊くなんでもござれの大規模万能調理機と化している。
- 野外入浴セット2型:陸上自衛隊が所有する装備の1つ。移動式の野外入浴設備。この装備が自衛隊に投入された切っ掛けは、日本航空機事故史上最悪の死傷者数を出したあの日本航空123便墜落事故に対する災害派遣である。この際、製作会社からボランティア提供を受け試用したところ、隊員の士気維持・向上に有効であったとされ、制式採用に至った。コチラも阪神・淡路大震災、中越地震、東日本大震災等の災害で水が断水していた地域において、大いに活躍している。風呂好きな日本ならではの装備であろう。
- 浄水セット 逆浸透型:陸上自衛隊の後方支援部隊に配備されている水道施設の無い場所での飲料水の造水を行う需品科装備である。前述の野外炊具1号や野外入浴セット2型、後述の野外手術システムと併せて使用すれば大きな相乗効果を発揮する。…つか野外炊具1号からここまで見ても、凄いというか力の入れどころを間違っているというか。
- 野外手術システム:…で、こんなもんが出来ちまった。名前の通り医療施設の無い場所での外科手術を行うことが出来るシステム。陸自に合計10基が配備されている。最大の特徴はこの設備はコンテナ化されており、通常は大型トラックに車載されて使用されるが、コンテナ部分を切り離すこともできる。災害支援やPKOでよく活用される。またおおすみ型輸送艦の甲板上に設置する事により、おおすみの医療設備を拡張し、病院船としての運用が可能な様になっている。
- 海上自衛隊:世界有数の錬度を誇る海軍(的組(ry。「(オートだとイージス)システムの反応が遅いんで手動にしていいですか?」と言う熟練乗員を抱える水上艦部隊に、演習中無音航行で米空母の真横に浮上する潜水艦隊となかなかのチート。カレーに対するこだわりは誰にも負けない。
- ひゅうが型及びいずも型護衛艦:書類上は「ヘリコプター搭載護衛艦(DDH)」。対潜ヘリコプターの運用が主な目的であるが、甲板を耐熱化することによりV-22オスプレイ、さらにはF-35B型の運用が可能・・・と他国から指摘されている。何をおっしゃる、経費削減のためにあらかじめ拡張性をもたせておくのは常識ですよ?
- 護衛艦「わかば」:あ・・・ありのまま かつて起こったことを話すぜ!「日本に『海上自衛隊』という形で海軍組織が再度設立されたと思ったら、沈没した旧海軍時代の船を引き上げた上でレストアして護衛艦として使っていた」・・・
- はるかぜ型護衛艦:戦後初の国産護衛艦。対潜水艦用にと、艦首に時代錯誤(?)の衝角(ラム)を装備していた。大戦中には実際に駆逐艦が潜水艦に衝突・撃沈した例もあり、原潜がまだ一般的でなかった時代には有効な手段であったかも知れないが、当然、実戦の経験も戦果もない。ちなみに、旧海軍は巡洋艦“春日”と“吉野”の不幸な衝突事故を契機に、世界に先駆けて衝角を廃止しており、何とも皮肉な“先祖返り”となった。
- 新明和 US-2:名機二式大艇の血脈を現代に受け継ぐ傑作飛行艇。メインエンジン4基の他に低速での失速を防ぐ境界域制御装置用の5つ目のエンジンを持ち、離陸・水距離290m、着陸・水距離300m、100km/h以下の超低速飛行が可能。一方で操縦のフライ・バイ・ワイヤー化、キャビンの与圧化によりさらに作戦遂行能力がアップ。2015年6月には着水限界を越える4mの波間に着水し、エンジンの故障に見舞われつつも被災者を救助。反重力装置でも積んでいるとしか思えないその飛び方に人々はうなる、「お前の飛び方はおかしい」と。
- 航空自衛隊:世界有数の練度を誇る空軍(的(ry。演習時にF-104やT-2でF-15をスコア的に撃墜した猛者が居たり、事故ではあるが世界で唯一物理的にF-15を撃墜しちゃったり(ただし同士討ち)など数々の伝説を持つ。
- 三菱F-1:戦後の日本で初めて開発された国産戦闘機……なのだが、退役するその日までチャフ・フレアといった自己防衛手段を一切装備していなかった。
- 三菱 F-2:日本版ブリティッシュファントム。と言ってもエンジンを積み替えただけのあちらとは魔改造のケタが違う。もともといろいろあってF-16ベースの日米共同開発になってしまったのだが、そこで終わらせないのが三菱の開発陣。エアインテークの形状を変更し(そら豆型のF-2のほうが効率が良いと本家に認めさせる)、各部の大型化による重量増加は各種複合素材の採用で抑え込み、対艦ミサイルを四発も積めるなど、航続距離がやや短めな以外は「パッと見の外観以外全てが違う」第4.5世代戦闘機水準の単発戦闘機として完成。今日も日本の空を翼をしならせながら飛ぶ。だがお値段が高い。高すぎる。
- 川崎 C-1:中型戦術輸送機。もとは日本飛行機製造(NAMC)に発注され、YS-11の後継機として旅客機転用も想定していたが、いろいろあって満載8t時の航続距離が1,500km(岐阜県を中心にすると、北は北海道、南は九州程度)という微妙な性能に。ただしカワサキ技術陣の変態魂あってか、ブルーインパルス顔負けの変態機動が取れる「動けるデブ」となった。その短距離離着陸性能はSTOL実験機飛鳥の開発と実機運用試験に遺憾なく発揮された。
- F-4EJ改:F-4ファントムの近代化改修の例は他国にも存在するが、魔改造に魔改造を重ね、本国アメリカのファントムライダーをして「こんなのファントムじゃねぇ」と言わしめるほどの性能向上を果たす。何より脅威なのは未だに現役なこと(まあ自衛隊の予算の都合もありやむを得ない面もあるのだが)。
- 川崎 C-2:で、上記C-1の後継機である「中型戦術輸送機」…のはずもこいつも「貨物搭載時の航続距離6000km程度」という要求事項がある上に「M0.8で民間航路を巡航可能」(旅客機のA340と同程度の速力)という項目まで加わっている。戦術輸送機とはなんだったのか。
- 自衛隊における『艦これ』パンデミック:従来から萌えに関しては特に航空機部門(空自と、陸自のヘリ部隊など)に重篤患者が多数確認されていたが、『艦隊これくしょん』がサービスインするとたちまちのうちに大蔓延。自衛艦動かしてる人たちが艦娘も動かしている。中には『艦これをやってる合間に仕事します』という変態(褒め言葉)も。なお、護衛艦はるさめには自衛艦の艤装をつけた艦娘春雨のイラストが駆逐艦春雨の写真の隣に飾られている。申請する方も申請する方だが許可する方も許可する方である。さらに、イージス護衛艦あたごが一般公開の際、艦娘愛宕のPOPを堂々と艦内に掲げたり、バルーンで揚げていた。ああ地方総監部は今日も平和です。・・・「てつのくじら館」の物販コーナーPOPに艦娘がいることくらいで驚いてはいけなかったということか。まあ大先輩からお墨付きもらっちゃってるし。
- 実際に飾られているイラスト
- 余談だが、2015年8月に行われたDDH184「かが」の進水式ならびに命名式に艦これ関係者を招待している。
- 実際に飾られているイラスト
- 自衛隊のイベント時における奇行の数々:軍事組織且つ公務員という点でお堅い人々と見られがちな自衛隊員であるがイベント時にはその印象をぶち壊すには十分すぎるほどの奇行を恒例行事と言わんばかりにやらかす。例を挙げれば原付バイクを改造して航空機風に仕立てあげた「ミニ航空機」シリーズ(しかも陸海空+ブルーインパルス全てがやらかしている)、子供に人気のアニソンを演奏する音楽隊、陸自の痛ヘリ、基地祭のBGMでアニメソング連発(特に新田原基地が有名)、ミサイルのスペック表記に「射程距離:よく飛ぶ」「発射数:いっぱい撃てる」「命中率:よく当たる」と書く、タイヤを3つ並べて「最新型ステルス機」と言い張る、護衛艦の装備に対する奇天烈な解説など。まあ海自の源流である帝国海軍は師がイギリスである上に「ユーモアを解せざる者は士官の資格なし」の伝統があったこと、陸自の源流の一つである帝国陸軍が手本としたドイツ陸軍の戦車部隊には「戦車乗りたる者ユーモアを理解すべし」の伝統がこれまた受け継がれていること、空自の師であるアメリカ空軍はいい意味でのノリの軽さに定評があるなどを考えればわからないでもないが。 …え?自衛隊に限らないだろって?
- 防衛省技術研究本部(TRDI):防衛省の研究開発部門。他国からすれば文字通りありえねーというしかない低予算で「今週のビックリドッキリメカ」を次々と生み出す。防衛版JAXA。DMHDといいDARPAといい、研究開発をするところにはどこも頭おかしい(褒め言葉)連中が集まるのかもしれない……彼らを支えるのは秋葉原と国内の優れた民生品でもある。
- 球形飛行体-:上記TRDIが生み出した「リアルあんなもの」。二重反転プロペラで無いが、カウンタートルクはセンサーと動翼で打ち消す、壁に張り付く、転がって移動する、急停止・急発進する。部品調達はほぼ全て秋葉原の電気街で、お値段は7台で11万円なんだとか。
- 前線装備の強さにこだわるあまり、後方を軽視する姿勢:流石に旧軍時代よりはいくらかマシにはなったものの、最新技術の粋を尽くした戦車や護衛艦や戦闘機などを配備する傍ら、基地の警備に最新小銃が行きわたっていなかったり、旧軍時代に建てられたオンボロ兵舎が未だに使用されていたり、全力で戦うとすぐに底を付いてしまう程度しか燃料・弾薬の備蓄がなかったりと、完治したとは言い難い状態が今なお続いている。ただし、これは兵器の運用コスト増大に伴い日本以外でもアメリカ以外のほぼすべての国が(症状の軽い重いはあれど)同じ症状を患っており、アメリカ軍との共同作戦やアメリカ合衆国と安全保障上の利害を一致させている国は、補給はアメリカ軍頼みと言うところがほとんどである。また中国もガチで対日戦をやった場合、戦略核を使用しないことを前提とすると、極東方面の消耗品は自衛隊より先に尽きるとすら言われている(他部隊から引っこ抜くことも物理的には可能ではあるのだが、その瞬間ベトナムやインドにボコボコにされる可能性が高い)。韓国は元より論外。軍事物資に関してだけ言えば北朝鮮の方がマシとすらも。
交通部門【日本国有鉄道編】
- D52形蒸気機関車:国鉄史上最大の貨物用蒸気機関車……なのだが、深刻な材料不足に見舞われた第二次大戦中の新製だったため、炭水車側板その他の木製化やボイラーの簡易化、果ては軸重確保のためにコンクリート塊を積む等され、案の定爆発事故等を続発させてしまった。戦後はこれらの問題点も改良され、一部は足回りを履き替え旅客用のC62形に生まれ変わることになる。
- 8620形蒸気機関車58654号機:英国面で紹介したダージリン・ヒマラヤ鉄道は、現在保存鉄道として、鉄道線路そのものも含めて保存されているが、それとどっこいの歴史を持ちつつ、現代の電車・気動車と同じ線路上を営業運転する資格を持っているおそらく世界最古の機関車(1922年製、全ての空母の母の同級生である)。2005年に台枠の変形により一度静態保存となるが、JR九州は将来の復活の可能性を信じて除籍を行わなかった。その後の調査により奇跡的にも日立製作所になんと製造時の図面があることが判明し、静態化から約2年後の2007年、台枠の新製とボイラー修繕を施された58654号機は復活を遂げた・因みに日本も復活蒸気で台枠を再度新製したのは58654号機と次項のC57-1号機だけである。なお、JR化後の初回復活時にテンダーとボイラーを新造し、2度目の復活時に台枠を新造しているので元の部品のほうが少ない。
- C57形蒸気機関車1号機:日本鉄道界の異能生存体。落成こそ1937年と上記の58654号機より15年若いが、「1945年、宇都宮機関区在籍時に空襲に遭遇し機銃掃射を受け損傷」「1961年、羽越本線で急行『日本海』を牽引中に土砂崩壊現場に突入して脱線転覆大破。しかも現場に2か月以上放置されたにも関わらず、長野工場(現在のJR東日本長野総合車両センター)で5か月にも及ぶ修復を受けて奇跡の復活」「1976年、梅小路蒸気機関車館で保存されている蒸気機関車の定期検査を担当していた長野工場の検査打ち切リや、京都駅-大阪駅間で発生した京阪100年号事故で、国鉄における蒸気機関車の動態保存自体が危機に陥るものの、当時の高木文雄国鉄総裁の英断で継続が決まる」「1995年、検査のためJR西日本鷹取工場に入場中阪神・淡路大震災に遭遇。ジャッキ上にあったため転落、ボイラーをはじめ、いたる所が大きく損傷したが、同工場の努力によりすべて修復」と、いつ廃車になってもおかしくない事態に遭遇しながらも切り抜け、お召し列車の牽引やSLやまぐち号などで活躍を続ける。21世紀に入ってからは、2005年末から2006年4月まで改修工事で寿命を25年伸ばす修繕工事、2009年に炭水車の車体新製、2009年末から2010年4月までボイラーその物の改修(煙室管板と火室管板そのものの新製交換)、2013年9月から2014年6月まで台枠の一部やシリンダなど走行の要となる足回りでもいくつかの部品の新製が実施された。この事により新製から現在まで見て、一部のファンからはC57- 202号機(C57は201号機まで製造)と呼ばれている。ちなみに製造元は川崎車輛。カワサキか…。
- EF13形電気機関車:上記D52の電機版。徹底的な簡素化と鋼材の節約のため、凸型の車体になったのが最大の特徴。もちろんこちらも死重としてコンクリートを積んだことから「木とセメントで作った機関車」と呼ばれた。それまで製造されていたEF12並の性能をもつと言われたが、実際は粗悪な構造のためにそれ以前のEF10と同じ程度だったそう。しかも戦中のゴタゴタで完成したのは7両だけ。しかし戦後も製造は続き、安全化改良と並行しつつ最終的には31両が作られた。後に数や寸法が一致していたEF58の旧車体を(機器ごと)御下がりを貰って箱型ボディになり、貨物・旅客双方での運用はもちろん、0系新幹線電車の甲種輸送でも活躍し、1979年まで使われた。
- EF55形電気機関車:1936年に日立製作所、日本車輌製造・東洋電機、川崎造船所・川崎車両で1両ずつ、計3両が製造された。当時、世界的な流線型ブーム中で生まれた機関車の為、この機関車も流線型の車体形状を採用し、ギア比も高速寄りに設定された。ただし、流線型先頭部は第1エンド側のみであり、第2エンド側は構内運転程度の運転台設備しかなく、当初は前照灯すら無かった。しかも、C53型43号機やC55型流線型グループと同じく流線型カバーが邪魔で整備し難いという問題が発生し、わずか3両で製造を打ち切られた。その後、第2エンド側も本線運用が可能する改良がされて、東海道線でつばめや富士と言った特急列車の牽引などをEF58と共に活躍し、1955年にはEH10形とともに東海道本線で120km/h運転の試験に供されたほか、碓氷峠の空転試験列車やED71形の性能試験時に死重として連結されたこともある。1960年代以降、3号機は1962年に試作交直流両用電気機関車のED30形(ED30-1)に機器流用される形で廃車となり、残る2両も1964年に廃車され、2号機はそのまま解体、1号機は中央鉄道学園の教習用となった。その後、1号機は1978年に準鉄道記念物に指定、1986年には大宮工場で動態復元され、数々のイベント列車や団体臨時列車をけん引する等活躍したが、保守部品の確保が難しくなった為に2008年にさよなら運転を行い静態保存に移行した(静態保存に移行した後も車籍は残った)。そして静態保存が始まって9年後の2015年1月に鉄道博物館での展示が決定され、2015年4月12日から公開された。
- EF58形電気機関車:EF52に始まる戦前型国鉄電機の決定版。当初は戦後すぐの無い無い尽くしの状況で作られた、EF57の廉価版といったところでD52や63系、EF13同様評判は悪かったが、製造された1号機から30号機までは通常のデッキ付き機関車として登場したが、途中で(31号機以降)車体を半流線型の新型車体に乗せ換える等と言った改良が加えられた結果どう考えても別の形式だろコレと言わんばかりの姿となり、日本電気機関車史に燦然と輝く存在にまで上り詰めた。ついでに言うと、初期型も大半は改設計後の姿に魔改造されている。因みに初期型が品質が極めて粗悪だったために一時は製造中止措置や使用中止命令が出された時期があり、その為製造が一旦凍結になった時点で既に4両が完成状態であったため、国鉄は他メーカーで未着工であった3両分を東芝に肩代わりさせ、31号機のみ増備車として引き取っている。また東芝デッドストック状態となった5両分の車体が後にEF18の32~34号機とEF58の35~36号機に転用された。しかし英国紳士も裸足で逃げ出す日本鉄道史においてこの程度はそんなに"変"というわけでもないのだが、問題は技術的にはこの後革新的な発展を遂げたにもかかわらず、性能面では1958年の製造終了から1985年まで、特急旅客列車用の後継機が実質出現しなかったことである。
- EF66形電気機関車:他国では重量級の貨物列車を牽引する際に重連(機関車2両以上)とすることは珍しくないのだが、日本の国鉄陣はEF65形重連で始まった特急貨物列車が「出力、消費電力が大き過ぎる」と気にいらなかったようで、単機で同等の重量の列車を同等の速度で牽引できる当時の狂気……もとい狭軌最大にして標準軌の海外ですらそんな怪物はいないというモンスター電機として開発が始まった。それ以前にもEH10形のような2車体永久連結の貨物用大型機関車はあったのだが、貨車一両分の長さが無駄、保守が面倒と、現場ではイマイチ不評だったという側面もあったらしく、「何が何でもF級(動軸数6)1両に収めるんだぁい」ってなことで、当時国鉄がファンから酷評されてまで固執し続けていた"標準化思想"を一切ぶん投げて実用化された…ここまで述べた通り、当初は高速貨物用として開発され、1969年の量産開始以降、長年それに専従していたが、1985年に東海道ブルトレの一部がロビーカー連結の為、下関機関区受け持ちの列車に充当開始。ようやくEF58先輩の肩の荷が下りました。…そして、結局最後の東海道ブルトレ牽引機となってしまった。
- EF67形電気機関車:勾配区間が連続する山陽本線瀬野-八本松間の補機専用として、EF60形、EF65形から改造された電気機関車。電気機関車では一般的ではない電気子チョッパ制御を採用。EF60改造の車両は新性能電気機関車なのに旧型電機張りのデッキがついている。EF65改造の車両はパンタグラフをシングルアーム式に変えられるも不具合で戻される。
- DD54形ディーゼル機関車:西ドイツ・マイバッハ社設計の純正品エンジン・変速機を載せた試作機は好調だったが、量産化カスタマイズで(国鉄技術陣とライセンスを受けた三菱重工業が)やらかしたために落っことした推進軸が線路に刺さって棒高跳びよろしく脱線してしまう等の事故・故障を繰り返し超短命(最短で新製から廃車まで4年10ヶ月)に終わった。保存車は一台残っているが、これは証拠保全の為に確保されたという(異説あり)。
- DD53形ディーゼル機関車(ロータリー除雪機関車):幹線用ディーゼル機関車の全出力(2200ps)をロータリーヘッドに回せるというキ○ガイ除雪車。沿線の雨戸をぶち破ったり植木をなぎ倒したりは日常茶飯事、中には家の中のピアノを壊したという都市伝説まである。
- ジェット除雪車:国鉄苗穂工場の生んだ秘密兵器の一つ。日本版Progvev-T。ジェットエンジンの噴射で雪を吹き飛ばすという素敵マスィン。雪と一緒にバラストなども豪快に吹き飛ばしてしまうためにお蔵入り。と、いうかそもそも前段階のDD53で充分おかしいのだが。
- 63系/72系/101系/103系電車:国鉄通勤形電車の系譜。63系はD52やEF13同様戦時中または終戦直後の新製で、窓ガラス節約のため3段窓採用、電装品は粗悪な代用品、車内を見れば天井は骨組み丸出しで照明は白熱電球だけ、座席は戸袋部分以外省略というもはやバラックもしくは有蓋車レベルに。桜木町事故をきっかけに72系へ更新され、101系/103系導入後も80年代まで活躍。さらに荷物電車となっていたものがJR化後に再旅客化され(後述のクモハ84)1996年まで活躍したほか、改造で車体を103系並にした後、電装品も交換して完全に103系化した車両が2005年まで活躍。しかもJR東日本保有の103系としては比較的後年まで残ったグループだった。101系は「新性能電車」のはしりとなった車種で、72系では輸送力の限界に達していた中央線快速に投入する目的で開発。全電動車方式で高加速性能を得るはずが消費電流が大きすぎ(元祖変電所殺し)加速力を抑えて運転、結果72系と変わらない状態になった末附随車を挿入してグレードダウンするハメに。しかも本来予定されていなかった山手線にも投入され、こっちではオーバースペックとなってしまった。この反省のもとに作られたのが103系で、駅間距離が短い区間向けに高減速性能を重視する一方、変電所にも優しいスペックとなった。技術的には登場時すでに時流遅れになりつつあったもの(※大手私鉄では1970年代以降普通鋼車体・抵抗制御の電車は減っていく)が、国鉄の経営難や標準化の過剰な推進による技術の停滞などさまざまなしがらみを理由として1980年代まで製造。国鉄の硬直体質の象徴とされた。しかし駅間距離の長短を問わないこと(京阪神緩行線、常磐線)、快速運転にも耐えられること(阪和線)なども大量生産の理由であった(ただし、これらいずれの線区も定格速度の高い101系への“逆置き換え”が検討されている)。いずれにせよ、63系から103系に至る「20m4扉通勤形電車」の系譜は、国鉄のみならず民鉄を含む太平洋戦争後の日本製通勤電車の雛形となった。
- 0系新幹線電車:元祖新幹線車両。全く未経験の新技術はひとつも採用されていない。こちらも103系同様非常に長い期間増備が続き、一部では0系で0系を置き換えるという事態も発生。
- 583系電車:「増発したいけど車庫が足らないし車両新製にも費用がかさむ」→「じゃあ昼も夜も走れるようにすればいいじゃん。寝台と座席両方使えればもっといいよね!」で本当に作られた世界初にして唯一(多分今後も)の昼夜兼用寝台特急電車。さすがに中途半端な装備になったことや酷使による老朽化等で比較的短期間で転用されることに…(この詳細は次項) だがそれらがJR化後の適正化措置により新車や国鉄型でも本来の近郊型へと置き換えられていく中、オリジナルの583系の方は寝台車の主流である客車にはない安定した走行性能を買われて定期列車仕業(「きたぐに」)を与えられ、ついでに時たま臨時「雷鳥」もこなしながら結局格下げ改造組より遅くまで活躍してしまった。そのコンセプト全てと言うわけにはいかなかったが、一応285系という後継者はいる(こちらは夜行特化で、昼行運用は考慮していない)。
- 419系電車・715系電車:そして583系の再就職先はまさかの近郊型転用改造だった。昭和50年代末期の国鉄の累積赤字故に新車を購入できないことから苦肉の策として採られ、JR移行後も特に419系は21世紀まで活躍を続け(てしまっ)た。利用者の評価は元特急形ゆえに扉が狭く(1扉から2扉に増設されたが増設側もなぜか同じサイズ)乗降性が悪かったりラッシュ時につめこみが効かなかったりと悪評がある半面、車内は最低限の改造だった為そのまま使用されたクロスシートの座り心地がいいとか元寝台車由来で屋根が高く開放感があることなどいい評価も多く、賛否両論の存在だった。
- 123系電車(クモハ123形):国鉄分割民営化直前に本州各地のローカル線にばらまかれた荷物電車改造の単行旅客電車。ちなみにこの形式が誕生した理由としては、国鉄時代は「地方路線の車両は大都市圏のお下がり」というのが通例であり、新製車両など予算が下りなかったので「荷物電車からの改造車だから文句ないだろ」と「JRに負担を押し付けないための車両だ」と言いはって、ある意味での「抜け穴」を使って新型車をローカル線に送り込むためである。とどのつまりが電車版リライアント・ロビン。
- キハ181系気動車:単線・非電化・山岳区間を走る特急列車のために作られた気動車。「東北本線を120Km/hでぶっ飛ばした後板谷峠を無補機で登坂する」という、電車を超える性能を目指している時点ですでにおかしい。結論から言うとスペックとしてはおおむね達成できたが、エンジンの信頼性に問題があり一時期は失敗作扱い(ちなみに板谷峠も結局補機の応援を仰いでいる)され、製造数も国鉄形式としては少数派だった。しかしなんのかんのとJR化後もかなりの間生き残り、最後は己の性能を最大限発揮できる「はまかぜ」の運用を最後に2011年その歴史に幕を閉じた。
- キハ07 901:ガスタービン気動車の実証用の車両…なのだが、その実態は旧型気動車のキハ07に1000馬力超のガスタービンエンジンをぶち込み、キハ181の台車を履いたため車体高が妙に高くなったという○チガイ車両。立案したやつ絶対抹茶に紅茶ブチ込んで飲んでただろ! ちなみにキハ07は茶筒型の前面が特徴だが、この車はどう見てもDD54です。本当にありがとうございました。
- クモヤ93:当時の狂気…いや狭軌最速の175km/hを叩きだした旧型国電。原型は何の変哲もないモハ40平妻車体だったのが、流転の末超アグレッシブな外観と性能を持つモンスターマシンと化した。ちなみに本職は架線試験車です。
- 591系:国鉄が試作した高速試験用の交流直流両用電車.曲線区間の高速化を目指し、自然振り子式車体傾斜車両の試験車として製作された。当初は3車体4台車1両扱いの連接車両の591型として登場したが、連接台車の不具合で連接車からボギー車2両連結に改造された(この改造時に形式も591系に改められ2車体4台車2両扱いとなった)…のだが、その改造方法が何と鋼鉄車体にアルミ車体をボルトと繋ぐと言う魔改造。
- キハ391系:国鉄が試作したガスタービン動力の高速試験気動車。運転台部分のみが持ち上げられ、先頭車と中間車との連結面側が宙に浮いているように見える独特な形状の車体。また国鉄の営業車では前例のない動力集中型でもあった。ガスタービン車の例に漏れず騒音と高燃費を克服できず試作車止まり。
- 東海道新幹線:弾丸列車計画での用地確保分があったとはいえ着工から5年半で開業にこぎつけてしまった世界初の200km/h超の高速鉄道。これが東京駅基準で最短4分間隔という、通勤電車顔負けの間隔で走り回る。
- 相模線:神奈川県を縦断する鉄道路線で茅ヶ崎-橋本間を結ぶあらゆる意味で不条理な路線。横浜線・京王相模原線・小田急小田原線・東海道本線という幹線路線を結ぶ路線にもかかわらず単線のローカル線である。事実上の相模線専用仕様車として運行している205系500番台は首都圏、そして寒冷地でないにもかかわらず乗客がボタンを押して乗降扉を開閉するという奇っ怪な仕様でその筋ではとても有名。(※ただし近年のJR東日本近郊向け一般形電車では標準仕様化しているが…)
交通部門【JRグループ編】
- EF200形電気機関車(JR貨物):変電所殺し再び。線路や変電所を有する旅客鉄道会社との調整も頓挫し、現在は出力カットされている。ちなみにローレル賞受賞車。
- EF500形電気機関車(JR貨物):EF200とは兄弟機(新製時期がEF200とほぼ同時期)にあたるが、コチラも変電所殺しぶりを発揮した上に、インバータから発せられる高調波対策に手こずった結果、なんだかんだ量産されたEF200とは違ってこちらは量産されずに2年ほど試験運用の後、保留車となり2002年に廃車された。現在はJR貨物広島車両所にて保管されており、同運転所開催されるイベント等で展示されている。
- E351系電車(JR東日本):制御付き振り子式台車により曲線通過速度本則+40km/h、高速回転型モーターにより最高速度160km/hという"全部入り"を狙ったが、(最高速度に関してはどちらかと言えば中央東線という環境的な要因が大きいものの)尽く失敗してしまったある意味JR東日本版APTと言えるかもしれない車両。
- 209系/E231系/E233系電車(JR東日本):JRグループの中でも特に国鉄通勤型の系譜を強く受け継ぐJR東日本の通勤型電車シリーズ。故についたあだ名が「走ルンです」。京浜東北線で故障で救急搬送車まで出したのもご愛嬌。
- E331系電車(JR東日本):京葉線に投入された、自社所有の営業車両としてはJR初(国鉄時代も前例無し)の連接車体採用車両である。しかし、その慣れない特性故に故障が多発し、極めて異例なメーカー送り返しによる修理を受けた。だが、それでも完全復活とはならず、車庫の肥やし状態となっていたが、ついに重機のエサとなってしまった。
- 113系3800番台電車(JR西日本):福知山線・山陰本線にかつて存在した秘密兵器、もとい改造車両。113系の中間車を無理やり先頭車に(超低コストで)改造したため非常に独特な前面となった。ちなみに似たような例としてキハ41-2000(JR西日本)、783系改造先頭車(JR九州)などもある。なお783系以外は国鉄形式だが、すべてJR化後の改造。
- クモハ84形電車:前代未聞のJR時代に生まれた旧型国電。何を言ってるのかわからねーとおもうが(ry一言で言えば上記123系の旧性能版。詳細は個別記事で。
- 2000系気動車(JR四国):HSTで非電化高速列車に先鞭をつけられ、キハ181系先輩の顔に泥を塗った日本鉄道技術陣の逆襲。APTの失敗をよそに振り子式を採用し成功を収める。
- キハ141系気動車(JR北海道):利用客が伸び続けている札沼線に新車を投入するだけの予算がなかったJR北海道苗穂工場が、国鉄時代のキハ08系・キハ09系(初代キハ40系・キハ45系)以来27年ぶりに作り出した「客車改造の気動車(Passenger Diesel Car)」。余剰となっていた客車に旧型気動車の廃車発生品を組み合わせて気動車にでっち上げるという超低コスト設計は1950年代にも試みられたが、種車の重量ととエンジンパワーのミスマッチもあって失敗作ばかりだった。しかし本形式は「軽量客車+新世代軽量高回転エンジン」の組み合わせが功を奏し大成功。札沼線の電化と共に引退するかと思ったら電化路線(室蘭本線室蘭-苫小牧間)の普通列車として電車を追い出したり、本州に渡り蒸気機関車に客車兼補助機関車として連結されるなど、第一線を退いてからも話題に事欠かない。しかも上野駅までやって来やがった。
- ED500形電気機関車(日立製作所):1992年にJR貨物向けとして日立製作所が設計・提案したとされる交直流電気機関車。顔形状はEF200と同じであるが車体の長さは形式が示す通り、台車が2(車輪数4=D)で外部塗色はブラック系メタリック、運転室側扉は赤色、床下機器は黒色となっている。1994年末頃まで主に試験運用に使われたが、結局量されずに現在は一部機器を取り外した上で日立製作所水戸工場に保管されている。因みにこれ以後、日立製作所は電気機関車自体を製造していない。
- キハ285系気動車(JR北海道):幻の次世代特急型気動車。車体傾斜装置と制御振り子装置を合体させた複合車体傾斜システムを搭載した台車や、キハ160系で試験したMA式ハイブリッド駆動システムを搭載した気動車だったが、この車両が開発されて製造されている段階でJR北海道は石北線の車両火災事故を切っ掛けに、同様のエンジン火災や保守の慢性的に疎かになってた事による線路歪み、そしてそれによる貨物列車の脱線事故が発生し、結果としてスピード重視から安全性重視に方針転換せざるを得なくなった為、この試作車の開発中止を決定した。しかしこの開発発表がなされた時点で既に試作車3両が完成した状態で納車待ちの段階だった。その後JR北海道に甲種輸送され、今後のこの車両を総合試験車に改造してマヤ34の置き換えに当たるかどうか検討中である
交通部門【民鉄編】
- 定鉄2300形:かつて札幌市に存在した私鉄、定山渓鉄道で用いられていた電車。涼しい北国で使うんだから別にいいよね、という北国の夏を甘く見過ぎた考えの下、非冷房かつ固定窓という狂気の仕様になったため、夏は車内が温室と化し、あまりの暑さに嘔吐する乗客が続出。飛行機でもないのに車内にエチケット袋が常備される有様であり、「ゲロ電」という蔑称で呼ばれた。この車両が導入されてから5年後に定山渓鉄道は廃線になったが、こんな車両を欲しがる他の会社など存在するはずもなく、全ての車両が廃車となった。
- 東武8000系:私鉄版103系の異名を持つ東武鉄道の通勤型電車。103系同様長期間に渡り増備が続き、その結果5桁の番台区分の車両が登場するまでに至る。また設計や仕様も、鋼製車としては異常なまでの軽量化が進められた設計、それに伴い(車体強度を確保するため)戸袋窓を省略しまた空気バネ台車を採用する、一部の車両には旧性能電車に搭載されたような旧型コンプレッサーが装備されている、電気ブレーキを省略しているなどよく見るとどことなく紅茶の香りが漂う車両でもある。
- 筑波鉄道(初代)ナハフ100形・ナロハ200形:会社自体は極普通の地方私鉄…と思ったら、将来的には電化を見越しており車両(客車)も電車に改造することが可能な設計をされていた。この電化は近くに地磁気観測所が存在する事により実現しなかったが、後に三河鉄道(現名鉄三河線)・阪和電鉄(現JR阪和線)に移籍した車両が実際に電車に改造された。
- 京阪5000系:国鉄63系に始まる「20m4扉通勤車」が達した一つの極点。何と1編成全車片側5扉。後にJRや東急が、さらにイった6扉車を投入するが、さすがに1編成の一部車両に組み込むに留めている。ちなみにラッシュ時以外には2番目と4番目の扉を締切り、天井に収納されているシートを降ろし3扉車として運用する。
- 京阪60形:愛称「びわこ」。日本初の連接車なのだが、性格の異なる二つの路線(高速鉄道である京阪線と路面電車である京津線)を直通運転するため高床ステップと低床ステップの乗降口両方を備えたり、パンタグラフ(京阪線用)とトロリーポール(京津線用)を両方装備するなどある意味変態的な車両。残念ながら当初の目的であった大阪天満橋~浜大津間の直通運転に使われた期間は短かったが、末期は京津線や石山坂本線で運用されていた。現在1両のみ京阪電鉄寝屋川車両工場に保存。
- 京阪80形:京津線各駅停車用として製造された路面電車なのだが、沿線の急勾配対策のため吊り掛け駆動ながら回生ブレーキや定速度制御機能を備え「吊り掛け駆動車=旧性能車」と言う概念をブチ破った稀有な車両。1997年の京都市営地下鉄東西線乗り入れによる京津線の一部区間廃止と架線電圧昇圧により全車両引退となった。
- 京浜急行電鉄:乗り入れ各社の車両(しかも地下鉄対応)に対し変態的な加速度と最高速度を要求したり、ダイヤが乱れた際の「逝っとけダイヤ」発動など乗り入れ各社を巻き込んで色々やらかす。
- 近江鉄道:鉄道界のブリストル自動車。「魔改造と車籍流用が特技」と言われるとおり、旧型車を原型を留めないほどにビックリドッキリ魔改造をすることで定評がある。
- 阪神電気鉄道:日本初の都市間電気鉄道。開業当時、軌道条例により路面電車の扱いであったが、並走する官営鉄道に対抗するため一部区間を専用軌道にしたり速度制限(軌道条例での速度制限は時速8マイル。後に25マイルに変更)無視の常習犯であった。今では軌間は同じでも車体規格が全く異なる近鉄線に乗り入れている。しかも車体規格が大きい近鉄の車両も規格の小さい阪神線に乗り入れる相互乗り入れである。さらに、変態的な加減速度を持つ各駅停車専用車両を有する。
- 軽便鉄道:規格を低くして、低コストで建設された簡易な鉄道。日本では一般に軌間が国鉄在来線(1067mm)よりも狭い鉄道を指し、広義には森林鉄道や鉱山鉄道も含まれる。モータリゼーションに押されて廃線が相次ぎ、今では数えるほどしか残っていないが、かつては小規模、あるいは零細な事業主が多かったため、より個性的な路線(きれいな言い方)も少なくなかった。
- 草軽電気鉄道:今は無き日本版ダージリン・ヒマラヤ鉄道。ダージリン・ヒマラヤ鉄道と同じくコストを抑えるためにトンネルを一切掘らず、地形に沿ったりスイッチバックで山越えをしていた紳士の鉄道。
- 朝倉軌道:かつて九州に実在した「届出なんぞ飾りです」な軽便鉄道。無届けで客車を両方向とも流線形のガソリンカーに改造する程度の能力。
- 根室拓殖鉄道:かつて北海道に存在した軽便鉄道にして、日本史上最も東を走っていた鉄道会社。出所不明で車籍もない機関車を使っていたり、導入した車両を国の許可が下りる前から使っていたり、4両の貨車を真っ二つにして8両にしたり、乗客が増えた時は貨車に乗客を乗せたりと、先述の朝倉軌道に負けず劣らずのフリーダムな逸話がある。
- 銀龍号:上記の根室拓殖鉄道で使用されていたガソリンカー。走るバラック建築。ありのまま当時起こった事を話すと、元々はキャブオーバーのトラック型をした貨物用ガソリンカー(と言いつつ、当初はガソリンではなく、木炭ガスで走ってた)だったところ、前後のバランスが悪く頻繁に脱線したため、とってつけたような、というかとってつけた不細工なボンネットにエンジンを突き出して無理矢理バランス調整。さらに貨物輸送の需要が無くなったために旅客用に改造。荷台のあった部分に、近所の大工に作らせた、運転室と全然サイズの合わない客室をポン付けするというアバウト極まりない改造をしたために、ボンネット、運転室、客室の3ボックスが全く釣り合っていないという、非常に独創的な外見(きれいな言い方)となった。さらに恐ろしいことに、1959年の同線廃線まで現役だった……orz。
交通部門【地方公営鉄道編】
- 東京都交通局10-000形電車:快速運転を行う都営新宿線のために製造された、主電動機出力165kW、最高時速120km/h・起動加速度3.3km/h/sの性能を持つ怪力地下鉄用電車。しかも誘導障害を懸念して1997年の時点で尚チョッパ制御で最終編成がロールアウトしたというおまけ付き。
- 東京都交通局5300形電車:こちらも主電動機出力165kW、最高速110km/h・起動加速度3.3km/h/sの地下鉄用電車。ついたあだ名が「交通局の白い悪魔」。新宿線と異なりそれを要求するどころか許容する線区など1mたりとも存在しない浅草線用に製造された理由は「京急のせい」ですべて説明がつく。
交通部門【自動車:軽自動車編】
- そもそも日本の軽自動車自体が変態!
もともと軽自動車というのは第二次大戦後の一時的な不況に悩んでいた西欧諸国同様、キャビンスクーターのような簡素な自動車(メッサーシュミット KR200が代表例。リライアント・ロビンはこっち側)をつくるための規格だった。ただ、ご本家英国などとは異なって日本では当初から4輪が認められており、それに目をつけて本格的乗用車の要素を押し込んだ変態企業がいたからさぁ大変。その会社が出したスバル360の成功後、他国で本来の目的のクラスが淘汰廃止されていく中、日本の軽自動車は独特な規格として生き残っている。
以下には一部の代表例を上げたが、そもそも世界的に見れば
・660cc(かつては360cc)という大型オートバイぐらいしかない排気量のエンジンで、
・4人(=220kg)+荷物100kg=320kg、軽トラなら2人+350kg=460kgまでの積載に耐え、
・エアコンはもとよりオーディオ/カーナビ、リモコンキー、パワーウィンドーにデュアルエアバッグは当たり前。
・機種によってはパワースライドドアやヒルスタートアシスト、衝突被害軽減ブレーキも装備。
・ハイウェイで100km/hクルージングだって当たり前にこなす。
・それでいてハッチバックタイプならお値段は100万円切っちゃう。
……こんな仕様、海外から見ればド変態としか言いようがないだろう。
値段に関して2010年代の実例においてもっとも極端な例を挙げるとするならば、エアコン付で60万円を切ってしまった(MT車・本体価格)三菱・ミニカ(バン仕様)がある。
また2014年末にデビューしたスズキ・アルトにはおおよそいまどきの乗用車に求められる装備にレーダーブレーキサポート(RBS。衝突被害軽減ブレーキの一種)まで付けて90万円を切るグレードもある。しかもバンにもRBSを付けやがった。
- スバル360:日本版リライアント・ロビン…というか「てんとう虫」という愛称が有名か。「(当時国道ですら未舗装がほとんどだった)日本の道路で60km/hで巡航できること」「定員は大人4人」「車両本体価格35万円以下(実際の発売時は42.5万円)」という、当時の日本ではワンクラス上の大きさでも難しいというシビアな条件に開発は難航したが、開発リーダーの百瀬晋六(上記の紫電改に搭載されたエンジン「誉」開発スタッフの一人)が「できネーというのはやる気がネー証拠だ!!」と一喝、数々の困難を乗り越えて実現した。
- MAZDA AZ-1:軽自動車規格で作られた本格的スポーツカー。「KカースポーツABC」のA。乗用車としては疑問が残る点が幾つかあるものの、運動性能に関しては「未体験ハンドリングマシーン」のキャッチコピー通りスーパーカーに近い。スズキにも「CARA」としてOEMされていた。なんとこの車、モーターショーで発表された当時はフレームはアルミ角パイプ製、車重480kgと生産モデルの6割程度の軽さで記者を大いに驚かせた。しかも生産モデルはモノコックフレームを溶接する技術でパイプフレームを組んでしまうという変t・・・ゲフンゲフン、驚異の技術を駆使し製品化。マツダ頑張りすぎ。
- HONDABEAT:軽自動車規格で作られた本格的ミドシップのオープンカー。「KカースポーツABC」のB。ホンダが意地を見せたのか過給器無しで自主規制値いっぱいの64馬力を発揮するエンジンを運転席背後に搭載、キュートなデザインの車体と意外に本格的なセッティングで「S600の再来」と大人気。なにせあのジェレミーが大はしゃぎでレビューするほど。本家に認められるとは・・・・やりおる。
- SUZUKI アルト:コストダウンのため徹底的な装備の簡略化。にとどまらず当時乗用車には物品税が課税されていたが貨物車は非課税だったため乗用ユーザー向けなのに「どうせ2人しか乗らないから」と後部座席をオマケ程度にし荷室を確保、貨物車として物品税を非課税にした。結果、他社も真似し軽ボンネットバンというカテゴリを確立した。ある意味こちらも日本版リライアント・ロビン。
- SUZUKI カプチーノ:軽自動車規格で作られた本格的FRライトウェイトオープンスポーツカー。「KカースポーツABC」のC。スズキが持てる総力を振り絞り4輪ダブルウィッシュボーンサスペンション、軽量化のためのアルミ製ハードトップとボンネット、さらに同社のホットモデルに積まれていた3気筒ターボエンジンに軽トラック・キャリィ用のミッションを組み合わせFR化、コーナリング時のトラクションを稼ぐために特注したトルクセンシング式のディファレンシャルギアもオプションで用意。そしてお値段は驚異の1458000円。スズキに限った話ではないがなぜそこまで軽規格にこだわる。この経験でさすがに懲りたのか、現在はケーターハム社にエンジン・ミッション・リアアクスルを提供するにとどめている。
- SUZUKI ジムニー:軽自動車規格で作られたガチの本格悪路用4WD。元々は上記くろがね同様泡沫オート三輪メーカー、ホープ自動車が、オート三輪の斜陽時代に生き残りをかけて開発し……間に合わなかったホープスターON 4WD(一般には未発売)を前身とする。その後ホープの自動車事業撤退に際してスズキの鈴木修社長(元々銀行マンでメカの造形はない)が「絶対にスズキで引き取る」と社内の猛反対を押し切って製造権を取得し、スズキで全面再設計の後LJ10型ジムニーとして発売された。また2代目第1期のSJ30型は「西側先進国最後のクランクケース圧縮型2ストロークエンジン搭載市販4輪車」のタイトルを持つ。
- ホンダ T360:ホンダ初の市販四輪車。他メーカーが理論上出力で有利な2ストロークで20馬力程度が限度だった時代に、理論上不利な4ストロークなのに同社のスポーツカー譲りの技術をつぎ込むことで30馬力を達成した。また市販車では日本初のDOHC搭載車でもある。ここまでだと何だかすごそうな車に聞こえるが軽トラックである。
- ダイハツ コペン:一部の高級車にしか装備されてなかった電動ハードトップを軽のサイズと価格で実現してしまった変態軽オープン。以降のオープンカーからソフトトップをほぼ駆逐した。なお駆動方式こそFFと平凡なため上記ABCと違いなんちゃってスポーツに見られがちだが、CarTop誌インプレッションの定番である筑波サーキットタイムアタックではS15シルビアのケツに食いつくガチ性能を発揮(しかも重量のある電動トップ車で)。
交通部門【自動車:バイク編】
- ホンダ CX500turbo:バイクメーカーが何かにとり憑かれてしまったのは別にアメリカだけではない。4輪でターボブームが巻き起こった80年代、バイクでもその動きがあった。その結果がこれである。ちなみにこの後を追うようにヤマハやSUZUKI、KAWASAKIもターボバイクを出しているが、構造上アクセル開放から過給までのターボラグが消せないため市場からすぐに姿を消した。
- ホンダ NR:ホンダの本気(?)が産んだ市販品としては世界唯一の楕円ピストンエンジン採用バイク。元々は二輪レースのレギュレーションをクリアしながら8気筒エンジンの能力を4気筒エンジンに持たせる為に2気筒を一つにまとめて8気筒を無理やり4気筒にするという斜め上な発想を実現したもの。発想自体かなりアレだが、それを実現させる技術力がある辺りが実にホンダらしい。肝心のレースではいろいろあってレギュレーションで使用禁止にされてしまった。性能自体は悪くないのだが構造が特殊な為に製造費用がかさみ価格が高騰、お値段はなんとびっくりの520万円。当時売られていたスカイラインGT-R(BNR-32型)が480万円。300台限定生産にもかかわらず販売実績は振るわず後継機種も製造されなかった。
- ヤマハ SR400:1978年の発売以来、排ガス規制適応のための販売中断を除き連綿とヤマハの屋台骨を支え続けるクラシカルバイク。バランサーなしの399cc空冷単気筒エンジンは基本的に発売当初のまま、すさまじい振動がヘッドライトやウインカーやストップランプの電球のフィラメントをねじ切ってもナンバープレートを割り脱落させてもあえて無視、流石に排ガス規制はインジェクション化により適応させたもののことここに至ってセルモーター非搭載のキックスタートのみ。「コツつかめば一発でエンジンかかるしへーきへーき」ってそういう問題なのか。そもそもこのバイク、スタートがとあるバイク雑誌のエイプリルフール記事。「オフロードマシンXT500のエンジンを使ったスポーツバイク『ロードボンバー』発売か」とやったところヤマハに問い合わせが殺到、ヤマハはここに鉱脈があることを発見し開発・発売に至った。さらにこの『ロードボンバー』、あろうことか本当に鈴鹿8時間耐久オートバイレースに出走、8位入賞を果たしている。
- スズキ チョイノリ:原付の平均運用距離が約2kmであることを調査の上知ったスズキが「原付をどこまで安く作れるか」に果敢に挑戦した怪作。エンジンは小規模発電・送風などに使われる汎用機の物を流用、リヤサス・CVTを思い切って省略し発進は遠心クラッチでなんとかする(本体には「40km/h以上で長時間走行しないでください」という注意書きがあった)、ネジ留め点数を従来品の半数に削減、ヘッドライトはロービームに固定、などなど全身これ割り切りの塊。こうして最安値59980円のチョイノリは完成したが、販売店では「チョイノリを見に来たお客が別の原付を買って帰る」という珍現象が発生。なお、割り切り過ぎて排ガス規制には対応できず2007年8月を持って生産終了。
- カワサキ:カワサキか…
- 日本の二輪メーカー:上記のホンダ・ヤマハ・スズキ・カワサキでそのまま世界四大二輪メーカー。そして皆どこか変態企業の香りが漂っている(cf.鈴菌、カワサキか…)。二輪レースの世界GPで活躍する日本人はあまりいないが、世界GPでタイトルを獲っている選手が使用したマシンは選手の国籍に関わらず大抵日本の二輪メーカー産。
- 4st250ccレーサーレプリカ群:空前のバブル景気と2輪ブームに沸いた1980年代後半に作られた時代のあだ花。そんな国際レース規格なんかないのに、1:250ccDOHC4バルブ4気筒のエンジン(国内向けは自主規制値の45馬力、輸出用は50馬力オーバー)2:アルミ合金製のツインチューブ式ダイヤモンドフレーム 3:整備性度外視のフルカウリングに2つ目のヘッドライト 4:普通に走っても寿命が1万キロを切るハイグリップタイヤ・・・と、誰か止めろよといわんばかりのプチモンスターバイク(ガチで200km/h出せた)を、最終的に国内全メーカーが開発・販売。またそれがバカ売れで毎年フルモデルチェンジ出来たという……。結局、バブル崩壊とともにブームはあっさり終息、各メーカーとも残された4気筒エンジンの減価償却に奔走することに……が、マルチシリンダー故マイルドな味付けにしたらしたでプチヒットを飛ばし、生産終了後には惜しまれることに。
交通部門【自動車:トラック・バス編】
- くろがね ノーバ:日本車初の4灯ヘッドライトを採用したほか、小型車で初めて(そして2014年秋時点で唯一)エアサスペンションを採用したピックアップトラック。ゆえに同じクラスの日産ジュニアやトヨタスタウトと比べると約10万円高かった(なお、この車が発売されていた頃の大学卒業者の初任給は12190円)。しかもくろがねの販売力がものすごく弱かったこともあり、全く売れなかった。
- トヨタ ハイラックス:TopGearの悪ふざけに全て耐えてギブアップ勝ち。チャド内戦では荷台に対戦車ミサイルや対空ミサイルを積んだハイラックスが大活躍。お前はカエサル砲か。挙句の果てにはISISでも御用達になり、「なんでテロ組織はみんなトヨタの車に乗ってんだ!?説明しろ!!」とアメリカに難癖を付けられる始末。
- 日野 レンジャー:ダカールラリーにワークス体制(チームスガワラ)でマジ参戦していたトラック。実はこのクラスは他のSUV級クラス用のサポートの「ついで」で参加しているチームがほとんどで、日野のようにそれそのもので(しかも排気量10L以上の重量級モンスタートラックがうようよいる中で排気量8L・総重量7tと小柄な車両で)マジに挑んでいたところは数少ない。しかも初優勝時には一位から三位まで表彰台を独占した。現在でも同車をベースにしたレーシングレンジャー(改造無制限クラス)と市販車部門(最低限の改造のみ)の2台体制で参戦している。
- 日野RA900P/三菱B906R/日産ディーゼルV8RA120/いすゞBH50P:東名・名神両高速道路の開業を背景に「ハイウェイバス」という新サービスをブチ上げた国鉄に対してメーカーが出した答。国鉄の無茶ぶりとは・・・
1.ターボチャージャーなしでも出力は320馬力以上(ただし例外として、過給機必須のユニフロー2ストロークエンジンを採用していた日産ディーゼルのみはスーパーチャージャー付)
2.巡航速度100km/hは当たり前。最高速度は140km/h
3.3速ギヤで80km/hまで加速可能。ゼロ発進状態から400m先に到達する時間(つまりゼロヨンのタイム)は29秒以内、4速ギヤでの80km/hから100km/hへの加速は15秒以内
4.フェード・ヒートトラック・タイヤスキッドを防止する高性能ブレーキ。排気ブレーキ基準で4速で100km/hから60km/hまでの減速が22秒以内
5.サブエンジン式冷房装置を搭載
6.チューブレスタイヤ
7.便所の設置
8.30万kmノンオーバーホール
これを1960年代の日本の自動車技術で実現させよと言われたもんだから各メーカーはたまったもんじゃない。でもそれを実現させちゃったんだから恐ろしい。
交通部門【自動車:スポーツ&レーシング編】
- プリンス スカイライン GT-B(S54B):1963年に行われた第1回日本グランプリで惨敗を喫し、会長の石橋正二郎(ブリヂストンの社長でもあった)から叱責された技術部門の総責任者・中川良一(「スバル360」の項で触れた中島飛行機のレシプロエンジン「誉」の主任設計者)の指揮の下、翌1964年のグランプリ制覇を目標に誕生した和製BX4TC(つかこっちの方が先)。直列4気筒OHVのスカイライン1500でのパワー不足を克服すべく、何とボンネットを20cm伸ばして、ワンランク上の高級車グロリアの2000cc直列6気筒OHCエンジンをブチ込み、しかもイタリア・ウェーバー製DCOE型スポーツタイプ・キャブレター3基を搭載した。このためロングノーズという(当時としては)異様な見た目となり、性能でも直線での伸びは良くなったがコーナリングが厳しくなるなどスカイライン1500とは逆の結果になった。迎えた第2回日本グランプリの結果は…ここで語るまでもないだろう。
- 日産 スカイライン GT-R(PGC10-BNR34):その2000GT-Bがツーリングカーレースでトヨタ1600GTなどライバル相手に苦戦し始めたため、日本初のプロトタイプレーシングカー・R380の2000cc直列6気筒DOHCエンジンをディチューンしてぶち込んだキ○ガイスポーツセダン/クーペとして誕生(PGC/KPGC10型)。輝かしい戦歴によってその名は不動のものとなるが、同時に排ガス規制との苦しい戦いの歴史ともなり、わずか197台で散ったケンメリことKPGC110型から16年間中断。ターボ時代のBNR32型で派手に復活するも、スカイラインがインフィニティG(→Q60/50/40)ベースのV35型に移行し、R35型は「日産GT-R」(次項)として単独車種化した事もあり、完成形であるBNR34型は(スカイラインGT-Rとしての)後継に恵まれることなく2002年に生産終了となった。ちなみにGT-BやGT-R、あるいはBX4TCの発想は英トライアンフ社のビテス6(直4車のヘラルド13/60のボンネットを伸ばして直6エンジンを搭載)を先駆けとする。なるほどな。
- 日産・GT-R(R35):…性能については今更言うまでもない訳だが…信じられるか?あれでもライン生産の量産工業製品なんだぜ…? しかもこれでメーカー希望小売価格が1,000万円切っちゃってるよオイ。ちなみに開発コンセプトは「やれるとこまでやろう」、あるいは「みんなで時速300キロで快適にドライブするための車(意訳)」だとか…。
- 日産 R381:1967年の日本グランプリでポルシェ906(カレラ6)に敗れた日産がリベンジのために投入したグループ7カー。アメリカのシャパラル2C/2Fにヒントを得た可動式リアウィング(エアロスタビライザー)が特徴。しかしシャパラルが一枚羽でかつドライバー席のペダル操作だったのに対し、R381は中央で二分割した上、車が外側にロールするとセンサー役の油圧シリンダーがそれを検出して内側のウィングを立たせ車体を安定させるという全自動操作。これでポルシェ910やシェルビー・デイトナ、トヨタ7などを下して1968年の日本グランプリで1-2フィニッシュ。慌てたFIAが「可動式エアロパーツを禁ず」とのお達しを出した(可動式エアロパーツには事故も多かった事も原因だったが)。
- 日産 GT-R LM NISMO:ル・マン24時間耐久レース参戦のために開発したプロトタイプレーシングカー。駆動方式はこのカテゴリの車両では前代未聞のFF(前輪駆動)を採用。名前こそGT-Rだが外見に面影は全くない。結局、散々な結果で終わった。
- マツダ787B:1970年のシェブロン・マツダから連綿と続くロータリーレーシングカーの集大成。1991年のル・マン24時間耐久レース総合優勝により名車の称号を獲得したが、レシプロエンジン以外のガソリンエンジン車、及びカーボンブレーキ搭載車として初のル・マン制覇という記録は変態車としての資格充分。正攻法では勝てないなどということはない…よね?
- 三菱・ランサーエボリューションとスバル・インプレッサWRX:もう多くは語らない。GT-Rの時にも言ったが、なんであの性能を300万円台という価格(ランエボVIIに至ってはGSRですら税抜きとは言えまさかの300万円切り、RSに至っては何と250万円ちょい!!)で量産できるんだ。Cセグファミリーセダンがベースだから実用性もバッチリだし。……ある意味、フェラーリやランボルギーニよりも恐ろしい存在かも知れない……と、ここで感じた人間はまだ甘い。
- スズキ・アルトワークスとダイハツ・ミラTR-XX X4:そう、甘すぎだ。上記の軽自動車版、というよりこっちが元祖である。まずはアルトがターボ・フルタイム4WDモデルの「ワークス」で全日本ラリー選手権の頂点に君臨したかと思えば、ダイハツがその座をかけて最上位グレードTR-XXから贅肉をそぎ落とした競技用車X4、さらにそれを市販車ラリー用にフルチューン状態で市販化したX4Rで逆襲。恐るべきはこの両者の対決は他社も巻き込み、空前の軽5バルブターボを搭載した三菱 ミニカ ダンガン、ターボとDOHCを採用したこれらに対してロングストローク4気筒エンジンと高ブーストスーパーチャージャーを採用してシングルカムで肩を並べたスバルのその場しのぎの究極・スバル レックス VXと空前のスポーツ軽ブームを起こした。実は上記のABCはこちら2ボックス軽セダン/バンのホットモデルからの余禄に過ぎないのである。あまりに過激なパワー争いに危機感が抱かれたため有名な64ps自主規制枠が設けられるが、マフラー交換しただけでシャシダイ80psを超えている個体がゴロゴロ。ついでに(ミニカやレックスも含めて)たまに海外の国際ラリーにもスポット参戦して荒らしまわった。バブル崩壊後は急速に熱が冷めたかのように各車軽自動車は経済優先のスタイルに戻ったが、水面下では軽の生産を終了したスバルにかわりターボを解禁したホンダが加わりグツグツと煮えたぎっている様子。
交通部門【自動車:その他編】
- スズキ X-90:エスクードとカプチーノを足して割ったようなSUV+2シーター+オープン(Tバー)カー。見方によっては作画崩壊したようにも見える。ほとんど売れず。
- いすゞ ビークロス:エクステリアがほとんどコンセプトカーそのままな特異なデザイン。
- トヨタ プリウス:ご存知21世紀に間に合った世界初の市販ハイブリッド車(HV)。当時欧州勢は電気自動車(EV)や燃料電池車(FCV)を次世代自動車の本命と見ておりHVは単なる繋ぎと軽視していた。自動車会社の取締役クラスがプリウスを指して「1台の車に複数のパワープラントがあるのは異常」という旨の発言をしたほどである。しかし市販化が遅々として進まないEV、FCVを尻目に順調に売り上げを伸ばすHVを見て前言撤回してトヨタの後追いをする羽目に。返す刀でトヨタもFCV「ミライ」が影響を受けているのはご愛嬌。
- マツダ SKYACTIVシリーズ:そのプリウスに真っ向から勝負を挑んだのがマツダ。ガソリンエンジン側は超高圧縮比により熱効率を高め、ディーゼル側は逆に圧縮比を落とし各パーツの軽量化・摩擦抵抗低減によりさらなる効率をアップ(奇しくも圧縮比は同じ14:1)。その上2015年9月、フォルクスワーゲンがアメリカ向け輸出車にディーゼルエンジンの排ガス規制をごまかす不正ソフトを搭載していたことが発覚。ライバル自滅とも言えるこの状況をマツダはどう乗り切るか。
- 光岡自動車:最初は自動車販売が主な事業だったが50ccミニカーや市販車を改造したレプリカの製造に手を出し、しまいには運輸省(当時)から認定を受け日本で10番目の自動車メーカーとなった。最近の車両は比較的おとなしめだがBUBU SSKやゼロワンはベース車の面影がないレベルまで魔改造されている。
- ヤマハ:ここでは「音楽企業としての」ヤマハ(旧日本楽器製造)に触れる。何をしているのかというと、YAMAHA(ヤマハ発動機)製エンジンの排気音の調律を行っているのである。上はレクサスLFAから下はクラシカルバイクSRV250まで。普通良い音になるはずのないクロスプレーン型4気筒のYZF-R1の排気音も聴けるレベルにしてしまう技術を変態と呼ばずしてなんと呼べというのか。ちなみに車に関わらない部分としてのヤマハは変態という言葉すら足りないレベル。
つまり、そもそも日本車自体が変態!?
- 総括すると、性能と燃費と耐久性と排ガス浄化と安全性と手ごろな価格、全部が同時に成立すると考えている(そして実現させている)日本の自動車産業そのものがおかしい。そしてそれが当たり前だと思っている日本国民自体も大分おかしい……まあ、アメリカにも伝染してるがな。
- 日本車の変態仕様をアメリカの消費者側が知ってしまったおかげで「値段に対して求められる性能の水準」がやたらと上がってしまい、その結果アメリカの自動車産業が一時期大打撃を食らっていたりもする。何が脅威かというと性能そのものではなく、アメリカの自動車産業から見れば性能に対して採算度外視に思えるような価格設定でもちゃんと採算が合うような事業体系を構築していた点である。
- SKYACTIVの項で触れたフォルクスワーゲンの不正も、日本車には大して影響がないと言われている。何せ問題の不正はアメリカに車検制度がないために可能だったズルであり、1~3年ごとにすべての自動車を法令遵守しているか検査する日本では無理。そして日本の排ガス規制(皮肉にもビッグ3が「不可能」と決めつけたマスキー法そのもの)は1978年以降常に世界一厳しい。他国の大手企業がどんなインチキしようが「日本の自動車技術はガチ」は変わらないようである。
交通部門【その他編】
- NAMC YS-11:戦後初の国産旅客機。ただし基礎設計が軍用機畑出身の連中だったためか良くも悪くも旅客機としてはおかしい機体に仕上がっている。並みの旅客機ならスクラップ確定の事故からですら修理して復帰を果たした機体がいくつも存在するという異常な頑丈さを持っていたり、操縦系統が油圧式ではなく人力式なうえオートパイロットが無いために操縦が大変だったり……
- HondaJet:ホンダの造ったビジネス機。エンジン配置を中心に独特の設計。カワサキやスズ菌もびっくり。(ただし、航空機ビジネスへの参入は創業者の長年の夢ではあった。)
- ヤマト-1:世界初の電磁推進船。
- 新愛徳丸:帆装タンカー
企業・組織部門
- NHK:BBCに比べれば小粒だが、時にお前確か公共放送だったよなと言いたくなるような番組を作ったりする。元々受信料を徴収することでCM収入による民放にはない安定した経営を保証し最低の報道を確保する役目を負っている反面、視聴率度外視の「地味でダサい」番組ばかり作っていたためかつてはそれを批判されたりもしていたが、最近は視聴率競争でフジテレビに噛みつく快感を覚えた模様。
- SEGA:日本の会社、そしてゲーム業界で最も英国面に近いものを持っているであろう会社の一つ。
- JAXA:日本の宇宙開発機構。上記TRDIと同じくありえないくらいの低予算で"新兵器"を次々作り出す。そしてその材料はだいたい秋葉原で集められる。
- JAMSTEC:海洋研究開発機構。
- セブンイレブン:コンビニエンスストア最大手のこの会社、実は発祥の地は米国である。1973年にイトーヨーカドーがライセンス契約を締結し順調に展開していたのだが、米本社が1991年に経営破綻。イトーヨーカドーが買収し再建に乗り出すこととなった。つまり子会社が親会社を買い取り子会社化するというトンデモ展開になってしまったのである。その後日本的なきめ細やかさを前面に出した経営方針により見事再建、世界各地で事業展開していく傍らでロスチャージ詐欺裁判などの問題も引き起こしつつ営業中。だって便利なんだもん。食べ物美味しいし。
- セイコー:おなじみ和製時計メーカー。水晶振動子を利用した「クオーツ時計」の市場を開拓したことで有名だが、実はこの時計、スイスの時計産業に大打撃を与えた上にアメリカの機械時計産業を再起不可能なレベルで壊滅させた。クオーツのみならず性能の高さは世界でもトップレベルであり、歴代オリンピックの公式判定用時計として使用され続けている。
- カシオ:電卓戦争と呼ばれる開発競争のさなか、ICを利用した世界初の個人向け電卓「カシオミニ」を発売。現在のパソコンにつながる集積回路の転換点となった。更には出張の合間に電卓で暇つぶしをしていたサラリーマンを見たのがきっかけで、後世にゲームボーイが生まれている。
- 町工場のオヤジ:よその国が国家予算と最新技術を投入してできないことをカンと経験と気合だけで成功させてしまう恐ろしい方々。今日も人知れず世界を支えている。しかし後継者不足という致命的な問題を抱えている。
- ザ・ドリフターズ:なんでもお笑いに変えてしまった人たち。これでもビートルズ日本公演の際前座を務めた凄腕ミュージシャン。
- TOKIO:本業農家、時々ミュージシャンなジャニーズ事務所出身のアイドル(?)グループ。その活動はここに列挙出来ないレベルでとにかく多彩なので個別ページへ。
電気製品部門
- VHS:(詳細は後述)
- NEC PC-8001:世界初の「パーソナルコンピュータ」。この当時、今で言うパソコンは「マイクロコンピュータ」呼び方が世界的にも主流だった(日本語における略称は「マイコン」)が、NECはこのジャンルで初の商品となる「パーソナルコンピュータ」略して「パソコン」の商品名を採用した。一方で「用意周到・動脈硬化」と言われるNECの本体・周辺機器・ソフトの同時発売により、小規模オフィス用の情報処理デバイスとして瞬く間に定着、それまで世界的にも「高いオモチャ」でしかなかったパソコンをOA機器として定着させると同時に、パソコンの分野においても「NECに非ずんばコンピューターに非ず」という当時のNECの立場を確定的なものにした。その後実用性を高めた後継機PC-8801、そして下記PC-9800へとつながっていく。
- NEC PC-9800シリーズ:かつて「国民機」「NECに非ずんばコンピューターに非ず」とまで言われたNECの16~32ビットパソコン。だが、実はこのPC-9800が裏メニュー的存在であったことはあまり知られていない。NECの本命はメインフレームのACOSと連携した情報端末として開発中のN5200シリーズと、「和製ALTO」(ALTO:米国ゼロックス社が開発したGUI)を目指して京セラと共同開発中のPC-100が本命だったが、とりあえず16bitパソコンの時流に乗り遅れないため、PC-8800シリーズの後継として開発が決まったものだった。よって開発チームもそれまでPC-8000、PC-8800を担当した「電子デバイス事業グループ」がPC-100を担当しているため、余裕のある「情報処理事業グループ」の、そのまた余剰のスタッフが集められて開発スタートした。ところが実際に開発に当たったスタッフは何を思ったのかガチの性能を追求して思い切った仕様を盛り込み、国内外の各社が8bit機とのハードウェア互換を求めて外部バスが8bit幅になるIntel8088を採用したのに対し、筐体開放不用の新設計拡張バスを採用して8086を採用、ここで世界初のフルネィティブ16bitパソコンのタイトルを奪取。さらにこの当時、アメリカで起きていた16bitパソコンのモノクロ回帰現象など気にも留めずに「PC-8800の後継なんだからPC-8800ができていたことは普通出来るでしょう」と日本人のナチュラル思考により8色カラー表示を搭載、すぐさま16色表示をも可能にしてアメリカ勢を慌てさせた。結果的にN5200はACOSの端末専用機としてしか市場に認識されず、PC-100は「和製Lisa」と化してバースト、PC-9800はNECの主力商品、さらにはアメリカ勢を事実上シャットアウトして日本のパソコン市場界に君臨した。その後もバス直結の専用マウスインターフェイスを早期に搭載するなど、世界的には驚愕すべきことをナチュラルに実行していく。ただ、3.5インチFDDを標準装備する廉価機を市場に投入したところ個人ユーザーのPC-8800からの買い替え需要が発生してしまい、ホビーパソコンとしてしばらく存続するはずだった自社のPC-8800シリーズの商品寿命まで縮めてしまったのはご愛敬。あんまり日本人自身には認識されないところで世界を震撼させていたこのマシンだが、1992年のコンパック・ショックで若干その地位が揺らぎ始め、その後のPC/AT互換機の再侵攻に逢った結果、安価なショップブランド機や自作機に対抗できず2003年にその歴史を閉じたが、日本のパソコン史に燦然と輝く存在として今も語り継がれている。
- Libretto 20:東芝が開発した、UMPCのご先祖様とも言うべき代物。ファブレットとかUMPCとかなにそれ美味しいのという1996年に、Windows95搭載ノートパソコンを現代のファブレット並みの大きさに詰め込んだ。とある記者が、これを海外の展示場に持ち込んだ所、肝心の展示物を尻目に、このマシンを中心に人だかりができたらしい。
- LaVie MX:NECが開発・販売していたビジネス向けノートパソコン。駆動時間を重視しディスプレイに反射型TFTカラー液晶を採用した。反射型液晶とトランスメタ社の「Clusoe」CPUにより、連続11時間というチート級の駆動時間を手に入れたが・・・反射型液晶には「外光がないと画面が見えない(外光をLCD底部の反射板で反射させ、バックライトの代用としている)」という重大な弱点を抱えていた。つまり暗いところでは画面が見えないという致命的な弱点である。このため後のモデルではバックライトが追加されるという事態に。
- VAIO C2:SONYが開発・販売していたノートパソコン。C1をベースにLaVie MX同様に駆動時間重視の為にバックライトレスの反射型ポリシリコン液晶ディスプレイを採用。モバイルPentium IIを搭載しているものの、LLLサイズのバッテリーを使用することで最大11時間の駆動時間を得ることが出来た。外光がないと見えない問題は着脱式のフロントライトユニットを付属することで対応しているが、使用時にはディスプレイをライトユニットで覆ってしまう為に見づらくなってしまうという欠点があった。以降、このような反射型液晶を搭載するモデルが登場することは無かった。2社以外でも反射型液晶モデルは登場してるが、同様にすぐに消えている。
- VAIO Note C1:SONYが発売したカメラ搭載ノートパソコン…というだけで終わればイロモノ扱いで終わりそうだが、実はこいつのカメラはあの小惑星探査機はやぶさのカメラの元だったりする。
- F-07C:富士通が開発した携帯電話。・・・であるが、その正体はWindows7搭載のPC(ネットブック)を携帯電話にねじ込んだという狂気の端末である。ちなみにCPUはAtom。つまるところが「インテル入ってる」を現実にしてしまった。
- バーチャルボーイ:任天堂が発売した(一応)据え置き型ゲーム機。32ビット世代のマシンであるが、同時期のプレイステーション、セガサターン、3DO、PC-FXがビジュアル面の強化や3Dポリゴン表示能力を売りとしたのに対し、こいつはHMD型の筐体に赤一色のLEDディスプレイを組み込み立体視の実現を目指したという、当時としては・・・いや、今でも十二分すぎるくらいの前衛的なマシンである。まあ後のニンテンドー3DSにつながるといえば間違ってはいなかったとも言えそうだが…任天堂自身、上記のセガと並ぶ変態企業として知る人には知られている。
その他の部門
- 源氏物語:古典の名作に数えられるものの一つで古典の授業で使われる題材の定番。なのだが、ギャルゲーやらハーレム系ラノベに出てきそうな典型的なキャラクターや設定の宝庫だったりする。
- イプシロンロケットを始めとした固体燃料ロケット:世界最大級にして97%超という脅威の成功率を持つH-2Aの陰に隠れがちな、中型の固体燃料式ロケット。戦後日本初の実用ロケットであるペンシルロケットも固体燃料式であり、ある意味こっちが日本ロケットの本家。日本初の人工衛星「おおすみ」を打ちあげたL-4Sロケットは、世界初の全段固体燃料の多段式ロケットでもあった。最新型のイプシロンロケットはICBMに出来そうなほど小型軽量化。今後はさらに小型軽量化を進めるとか……
- J-Iロケット:黒歴史。なかったことに。
- ヤマハPROTOシリーズ:インパクトの時間とラケットの固有振動数を一致させた世界初のテニスラケット。わかりやすく言うとラケットの持つパワーをロスなく打球に伝えるスーパーハイテクラケット。1988・1990年グッドデザイン賞を受賞、「厚ラケ」の愛称が付き、他のラケットメーカーもヤマハの特許に触れないように注意しつつ追随。だが、この(特にPROTO以外の)製品には大きな欠点があった。強くスピンをかける打ち方をすると空気抵抗が大きく振り辛い。それでも無理に強振するとボールをフレーム面で打ってしまいあらぬ方向にホームラン、という事態が多発。結局、各メーカーはフレームの厚さを従来サイズに戻し素材の組み合わせと構造で厚ラケ的特性を持たせる方向に進み、テニスはさらなるスピード・パワー・スピンの時代へと突入。ヤマハは、というと、PROTO自体にそこまでの使い辛さは無かったのが災いしたのか方向転換に失敗し、テニスラケット事業から撤退の憂き目に。最強と呼ばれるヤマハも地雷を踏む時は思い切り踏み抜く。
- 小惑星探査機はやぶさ:子機のミネルバともども、独創的な設計である。ちなみにカメラはノートパソコンのVAIO Note C1のものが元である。
- どんなものでも萌え化させる技術:間違いなく世界一。ムサイオッサンだろうが、最悪の独裁者だろうが、それどころか人外のモノまで美少女化してしまう。日本人の眼球には特殊なフィルターがあるとしか思えない。さらに、インターネットが普及した昨今では下手な細菌よりもよっぽど感染力が強い。因みにこの技術江戸時代から続く由緒正しきモノである。ついでに言うとR-18方面で一ジャンルを築いている触手物やふたなりなども既に江戸時代の書物に描かれていたりする。
- 機械(特にロボット・家電・自動車)に対する異様な熱意:「常軌を逸する」の一言に尽きる。そんなものまで機械を使う必要あるのかと突っ込まれそうなモノや場面までメカをねじ込む、メカを使えないならそれ自体を機械化すればいいじゃないとばかりに生物だろうがなんだろうが機械化して再現、フィクションでは神でも悪魔でも歴史ある建造物でも容赦なくメカ化するのもお手の物。メカと恋愛どころか結婚なんてのも当たり前。特にロボット・車・家電、次点で鉄道に対する情熱は一種の病気レベル。何しろあの変態企業のアジア地区統括マネージャーが「(自動車における)日本市場の特徴は一般人の技術面に対する関心がやたらめったら高いところだ!他の国ならありえねーよ!そんなにメカが好きかこのメカフェチ共!!!(要約&一部誇張)」と漏らしていたという程である。ある意味イギリスとは正反対…ではあるが、冷静に考えてみるとこちらも向いている方向が逆なだけで確実に「変態」或いは「病気」の領域である。その原因の一端は間違いなくこの方。
- 古代出雲大社本殿:基礎跡から予想される復元図がファンタジック。
- 戦国時代の兜のデザイン:額に堂々と「愛」とか入れてんじゃねーよ直江兼続。・・・・・と思ったら、実は「雲の上に愛」というデザインで1セット、仏教界の暴れん坊・愛染明王を意味しているんだそうである。他にも前立てに毛虫とかムカデとか伊勢海老とかつけちゃったり茄子の形してたり変なのは多い。
- マグロに対する執着:紅茶やパスタが霞むくらいすごい。消費量も、日本>世界と言うよく解らない構図。あまりに食べ過ぎて世界の海からマグロを減らしてしまい、それをなんとかしようとしてついに完全養殖に成功してしまった。
- フグに対する執着:糠漬けにすれば無毒化できることも発見。
- ウナギに対する執着:実は毒があるものを蒲焼で無毒化して食っている。こちらも食べ過ぎて絶滅危惧種にしてしまうまでになり、なんとかしようとして完全養殖に成功。
- クジラに対する執着:同じことはノルウェーにも言える。
- コメに対する執着:亜寒帯の北海道で亜熱帯の植物である稲の栽培・生産に成功。
- 他国の文化を和風に魔改造する能力:日本における文化のサイクルは以下の通り。(よそから)導入→日本に合うように魔改造→日本の文化として逆輸出(ジャンルは問わない。と言うよりそんな概念はない)。そして失敗はほとんどない。そもそも売り込むまでもなく他国で勝手に評価され人気になっている例が大半である。なぜ他国が怒らないかと言えば、元のモノとは完全に別物だからである(例:クリスマス、バレンタイン、カレー、肉じゃが、ラーメン、カナ文字etc)。むしろ日本人向けに改造したのに、何故か欧米でも人気である。但し肉じゃがは誇っていい。
- 香川県民のうどんに対する執着:ご存知、万年渇水でお馴染みの香川県ではあるが、渇水してもうどんを茹でる水は削れない。後述するイタリアのパスタへの執着よりも強く、他県より来た栄養士や医者が「うどんを控えましょう」などと言ったら総統閣下並みにお怒りになられるほどである。
- イグノーベル賞:「人々を笑わせ、考えさせてくれる研究」に対して与えられる賞。分野は多岐にわたるが、日本は2007年~2015年まで9年連続で受賞。つか、1995年以降の21年間で、受賞を逃したのは4回だけだったりする。
英国面(日本)が世界を変えた例
独創性に乏しいとは言われながらも、実は日本が後の世界を変えた例も結構あったりする。意外にも、“娯楽部門”“生活密着型”の品が多いのも特徴。
- 電卓:「電子式卓上計算機」。特に前述のカシオが開発した『カシオミニ』以降の怒濤の小型化・低価格化は、計算機を企業から家庭、さらには個人の持ち物(必需品)にまで普及させ、そろばんや計算尺、機械式計算機などのアナログなアイテムをほぼ完全に淘汰してしまった。日本の“ダウンサイジング”芸が、もっとも力を発揮した製品かも。
- ウイスキー:「日本人は紙とペンだけでウイスキーの作り方を盗んでいった」と言わしめる程完成度が高く、スコッチ(イギリス)、アイリッシュ(アイルランド)、アメリカン(アメリカ)、カナディアン(カナダ)の4大ウイスキーに日本のジャパニーズ・ウイスキーを加えて5大ウイスキーと称されることになった。その中でも特にサントリーの躍進は凄まじく、主力製品の山崎・白州・響は様々な品評会で賞を受賞し、老舗ウイスキーメーカー「ジム・ビーム」社を買収し、世界3位の酒造メーカーになる見通しである。
- ウォークマン:「ポータブルオーディオプレーヤー」の元祖。“音楽を持ち歩く”という新たなライフスタイルを確立した。ちなみに開発のヒントは、「アメリカ人がでっかいラジカセを担いで音楽を聴きながら闊歩する姿」(→じゃあ、もっとちっこいの造ったら、売れんじゃね?)だったという。
- VHS:ビクターの窓際部署が作った、世界共通規格。これまた、放送機材だったビデオデッキを“家電”に変え、「テレビ番組を録画して、後で(あるいは繰り返し)観賞する」という新たな視聴スタイルを提供した。普及の決め手は録画時間。ちなみに最初の“録画時間2時間”というのは「映画や、野球中継を1本で録れる長さ」。後の“6時間(3倍速)”は「アメリカンフットボールの試合を1本で録れる長さ」。使い勝手にも配慮した規格だったのである。
- CD(コンパクトディスク):厳密にはソニーとオランダ・フィリップス社の共同開発だが、世界初のCDプレーヤーは日本の各メーカーからリリースされた。デジタルデータを“プレス”によって安価に大量にコピー、供給できる画期的媒体であり、レコードなどのアナログ媒体のみならず、フロッピーディスクのような一部デジタルメディアにも取って代わった。通信インフラの発展・充実によって、今では音楽などはダウンロード販売が主流となりつつあるが、CDが基礎を築いた“直径12cmの光学記録媒体”もDVD、Blu-rayへと進化を続けている。
- フラッシュメモリ(NAND型):microSDやUSBメモリの中の人。東芝が発明した電源を切ってもデータが消えない半導体メモリ。HDDやCDと違い物理的に動く部品が無いため、衝撃に強く小型化が可能。現在のIT社会はこの発明あってこそ成り立っている、まさに縁の下の力持ち。デバイスの中の人(スマートフォン:eMMC、パソコン:SSD)で絶賛活躍中。今ではIT化が進む家電や自動車にも使われている。そろそろウォシュレットにも付くんじゃないだろうか・・・。
- ファミコン:これまた「家庭でテレビゲームを遊ぶ」という、新たな娯楽の風景を生み出した。それまでにも家庭用テレビゲーム機はリリースされていたが、世界的・爆発的普及といえば、やっぱりファミコン。アメリカでは「Nintendo Entertainment System(略称;NES)」としてリリースされ、“アタリショック”でどん底だったゲーム市場を復活させた。湾岸戦争が別名、“Nintendo War”と呼ばれたのも、だいたいこいつのせい。
- カラオケ:様々な歌手の持ち歌を自分で歌って楽しむ、という新形態の娯楽ビジネス。最初は酒の席のお供で演歌中心の地味な商売だったが、騒音への苦情対策として立ち上げたカラオケボックスが若年層にスマッシュヒット。近年やや勢いは衰えたものの今度はカラオケそのものが外国人向けの観光名物に。2004年には「人々に寛容になる新しい手段を提供した」功績により先述のイグノーベル平和賞を受賞。
- 特撮:御大・円谷英二氏の時代から、海外でも“知る人ぞ知る”日本の十八番だったが(戦時中のプロパガンダ映画に使用された“真珠湾攻撃”の特撮を、GHQは実写と信じて疑わなかったとか)、一般家庭レベルまで浸透したきっかけは『パワーレンジャー』。サバン・エンターテイメント(現在はBVSエンターテイメント)CEO、ハイム・サバンがスーパー戦隊シリーズに注目、東映から同シリーズの国際放映権を獲得し米国風にローカライズしたパワーレンジャー・シリーズを放映し、選挙の応援演説に呼び出されるほどの大人気に。また、ロボコップシリーズのバーホーベン監督がバンダイに宇宙刑事ギャバンからのデザイン引用の許諾を求めバンダイ側がこれを快諾、逆に機動刑事ジバン製作にあたりロボコップを大いに参考にするなどの交流も。
- 新幹線:前述の通り世界初の200km/h超の高速鉄道。建設当時の鉄道斜陽論を吹き飛ばし、各国高速鉄道の開発の道を開いた。
- 軍用車両のディーゼル化:戦車に本格的にディーゼルエンジンを搭載したのは、意外にも日本(旧日本陸軍)が先駆けだったりする。燃料の節約が主目的だったが、燃料の軽油が引火しにくいなど、軍用としてメリットが大きかった。肝心の戦車はぱっとしなかったが、軍用車両のディーゼル化はやがて世界に広がり、今ではディーゼルの軍用バイクまで登場している。ただし例によって富士重工が共犯。
- マツダ・ロードスター:小型軽量で安価なスポーツカーの将来が絶望視されていた1989年、発売と同時に世界中で大ヒット、他社からもフォロワーを出させた奇跡の車。「量産車のエンジンを使い車体を軽くすることでレスポンスを研ぎ澄ましスポーツカーとする」というのが元々英国流のやり方でありマツダもそれに従ったのだが、日本車らしい安さと信頼性、マツダのこだわりである「重量配分前後50:50」というのが他社の真似出来ない部分。そのバランスはパワー厨のおじさんも唸らせる。更に現行モデルではSKYACTIV-G1500ccエンジンを搭載。実はこれも英国流スポーツカーの文法通り(さすがに圧縮比は高回転まで回せるように落とされているがそれでも異例の13:1)。